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5月, 2017の投稿を表示しています

支援者のお人形の1つになってはならない

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寂しい気持ちを持つ子が、お人形を自分の周りに並べて置くように、主体性のない人をそばに置く。 そんな支援者は少なくない。 支援者というのは、本人も気が付いていないような“寂しさ”を持っている者が多くいる。 その寂しさは、その人が持つ愛着障害からくる。 「愛着障害があるから、支援者になったんだ」 本人の口からは出ないが、身体の奥そこから、そんな声が聞こえてくる者もいる。 支援者にとって、いや、愛着障害を持つ者、基底欠損を抱えたまま大人になった者にとって、主体性ほど、怖いものはない。 何故なら、基底欠損が埋まっていない自分にとって、主体性とは未知のものであるから。 また、主体性のある人は、「No」が言えるからだ。 愛着障害を抱えた支援者というのは、「No」と言われるのを恐れている。 自分が幼い頃、大切な人から発せられた「No」を連想するのだろう。 だから、当事者の方、親御さんが、自分の足で歩もうとすること、「支援はもういりません」と表明することを、「(自分が)拒否された」と捉えてしまう。 一方、充分に愛されて育った人間は、自分が関わった人が自立していくことを心から喜べる。 自分の大切な人から返ってきた反応だから、それを知っているから、身体を通して体験しているから。 有名支援者と呼ばれる人の周りには、いつも並んでいる人形たちがいる。 その人形たちの正体は、主体性のない当事者であり、保護者であり、同じように愛着障害を抱える支援者である。 有名支援者は、そういった人形たちの姿を見て、何も言わずに自分のことを見つめてくれる人形たちを見て、意識の上では「自分が必要とされている」というメッセージを確認し、無意識の上では自分の寂しさを埋めている。 だから、有名支援者にとっては、人形たちがそばにいることが重要なのだ。 口では「自立のための支援」と言うが、欠けのある心は、「自分から離れていってほしくない」と叫んでいる。 自立しよう、自分から離れていこうとする当事者、保護者がいると、反射的にそれを止めようとする。 「私の大事なお人形さんを持っていかないで」と言って涙を流す子どものように。 有名支援者のそばで、お人形として生きるのも、その人の選択である。 しかし、本気で自立を望んでいる当事者、保護者の方は、この事実に気が付いてほし

ただ単に努力不足、経験不足

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みね子が「お給料減ったんだし、仕事も1割くらい手を抜こうよ」と言っていたら、幸子は焼き芋をご馳走しようとは思わなかったはずですし、最後の夏さんとのシーンに、観ているものが心を動かされることはなかったでしょう。 世の中、自分のせいじゃなくても、うまくいかないことなんて山ほどありますし、頑張ったことがすべて報われるわけではありません。 でも、だからと言って、頑張ること、努力することが無駄なのかと言ったら、そんなわけはなく、そのひたむきな行為自体に自分を成長させる力、自分の人生を豊かにする力、そして、周りで見ている人達をより良い方向へと動かす力があるのだと思います。 「みね子には、いつかビーフシチューを自分の力で食べて欲しいな」 「私も、今日一日、仕事を頑張ろう」 と、ドラマを観ていた人が思うのですから、実際、側にそのような人がいたら、もっと大きな刺激になるはずですし、こういった人が増えることで、社会をより良くすることにつながっていくと思うのです。 私はずっと「努力」という言葉の前に「無駄な」という形容詞が付くなんて思いもよらなかったですし、そういったことを言う家族や友人、先生などが側にはいませんでした。 ですから、社会に出て、というか、特別支援の世界に入って、努力を否定する人、努力に無駄な努力というものがあると思っている人、「努力しなくても良いんだよ」と他人様に言う人を見て、意味が分からなかったのです。 努力や頑張り、そして経験にやらなくて良かったことなどありません。 こんなことを、普通の人には言わないことを発達障害の人達に言うもんだから、ちょっとしたことでも頑張ろうとしない人、「頑張ろう」と言うと、「無理です」「怖いです」と言う人、そもそも経験不足の人が増えていくのも当たり前だと思います。 よく相談で、「仕事をしたい」という成人の方からのお話があります。 「じゃあ、どんな仕事がしたいですか?できそうですか?」と尋ねると、「わかりません」と言い、「こんな仕事は」と提案すると、それは無理、あれは無理、何々ができないから&苦手だから無理、と言われる場合が多いですね。 本人側の課題として、背骨が育っていないことなどがありますが、「見えないものは、ない」というのもありますから、経験不足の影響が大きいと思われます。 じゃあ、その経験不

