2021年6月10日木曜日

【No.1173】笑顔のアセスメント

ラジオでのお便りに返事をしている際、パッと出てきた言葉ですが、「笑顔のアセスメント」は大事だと思います。
子どもが笑っていると、その遊び、活動は心地良いもの、と私達は無意識に判断していますが、実際はそうではないこともありますね。
「ソファーでピョンピョン跳んでいるとき、いつも笑顔なんです」という親御さんがいましたが、実際その様子を見ていると、顔は笑っているけれども、心地良いような感じがしませんでした。
むしろ、「やらざるを得ない」感がプンプンしていて、辛ささえ伝わってくるのでした。


「笑っているから、楽しい」わけではないことを学んだのは、施設職員時代です。
笑顔で自傷している人もいましたし、怒りながら涙を出しテレビゲームをしたり、おやつを食べたりしている人もいましたので、必ずしも表情と感情が一致しているわけではないのだと感じました。
あとスキンシップ遊びを求めてくる子に応じていたら、最初笑っていて途中からパニックになる子も。
特に知的障害の重い人達は、表情のバリエーションが乏しく、泣くか笑うかで、中間の表情がない感じがします。
確かに生まれたばかりの赤ちゃんは笑いませんし、認知症が進んできたご高齢の方は表情が失われていきます。
認知機能と表情は連動していますので、表情の豊かさが認知機能の豊かさであり、表情が感情のすべてを表しているのではない、ということを知りました。


我が子の遊び、活動、動作を、そのままやらせておいて良いか、止めるべきか、で悩まれる親御さんは少なくないと思います。
子どもの表情、笑顔は大事な判断基準になるのですが、「笑顔=快・発達に繋がる活動」というのは言い切れません。
ですから私がどうしているかと申しますと、常日頃の表情の確認、アセスメントも行うのです。


「遊んでいるときの表情はどうか?」
「おやつなどを食べたときの表情はどうか?」
「関わり遊び(くすぐりやスキンシップ)をしたときの表情はどうか?」
「何もしていないときの表情はどうか?」
「不快や拒否のときの表情はどうか?」
「リアクションに対して、表情が出るまでの時間はどうか?」
あとは成育歴の中で表情のバリエーションの変化と認知機能の状態を確認します。
このようにしてその子の表情を多面的に評価したうえで、笑顔=快なのかを判断していきます。


笑顔と心地良さが一致している場合は、家庭生活の中でたくさん笑顔になれることを増やしていくことが、そのまま発達に繋がります。
一方で笑顔が必ずしも本人の心地良さと繋がっていない場合は、別の判断基準を見つける必要があります。
身体を観るプロフェッショナルな方達が仰っているように、「呼吸が深くなる」「身体が弛む」などもありますし、「表情が自然になる」「声の大きさが一定になる」「動作がスムーズ」「テンションの波が小さくなる」「立ち方・歩き方」「口の開き具合」「食欲」といった変化でも確認することができます。
もちろん、一人ひとり違いますので、何がその子の心地良さの表れか、を確認していく必要があるのです。


ちなみに表情を作る顔面神経の出発地点は脳幹の橋からであり、そこでは舌の味覚(舌前方2/3)と唾液腺・涙腺の分泌も司っていますので、味覚を育てること、つまり、いろんな味を覚えることが表情のバリエーションを育て、結果的に認知機能の発達にもつながっていると思っています。
そう考えると、赤ちゃんはお腹が空くと涙を流して泣き、同時に唾液も口の中に広がる。
で、おっぱいを貰って、穏やかな表情になり、いろんなものを何でも口の中に入れて舐めるようになったくらいから表情の変化が見られるようになる。
そして離乳食から幼児食と移行し、複雑な味を感じ、味覚が広がっていく中で表情と認知機能が豊かに育っていく。


つまり何を申し上げたいかと言いますと、「笑っているから良いんだ」と言えるには、関連するその他の発達も確認する必要がある、ということです。
この表情を一つとっても、日常生活の中での表情が出る場面の確認と、味覚は育っているかな、学習面での発達はどうかな、と多面的に確認しなければなりません。


療育施設や支援級の連絡帳に、「今日も笑顔がたくさん見られました♪」みたいなことがかわいい文字で書かれているのをよく見かけますが、そのたびに「こんな友達メールみたいなことばかり書いているから、勘違いしてしまう親御さんが出てきてしまうんだよ」とツッコミを入れています。
まあ、特別支援の教科書には、こんなアセスメントの仕方は書いてなくて、特徴的な言動しか載っていませんので、特異性を見つける=アセスメントとなっているのでしょう。
それこそ、異常を見つける医療モデルのアセスメントですから。
それではいつまで経っても、子ども達の発達に繋がるアセスメントはできませんね。
間違い探し、ダメ出しでは、発達援助はできません。





