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一歩踏み出した2013

このままだと来年の大河「軍師官兵衛」が始まってしまうと思い、溜まっていた「八重の桜」を一気に見ました。 その「八重の桜」最終回で、主人公の八重さんが言っていたセリフが印象に残りました。 「新しいことを始めると、必ず批判する人が出てくるものです」 「特別支援教育があるから必要がないこと」だとは、私は思いません。 家庭での療育を手伝う人が必要です。 学校で学んだことを家庭に般化させる人が必要です。 自閉症の人たちも、学校以外でも学びたいと思っている人もいます。 学校を卒業したら、必ず就職できる、必ず施設に入れる世の中ではなくなりました。 学校と違うことを教えられては困るというなら、お互い強みを生かして、より良い教育のために力を合わせていけばよいのではないでしょうか。 「儲からないことを何でわざわざするのか?」と尋ねられることもありました。 儲けられることが仕事の価値を決めることではありません。 世の中で必要な仕事だからこそ、やる価値があるのだと思います。 新しい仕事が、新しい価値観を生み出し、新しい未来を作りだすことがあるのではないでしょうか。 起業してからというもの、地域からの視線を感じます。 本当に価値のあることなのか? どれくらい知識と専門性をもった人物なのか? 自分たちの組織にとってプラスの存在になるのか?マイナスの存在になるのか? うまくいくのか?いつまでもつのか? 『てらっこ塾』の動向を気にしている人たちが、少なからずいることがわかります。 新しいことを始めることは、本当に大変なことだと感じる2013年でした。 しかし、この2013年に踏み出した一歩が、将来、「自閉症のままで生きられる地域、社会」という目標へと続いていく道になると信じ、2014年も励んでいきます。 実績のない『てらっこ塾』を利用し、応援して頂いた皆さま、本当にありがとうございました! 2014年も可能な限り前を向き、一歩ずつ足を前に出していきたいと思います。

強度行動障害の人と関わって見えてきたこと

施設で働いていたとき、強度行動障害の人たちの支援に携わっていました。 各地から"強度行動障害"ということで入所されてきていましたが、そのほとんどの人たちが「作られた強度行動障害」であると感じていました。 「作られた強度行動障害」とは、本人の器質的な理由ではなく、今まで歩んできた環境の影響を受け、行動障害が作られてしまった、という意味です。 強度行動障害が作られる理由には、 ①一貫性のない支援、行き当たりばったりの支援によって、本人の頭の中がぐちゃぐちゃになってしまったため ②反対に、適切な支援をまったく受けてこなかったばっかりに、誤学習が何重にも積み重なってしまったため というような大きく分けて2通りの理由がある、と私は感じていました。 「強度行動障害がある」と言われて入所されてきた人たちの多くは、本人の評価に基づいた支援を行っていくと、徐々に落ち着きを取り戻し、生活に支障がないくらいまでになっていました。 また中には、入所された当日にすぐに落ち着き、「本当に強度行動障害がある人?」と思うようなこともありました。 自閉症の人たちに強度行動障害が多い理由は、視覚的に記憶したことは特に強く残り、消去することが困難、ということがあります。 「自閉症と知らずに子育てされてきた」「感覚の違いについて配慮されてこなかった」「他の障害と同じように療育されてきた」「自閉症の療育の仕方が、親御さんに教えられてこなかった」など、様々な理由から本人に適切な療育が届かなかった場合、適切ではない行動や自分なりの行動を身につけてしまいます。 その極端な結果として、"強度行動障害"と呼ばれるような状態になるのだと考えています。 行動障害がある人に対して、どのように支援を行っていけば良いのか? それは一人ひとり違うので、一概に言うことはできません。 しかし、支援の基本的な考え方としては、 ◎ストレスを支援の根拠にしないこと(ストレスは見えないため) ◎行動障害にばかり目を向けない(支援が進まなくなる。本人の強みを伸ばしていくという方向性) となります。 *もちろん、精神科の薬を活用することもありますが、これはあくまで補助という考え方です。 多量の薬を飲めば、行動障害がなくなると言いますか、行動障害ができない状態まで

発達障害科があればいいのに・・・

現在の障害者雇用制度ですと、発達障害の人は「精神障害者」の中に含まれています。 これはどう考えてもおかしい。 国が「発達障害=精神障害」と誤った認識を広めてしまっている、と言えないでしょうか? 当事者の方が言っていました。 「内科、外科のように、発達障害科があればいいのに・・・」と。 発達障害に気づかれるのは、精神科。 発達障害の診断を受けるのも、精神科。 心身の不調を改善するのも、精神科。 「発達障害の人は、精神病の一種と思われても仕方がない状況ですね」と言っていました。 発達障害は脳の機能の違いであり、治療して治るものではありません。 就職の際、"精神疾患がある"という前提で話をされる場合が多いとも聞きます。 そんな一言一言に傷ついている発達障害の人は少なくありません。 発達障害の人たちは、見えない障害を持っています。 ですから、一般の人たちに正しく理解してもらうことが難しい上に、現代の日本の状況が本人たちをさらに苦しめてしまっています。 「発達障害科があればいいのに」という言葉の裏には、発達障害の人たちを取り巻く環境の課題が存在しています。

集団は学習する場ではなく、実践する場

集団行動の苦手な子や他人と一緒に活動することが苦手な子を、集団の中で指導しようとすることはあまりお勧めできません。 集団の中は刺激がたくさんあって、集中して学習することが難しい環境であります。 また他人との関わりが苦手な子は、対人関係の発達が実年齢よりも低い場合があります。 他人の側にいられるようになるのは、1、2歳です。 他人を意識し、遊びを共有できるようになるのは、3歳くらいからです。 ルールを守ることのできる年齢は、だいたい4、5歳です。 他人とやり取りができるようになるのは、これ以降になります。 実年齢が高かったとしても、対人関係の発達年齢が低い場合、集団の中で指導しようとする内容自体が本人に合っていないこともあります。 他人のことを十分に意識することができない子に対し、いきなり他人とやり取りすることは、本人の負担になりますし、身につくとも考えられません。 文字が書けない子に対し、いきなり文章を書くことを学習したりしません。 しかし、対人関係の学習においては、いきなり集団の中に入れて、練習をしてしまうことがあります。 対人関係は自閉症の中核的な障害の部分です。 ですから、本人が集中できる環境の中で、教える人と1対1で個別に学習を進めること。 そして、必ず本人の対人関係の発達のレベルに合わせた内容から、段階的に学習していくことが大切です。 集団はあくまで新しいことを学習する場所ではなく、個別に学んだことを応用し、実践する場だと言えます。

フィクションです☆

今日も朝から雪が降り続いている。 こんな天気だと、役所に来る人は限られていてあまりいない。 真っ白な街を見ながら、「いつになったらやむのか」とため息をつく。 新幹線の開業による経済効果もあるだろう。 しかし、その効果も何年も続くものではない。 市の財政の立て直しは、依然待ったなしの状況だ。 新幹線に熱を上げるのも、裏を返せば観光都市の宿命か。 素晴らしい自然や食べ物はあるけれど、観光客が来てくれなければお金は落ちていかない。 今は、中国、台湾など、アジアの富裕層が来ているが、国際状況によっては今後も確実なお客さんであり続けるとは言えない。 顧客拡大のため、水産物、農産物を外に売り出そうとしても、そもそも地元の働き手が減っている。 若者たちは職を求め、地元を離れていくことに歯止めがきかない。 地元の子どもは減り、年輩者が増え続ける。 まずます医療、介護の支出は増えるばかりである。 また、経済状況の悪さから、生活保護費の増加も頭を悩ませる。 新しい産業が生まれる可能性は少ない。 だったら、支出を減らしていくしか選択肢は残されていない。 果たしてどこから手をつけていけばよいのか。 まあ、どこから手をつけたとしても、このご時世、批判が出るのは致し方ない。 でも、できることなら票が逃げていくことは避けたい、というのが本音だ。 そういえば、地元に変わった若者がいる、とある市議から話を聞いたことがあった。 なんでもそいつが言うには、発達障害の人たちの力を生かせる仕組みを作れば、市の財政支出を減らせる、と言っているらしい。 どうせ福祉関係者なのだろう。 でも、本当に支出を減らせるなら・・・。 まあ、減らせなかったとしても、「障害を持った人たちの支援に取り組んでいる」というのは、次の選挙につながるアピールにもなる。 次の瞬間、市長室の電話を手にしていた。 「生活保護を受けている人の中には、発達障害の人たちも多くいるそうです。彼らは知的障害を持っていない人も多く、大学を出ている人もたくさんいます。しかし、周囲の無理解であったり、適切な支援や教育を受けてこなかったりしたために、仕事をすることが難しい状況にいます」 「また、精神科の薬を飲んでいる人が多くいます。でも、発達障害は精神病ではないので、本来なら飲む必要がないのに飲

生きやすさにつながっていくかどうか

「敢えて診断を受ける利点が見つからない」 自分が発達障害ではないか、と思われている方が私に話してくれたこと。 私は「確かにそうだな」と心の中で思った。 診断を受ければ、サービスや金銭的な補助を手に入れられる。 でも、発達障害の当事者の方たちは、サービスやお金だけを求めているわけではない。 本当に求めているものは、"生きやすさ"ではないだろうか、と疑問が投げかけられた。 生きづらさは、障害自体からくるものと、社会からくるものがある。 障害自体は、診断を受けてもなくなるものではない。 社会も、診断を受けてもかわるものではない。 障害自体は、消えてなくならないもの。 本人が障害と上手に付き合っていくしかない。 だったら、そんな本人たちを温かく応援する環境、社会が本当に求められていることではないか。 専門家は診断を勧める。 でも、診断も、サービスも、お金も、本人の生きづらさを解決していく1つの方法に過ぎない。 大切なのは、本人にとってその選択が"生きやすさ"につながっていくかどうかだ。

修行僧のような子育て

支援者の発言が保護者の方たちを苦しめていることはないだろうか、と思うことがあります。 「自閉症の人たちは視覚的な手だてが必要」 「否定的な声がけではなく、肯定的な声がけをすることが大切」 「問題行動は、素早く対応する」 「良いところに目を向ける」 でも、保護者のみなさん全員が、パソコンを使うこと、工作すること、絵を描くこと、手だてのアイディアを創造することが得意なわけではありません。 保護者の方だって、疲れているときもあれば、余裕がないときもあります。 だから、いつだって肯定的な声がけができるわけではなく、時には感情的に否定的な声がけをしてしまうことがあっても当然です。 問題行動が素早く対応できるのなら、最初から困ってませんし、相談なんかしません。 良いところに目を向けようと頭では分かっていても、できないことがついつい目に入ってしまう。 それは親だったら自然なことですよね。 だって、子どもに対する期待や希望があるからこそ、「できないことができるようになってほしい」と願うのですから。 支援者は、保護者の方から助言を求められたとき、その保護者の方個人と向き合い、毎日の生活を想像しながら助言することが大切だと考えています。 保護者は自閉症の専門家ではないので、自閉症の子どもの支援だけできるわけではありません。 家事もしなければなりませんし、兄弟がいれば兄弟の世話もしなければなりません。 保護者の方だって、友達付き合いもありますし、気分転換のできる自分の時間、ゴロゴロして休む時間も必要です。 そんな当たり前の生活を想像できない支援者になってはいけないと思っています。 支援者の中には、自分と同じ目線で助言をしてしまう人もいます。 自分たちと同じように支援をすることを求めたり、子どもにマイナスなことが起きると保護者の支援力不足を理由に挙げたりする人もいます。 お金をもらって支援をしている者と、保護者の方たちは根本的に状況が違います。 また、支援者は他人だからこそ、子どもを客観的に見れるのであって、我が子に対してだったら主観が入るのは当然です。 ある勉強会で隣に座っていたお母さんがボソッと言った独り言が、とても印象に残っています。 「私が修行僧のようにならなくてはいけないのね」 私はこの一言を聞いたとき、ドキッとしました。

助言通りにやっているのに・・・

「相談機関に通っているんですけど・・・」 「〇〇先生から言われたとおりにやっているんですけど・・・」 最近、このような保護者の方たちの"本音"をよく耳にします。 保護者の方たちは、みなさん我が子のことで必死です。 必死だからこそ、専門家に助言を求め、時間を割いて専門機関に通います。 しかし、その助言や方法通りにやっているのに、うまくいかない、状況が変わらない・・・。 私が知る限り、相談されている専門家の方たちは、豊富な知識と経験を持っています。 では、なぜ助言されたとおりに行っても、うまくいかないのでしょうか? まず考えられるのは、「本人の実態が掴みづらい」という理由です。 自閉症の特性として、状況や環境によって見せる姿が異なる、ということがあります。 家で困っている行動も、専門機関に行くと行動として現れないということはよくあります。 自閉症の人たちは、状況や環境の影響を大きく受けますので、場所が変わってしまえば、行動も変わる場合があります。 ですから、目の前に子どもがいたとしても、保護者の方の話でしか行動を知ることができません。 自閉症の人たちの行動は、実際に行っている場面を見なければ、どんなに優秀な専門家であったとしても、正確に本人のことを知ることはできません。 影響を与えている状況や環境を見ないで、また本人の実際の様子を見ないで、専門家は助言をしなければならない、ということが理由として考えられます。 2つ目に考えられることは、「本人の変化が考慮されていない」という理由です。 助言は、あくまで助言を求められた時点での助言です。 本人の様子は日々変わります。 気分が良い日もあれば、悪い日もある。 昨日、できていなかったことが、今日できるようになる。 ある保護者の方は、何年もの間、専門家から言われたとおりのことを行っていた、ということがありました。 相談できる専門機関は限られており、相談と相談の期間が開いてしまうことはよくあることです。 支援は本人の様子に合わせて、柔軟に変化させていく必要があります。 ですから、相談した時点から時間が経ってしまうと、実態に合わない支援になっている場合もあります。 3つ目は、 「行動の背景には要因が複数関係している」という理由です。 例えば、人に対して手が

交際が発展していかない理由!?

保護者の方たちの集まりに参加させて頂くと、「やっぱり男と女は、脳のタイプが違うな~」と感じることがあります。 女性の方たちは、「こんな大変なことがあった」「うんうん、うちも前にあった」「そうなのよね~」などと、共感を求めている様子が伺えます。 一方、男性の方たちは、「こんなときは、こうした方が良い」「これをやったらダメだった」「今後どうしていきますかね?」など、常に結論を出そうとする様子が伺えます。 女性は、男性の何かと結論を求める話を聞きながら、「もっとゆっくり話を聞いて」「結論よりも、ただ聞いて欲しいんだから」と、 男性は、女性の結論のない、あっちこっちに飛ぶ話を聞きながら、「何が言いたいんだかわからない」「そんな話じゃ状況は変わらないだろう」なんてお互いに感じているかもしれません(笑) 自閉症の人たちの脳は、男女ともに「男性の脳のタイプ」に似ていることがわかっています。 私はこの「男性の脳のタイプ」に似ていることが、自閉症の人たちがなかなか男女交際に発展していかない要因になっているのではないか、と考えています。 例えば、異性とデートに出掛けたとします。 相手から「この食事おいしいね」と言われたら、男性脳のタイプの自閉症の人は「私はあなたのハンバーグを食べていないから、おいしいかどうかはわかりません」と、事実に対し真面目に答える。 また、「私のステーキの焼き加減は良いのですが、このサラダはイマイチですね。それと、イマイチと言えば、あの店員の態度・・・」などと雰囲気を壊しかねないことを言ってしまう。 この場合、相手が求めていることは、「おいしい食事が食べられる時間を一緒に過ごせて幸せ☆」という共感ですので、"あなたと一緒に食事ができて嬉しい"という気持ちを表現する方がモテると思います。 食事が終わったあと、「これからどうしよっか?」などと言われても、「選択肢は3つあると思います。1つ目は電車で帰る。2つ目はタクシーで帰る。3つ目は歩いて帰る」などと結論を導き出そうとする傾向もあります。 この場合、例え本当に帰りたかったとしても、「あなたと一緒にいることは楽しい。でも、明日も仕事があるんだ」とワンクッション入れてから断ったり、「次の休日に映画に行こうか?」など、別の提案をすることの方がモテると思います。 これはあ

⑦私が性教育の重要さを訴える理由

私は、どんな子どもたちも、性被害者になってほしくありませんし、性加害者になってほしくもありません。 しかし、性被害、性加害にならないためだけに、性教育の重要さを訴えているわけではありません。 性について正しい知識や技能を身につけること。 これ自体は、社会の中で生きていく上で重要なスキルです。 でも、性教育を突き詰めていけば、 自分と他人の身体を大切にすること 自分と他人の気持ちを大切にすること 自分と他人の命を大切にすること につながっていくのだと考えています。 性を楽しむ人生は難しいかもしれません。 でも、自分の性を大切にできる人生を送ることができると思っています。 性について前向きに考えられることは、生について前向きになれること。 せっかくこの世に生まれてきた命。 子どもたちには、いつまでも自分の命を好きでいてほしいじゃないですか!

⑥知的障害がある子にも同様に教えるの?

 「知的障害がある子にも同様に教えるの?」 と思われるかもしれません。 本人に性的な関心があるのかわからない。 ルールの理解が難しい。 複雑な手順がわかりづらいなど。 私自身も知的障害のある自閉症の人たちと接していて、大変悩みました。 施設で働いていたとき、私は陰部を触っている利用者の方を見かけると、注意していました。 しかし、注意しても、すぐに陰部を触り始めます。 このとき、私は気が付きました。 性は、人間の本能の部分であり、否定することではない。 教える部分は、社会性の部分であると。 知的障害を持っている方たちにルールを教えることは難しいと思います。 ですから、彼らに分かりやすいように、正しい行動に導くようにしていました。 陰部を触ったら、手を洗うことを伝える。 人前で触っていたら、自分の部屋に誘導し、望ましい場所を教える。 衣類を汚してしまったら、新しいものに着替えるように伝えるなど。 性行為自体ではなく、社会性の部分に注目するように支援していました。 私は直接支援していませんが、中にはスケジュールにマスターベーションの予定を入れて、望ましい時間を伝えていた人もいました。 本人に性的な関心があるのか、わからない場合が多いので、私は陰部を触わるなど、性的な関心が出てきたと判断できない場合に、積極的に教えることはしませんでした。 また、性的な欲求は、何をしていいのかわからない空白の時間や、活動自体が本人にとって魅力的でない場合に見られることがありますので、活動の見直しもしました。 そして、性的な欲求も、いわゆる一つのエネルギーですので、身体を動かすことなどを日課に取り入れ、発散させることも有効だと考えていました。 知的障害のある自閉症の方たちは、個人差が特に大きいと言えます。 ですから、実際に子どもにお会いしていない私が書く文章ですので、あくまで一つの考え方、参考程度に読んでいただければと思います。

⑤寝ている子は正しく丁寧に起こす

「寝ている子は起こすな」と性教育について言われます。 確かに、本人が知らなかったことを教えるのですから、教えたことでその行動をするようになるでしょう。 もしかしたら、陰部を触るようになるかもしれません。 異性の身体に興味が出て、見たいという衝動にかられるかもしれません。 しかし、これらは性に関する自然な目覚めです。 その行動自体に問題があるのではありません。 問題なのは、その社会性、ルールの未学習の部分です。 このことを混同してしまっている支援者が多くいます。 また人を傷つける行為や自分の健康を害する行為は、初めから教える必要はないと思います。 でも、繰り返しになりますが、性に関する部分は人間の本能の部分であり、成長の過程の一つ。 性衝動をうまくコントロールできるようにすることは、社会の中で生きていく上で、子どもも、大人も関係なく大切なことです。 「障害があるから教えない」「障害があるからどうせわからないだろう」 というような考え方は明らかに間違っていると思います。 障害のあるなしに関わらず、社会の中で生きていくために、心身が健康な毎日が送れるために、とても大切なことです。 障害があるからこそ、一人ひとりに合わせて、丁寧に教えていく必要があります。 性行動と社会性の部分は、分けて考えること。 社会性の部分は、小さいときから継続して教えていくこと。 障害があるからこそ、性について丁寧に教えていくこと。 私が強調したいポイントです。

