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【No.1482】素人時代良い援助者だったのに経験を積むと下手くそになる現象

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私は教育大卒で、私以外の同期のメンバーはみんな教員をやっています。 年齢は40代に入り、それぞれどのような経過をたどっているのかわかります。 「あの人は、センスあるな」 「あいつは箸にも棒にも掛からないだろう(笑)」 など、若い時分の私なりの感想が現実になったり、ならなかったり。 同様に支援者としてアドバイスを行ってきた人たちも初心者と言える段階から中堅、ベテランへと推移しています。 長年、どう表現したらいいか、どんな名前をつけたらいいか、迷っていることがあります。 それは素人時代の治せる人、発達&成長を後押しできる人が、どんどん真逆の方向へ進んでいってしまう現象です。 神田橋先生の書籍の中にもたびたび出てくる状態、変化ですが、名づけられていないようです。 どうして経験や知識が増えると子ども、当事者のためにならない支援者になるのか。 なんかいい名前ないですかね(笑) 支援級、支援学校に赴任した同僚たちは、「どう教育したらいいのか」「どんな力をつけさせてあげたらいいのだろうか」「そもそもコミュニケーション自体が難しい」といった悩みをもち、四苦八苦しながら日々を過ごしていました。 「自分はなにもできていない」と彼らはよく言っていたものです。 しかし外から見る私からすれば、その試行錯誤の日々の中で先生である彼らと生徒である子ども達がともに成長している様子を感じていました。 今振り返れば、そのとき、彼らが持っていたものは「子どもの身になる」ということだったのでしょう。 知識や経験がない分、目の前にいる子どもから情報を得、そして彼らの視点に立った教育、援助ができていた。 自閉症という診断名でも、知能指数がナンボでもなく、純粋にその子を見ていた。 まさに教科書がその子自身であり、その子のための教科書を作っていくことを行っていたのでしょう。 初めて赴任した支援級の先生、支援教育の免許を持たずに来た先生が担当した子が驚くほどの成長を見せた、というのはよくある話です。 知識や経験が増えると、最適化を求める脳は貯蔵した記憶からパターンを導き出し、「こういったタイプの子は、こういった教育が良いだろう」と進めて、ずれが生じてしまうこともあるでしょう。 知識が増えれば頭でっかちになり、子ども達のノンバーバルな発信に気がつけず、下手くそになるパターンもあるでしょう。 知識や技術を持てば使いたく...

【No.1481】医療側の意見の受け止め方

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学校に合理的な配慮を求めた。 だけど、「できる部分とできない部分がある」という返事だった。 結局、学校側はやりたくないという印象を受けた。 だから家で頑張るしかありませんね。 みなさんも一度や二度、このような話を耳にしたことがあると思いますし、「私がそうだった」という親御さんもいると思います。 私も過去に何十件も相談を受けました(笑) 私立の学校、自己完結できる配慮に関しては受けいられる傾向がありますが、「公立」「義務教育」「中途半端な田舎」が組み合わさると絶望的です。 「先生のお手を拝借」はとにかく反応が渋い(笑) そういった状況を打破しようと、小児科、児童精神科医の意見書をもって学校との交渉に向かうご家庭もありますが、それで状況が変わることは稀です。 医療と学校は文化と管轄省庁が違いますから。 学校を動かすなら教育委員会です。 「医療に学校、教育の何がわかるか」が本音ではないでしょうか。 実際、医療側の意見書を拝見することがありますが、基本的に「患者のために周りが尽くせ」という書き方なので印象が悪いし、そもそも現実的ではない提案が多いと感じます。 もちろん、すべて患者さん中心の個別対応ができればいいですよ。 音の静かな個別の教室を用意し、この子だけの試験問題を作り、この子だけの試験官が付き、この子だけの評価ができればいうことはありません。 しかし学校は集団で、かつ学ぶ場です。 ある学校の先生から 「医師の診断、意見で、『朝起きられない』『午後の授業になると体力が持たない』『子ども同士の声や音に強いストレス、不安を感じる』というような話がありました。これは遅刻や早退はやむを得ないから認めましょうということなのでしょうか。子どもの声に配慮することは困難で、どうしたらいいか悩んでいます」 といった相談を受けたことがあります。 まじめな先生ほど悩みます。 だけど、学校は医療機関でも、養生を目指す場所でも、発達を促す場所でも、ありません。 冷静に考えれば、「心身の不調は医療が担当で、お前が治せ」です。 正直、症状を障害という固定化されたものと定義することで、責任逃れしているにすぎません。 だから医療側の意見という名の要求は、学校側からすれば単に「負担を強いられた」という印象、認識しか生まないのです。 こういった治療を行っていて、こういった経過を辿り、回復、改善、治癒してい...