2021年6月9日水曜日

【No.1172】マスク出産に「酸素は足りている」と平気で言えちゃう医療だから、発達障害は治せない

妻に出産時のマスク着用について尋ねたら、「ただでも苦しいのに、マスクなんてつけたら死ぬ」と言っていました。
今のように出産が病院でとなったのは、昭和30年代なので、今の子育て世代から見れば、祖父母の代。
それまではずっと自宅での出産で、まさに命がけで出産していたわけです。
だからこそ、その命の危険から母子を守るために、医師がいて病院がある。


マスク出産に対して、「それでも酸素は足りている」と発言していた医師がいました。
確かに命を維持できるだけの酸素量は保たれるのかもしれません。
でも、それは医学的に決められた範囲であり、酸素の値です。
決して個別の条件は考慮されていませんし、何よりも「苦しい」などの主観は無視されています。
胎児期の発達等の勉強のため、いくつか医学書を読みましたが、そこにも「苦しい」などの本人の内面的な表現はかかれておらず、すべて酸素量がとか、顔の赤みだとか、客観的に見て取れるものだけを判断基準として書かれていました。


ですから「苦しい」と訴える妊婦さんを前に、「(酸素の値は正常の範囲だから)酸素は足りている」と言うのだと思います。
まさに西洋医学を体現している。
酸素量が足りなくなれば、呼吸器を付け、熱が出れば解熱剤で、咳が出れば咳止め。
不安が強くなれば、精神科薬を出し、寝れなくなれば睡眠薬、そして副作用で便秘になれば整腸剤。
数値が判断基準のすべてで、主観を極力排除する。
症状と対処法が一対一なので、足し算の医療です。


発達障害が病気の一種だとしたら、「この症状にはこの対応」というような医療が成り立っていたかもしれません。
しかし、発達障害は病気ではありませんし、何よりも本人が困って初めて支援のニーズが出てきます。
近頃では1歳代くらいから医療に行く親御さんも少なくないですが、そのとき、子どもさん自身は困っていないわけです。
病気でもなければ、本人が困ってもいないものに、医療ができることはほとんどないといえるでしょう。


発達の遅れは病気ではありませんので、医療の対象外だといえます。
ただ日本のシステム上、行政的な支援を受けるためには、医師の診断が必要な場合が多いので、行っているだけです。
単に、医療が既得権益を離さないだけ。
「歯科医師には、接種させないぞ」と言っている医師会と一緒。
「医療が何とかしてくれる」と思うのは大いなる勘違いです。
だって、発達の遅れは治療ではなく、育てる部分だから。
つまり、そもそもが医療ではなく、子育ての話なのです。


神経発達を促す薬ができれば、発達障害は医療の対象になるでしょう。
しかし現時点ではそのような薬はありません。
ですから、できることは家庭生活の中でよりよく育てていくことのみ。
そしてそのとき重要になってくるのは、発達の主体である子どもさん自身の主観です。
よくハイハイを抜かした子にハイハイをさせているご家庭がありますが、そもそもが子どもさん自身、ハイハイを抜かしたことに困っているのか、今、そこを育て直したいのか、尋ねてみることが大事だと思います。
「ハイハイを抜かしたからハイハイをやる」というのは、「(数値は正常範囲だから)酸素は足りている」とかぶります。
大事なのは、酸素量が正常範囲に入っているかよりも、本人が苦しいかどうか。


ハイハイをやらなかったのは、病気ではなく、発達のヌケです。
発達課題をやらずに飛ばした状態を見ると、それ自体が悪いものであるかのように感じてしまうかもしれません。
そうなると、すぐにそれを取り除こうという思いが出てきてしまう。
で、親御さんは焦るわけです。
早くクリアしようと焦り、焦るからこそ、子ども自身の声、主観に気づけなくなる。
ハイハイを飛ばした子にハイハイをやり直しさせることは大事だけれども、それが今か、それを最優先に行いたいか、は一人ひとり違います。
そういった一人ひとりの違いに気づき、またじっくり耳を傾けられるのは家族しかいません。


「いま、あなたはそれを育てたいと思っているの?」
「それを育て直したいというニーズを持っているの?」
そういった問いかけを持ち続けていれば、発達援助の方向性は間違うことはないと思います。
発達のヌケや未発達は、排除すべき対象ではなく、その子がより良く育つための入り口ですね。
発達には、主観と酸素が大事!




