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1月, 2014の投稿を表示しています

東京大学に自閉症の専門家を!

「特定の分野や活動で飛び抜けた才能を持つ高校生を集め、育てていく」 東京大学が発表した2016年度から始める推薦入試のことです。 私はこの東大の推薦入試について大賛成の立場です! 特定の分野や活動に秀でる人たちは、まさに一点集中型の頭脳を持つ人たちです。 今までの入試では、満遍なくどの教科もできる必要がありました。 例え、特別な能力を持っていたとしても、他の教科ができなければ、入学できませんでした。 しかし、そんな人たちが入学し、学ぶチャンスが得られるのです。 一点集中型の頭脳を持つ人たちの中には、自閉症スペクトラム障害の人たちが多く含まれることが想像できます。 平均を求められる教育ではなく、アンバランスでも突き抜けた才能を伸ばす教育。 やっと自閉症の人たちの学び方に合った教育が始まろうとしています。 養護学校が行っている教育だけを「特別支援教育」と言うのではなく、このような特定の分野に秀でている人たちを活かす教育も含めて「特別支援教育」と言うのです。 このような入試制度が始まるので、入口のところは前進しました。 ですから、今度は在学中のことを考える必要があります。 全国から飛び抜けた才能を持つ学生を集めてくるので、大学以外の生活の部分でのサポートも併せて考えていく必要があります。 実際、大学内では申し分がないのに、生活の方が破綻してしまって、大学生活が送れなくなってしまうという話もよく聞きます。 また、一人で研究を行っている分には何の問題もないのに、研究室に入り、他の学生や教授たちとともに研究や議論を行うようになると、人間関係等の問題が起き、また本人もストレスを抱えてしまうということもあります。 ですから、スペシャルな学生をサポートするスペシャルな支援者も必要になってくると思います。 全国から集まってきた秀でた才能を持つ学生が安心して大学生活を送られるように、学業面でも、生活面でもサポートする支援者。 東京大学に、自閉症支援の専門家が常駐する日も近いかもしれないと、新聞記事を読みながら考えました。

評価に"笑顔"の文字が・・・

よく「一日、よく笑って過ごしていました」「調理学習の時間も笑顔で活動をすることができていました」というように、子どもが笑っていることが注目されます。 ときに、子どもの学習の様子を示した評価の記述の中にも"笑う"という表現が使われます。 しかし、子どもの学習の評価に"笑う"という概念は不適切だと私は考えています。 自閉症の人たちの場合、本当に快の感情から笑っているかは分かりません。 周囲から見たら、笑っていて楽しそうに見えることも、本人としたら困って笑っている場合もあります。 0か、100かで、物事を捉えやすい自閉症の人たちは、自分の微妙な感情を表現することが苦手です。 また、目に見えない自分の感情を表現すること自体も苦手なため、うまく自分の感情が表せずに笑ってしまっている場合もあります。 ですから、自閉症の人が笑っているからと言って、その活動が楽しくて笑っているとは限らず、反対に困っていて笑っている場合もあるのです。 また、支援者としても"笑う"ことに注目しすぎることは危険だと言えます。 笑うことばかりに注目してしまうと、どうやったら子どもが笑うか、に意識が向かいやすくなってしまいます。 笑う=学習意欲が高い=学習効果があるなどと、支援者の頭の中に、誤った図式ができることもあります。 子どもがその活動に意欲的に取り組んでいるかは、活動に臨んでいる時間やその活動を選択する回数などから評価します。 子どもにその活動の学習効果があるかは、自立度や速さ、回数、量などから評価します。 つまり、"笑う"という抽象的なことで評価をしてしまうと、支援者の主観が入りやすく、別の支援者が支援を組み立てる際に、再現することができない意味のない情報になってしまいます。 学習や活動に子どもたちの興味を惹く事柄を取り入れることは重要です。 また、学習以外の時間は、子どもたちの反応を引き出す働きかけは重要だと思います。 しかし、評価はあくまで客観的にしなければなりません。 それでなければ、支援者が変わるたびに、支援はゼロから始めなければなりません。 子どもが笑っていることは、支援者として嬉しいこと。 でも、本当に心から笑っているか、自分の気持ちを十分に表現できているか、は