④誤った性情報を目にする前に

自閉症の人たちは、一度学んだことを修正したり、物事や価値観を複数の視点で捉えることが苦手です。 ということは、初めに学んだことを身につける可能性が高いということになります。 しかし、初めに学んだ性に関する情報が"正しい"とは限りません。 学校や家庭で教わる性教育以外のほとんどの性に関する情報は、間違ったものだと言えます。 すぐに出会ってキスはしません。 手が触れたからといって、すぐにベッドに行きません。 過激なことを喜ぶ女性は現実にはいません。 セックス=愛情ではありません。 「お金をもらって性行為。みんなやっているよ」なんていう嘘の広告・・・。 マンガや雑誌、インターネットやアダルトビデオなど、性が誇張されて表現されたり、実際の気持ちとは関係なく、誇張されています。 私たちが自然に気が付くこのような点も、言葉や行動の意味をいろいろな視点に立って捉えることが苦手な自閉症の人は、本当の意味に気づかず、そのまま鵜呑みしてしまうことがあります。 自閉症の人たちは、形やパターンで学習することは得意です。 ですから、そのままモデルにし、実際の場面で望ましくない行動をしてしまうことがあります。 男の子も、女の子も、誤った知識が入る前に、正しい知識、望ましい行動を教えることが大事なことになります。

③性教育は父親を逃げさせたらダメ(笑)

自閉症の人たちの学び方は、視覚的に、具体的に学ぶことです。 形やパターンで覚えることが得意な反面、応用することが苦手です。 自閉症支援に携わっている人たちは、みなさん理解しているはずなのに、性教育になると、この基本を外れてしまう場合があります。 それぞれ絵を理解することが得意な子、写真を理解することが得意な子、具体物で理解することが得意な子がいるはずなのに、いつもイラストタッチの絵が使われます。 いくら写真、具体物での理解が得意といっても、公教育の中で取り扱うことが難しい現状がありますので、仕方がないことです。 また同様の理由から、具体的、実践的に教えるには、内容の限界があります。 いくら大切だからと言って、避妊具をつけてみる、マスターベーションをしてみる、なんていうのは無理です。 (しかし、自閉症の人たちの学び方から言ったら、この方法が一番なのですが・・・) そうなると、やっぱりイラストを使い、知識の習得を重視する教育になってしまいます。 知識で得たことを応用することが苦手なのに、です。 では、どうすれば良いのでしょうか? やっぱり男の子だったら父親。 女の子だったら母親が教えていくことが一番だと思います。 今の世の中を見渡すと、自閉症の人たちの学び方に合った視覚的、具体的、実践的な性教育ができるのは親しかいません。 「父親が療育に積極的でない」と言ってられません。 今まで療育に積極的だった父親は更に積極的になってもらい、今まで積極的ではなかった父親なら、「ここで協力しなければどこで協力するんだ~」「息子に教えられるのはあんただけだよ(炎)」と迫るしかありません。 とは言っても、学校の先生は教えるプロですし、学校で性教育をしっかりやってもらうことも大切です。 また、親以外にも、自分の身体や性について相談できる人を作ることは大切だと思います。 先生から指導やアドバイスをもらい、父親に協力してもらう。 それぞれ役割分担をしながら、性教育を進めていくことが一番です。

②性の話題は明るくね☆

また、大人たちの心構えとして、性について取り上げるときに、子どもたちに"マイナスな印象を与えないようにする"ことが大切だと思います。 自閉症や発達障害の人たちは、相手の気持ちを察することが苦手と言われますが、このようないつもと違う大人の雰囲気はすぐに察してしまいます。 例え言っていることが分からなかったとしても、「何だかよくないことを話している」「あまり話してはいけないことなんだ」というようなマイナスの感情を抱くことがあります。 そうなると、自分の身体や気持ちに変化があったとき、性に関する興味や関心が出てきたときに、「自分は悪いことをしている」「いけない人間なんだ」というように考えてしまう危険性があります。 これが倫理上やってはいけないことを教わったなら問題はないでしょう。 しかし、性に関する気持ちの変化、身体の変化はみんな誰でも訪れることです。 何も悪いことをしているわけではありません。 本来なら、身体の変化や性に関する目覚めは、喜ばしい成長の1ページのはずです。 身長が大きくなる、声が変わる、できなかったことができるようになる・・・。 これらと何ら変わらない成長の一つであり、子どもから大人に変わっていく大切なイベントとも言えます。 まずは性について教えていく入口のところで、子どもたちにマイナスな感情を与えないようにする必要があります。 最初に、マイナスの感情を持ってしまったばっかりに、自然に訪れる心身の変化、性に関する興味を受け入れられず、罪悪感に苛まれてしまった子どももいます。 自閉症の子どもたちは、忘れることが苦手です。 また、自ら考えを修正していくことも苦手です。 自閉症療育の基本は、準備をしっかりして、最初を大切にすることです。 私たち大人が、性についてオープンな環境で育ってきませんでした。 ですから、まずは性についてはオープンで、明るく話ができるように意識し、努力していくことが求められるのです。

①性情報をコントロールできない社会

昨晩、性教育について考えていることをブログに書いたところ、朝の時点でいつもの倍以上の方たちに見て頂いていました。 それだけ障害を持った子どもたちと性教育について関心が高いという表れなのかもしれません。 あまり表だって実践しているところもありませんし、立場上これらの内容について発言しにくい職業の方たちもいらっしゃいます。 また、私自身よくお聞きすることですが、息子がいるお母さんたちから「男性のことについてわからないし、教えられない」ということもあると思います。 そこで私が経験や学んだ範囲で、障害を持った子どもと性についての考えを述べ、みなさんが考えるきっかけにして頂きたいと考えました。 私たちが子どもだった頃に受けた性教育で何か覚えていることはありますでしょうか? 私が子どもだった頃は、ちょうどエイズの問題にスポットライトが当たっていた時期でしたので、エイズについての講演会を学校で聞いた記憶があります。 そのとき、避妊について話がありましたが、具体的な方法については話されていなかった記憶があります。 また学校の保健体育の授業でも、性についての授業もありましたが、「精子と卵子が出会って・・・」「二次性徴とは・・・」という基本的な話が主だったように記憶しています。 避妊やマスターベーションの仕方など、実践的な話はありませんでしたし、教える先生の方もいつも違う雰囲気で、年に数回という形で授業が行われていました。 どちらかというと性教育は積極的に行われていませんでしたし、社会もそれで良かったのかもしれません。 しかし、今はその社会が変わっています。 電車の中吊り広告に、性を刺激する表現。 テレビをつければ、ドラマでも、CMでも男女は抱きしめ合う。 マンガや雑誌も簡単に手に入り、インターネットを開けばすぐに性情報にアクセスできます。 一人一台の携帯電話、フィルタリングを巧みにすり抜ける出会い系もあります。 「このような社会が悪いんだ」と言っても何も変わりません。 性情報は、私たちが子どもだった頃と比べて、誰でも簡単に手が届くようになっています。 誤った性情報を完全に手の届かない場所に追いやることは不可能です。 今、子どもと接している大人たちは、子どもが男の子でも、女の子でも、障害があったとしても、なかったとしても、まずは"

障害を持った子どもと性教育

「高等養護の女子学生が男といなくなった」 このような話は、珍しくない話です。 人から愛されたい、触れあいたい、認められたい、安心を得たい・・・。 このような感情は、人が持つ自然な感情です。 しかし、知的障害や発達障害の人は状況を踏まえ判断することや、行動の結果や言葉の裏を想像すること、社会的な対人面に苦手さを持っていることから、誤った選択をしてしまうことがあります。 今晩、NHKハートネットで放送されたような性産業に足を踏み入れてしまう場合もあります。 知的障害があったり、学校を中退していたりして就職ができない。 家を飛び出してしまってお金がない。 このようなやむを得ない状況や環境が性産業に引っ張っていくこともあります。 また、その障害ゆえの対人面の苦手さから、相手の言葉を字義どおりに受け取り、その裏の意味を読み取れず、性産業の人間に騙され引っ張られてしまうこともあります。 いつも傷つくのは弱い立場の人たちです。 この状況は変えていかなければなりません。 出演者の方が指摘されていたように、 社会の差別や偏見を無くすこと。 自由度が低く、制限の多い福祉をもっと魅力的なものにすること。 障害者の就職について、支援はもちろん、給料の面でも改善することなどが大切だと思います。 そして、私はこの他に特別支援教育の中で、性についてきちんと取り上げ、具体的に指導することが大切だと考えています。 性教育については、未だに「寝ている子は起こすな」が主流の考えです。 しかし、寝ている子も成長とともにいずれは起きます。 その起きた時に、何も知らない、教わっていない状態だと、本能のままに行動してしまったり、誤った選択をしてしまう危険性があります。 定型発達の子どもたちと違い、自ら学ぶことは苦手ですし、言葉や文字で教わった知識を実際の場面に応用することも苦手です。 また、誤った性に関する情報も、そのまま鵜呑みにしてしまう可能性もあります。 これだけ性の情報が溢れていて、すぐに手が届く現代では、正しい情報と知識を彼らの学び方に合わせ具体的に教えていく必要があると思います。 性に関するトラブルも突き詰めていけば、対人面の苦手さからくるものです。 性に関する知識や技能はもちろんのこと、対人面についても、思春期を迎える前に、彼らが誤った知識を身

障害を隠している人たち

この仕事を始めてから、「実は私、アスペなんです」「発達障害なんです」と話して掛けてきてくれる人とお会いするようになりました。 88人に1人の割合で、自閉症スペクトラム障害の人がいると言われていますので、特別驚くことではありませんが、自分が自閉症や発達障害であることについて周りにオープンにしていない人が多いことに驚いています。 何故、周囲に自分の障害について話していないか、という理由はそれぞれです。 就職ができなくなる、というような社会的な不利益のため。 親や家族が認めてくれない、というような事情のため。 差別や偏見といった無理解のため。 ある方は「診断を受ける利点があるとは思えない」と言っていました。 近頃、仕事の関係で視覚障害、聴覚障害の方たちと関わる機会が増えました。 視覚障害の人たちは、「全然見えないんだよ」「右目だけが見えない」「見えるには見えるけど、見える部分が狭いんだ」などと自ら言ってくれます。 聴覚障害の人たちも同様に、聞こえないことを話してくれます。 視覚、聴覚障害の人たちは、自分の障害についてオープンです。 自閉症の人たちと同じように、見た目では分からない障害なのに。 他の障害を持っている人と比べて、自閉症、発達障害の人たちが自分の障害について語らないのには、そこに不利益が生じるからだと考えています。 障害について話したとしても、障害のことを正しく理解してもらえない。 また、仕事に就きづらくなる、いじめられるなど。 視覚や聴覚に障害のある方、身体に不自由がある方などは、障害のない私たちでも障害の苦労やどのようにサポートしたら良いのか、想像しやすいということがあります。 一方、自閉症、発達障害の人たちの苦労や望まれるサポートは、想像しにくい。 自閉症、発達障害が悪いことではないのに、隠して生活をしている人が多くいます。 彼らが当たり前のように地域で暮らしていける社会にしなくてはならないと思っています。 それには自閉症、発達障害について理解の輪を広げていくことが大切です。 他の障害や障害のない人と同じように、自分のことを隠す必要がない地域、社会を目指していかなければ、と当事者の方たちとお話しするたびに思っています。 「自閉症のままで生きられる地域、社会」を。

やりとりがパターン化しないように

「一度始めたら、やり続けなくてはならなくなる」 と言うお話を保護者の方たちからよく聞きます。 例えば、"褒める"ということ。 食器洗いを手伝ってくれたときに、「ありがとう」と言ったら、それ以降、食器洗いをするたびに「ありがとう」を求め、言われないとしまいには怒り出すというお話を聞いたことがあります。 家族としては、手伝ってくれたことに対し、感謝の気持ちを伝えることは自然だと思います。 お話を聞くと、最初のころは「ありがとう」と言われることに喜ぶ様子があったそうです。 しかし、徐々に「ありがとう」を求めるようになってきた・・・。 これは食器洗いのあとの「ありがとう」が、本人の中で一つのパターン化してしまった結果ではないかと考えられます。 その場面は見ていないので想像になりますが、家族も同じようなタイミングで、同じ言葉(「ありがとう」)を繰り返したために、自閉症の人たちの好みであるパターン化に引っ張られていってしまったと思われます。 自閉症の人が全員こうなるとは言えませんが、いろいろなことがパターン化しやすい方と接するときは、こちら側の反応も考える必要があります。 上記の食器洗いのあとの「ありがとう」の場合ですと、「ありがとう」以外に「助かったよ」「お母さんは嬉しい気持ちになった」など、感謝の気持ちを伝える言葉を変えたり、言うタイミングや人を変えるとパターン化しづらくなります。 パターン化しないということは、本来の意味である感謝の気持ちを"伝える"と"受け取る"の交流を続けられるということです。 保護者の方の中には、「何かを始めるとやり続けなくてはならなくなるので、何もやらない」と言われる方ややっていたことがパターン化されてしまうと、それに付き合い切れなくなるので、途中でやめてしまうという方がいます。 こうなってしまうと、本人にとっても、家族にとっても、勿体ないことだと思いますので、「自閉症の人はパターン化を好むこと」と「反応の仕方に種類を持たせておくこと」を頭に入れておくと良いと思います。

可能性を信じ続ける仕事

私の仕事を一言でいうと、自閉症の人たちの"可能性を信じ続ける仕事"だと思っている。 「言葉は話せないだろう」 「勉強はできないだろう」 「将来も独りで自立することはできないだろう」 「就職は無理だろう」 人生を歩んでいく中で、可能性を否定され続ける本人、そして家族。 可能性を信じ続けられない支援者は、もともとその人に「可能性がなかった」と言う。 支援者は自閉症の人たちの可能性を信じ続けられる人でなければならないと思う。 可能性を信じ続けているから、できなくても別の方法を考えつくことができる。 可能性を信じ続けているから、真の本人の姿に出会うことができる。 可能性を信じ続けられる支援者が、自閉症の人たちの真のパートナーになることができる。 可能性を信じ続けた先に、新たなアイディア、新たな未来が待っている。 自閉症の人たちに可能性がないのではない。 できないのは、本人に合っていない支援を行っていたから。 できないのは、本人の可能性を信じ続けられない支援者だから。 『てらっこ塾』は、可能性を否定され続けた自閉症の人たちにこそ利用してほしい。 私はあきらめない。 私は可能性を信じ続ける。 小さいときから、ずっと我が子の可能性を信じ続ける家族のように。

発達障害の人たちが精神科を避ける理由

「精神科の薬を飲んでいると就職できないから、精神科にかかることを避けている」 というような発達障害の当事者の方やご家族の話をよく聞きます。 私はこのような話を聞くたびに、「精神科の服用と仕事のスキルとは関連がない」と思いますし、必要な薬を飲むことができない当事者や家族のことを考えると、いたたまれない気持ちになってしまいます。 精神科の薬を飲むことは悪いことでない。 精神科の薬を飲まないといけない状況になったのは、本人のせいではない。 そもそも生まれつきの脳の違いがありますので、気分の浮き沈みがあったり、疲れやすかったり、ストレスを感じやすかったりします。 ですから、これらの症状を緩和するために、精神科の薬を飲むことがあるのです。 これは本人がどうのこうのという問題ではなく、脳の違いですので仕方がないことだと思います。 また発達障害の人たちは、見た目は定型発達の人と何ら変わりはありませんので、理解されないことが多々あります。 周囲の無理解によって、傷ついたり、ストレスを感じ続けたりすることで精神科の薬が必要になる。 この場合は明らかに周囲の方に問題があります。 企業の方が精神科の薬の副作用を心配する気持ちはわかります。 しかし、副作用の症状は事前に把握し対処しておくことはできますし、仕事に支障が出るくらいの薬を飲んでいる場合は本人の気持ちが就職に意識が向いていないと思います。 発達障害の人で夜が眠れなくて、睡眠薬を服用している人はたくさんいます。 夜眠れないために飲む睡眠薬はいけないことなのでしょうか? 仕事ができないなら、それは障害のあるなしに関わらず働くことはできません。 しかし、働く前に"精神科を飲んでいる"ために、入口に立つこともできない状況はおかしいと思います。 このような社会が、直接的ではないかもしれませんが、発達障害の人たちが精神科の薬に頼ることを遠ざけ、結果的に自分自身で苦しみ、さらに就職できないといった負のスパイラルを生み出していることを私たちは知る必要があると考えています。

発達障害の人と支援者をセットで雇う

精神科の薬を飲んでいることや経歴に空白の期間があることは、発達障害の人たちの就職をさらに難しいものにしている。 また就職できたとしても、十分な仕事や賃金を与えられなかったり、職場の人たちの無理解だったりが発達障害の人たちを離職へと導くことがある。 働く意欲や能力は十分持っているのに、働くことや働き続けることが難しい現状。 このような現状が、発達障害の人たちの自立を妨げている。 ひきこもりの人たちの中には、発達障害の人たちも多くいる。 彼らに仕事があれば、ひきこもりの状態から脱することができ、企業や地域の力として、また納税者として活躍できるのではないかと思うことが多い。 「定型発達の人でも働く場所がないのだから、発達障害の人が働くことはもっと難しい」という話をよく聞く。 ここには偏見がある。 「発達障害の人たちは、定型発達の人たちよりも仕事ができない、劣る」 確かに定型発達の人と比べると、苦手なところは多くある。 しかし、それと同じくらい定型発達の人よりも優れているところも多くある。 発達障害というだけで、仕事ができないという偏見はなくしていかなければならない。 では、どうやってその偏見をなくしていくのか? 一番早い方法は、実際に働くところを見てもらうということだろう。 彼らの大変正確で、真面目な働きぶりを見れば、企業のためになる人材だということがわかる。 企業の人たちに、発達障害について説明をし、即理解というのは無理がある。 ある親御さんが言っていたアイディア。 「発達障害の人たちを雇うとき、支援者も一緒に雇う」というシステムを作る。 確かに、これが実現できたら、発達障害の人たちは安心して働くことができる。 企業の人は、自分の仕事以外に、発達障害の人たちのフォローをしなくて良くなる。 そうなれば、発達障害の人たちの就労のハードルは下がるだろう。 地域に働く意欲と能力を持った発達障害の人たちが多くいる。 この人たちの力を地域のために活かせるようにするために、『てらっこ塾』に何ができるだろうか。 私に経営学の知識があるなら、発達障害の人専門の派遣会社を作るのだが。 働きたい発達障害の人の面接、研修、就職後のフォローをひとまとめにしたサービスでも作るとするかな。

継続できない支援は誰のせい?