2021年6月4日金曜日

【No.1171】直感と心地良さの科学

このブログは、だいたいジョギングやジムで運動しているときに思いついたものを文字にしています。
一方でラジオやメール相談、実際の発達相談での回答は、その瞬間、パッとひらめいたものを言葉にして伝えています。
言葉で表せば、文字のブログは「ひらめき」であり、発達相談は「直感」なのでしょう。
そんな話が、昨晩観た「ヒューマニエンス 40億年のたくらみ」という番組で紹介されていました。


京都の哲学の道が有名だったり、経営者などがマインドフルネスを取り入れたり。
そうやって敢えて考えないような時間、ボーとするような時間にも脳は活発に動いていて、創造やアイディアの着想に繋がる話は知っていました。
しかし、直感に関しては大脳基底核が関わっていたなんて知らず、そういったものが科学の力で明らかになったことに驚いています。
なんとなく、直感が働く人、直感が良い人というのは、今までの経験や情報の記憶から瞬時に引っ張りだすのがうまくて、かつそれがすぐに動きとして表せられる人なのかな、とは思っていました。
ですから、直感を磨くというのは、ある程度、情報の蓄積が必要で、あとは…という状態でした。


番組には将棋のプロ棋士の方がゲストとして出演されていましたが、その方の直感に対する表現が興味深いものでした。
将棋を指しているとき、直感が閃いたときは「美しい感覚がある」「芸術作品のような感じがする」そしてその手を打った瞬間、「心地良い気持ちになる」と仰っていました。
将棋は一見すると、指し手を読んでいき、「こうしたら、相手はこう動く」のような論理的、法則的、数学的な思考に思われがちですが、プロの棋士は芸術に近い感じで指していることがある。
昔読んだ羽生善治棋士の著書にも、「直感が7割」などと書かれていました。
たぶん、数え切れないくらい将棋を指し、学んできたプロ棋士の方達は、莫大な記憶の蓄積の中から瞬時に解答を導き出す力が長けているのだと思います。


勝ち筋を見つけた一手が直感的に見えたとき、「心地良い気持ちになる」と表現したことに対して、それは「大脳基底核が感情ともつながっているからだろう」と脳科学の研究者の方が見解を述べていました。
ということは、神田橋先生の「心地良いを大切にする」というのは、心地良いを指針とする=直感が働いている状態だと考えられます。


子育てや発達援助が上手な親御さんと言うのは、特別支援や療育、発達障害の知識が豊富な親御さんよりは、むしろ、あまりそういった知識や情報に振り回されていない親御さんだと感じます。
そしてそういった親御さんは、ご自身の直感をうまく活かしながら、「こうやったらいいかも」「こんな遊びが楽しいかも」という具合に、子育てをされ、子どもさんもそれに応えるようにしてどんどん発達成長されている印象を受けます。
我が子が治ったと喜んでいる親御さんというのは、「やっとの思いで」「苦労に苦労を重ねて」というよりも、ご自身も楽しみ、笑顔が多かった気がします。


つまり、親御さんが「心地良い」ことを実行されている。
「心地良い」は親御さんの直感が働いている状態であり、その直感の源はどこかといえば、今までの体験や記憶だと思います。
その豊富な記憶の中から、直感的に我が子の発達に良いアイディアを導き出している。
じゃあ、その記憶は何かと言えば、我が子と過ごしていた時間における出来事だけではなく、親御さん自身が生きてきた人生、そのものも含まれているのだと思います。
当然、我が子と親御さんは遺伝的に受け継いでいる部分がありますので、親御さんの人生の中での体験も、貴重な情報になると言えるのです。


ですから、我が子の子育て、発達援助をより良いものにしていくためには、我が子、親である自分、またその親である祖父母、3代の記憶と情報にアクセスすることが重要なんだと私は結論付けました。
勉強熱心で、いろんな資格を習得する親御さんほど、子どもの発達につながらないことを行っているように感じます。
これは療育や支援という表面的で乏しい情報にアクセスしているからではないでしょうか。
自閉症や発達障害、支援のプロになれたとしても、我が子の専門家になることはできないのでしょう。
我が子の専門家になるためには、親の代から受け継いだものの中に、そして親である自分の人生と、我が子が歩んできた時間の中に答えがあるのだと思います。


