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【No.1495】「私の専門は発達障害児の親です」

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「私の専門は発達障害児の親です」というような親御さんっているよね。 発達障害を持つ我が子を育てる、が生活のすべてで、人生そのもので、生きる目的になっているような。 そんな人は、子どもの変化、反応に一喜一憂して、なにか問題が起きるとガクッときちゃう。 ひどい場合は「もうだめだ」「諦めるわ」と立ち直れなくなる人もいて、親御さんのほうがうつ病などを発症するケースもある。 こうなると、発達援助という話どころではなくなるね。 どうしてこんな風になるのかな、と長年考えてきました。 一番は「頼ったけど、期待を裏切られた」という経験の積み重ねかなって思う。 医師のところにいけば、治すための治療やアドバイス、それができなくても改善する工夫や方法なんかを教えてくれると思ってた。 だけど、診断して終わり。 で、「発達障害は治らないし、生涯にわたる支援が必要」と親の、家族の希望を打ち砕く。 療育機関に行っても、根本から変わるわけじゃない。 学校も、福祉も、できることは限られている。 となると、親御さんが抱え込むしかなくて、必然的に親子が一体化しちゃう。 「この子を守れるのは、育てられるのは私しかいない」と。 あともう一つの背景は、「ああ、援助者の影響か」ということ。 援助者の多くは仕事として関わっていますよね。 仕事としての援助。 だから、関わっている子ども、人が成長したり、改善したりすると、それが喜びに繋がる。 一人でも多くの発達障害者に良い援助ができることが目標になったり、生きがいになったりする。 で、そのテンションで、その姿勢で親御さんと面談や助言を行う。 「発達障害を改善することこそ、もっとも価値があることなんです」って。 こういう援助者が多いんじゃないかな。 援助者というよりも、技術者、サービス提供者、支援のための支援者といえるかもしれないね。 支援マニア、オタクも交じってると思うけど。 こういう人達はほんとに困ったもので、親御さんの人生を狂わせちゃっていることもあるな。 発達障害を持つ我が子を育てる以外の生きる目的がなくなってしまったら危ないの。 当事者の人との発達相談では、発達障害の治療や改善が人生プランにならないように気を付けるのが基本となってるんですよ。 治療や改善から切り離された生きがいや目的、自分の人生プランをもてるように援助することがもっとも大切なことなんです。 だ...

【No.1494】発達相談は検討会

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ついこないだ『ブラタモリ』で熊本城が出てたよな、それを見たばっかりだな、と。 10年前の被災からの熊本城を復興させようと現場で汗をかいている人たちの姿が印象的でしたね。 もう一度、石を一つずつ積み上げていた石垣が再び崩れる様子を見たら辛くなった。 各地域にはそこを象徴するような山や建物があって、ひとはその大きな存在に守られているような、「ああ、私は今日も共に歩んでいる」というような気持ちをいだくもの。 熊本に住む人たちにとって、その一つが熊本城だったと思います。 今回、亡くなられた方が多数いたと知りました。 心よりお悔やみ、お見舞い申し上げるとともに、暑い中での生活、また復興に携わる方たちが体調を崩されませんようお祈りいたします。 このような大きな災害が起きると、物質的な支援、金銭的な支援、人的な支援が必要ですし、今回も地震発生後数時間で次々と支援が行われていた日本はすごいと思いますね。 日本アゲの意味ではないですが、同じような地震が起きたベネズエラでは1か月経った今でも建物も、そこに住む人たちの生活も、発生時そのままで復興へ歩き出せていない状況があります。 ただ復興(支援)では違いがある両国だけど、映像から伝わってくる“共に歩む”という気持ちの面では変わらないと思います。 被災した人たちに心を寄せ、自分にできることをする、いつもの生活を崩すことなくやるべきことをやる。 発達相談における大原則として、「それは仮説である」というのがあります。 親御さんから、または本人から「この問題、どうしたらいいんでしょう。なにか方法はありますか?」と相談される。 で、私は本人のアセスメントから、また過去に関わってきた人たちからの経験と、過去に学んだ知識、技能から、「こういった方法がありますね」と返す。 でも、これは“答え”ではなくて、“仮説”なんですね。 あくまで、「いま、この時点で考えられた仮説の一つです」という話。 この仮説がご神託のようになったらまずい。 なにがまずいかといえば、与える者と与えられる者の関係になっちゃうこと。 もちろん、100%その人に合ってて効果があるといったことはないし。 大事なのは考えられた仮説をテーブルの真ん中に置いて、親御さんと本人と援助者みんなで眺めながら検討すること。 「いま、先生はこういったけど、私が日頃見ている感じでは、ここをちょっと変えたほ...