「明日、ママがいない」が注目されている今

「明日、ママがいない」のドラマが、児童養護施設の子どもたちや職員たちへの偏見や誤解を招くとして、関係する団体や機関などから放送中止や内容改善が求められているといいます。 私もドラマを観ましたが、過剰な表現が多く、偏見や誤解を持ってしまう視聴者もいるのではないか、と感じました。 でも、このドラマが放送されることにより、児童養護施設について興味を持った人がいるかもしれない。 中には、初めて児童養護施設の存在に気が付いた人がいるかもしれない。 また、ドラマとはいえ子どもたちの姿に、心を動かされた人がいるかもしれない、と私は想像しました。 偏見や誤解は、様々な"世界"にも存在しています。 私が関わっている障害を持った人たちの"世界"もそうです。 少し変な動きをしたり、場の空気にそぐわないことをすると、「自閉」や「アスペ」などと言う人がいます。 周囲の偏見や誤解に傷つく障害を持った人もいますし、障害に対する誤った認識を持っている人もいます。 しかし、それでも私は知らないよりは少しでも、誤ったとしても、知ってもらっているだけマシだと思っています。 このように感じるのは、私が見えない障害を持っている発達障害の人たちと関わっているからかもしれません。 彼らは周囲から気づかれないことにより、普通を求められたり、「怠けている」「馬鹿にしている」など、誤ったメッセージを相手が受け取ってしまうことがあります。 それにより、彼らは傷つき、普通になれない自分を責めたりすることもあります。 ですから知らないよりは周囲が「もしかしたら」と思ってくれるだけで、少しは傷つくことが減るかもしれないと思っています。 ドラマやマンガ、またテレビでの発言や一部の事件などで、発達障害を持った人たちのことが誇張されたり、誤った認識で表現されたりすることがあります。 でも、そんなときは、良くも悪くも一般的な人たちが注目している状態だと言えます。 ですから、表現の訂正を求めるだけではなく、注目を集めている間に「実際はこうです!」という正しいメッセージを発信していくことが、関わっている人間の役割であるように感じています。 今回の「明日、ママがいない」というドラマが話題になったことにより、新聞やメディアなどで、児童養護施設について取り上げら

障害を持った子どもと一緒に安心して暮らせる場所を

障害を持った子どもがいると、一般的な賃貸住宅を借りることが難しいという話を聞きます。 障害を持った子どもがいると聞いただけで、大家さんが入居を断ることがあります。 何軒も断られながらも、やっとのことで入居が決まったとしても、保護者の方の心労は続きます。 子どもが大きな声を出してしまったり、動き回ったりしてしまう。 保護者の方がいくら静かにさせようとしても、子どもによっては難しいこともあります。 そういった場合、別の住人の人からクレームが入ることがあります。 障害を持った子どもがいるということだけで、賃貸住宅を借りることが難しい、借りてからも他の住民の視線を気にしながら生活しなければならない。 お金がある家庭でしたら家を建てることができるかもしれません。 でも、そうでなければ、賃貸住宅を探すか、公営住宅に入居するしかありません。 障害を持った子どものいない家庭では、自由に住宅を選ぶことができる。 住みたい場所に住むことができるという当たり前のことが、障害を持った子どものいる家庭でも可能になる社会にしなければならないと思います。 しかし、現実問題として、困っている家庭があります。 入所施設やケアハウス、グループホームなど、障害を持った人が住む環境は整いつつありますが、在宅の家族が障害を持った子どもと一緒に安心して住むことができる住居も同じように必要だと考えています。

自閉症の視点を取り入れた社会作り

自分の過去を振り返って、こんなにも「自分を変えよう」と思うことがあっただろうか。 土曜日に参加させて頂いた「ひきこもり体験者参画型セミナー」での当事者の方たちの声。 ひきこもり状態の自分を変えなければ、「変えよう変えよう」ともがき苦しんできた過去。 当事者の方の中には、発達障害の人もいた。 その人は10年のときをかけて、やっと落ち着いた生活を手に入れることができた。 それだけ"普通"を求められる社会であり、"普通"でないと生きづらい社会。 "普通"になりたくても、"普通"になれない人もいる。 みんなが"普通"にならなくても良い。 「そのままで良い」と、違いが認められる社会を目指していきたい。 「ひきこもりの人たちの視点を取り入れた社会作り」という講演者の言葉。 私は「自閉症の視点を取り入れた社会作り」を実践していく。