ラジオでの相談も、実際に家庭に伺っての発達相談も、一発勝負です。
だからこそ、感じるのですが、後から振り返ると、どうしてあのような発言、助言になったか、自分でも不思議に思うことが多々あります。
そして終わった頃には、「心地良かった」という余韻だけが残っている。
たぶん、私が今までに学んだこと、素晴らしい実践家の方たちから教えていただいたこと、実際に関わったご家庭、お子さん達から得たことに、アクセスできているのだと思います。
反対にイマイチだった発達相談には、綺麗事、教科書的な回答と引き換えに、心地良さがありません。
いくら感謝されても、申し訳なさが出てきてしまいます。
まだまだ私は知識が足りず、直感をコントロールすることができていないのでしょう。


大脳基底核は、古い脳、伝統脳の部分です。
つまり、親としての直感、私のような支援者としての直感を上手に働かせるには、やはり心身を整え、大脳皮質ではなく、感覚的な刺激を味わい、楽しむ機会が必要なんだと思います。
親御さんが緊張不安が強い→直感が発揮できない→大脳皮質で考える→答えを外に求める→子どもが見えない→発達が進んでいかない→緊張不安が増す→無限ループ。
親御さんの心身が整っている→直感が働く(心地良い)→3世代の知識、知恵、情報にアクセス→子どもに合った子育て→どんどん発達成長→親御さんが子育てを楽しむ→心身が整う→…。


子育て、発達援助の指針を「心地良さにする」というのは、非科学的に見えるかもしれませんが、こうやって後から研究が進み、明らかにされることがあります。
それこそ、エビデンスが出るのを待っていては、子ども達はあっという間に大人になってしまいます。
「エビデンスがある」というのは、現時点でわかっていることであり、未来永劫正しいわけでもありません。
反対に「エビデンスがない」ことだったとしても、まだ科学、研究のほうが検証するだけ追い付けていないということもあるのです。
エビデンスよりも、目の前の子どもがどうか、ですね。
エビデンスよりも、親御さんの直感のほうが3世代という歴史と情報の重みが違いますね。




2021年6月3日木曜日

【No.1170】「一人の人間がいる」という視点

遺伝子ワクチンについては、20年前から研究、治験、動物や人への接種が行われていようですが、ご存じの通り、今までは認可されて大々的に接種されることはありませんでした。
SARSやMARSに対しても、遺伝子ワクチンの治験が進んでいたものの、ADE(抗体依存性感染増強)が確認されたため、実用化に至っていません。
ということは、これだけ世界中で多くの人が接種することは初めてなわけです。


既に他のウィルスで遺伝子ワクチンが用いられ、他のワクチン並みに安全性が担保されていれば、「リスクは少ない」「メリットのほうが大きい」と言うことができるでしょう。
しかし、誰も分からない。
特に1年後、5年後、10年後の長期的な影響は人類が体験したことがないので、「分かりません」としか言いようがないのです。
でも、専門家やSNSに現れる医療従事者は、口を揃えて安全性を強調し、副反応は微々たるものだ、と主張しています。


確かに理論上は、安全なのかもしれません。
今、接種後に表れている副反応の割合を見ても特異的な数字ではないかもしれない。
接種後に亡くなった人は、ワクチンとの因果関係がはっきりしていないのかもしれない。
しかし忘れてはいけないのは、非常時ゆえに認可されたものであり、今まさに「治験中」だということです。
ある程度、治験が終わり、長期的な経過が確かめられたうえで、副反応が〇%、死亡者が〇人というのならわかりますが、今は治験の最中ですので、一人ひとりの状態や予後を丁寧に確認する必要があるのではないでしょうか。
その一人ひとりから得られた情報を基に、ワクチンの有効性や安全性を主張するのが筋だと思うのです。


「治験中」ではありませんが、まだ発達障害の分野も発展途上であり、わからないことだらけの分野だと言えます。
一昔前までは、「脳の機能障害」とし、「生まれつきで治らないもの」とされ、できることは対処療法か、服薬、または周囲の理解や支援でした。
しかし、その時代は終わり、神経発達症となり、その神経にアプローチすることで改善や治癒を目指す方向へと進みだしたのです。


未だに「自閉症だから構造化」などのマニュアル対応がされています。
またIQの数値が高くなったり、支援級から普通級に行ったり、手帳を返上したりすると、「それはたまたま」「もともと軽かった」などと、診断が外れ、治らないと言われていた特性が治ることを認めようとしない人たちがいます。