親が支援者になる必要はない

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親御さんが、自閉症支援に熱心になると、子どもが伸びなくなって、自閉症支援を仕事にすると、子どもが自立できなくなる。 どこの地域にも、とりつかれたように自閉症支援をやっている親御さん、ギョーカイの片棒を担ぎ、ギョーカイ人から「頑張っている親御さん」と見られたい親御さん、そして挙句の果てに、児童デイや作業所を作る親御さん、っていますよね。 もうすでに、その“顔”が浮かんでいる方もいらっしゃると思います。 どうして自閉症支援を頑張ると、子どもが伸びなくなるのか? それは、とっても簡単な理由。 だって、ギョーカイのやっている自閉症支援って、自分たちから完全な自立を目指した支援ではないから。 親と違ってギョーカイ人は、商売で支援をやっているのです。 そして、その多くの支援者は、愛着障害を持っている。 つまり、自分たちのために、自分たちの手の中で、一生過ごしてもらうための支援が展開されているのです。 このような自閉症支援をいくらマネしても、熱心に頑張っても、支援がないと生きていけなくなる人を育てるだけで、親としての役割であり、本能である「我が子の自立」は遠くなるばかりです。 自閉症支援に傾倒するということは、親ではなく、支援者になるということ。 別の言い方をすれば、子育てから仕事に変えること。 また子どもから見れば、親が減り、支援者が増えるということです。 そもそもThe自閉症支援の一つ、構造化された支援も、始まりは家庭での療育です。 親御さんに学んでもらい、支援者がサポートし、家庭での療育を頑張ってもらうために行われていました。 つまり、中心は家庭であり、やっていることは子育てだったんですね。 その子育ての仕方に工夫がいる。 それのアイディアが構造化された支援。 情報を整理し、わかりやすくすることで、自閉っ子により良く学んでもらおう、成長してもらおう。 そして、親御さんに子育てを頑張ったもらおう、という目的がありました。 決して、親御さんに子育てを頑張らなくて良い、療育は支援者が行うから、という話ではなかったのです。 ライセンスビジネスをけん引しているギョーカイメジャー達も、こういった歴史、事実は知っているのです。 そして、その当時の創始者たちに直接学んでいて、その人達の想いに触れているのです。 しかし、彼らは多く