【No.1480】自閉症支援に東洋的な知見を取り入れた“その先”

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私が学生だった頃、自閉症支援といえば欧米でした。 その頃、ギョーカイの中心を担っていた教授や医師、支援者はこぞって欧米に学びに行き、その最先端といわれる知見、技法をどんどん輸入していました。 中には「あっちの先生たちがアメリカなら、私たちはイギリス、ヨーロッパに」など、意地とプライドをぶつけ合うような姿も見ることができました。 幕末の動乱と一緒にしたらいけないのでしょうが、結局、どの外国勢力と組むか、どの国に学ぶのかといったところは日本の文化、メンタリティーなのかもしれない、なんてことを思ったりもしていたのを懐かしく思い出します。 1970年代から始まった欧米への留学と輸入、宣教師たち(?)の受け入れ。 それは今も続き、ギョーカイの基本は欧米から生まれた技法で形作られています。 しかし、いくら環境を調整しようとも、いくら代替手段でコミュニケーションを取ろうとも、いくら分析しご褒美と無視で行動をコントロールしようとも、本人の内側にある生きづらさは解決しません。 2000年代以降、知的障害を伴わない自閉症の人達の手記、声が届くようになりました。 彼らの生きづらさの根っこは身体の不具合であることが知られるようになったのです。 いち早くそういった当事者の人達の身体面に関する不具合に気が付き、その声を届け、同時にその解決方法を模索してきたのが出版社の花風社さんです。 そして神田橋條治先生との出会いを経て、東洋医学に学び、実践している人たちがそういった身体の不具合を治す知見を持っていることを知り、出版を通して世の中に届ける活動をしてきました。 その結果、今では整体や鍼灸、中医学の人達が援助者として加わり、同時に親御さん達の選択肢の一つになるくらいまでになったのです。 自閉症支援に東洋的な知見が加わる。 欧米の知見から東洋の知見へ。 それは対症療法から根本治癒への流れであり、自閉症という特殊な人から「あなたも、私も発達障害」への流れだといえます。 またこの変化の中にいた私から見れば、モルモット的な扱いはやはり日本人には、日本の文化にはなじまなかったのだといえます。 で、なんで今日、こんな歴史を振り返るみたいなことをしたのかといえば、この流れがわかっていないゆえに選択ミスをしている親御さん達がいるからです。 欧米の療法がよいか、東洋の療法がよいか、という二項対立の話ではありません。...

【No.1479】嫌いな人から褒められるのはrewardになるのだろうか

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子ども時代、母親に尋ねたことがある。 「お母さんはどうして褒めないの?」 テストで100点を取っても「当たり前たい」 運動会で1位になっても「当たり前たい」 絵画展や作文コンクールで入賞しても「当たり前たい」 ちっちゃなことでも、とにかく褒めてくれた父親とのギャップを感じ、質問した答えは「たまに褒められるけん、そんことは忘れんくなる」と。 そのとき、妙に納得した思い出があります。 確かに母から褒められたことは今でも覚えているし、父から褒められた内容はなにも覚えていない(笑) いまは学校でも、なんと職場でも「叱らない」「ほめて伸ばす」ということらしい。 息子のテストの答案に「very good!」って大きく書いてあるから100点取ったんだと思ってみたら何問も間違っていた(笑) 間違ったところは丁寧に説明が書いてあり、そこにも「こうすれば完璧!」と書かれていた。 大きくペケだけを書いたら、クレームが来るのだろうか。 「間違いは間違いだから」は間違いな世の中なのか。 いま、教員免許を使って私が小学校の先生になろうもんなら、1学期も持たずにクビですね(笑) 当然、特別支援の世界も、カルピスの原液のような甘々な世界が広がっています。 とにかく褒める。 褒め倒す。 その子が理解していようがいまいがお構いなしに褒める姿は、褒める教ですな。 一応、褒めていれば親からクレームはこない。 褒めていれば、自分のスキルのなさを隠すことができる。 まさに褒める者が救われる世界。 そんな様子を見ていたら、昔いたABAの人たちの姿を思い出します。 あの人たちは、問題が起きれば無視し、(支援者側が)望ましい行動をしたら褒めて、お菓子をあげる。 彼らは本気でお菓子や賞賛に教育的効果があると信じていた。 だけど、考えてほしい。 嫌いな人から褒められるのは、ご褒美になるのだろうか、と(笑) やっぱり好きな人から褒められるのと、嫌いな人から褒められるのでは受け取る側の感じ方も変わってくるでしょう。 でもABAの人達はそこを考えないですね。 だって、彼らは「見えている行動のみ」で判断する人達だから。 気持ちや体調、今日その行動をするまでの流れ、昨日までの生きてきた物語はすべて観察できないことなので切り捨てる。 だから、ABAに傾倒する支援者というのは子ども時代、機械やおもちゃをいじくりまわしていた人が多いの...