"引き継ぎ"の憂鬱

保護者の方とお話をすると、よく話題になる"引き継ぎ"の話。 「学年や担当が変わると、また一から話をしなければならない」 「支援者によって捉え方が違う」 「途中に変な人が入ると、誤った風に引き継がれてしまう」 などなど。 「引き継ぎは正直負担!」「ちゃんと引継ぎして!」というのが本音。 では「なんで引継ぎがうまくいかないか」といったら、やっぱり支援者ということになる。 家族は小さいときから縦断的に子どものことを見ているのに対し、支援者はぶつ切りの"あるひと時"。 そのうえ、引継ぎの資料はだいたい主観が入り込みやすいというか、主観的な資料が多い。 個人の資料の形式は組織によってバラバラで、別の組織に移ったら「う~ん」と言って、隅に置かれてしまう資料たち。 教育、福祉、医学に関わる支援者に「特別支援に携わる者は最低限これだけは」という明確な基準はない。 子どもと関わる支援者が増えれば増えるほど、うまくいかない可能性は大きくなる。 読んでもらう資料というよりは、専門用語盛りだくさんの自己満足資料も結構多い。 引き継ぎの中心が"人"になっては、いつまで経っても上に挙げたような保護者の方たちの声はなくならない。 まずは個人の資料の形式を変えるところから。 主観的な記述は、誤解があったり、書き手読み手の力量に質が左右されたりしてしまう。 だから、できるだけ客観的な記述を多くする。 そして、どこの学校に行っても、医療から学校、学校から福祉など、どこからどこに行っても使いやすいように統一した形式にする。 また、その資料を作成する支援者が受けるべき研修も統一できたら良い。 アメリカのノースカロライナ州の特別支援教育に携わる学校の先生は、初任者研修で必ずTEACCH部の研修を受ける。 どんな研修を受けるかは別にして、統一された知識と技能は支援者同士の情報の伝達をスムーズにする。 「じゃあ、そんなことできるの?」と言われれば、教育と福祉と医療が手を組んで統一したものを、というのは可能性はゼロに近い。 それぞれの考え方が違いすぎるし、それぞれが一番だと思っている。 第一、統一に向けて引っ張るリーダーがいない。 そうなると、やっぱり子どものことをずっと縦断的に見ることができる家族が

"学校を休む"という選択肢を持たない子ども達

不登校やひきこもりの方たちの集まりに参加させてもらうようになって感じることがあります。 それは「学校に行かない」という選択ができるだけ良いのではないか、ということです。 学校を休むには本人が訴えることができるということです。 ということは、相手に自分の意思を伝えることの苦手な自閉症の子ども、特に知的障害を併せて持っている子どもは、"学校に行かない"という選択肢を自ら訴えることは難しいと言えます。 また、周囲からも気付かれにくく、定型発達の子どものように家族から「学校休んだら」と言われることも少ない、と考えられます。 ですから、定型発達の子どもだったら心身の疲労が溜まり、とても学校に行けるような状態でなかったとしても、「朝時間が来たら保護者の方と一緒に学校へ向かっている」という場合が多いのではないでしょうか。 自閉症の子どもの中には、「学校は毎日行くものである」というような自分流のルールを持っている子どももいます。 特別支援学校に通うある子は、どんなに体調が悪くても学校を休もうとしませんでした。 その結果、学校は休むことはないのですが、湿疹が全身にできたり、髪が抜けたりといったような不調が身体を通して表れていました(特に学年や学期の変わり目、大きな行事の前後など)。 このように自分流のルールで学校を休まない子や、「学校を休んでも良い」と教えられたことがないため、その選択肢を知らない、気が付いていないような子どももいます。 自分で訴えることが苦手な自閉症の子どもの場合は、周囲が本人の心身の変化を注意深く見ておく必要があると思います。 また、自分流のルールで「学校は毎日行くものである」という子どもの場合は、"学校を休む"という選択肢もあることを伝えておく必要があると思います。 この文章を読んで、「学校を休んでも良いと教えるなんて何事か!」「学校を休んでも良いと言ったら、学校に行かなくなってしまうじゃないか!」というご意見を持たれる方もいらっしゃると思います。 しかし、自閉症の人たちは、自分で自分の体調の変化や限界に気が付きづらいため、それに対処してコントロールすることが苦手です。 実際、私は「もっと早く休むことができれば、こんな状態にならなくて済んだのに」という人たちをたくさん見ています。 一度

発達障害の診断は受けるべき?