「親御さんが障害を受け入れてくれなくて…」という相談

「親御さんが障害を受け入れてくれなくて…」といった相談が、支援者側から届くことがあります。 でも、これってどういう意味なのかなって思いますね。 親御さんが障害を受け入れるかどうかで、学校として、支援機関としてやるべきことが変わるのでしょうかね? 「何々障害」という診断名があろうとなかろうと、やるべきことは、その子が困っていることがあれば、それを解決するための援助をすることであり、発達のヌケ、遅れがあれば、それを育て直すお手伝いをすること。 何も難しく考えるようなことでもなく、苦しむ人がいれば、その苦しみから救おうとする、まだ成長途中の子どもを見れば、自立していけるよう導く、それが自然な振る舞いであり、先に生きる者としての役割、責務です。 ですから、支援者側から「親御さんが障害を受け入れてくれない」という訴えをする場合、そこには言い訳が隠れているような気がするのです。 うまくいかないのは、親御さんが障害を受け入れないからではなく、あなたに腕がないから。 治しやすいところから治すのが基本なので、「その治しやすいところが見つけられない」「気づかない」「治しやすいところすら治す方法がわからない」というのが、事実なのでしょう。 一方で、このような相談をしてくる支援者側にも同情すべき点もあります。 それは、親御さんが“障害を受け入れない”という点ではなく、何もしない、何もさせない、という点です。 障害云々というのは、人工的なお話であり、そっちの方が効率がいいから、便利だから、という話なので、どうでも良いのです。 しかし、我が子が苦しむ様子を見て、「同情するだけ」「何も手を打たない」というのはいただけません。 「このままでは自立できないかも」「将来困るかも」と思えば、自然と育てるという動きが湧き出てくるはずです。 それなのに、その動きが出てこない親御さんがいる。 これは問題だと思うのです。 私のところにも、こういった親御さんからの依頼がきます。 私に連絡した時点で“動き”なのかもしれませんが、実際は“丸投げ”という方もいます。 「私には専門知識がなくて」「支援は無理で」などと言われます。 でも、それは丸投げして良い、自分は何もしなくて良い、という話にはなりません。 子どもが困難を乗り越えられるよう親も一緒に努力をする、やれるこ

社会を恨んでいる暇はないでしょ

有名人が「実は、私、発達障害でして…」と告白すると、「よく言ってくれた」「勇気づけられた」「私達の代弁者だ」なんて声が上がります。 でも、この人が告白しても、変わるのはこの人の仕事だけ。 この有名人には、今までとは違って発達障害関係のお仕事が増えるでしょうが、告白を称賛している人たちに仕事が舞い降りてくるわけではありませんね。 棚ぼたも、人を選びますから。 もし称賛したいのでしたら、その有名人の生き方ではないでしょうか。 どういう家庭で育ち、どのように学び、職を得、そしてその仕事を続けられているのか。 こういった生き方に、自分の人生をより良くするためのヒントがあるように感じます。 有名人が告白するかどうかより、自分の人生の方が大事ですよね。 私も、この仕事を続けていると、いろんな人にお会いしますが、どうも「自分の人生を一番に考えていないんじゃないの、この人」って方を見かけますね。 壇上に上がり、ずっと自分の苦しみ、社会の理解を訴える。 でも、その人は感覚過敏に苦しんでいる、二次障害に苦しんでいる。 「いやいや、社会に訴える前に、症状と病気、治しなよ」って、声には出さないが、聴衆の心の中でツッコミの嵐が起きる人。 社会を変えるより、自分の生活を変えなきゃねって感じ。 こういう人達を見ると、「責任転嫁したいだけじゃないの」って思ってしまいます。 無駄に敵を作り、社会を恨む。 私も実際、このような人に支援で関わることがありますが、はっきり言いますよ。 「社会を恨むのは、時間の無駄」 「社会を恨んでも、社会から理解を得られても、努力しない者は受け入れられないし、スキルがない者は仕事が得られないのは変わらない」 「社会は怖いところではなく、頑張る人に優しいところ」 結局、こういう人って、どうしたら良いか分からなくて迷っている人達。 だから、自分以外の“敵”が必要なんですね。 だから、有名人が障害を告白するのを見て、「自分以外にも苦しんでいる人がいることを知って安心したい」→「いじめとか、苦労話を聞きたい」→「社会の理解ガーってやってほしい」という感じに、「自分は悪くないんだ、仕方がないんだ。だって、〇〇が悪いから」と思いたいだけなのでしょう。 本当に、自分の人生を第一に考え、幸せになろうと思うのなら、社会を恨んでいる