熱心で、情熱あふれる支援者から他の人に変わった途端、適応できなくなる子どもがいる そんなとき 「前の支援者が良かった」 「次の支援者はダメだ」 と言うのはちょっと待ってほしい どんなに勉強熱心な支援者だったとしても どんなに療育に情熱を燃やす支援者だったとしても 「他の支援者が継続できない支援をやっていた」ということにならないだろうか 特定の支援者が関わっている間だけ、療育がうまくいったり、落ち着いていられたりすることがゴールではない 支援者は常に「自分が支援に携わらなくなったとき」のことを頭に入れておく そんな"将来"と"今"の姿を見ながら支援ができる人が、「真の支援者」ということができないだろうか 特定の支援者しかできない療育や支援を行ったとしても、それは"一時期"にしなければならない 一人の人間が一生その子の支援に関わるわけではないのだから

「注射、痛くないよ」と言ったら、嘘つきになりますよ(笑)

インフルエンザの予防接種を受けてきました。 やっぱり痛いですね。 いくつになっても注射は嫌なもんですね。 施設で働いていたとき、子どもたちの注射の付き添いは大変でした。 みんなり痛いことはわかっているから、診察室に入るだけで嫌がります。 泣き叫ぶ子、逃げようとする子がたくさんいました。 こんなとき、「痛くないから大丈夫」と気を紛らわすような言葉を掛けたくなりますが、私は敢えて「注射は痛いよ」と伝えるようにしていました。 だって、注射は痛いもん! 自閉症の人に「痛くないよ」と言ったら、終わったあと「嘘つき」と言われても仕方がありません。 私が「気を紛らわせるために言った」なんて、子どもたちは説明しないとわからないと思います。 ただ「嘘をつかれた」というマイナスな感情しか残らない可能性が高いです。 好意で言ったつもりでも、すぐに悪者扱いされます(涙) だったら始めから「痛い」という事実を伝えます。 でも、「痛い」だけのメッセージを伝えるだけではなく、「終わり」も伝えるようにします。 どんな注射でも3秒くらいで終わります。 自閉症の人は先が見えない不安を感じることがあります。 この注射の場合ですと、「いつまでこの痛いことが続くのか」が分からず、不安に思っている部分も大きいと思います。 ですから、「1・2・3」とカウントを数えたり、視覚的に伝えたりすることで、注射の終わりを伝えます。 終わりが分かることで、不安の軽減につながります。 注射をすると痛いので、「痛い」という事実はきちんと伝えます。 (中には「痛くない」と教わったのに、自分は痛いと感じたので、自分はおかしい、または病気じゃないかと真剣に悩む人もいました) また痛かったとしても、必ず終わりがあることを伝えます。 「終わりが見えるから、頑張れる」というのは、私たちも一緒です。 注射が苦手なお子さんがいましたら、参考にしていただければと思います。

質問攻めの我が子に「"人間"ってテキトー」を教える

こんなことを書いたら、お叱りを受けるかもしれません。 「人間ってテキトーなんだよ」って自閉症の人たちに教えることも大切かなと思っています。 よくお母さんに質問しまくる自閉症の子どもの話を聞きます。 最初、お母さんは真剣に答えるのですが、途中から疲れたり、他の用事があったりすると、だんだんテキトーな返事になったりします。 すると、子どもはこういうときの察しは良く、すぐにお母さんがテキトーになっていることに気が付きます。 「お母さんは真面目に答えていない!」 「お母さんは話をすぐに忘れてしまう!!」 「お母さんはわからないことが多すぎる!!!」 などと、文句を言ったり、怒ったりします。 でも、私はこのような経験も大切なのではないか、と考えています。 自閉症の人たちは、"相手の立場にたって物事を考える"といった想像することが苦手なため、自分基準で物事を考えてしまう傾向があります。 また、他人とのやり取りに関しても、パターンを作り、それに当てはめようと傾向もあります。 ですから、上記のような場合、お母さんはいつでも話を聞いてくれて、自分の疑問を解決してくれると、子どもの方は思っているのでしょう。 しかしだからと言って、子どもの要求にすべて応えていては、お母さんの方がダウンしてしまいます。 またお母さんがすべての要求に応えられたとしても、現実社会ではすべての要求に応えてくれる人はほとんどいません。 ですから、お母さんは肩の力を抜いて、「人間ってテキトーなんだよ」って教えてあげれば良いのだと思います。 ある自閉症の方が、子どものときからずっと親との関係が良くなかったが、「親も人間なんだ。ダメなところもある完璧な人間ではない」と自分が気が付いてから、徐々に良い関係を築けるようになった、というお話を聞きました。 私たちが成長する過程の中で気が付いていく人間の本性というべき部分も、自閉症の人たちは教わらないとわからないのだと思いました。 「お母さんは真面目に答えていない」と言われたら、「お母さんは子どものときから不真面目で評判でした」 「お母さんは話をすぐに忘れてしまう」と言われたら、「そろそろ物忘れが始まったかな」 「お母さんはわからないことが多すぎる」と言われたら、「その話に興味がないからね~」 などと、切り替

恐怖や不安も見方を変えれば、興味関心

特定のものに対して、強い恐怖を持つ方がいます。 雷や地震、病気や菌など・・・。 周りの人がいくら大丈夫だと説明しても、何度も気になることを質問したり、過度に避けたり、不安になったりすることがあります。 ひとたび、このような状態になったら、周りが何を言おうとも自分が納得しない限り落ち着くことは難しくなります。 「忘れなさい」と気をそらそうとしても、「大丈夫だから」と安心させようとしても、頭の中はその事柄のことでいっぱいになっています。 ですから、私はそのような状態になった人たちに対して、自分でとことん不安になる事柄について調べてもらうように導くようにしています。 雷が気になるなら、雷が起きる条件や起きやすい場所、起きたときの対処法、雷の威力、天気予報などを調べてもらいます。 病気が気になるなら、気になる病気が初めて見つかったときのこと、なりやすい条件、病原菌の種類、治療法などを調べてもらいます。 自閉症の人たちは、分からないものに対して強い恐怖を感じることがあります。 気をそらそうとしたり、不安を打ち消そうと周りがしても、本人が納得しない限り、恐怖や不安がなくなることはありません。 本人が気づいていない事柄で恐怖や不安を感じそうなものがあれば、周囲の人の配慮によって遠ざけることは有効な支援だと思います。 しかし、いったん恐怖や不安を感じたのなら、その事柄についてとことん知ってもらうことが良いと考えています。 その"知る"という行為が、自閉症の人たちに合った恐怖や不安を克服する方法の一つです。 恐怖や不安も見方を変えれば、本人にとって興味関心があること。 対象が恐怖や不安のものであっても、興味関心を制限するのではなく、活用する方法が自閉症支援の基本になります。

「障害者雇用率が過去最高」の記事に思う

今朝の新聞に「企業で働く障害者が初めて40万人を超えた」という記事が載っていました。 その要因としては、今年の4月から障害者の雇用義務(法定雇用率:1.8%→2.0%)が強化されたことが挙げられていました。 実際に企業の中で働く障害を持った人たちが増えたという事実は、望ましい変化だと思います。 しかし、その増加した数字の背景に、数字のために雇われた人たちがいないかが心配になります。 本人にできることはあるのに、簡単な仕事しか与えられない。 または、まったく仕事を与えられない。 一般採用の人たちとは異なるいつまで経ってもキャリアアップできない仕組み。 低賃金と雇用の不安定さ。 このような話を見聞きします。 企業に就職できたことがゴールではないと思います。 賃金を得ることも重要ですが、自分の力を発揮し、安心して働けることがより豊かな人生につながっていくのだと思います。 法定雇用率の強化は入口を広げることです。 その入口を通ったあとの働く環境を整えることも同じように大切なことだと思います。 就職したものの、職場に障害を持った人の理解がなければ、力を生かして働き続けることができません。 障害を持った人も、他の職員と同じように能力によってキャリアアップできる仕組みがなければ、意欲をもって働くことができません。 障害を持った人たちが自分の能力を生かし、企業や社会に貢献しているという実感を持てるような働き方ができる仕組みも強化していかなければなりません。 そうしなければ、「数字だけの話に終わってしまう」と今朝の新聞を読み、感じました。

道徳教育と自閉症の子どもたち

道徳が教科に格上げされると、「自閉症の子どもたちは大変だろうな」と危惧しています。 それは授業についていけないからという理由ではありません。 むしろ他人の行動を客観的に分析することは得意ですし、どんな行動が望ましいか、または望ましくないかなど、よく知っている自閉症の子どもも多くいます。 点数化されて評価されるなら、良い成績を取る子も多いと思います。 私が危惧している部分は、学校で教えられる"規範"にこだわりすぎないか、という点です。 先生から教わったり、文字になって教わったりすることは、自閉症の子どもたちの頭の中には強く残ります。 物事を白か、黒かではっきり区別する傾向や例外を想像することが苦手な特性を持つ自閉症の子どもたち。 きっと学校で教わった規範をきちんと守ろうとするはずです。 しかし、現実の社会では例外や守らない人、状況があります。 また自分自身、教わった規範通りに行動できないこともあります。 このようなとき、自閉症の子どもたちは混乱したり、苦しんだりするかもしれません。 他人が学校で教わった規範から外れた行動をとってしまった場合、その人のことを許せなかったり、実際に叱責してしまうかもしれません。 自分自身が規範から外れた行動をとってしまった場合、「自分は守れないダメな人間だ」と自己嫌悪や罪の意識に苛まれてしまうかもしれません。 本来、ルールや基準を守ることは自閉症の人たちにとって得意なことであります。 ですから望ましいルールや正しい基準を教えることは、自閉症の人たちの学び方に合っていますし、生きていく上で必要な適応力をつけていくのに効果的だと言えます。 (*教わっていないことは、自分なりのルーティンを築いてしまうことがあるので、その前に望ましい行動や考え方を伝えるといった点でも有効) しかし、特に自分以外の人と関係するルールや基準は、必ずしも決まった通りにならないことがありますので、きちんと例外や状況によっては基準通りにならないことも教える必要があります。 道徳が教科になることによって、望ましい規範を多く学べることは良いと思いますが、今まで以上に自閉症の子どもたちが規範にこだわり過ぎて疲れたり、辛い思いをしたりしないか、心配しています。

お互いがんばるべ!

自閉症支援において、「絶対受容」も、「全否定」もない。 お互いの妥協点を見つけていくことが基本だと考えている。 「どうやって生きていけば良いの?」という疑問に、絶対受容は答えてはくれない。 一生、一人で生きていけるのなら、絶対受容でも構わないかもしれないが、現実は一人で生きていくことはできない。 絶対受容だと、自閉症の人たちは"こだわり"と"反復"の世界から出られなくなる。 このような世界の中にいればいるほど、この世界に応じた脳になり、変化をますます受け入れられなくなる。 「どうやって生きていけば良いの?」という疑問に、全否定も答えてはくれない。 やってはいけないことを教わったからといって、反対のどうすれば良いのかを想像することは自閉症の人たちの苦手なこと。 望ましい行動や考え方を具体的に教わることが、自閉症の人たちに合った学び方。 "否定"は、即自己否定につながってしまう危険性がある。 これもまた自閉症の特性に関連すること。 なぜ、相手は否定したのか、その意図をくみ取ることが苦手。 言葉に強く注目してしまい、その他の状況や関連した情報に注目することが苦手。 定型発達も、自閉症者も、お互いに努力していくことが大切。 それが"共に生きる"ってこと。 「自閉症だから許してね」の世界も、「定型発達に合わせろよ」の世界もない。 あるのは、お互いの長所を活かし合う世界だと思う。

実は別の選択肢もあるんです

注意するときと同様に、アドバイスするときも気をつけないといけないことがあります。 それは、こちら側としたらアドバイスしているつもりなのに、相手の自閉症の人には「指示された」と受け取る可能性があるということです。 例えば、疲れた様子に見えた家族から「明日はゆっくり休んだ方が良いんじゃない」と言われた場合、私たちは家族からの"アドバイス"というように受け取ることができます。 また、家族が自分のことを気遣ってくれていることも察することができます。 自分も休んだ方が良いと思えば、明日はゆっくり休むかもしれませんし、やらないといけないことがあれば、出掛けたり、仕事をしたりするかもしれません。 しかし、もし自閉症の人が同じように家族から「明日はゆっくり休んだ方が良いんじゃない」と言われたら、「明日はゆっくり休まなくてはいけないんだ」と捉えてしまう可能性があります。 それは家族の人がなんでそのような言葉を言ったのか、言葉以外から読み取ることが苦手ですし、他の選択肢を自ら導き出すことも苦手だからです。 このことは自閉症の人たちの苦手な"想像"に関係しています。 他の選択肢を想像することが難しかった場合、「明日はゆっくり休む」という選択肢しか目の前にないということになります。 そうなると、必然的に明日はゆっくり休むことになります。 例え明日、自分の予定ややりたいことがあったとしても、休む方を優先してしまうこともあると考えられます。 「どんなことを言われたとしても、すべて"指示"に受け取ってしまう」と発言する自閉症の人たちは少なくありません。 自分だったら、指示され続けられる毎日を送りたいと思うでしょうか? そうならないためにも、自閉症の人にアドバイスするときは、 「私はあなたが疲れているように感じるから、明日は休んだ方が良いと思うよ」というようにアドバイスする側の意図を伝えるか、 「明日は一日ゆっくり休むという過ごし方と、午前中はゆっくり休んで午後から活動をするという過ごし方があるけど、どちらが良いと思う?」というように選択肢を複数提示する方法が良いと考えられます。 良かれと思ったアドバイスが相手にうまく伝わらないこともありますので、アドバイスの方法も自閉症の人たちの捉え方に合わせ

注意するときは一言添えて

注意するとき、 「私はあなたのことを大切に思うから言うけど」 「あなたが成長してほしいと思って言っているのだけれど」 「同じ失敗をしてほしくないから」 など、きちんと注意する理由を言っていますか? 「そんなことわざわざ言う必要あるの?」という声が聞こえてきそうですが、結論から言うと必要なんです! 自閉症の人たちは一点集中型なので、注意された言葉自体に強く注意を向ける傾向があります。 例えば、「忘れ物しないように気をつけなさい」と注意された場合、「わすれものしないようにきをつけなさい」という言葉ばかりに注目してしまうため、ただ注意されたという印象しか残らないことがあります。 その結果、自分は否定された、ダメな人間だ、などと捉えてしまうことがあります。 これは特に自尊心が低い方によく見られる傾向です。 定型発達の人たちは、言葉以外にも注目するため、相手の表情や状況からどの程度の重みがあるのか、相手が自分のことを思って注意してくれているのか、などを読み取り、想像することができます。 よって、注意する意図を伝える必要性は低いかもしれません。 しかし、自閉症の人たちは言われていないことに気が付きづらい傾向があります。 ですから、注意するときには「私はあなたのことを大切に思うから言うけど」など、注意する意図をきちんと伝える必要があります。 その一言によって、自閉症の人たちが誤解を招くことや自尊心を傷つけることを減らせるはずです。 「決してあなたを否定しているつもりはない」というメッセージをきちんと伝えましょう!

精神科受診で「自閉症では?」という視点

こんなことがあって良いのだろうか? 必要のない精神科の薬を飲んで、副作用に苦しむ・・・。 その副作用を改善するために、また異なる薬を処方される。 結果として日々の生活を送るのに支障が出てしまう。 私は、精神科を受診しに来た人に対して、まずは自閉症を疑う必要があるのではないか、と考えている。 自閉症の人に見られる行動が、統合失調症の人の行動に似ているという。 また周囲の人から理解されないことにより、自閉症の人は心身ともに疲れ果て、うつ病を発症してしまうことがある。 どちらも「自閉症かもしれない」という視点があれば、より適切な治療と教育につながっていけるのではないだろうか? 88人に1人の割合で、自閉症スペクトラムの人たちがいると言われている。 統合失調症は120人に1人の割合だと言われている。 単純な比較はできないが、統合失調症を疑うなら、同じくらい自閉症を疑っても良いと思う。 これ以上、診断結果によって苦しむ自閉症の人たちが増えないために。

自分の感情をコントロールする練習

自分の感情のレベルが分かるようになったら、それぞれのレベルでどのような行動をすればよいのか、を考えていく。 例えば、不快な感情のレベルが1のときは、「深呼吸をする」 その次の段階のレベル2のときは、「ボールを握りつぶす」 というように、各段階に達したとき、どのような行動をとれば、気持ちを落ち着かせられるか、を考えていく。 そして、最高レベルの段階に来る前に自分の感情を落ち着かせられること、つまり感情のコントロールができるような練習をしていく。 まず見えない感情というものを具体的な出来事に置き換えて確認していく。 次に出来事に順番をつけていくことを通して、感情のレベルを認知できるようにする。 そしてそれぞれの感情のレベルのときに、どのような行動をすれば良いか、を考えて実践していく。 大雑把な紹介となったが、このような過程を通して自閉症の人たちが自ら感情をコントロールできるように支援していく方法もある。 できれば、幼いときからじっくりと時間を掛けて、感情をコントロールする練習を積み重ねていくことが望まれる。 これからますます注目される支援の一つになると考えられる。

出来事を見て、自分の感情を知る

自閉症の人に自分の感情にレベルがあることを知ってもらうためには、どうしたら良いのか? 自閉症の人に、"ちょっと"不安な気持ち、"とても"怒る気持ちなどと言って、表現の違いで感情の強弱をつけるように教えても無理がある。 そもそも見えない感情を認知すること自体が苦手なのだから。 では、どうして感情のレベルをわかりやすく伝えていくのか。 それにはやはり自閉症の人が得意な見える形で伝えることが望ましい。 うちにある感情ではなく、現象として現れる、つまり自分で見ることができる出来事を通して、感情のレベルを認知するように導いていく。 具体的な支援でいうと、 例えば"不快な感情"について取り上げたとしたならば、まずどんな出来事が不快に感じるかを確認していく。 自閉症の人たちの捉え方は一人ひとり違うので、この確認作業を行うと何が不快に感じるのかを知ることができる。 そして出来事は見ることができるので、自閉症の人にとってもわかりやすい。 個人の不快に感じる出来事を確認したあと、その不快に感じる出来事に順番をつけていく。 「パソコンが動かなくなったこと」と、「お母さんに注意されたこと」はどっちの方が不快な気持ちになるか、など。 この出来事に順番をつけていくとき、不快レベル1とか、不快レベル2とか、数字で基準を示す場合もある。 このようにして、出来事を通して感情を確認し、その感情を伴う出来事順番をつけることを通して、感情のレベルを認知するように導いていく。 自閉症の人たちは例え自分の感情だったとしても、見える形で学ぶことが基本なのです。

自閉症の人は衝動的!?

「自閉症の人は衝動的な行動をする」と言われることがある。 確かに自閉症の人の中には衝動的な行動をしてしまう人も多くいる。 しかし、だからといって自閉症=衝動的ということにはならない。 では、衝動的な行動の背景にはどんなことがあるのだろうか? 他人の目を通すと、「それくらいで」と思うようなことがきっかけとなり、衝動的な行動をとってしまう場合がある。 服のボタンがうまくつけられなかっただけなのに、大きな声で泣いたり、怒ったりすることがある。 服のボタンがうまくつけられないことは定型発達の人でもあるが、それぐらいで泣いたりはしない。 それは私たちが不快な感情にレベルがあることを知っているからだ。 私たちは服のボタンがうまくつけられないことを不快に思うが、その不快のレベルはちょっとしたものであると認識する。 しかし、自閉症の人は見えない"感情"というものを正確に捉えることができない。 だから、不快なことはすべて同じレベルの"不快"で捉えてしまう。 つまり、不快なのか、不快でないのかという2つのパターンで捉えてしまいがちである。 常に感情は0か、100か、である。 それは不快な感情だけではなく、快の感情などの他の感情についても同じことが言える。 思いっきり喜んだり、思いっきり悲しんだりする自閉症の人の姿を見ることは多い。 同じ不快という感情でもそのレベルを知らなければ、不快な出来事があると、すぐに行動に出てしまう。 それが「自閉症の人が衝動的な行動をする」という印象を与えてしまっている。 自閉症の人だから衝動的な行動をするのではなく、見えない感情というものを認識することが苦手なため、衝動的な行動をとることがある、というのが正しい表現だと思う。 ただし、自閉症の人は周囲の環境の影響を受けやすいため、常にストレスフルな状態と言えるので、ちょっとしたことがきっかけとなり感情を爆発させることがあることも頭に入れておく必要はある。

地域で活躍するカッコいい場所、カッコいい人!

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帰りの車の時計を見ると、「13:32」の表示。 話し始めたのが、11時。 ということは、2時間半も経っていたことに‼ 話をしているときは、時間の流れがまったく気になりませんでした。 昨日はそれくらい面白い話が聞け、また魅力的な人とお話をさせて頂くことができました。 昨日、私は函館市大手町(国際ホテルのすぐそば)にある「函館圏フリースクール すまいる」さんの見学をさせて頂きました。 フリースペースでは、子どもたちが一人ひとりのペースに合わせて、自主的な活動ができる居場所になっていました。 またフリースクールでは、通信制高校のレポート作成のサポートや高校卒業資格習得に向けた支援が行われていました。 函館にある唯一のフリースクールです。 代表の方のお話はとても分かりやすく、また興味深いものばかりでした。 特に『不登校と発達障害』のお話は、思わず前のめりになって聞いてしまうものでした。 「確かに不登校の子どもの中には、発達障害の人もいる。しかし、発達障害だからと言って、必ず不登校になる訳ではない。発達障害が不登校の直接的な要因だとは言えない。学校に通えなくなるというのは、身体も、心も"休み"が必要だということ。それは定型発達の子どもも一緒。学校で嫌なことがあり、それをきっかけに通えなくなる子どももいるが、その前からの蓄積の結果。嫌なことがあったとしても、全員が学校に通えなくなるわけではないのだから」 「すまいる」さんを利用する子どもの半数は、スタッフが何も促していないのに時期が来ると、自分から「学校に行く」といって、再び学校に通い始めるそうです。 やはり心身の休養が必要であり、心身の休養が取れた結果、また自らの意思で歩みだすことができるのだと感じました。 本当は当初5年計画で進めようとしていた事業の展開も、開始から1年半というスピードで事業の広がりがみられるようになっているそうです。 それは地域に必要な資源であり、ニーズが多いことが関係しているのだと思いました。 一人ひとりの学び方やニーズに合わせること。 将来の自立的な生活を目指すこと。 不登校と発達障害の部分は、別々にアプローチすること。 いろいろな学びがあっていいこと やはり"学び"が大切なこと など、対象とする人たちは違ってい

"忘れられない脳"に対し、支援者は?