「発達障害だと思うのですが、診断って受けた方がいいですか?」と、ご家族の方や本人から尋ねられることがあります。 人それぞれなので、一概に言うことができませんが、私は必要性を感じていないのなら受ける必要はない、と考えています。 診断を受けることで、福祉サービスを受けられたり、障害者雇用枠で就職ができる場合があります。 しかし、それ以外での利点はあまり見当たらないのでは、と思っています。 発達障害について理解の進んでいる国の場合は、「私は発達障害を持っています」と明らかにすることは、周囲の理解を得られ、生活しやすくなることもあるでしょう。 しかし、日本の場合は、発達障害ということが明らかになったとしても、一般の人たちから受け入れられ、理される場合は少ないと言えます。 また、当事者の方たちのお話を聞くと、発達障害を持っていることを周囲に伝えない方が傷つくことが少ないのでは、とも思ってしまう状況です。 本人が自分が他人と違うことに気がつき始めたり、自分のことを知りたい、生きづらさの訳を知りたいと思った場合には、診断を受け、自分の特徴について明らかにしていくことは良いと思います。 現状のままで特に支障がない、診断を受けなくても自分の特徴が分かり、それに応じて対処している、という方は診断の必要はないと思いますし、いくら周囲が発達障害があると思っていても、診断を受けるように勧めることはあまり意味のないことだと思います。 障害は本人の中にあるのではなく、社会と自分との間に壁ができたときに現れるのだと思います。 発達障害を持っている人すべてが診断を受けているわけではありません。 診断を受けずに、また自分が発達障害を持っていることに気が付かずに生活を送っている人たちも大勢います。 その方たちのように、発達障害を持っていたとしても、それが障害になって現れないような、また気づく必要がないような、一人ひとりの違いを尊重した地域、社会を作っていくことが望ましいあり方ではないか、と考えています。

「はこだて子ども白書」を頂いて

函館の子どもに関わる現状や課題をまとめた「はこだて子ども白書」を実行委員の方から頂きました。 市内の子どもから保護者、教育関係者のアンケートが基になっています。 実行委員の方のお話では、アンケートは一字一句変えずに原文のまま載せてある、ということでした。 その中で、お子さんが障害を持っている保護者の方たちのアンケートに注目しました。 保護者の方たちの意見として共通する部分は、「支援者の専門性」「市内に高等養護を」「将来の不安」でした。 保護者の方たちの意見は、本を読んでいただければと思いますので、私の思った感想を書きます。 「支援者の専門性」は、もちろん必要なことだと思います。 しかし、すべての支援者を専門家にすることはできないと思います。 ですから、私は数は少ないかもしれませんか、きちんと知識と経験と技能を持った専門性を持った支援者が支援や教育に権限と責任を持つシステムを作ることの方が現実的だと思っています。 「市内に高等養護を」は、以前に書いたブログの 『高等養護学校を作ろう!』 に詳しく書いています。 市内の学校の統廃合が計画されていますので、その空いた学校に高等養護を作るという意見が多くありました。 しかし、函館市には国立の養護学校がありますので、新しく学校を作ることは難しいと思います。 ですから、今ある公立の高校に特別支援学級のような教室を設けることが現実的な話かと思います。 でも、できることなら私立の特別支援学校ができることがベストだと思っています。 既存の価値観にとらわれない柔軟な教育、真の特別支援教育ができる学校を。 「将来の不安」については、保護者の方たちの切実な思いが伝わってきました。 常に見えない不安がある。 いつまで経っても不安が消えることのない毎日。 そんな保護者の方たちを一人にしないことが大切だと思いました。 保護者の方が調子が悪いとき、何か用事があったときに、子どもを安心してみてもらえるところを増やしていく必要性を感じます。 私は療育を通して、子どもたちに将来の自立、働く力をつけ、保護者の方たちに少しでも安心感を与えられるような仕事を行っていきたいと思いました。 少数意見でしたが、放課後の療育の場、支援機関の情報がない、という意見もありましたので、『てらっこ塾』としては、みなさんに知っ

物理の勉強と社会性の勉強は同じ!?