彼らからすれば、たった数パーセントの稀な事例、誤差のレベルなのかもしれません。
でも、「生まれつきで脳の機能障害で治ることがない」というのは事実ではなく、仮説だったのです。
その仮説が崩れ、今はまた神経発達症という概念で捉え直し、当事者の人たちがよりよく変わっていけるためのアプローチを改めて探っていく時期だと言えます。
診断名が外れるくらい発達・成長するのは、切り捨てるべき数値ではなく、活かすべき、学ぶべき一人の人間の姿なのです。


ギョーカイの支援者たちは、診断名が外れたり、支援が必要なくなる人のことを異常値扱いし、その人個人と向き合うことをしてきませんでした。
ですから、誰が相談にこようがお構いなし。
個ではなく、診断名で支援や助言をしているのです。
まるで個人の差、人種の差、そして長期的なリスクを見ないワクチン推奨派の医療従事者のようです。
とにかくできるだけ多くの人が接種し、それで亡くなる人は「少ない確率に当たっただけ」「医学の進歩にはつきもの」と。
そこに「一人の人間がいる」という当たり前の視点が無視されている。


「42万人死ぬ」といった人は、「人々が何も対策をしなかったら」という前提で数値をはじきました。
まさに「一人の人間がいる」という視点が抜け落ちています。
数字しか見ていないから、計算を間違うし、それによる人々の反応を想像できていなかったのです。
感染症の専門家にとって、ウィルスをゼロにするというのは、彼らの目標であり、悲願なのかもしれません。
でも、そういった数だけを見ている人間も、社会の中には「一人の人間がいる」ということが見えていないのでしょう。
医師会は金という数字を見、与党は、首長は世論調査の数値だけを見ている。
同じように長い間、ギョーカイは診断基準に当てはまるかどうか、どれだけ長く支援を利用してくれるか、という数値しか見てこなかった。
だから、よくなった人、自立できた人、治った人は、異常値として切り捨ててきたのだと思います。


この一年間、「ウィルスに勝つ」「ワクチンで克服できる」「ゼロコロナ」など、大脳皮質でしか物事を考えられない人達の姿を目にしてきました。
大脳皮質は新しい脳であり、デジタルでしか捉えられない部位です。
日々の陽性者数に一喜一憂し、富岳の計算で驚き、あれだけ未知のウィルスだからと怖がっていたのにもかかわらず、人類初の未知のワクチンを我先にと接種しようとしている。
人間の劣化は、大脳皮質を肥大化させ過ぎたことかもしれません。
伝統脳を使い切れない人は、物事の本質を捉えることができず、表面でしか考えることができないのでしょう。


神経発達症の子ども達は、大脳皮質の問題ではなく、伝統脳の部分の発達のヌケと遅れの問題だと考えられます。
ですから、彼らの発達を後押しする大人たちも、伝統脳を使いこなせるような準備をしておく必要があると思います。
数値や文字、デジタルな情報では、目の前の我が子のことを理解することはできません。
できたように思ったとしても、それは自分が記憶している情報と我が子の共通点を照合しているだけです。
「ああ、うちの子にも聴覚過敏がある」
で、その先が見えてこないのは、そういうことです。
聴覚過敏にはイヤーマフ、環境調整というのは、ボタンを押したら出てくる自動販売機と一緒。
「なぜ?どうやって育てたらいいの?」には、デジタル化できない感覚を発動するしかありません。


そこに「一人の人間がいる」というのがわかるのは、大脳皮質ではなく、伝統脳の仕事。
人間が見えない人には、子育ても、発達援助もできないでしょう。
ギョーカイの言う支援とは、数値の上がり下がりであり、支援対象か否かの世界。
発達障害があるかどうかではなく、大事なのは目の前がより良く発達成長していける視点ですね。
それは動物としての本能と感覚、哺乳類としての愛着が能力を発揮する部分です。




2021年6月1日火曜日

【No.1169】専門バカは治せないけれども、親御さんは治せる

この事業を起ち上げたのは、2013年4月で、その前年度は支援学校で臨時の教員を行っていました。
施設職員を辞めたあと、すぐに事業を起ち上げようとも思ったのですが、どう考えても学校との関わりは出てきてしまうので、「実際に内部で働いてみることも必要」と大学で取得した教員免許を使ったのでした。
事業を行っていく上で、「施設職員→てらっこ塾」よりも、「施設職員→教員→てらっこ塾」のほうが何となく守備範囲が広い感じがしませんかね(笑)