「忘れることができる」というのは、本当に素晴らしい能力だと思います。 もし経験したすべての嫌なこと、辛いことを覚えていたら、とてもつらくて毎日過ごすことができなくなる・・・。 人は忘れることによって、前を向くことができるし、次にチャレンジする気持ちを持つことができると思います。 しかし、その「忘れること」が自閉症の人たちは苦手です。 自閉症の人たちの脳は、記憶することが得意な反面、忘れることが難しい、といった特徴を持っています。 ですから、嫌なことや辛かったこと、中には特定の人や事柄に対する恨みをずっと持ち続けている方たちもいます。 将来の自立的な生活や豊かな人生を送るための技能の獲得や勉強、支援は大切だと考えています。 でも、さらに過去のマイナスな経験や感情を断ち切り、乗り越えるためのサポートも同じくらい大切だと考えています。 その支援は、忘れることが苦手な人に「忘れなさい」というような方法ではなく、具体的にどのような方法だと乗り越えていけるか、を本人と共に考え、実践していくような方法で。 周囲の人たちが本人の持つ特別なニーズに気づかず、また合わせた支援を行わなかったことによって生まれるマイナスな感情もあるでしょう。 でも、どんなに周囲の理解が得られ、本人に合った支援を行われてきたと言っても、人生の中で嫌なことや辛いことがまったくなかった、と言える自閉症の人もいないと思います。 ですから、自閉症の人たちが持つ「忘れられない脳」に対する支援を考え、深めていくことが、これからの支援者に求められる力、専門性だと考えています。

障害者福祉で儲けちゃだめですか?

障がいを持った人たちを支援する仕事は儲からない。 ほとんどの組織は、行政の援助だったり、大きな組織の支援だったりを受けている。 個人なら、本業以外の仕事の掛け持ちは当たり前。 「障害者支援=福祉=慈善活動」が一般的な考え!? でも、障がいを持った人たちへのサービスで"儲け"という発想は不謹慎なのかな。 そうなると、障がいを持った人と障がいのない人を区別しているんじゃない。 だって、障がいのない人たちは"儲け"が大前提。 障がいを持った人へのサービスを提供する人たちが、儲けられる仕組みを作りたい。 そうなれば、もっと障がいを持った人たちと関わる人が増えるし、サービスの量や種類が増えていく。 サービスの量や種類が増えれば、次は質が求められてくる。 障がいを持った人たちへの支援も質が重要! 障害者サービスを福祉から一歩踏み出してみたい。 一般的なサービスとは、対象者の数が違うじゃないか、って。 何を言っているの、特別なニーズを持った人たちは私たちの周りにたくさんいますよ。 ただ表に出てないだけ。 ただ与えられるサービスを受け取るしかなく、選びたいサービスがなかっただけ。

「頑張れ」って、何をですか?

「頑張って」「頑張れ」「頑張ろう」など、私たちが誰かを応援したいときの言葉。 声を掛けられた方は、その一言によって気分や行動が変わることがあります。 そのため、その一言で結果まで変わることもあります。 「頑張って」という励ましの言葉は、私たちに力を与えてくれることもあります。 (*中には自分で「頑張っている」と思ってやっているのに、さらに「頑張って」と言われると、気分がマイナスの方に向かう人もいますが・・・)。 しかし、その「頑張って」という言葉の意味が伝わりにくい人たちもいます。 それは自閉症の人たちだと考えられます。 自閉症の人たちの中には、「頑張って」という言葉を受け取ることはできますし、"応援してくれている"という意味もきちんと理解できる人もいます。 でも、その「頑張って」という言葉を受け取ったあと、実際の行動の変化まで起きる人は少なくなります。 その理由は、自閉症の特性でもある「想像力の違い」が関係しています。 自閉症の人たちは、物事の見える部分、確認できる部分に対しての理解は得意ですが、隠れた部分を想像することが苦手なため、結果としてそのような部分の理解が難しくなります。 この「頑張って」の件で言うと、「頑張ることで何がどう変わるか?」「自分にとって"頑張る"とはどういうことか?」などの理解が難しいと言えます。 でも、運動会や発表会、試験などに向かう姿を見たら、思わず「頑張って」と言いたくなりますよね。 そんなとき、どうやって自分の応援したい気持ちを伝えればいいのか? また、良い結果が出るために、声を掛けた相手の行動を変えたいとき、どうしたらいいのか? どちらも「具体的に伝える」ということが良いと思います。 「運動会の徒競走で最後まで走り切れたら、お母さんは嬉しく思うよ」 「ピアノの演奏を聴けることが、先生は楽しみです」 などというように、相手の理解に合わせて、応援する気持ちを誰の、どんな気持ちかをより具体的に表すと伝わりやすくなります。 また良い結果に導きたいのなら、この場合も相手の理解に合わせて、具体的にどんな結果が待っているかを伝えると良いでしょう。 例えば、「水泳の練習が終わったら、アイスを食べに行く」とか、「入試が終わったら、旅行に行こう」などです。 想

私、どんなことルーティンでやってるかな?

では、何がルーティンで良くて、何がルーティンで悪いのか? そのポイントは、"変化"です。 変化がないものはルーティンでOKです。 例えば、料理を作る手順や自分の部屋の掃除の流れ、家に帰ってきたら手を洗うといった望ましい習慣などです。 反対に変化のあるもの、変化の可能性があるものはルーティンで身につけない方が良いと言えます。 例えば、仕事の手順はルーティンでも良いと思いますが、一日の仕事の流れは日によって異なるので、ルーティン化しない方が良いと思います。 また、人とのやり取りやコミュニケーションなども相手がいて、変化があるものなので同様です。 自閉症の人の中には、一度ルーティンで覚えてしまうと、あとからそのルーティンを変えようとしても、なかなか受けいることができない方もいます。 しかし、ルーティンは自閉症の人たちの強みであり、得意な学び方でもあるので、いつまでも変わらない手順や流れ、望ましい習慣などは、ルーティンで身につけていくことも良いと思います。 ただし教える過程で、支援者の手助け自体がルーティンの一部にならないように気をつける必要はあります。 支援者の手助けがないと、次の手順や流れに移れず、活動自体が途中でできなくなる場合もあるためです。 自閉症の人たちに限らず、私たちもルーティンで物事をやっていることがあります。 今日一日の生活を見返し、どんなことをルーティンで行っていたかを知れば、何がルーティンで身につけて良いのかが分かってくるはずです。 よろしければ一度、お試しを。

ルーティンは強みであり、好みである

自閉症の人たちにとって、ルーティンは強みの一つだと言えます。 ルーティンで活動が行えると、繰り返し、同じ手順で、場所などの状況が変わっても、同じように力を発揮できることにつながります。 場所や人などの状況が変わると、できていたことができなくなるという自閉症の人たちが苦手な部分をルーティンが助けてくれます。 しかし、ルーティンに関して支援者は注意しなければならないことがあります。 それは、どの部分をルーティンに導くか、ということです。 活動や手順によっては、ルーティン化すると望ましくないこともあります。 ですから、何をルーティン化してもらうか、特に新しい活動や手順を教えるときは意識しなければなりません。 ルーティンは自閉症の人たちの強みであると同時に、好みでもあります。 教えられていない内容は、自分なりの捉え方で、次々ルーティンを築いていくことがあります。 自閉症の人たちの強みを生かすためにも、特に新しい活動や手順を教えるときには、事前によく考え、望ましいルーティンを築けるよう導いていくことが大切だと思います。

スケジュールのルーティン化はどの部分?

自閉症の人たちがルーティンで学んだり、活動をしたりすることが得意なことは、よく知られています。 ですから、その得意なルーティンをスケジュールについても活用することが望ましい、と思います。 しかし、気をつけないといけないことがあります。 それは『何をルーティンにするか』ということ。 スケジュールを行うことをルーティン化するのではなく、スケジュールを"確認する"ことをルーティン化します。 時々、スケジュールの順番をルーティン化してしまい、日課の流れに固執してしまっている人を見かけます。 また、スケジュールの場所に行き、スケジュールを処理し、目的の場所に移動するという一連の動作をルーティン化してしまっている人も見かけます。 この場合、自閉症の人たちが得意なルーティン化があまり望ましくない部分に活用されてしまっている、と言えます。 昨日も書きましたように、スケジュールは「やるもの」ではなく、「確認するもの」です。 自閉症の人たちにスケジュールを確認するというルーティンを築いてもらえるようにするには、日課の中に"変化"があることが大切です。 "変化"があることで、スケジュールに注目し、自然と確認する動作が導かれ、反復されます。 反対に言うと、スケジュールがいつもと同じで変わらないのなら、スケジュールに注目しなくなりますし、別の部分でルーティン化してしまう余地が出てきます。 自閉症の人たちは、ルーティン化を好みますので、支援者は先回りし、望ましいルーティン化を導いていけることが大切です。 これはスケジュール以外に関しても同じことが言えます。 スケジュールを確認することをルーティン化することにより、変化があっても、また場所が変わっても、自閉症の人たちが落ち着いて活動が行えることにつながっていく、と私は考えています。

スケジュールをやらないんですけど・・・

「スケジュールをやって」と言うのは間違いで、 「スケジュールを確認して」と言うのが正解! スケジュールは"やることリスト"ではなくて、 スケジュールは予定を視覚的に示したもの。 だから、やるか、やらないか、はまた別の話になる。 時々、スケジュール通りに進まない自閉症の人に対し、スケジュールで示された通りにやらせようと促している支援者を見かける。 スケジュール通りに進まないのは、本人の問題ではないことの方が多いのに・・・。 スケジュールの表示している意味がわからないのかもしれない。 スケジュールの順序性がわからないのかもしれない。 スケジュールに注目できないのかもしれない。 スケジュールのルールがわからないのかもしれない。 スケジュールの意味はわかっているが、その示された活動をしたくないのかもしれない。 スケジュールは、定型発達の使うスケジュールと一緒で、使う人自身の物。 自分で書いたスケジュール帳を他人に覗き込まれて「ちゃんとスケジュール通りやらなきゃね」と言われたら、誰でも不快な気持ちになるだろう。 それは自閉症の人だって同じはず。 だから、スケジュールは支援者が自閉症の人たちをコントロールするための物ではなく、自閉症の人たち自身が見通しを持って過ごせるようにする物、という認識が大切です。 スケジュール通りに活動を進むことができない自閉症の人を見かけたら、まずは「スケジュールを確認して」と声を掛けてみましょう。 スケジュールを確認したあと、活動を進めないのなら、活動自体の見直しが必要かもしれません。 もともと自閉症の人たちは視覚的に理解しやすいものやきちんと決められたルールを真面目に実行する人たちです。 活動自体を本人にとって魅力的なものに変えたり、好きな活動を入れ日課を工夫したりすると、スケジュール通りに活動を進めていくかもしれません。 もし日課自体に問題がないと感じるのなら、それは「スケジュールの形態や提示の仕方、環境を変えて」という本人たちのメッセージです。

本物の見抜き方!?

講演会の最後に行われることの多い「質問コーナー」 現在、自分が関わっている子どものことを尋ねる参加者に対して、「〇〇しなさい」「××はすぐにやめること」などとアドバイスする講演者を見ると、私は頭の中に「?」が浮かんでくる。 「どうして実際に見ていない人の支援について、言い切ることができるのだろう?」 すべての支援は、対象の人を評価することから始まるのに。 その評価が人から聞いた話だけで終えてしまって、正しい支援方法を導くことができるのかな。 逆に、それができたら天才! 自閉症の人は、環境に大きく影響されるし、過去の記憶が消せないという特性もあるよね。 自閉症の人の行動の背景には、その他多くの要因が影響しているはずなのにね。 「支援がうまくいかなかったときの責任はとってくれないよね?」 もし、アドバイスされた支援が対象の人に合わなかった場合、支援者はどう思うだろう。 「あの先生が言ったアドバイスだから・・・」と言って、合わなかった支援をやり続けるかもしれない。 支援方法以外に問題を見つけようとするかもしれない。 そうなったら、いつまで経っても解決しないんじゃないかな。 「支援者を育てることにつながるのかな?」 講演するような人が一人ひとりのところに行って、実際に支援することは現実的に無理。 だったら、日々の支援に直接携わっている人を育てることが役目になる。 「〇〇しなさい」では、その支援に関してはうまくいくかもしれないが、別の人や事柄に応用することは難しい。 第一、支援者が自分の頭で考える機会を奪うことにならないかな。 支援者が対象の人を直接評価し、そこから何がその人に合っているかを導く過程で、支援者自身が成長していくと私は考える。 私が聞いていて素晴らしいなと感じるアドバイスは、「支援の方向性を具体的に示す」アドバイス。 質問者からの話を聞き、自分の経験や知識から考えられる要因や支援方法を導き出し、具体的に提示していく。 あくまで、どの支援方法を取るかは、実際に支援する人が選択するようにしておく。 そうすれば、支援方法を選択する過程で、対象の人のことを考えることになるし、例え選んだ支援方法が合っていなかったとしても、別の支援方法を考えることにつながっていくと思う。 私はネームバリューよりも、どんなアドバイスを行う

福祉サービスにすべてを任せられますか?

「できないことは、福祉サービスで全部やってもらえば良い」と考えている人も多い。 そのような人は、本人ができないことは全部手伝うし、家庭や学校、福祉サービスでの本人の評価や目標はあまり気にしない。 私もできない部分はサービスを利用し、できる部分と合わせて"自立"と考えている。 しかし、そのできない部分が本当にできないのか、支援者側の影響でできないのか、で大きな違いがあると考えている。 私も自閉症児施設で働いていたとき、「子どもたちが自分でやるよりも、私がやった方が早い」と感じることは多々あった。 しかし、そこで本人たちにやらせず、私のような支援者が手を貸し続けていたら、この子たちはずっと人の手を借りて生きなければならないことになってしまうと感じていた。 だから、一人でできる可能性があることに関しては、たとえ時間がかかったとしても、一人でできるようになることを目指していた。 一人でできることが増えるというのは、本人の内面に自信を与えるだろう。 でも、もっと大切なことは、本人たちの人生の幅が広がっていくことだと思う。 もし、どんな活動を行うにも、人の手を借りなければならないとしたら、それだけ支援者の数が必要になってくる。 もちろん、それに伴うお金も必要になる。 そのお金というのは、本人だけでなく、社会が担うお金も含まれる。 人とお金が十分にあるなら、本人の人生の幅に大きな影響は与えないと思う。 しかし、不十分だとしたら・・・。 外出できる機会が減るかもしれない。 病院に行ける機会が減るかもしれない。 身の回りのことをするのにも、十分な手助けが受けられないかもしれない。 そうなると、本人の人生の幅は狭いものになっていく。 今後、障害を持った人が増えていくスピードと福祉サービスの充実のスピードを比べると、どうなるだろうか? 少ない福祉サービスをみんなで取り合う、なんてことが起こらないとも言いきれない。 確かに家の中にいる分には、困ることはないかもしれない。 確かに支援者がやった方が早くて正確かもしれない。 でも、できることが増えれば、それだけ人の手助けが必要なくなり、部分的な支援でいろいろな機会が選択できることになる。 今の生活は、将来の生活につながっている。 「できないことは、全部福祉サービスで」

欲しかった福祉サービス、既にあった福祉サービス

学生時代に学んだ発達心理学。 子どもがどのように運動、言語、遊び、認知などの面で成長していくのか。 文字や言葉で一通り学んでいたというものの、実際に息子が生まれ、子育てをしていく中で、やっと真の学びになったような気がしています。 「私たち親が子どもを育てていると同時に、子どもが私たちを親に育てている」 子どもを抱き上げた瞬間に親になるのではなく、徐々に親になっていくのだと、日々の子育ての中で実感しています。 私は仕事を通して、子どもの年代が異なる保護者の方たちと、幅広くお話しさせていただいております。 その中で、世代間で保護者の方たちの考え方や様子が異なっていることに気が付きます。 単純に表現すると、子どもの年齢が高い保護者の方ほど、自分で子どもの支援を考え、実践している傾向があります。 反対に、子どもの年齢が低い保護者の方ほど、自閉症や療育に関する知識は豊富なのですが、自分で何か作ったり、実践したりすることが少ない傾向がある、と感じています。 その背景には、私も含め、今の若い親の世代に余裕がないことがあると思います。 しかし、私が考える一番の要因は、地域の福祉サービスの量が関係している、ということです。 函館もここ10年くらいで、やっと障害を持った子どもたちが放課後や休日など利用できる場所が増えてきました。 それ以前ですと、学生や学校の先生たちが行うボランティアが中心でした。 この地域で10年以上前に子育てを行っていた世代の保護者の方たちは、福祉サービスを利用したくても、ほとんど選択肢はなく、そのため、学校以外の生活の大半は保護者の方たちが子どもたちと過ごしていました。 そのため、苦労は多かったと思いますが、子どもと向き合う時間が長かった分、子どものことをよく知ることができ、保護者の方自身で支援の道具を作ったり、いろいろなことを家庭でも教えたりしていました。 実際に、今の高等部より上の世代の保護者の方たちとお話しすると、子どもが小さいときから、いろいろなことに取り組んできた様子がわかり、また子どもさん自身のことをよく理解されていると感じます。 子どもの年齢が低い世代の保護者の方たちは、初めから地域に利用できる福祉サービスがあります。 それは10年以上前、障害を持った子どもを家庭で抱え込まざるを得なかったお母さんたちからすると

"拒否"も教えよう

近頃、息子は明確に"拒否"を表現するようになりました。 食べたくないもの、やりたくないことに対し、顔を背けたり、バイバイと手を振ったり、「ナイ」と言ったりします。 以前ですと、不明瞭な言葉を発するか、泣き出すか、そのままなされるがままの息子。 今振り返ると、親の私たちは息子の意思にそぐわないことをたくさんしていたのだと思い、反省しています。 時々、拒否の連続で大変なこともありますが(笑)、以前よりもお互いのコミュニケーションがスムーズになれたので、今の方が良かったと思っています。 時々、自閉症の人たちに"拒否"の表現を積極的に教えようとしない支援者を見かけます。 確かに私の息子のように、明確に拒否が表現できるようになると、「あれもヤダ、これもヤダ」というように、支援者側がやってほしいことも拒否されてしまうということがあります。 しかし、明確で、相手に伝わる"拒否"の表現手段を手に入れなかったとしたら、どうなるでしょうか? きっと以前の息子のように、不明瞭な言葉を発し続けるか、泣き出すか、そのままなされるがままになるでしょう。 想像するだけでも、拒否が伝わらないストレス、やりたくないことをやらされるストレスの大きさがわかります。 私が支援してきた強度行動障害を持つ人たちも、うまく要求や拒否が相手に伝えられないと、自傷行為が出たり、激しく泣き出したりする、といった方もいました。 その方たちに適切な表現の仕方を教え、自分の気持ちが相手に伝わる経験を積み重ねていくように導いていくと、自傷行為などが減った方も多くいました。 私は彼らから、自分の気持ちが相手に伝わらない辛さがどれほど大きいものか、教わったように思います。 また、自分の気持ちが「相手に伝わった」という喜びの経験を積み重ねていくことが、コミュニケーションが苦手な自閉症の人たちにとっても、大きな意義を持つことも教わりました。 いくら"拒否"の表現を教えなかったとしても、本人たちの内面にある"拒否"の気持ちまではなくなりません。 明確で適切な"拒否"ができないなら、彼らは自分なりの拒否の仕方で表現するだけです。 ですから、相手に伝わる拒否の仕方、適切な手段の拒否の