【No.1493】翻訳機みたいな援助者

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私が通っているお店、個人でやっているところなんだけど、そには海外からの観光客もよく来ています。 欧米の白人系の人も見かけるし、アジア、黒人の人も見かけるよ。 そんな海外からのお客さんがやってくると、店主は同時通訳の機械を取り出して、パパっとコミュニケーションをとるんですね。 訊いたらいまのは通訳のスピードも、正確性も向上しているんだって。 以前のような不自然な日本語訳みたいなのもなくなって、「これ一台あれば大丈夫」って言ってた。 同時通訳、翻訳の機械が登場してもう10年くらい経つけど、いまはスマホのアプリにもなるくらいまで広がって、もちろん、中学生、小学生の息子たちも使っていますね。 英語が苦手な上の子は「アプリがあるから、もう英語勉強しなくていいんじゃね」なんてブーブー言ってる。 たしかに私たちのときのような受験のためだけの英語だったり、道具としての英語、外国語はもうアプリで良いかな、と。 でも、やっぱり言葉は道具だけど、海外の言葉を身に付けることはいろんな人との物理的、心理的なつながりを持つことができる良いものだと思う。 いくら同時通訳が当たり前の世界になったとしても、人と人との感情の交流、共感したり、ときに意見をぶつけ合うようなことってなくならないし、その価値は永遠なはず。 AIがどんどん進化を続け、特別支援の世界にも入ってくる。 で、診断はアプリ、脳の機能、働きはリアルタイムでデータをとってAIが分析してくれる。 そして極めつけは、今の状態ならこの方法が有効でダウンロードはこちら、で、画面を通じてモニタリングもしてくれて、今のやり方はちょっと違うとか、今日の達成度は96%とか、トレーニングのリードと評価をしてくれる。 もしかしたらトレーニング自体も必要なくなって、脳に直接、刺激を与えて治療する方向になるかもしれない。 診断から治療の自動化。 支援学校から福祉へのベルトコンベヤーよりはずっといいけど。 治すのはお任せで、治ったら子育て始めます。 良くいえば、役割分担。 悪くいえば、育児放棄。 ここは考え方だけど、「発達障害を治す」のは日常生活から切り離すことができるのだろうか。 私自身も「治療」や「リハビリ」という言葉を使ってる。 でも、子育て、その子を育てていく中で、その範囲内での治療だったり、リハビリだったりだと思っている。 治療“的”な子育て、リハビリの...

【No.1492】自立しない改善

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発達障害に関わる人たちの職種がバラエティーに富むようになりましたね。 20年前は学校の先生とお医者さんと福祉の支援者くらいなものでした。 そこに理学療法士なんか参入してきたときには、みんな、おっと思った。 それがここ数年で整体師さんや鍼灸師さん、音楽家や芸術家、発達障害専門の学習塾、家庭教師という人達も目立つようになってきて、で、今では人を通り越してAIまでもが援助に携わるようになってきた。 発達障害はどんどん増え続けるもんだから、「普通子対象よりもここに商機あり」という感じもあるんじゃないかな。 まあ、選択肢が「養護学校か、特殊学級か」「卒業後は福祉一本」の時代よりはずっといいと思う。 援助者が増え、親御さん達にとっては選択肢が増える。 だけど変わらないことがあって、それは「藁をもつかむ」気持ちでしょ。 援助者が増えようが、選択肢が増えようが、親の気持ちとしては「なんでもいいから、少しでも楽になる解決方が知りたい」は変わらない。 その想いが子育てに対する意欲の源泉。 目の前にそんな親御さんがやってくる。 で、「私たちにお任せください」となると、援助者自身が藁になっちゃう。 そこが今の問題じゃないかな。 商売的には「何か良いものが提供できるかどうかわかりませんが…」とはいえないから、そんな風に言葉や態度で示しちゃうんだけど、そこは一般の商売、普通の子のうちとは違って注意すべきだね。 一般の家庭のほとんどは、「藁」だと思ってやってきてない。 まあ、金額に見合う成果が得られれば、ちょっとでも成長や楽しい時間が過ごせれば、というのがほとんどだと思う。 藁になった援助者は知らず知らずのうちに、親御さんの意欲を吸い取っていく。 依存的な親が増えたし、依存的な親の子は治らないし。 だけど、その状況を作ったのって、援助者側だったりする。 サービスを提供しているつもりが、相手は藁だと思っていたというズレ。 新興宗教が年にどのくらいできているか知らないけど、ナントカ法の教祖と信者はあちこちで生まれているね。 「これさえやれば、この子は発達できます」は信じる者は救われる世界。 「藁をもすがる思い」でやってくるんだから、私は「決して藁にはならないぞ」という想いで援助者を続けてきました。 だって最悪のパターンで「大久保の言う方法は正しい」「やってみたけど成果が出ない」の次は必ず「この子が重...