一応、教育大でしたので、学生時代から授業の補助や教育実習、ボランティア活動などで学校、先生と関わる場面は多かったと思います(ちなみに児相での活動も4年間行っていました)。
で、一般社会から言えば、とても狭い世界だと思うのですが、大きな施設、福祉の世界でも働いた。
そういった中で見てきた教員、支援者、有名どころの教授・医師・支援者から感じたのは、意外に情報更新ができていない、ということです。
一見すると、新しい知識や情報を学び、取り入れているようですが、ベースの部分が変わっていないという感じです。


よく学校でも、偉そうな先生はいるものです。
40代中盤から55くらいの先生で、やけに自信がある。
で、その言っていること、教育法が最新の知見に基づいているかといえば、その先生が一番勉強した時期であり、充実していた時期の生徒さんをベースにしたことを言っている。
偉そうに「この子は、大変なお子さんです」なんて言うけれども、それはあんたが見てきた子の中で、「大変」って言っているだけでしょ、ということが多い。
この仕事をしてからも、学校主催の支援ミーティングに呼ばれて伺ったけれども、基準がその先生の過去の経験、特に自分が充実していた頃、担任だった生徒だから、話がかみ合わないわけです。
重い軽いはど~でもいい。
いま、話し合いの中心にいるお子さんがどうなのか、そこを話し合いたいのに。


これは学校の先生に限らず、支援者も、医師も、教授も、同じようなことがあります。
治せない医師ほど、診察室で数分観ただけで、診断名を下し、将来の予言までしてしまう。
親御さんの「なぜ?」「どんな点から?」という自然な疑問に対し、「私が言うからそうなんだ」と言う。
「親のあなたにはわからないことが、専門家の私には分かるんです」とムキになって言う医師、なんていう話を聞いたのは一度や二度ではありません。
支援者も同じで、自分が関わってきた人の中から、「この人は重い軽い」「自閉症にはこういった支援だ」みたいなことがありますし、専門家と呼ばれる人になればなるほど、自分が師匠から教わった療法にこだわり、そこを基準に人を見ようとする。
だから、「この人は合う・合わない」と、失礼なことを目の前で言ってしまうのです。
その合う合わないは、自分が専門とする療法に合う合わないでしょ。
自分の得意な領域に入らない人しか行えないのなら、それは単なる専門バカです。


施設職員時代は、子ども達が通う学校にムカつく先生が若干名いたので、よくぶつかっていました。
で、そいつらが20代の私に向かって、「私は教員生活〇十年だ」などと言ってきたのです。
ですから、「せいぜい一年間で担当するのは一人、二人、三人の生徒だろ。20年でも多くて60人しか関わっていないくせに、何でも知ったかぶりをするな」と言い返してやりました。
またやられたら倍返しですので、「学校の先生は、24時間関わったことがあるのか?休みの日、夜寝るとき、どうやって過ごしているのか知っているのか」と付け加えてあげました☆


でも、こういったやりとりや教員の実態、働く中で福祉の世界や有名支援者たちの実態を見聞きしてきたことは、今の仕事のベースになっているんですね。
まず何といっても、「関わってきた人数が大事」
教員生活38年といっても、担当してきた生徒の数は100人ちょっとなわけです。
そんなたった100人と関わったくらいで、自閉症、発達障害の子ども達のことなどわかりませんし(盲聾・肢体不自由など障害種も様々ですしね)、どうしても指導や視点が過去の生徒に引っ張られがちです。
良くも悪くも、教員は経験主義なところがありますので。
ですから、私は事業を起ち上げるとき、とにかく一人の人に長くかかわるのではなく、できるだけ短く、かつ多くの人と関われるような仕事にしたいと考えました。
最低でも1,000人くらい関われると、「過去の誰々さん」というヘンな基準ができなくなりますので。


あとは、「特定の療法にこだわらない」
施設職員時代は、それが最良だと思い、TEACCHを中心に学びましたが、それだとすべてTEACCHの考え方、基準で、子ども達を見てしまうことになります。
そうなると、先ほど紹介した通り、TEACCHに合う子合わない子、という失礼な見方が出てしまいますし、合わない子には何もできない、ということになってしまいます。
そんな支援者の実力、狭い了見によって、本来の主体である子どもが左右されてはならないのです。
なので、中心はTEACCHでしたが、良いと言われるものは別の療法も、別の分野のアイディアも勉強し、取り入れるようにしていました。


今、振り返ると、特別支援の世界に入って、よく喧嘩していたと思います。
でも、それが今に繋がっている。
私が若いときに感じていた矛盾や理不尽さ、特別支援の世界におけるおかしなところを反面教師とし、今はその逆を行っているのですから。
特別支援教育の民間版、福祉施設の地域版では、一瞬で潰れていたでしょう。
全額を払っても受けたいサービスが提供できなければ、民間はやっていけませんしー。