専門機関と家庭の間に橋を架ける仕事

「スタッフが療育を家庭に行って行う場合と、施設に来てもらって行う場合と、それぞれの利点を教えてください」 「家庭に出向いて療育を行う場合は、より自然な環境で、より子どもがリラックスできる環境で療育ができるという利点があります」 「施設に来てもらって療育を行う場合は、保護者が他の保護者や子どもと会えるという利点があります」 ノースカロライナ大学で行われた「早期療育」をテーマにした講義の中で、私が質問したこととその答えでした。 私が「てらっこ塾」を出張で行うことには理由があります。 その一番の理由は、自閉症の特性でもある"般化の苦手さ"について思うところがあるからです。 私が施設で働いていたとき、「寮(学校)では落ち着いていたり、いろいろできたりするみたいだけど、家だとね~」と言うお話をよく耳にしていました。 実際、アドバイスや使用している手だて等をお渡しすることもありましたが、家庭に帰って同じようにできることはほとんどありませんでした。 それはそうです。 寮や学校で行っている様子を教えたり、同じ手だてを使ったりすれば、同じようにうまくいくということはありません。 うまくいった同じ方法と同じ手だてに、"教える"という行動をプラスする必要があります。 ある場所で教えて、できるようになったことは、今度は場所を変えて教えることで、その場所でもできるようになります。 私は施設に働いていたとき、場所が変わったときの教育の大切さと、保護者の方たちが求めていることは家でできるようになったり、落ち着いて過ごせるようになったりすることであると気が付きました。 函館を見渡すと、素晴らしい先生や専門家のみなさんがいます。 しかし、それぞれの組織の機能として、実際に家庭まで出向いて療育を行うことが難しいのでは、と感じています。 せっかく学校や専門機関などで療育を行ったとしても、それを家庭に仲介する役割を担うところが少ないと以前から思っていました。 それも自閉症の人たちにとって重要な支援の一つであるのに・・・。 ですから、その専門的な療育を仲介する機能が函館に必要だと考え、出張の自閉症療育を行う機関として「てらっこ塾」を立ち上げるに至りました。 「家に来られるのはちょっと・・・」と思う保護者の方たちも多くいらっしゃ

100号記念③「函館で私が売っているものは『自閉症療育』です」

<函館の地域性> 函館市、北斗市、七飯町のいろいろな公共施設に、『てらっこ塾』のポスター、パンフレットを置かせていただいています。 いずれの場所でも、短い期間でパンフレットがなくなるため、補充に回っています。 置かせていただいたパンフレットの枚数と無くなるスピードを考えると、『てらっこ塾』を利用する人数の伸びに比例していないように感じます。 8月に載った北海道新聞の記事を見た、という反響も多くいただきました。 『てらっこ塾』のホームページも、多くの人に訪れていただいています。 半年間、営業活動をしていて、それぞれの地域には、それぞれの地域性があることを感じます。 私の出身地である福岡県では、新しいお店やサービスが始まると、すぐに利用者が増えます。 福岡県の人は、好奇心が強い人が多く、自分の意思をはっきり持っている人が多いです。 そのため、新しいお店やサービスが始まると、すぐに飛びつき、自分で確かめようとします。 お店の方としたら、すぐにお客さんが集まるので良いように思えますが、福岡の人は"飽きっぽい"ところもあります。 ですから、開店早々お客さんが集まるものの、すぐに閑古鳥が鳴く、ということも珍しくありません。 私が子どものころ、住んでいた東京ではまた別の地域性があります。 東京には、お店や物が溢れています。 たくさんお店や物があるので、ほとんど差がない状況です。 では、どんなお店が流行るかというと、"行列"ができている店です。 お店や物が溢れた東京では、個人でものの良しあしを判断することが困難です。 ですから、"行列"のできているという事実が個人の判断に影響を及ぼします。 「味は変えていないが、テレビに出たら行列ができた」なんて話もよく聞きます。 東京でよく目にする近くに空いているお店があるのに、わざわざ行列のできているお店に並ぶ人たちの姿は、こういった地域性があります。 地方から東京に出てきた人が、行列に敢えて並ぼうとする東京の人たちの行動に驚くのも無理がありません。 話が逸れてしまいましたが、函館の地域性です。 上に書いたように、『てらっこ塾』に興味はあるのですが、なかなか利用するところまでいきません。 興味はあっても、利用するには誰か背中を押してく

100号記念②「成人期は独りぼっち」

<成人期の苦労> 成人期のお子さんを持つ保護者の方たちに共通しているのは、みなさん"孤独感"をお持ちだということです。 「学校を卒業したら、相談する人がいない」 「相談する人がいても、実際に支援してくれる人はいなくて、困ったことがあっても、すべて家族が対応しなければならない」 「学校を卒業したら、保護者同士の付き合いも減った」 「私の身体に何かあったら・・・」 など、保護者の方たちの話から私は"孤独感"を感じます。 中には、「早く学校を卒業したいと思っていましたが、実際に学校を卒業してしまうと、まだ学校に通っていたときの方が幸せだった」とおっしゃっていた方もいました。 成人になったからと言って、支援が必要なくなるわけではありません。 自閉症支援は、一生涯必要な物であり、続いていくものです。 学校の方でも、「卒業後でも相談してください。サポートします」という姿勢を見せてくれるところが増えましたが、保護者の方からすると、「実際は頼みづらい」と言います。 卒業後、福祉施設を利用できている方でも、「利用させてもらっているだけでありがたいのに、施設以外のことは相談しづらい・・・」と言います。 また「支援者同士の意思の疎通がうまくいかない」という話もよく聞きます。 学校と福祉施設。 福祉施設と保護者。 成人期では、支援の中心が「教育」から「福祉」へと変わりますが、その「福祉」の方の現状は、学校のように物質的にも、心理的にも、余裕がない状態ですので、なかなかコミュニケーションがうまくとれません。 「支援者同士の意思の疎通がうまくいかない」という点は、教育と福祉のさまざまなギャップに原因があるのだと思います。 最近、30歳を過ぎた息子の不祥事を有名人の父親が謝罪している様子が報道されていました。 海外ではあり得ない光景だということです。 成人期のお子さんを持つ保護者の方たちの"孤独感"は、「子どものことは親が責任を持つ」といった日本独特の文化に起因しているのでは、と感じます。 成人期の支援については、本人たちへのサポートはもちろんのこと、保護者の方たちに対してのサポートについても早急に構築していく必要があると感じています。

100号記念①「先輩ママと若いママ」

『てらっこ塾』を立ち上げて、半年。 なかなかうまくいかないことが多く、試行錯誤の毎日でした。 どちらかというと、大変なことが多かった日々でしたが、濃密な時間であり、多くのことを学ばせてもらったと感じています。 「地域に新しい自閉症の人たちのためのサービスを作り上げていく」という今までとは別の角度から、自閉症支援を見ることができたと思います。 そこで、半年が経って、私が感じたこと、気が付いたことを今回、紹介させていただきたいと思います。 <子どもの年齢による違い> 一言で言うと、子どもの年齢や学年が上がることと比例して、保護者の方たちの危機感が高くなっていると感じます。 小学生くらいの子どもを持つ保護者の方は、本人が学校に通えていることや学校で楽しそうに過ごしていることに満足している場合が多いと感じます。 卒業までまだ年数がありますので、卒業後の子どもの姿を想像することが難しく、また次々新しいことを覚え、成長している過程ですので、そこまで将来のことを考えたり、危機感を持たれていなかったりするのも当然だと思います。 しかし、子どもが中学生くらいになると、急に将来の不安や危機感を持たれる保護者の方が増えます。 それは「学校生活も残り半分を過ぎた」という事実に直面するからだと思います。 思春期になり、子どもが心身ともに落ち着かなくなり、身体が小さかったときは、親がコントロールできた行動も、それが難しくなること。 そして、小学生くらいまではあまり言われてこなかった子どものマイナスな面を耳にするようになることも影響していると思います。 やはり将来の進路が近くなってくると、学校の方でも現実的な話をしなくてはならなくなります。 ですから、積極的には触れてこなかった部分についても、目や耳にする機会が増えてきます。 これが高校生くらいになると、さらに危機感が増してきます。 一日、一日、卒業が近づいてきます。 学校でも現実的な話ばかりになります。 卒業後は今までのように学校が何でもやってくれて、守ってくれるわけではありません。 この事実に直面したとき、保護者の方は二手に分かれます。 「残り少ないから、今のうちに1つでもできることを増やそう」と思う人と、諦めてしまう人です。 (また意外にも、「卒業後は福祉施設に入れる」と思っている人も少なから

手が抜けないことが悩みです

"手を抜けないこと"が悩み、とお話をいただくことがあります。 何事も真面目に捉えてしまうため、何気ない会話にも全力で応え、勉強や仕事などすべてに全力投球してしまう。 「悩みというより、良いことじゃない!」「うちの子と比べてうらやましい」などと感じてしまいそうですが、実際は困ったことがあります。 想像してみてください。 もし、朝起きてから夜寝るまでのすべての出来事に全力を使っていたら、頭も体も疲れてしまって仕方がありません。 朝起きて、歯を磨くのも全力。 ご飯を食べるのも全力。 ご飯中の何気ない会話にも全力。 登校、出勤の道のりも全力・・・。 このような力の使い方をしていると、学校や職場に着いた頃には、もうヘトヘトです。 自閉症の人たちは、やらなくてはいけないことは真面目に取り組みますので、学校や職場でも一生懸命勉強をしたり、働いたりします。 そして、一日が終わって帰宅すると、とてつもない心身の疲労が・・・。 「何事にも一生懸命全力で取り組むことは良いことだ」という意見もあります。 しかし、それでは学校も仕事も日々の生活自体も続けていくことができません。 また、当面何とか日々の生活を続けることができても、いつかその"無理"が形を変えて表れてきます。 私たちは力の加減ができるから、日々の生活を安定して送ることができます。 仕事や家事も、集中してやるところと手を抜くところがあるから、続けていくことができるのです。 自閉症の人たちの目から見ると、「定型発達の人たちは"手を抜く能力"を持っている」と言えると思います。 では、上手に"手が抜けない"自閉症の人たちはどうすれば良いのでしょうか? それは、意図的に「休息」を日課の中に入れることだと思います。 日々の生活の中に、学校や仕事で過ごす時間に「休息」を入れます。 「休息」は、個人に合った内容と環境の上に成り立ちます。 自分で日課の管理ができない自閉症の人に対しても、支援者が「休息」を意識して日課の中に入れることが大切だと思います。 自閉症の人たちが何事にも"手を抜かないこと"は、私たちが見習うべき素晴らしい能力だと思います。 "手を抜けないこと"自体

「問題行動は、事前に対応」って知ってますけど・・・

「問題行動は、起こる前に対応することが大切」とよく言われますし、私もそのように教わりました。 実際、いろいろな自閉症の人たちの支援に携わってみて感じることは、「問題行動が起きてから、その行動を減らすことは難しい」ということです。 やはり問題行動は、事前に手を打っておくことが一番だと私も実感しています。 しかし、その一方で「問題行動につながる行動を予想し、未然に対応することも難しい」ということも感じます。 "問題につながる行動"を完全に防ごうと思ったら、あれもこれも行動の制限を加えることになります。 「将来、少しでも問題行動につながる可能性があるものの芽を摘んでおこう」と思ったら、極端なことを言えば、「何もさせない」という結論に近づいていきます。 でも、本人の生活の質や将来を考えたら、いろいろな経験や学びをさせたいし、可能性を信じ、挑戦もさせてあげたいと思うことは、自然なことだと思います。 また、いくら気をつけていたとしても、成長の過程の中で、いろいろな人と関わることになるし、それぞれの環境の中で刺激を受けることになります。 そして、どうしてかはわかりませんが、覚えてほしくない行動に限って、よく覚えてしまいます(笑) このように、問題行動につながる行動を完全に防ぐことは難しいと思います。 理想は置いといて、現実としてはみなさん"起きてしまった問題行動"に対して、「どのように対応していったら良いか」について一番知りたいのではないでしょうか?? 成長する過程の中で、「まったく問題がありません」「心配なこともありません」と言える家族や支援者はほとんどいないと思います。 自閉症の人たちは、定型発達の人とは脳の違いがありますので、刺激の受け取り方も、物事の捉え方も、感覚や運動機能にも、定型発達の人とは異なる困難さがあります。 ですから、成長の過程で、定型発達の人が多数派なこの世界の中で、自閉症の人に問題となる行動が表れることは自然なことだと思います。 だったら「問題行動が出たときに、どのように解決、改善を目指していくか」について答えられたり、一緒に対応できる専門家が必要なのではないでしょうか? 現代の自閉症の子どもを持つ保護者の人たちは、そこら辺の支援者より、専門的な知識と情熱を持っていると感じるこ

どうして片づけられないのだろう?

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自閉症の人たちのイメージだと、「物の位置や向き、置く場所にこだわりがあり、きちっと整理、整頓している」姿を思い浮かべる人も多いと思います。 でも、そのような自閉症の人たちがたくさんいる一方で、「片づけることが苦手」という人たちも多くいます。 そのような"片づけられない"ことの背景には、どのようなことが考えられるのでしょうか? ①「何から片づけるの?」  自閉症の特性として、複数ある情報を捉えたあと、その複数の情報を頭の中でうまく整理して、処理することが苦手です。もっと具体的に言うと、優先順位をつけたり、「まずこれから片づけて、次にこれを片づける」というように計画を立て、実行したりすることが苦手です。ですから、片づけるものが複数あると、情報の多さの方に圧倒されてしまい、どこから手を付けていいか、どうやって進めていくか、分からなくなってしまいます。このような人の場合、一気に片づけるのではなく、片づける場所や物を限定したりすると、片づけられることがあります。 ②「どこを片づけたらいいの?」  扉などがあり、部屋と部屋の境界線が完全に分かれていると、片づける範囲がわかるのですが、境界線のない空間では、「どこを片づけるのか」「どこまで片づけたらいいのか」がわからないことがあります。片づける範囲がわからないと、動くことができません。また、①の理由のように、範囲が決まっていないと、複数の情報に圧倒されてしまいます。片づける空間を本人が見てわかるような方法で伝えると、情報が限定され、片づけられるかもしれません。 ③「どこに片づけたらいいの?」  片づける場所が明確に決まっていますか?②の理由のように、「だいたいこの辺」では自閉症の人たちは理解できません。片づける場所の自由があるよりも、「これは、この場所に置く」というように限定した方が、自閉症の人たちの好みに合っていると思います。「本はこの本棚に」で片づけられる人もいますし、中には「この本は本棚の2段目に置く」というようにより限定された方が良い人もいます。また、片づける場所に「本」や「ミニカー」、「お絵かきセット」などを文字や絵で示し、具体的に伝える方法がわかりやすい、という人もいます。ちなみに玩具などを1つの箱の中にぐちゃっと入っているような無秩序な状態を気持ち悪く感じる自閉症の人もいます

カリキュラムも、時間割も、教室も、すべて取っ払って!

カリキュラムが先に決まっているのではなく、すべては個人から始まる学びの場が作れないだろうか? 何を学ぶかは、本人が決める。 もし、本人が決められないのなら、保護者の希望から始めればいい。 学ぶ時間だって、本人が決める。 みんなが一斉に朝から学ばなくても良い。 朝から学んだ方が身につきやすいなら、そうすればいいし、午後から学んだ方がよく覚えられるなら午後からでも良い。 集中力だって一人ひとり違うはず。 5分しか集中力が持たないなら、5分単位での学びを繰り返せばいい。 2時間でも、3時間でも学び続けられるなら、とことん学ばせてあげたい。 5分しか集中できない人を45分学び続けさせることも、何時間でも学びたい人を45分で切り上げさせることも、本人にとっては同じくらい辛いことだと思う。 だったら、みんな同じな時間割を無くせないだろうか? 本人たちが自分だけの時間割を作っていけばいい。 教える人間も決まっていなくてもいい。 地域を見渡せば、その道に通じた人がいるだろう。 本人が学びたいことは、その道の専門家から教わればいい。 ただ、自閉症の人とその専門家が直接つながるには難しい部分もあるため、その間に立つ"自閉症"に関する専門家は必要。 カリキュラムも、時間割も、教室も、すべて取っ払って、本人が『今』、そして『未来』に必要なことをとことん学べる場を作っていきたい! これが私の目標だし、自閉症の人たちの学び方に合っていると思っている。 「てらっこ塾」はそのための1歩だぁ~!!

自閉症の人特有の注意の向け方

この文章を読んでいるあなたの周りには、いろいろな刺激があると思います。 窓の外から聞こえてくる車の音。 太陽や照明の光。 パソコンや携帯を触る指の感触。 食事や香水のにおいもするかもしれません。 でも、あなたはそれらの刺激に注意を奪われることなく、この文字を読むことができます。 でも、自閉症の人の中には、周りの刺激に注意を奪われて、この文字を読むことになかなか集中できない人もいます。 定型発達の人と自閉症の人では、「注意の向け方が異なっている」と言われています。 私たちは注目するものを自分自身で決めています。 例えば、誰かと会話しているとき、周囲がどんなに騒々しくても、相手の話を聞くことができます。 そのとき、周囲の声や音は耳に入っているはずなのに聞こえません。 これは自分自身で注意を向けるものを決め、優先して刺激を受け取ることができるからです。 一方、自閉症の人は注目するものを自分自身で決めることができないことがあります。 上の例と同じように、誰かと会話をしているとき、隣から会話が聞こえてくれば、そちらの方に注意が向き、また、食べ物の匂いがしたら、そちらの方に注意が向いてしまいます。 このように、自閉症の人は自分自身で注意を向けるものを決めることが難しく、周りから入ってくる刺激に次々と受け取ってしまいます。 何に注意を向けるかを定型発達の人が"内面"で決めているのに対し、自閉症の人は"外部"が決めてしまうことがあります。 私たちは周囲の刺激を取捨選択し、優先順位をつけて受け取っています。 でも、自閉症の人たちは、すべての刺激を全部同じ順位として受け取ってしまうのです。 本当は相手の話に注目したいのに、周りの話し声や蛍光灯の光にも次々と注目してしまうのです。 それが本人の意思とは関係なく。 こういった特性からも、自閉症の人たちの生きづらさを感じます。 このような自閉症の人たち特有の捉え方をイメージできることと、本人の代わりに私たちが不要な刺激を制御することが大切だと考えています。

"見た目"って大切じゃない??

男性は坊主頭で、女性はショートカット 短い髪の方が頭を洗いやすいし、清潔にも保ちやすい 自閉症の人の中には、髪を切られる感覚が苦手な人もいる 自閉症の人の中には、「他人からどう見られているか」に気づくことが苦手な人もいる 支援者も支援しやすいし、本人もあまり気にしないなら、どんな髪型でもいいのかな 成人の自閉症の人たちは、実年齢よりも年齢が高く見えることがある そのような人たちは、同じくらいの年齢の人たちが行っているケアをしていないことが多い 女性ならスキンケアが重要だし、化粧をしない分、紫外線を直に受けてしまう肌 男性も頭皮や顔の脂をしっかり取る必要があるし、運動しなければすぐに大きくなるお腹周り 同年代の人たちが行っているケアをしていなければ、実年齢よりも年齢が高く見られてしまうことは仕方がないよね "見た目"って、本人や支援者からしたら優先順位が低いことかもしれない でも、その他の人からしたら、"印象"って大事じゃないかな 多くの人たちは、自分の印象を気にするし、よく見られたいと思っているよね だったら、自閉症の人たちも同じじゃないかな 自閉症の人たちが他者の視点に気づくことが苦手なら、"見た目"や"印象"の大切さや良い保ち方も伝えていく必要があるんじゃないかな

使わない構造化はゴミ箱へ!?

「構造化された支援がなくても、できているからいらないじゃないか」と言う人がいます。 最初は必要だった手順書を見なくても、行動ができるようになったり、コミュニケーションカードを用いなくても、自分の意思が伝えられたりすることはよく見られることです。 確かに、この人たちは構造化された支援を使っていません。 ですが、だからといって「もう必要がない」「ゴミ箱へ」ということにはなりません。 自閉症の人たちは、定型発達の私たち以上に心身の影響を受けやすい、と言えます。 心身ともに安定しているときは、問題なく行えていることも、心身の状態が悪くなると、行うのに時間がかかったり、中にはまったくできなくなったりすることもあります。 気分が落ち込んでいたり、気になることがあったり、身体が疲れたりしていると、判断や理解に時間がかかったり、身体を動かすこと自体がスムーズにできなくなったりすることがあります。 そんなとき、構造化された支援が本人の判断、理解、行動を助けます。 構造化された支援は、情報をわかりやすく示してくれるので、本人が行う判断と理解の量を減らし、身体を動かすことに集中ができます。 また、その行動自体もわかりやすいので、判断力や理解力の低下によって導かれた不安な気持ちを打消し、自信を持って行動することができます。 私が準備した手順書をいつもは見ないのですが、疲れたときなど、体調がすぐれなくなると、手順書を1つ1つ確認しながら行う方がいます。 いつもだったら簡単にできることでも、心身の状態が整わないと、いつもの力を発揮できないことがその様子から伺えます。 そんなときのために、構造化された支援がバックアップ機能として必要となるのです。 「自閉症の人たちは、調子が悪くなったとき、五感の中で最後まで機能が残るのは"視覚"である」と言われています。 見て分かる形で情報を整理し、提示する方法は、自閉症の人たちが調子が良いときも、悪いときも助けてくれる方法です。 「いつもできているから」ではなく、「調子が悪いときのために」という考え方も大切ですね。

健康の比重は?