もし文系のあなたに、「これから物理の勉強をしてもらいます」と言われたらどうだろうか? 私だったら気が重くなるし、逃げ出したくなる。 今更勉強しても物理の問題が解けるようになるとは思わない。 しかし、ときに支援者は自閉症の子どもたちに対し、同じような要求をしていることがある。 「順番を守りましょう」 「自分の気持ちはきちんと伝えましょう」 「他人の気持ちを大切にしましょう」 「集団の中ではルールに従って行動しましょう」 これらの要求は、定型発達の人たちなら成長の過程で自然に学び、身につけていることである。 だから、これらの要求に対して、特別な難しさは感じないし、できるようになることが当たり前のように感じてしまう。 しかし、自閉症の子どもたちにとっては、こういった社会性のスキルの習得は難しいことである。 何故なら、社会性の違いは自閉症の中核的な特性だからである。 自閉症の子どもたちにとって社会性のスキルを勉強することは、文系の人に物理の勉強をさせるようなものである。 どちらも苦手なことを勉強していることには違いがない。 また、その困難さは人によって異なるため、自閉症の子どもの中には社会性のスキルを獲得することは、「相対性理論を解説できるようになれ」と言っているくらいに感じる人もいるかもしれない。 支援者は、定型発達の視点と自閉症の視点を自由に行き来できることが求められる。 物理の難しさと社会性の難しさを同じように考えられるかどうかが、支援者として大きな違いになる。 自閉症の人たちに「定型発達の視点を想像しなさい」ということは難しい。 だから、定型発達の私たちが自閉症の視点を想像していく。

そろそろ学校の呪縛から解き放たれてもよいのでは?

何か子どもたちに問題が起きると、すぐに「学校学校」と言う人がいる。 「教員の質が下がった」 「今の教育システムが悪い」 などと言う。 確かに学校の中に何らかの引き金がある場合は少なくない。 しかし、「学校が悪いから、子どもたちに問題が起きた」というように、原因と結果が一方通行の単純な捉え方で良いのだろうか。 学校が子どもたちに与える影響は大きいだろう。 でも、学校が子どもたちのすべてを左右しているのではない。 家族、地域、友だち、テレビ、ネット、過去の経験、性格・・・。 そろそろ学校の呪縛から解き放たれなければならない。 学校は、子どもたちの人生を豊かにするための選択肢の一つでしかない。 例え学校に問題があったとしても、他で学ぶことができれば良いのではないか。 学校がすべてではない。 学校を批判しても何も変わらない。 現実問題として、今の学校は以前なら家庭や地域、社会が担っていた学びまで受け負わされている状態といえる。 私たちが行うべきことは、犯人捜しではなく、子どもたちが学ぶことのできる選択肢を一つでも多くすることではないのか。 「学校で適応できなかったから、はい終わり」という社会から、いつでも、何度でも、どんなスピードでも、どんな場所でも、学ぶことのできる社会へ!

支援のレベルを下げることに抵抗する支援者

スケジュールやコミュニケーションカードの表示レベルを下げたり、数を減らしたりすることに抵抗感を持つ支援者は意外と多くいます。 活動の移行がスムーズにいかなくなったから、写真のスケジュールを具体物にしたり、提示数を3つだったものを1つに減らしたりする。 コロコロ変化させることは本人の負担にもなるので、頻繁に行うことは避けなければなりませんが、ときに本人の状態に合わせてレベルを下げていくことも大切な方法の一つだと言えます。 このような前の段階に戻すことに抵抗感を持つ支援者には、2つの誤解がある、と考えられます。 1つ目の誤解は、「前の段階に戻す=後退する」というものです。 実際、私が本人の状態を見極め、視覚的な手立てを前の段階に戻そうとしたら、「そんなことをしたらできなくなるじゃないか」と言われたこともあります。 しかし、考えてもみてください。 自閉症の人たちは、一度記憶したものは時間が経ってもしっかり覚えています。 長期記憶が優れている自閉症の人たちは、むしろ忘れることが苦手だとも言われています。 ですから、一度身につけたものを以前の段階に戻したからといって、できなくなるようなことは考えにくいです。 もし前の段階に戻してできなくなるのでしたら、前の段階に戻したことが問題なのではなく、今やっている段階が本人の状態に合っていない支援であった、と考えることが自然です。 2つ目の誤解は、「支援の段階を上げていくこと=成長」というものです。 確かに、今まで1ケタ同士の足し算しかできなかったのが、2ケタの足し算もできるようになる。 ひらがなの他に漢字も読めるようになる。 跳び箱が3段から4段跳べるようになる。 というようなことは"成長"だと言えます。 しかし、支援は段階を上げていくことが目的ではありません。 支援は方法であって、目的にはなりません。 支援があることで、本人の理解が高まったり、安心感が得られたりする先に目的があります。 より良い生活が送れることや新しいことを学べられることが目的になります。 ですから極端なことを言えば、支援の段階はどこだって構わない。 本人が理解でき、安心できるものだったら何でも良いのです。 支援の段階がより高い方が優れている、というようなことはありません。 特に視覚的な支援は