「まずは二次障害を治してから、就労を目指しましょう」という決まり文句

いわゆる二次障害を持った成人の方は、支援者にこう言われる。 「まずは二次障害を治してから、就労を目指しましょう」と。 実際、私のところにも、支援者からこのように言われたという人が来ます。 そして、みなさん、支援者から「無理をしない」と言われれば、挑戦や新しい試みは行わず、「今は休むとき」と言われれば、ゆっくり休むことを行っていました。 当然、エネルギーのある10代、20代の若者たちは、「休め」と言われて休んでいるけれど、日々、変化のない、休むことだけの時間と生活に、息が詰まり、ふつふつとした思いが溢れ出してくる。 こういった生活が続くと、「他の人は働いている」「みんな、自分の生活を送っている」「それに引き換え、自分は…」となり、本当に心が病んできます。 支援者から言われた通り、しっかり休んだ人が、どんどん病んでいく。 これが笑えない現実です。 そうして、どんどん年齢が上がっていき、履歴書の空欄が広くなって、本当に働く機会が失われていくのです。 実際に働くために動き出したときには、福祉の道しか残っていない。 ギョーカイの目指す固定資産化は、ここに完成をみます。 私のところに連絡をくださる方達は、みなさん、「このままでは、一生望んでいる就労はできない」と気が付いた人であり、自分の内側から湧き上がってくる感情を抑えられなくなった人です。 このようにギョーカイの手の中から出ようと動き出した人は、みなさん、精神状態のどん底を抜け出し、快方へと向かっている方達ばかりです。 ですから、私は実際に就職に向けたサポートをします。 「二次障害が治っていないのに、どうしてそんなことをするんだ」 「そんな状態で動き出し、また状態が悪くなったらどうするんだ」 というような意見をいただくこともあります。 でも、そういう支援者の負け惜しみにかまっている暇はありません。 何故なら、就職活動、そして働くことこそが治療になると考えているからです。 私は、医師の「治った」という言葉ではなく、自分自身で「治った」「大丈夫だ」という感覚を持った人の方が正しいと考えています。 実際、そういう人達は、希望の進路に向かって歩みだすと、どんどん回復していきますし、治っていきます。 そういった姿を見てきました。 私は、「自分が社会の誰かの役に立っている」

一次障害と二次障害は分けられるものなのだろうか

近頃、私はこう思うんです。 「一次障害、二次障害を分ける必要があるのだろうか」「分ける必要はないんじゃないか」と。 二次障害って、自閉症の人で言ったら、その特性からくる困難さとは違った別の問題のことを指しますよね。 で、認識としては、発達障害+鬱や睡眠障害、問題行動のある人って感じ。 「まずは二次障害を治しましょう」なんて、よく言われることで、二次障害のある人は、支援よりも先にそちらを治療してから、という決まり(?)、雰囲気みたいなのがあります。 でも、私も、発達障害だけではなく、そういった二次障害と呼ばれるものを持った人と接しているのですが、二次障害だけに焦点を当てた治療を受けても良くならない印象を受けます。 例え、鬱などの精神疾患の状態が良くなったとしても、どうも経過が不安定というか、また時間が経つと悪化する感じ。 結局、良くなった、悪くなったを繰り返して、何年も時が経つ、みたいなことが多いような気がします。 私は医師ではないので、そういった精神疾患の治療はできないため、こうするしかないのですが、反対に一次障害というか、発達の遅れやヌケを取り戻すような援助を続けていくと、精神面も、行動面も、安定していくような気がしています。 これは良く考えると、当たり前な話で、一次障害も、二次障害も、同じ人で起きている、同じ人の内側と繋がっている問題ですから。 成長する過程で残してきた発達のヌケを辿り、育てなおせば、発達の凸凹は埋まり、生きやすくなる。 当然、本来、その人が持っていた資質だって表に出てくるようになります。 そうなれば、資質を活かして、より良く社会とつながることだってできる。 私には、「二次障害」という概念が本人のためのものではないように思えるのです。 一次障害だってそうですが、その人にとっては明確な区別などなく、あるのは気持ちと脳と身体の不具合、違和感だけです。 それが良くなり、ラクになれば、良いのです。 ですから、「二次障害」という概念は、本人のためのものではなく、医師の側のもの。 悪く言えば、医療と福祉、教育の主導権争いの言葉のように見えなくもありません。 「二次障害」という概念があることにより、医療は福祉、教育からイニシアチブをとります。 そして、福祉は「二次障害」というワードを使って、「二次障害になら