【No.1491】彼らの声を聴く

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やまゆり園の事件が起きて今日で10年。 被害に遭われた方たちのご冥福をお祈りいたします。 そして加害者側の植松死刑囚は10年経った今も、当時と同じような言動を繰り返しているとのこと。 やはり「異常者が起こした異常な犯罪」となるのでしょうか。 「異常者が起こした異常な犯罪」となれば、たまたまその場に居合わせた、防ぎようがなかった、諦めざるを得ない、といった言葉が続いていきます。 また自分たちとは違う異質な存在、狂人、モンスターと切り分けることで、ほとんどの人間にとって事件は自分たちと繋がらない、ごく限られた世界の、限られた人たちに起きた他人ごとになってしまう。 もしあの事件が地域の小学校で起きたら。 もしあの事件の被害者が健常者だったら。 もしあの事件が人里離れた郊外ではなく、中心街で起きていたら。 きっと多くの人達の受け止め方も、社会に与えた影響も違って、これを機に社会システムは大きく変わったと思う。 障害を持った人たちに「生産性がない」と発言するのは間違い。 でも仕事では人に対して生産性が高い、低いというものさしが使われている。 で、それは若者、子ども達にも広がり、「コスパ」「タイパ」という言葉はこの10年間で当たり前に使われるようになった。 私達の社会は低コストで、より多い利益を求めている。 このように考えると、やまゆり園の事件は我々の社会と陸続きになって自分事になる。 ここ数年、療育、支援、様々なアプローチの中にも、「コスパ」「タイパ」の流れ、傾向が強くなってきていると感じます。 できるだけ短期間で成果を出したい。 できるだけ手をかけず、子どもの成長や発達を感じたい。 以前の親御さん達から感じていた親心、「この子の辛さを少しでも早く和らげたあげたい」との違いです。 発達障害は治ったほうが良い。 じゃあ、発達障害は早く治った方がいいの。 できるだけ手をかけず、効率よく治したほうがいいの。 みなさんはどう考えるでしょうか。 「発達障害」ならできるだけ早く、効率的に、となるでしょう。 でも、「発達障害を持った子」なら、どうなるでしょうか。 じゃあ、「我が子」なら、「〇〇くん」「〇〇ちゃん」なら。 やまゆり園の事件では被害に遭った方たちの名前の公表がされないことがありました。 被害に遭われた「Aさん」「Bさん」「Cさん」…。 「治りたい」「成長したい」「できるようにな...