自閉症専用のアパート

学生専用、女性専用のアパートがあるのだから、自閉症専用のアパートを作れないかな、と考えたりします。 一般的なアパートと同じように、部屋はそれぞれ独立していている。 ただ、部屋を借りることができる条件が"自閉症の人"ということ。 アパートの管理人を私が行い、何か困ったことがあったら、相談にのれるようにしておく。 談話室など共有の場所があれば、住人同士でお茶などしながら雑談できるようにしたら更に良い。 何故、私がこのように考えるようになったかというと、それは地域で暮らしている自閉症の人たちの実態を見ているからです。 成人した自閉症の人たちの多くが、親御さんと一緒に暮らしています。 親御さんと一緒に暮らすこと自体が悪いことであるとは思いませんが、一人で一般的なアパートを借りて生活することへの不安があるためやむを得ず、という場合が多いです。 いくら自分で働いて収入を得ていたとしても、働く以外の部分についても一人で行い、安定した生活を送ることは大変です。 ましてや人間関係や環境の変化などに不安を感じやすい人たちです。 困ったとき、心身が不安定なとき、近くで助言し、手助けしてくれる人が必要だと言えます。 既存のグループホームでは、他人の介入が多すぎる。 一般的なアパートを借りて、一人で暮らすには不安がある。 そんな自閉症の人のためのアパートがあったら良いとは思いませんか? 管理人が自閉症の人たちの支援ができる。 隣に住む人も自閉症の人。 何かあったら相談に乗ってくれたり、共感してくれたりする仲間がいれば、もっと前向きに生活が送られると思います。 一歩外に出れば、自閉症以外の大多数の中で活動をしなければなりません。 家に帰ってきたときくらい、自閉症の人たちの中で、自閉症のままで、ほっと息がつける、そんな住環境が作れたらな、と思ったりします。 人口がどんどん減っていく日本で、今あるアパートは空き部屋が多くなることは目に見えています。 それだったら、親御さんと一緒に暮らしている自閉症の人たちが、安心して一人で暮らすことのできるアパート経営というのも良い案ではないでしょうか?

「ストレス」という言葉は疑え!

「ストレス」という言葉は、使い勝手の良い言葉だと思っています。 何か問題や不調が起きると、「〇〇がストレスになった」「ストレスが溜まっていた」というと、聞いている方もなんとなく納得してしまう。 でも、"ストレス"って何でしょうか? "ストレス"は見ることができません。 目に見えない"ストレス"を自閉症の人が捉えることは難しいことと言えます。 それは支援者も同じです。 自閉症の本人がうまく捉えることができない"ストレス"を支援者がどうやって特定することができるのでしょうか。 ストレスは人の行動に影響を与えます。 でも、そのストレスが何なのか、そもそも影響を与えているストレスが一つだけなのか、わかりません。 問題が起きたとき以前にストレスを感じたことがあったかもしれません。 フラッシュバックの影響もあるかもしれません。 ですから、ストレスを支援の根拠にすることは危険です。 本人も、支援者も、答え合わせのできない計算問題を解いているようなものですから。 根拠のない支援は、問題を更にこじらせる危険性があります。 根拠のない支援は、支援方法が正しかったのか、間違っていたのか、確かめることができません。 (ということは、今後の支援に活かすことができません) ストレスを支援の根拠にすることは、"特定できないこと"以外にも避けるべき理由があります。 それは支援の方向性が「ストレスをなくそう」という方に向かってしまいかねないからです。 環境をコントロールすることには限界があります(他人の関わることだったら、永続的には、どんな場所でも?)。 またストレスと思われる事柄を遠ざけているばかりでは、本人の活動の幅を狭めてしまいます。 本人が混乱したり、不適切な行動をとってしまったときは、目に見えないストレスから支援を組み立てていくのではなく、 ◎情報や刺激が多くなかったか? ◎その場面で求められていることがきちんと伝わっていたか? ◎その場面で必要なスキルを身につけていたのか? ◎過去と同じような場面でも、似た行動が出ていなかったか? ◎体調はどうか?(睡眠、排便、食欲など) など、必ず客観的、他の人から目に見て確認できることであり