私は特定の子どもさんや療法など、ベースはもっていません。
そして、これは親御さんとも共通することだと言えますし、親御さんの長所でもあると思うのです。
初めて親になり、初めて発達障害を持つ子と関わることになる。
ですから、外付けの基準がないわけです。
でも、子育ては行っていかなければならない。
そうしたときに、必要になってくるのは「我が家の子育ての基準」になります。
子どもの笑顔でもいいし、子どもが没頭している状態でもいい。
親子が心地良くなるでもいいし、私が幸せでもいい。
とにかく親御さんの内側に基準を持つことだと思います。


子育てで悩まれている親御さんに共通することとして、この基準を外に求めようとする傾向があるように感じます。
入門書に出てきた自閉症という基準、同じ支援級のあの子、よく成長している先輩ママの子、SNSで繋がっている親御さんの子、専門家・支援者・教員の言葉…。
基準が外に行けば行くほど、我が子から遠ざかっていき、またそこに当てはまる当てはまらないで一喜一憂することにもなります。


もし比べるのなら、昨日の我が子と今日の我が子ではないでしょうか。
昨日との変化が分かりづらければ、1か月前の我が子、半年前の我が子、1年前の我が子、です。
そのような視点で見ていけば、必ず変化があるもので、良い変化は今後の子育ての指針にもなります。
親御さんの内側に「心地良い」「幸せ」「楽しい」などの羅針盤を持つ。
そして比べるのなら、過去の我が子と今の我が子。
この2つを確立することができれば、子育てという軸が定まってくると思います。
ちなみに私の内なる羅針盤は「良い雰囲気」と「家族みんなが幸せ」です。
で、基準はやはり過去の姿と今の子どもさんの姿。
でも、私は他人ですので、「ヒトの発達」を補助として基準にしています。
「専門バカは治せないけれども、親御さんは治せる」、その理由とそれができるためのアイディアの一つでした。






沖縄出張について(6月19・20日)

 6月18日(金)から3泊4日の予定で沖縄に伺うことになりました。

【予定】
6月18日(金)移動日
6月19日(土)9:00~12:00 / 14:00~17:00
6月20日(日)訪問宅決定! / 訪問宅決定!


他県とは異なり沖縄県内のみの募集になるため、ひと家族になる可能性が高い中、「それでも」と出張の依頼をしてくださいました。
出張では初めて伺う沖縄であり、他のご家族の希望があるかどうかはわかりませんが、もし発達相談にご興味ある方が沖縄県内にいらっしゃいましたら、お問い合わせください。
どうぞよろしくお願い致します。


詳細を確認したい方は【出張相談問い合わせ】と件名に書き、お問い合わせいただければ、ご説明いたします。
出張相談についての内容は、てらっこ塾ホームページをご覧ください。
ご依頼&お問い合わせ先:メールアドレス


2021年5月31日月曜日

【No.1168】「われ思うゆえに、そうである」という助言

都知事がまたおかしなことを言い始めました。
今度は、「20時までに仕事を終え、帰宅」の号令です。
なぜ、20時にこだわるのかわかりませんが、というかなぜ、20時で仕事を切り上げることが感染症対策になるのか、教えてほしいものです。
「安全だけれども、安心ではない」などの発言からも、科学的な思考をお持ちではないのでしょうから、単に焦っているだけなのでしょう。
要請に従わないお店は増える一方、外に出る人も増える一方。
グローバルダイニングの裁判でも、ボロが出まくり。
日本は法治国家であり、憲法がある国ですので、「われ思うゆえに、そうである」というのは感情のままにワガママを言っているだけです。
首長にしても、専門家にしても、根拠を示さない我がままっ子ばかり。


私が仕事をしている上でも、この「根拠を示す」ということは大事だと考えています。
しかし、扱っているのが目に見えない「発達」ですので、ここが一番苦労するところでもあります。
まあ、研究者ではないですし、民間企業ですので、結果が出ればすべてOkという想いもあるのですが(笑)
ただそれでもやはり根拠を説明できなければ、「大久保が分かる」=「大久保に頼めば良い」という感じになってしまい、それは宗教であり、ギョーカイがやっていることと同じになってしまいますので、科学的な根拠と合わせて、子どもさんのどういった様子が確認できるから、こうなんです、という説明はしていかないといけないと思っています。