「病気しないで、いつまでも健康な人生を送りたい」と多くの人は願う。 でも、お酒を飲みすぎてしまうこともあるし、夜遅くにご飯を食べることもある。 ついつい食べてしまう甘いものに、止めようと思ってもなかなか止められないタバコ。 朝までカラオケで盛り上がり、3日と続かない運動に、ダイエット。 人は誰しも健康的な生活を望んでいるはずなのに、それとは真逆な生活をすることも多い。 いつまでも健康な生活を送りたいのなら、規則正しい生活をし、食事も質素なものに。 運動も毎日続け、嗜好品とは決別すれば良い。 でも、こんな生活を一生送りたいと考えている人は少ないだろう。 みんな健康は得たいが、「健康を得ることが人生の目的ではない」と思う。 日本の障害者福祉の世界は、「"健康"に比重をかけすぎているのではないか」と思うことがある。 365日、規則正しい生活に、食事や嗜好品の徹底した管理。 確かに、利用してくれる人たちの健康は大事だし、このご時世、何かあったらすぐに責任が問われ、大問題へとつながりかねない。 しかし、利用者の目を通して、日々の生活を見ることも大切ではないだろうか。 自分だったら、このような毎日を過ごしていきたいのか・・・。 私だったら、いくら健康で長生きできたとしても、制限が多い毎日を過ごしたいとは思わない。 それだったら、寿命は短くなっても、嗜好品を楽しみたい。 障害を持った人たちは、自分で健康を管理することが苦手な人も多く、サポートが必要な部分だと思う。 でも、"健康"は豊かな人生を送られるための要素の1つではないか。 人生をトータルで考え、様々な要素のバランスを取ることが、個人の豊かな人生へとつながっていくと私は考えている。

自閉症と恋愛、結婚

私は、自閉症の人たちもどんどん恋愛すれば良いし、希望する人は結婚したら良い、と思っています。 人を好きになる気持ちは自然な感情だと思いますし、その人と一緒に人生を歩みたいと思うことも自然な流れだと思います。 しかし、日本特有の文化なのかもしれません。 あまり恋愛や結婚について積極的に教えようとはしませんし、その話題に触れることも憚られる、といった雰囲気があります。 私も恋愛や結婚について、「本人が希望しているなら、自閉症の人たちもどんどんすれば良い」なんて発言すると、相手は驚いた反応をすることがよくあります。 私は何もすべての自閉症の人たちが恋愛や結婚をすれば良い、と言っているのではありません。 本人たちが持つ自然な感情を周りが抑えるのではなく、応援できるような環境を作りたい、と私は考えています。 自閉症の人たちの恋愛や結婚に対し、積極的ではない意見を持つ人の気持ちもわかります。 確かに恋愛や結婚をしたからと言って、それを継続することは難しく、結婚に関して言えば、お互いに責任が出てきますし、生活を送っていくには様々な手続き、契約、管理等、いろいろと行わなければならないことがあります。 また、一方的に気持ちを向けてしまうことや性に関するトラブルなど、心配なことも出てきます。 しかし、私はどちらの点も支援によって乗り越えられるのではないか、と考えています。 結婚生活をすべて2人だけの力で成り立たせることは難しいかもしれません。 だったら、手助けが必要な部分はサービスを受ければ良い、と思います。 「結婚=完全な自立」といったイメージがあり、他人が結婚生活を手助けすることは、「そもそも結婚自体が無理だった」という考えも出てくるかもしれません。 しかし、「サービスを受ければ、2人の望む生活ができる」という考え方もできるのではないでしょうか。 一方的な恋愛感情や性のトラブルは、自閉症の特性の部分や誤学習、未学習が関係している、と思います。 一方的な恋愛感情の根本は、自閉症の特性でもある社会性の違いの部分です。 相手の気持ちを読み取ることが苦手だったり、コミュニケーションがうまくとれなかったり。 また、性のトラブルはテレビやインターネットなどの情報を、それが例え歪んだ知識や情報であったとしても、「これが正しいんだ」と誤学習してしまったり

長所を伸ばすか?短所を無くすか?

どちらの方向性が良いのか、人によって意見が割れる。 ある人は、「長所を伸ばすことによって、短所が目立たなくなる」と言い、またある人は、「短所が大きいと、長所まで消してしまう」と言う。 人付き合いが苦手で、身の回りのことがまったくできないが、一つ人より優れた才能を持っているだけで、周囲から称賛される人がいる。 反対に、重大な短所があるばっかりに、表に出られず、才能まで否定される人もいる。 どちらの方向性が良いとは言い切れず、そのバランスが重要なのかもしれない。 しかし、自閉症の人たちの支援については、「長所を伸ばす」方が望ましい、と私は考えている。 その理由は2つある。 1つ目の理由は、自閉症の人たちの捉え方の違いがあることだ。 例えば、服のチャックがうまく閉められない人がいるとする。 そんな場合、服のチャックが閉められるようになるため、親や教師から指摘されたり、練習させられたりすることがある。 定型発達の人なら、「服のチャックが閉められることは必要なことなんだ」「お母さんは、私にチャックが閉められるようになってほしいと願っているんだ」というように、指摘や練習の背景にある意図を読み取ることができる。 しかし、自閉症の人たちの場合、定型発達の人とは違う捉え方をする場合がある。 自閉症の人たちの中には、相手の視点を想像することが苦手な人が多くいる。 そのような人たちは、なぜ指摘や練習がさせられるのか、意図をうまく捉えることができない。 そうなると、「自分が苦手としていることをただやらさせられている」と感じてしまう。 実際に、「この人は、自分をいじめているんだ」と捉えてしまった自閉症の人もいる。 自閉症の人たちは、定型発達の人とは違う捉え方をするので、短所ばかり注目する支援はあまり望ましいとは言えず、短所を無くすような支援を行う場合でも配慮が必要である。 2つ目の理由は、苦手な理由が自閉症の特性に関連したものがあることだ。 なぜ、それが苦手なのか、その理由はいろいろある。 ただやりたくないのか、苦手意識があるのか、教わったことがないのか・・・。 このような理由なら、努力してできるようになるかもしれない。 しかし、その苦手さが自閉症の特性からきているなら、努力だけでは乗り越えられない。 上で挙げた「服のチャック」の例なら、身体

家でできる将来の生活の疑似体験

将来、自分でアパートを借りたり、グループホーム、入所施設などの利用を考えている人たちに提案です。 それは「家で疑似体験をしてみる」ということです。 例えば、自分の部屋を間借りした一室だとします。 その部屋の中に、一人分の衣類が干せる洗濯物ポールを置いたり、テレビ、冷蔵庫、掃除機、衣類一式などを置いたりします。 つまり一通りの生活ができるものを部屋に準備します。 そして、その環境の中で、どのくらい一人で生活できるかを体験してみます。 体験することによって、将来の生活の中で必要なスキルはどのくらい獲得できているか、を確認することができます。 また、現状を確認することによって、どのスキルを今後教えていったらよいのか、どのようなスキルは手助けが必要なのか、についても確認することができます。 本人たちにとっても良い点があります。 自閉症の人の中には、変化に対応することが苦手な人が多くいます。 疑似体験をしておくことで変化が少なくなり、まったく何もしていなかった場合よりも、将来、生活環境が変わったときに本人の負担を減らし、スムーズに移行することができる可能性が高くなります。 これは将来の変化への準備です。 そして、完全な自立した生活とは言えないまでも、予め似たような状況で練習をすることにもなるので、練習したことをそのまま新しい場所でも行える可能性が高くなります。 疑似体験は生活に必要なスキルだけではなく、自閉症の人たちに様々なことを教える上で有効な方法になります。 例えば、買い物の仕方を学習するとします。 そのとき、身近にあるものでお店をつくり、支援者が定員の役をし、本人がそこで買い物の練習をします。 いわゆる実物大のお店屋さんごっこをするようなものです。 このような教え方が有効な理由は、上記で挙げたことと同じです。 いきなり実際のお店に行くと、環境の変化が大きく、本人にとって負担が多くなりますので、その変化を少なくする効果があります。 また、机上で学んだことを実際の場面に応用することは苦手なので、実際に近い環境で学ぶことの方が学んだことをそのまま生かせるので、学習の効果が高くなります。 このように疑似体験をすることは、本人の様子を確認することができ、また、自閉症の人たちの学び方に合っていますのでお勧めできます。 もし部屋がなく

言葉を理解しているか、確認する方法

昨日のブログと関連して、「言葉を理解している」と判断するには、1つ注意しなければならないことがあります。 それは言葉を聞いて「その意味を理解しているのか」と「パターンで動いていないか」を見極めることです。 自閉症の人たちは、物事の意味を理解するよりも、パターンで行動を覚える方が得意です。 過去の記憶から、「同じ状況で、声を掛けられ、このような行動をした」ということを1つのパターンとして覚えていて、それを再現しているといった場合もあります。 例えば、食事の前に手を洗うように言ったとします。 「手を洗って」と言ったら、洗面所に行って手を洗うので、言葉を理解しているように見えます。 しかし、本人の視点で物事を捉えると、「テーブルの上に食事が用意される」→「お母さんが声を掛ける」→「手を洗う」→「ご飯が食べられる」という一連の流れを1つのパターンとして記憶している場合があります。 この場合、言葉を理解していなくても、適切な行動を過去の記憶から導き出すことができます。 では、言葉を理解しているかどうかを見極めるには、どのようにすれば良いのでしょうか? それは、いつもとパターンを変えてみることでわかります。 例えば、状況を変えてみます。 いつもは食事の前に「手を洗って」と言っていたのを「食事の後」や「寝る前」など、別の状況で行ってみます。 もし本当に言葉の意味を理解しているのなら、どのような状況でも適切な行動ができるはずです。 また、いつもはお母さんが言う言葉をお父さんが言ってみる、お祖父さんや兄弟など、いつもと人を変えて言ってみるといったことも有効です。 そして、場所を変えて、同じ言葉を言ってみるのも良いと思います。 ここでは言葉の理解を確かめる方法を書きました。 反対に、言葉の理解を伸ばす場合は、自閉症の人たちが得意な「パターンで覚える」ことを活かし、1つのパターンで覚えた言葉を他の状況や人でも理解できるように練習し、少しずつパターンに幅を持たせることで、言葉の理解を確かなものにしていくといった方法があります。

言葉を"話す"ことと"理解する"ことは別

昨日まで言えなかったことが、朝起きると、はっきり言えるようになっている。 こんな息子の様子をこの頃、よく見ることができます。 「あ~」とか、「ば~」とかしか言っていなくても、物事の名前や大人が言っていることが分かっていたのだ、と知ることができます。 自閉症の人の中には、言葉で話すことが苦手な人が多くいます。 しかし、彼らがはっきり言えないからといって、言葉を理解していないか、といったらそうとも言えません。 私がアメリカの専門家たちから教えてもらったことに、「言葉を"話す"ことと"理解する"ことを別々に捉えなければならない」ということがあります。 一見、言葉が話せないと、言葉の理解もしていないのでは、と思ってしまいがちです。 しかし、話すことと理解することは別の能力だと言えます。 ですから、「話すことはこれくらいできる」「理解することはこれくらいできる」といったように、別々に確認することが大切です。 目標もそれぞれのレベルに合わせて、計画していく必要があります。 言葉を話すことが苦手だからといって、「こちらから言葉で話しかけることはやめよう」と思う必要はありません。 言葉でうまく話せなくても、私たちの言葉をちゃんと理解している可能性があります。 言葉で話すことと理解することとを分けて考えることによって、自閉症の人たちの可能性に気が付くことがあるかもしれません。

メガネ論争の終焉

「社会に出たら、構造化された支援なんてないのだから、このような支援は外していく」と言う人がいる。 それに対し、「構造化された支援は、目が悪い人にとってもメガネのようなもの。だから、外して生活しろ、というのはおかしい」と反論する人がいる。 このような主張の違いは、私が学生だったときから存在していた。 10年経った今でも、同じような主張が繰り返されている。 では、私はどのように考えているかというと、「それが本人にとって必要な手立てなら、取り上げてしまうことは間違っている」という意見である。 つまり、メガネ必要派の立場だ。 そもそも本人のものである構造化された支援を他者が取り上げるという意味が私にはわからない。 必要かどうかを決めるのは、本人である。 もし本人がうまくコミュニケーションが取れなかったとしても、構造化された支援があるのと、ないのとを比べ、あることで落ち着いたり、周囲から求められている内容がわかったり、学習の効果が上がったりするなら、本人にとって必要な手立てだ、と言える。 確かに社会に出たら、本人のための構造化された支援はほとんどない。 しかし、だからと言って、構造化された支援を使わなくていい、という話にはならない。 ときに、「社会に近い環境にし、慣れさせる」と言う人がいる。 でも、社会に近い環境の中で過ごして慣れられるなら、そもそも構造化された支援という発想自体が必要なくなる。 "慣れ"でどうにかなるなら、初めから普通学校で定型発達の子どもたちと学べば良い。 自閉症の特性は、"慣れ"などでは乗り越えられないので、構造化された支援が存在している。 また、メガネを外す派の人たちは、構造化された支援の本質を捉えていない場合もある。 「将来、使うか、使わないか」について議論することはあまり意味がない。 構造化された支援は、簡単に言うと、自閉症の人たちの学習の効果を最大限に高めるための手だてである。 構造化することが目的ではなく、構造化することによって、自閉症の人たちがよりよく学べることが目的である。 支援者が自閉症の人たちに学ぶことの最適な環境を準備することに対し、否定する人はいないはずである。 しかし、最後にメガネ必要派の人たちも頭に入れておかなければならないことを言いたい。

「ロボットみたいな支援」と見られないように

「ロボットみたいな支援」だと、構造化された支援が見られてしまうには、支援者側にも問題がある。 構造化された支援は、自閉症本人のためのものである。 それが支援者側に構造化された支援があると「ロボットみたいな支援」に見えてしまう。 支援者が構造化された支援を、自閉症の人たちをコントロールするためだけに使っていると、「ロボットみたいな支援」に見えてしまう。 自閉症の人たちは、支援者が提示した構造化された支援からはみ出すことを制止される。 指示された通り、提示された通りに動くしか選択肢がないのなら、そこに本人の意思が入る余地がなく、ただ決められた通り動いている、ということになる。 それはまさしく「ロボットみたいな支援」である。 では「ロボットみたいな支援」にならないにはどうしたら良いのだろうか。 それは「選択」と「悩み」の要素が必要である、と私は考えている。 「選択」があることでどちらが良いか、どのような方法が良いか、「悩み」があることでどのように対処して良いか、自分で考えることになるし、主体的に行動することにつながる。 つまり「自分で考える」という要素を入れることにより、構造化された支援は自閉症本人のためのものになり、自ら行動することを助ける道具になる。 構造化された支援によって、自閉症の人たちが学びやすい状況を作り出し、主体的に学ぶことができるようになる。 見る側も、見せる側も、本質を見抜く力が必要である。 印象だけで、物事の良し悪しは決まらない。

「ロボットみたいな支援」の意図

構造化された支援を「ロボットみたいな支援」と表現する人がいる。 確かに、カードを手に持ち、目的地まで行く姿。 言葉ではなく、カードや物を手渡すことで、相手に要求を伝えている姿。 衝立に囲まれた中で、活動する姿。 人と人との交流が少なく見えるそのような姿に、ロボットのような支援と感じてしまう気持ちもわからなくない。 予期せぬことに対し、不安を感じやすい自閉症の人たちは、構造化された支援によって、これから起こることを理解し、安心して学習に取り組むことができる。 周囲の刺激に対し、影響を受けやすい自閉症の人たちは、構造化された支援によって、余計な刺激に注意を奪われることがなく、目的の活動に集中することができる。 もし、構造化された支援がなければ、自閉症の人たちは刺激に翻弄され、不安の中で学ぶことになる。 集中して学習するには、常に支援者の手助けや指示を受けなくてはならなくなる。 つまり、構造化された支援は、自閉症の人たちが主体的に学習することを助け、学習の効果を高めるという意図がある。 このような意図を知らない人が見れば、「ロボットのような支援」と感じてしまうのも無理がない。 支援者は、どうして構造化された支援が自閉症の人たちに必要かを説明できなくてはならない。 見ただけの印象で構造化された支援が敬遠されるなら、自閉症の人たちにとって、これ以上マイナスなことはない。

教え、育てること

教育という言葉は、「教える」という字と「育てる」という字が並び、成り立っている。 「教える」ことと同様に、「育てる」ことも大切だ、という意味があると私は解釈している。 私は自閉症の人たちの支援に関わるとき、一人ひとりに合わせて教えていくことと同様に、一人ひとりが自らの力で育っていけることについても配慮している。 "育っていけることの配慮"を具体的に書くと、「悩ますこと」と「環境を整えること」になる。 自閉症の人たちは、失敗から学ぶことが苦手なので、支援者が先回りして本人が躓かないようにすることがある。 しかし、そればかりであると、自ら考えることが少なくなる。 ときには、「敢えて悩ませる場面を作り出し、過去の経験や周囲の状況から答えを導き出す」といった自らで考えることも、本人たちが育っていけることにつながる、と思っている。 自閉症の人たちは、周囲の状況や意味を読み取ることが苦手である。 また、周囲の刺激に影響され、学習に注目や集中が向きづらいこともある。 だからこそ「環境を整えること」により、周囲の状況や意味を読み取れるようになったり、学習に集中できるようになったりすることで、自ら学び、育っていけるようにする、ということである。 家庭や学校を一歩出ると、いろいろな物事に対し、自分の頭で考え、対処していくことが多くなる。 すべての物事を側について教えていくわけにはいかない環境である。 日々の学習や生活の中に、少しでも自分で考える場面を入れていくことで、自ら育っていける人間へと成長していく。 教えるだけではなく、自ら育つような状況へ導いていくことも重要である、と私は考えている。

4000本のヒット

大リーグのイチロー選手は、私たちに大事なことを教えてくれていると思う。 大記録である4000本のヒットを打った日、イチロー選手は「4000本のヒットを打つには、8000回以上は悔しい思いをしてきている」とコメントしている。 私たちはどうしても結果に目が向いてしまう。 記録の後ろには、努力や苦労があることに気が付けないことがある。 どのような記録も数字を積み重ねた結果である、と教えてくれているようだ。 突然、世界のイチローになったわけではない、と。 自閉症の人たちも何かができるようになるまでには、数多くの積み重ねがあった、と思っている。 本人たちの頑張りはもちろん、陰で支えたり、一緒に練習を重ねてきたりした保護者の人たちや支援者の人たちがいる。 長い年月をかけて、一歩ずつ歩んできた結果、できるようになった、というお話を保護者の人たちから聞かせていただくことがある。 そんなとき、やっていることは一人ひとり違うかもしれないが、その歩んできた歩数は誇れる数字であり、本人と同じくらい保護者の人たちも努力や苦労を重ねてきた数字だと思う。 中には結果だけを見て、コメントする人もいる、と思う。 でも、私はその結果の後ろにある歩んできた数と支えてきた人たちに敬意を持てる支援者になりたい。 本人や支えてきた人たちの努力の結果だ、と気づいている人間は必ずいる。 てらっこ塾の1本目のヒットは私が打った。 しかし、2本目、3本目のヒットは、私が打つのではない、と思っている。 次のヒットを打つのは、利用してくれる自閉症の人たちだ、と思っている。 私はイチロー選手のようなスーパースターではない。 だから一人でヒットを重ねていくことはできない。 1回サービスを利用してくれるたびに、ヒットの数が重なっていく。 そして気が付いたとき、大きな数になり、結果として地域が変わっているのだ、と思っている。 まだまだ遠い道のりではあるが、一つひとつが大事であり、どのヒットも同じ価値がある。 本人が変わるにも、地域が変わるにも、一つずつの積み重ねが必要である。

手に持てる自閉症支援

私は「難しいことを分かりやすく説明できる人」に出会うと、本物のプロフェッショナルだ、と感じます。 難しいことを難しく説明することは、ある程度勉強した人ならできる、と思います。 しかし、難しいことを分かりやすく説明するには、専門的な知識はもちろん、豊富な経験や幅広い視点を持っている必要がある、と思います。 専門家同士なら問題ありませんが、保護者の人たちに対し、専門用語や横文字を多用することは考えものです。 もちろん、保護者の人たちも知っておいた方が良い言葉はたくさんあります。 そのときは、専門用語などを使いますが、必ずその言葉について分かりやすく説明する必要がある、と考えています。 せっかく専門的な人と一緒に支援を行っていこうとしているときに、専門用語や横文字が出てくると、支援が自分たちの手から離れ、遠くに行ってしまう、というような印象を持たれる保護者の人たちの話をよく耳にします。 私は、『保護者の人たちが手に持てる支援を行っていきたい』と考えています。 そのためには、保護者の人たちが「わかった!」と感じてもらえることが大切です。 自閉症の人たち同様に、保護者の人たちも"わかりやすい"ことがやる気につながっていく、と考えています。 自閉症に関する知識や本人の行動の背景等をわかりやすく説明することにより、保護者の人たちが自閉症支援を身近なものに感じてもらえることを目指しています。 私は自閉症と保護者の間に入る通訳のようになりたい、と思ってきました。 自閉症支援は専門家のものではありません。 自閉症の人たちに関わるみんなが参加できるものです。 身近な課題を保護者の人たちと一緒に解決していくことを通して、みなさんに自閉症の人たちと関わることが楽しくなってもらえれば、と思っています。

私の思い

「大きな組織には、大きな組織の役割がある」と思います。 反対に、「小さな組織には、小さな組織の役割がある」と思います。 私は、『どちらの役割も大切であり、共存できる』と思っています。 私は、今まで施設や学校、TEACCHプログラムから学ばせてもらったことを地域の自閉症の人たちとその家族のために還元したい、と考えています。 本人や家族の人たちが、少しでも「生活しやすくなった」「できることが増えた」「前向きになれた」と感じてもらえるような仕事がしたいだけです。 小さな組織だからできる「一人ひとりに時間を掛けて向き合う」「どんな些細なことでも一緒に考えられる」「時間や場所の融通」を大切にしています。 自閉症の人や家族の人たちをサポートできる人間は、地域に一人でも多くいる方が良い、と思います。 自閉症支援に関わる人たちが、みんなプラスになることをやっていきましょう!