【No.1478】教祖と信者 教祖と子ども

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支援者の集団の中にひょいっと石を投げる。 すると、ほぼ100%愛着障害を持っている人に当たります。 それくらいこのギョーカイ、対人援助の世界は愛に飢えた人で溢れかえっています。 自らを助けるために。 ずっと抱えてきた「この世の生きづらさ」に答えを出すために。 その集団の中で“有名支援者”になる人たちがいます。 そういった人たちは子ども時代から「生きづらさの正体はなにか?」「それをどうしたらいいか?」と考え続けてきた人でしょう。 そしてその中で知的に優秀な人が独自の理論や体系を作り、有名支援者になっていく。 もちろん、ただの優秀な人が作り上げた理論ではありませんので、その理論は一風変わっています。 自分は生きづらさを抱え、愛着障害の当事者でありながら、それを隠して作った理論だからです。 隠すためには美辞麗句が必要になります。 有名支援者というのは、誰にとっても耳触りの良いキャッチフレーズを作る天才です。 そんな前向きで、愛に溢れたキャッチフレーズのもとには、有名になれなかった愛着障害の支援者、援助者たちが集まってきます。 みんな、同じように愛着障害を隠し、同時に誰かを癒す存在になると思えることで自らを癒そうとする。 教祖と信者の完成です。 教祖は信者が集まってくると、蓋をして押し込めていた愛への飢えを開いてしまう。 治すから有名になったのに、有名になったら治せなくなるのは歌舞伎の型のようなものです。 最初の一口を食べて、あとはご馳走さんが、賢い利用者のコツになります。 ここまでは今までに私が何度もお話してきたことでおさらい。 で今日のメインはこちら。 有名支援者はもちろんのこと、支援者、援助者、学校の先生は、お子さんとの関係に苦労している人、子育てに悩んでいる人が多い。 何度も顔を合わせるような関係になると、「実はうちの子、不登校で」「実は家で大変で」と打ち明けられることも数知れず。 離婚率が高いのは暗黙の了解の世界。 いつの時代も定番な陰口「まず自分の子をどうにかしたら」というママ友達の会話は的を射てると感心する(?) この原理はとっても簡単。 本能に近い愛情への渇望と、幼少期からずっと、中には胎児期から続く愛着障害を抱えて生き抜くためにはヒトの脳、頭で抑え込むしかなかった人が多い。 ちなみにそれができなかった人は、症状として重篤になり、患者側になる。 患者側になら...