いろいろなところで、医師や支援者からの診断、アセスメント、意見書の類を見せてもらうことがあります。
しかし、笑っちゃうぐらい全国どこでも同じようなことが書かれています。
児童デイのような自動でシートを作成してくれるアプリがあるのかもしれませんが、手書きのモノもあるので、そうではないようです。
全部、昔、私が学生時代に習ったような「見通しを持たせるために予定を事前に伝える」「コミュニケーションが苦手な子は、絵で伝える」「気が散りやすい子は、掲示物を減らす」「多動な子はトランポリン」。
だいたい、こういった決まり文句を接続詞だけ変えておけば、完成です。


こういったマニュアル的な決まり文句が令和になっても生き残っているのは、ギョーカイに知識の更新がないという表れです。
これはコロナ騒動で出てくる人達と同じで、ずっと「未知のウィルス」状態。
ですから、ずっと「脳の機能障害」状態ですね。
「未知のウィルス」ゆえに、緊急事態宣言、お店は時短、収容人数は50%。
同じように「脳の機能障害」ゆえに、生まれつき、治らない、生涯支援。
でも、もう「未知」ではないし、「脳の機能障害」でもない。


あと思うのが、「未知」も、「脳の機能障害」も、その一言だけで、なんも説明していないんですね。
よくあるのが、「どうして、うちの子、不器用なんでしょうか?」「多動なんでしょうか?」「不安が強いのでしょうか?」と親御さんが訪ねると、それは「脳の機能障害だから」「特性だから」「発達障害だから」と専門家、支援者、教員は返してきます。
でも、これはなにも答えていないのと一緒です。
不器用=脳の機能障害とはいえません。
不器用な理由は、体軸の課題かもしれないし、感覚の課題かもしれないし、運動発達のヌケからかもしれないし、栄養不足かもしれないし、経験不足かもしれない。
そこの原因、根っこを捕まえ、説明するのが専門家の仕事です。
「人流を止める」というのはバカでも言えます。
同じように、「脳の機能障害」というのも、バカでも言えます。
バカで言えないことを言うから、お金を頂いて仕事ができるのです。


学校の先生や現場の支援者からも、相談を受けることがあります。
医師の意見書やなんとかセンターの助言や指示などを受けることがあるけれども、言われた通りにやっても全然うまくいかない、と。
そりゃそうです。
だって、書いてあることが視覚支援とか、ご褒美とか、環境調整とか、だけなのですから。
どうして視覚支援が、この子に必要なのか、根拠の部分、もっといえば、「この子」の部分が抜けているのです。
これだったら、発達障害という診断を受けた子なら、誰でもいいよな、というものばかり。
どうして、この子が学校で不安を強く感じているのか、その子の特徴、背景と合わせて、理由が説明されていないので、うまくいくわけないのです。
常日頃、エラソーに言っている有名支援者、医師、大学教授たちも、「なんだ、こんなもんしか書けないのか」と思うことが多々ありますね。
名前だけ変えたコピペ診断書、意見書、アセスメントばっかりです。
この前、行動療法系の支援者が書いたものを見せてもらいましたが、主語を犬に変えても成り立っていて、苦笑いもできませんでしたね。


でも、こういう私も、すべての根拠が説明できているわけではありません。
そしてこの発達という分野は、1対1で原因と結果が成り立っているわけではありません。
一言で、「言葉の遅れ」といっても、その背景は複雑です。
なので、できるだけ多く考えられる理由、背景を挙げていき、その中でも課題の改善に有効だと考えられるものを絞って伝えていく。
その有効性の基準は、「その子が育てようとしているところから育てる」「育てやすいところから育てる」「根っこ(胎児期に近い方)から育てる」です。
私の場合は、この並びで優先順位を付け、助言するようにしています。


さあ、みなさん、お手元にある専門家からもらった資料を見返してみましょう。
その文章の中に、根拠や理由、背景が記され、説明されていますか。
その文章の中に、我が子の姿を感じますか。
その助言、あなたの息子さん、娘さんだけに当てはまりますか。
よく入門書のようなものを読んで、「ああ、うちの子のことが書かれている」と思われる親御さんがいらっしゃいますが、その感覚のまま、専門家・支援者と対峙してはなりませんね。
似ているのは表面に現れる特性であり、その特性からは具体的なアプローチの仕方は組み立てられないのですから。
その子をしっかり見て、いろいろなところを確認して初めて具体的なアプローチが見えてきます。
年齢や環境、成育歴、資質、体験したもの、受け継いだもの…。
そういった個が表れる助言を貰っていますか??
「われ思うゆえに、そうである」という助言は最悪です。