【NO.1490】自閉症と筋トレ

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パターン的な動き、一定のリズムを刻む動きは、心身を癒します。 反対に複雑な動き、強弱が入れ替わる動きは脳に負荷を与えます。 だけど、その負荷は悪いものというものではなく、むしろ脳神経を刺激し、発達に繋がることもあります。 くるくる回ったり、手を叩いたり、飛び跳ねたり。 そんな自閉っ子を見かけたとき 「これは癒しの時間だな」 「それを行うことで、どんな負荷に対処しているのかな」 「そのパターン化された動きにちょっぴり広がりを持たせられないかな」 この3段階のイメージが膨らんでいければ、良い援助者になると思います。 「運動は脳にも良い」 そんな認識が広がりましたので、「どんな運動が合ってますか?」「どんな運動を我が子にやらせれば?」と相談されることもあります。 マラソンや水泳を子ども時代から継続している自閉症の人はよく見かけます。 球技やダンスなどと異なり、直線的な動き、パターン的な動きは相性が良いのでしょう。 市のプールなどで見かける障害を持った人たちのサークル活動、日中活動ではみなさんの柔らかい表情が印象的です。 日頃、刺激だらけで疲労しきった脳にとって癒しの時間です。 しかし、先に入っている私よりも、後から来てさらに先に上がっていく様子を見るたびに「もったいないな」と思います。 癒しの効果だけじゃなくて、脳神経を発達させる視点もあったらな、と。 運動すると乳酸が溜まると言われています。 筋肉で生成された乳酸は血液脳関門を突破することができ、脳の神経細胞のエネルギー源になり、さらにエネルギーとして消費されるだけではなく、脳神経の働きを調節したり、新しい脳神経を作るきっかけになったりするのです。 ですから、できるだけ乳酸が出るように、もっと時間を伸ばしたり、泳ぐといった筋肉活動を増やしたりしたら良いのにな、と思うのです。 「運動全般が苦手」 「走るのもイヤ」 でも「なにか運動したい」という大学生の自閉症の若者がいました。 一緒に散歩をしたり、ヨガやストレッチなどをしましたが、どうもこれじゃあ、刺激として足りないな、と思い、筋トレを勧めたことがあります。 力を抜くことが苦手で、身体をギュッと固めるのが得意だからというのもありました。 もともと細い子だったのでムキムキにはなりませんでしたが、自分でダンベル買ったり、YouTube観ながらスクワットしたり、結構な期間、続けて...

【No.1489】胎児期の愛着障害

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支援者に依存してしまう人っていますね。 当事者の人でも、親御さんでも。 「先生、どうしたらいいですか?」 「これで合ってますか?」 「次は何をしたらいいのでしょうか?」 ベテランの親御さん達は「ああ、愛着障害ね」って瞬時にわかると思います。 このギョーカイ、あるあるですから。 だけど、自分で調べて、自分で行動して子育てしている親御さんを見て、「あっ、愛着障害かも」と気が付く親御さんは少ないかもしれませんね。 「えっ、なんで、自立心のある人が愛着障害になるの」って思ったでしょう。 愛着をうまく形成していった先に“自立”があるって思うでしょ、普通。 もちろん、多くは順調な、時々、遠回りしながらも愛着形成がうまくいった人が自立した大人になるんです。 しかし愛着障害の人はちょっと違うんです、自立したときが。 最初にお話しした依存体質の人は生後に生じた愛着障害の人です。 依存は他者への甘えですから。 おなかの赤ちゃんは他者に甘えませんね。 他者への依存は依存先ができてから生じますし、つまるところ、関係性の、対人関係の問題といえます。 一方で自立心の強い愛着障害はというと、胎児期の愛着障害なんですね。 胎児期の赤ちゃんを想像してみると、お母さんのおなかの中で羊水にぷかぷか浮かんでいる。 自分の身を委ねてますね。 だけど、なんらかの理由があって、そのぷかぷかができなかったり、ぷかぷかが短かったりすることもあります。 そうすると、お腹にいる赤ちゃんは「早く自立しなさい」「早く自立しなきゃ、だって生きられないもん」となるんですね。 愛着形成が積み上がった先の自立じゃなくて、やむを得ない胎児期からの自立。 そういった胎児期からの自立の人は、子どもさんでもなんでもかんでも自分でやろうとしますね。 手を貸されるのを嫌がります。 知的障害の重い子ばかりの施設内でも、明確な違いがありましたね。 うまくいくいかないに関わらず、全部、自分でやろうとする子。 また大人の場合も、相談はするけど、手助け無用という人ですね。 そういった人の成育歴を辿れば、失敗続きの転んでは起き、転んでは起きの人生を歩んできたのが共通しています。 極端な場合は我が道を突き進み、周りは常に振り回され、という人もいますよ。 本人は困っていないけど(笑)、周囲が疲弊して相談のパターン。 いつから始まる愛着障害かを確認する方法は、...