「問題行動の原因は、不適切な支援にある」というメッセージがもたらした影響

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そうそう、「適切な支援がないと、二次障害になる」というのと同じ類の言葉がありましたね。 「問題行動の原因は、不適切な支援にある」というやつ。 私が新人のとき、よく上司や先輩、お偉い先生方から言われたことです。 まだまだギョーカイとはナンタルモノカ、を知らなかったあまちゃんの私は、その言葉を信じ、問題行動と向き合うたびに、己の力の無さを悔い、勉強する動機づけにしていました。 「問題行動が起きるのは支援者のせいだ」というメッセージは、問題を起こしても辞めさせられることのない福祉の世界の人間にも影響を与えました。 それは、支援者、仕事人としてではなく、その人の持つ心にネガティブな想いを懐かせていたのだと感じました。 そして、このメッセージは「隠す」という方向へ、ヒトの心を動かすのです。 自分が接している人に問題が起きたとき、「これは自分の支援の至らなさだ」と自動的に頭に浮かび、次の瞬間、口でそのことを否定する言葉を発している、そんな感じです。 「調子が悪かったんだ」「過去の経験が影響して」「周囲がうるさかったから」…。 「問題は障害のせいではなく、自分の支援の至らなさ」 これを受け止められない心の持ち主は、自分以外の「何か」のせいにし、そしていつしか見ようとしない、問題自体を隠そうとしてしまうのです。 あるとき、学校から寮に戻ってきた子から、ただならぬ雰囲気を感じたことがありました。 でも、先生からの引き継ぎでは「特に変わりなく」で、連絡帳を見ても、良いことしか書かれていない。 その瞬間、わかったんですね、「悪いことはなかったことにしよう」としているって。 ここからは一般論です。 全員に当てはまる、といっているわけではありません。 こういう風に書かないと、「そんな人ばかりじゃない」「一生懸命頑張っている人もいる」などと、言ってくる人もいて、めんどくさいので。 学校という組織、文化、仕事というのは、リスク、問題を一番に嫌うように感じます。 これは学校の補助、ボランティア、教育実習、施設職員、学校の教師、現職を通して感じたこと。 理由は簡単。 損失だけではなく、「売り上げが少ない」「成果が足りない」というのでも責任が問われる仕事とは違い、問題が起きたときのみ、責任問題になる仕事だから。 つまり、問題を起こさなければ

診断基準に書かれていない

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自閉症の診断基準に、「二次障害があること」なんて記述はありませんね。 他にも、「支援がないと、安定した生活が送れない」ですとか、「一般就労はできない」「週40時間働くことができない」「通常級は無理」「集団は無理」「頑張るのも無理」「社会の無理解に苦しんでいること」なんていう記述もありませんね。 でも、ギョーカイは、あたかもそれらが自閉症の人の必須条件のように言います。 彼らが主張する「早期発見、早期療育」「支援があれば」「理解があれば」の根拠は、こういった二次障害を防ぐためであり、安定した生活を送るため、というもの。 でも、そんなのが自閉症の特性ではなく、自閉症の人、すべてに当てはまるわけはないのです。 じゃあ、彼らが支援によって、自閉症の人達を何から守り、何を手助けしようとしているのか? そうなんです。 その“何か”なんて、元からないんです。 彼らは、自閉症の人達を守ると言いながら、守っていたのは自分たちの仕事であり、組織なんです。 確かに、二次障害を持つ人、一般就労が難しい人も、中にはいます。 でも、それは自閉症の必須条件ではないですし、避けては通れないことではないんですね。 それなのに、いつの間にか、自閉症とそういったネガティブな事象をくっつけ、「それから守るんだー」「支援が必要なんだー」「社会の理解が必要なんだー」としたのです。 よく考えてみてください。 支援を受けることによって「ネガティブな事象を避ける」ってオカシナ主張だとは思いませんか? 本来、支援を受けることで、「ポジティブな結果が得らえる」「ポジティブな方向へと進める」というのならわかるのです。 特別支援で言えば、支援を受けることで自立度が上がり、就職の可能性が広がり、進路の選択肢が増える、というのなら、私も「支援があれば良いな」「彼らの主張を応援したいな」と思います。 でも、彼らのやっていることは、本人と家族を怖がらせ、自分たちのやりたい方向へと引き入れているだけなんです。 「支援がないと、大変なことになるぞー」と言って、支援者という仕事を守っているんですね。 ですから、みなさん、騙されてはいけません。 仕組みは、霊感商法と同じで、「ほら、あなたには霊がついています。このままでは災いが生じますから、壺を買いましょう。はい、百万円」と一緒です。