いつまでも心配な我が子

私が身体の心配をする方なのに、両親は息子の身体のことを心配する。 親というのは、いつまで経っても子どものことが心配なのだろう。 それは2歳の息子を思う私と妻と同じように。 障害を持った子どもを持つ親御さんは、さらに心配なことも多いだろう。 そんな親御さんの心配を少しでも和らげることができたら。 個人事業の強みは、異動もなければ、定年もないこと。 「地域に我が子のことをずっと見守ってくれる人がいる」という存在になりたい。

学校と塾が手を組む

元日から続いていた朝日新聞の教育2014「世界は 日本は」 帰省先の実家で毎朝興味深く読んでいました。 少子化が続く中、生き残りを探る塾と、学力向上、進学率という結果を求める学校の思惑が一致し、学校の補習を塾が担うということが始まっている、というような内容の記事がありました。 質の高い教育を受けられる子どもたちはもちろんのこと、多忙を極める教師としても、生徒獲得が大変な塾が手を組むことは、それぞれ利点の多いことだと思います。 教師にとっても、実質的な負担の軽減だけではなく、塾の教え方から学ぶことも多いのではないでしょうか。 このような学校と民間の塾が手を組むことは、特別支援教育の中でも行えないか、と考えています。 特別支援教育のニーズは年々高まっています。 特別支援教育は、本来一人ひとりに合わせた教育をきめ細やかく行うものです。 しかし、現実的には個人に合わせた教育を行うことが難しい状況です。 だったら、特別支援教育でも民間の力を借りればよいのではないでしょうか。 放課後、一人ひとりに合わせて、じっくり教えてもらう。 夏休みなどの長期休みのときに、日頃できないようなことを集中して教えてもらう。 学校で学んだことを家庭でもできるように教えてもらう。 学校という既存の場所、施設はあるので、あとは固定観念を捨てられるか、決断することができるか、という頭の中の話だけで、新しい特別支援教育を作ることができます。 また民間の塾にしても、生徒を確保し、経営を安定させることは大変難しい時代です。 これから発達障害を持っている生徒を専門にした学習塾も必要になってくると思います。 発達障害の子どもたちが教科学習、受験の勉強に対応できる学習塾があれば、本人たちはもちろん、家族にとっても嬉しいことだと思います。 まだまだ開拓されていない分野だと思いますので、民間の塾の経営者の方は考えてみてはいかがでしょうか。 発達障害児コースというものを作っても面白いと思います。 2014年は、お互いの弱点を補い、強みを活かし、発展していけるような関係をいろいろな職種の人たちと作っていければと考えています。

抱負~2014

皆さま、あけましておめでとうございます! 2014年の初日をどのように過ごされましたでしょうか? 私はおせちを食べたかと思ったら、昼食、そして夕食、と食事に追われた一日でした(笑) 最近は会う人会う人に「痩せたね」と言われていましたので、お正月の間に一年分の貯えをしたいと思います。 2014年はと言いますと、大変ありがたいことにいくつか皆さまの前でお話させていただく予定が入っています。 お話させていただく対象の方やテーマは異なりますが、聞いていただける皆さまに私が一番伝えたいことの「自閉症の人たちの素晴らしいところ」「自閉症療育の楽しさ」をお伝えできれば、と思っています。 そして引き続き、地域に住む自閉症の人たちの直接的な療育を大切にし、昨年よりも多くの人たちに成長する喜びを実感してもらいたい、と考えています。 昨年できた縁を大切に、お互いの強みを生かした部分的な協力による相乗効果を目指し、支援者間でも新しいサービス、仕事を作っていきたいです。 またこのブログを通して、私が新しく学んだこと、教わったことを皆さまの日々の支援に生かしていただけるよう"わかりやすさ"と"等身大"をテーマに発信していきたいです。 本年もてらっこ塾は、「自閉症のままで生きられる地域、社会」を目指し、精進してまいります! それには皆さまのお力添えが必要ですので、志を共にする皆さま、本年もよろしくお願い申し上げます<(_ _)>