自分の感情を自分でコントロールする

自分の感情をコントロールできることは大切です。 ストレスを感じたとき、どのように対処するか? 気分が落ち込んだとき、どのようにして平常心を取り戻すか? 気分が上がりすぎたとき、どのようにして気分を落ち着かせていくか? 我慢や罰を与えるなどの精神論では、感情をコントロールできるようにはならない、と思います。 それは自閉症の人たちが、その我慢や罰の先にある目的まで気付けず、ただ苦痛を感じただけになる可能性が高いからです。 やはり具体的な行動を学習することの方が、自閉症の人たちの学習の仕方に合っている、と考えられます。 年齢が高くなり、身体が大きくなって周囲の大人が制止できなくなってから、自分の感情をコントロールする練習を始めようとすることがあります。 自分の感情をコントロールできることは、すべての人にとって共通する大切なスキルだと言えます。 ですから、幼いときから将来を見通して、どのような行動をするかを学習していくことが大切だと考えています。 ストレスを感じたときは、自分の中に溜まったパワーを発散させられるような行動をとるようにします。 気分が落ち込んだときは、何か本人が癒されるものを使ったり、身体を動かしたりして気分を変えていきます。 気分が上がりすぎたときは、興奮状態であるともいえるので、場所を変えたり、特定の行動をしたりして、刺激を徐々に遠ざけていくようにします。 もちろん、一人ひとり異なっていますので、これらはあくまで方向性です。 また、行動を学ぶ前段階として、自分の感情がいまどのような状態であるのかを見える形で具体的に示すことで知る、といった支援もあります。 ここまで自閉症の人たちについて書きましたが、現在のいじめや虐待などの問題についても、自分の感情をうまくコントロールできるようになれば、減っていくのではないか、と思います。 今までの日本ではあまり注目されていませんでしたが、アメリカのように子どものうちから、自分の感情をコントロールする練習や学習を積み重ねていくことが大切だ、と私は考えています。

人と人をつなぐ「日曜トーク」

「こんなサービスをずっと求めていました」 昨日の北海道新聞の記事を見た保護者の方が電話をかけてきてくださいました。 このような言葉を頂くたびに、「独りではないんだ」「なかなか表に出せなかっただけで、自閉症の人たちのニーズはあるんだ」と感じました。 自閉症の人たちは、定型発達の人たちとは異なり、自然に物事の意味を理解し、周囲から求められる行動を自ら学習して身につけることが苦手です。 ですから、24時間トータルで考え、療育を行っていく必要があります。 このことは、7年間働いた自閉症児施設で実感したことでもあります。 現在、その療育を学校以外では、ほとんど保護者の方が担っている状況です。 保護者の方が担っている療育を、私が今までに学んできたことを基にお手伝いしたい、と考えています。 自閉症の人たち、一人ひとりが生きていく上で必要なスキルを身につけ、与えられる人生ではなく、"完全に"とはならないかもしれませんが、少しでも自らの足で歩める人生を送ってほしい、と思っています。 そして、地域で活動できる幅が増えれば増えるほど、地域の人たちの考え方も少しずつ変わっていく、と思っています。 インタビューに不慣れで、きちんと説明できなかった部分が多かったのですが、北海道新聞の記者の方は一生懸命私の思いを文字に表してくださいました。 少しでも多くの人たちに、「一人ではないこと」「サポートする人間がいること」が伝わったのなら、とても嬉しく思います。 民間で自閉症の人たちの療育を行う機関は、全国で見てもほとんどありません。 皆さんと一緒に、この函館、北斗、七飯、道南から、自閉症の人たちの新しい未来を気づいていけたらと思っています。 応援していただいている皆様、まだ始まって4か月の事業を記事に取り上げて頂いた北海道新聞様、本当にありがとうございました!

どうして民間なの?

だって、本音で話せるでしょ だって、顔が見えるでしょ だって、良いと思ったことは、直ちに行動に移すことができるでしょ だって、融通が利くでしょ だって、どこへでも飛んでいけるでしょ だって、どんな人とでもつながれるでしょ だって、人と人の付き合いができるでしょ だって、関わる人がみんな主役になれるでしょ だって、自由に事業の形を変えられるでしょ だって、障害=福祉のイメージを変えられるでしょ だって、官民関係なく、みんなで自閉症の人たちを支えるんでしょ

私の自閉症に対する捉え方

「自閉症だからできない」のではなく、 「自閉症に合わせた教え方をしていないから、できない」 自閉症は脳の機能障害です。 欠損していたり、働かないわけではありません。 脳の使い方が定型発達の人とは異なっているのです。 だから周囲の情報に対する注意の向け方、捉え方、整理の仕方に違いがあります。 その結果、定型発達の人たちと同じ方法で、学習することが苦手なのです。 自閉症を嘆くなら、 その人に合った教え方がされていないことを嘆いた方が良い。 学習の仕方は一人ひとり違う。 その一人ひとりの違いにどれだけ近づけるかが、求められている。

気づかれずに・・・

自閉症の人たちは、障害に気づかれないことがあります。 そのため、一般の人に誤解されることもしばしばあります。 例えば、自閉症の人で、バスや電車などの公共交通機関を利用されている人も多くいます。 そのとき、突然声を出してしまうことや乗っている人の顔をじっと見てしまうことがあります。 本人たちにしたら、まったく悪気はないのですが、相手からしたらびっくりしたり、にらまれたりした、と勘違いされたりすることもあります。 他にも、近くにお年寄りが立っているのにも関わらず、席に座り続けていたため、文句を言われた、という話がありました。 自閉症の人たちは、相手の視点に立って物事を捉えることが苦手だったり、周囲の状況に気づき、その場に応じた行動をとることが苦手だったりします。 また、バスの乗り方は教わっても、そのような望ましい振る舞い方については教わっていないので、できない、ということもあります。 公共の交通機関を利用できるスキルは持っているのに、車内でトラブルがあったため、利用できなくなったり、利用しなくなったりする人たちは少なくありません。 上記のような行動の背景には、自閉症の人たちの苦手な部分が存在しています。 その苦手な部分は、周囲の理解やサポートが必要だと言えます。 せっかく練習してできるようになったことを本人以外の理由で止めてしまうのは勿体ない、と私は思います。 ある保護者の方は、「首から "自閉症"と書かれたプレートを下げさせたいと思うことがある」と言っていました。 自閉症のプレートよりも、何か周囲の人が見て、自閉症について気づける物があれば良いと私は思いました。 そうしたら、誤解されることが少しでも減ったり、反対に手助けしてくれる人が現れたりするかもしれないと思います。 その物もつけていて恰好が良いデザインで、一言「話すことが苦手です」「簡単な受け答えしかできません」「笑っているけれど、楽しくて笑っているわけではありません」など、つけている人のことが書ける欄があったら良いかもしれません。 せっかくだから地元の地域色が出るものが良いですね。 あっ、素晴らしい技術を持った面白い人が知り合いにいました! 今度、その人に相談してみよう♪ もしこのアイディアが具体的な形になることがありましたら、また紹介させてい

負けられない挑戦がそこにはある

年齢や立場なんて関係ない それは単なる記号でしかないから 記号が人や意見の価値を決めるわけではない 自閉症の人たちの生活の質の向上を目指す人 自閉症のままで生きられる地域・社会を作りたい人 今ある価値観に限界を感じ、新しい価値観を生み出したい人 みんな仲間だと思う 地域・社会を変えることは難しい 人の考え方を変えることは、もっと難しい でも、現状に嘆いているだけでは何も始まらない 否定に否定で返しても意味がない 否定に否定で返している時間がもったいない 一人ひとりが動き出すとき どんな人でも受け入れる どんな考え方の人でも受け入れる 自閉症の人たちが笑顔で暮らしていけるその日まで

内から変える?外から変える?

都合の悪い話には、耳に手を当てることができる 都合の悪い話には、否定で返すことができる 都合の悪い話には、左から右に聞き流すことができる 都合の悪い話には、「うんうん」と縦に頷き、心の中で横に首を振ることができる 都合の悪い話には、極端な、特殊な、あいつだから、の話にすり替えることができる でも、都合の悪い状況には、自然と動かざるを得なくなる これが私の選んだ道

あと3日

硬直した現状を打破するには、新しい価値観が必要 新しい価値観を生み出すには、行動が必要だ 批判しているだけでは、古い価値観は変わっていかない 古い価値観を変えなくてはならない状況を作っていくことが大切だ 人はなんだかんだ言っても、自分が一番大切 変化よりも現状維持の方が楽だ 本当の挑戦がもうすぐ始まろうとしている

真夏のジャンパー

夕方のだいたい同じ時間、ジャンパーを着た男性が家の前を通ります。 近所に福祉作業所がありますので、そこで働いている利用者さんかな、と思います。 いつも真っ赤な顔で、大粒の汗を拭いながら歩く姿に、"気候に合わせて服装を変える"ことは難しい、と感じています。 直接、そのジャンパーを着ている男性のことは知りませんので、ここからは想像で書きます。 真っ赤な顔で、汗も出ていることから、身体は暑さを感じているようです。 ちなみに自閉症の人の中には、感覚の違いから、暑さをあまり感じず、真夏でも汗をほとんどかかない人もいます。 また、暑いことはわかっていても、"暑い"と言った気持ちよりも、外出するときはジャンパーを着るものだ、というようなこだわりの方を優先させる人もいます。 そして、過去にジャンパーを着るように教えられた記憶が鮮明に残り、いつまでも記憶が消えていかないこと。 ジャンパーを着ることは教わったが、暑い日はジャンパーを着ないということを教わっていないこと。 ジャンパーを着る、着ないをどうやって判断していいかわからない、といったことなどが男性の行動の背景に考えられます。 独りで通勤されているようですし、作業所の職員はこんな気候ですので、ジャンパーを着ない方が良い、と伝えているはずです。 それでも毎日、ジャンパーを着ているということは、私たち定型発達の人たちが自然にできている"気候に合わせて服装を変える"ということが、彼らにとっては難しいことである、と言えます。 同じ気温だったとしても、人は暑く感じたり、寒く感じたりします。 例えば、気温が15度だったとします。 前日の気温が10度だった人は暑く感じ、前日が20度だった人は寒く感じます。 また住んでいる地域や季節、個人によって感じ方も変わります。 ちなみに私が旭川に住んでいるとき、冬の最高気温が0度になったら、みんな「今日は温かいね」と言っていました。 自閉症の人たちは、暑さや痛さなどの感じ方が定型発達の人とは違います。 具体的に物事を捉える人たちなので、抽象的な暑さなどの感覚を理解することが苦手です。 このような特性を持っている人が多いので、"気候に合わせて服装を変える"ことは、自然に身に付くことではあ

継続できる余暇

私は「継続できる余暇」を持つことが大切だと考えています。 "継続できる"とは、「大人になってもできる」、「独りで完結できる」という2つの意味が含まれています。 「大人になってもできる」余暇は、年齢を問わず、行える活動のことです。 例えば、テレビゲームだったり、読書、音楽鑑賞、〇〇の収集などです。 (*ゲームや本、聴く音楽が子ども向けの内容でも構いません。あくまで活動自体が大人になってもできるか、ということです) 反対に、大人になってできなくなる余暇は、"高い高い"などの身体接触を伴う遊びや追いかけっこ、ブランコなどのいわゆる幼児向けの遊びです。 自閉症の人たちの中には、年齢の概念がうまく捉えられない人もいます。 また、周囲からどのように思われているかを想像することが苦手な人もいます。 ですから、このような遊びを年齢が高くなっても行おうとすることがあります。 身体が大きくなった人を"高い高い"することは体力的に難しく、かけっこやブランコなどの遊びは、場所などの環境の面で現実的に難しくなります。 「独りで完結できる」余暇は、自分独りの力で、準備から実施、片付けまで行える活動のことです。 誰かの手を借りないとできない活動は、自分以外の理由で継続できなくなる可能性があります。 ですから、「継続できる余暇」には、独りで完結できるということも重要な要素になります。 私は、大人になってできなくなる余暇は初めからするのではない、と言っているのではありません。 身体接触遊びが好きな子も多いですし、自閉症の人たちが苦手なやり取り、コミュニケーション能力を養うきっかけになることもあります。 身体を使ったダイナミックな遊びは、ストレス発散や運動機能の成長につながっていくと思います。 しかし、このような遊びでしか、余暇の時間を過ごせなくなると、将来、継続できず、本人が困ってしまうかもしれない、と言っています。 家族や支援者とある時期まで一緒に遊び、楽しい余暇を過ごしていたのに、突然その遊びができなくなる。 そんなとき、急に別の活動で余暇を過ごしなさい、と言われても本人たちが困ってしまいます。 「だって、私はずっとこの遊びしか余暇の過ごし方を教わってきてないもん」 ですから、このような遊

他人と過去は変えられない。自分と未来は変えられる!

てらっこ塾のホームページ、チラシ、ポスター、そして私の名刺には、「自閉症のままで生きられる地域・社会を目指す」という文言を必ず入れています。 「自閉症のまま」という意味は、自閉症という特性の部分を変えることを目指しているわけではないことを表しています。 どうしても私たち定型発達と言われる多数派の人の方に、少数派の自閉症の人たちを合わせようとする動きがあります。  しかし、自閉症の人たちはどうしても変えられない部分があります。 それは、"自閉症"の部分です。 自閉症の特性は、個人の様々な思考や行動に影響を与えます。 その思考や行動を変化させることはできるかもしれませんが、"自閉症"の部分は変えられません。 ですから、私たちは自閉症の人たちと接する上で、「どうしても変えられない部分があるんだ」という意識が必要だと思っています。 自閉症の人たちを私たちの方に引っ張るような支援はしたくありません。 もちろん、社会で生きていく上で、改めないといけない行動は変える必要がありますが、"自閉症"の部分はそのまま受け入れることを大切にしています。 私は定型発達の人たちと自閉症の人たちが共に受け入れられる妥協点を探っていくお手伝いをさせていただいています。 いつの日か、"自閉症"の部分を変えたり、隠したりしないで生きられる地域・社会を作っていけたら、と思っています。 あるとき、父から言われた言葉があります。 「他人と過去は変えられない。自分と未来は変えられる」 この言葉は人生においても、自閉症支援においても、大切なことを教えてくれています。

仕事への動機づけは人それぞれ

働くことでお金を得ることができる。 でも、人が皆、お金のためだけに働いているか、と言ったらそうではないと思います。 働く意欲を高めるものは、お金をもらえることだったり、人から感謝されることだったり、仕事自体が好きだったり、職場の人間関係だったり、働いている自分が好きだったり、人それぞれではないでしょうか? このことは自閉症の人たちでも同じだと思います。 自閉症の人たちは"概念"で物事を捉えることが苦手です。 お金という概念、つまり、この細長い紙や銅の丸い塊にどのような価値があるのか、それぞれの価値の違いは、なぜお金が物と交換できるのか、などの理解です。 具体的に物事を捉える特徴がある自閉症の人たちの目を通すと、お金はただの紙切れであり、金属の塊です。 他の身の回りにある紙、金属とはどのような違いがあるのか、を理解することが難しい人もいます。 また、自閉症の人たちは物事の結びつきを捉えることも苦手です。 働く行為がなぜ、お金と結びつくのか? 例えば、パンを作っている人の場合、生地をこねているのはパンを作るためであり、その先にお金があると* 自然に 理解できる人は多くないです(*視覚的な手立てを用いれば、理解できる人もいます)。 中には、パンを作るという結果と結びつけることが難しく、生地をこねているのはパンの形に丸めるため、求められる生地の状態にするため、というような近い結果とでしか結びつけられない人もいます。 働く行為自体も概念であり、お金も概念です。 概念を理解することが苦手な自閉症の人たちが、また苦手なお金と仕事の結び付けを行わなければなりません。 さらにお金を得ることで好きなものが買えたり、遊びに行けるなどということを理解するには、仕事→お金→好きなもの、というような関係性を結びつけられなければなりません。 自閉症の人たちの中には、知的障害を持っている人も多くいます。 ですから、みんなが「お金を得るために働いている」とは言えません。 「働くことでお金がもらえる」「働いたら、〇〇ができるよ」といった伝え方や教え方では理解できなかったり、モチベーションが上がらなかったりする人もいることを理解しておく必要があると思っています。 仕事とお金が結び付けられない人がいても良いと思います。 仕事は仕事、お金の使

ちょうど一年前

ちょうど一年前、私はアメリカの地に立っていた。 どうしても行きたかったノースカロライナ州。 学生時代、「ノースカロライナ州に住む自閉症の人たちの90%以上が施設や精神病棟ではなく、地域で生活している」という話に驚きと疑いの感情を持った。 「どんな優れた療育、システムがあるのだろうか?」 「90%以上という高い数字には何か裏があるのではないか?」 「でも、本当にそのような場所があるのなら・・・」 私はノースカロライナ州で行われているTEACCHプログラムのビデオを何度も繰り返し見た。 本も論文も研修報告書もTEACCHプログラムに関わることなら、何でも読んだ。 TEACCH部のスタッフが行うトレーニングにも参加した。 でも、自閉症の勉強を始めて10年間、頭の片隅には「いつか、この目で」という思いが常にあった。 成田を出発し、アメリカで乗り継ぎ、アメリカ・ノースカロライナ州へ。 15時間の長旅だったが、10年の月日と比べれば、あっという間だった。 私は「本に書かれていないこと」を聞いたり、見たりすることを研修の目的とした。 なぜ、このプログラムは成功を収めているのか? 成功していると言われている一方で、課題はないのか? 今後、どのような方向に向かっていくのか? そして、実際に自閉症支援に携わっている人たちが、どのような考えを持ち、どのようなことを目指しているのか、を尋ね続けた。 等身大の、実物の、生の自閉症支援を見たかった。 研修中、毎日が刺激的だった。 見るもの、聞くもの、そして、一緒に行った仲間たちとの日本の話に。 今まで学んできたことの一つひとつが結びつき、知識として頭にあった文字が立体的なものに変わっていくことを感じていた。 日本へ向かう飛行機の中、何か使命感を得たような気がしていた。 今まで学んできたことを、函館に住む地域の自閉症のみなさんに還元したい。 いや、実際に目にしてきた者が優れた部分を伝えなくてどうする! 見たもの、教わったものをそのまま、地域に取り入れてもうまくいかないだろう。 大切なのは、模倣ではなく、融合だ。 ノースカロライナ州で成功したプログラムは、ノースカロライナ州の文化と融合して生まれたものである。 だから、そのまま持ってきてもうまくいかない。 日本、函館の文化と融合し、