グレーにしたあと、彼らは子ども達の人生を何色にしてきたのだろう

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昨日、ブログで書いた「グレー」という文字を見て、この言葉はあこぎな商売の、あこぎな言葉だと改めて思いましたね。 だって、支援対象を増やしたいがために作りだされた概念ですから。 一応、診断基準というのがあって、それが満たされたら自閉症、満たされなければ自閉症ではないんですね。 10年以上前になりますが、就職面接のとき、「自閉症の特性がみられるけれど、診断基準を満たさない人のことを何というんだい?」と訊かれました。 私が「診断基準を満たさないんだから、その人は普通の人です」と答えたら… 「そうなんだよ。今のやつらは、自閉傾向、軽度発達障害、グレー、ボーダーとか勝手に名前を付けて、障害児を増やそうとしてるんだ」と怒っていました。 そういえば、昔は自閉傾向が多かったですね。 “傾向”って何だよって感じです。 “傾向”がまかり通ってしまうのなら、この世はみんな、「自閉傾向」であって発達障害ですね。 自閉傾向というのは、2000年より前からありまして、発達障害を専門にしている医師は少ないし、しっかり診断できるところも限られている、だけれども、この人は「支援が必要だろう」ということでつけられる場合があったようです。 また低年齢のときに「自閉症」とつけると、親御さんはショックだし、「成長すると変わるかもしれません」と言いつつ、濁した言い方をしていたというのもありましたね。 診断基準は曖昧で、主観の入る余地がありありなので、こうやって「傾向」で逃げていたんです。 症状も、知的障害も、重い子が主でしたから、「支援を受ける」ニーズから始まる言葉でした。 こういった使われ方をする場合もありますが、グレーとか、ボーダーとかになりますと、逃げよりも、商売の、それこそ傾向が強くなったように感じます。 2000年代、高機能、アスペルガーブームに乗じて、こういったギョーカイ人にとって都合の良い言葉が生みだされちゃったんですね。 特性がある子は、みんなグレーの中に入れちゃえって。 こういう風に、ギョーカイのやっていることに否定的な意見を述べると、どこからともなく湧いてくる人達がいますが、本当に彼らが言うようにグレーの概念が、その当時の子ども達を救ったんですかね。 診断基準は満たさないけれど、特性のある子に対して行ってきたことは、何だったのか? 結局、