【No.1477】無意識のアセスメント

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子どもの「おはよう」という声を聴くだけで今日の体調がわかる。 玄関で靴を脱ぐ様子を見るだけで学校でなにがあったかわかる。 みなさんも子ども時代、「母に見透かされている…」と感じたことはなかったでしょうか。 とくに女性は小さな変化に気が付きやすいという特徴をもっています。 無意識のアセスメントです。 たまにですが、支援者に対する助言や指導、育成のようなこともやっています。 そこでもやっぱり筋が良いのは女性です。 男性は見たもの、聞いたものをそのまま受け取り、過去の経験や学んだ原則などを用いて論理的に解釈しようとします。 ですから、刻一刻と移り変わる生の子どもとの間にタイムラグが生まれ、すぐに置いていかれます。 そして迷子になって、「もういいや」と匙を投げたり、「俺には別の道がある」と論理の世界である資格獲得へと向かったりするのです。 女性が持つ不満の一つである男性の「共感不足」は、そもそも掴んでいる情報量に大きな格差があることも影響しているかもしれません。 良い支援者、女性のような豊かなアセスメントは表面的な情報に引っ張られません。 難しい人は「言葉や行動は真実ではないこともある」と自分に言い聞かせる必要があるでしょう。 ときに言葉(や行動)は真実を隠すための道具になる。 子どもがなにか言葉を発したとき、それを言葉として聞いているようではダメです。 まず言葉ではなく、動物のさえずり、鳴き声という側面に注目します。 そうすると、その言葉からその子の体調や気分を読み取ることができます。 またやりとりで生じた反応時間を観察することで、その子の脳の状態、脳機能を確認することができます。 どのくらいでレスポンスがあるか。 耳から音が入ってすぐに返事、リアクションがあるか。 ちょっとした間があるか。 その間はどのくらいあるか。 そういったことを感じ取ることで、脳の神経伝達の状態を確認するのです。 また言葉以外のリアクションを観ることで、神経同士の繋がりの状態を確認できます。 言葉、口や喉以外に、身体のどういった部分が動員されているのか。 表情が変わらず、手足のジェスチャーが見られない子と、目や頬が動き、手であれこれ指し示す子では違いがあります。 さらに感情が乗った言葉か、一つひとつの音の羅列か。 発する言葉の種類や使い方によって、どのくらい概念理解があるか、抽象的な理解があるかな...

【No.1476】子の自立、親の自立、援助者の自立

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もう久しくFacebookを開いてない。 通知は来ているけど。 「私が勝手に呟きます」「どうぞご自由に」というXやインスタ。 一方でFacebookにはそんな雰囲気がなくて、会ったこともない人からの友達申請に邪気を感じてしまう(笑) 職歴でいえば、福祉職員と教員で、いまの自営業の3つだけど、やたらめったら繋がろうとする職場はなかった。 いや、私自身が避けていたのかもしれない。 いい大人がわざわざ集まって何が楽しいのかわからない(笑) 時々、こんな私でも「繋がりたい」「コラボネガイマス」と言ってくる人がいるけど、ほぼ断ってきた。 私が関わりを持とうとするのは尊敬できる人、学びたい人、協働することでその子、その家族、その地域が今よりも良くなる、と思えた人に限っているから。 「なぜ、人は群れるのか?」なんてことを想像してみる。 たぶん、それは生存戦略の一つなのでしょう。 この人と組むことで、売り上げが上がる、確保できる。 事業がピンチになったとしても、(仲良くしていれば)助けてもらえるかもしれないというリスク管理。 あと、このギョーカイで多いのは、強い不安と愛着障害を持った人が多いということ。 みんな、何かあるたびに集合写真を撮りたがる。 集合写真が美しいのは高校生まで。 おじとおばの…以下自粛(笑) ここからはまじめな話で、ひとを援助するというのは孤独じゃないとできない仕事だと考えています。 別の言い方をすれば、孤独に耐えうる土台がないとできない。 援助の対象者は困っている人。 その困った状態から抜け出したいと願っている。 彼らが援助者に求めているのは問題の抱え込みではなく、問題からの自立です。 いまは困難、生きづらさを抱えているけど、いつかそこから解放され、自らの足で歩んでいきたい。 そんな願いを後押しするのが援助者の役割。 いつかは去っていく存在で、援助者の存在を忘れたとき、その人は真の自立に繋がるといえるのです。 新年度が進んでいくと、「先生の指導方針がかわった」「昨年度の先生の方が良かった」「担任同士の引継ぎができていない」などという悩み、相談が多くなります。 もちろん、指導や学習の継続性は重要ですが、違う視点から見れば、先生、援助者が変わるくらいで影響を受けてしまうこと自体が問題なのです。 誰が先生で、援助者だろうが、自らで考え、行動し、学んでいける人を育てて...