自閉症の前につく"軽度"と"重度"の意味

「重度自閉症」「軽度自閉症」という言葉が独り歩きしている、と感じることがあります。 インターネットで"自閉症"を検索すれば、重度や軽度の言葉が一緒についてきます。 なぜ、自閉症と言わず、わざわざ"軽度(重度)"とつけるのかな、と疑問に思うことがあります。 私は支援を行う上で、"軽度(重度)"という情報に対して、あまり重要とは思っていませんし、反対に意識しないように心掛けています。 どうして重要と思っていないかと言いますと、その評価の仕方に関係しています。 簡単に書くと、自閉症の特性を多く持っていたり、その一つひとつの特性が本人の行動や思考、反応に強い影響を与えていたりすると、"重度"の自閉症ということになります。 反対に、自閉症の特性が少なかったり、特性の表れ方が弱かったりすれば、"軽度"の自閉症であり、"軽度"と"重度"の間だったら、"中度"自閉症と評価されます。 評価はすべての項目の合計点で決められますので、どんなに表れ方が強い特性があったとしても、他の特性が弱かったりすると、"軽度"と評価されることもあるのです。 ここでのポイントは、 表れ方 を見て、評価するということです。 表れ方ですので、いつ、どのような状態のときに見るのかで評価が変わってきます。 感覚の過敏性なら、年齢や心身の状態によって変わることがあります。 身体の使い方やコミュニケーション、変化への対応などは、学習によって様子も変わってきます。 また、評価は年齢の低い子どもが対象となっていますので、年齢の高い人で"軽度(重度)"というのは、いつの時点で言われたものか、に注意する必要があります。 私が"軽度(重度)"という情報を意識しないようにしているのにも理由があります。 それは先入観によって、自閉症の人の行動を歪だ目で見てしまう恐れがあるからです。 例えば、重度の自閉症という角度から行動を見ると、すべての行動が自閉症の特性の影響を受けているように見えてくることがあります。 その行動の背景には、様々な理由があり、自閉症の特性以外にも性格や学習、

もし診断できる人が増えたら

もし日本でも、医師以外の専門家が自閉症の診断ができるようになったらどうなるだろうか? まず物理的に診断できる人数が増えることから、今よりも各地域で診断を受けられる機会が増えるだろう。 またトレーニングを受けた自閉症の専門家が診断することから、"自閉傾向"といった曖昧な診断や「様子を見ましょう」などの先延ばしが減り、療育の遅れが少なくなると考えられる。 療育と言えば、自閉症の専門家が診断するので、診断から療育へのスムーズな移行が可能になる。 現在の日本の場合、診断は医師で、療育は別の専門機関となっているので、移行がスムーズに運ばないこともある。 「診断を受けたけど、この後、どうしていけばいいの?」という心理的負担。 療育をうけるには、別の機関を探さなければならないという物理的負担。 診断を受け入れることだけでも大変な時期に、さらにこのような負担を強いられる保護者の方たち。 診断と療育が一体となった機関は日本にもあるが、まだ少ないのが現状である。 このような機関が増えることは、保護者の方たちの負担を減らし、療育へのスムーズな移行を可能にする。 そのためには、医師以外でも自閉症の診断ができるようになることが望まれる。 しかし、良い面だけではない。 診断ができる人が増えれば弊害も考えられる。 それは自閉症について専門的に学んだ者が、"自閉症"と診断をするということ。 想像してみてほしい。 自閉症の専門家からしたら、自閉症の人が多い方が良いのか、少ない方が良いのか・・・。 自閉症の人たちが多ければ多いほど、仕事は増えるだろうし、本人や家族、社会に対しての影響力は大きくなるだろう。 自閉症は血液を採って数値で表せたり、脳波や身体の特徴に現れるものではない。 ということは、診断する者の意思が診断結果に入る隙があるということである。 そのような専門家は少ないだろうが、まったく出てこないとも言えない。 このような弊害が起きないように、診断は複数の専門家で行うというルールにすれば良いと考える。 複数の目で見ることによって、客観性が増し、正確な診断へとつながっていくだろう。 できれば、いろいろな立場の人が診断に携わるのが良い。 診断を受けないと前に進めないなら、診断のシステムを変えていくことが望

"自閉傾向"ってナニ??

盲傾向、聾傾向、肢体不自由傾向とは言われないのに、"自閉傾向"と言われることがある。 確かに自閉症は盲や聾のように医学的に診断できないので、傾向と言うことがあるのかもしれない。 しかし、自閉症には国際的に認められている診断基準があり、その診断基準に当てはまれば"自閉症"ということで、基準を満たさなければ"自閉症"ではないことになる。 では、いったい"自閉傾向"とはなんだろうか? 日本では"自閉症"と診断できる人は、医師に限られている。 もしかしたら、医師以外の支援者が診断できないため、診断基準を満たしている人に対し"自閉傾向"と表現しているのかもしれない。 また、医師の中でも自閉症について専門的に学んだ人でなければ、目の前にいる人の言動を客観的に捉え、その言動の背景にある自閉症の特性の部分を読み解くことは難しいと考えられる。 ましてや年齢が低い子どもの場合は、その言動が単に幼さからきているものなのか、未学習なのか、自閉症の特性なのか、がより一層判断が難しいと言える。 日本人特有の文化である"曖昧"や"先延ばし"によって、保護者にショックを与えないようにしているのかもしれないし、保護者の方が望んでいる場合もあるかもしれない。 "自閉傾向"と言う不思議な表現には、このような背景があると想像できる。 私は日本でも医師以外の人が、自閉症の診断を行えるようにするべきだと考えている。 もちろん、誰でも診断できるというわけではなく、自閉症について専門的に学んだ者が、ということである。 自閉症の人たちは、88人に1人の割合でいると言われている。 それだけ高い割合でいる自閉症の人たちの診断を医師だけで行うには無理がある。 ましてや日本全体で考えたとき、自閉症について専門的な知識と経験を持った医師が各地域にどれほどいるのだろうか。 診断の遅れは、療育の遅れにつながる。 早期療育の有効性は立証されており、専門的に学んだ者の中では常識になっている。 そのため、2歳前後で自閉症を診断できる検査も開発されており、実際に実施し、早期療育につなげて成果を上げている地域もある。 一

地域の書店の障害者関係の書籍コーナー

書店の障害者関係の専門書のコーナーに行くと、気が付くことがないでしょうか? 自閉症関連の本が多く並べてあるのに対して、知的障害について書かれた本がほとんど置いてないことに。 置いてあったとしても、何年も前に出版された本だったりします。 2000年以降、知的障害を持っていない自閉症の人たちがより注目されるようになりましたが、依然として知的障害を持った自閉症の人たちは多くいます。 ですから、自閉症の人たちと関わる学生や支援者は、自閉症についてだけでなく、知的障害についても勉強する必要があると思います。 自閉症の人たちの支援に携わる中で、自閉症者本人のあらゆる行動を"自閉症"と関連付けようとする支援者を私は時折見かけます。 もちろん、自閉症の特性は個人の思考や行動に大きな影響を与えます。 しかし、あらゆる行動が"自閉症"で説明できるかといったら、そうではありません。 以前のブログ( 「自閉症のA君?A君は自閉症?」 )で書いたように、"person with Autism"です。 個人が自閉症の特性を持っているのです。 ですから、自閉症と同じように、知的障害の個人に与える影響についても考える必要があります。 自閉症だから『視覚的な支援』でOKではありません。 その視覚的な支援を組み立てる上で、本人の認知の仕方や身体の使い方について知ることが必要ですし、どのような目標や支援方法が適当かを決めていく上でも、知的障害の影響は重要な要素となります。 また、個人の思考や行動には、育ってきた環境や学習、性格、その日の体調など、様々な影響があるということも頭に入れておかなければなりません。 幅広い視点を持つことで、より本人に合った支援ができると考えています。 函館に大きな書店ができます。 その書店には、知的障害について書かれた良質な専門書も置いてほしいと願っています。 自閉症支援に携わる者、特に学生の人たちが知的障害について学ぶことが支援の質の向上につながっていくと考えています。 地域の書店にどのような本が置いてあるのか、その影響は少なくないと思います。

自閉症の人にとっての"心の教育"とは

人は、悲しい気持ちになるから涙が出るのではなく、涙が出るから悲しい気持ちになるそうだ。 感情よりも先に行動がくるとのこと。 そう言われれば、転んで足から血が出たとき、血が出たあとに痛いという気持ちがやってくる。 フラットな感情のとき、「辛い」と言っていたらどんどん辛くなってくる。 反対に、笑顔で笑っていれば、いつの間にか楽しい気持ちになる。 「辛いときこそ、笑ってみよう!」というのは、理に適っているようだ。 自閉症の人は、気持ちの面で誤解されやすい。 「ありがとう」と口では言っているのに、顔が笑っていなかったり、相手とは別の方を見ていたりする。 自閉症の人たちは、自然に表情を作ることが苦手で、表情を作るのにも意識しなければならないし、人によっては顔のどこの筋肉を動かすか、など表情を作る練習が必要な人もいる。 相手からすると、「本当に喜んでいるの?」と思われてしまうことがある。 相手から叱られているとき、笑うことがある。 自閉症の人たちは、気持ちにおいても"0"か"100"であり、楽しいときには大きな声で笑い、悲しいときには激しく泣くことがある。 喜びと悲しみの間の微妙な気持ちの表現が苦手な人が多い。 だから本当は困っているのに笑ってしまうことがある。 また、自分が相手からどう見られているかに注目が向きづらいため、相手から期待されている表現と異なる場合がある。 叱っている方からすると、「反省しているの?」「ふざけているの?」と誤解されてしまうことがある。 いろいろなところで、自閉症の人たちに対する"心の教育"が叫ばれている。 私も(自閉症の人たちに限らず)心理面の成長を促す教育は大切だと考えている。 しかし、そのプロセスにおいて、私が良いと考え実践している方法は、一般的に行われているものとは異なっている。 なぜ「ありがとう」と言うのか意味を教えるよりも、「ありがとう」を言うときの動きを教えることに重きを置く。 相手の目を見る→「ありがとう」と言う→頭を斜め45度まで下げる→2秒数えたら頭を元の位置に戻す。 叱られていることの意味や反省という倫理面を教えるよりも、叱られているときの態度を教えることに重きを置く。 顔を30度くらい下げ、床の方を見て話を聞く(

自分にプレッシャーをかけない夏休み

夏休みが始まると「学校に行っててもらった方が良かった」と思われる保護者の方もいらっしゃると思います。 学校に行っているときに、行えていた家事もお子さんがいたら、いつものようにできないこともあると思います。 またお子さんの中には、独りで時間を過ごすことが苦手だったり、活動の切り替えがうまくできなかったりする子もいると思います。 自閉症の人たちは時間の概念を捉えることが苦手なため、昼夜逆転など生活のリズムが崩れてしまうこともあります。 コミュニケーションの仕方が十分に身についていない子の場合、お子さんの要求に応えることや答え続けること、こちらから伝えたいことがうまく伝わらないことなどに、お互いストレスを感じてしまうこともあると思います。 夏休みはお子さんと向き合う時間が多く、閉鎖的になりやすい。 そして、このようなお子さんの様子もあったりすると、「将来のために、いろいろやらなくては・・・」と感じる保護者の方も多いと思います。 しかし、家庭で起きていることだからといって、保護者のみなさんがすべて抱え込む必要はないと思います。 見えてきた本人の課題は、支援者と共有し、一緒に指導や支援によって解決していくことです。 地域の専門家や2学期になって学校の先生を頼れば良いと思います。 そうはいっても夏休みは心身ともに大変です。 そんなときは、地域の資源を利用しましょう。 お子さんを預かってもらえるところがあれば、日中のひと時でも、数日間でもどんどん利用すれば良いと思います。 また、支援者やボランティアの手を借りることも良いと思います。 一生懸命な保護者の方ほど、お子さんの状況を直視し、「自分が何とかしなければ」と思ってしまいがちです。 保護者のお子さんに対する願いを一緒に叶えていくため、専門的に学んだ人たちがいるのです。 ただでも大変な夏休み、自分にプレッシャーをかけるのはやめてみませんか? 夏休みは長いので、学校に行っていたときよりも自分の体調と心のバランスに気をつけ、上手に地域の資源を利用しながら過ごしてほしいと思います。

夏期療育のお誘い♪

夏休みは"チャンス"です。 新年度が始まって環境や人など、いろいろの変化があったと思います。 まさに変化の渦の中にいた4ヶ月間だったのではないでしょうか!? 渦の中からすぐに出られた人もいれば、溺れかかっていた人もいたと思います。 でも大丈夫! 夏休みは変化や情報でいっぱいになった頭の中をリセットし、整理することのできる時間となります。 施設で働いていたとき、子どもたちが夏休みに入ると、「スキルを身につけるチャンス」だと思っていました。 新学期が始まってから夏休みに入るまで、子どもたちはなかなか落ち着かないことが多く、日々の生活を安定させるだけで手一杯の状況でした。 ですから、夏休みに入ると変化や情報が少なくなりますので、集中して指導できる時間となっていました。 夏休みが終わり、精神的に落ち着きを取り戻し、いろいろなスキルを身につけ、心身ともに成長した子どもたちを学校に送り出すことが楽しみでした。 1学期の間、「あんなこと、こんなこと、我が子に身につけさせてあげたい」と思い続けた毎日を過ごされていた方。 「今のうちに、うまくいかなかった支援や環境を整えておきたい」と考えられている方。 夏休みはチャンスです! 家庭での療育に集中できる時期に、新しいスキルを身につけさせたり、生活を見直してみてはいかかがでしょうか? てらっこ塾はそのような希望をお持ちの道南にお住いの自閉症のみなさん、保護者のみなさんのお手伝いを喜んでさせていただきます♪

1学期の通知表を開いてみましょう!

連絡ノートに「元気でした」という文字を見つけると、「元気だから登校させました‼」とツッコミを入れてしまう。 もらってきた通知表を見たとき、「こんなに我が子はできる子だったのね!?」と家とのギャップに驚いてしまう。 こんな経験をした保護者の方は多いのではないでしょうか(笑) 日本の特別支援教育は、できなかったことや失敗したこと、改善した方が良いことなどを明確に示すよりも、曖昧にしたり、触れない傾向があると思います。 一方、私が学んだアメリカの専門家たちからは、その点について明確にしていくことを教わりました。 その表現の仕方は、行動を具体的に示すこと。 そして行動の背景にどんな自閉症の特性があるのかを明らかにしていきます。 できない部分や躓いている部分にこそ、次につながる教育の重要なヒントが隠されていることを学びました。 このような違いは、日本とアメリカの文化の違い、また日本の特別支援教育が持つ文化が影響しているのだと思います。 保護者の皆さんが我が子の苦手な部分を知らない訳はありません。 連絡ノートや通知表は、保護者を喜ばすものではないですし、支援者の身を守るものでもないと思います。 私は「敢えて触れないことが丸く治まる」といった考え方を変えていかなければならないと思います。 できない部分や躓いている部分は、『自閉症の人たちが成長できる可能性を持っている部分である』という考え方を広めていけたらと思っています。

「新型出生前診断」に思う

いつの日か、自閉症も出生前に診断される日が来るのだろうか。 ニュースや新聞等で報道されているように、新型出生前診断で染色体異常の陽性反応が出たあと、羊水検査によって確定診断された人の中で、人工中絶を選択した人がいたということだ。 いろいろと悩んだ結果のつらい選択だったと思う。 もしかしたら、周囲から生むことを止められたのかもしれない。 理由はわからないが、診断の結果を聞いたとき、マイナスの感情を持ったことは確かだと思う。 「障害も個性の一つ」などと言われることもあるが、私はそうは思わない。 障害は障害だと思う。 10年以上、自閉症の人たちと関わってきたが、その障害ゆえに本人たちがつらい思いや生きにくさを感じていると思うことが多々あった。 周りから見てこのように思うなら、本人たちはなおさらのことだと思う。 私は自閉症の人たちを前に、「障害も個性の一つ」とは、とても言うことができない。 生まない選択をした方に対して、他人がとやかく言うべきではないと思う。 私たちがしなければならないことは、どのような子どもが生まれてきたとしても「子どもを育てていこう」と思える社会にすることではないだろうか。 そのためには、親だけではなく社会全体で子どもを育てていくといったシステムも必要。 私たちのような療育に関わっている者たちは、障害を持った人たちが生き生きと社会で活躍できるようにするため、専門性を高めていくことが必要だと思う。 アメリカの大学で、将来のダウン症の治療に応用できる可能性がある研究結果が出たことも、同じ日に発表された。 自閉症の治療もできるようになってほしいと思う。 自閉症の症状が改善したとき、「あ~、こんなにも楽な世界だったんだ」と本人たちに感じてもらいたい。

曖昧な一票よりも具体的な一票

今日、期日前投票に行ってきました。 障害を持った人たちが住みやすい社会に変えてくれる人はいるのかな? いつの日か「私は障害を持った人たちが生活しやすい社会を作るために頑張ります!」と言って立候補する人出てこないかな? 「〇〇党の障害者支援の法案は間違っています。我が党の方が良い改革ができる」なんて。 構造化VS脱構造化の攻防、TPPじゃなくてTEACCHに関しての討論会(笑) まあ、出たとしても少数派の支持じゃ当選も難しいし、当選したとしても国会で多数派になって議論の中心になることはもっと難しいかな。 「いちお障害を持った人たちのことも私たちは考えています!」みたいなアピールメインの議論では、抜本的に障害を持った人たちの環境を変えていくことは難しいだろう。 だったらやっぱり自分たちで動くしかない。 必要だと思うことを必要な人たちが動いて、社会を変えていけばよい! その行動の中の一つがてらっこ塾の開業。 未来が見えにくい曖昧な一票よりも、地域が変わることを実感できるはず。 民間は利用者と対等な関係で、意見も届きやすい。 良い意見や要望があれば、直接言ってサービスを作らせればいい。 民間が大きくなればなるほど、胡坐をかいていた人たちに大きな刺激となる。 このような社会の変え方もあるのではないだろうか? 自分の行動一つは、具体的な一票を投じたことと一緒だと思う。 選挙は一人一票だけれど、行動は一人で何票も入れられる。 「私たちは少数派」と言っているよりも、自分たちで行動することによって、一緒に多数派にしていきましょう!

「我が子よりも一日でも長く生きる」

「私、これから飲み会♪」 こう言って子どもを施設に預けていくお母さんがいました。 私はいつも「楽しんできてくださいね」と言って、お子さんをお預かりしました。 障害を持って生まれてきた子どもを育てていくことは大変なことだと思います。 でもその中で、自分の時間を作って楽しめることは素敵だなと思っていました。 施設に我が子を預けることに対して、後ろめたさを持っている保護者の方は少なくありませんでした。 でも、施設を利用することで良いこともあります。 先のお母さんのように、自分の時間を持てたり、リフレッシュすることができます。 お母さんのストレスの増加が、お子さんに対する養育力の低下をもたらすという研究結果もあります。 明日からの療育のパワーを向上させるためにも、お母さんが元気になることが大切です。 "障害"は愛情だけでは乗り越えられないこともあると思います。 24時間365日、家族がケアをしなければならないというのはそもそも無理があります。 そんなときには、福祉の力を借りることも選択肢の一つだと思います。 また子どもにとっても良いことがあります。 自閉症の人たちが頭の中に入ったたくさんの情報をリセットすることができます。 日頃の情報過多の疲れを非日常の場所で空っぽにし、整理して、切り替えることができます。 そして家を出てみることで、将来どのようなスキルが必要か、今どのようなことができているか、改善しなければならないことは何かなどを知ることができます。 施設を利用してくれたお母さんの中には、子どもを預けているうちに家の模様替えをすると言っていた方もいます。 目の前で変化させられるよりも、帰ってきたらガラッと変わっているという状況を作る。 まさに環境の"リセット"と言えます。 「利用したい施設がない」という方は無理に利用する必要はないと思っています。 しかし、利用したいけれど、後ろめたさがあったり、周囲の目が気になったりする方には、施設の利用は決してマイナスなことばかりではないということを知ってもらいたいです。 「我が子よりも一日でも長く生きる」というお母さんの言葉を耳にします。 半分は冗談もあると思いますが、現在の障害を持って生まれた子どもの子育てをしているお母さんの状況を表してい