障害を意識しない日常と、障害を意識する非日常

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「どう頑張っても、障害の診断はつきませんよ」と、私は言いました。 親戚で集まったときに、お子さんの障害の話になり、「どう見ても、障害はないよね」というのと、「障害はなくならないんじゃないか」という話になったそうです。 そこで「明日、訊いてみる」ということでの私の回答です。 つい先日、定期の医師の受診があって、そのときには「経過観察」と言われたそうなんです。 当然、障害を付けたい医師が、一度付けた診断名を取り下げることはなく、一生コンスタントに受診してもらいたいのだから、いつ、どんな状態、成長&発達を遂げたとしても、「経過観察」としか言いませんね。 一度付けたら、診断のお話は終了なんです、こういった医師の中では。 ですから、フツーの病気の受診と同じように「経過観察=治ってない=障害のまま」というように親御さんは思っていたそうです。 そんな一方で、親戚から「どう見ても、障害はないよね」という言葉を聞き、ハッとさせられる自分がいた。 「そういえば、気になっていた行動もなくなったし、感覚過敏も収まった。授業も落ち着いて受けることができるようになったし、成績も悪くない」 この親御さんの話では、我が子の障害を認識するのは、「定期受診のときだけ」ということでした。 診断を受けたあと、「次は、いついつに」というので、その予約通りにずっと定期で通院していた。 別に具体的なアドバイスが貰えるわけでも、問題や症状が良くなるわけでもないけれど、障害を持った子は受診するもんだ、と思っていた。 けれども、フツーに遊び、フツーに勉強し、フツーに毎日を過ごせるようになった我が子がいる。 障害を意識しない日常と、「障害があって」という非日常。 私が「もう治ったんですよ」と言うと、親御さんは大変喜んでいましたね。 でも、それよりも喜んでいたのは、その子自身でした。 「え~、ホントー!?うれしー‼」と言って、大喜びです。 その子自身が、以前感じていた辛さを感じていなくて、しかも障害を意識することなく毎日過ごしているのです。 これって治ったということだと思いますよ、診断基準を満たすかどうかを抜きにしても。 この子の反応を見てもわかるように、たとえ子どもだったとしても、「障害のままで良い」なんて思っていないんですね。 スペクトラムの障害だからこそ、

なじむ援助

療育の時間は、なじまなければなりません。 「さあ、療育の時間ですよ」というのは過ちであって、「さあ、先生が来るよ」というのは失敗です。 スペシャルな時間に対する身構えを、本人から、家族から感じた時点で、私の腕は至らないのだと反省するのです。 私は仕事をする際、なじむことを心がけます。 その人自体になじむ。 その人の生活になじむ。 その人の発達になじむ。 その人の過去と未来になじむ。 その人の家族になじむ。 少なくとも、これらから見て、私との時間、援助が異質な存在にならないようにしています。 援助とは、その人の持つ発達する力を後押するために行われます。 しかし、ただ後押しすればよいのではなく、“自然に”後押ししなければなりません。 異質なものに後押しされると、それは造りものの、恣意的な、ケバケバしい、なんだか心地の悪い、手で背中を押された感じが残ります。 その“感じ”が残っている限り、いくら自分の足で立てるようになろうとも、歩を進めようとも、自立している実感が持てずにいます。 援助がその人になじむと、日々の生活を送っている間に、流れるように発達していきます。 本来、生活の中に発達が存在するので、生活から切り離された発達とは不自然なのです。 遊びながら、生活しながら、人と関わりながら、発達する。 その生活の中の発達が、何らかの理由で阻害されているからこそ、発達の援助が存在するのだと思います。 発達援助とは、自然なものであり、生活の中にある発達を味わうために行われる営みだといえます。 私が“なじむ”にこだわる理由は、もう一つあります。 異質な援助は、それがなくなったとき、穴が空いた感じがします。 そうなると、「自分は支援を受けていたんだ」という気持ちをその人に、その家族に感じさせてしまいます。 本当は、自分の持つ発達の力が表に出ただけなのに、最後の最後で、とっても残念な想いを懐かせてしまいます。 発達は空くものではなく、重なっていくものなのです。 こういった援助をしているのは、プロとは言えません。 プロの仕事とは、自分が離れるときに、スッと存在が消えなければならないのです。 「そういえば、支援を受けていたな」と、ある時に思い出すことがある。 これなら、いちお合格です。 でも、目指すべきは、支援を受