投稿

【No.1511】素の息子のときと、自閉症の息子のときの関わり方

イメージ
昨日のブログを読んだ方から「素の息子のときと、自閉症の息子のときで対応や育て方に違い、コツがあるのでしょうか?」という質問を受けました。 確かに見方について書いたけど、対応の仕方については書いてなかったよね。 いま、目の前にいる我が子はその子本来の素の姿。 じゃあ、そんなときは、どうやって関わったらいいのだろうか、と疑問に思うのは自然な流れ。 こうやってわからないところ、疑問に思ったところがあったらすぐに訊こうとする。 結構、これができない人が多いと思うな。 「こんな質問したら…」「それくらい自分で考えな」と言われそうだな…とか、これはあらゆる年代、場面で見られるよね。 でも、それはまだ自分主体で考えている段階で、本気じゃないといえる。 治す親御さんは“なりふり構わず”になれるね。 というか、全部投げ出して我が子の生きづらさをどうにかしたい、少しでも楽にしてあげたい、と思えるくらいにならないと、そしてそこに行動が伴わないと、その子が辿ろうとしている発達の流れを変えることはできないでしょう。 話を戻すと、素の部分が出ているとき、険しい表情や固い表情から一転して、柔和で自然な表情、しぐさ、身体の動きになったとき、本来、その年代、その子がやっているだろうなと思うことをやってほしいな。 たとえば、一緒にままごとをしたり、本の読み聞かせをしたり、ギュッとスキンシップをしたり、親子で出かけたり、自然な会話を楽しんだりね。 そういったときの子どもさんを見ていると、脳に神経のごちゃごちゃとか、葛藤が見られないんだ。 ニュートラルで、開いている状態。 そのときなら刺激も、関わりも受け入れられますってなっていることが多い。 だから自然な交流、親子の関わり合いをやってほしいな。 これはその子の心身の安定、発達に繋がるし、それ以上に親御さんのずっと抱えてきた「ああ、普通の子だったらあんなことをしてみたかったな」という想いを解放することにも繋がると思うんだ。 口にする人は少ないけど、親なら思う自然な気持ちだから、ないことにし続けるのは心身に良くないね。 一方で「自閉っぽいな」と感じるようなぴょんぴょん跳ねたり、独り言をいったり、せわしなく動き回ったり、関わりを拒絶すような状態だったりするときは、まさに閉ざされた状態だね。 頭の中がごちゃごちゃしていて、もう苦しくって、放っておいてくれよ、辛い...

【No.1510】概念の呪縛

イメージ
この前の発達相談で、お母さんが「自閉症じゃなくなるとき」って言ってたんだよね。 このフレーズを聞いた瞬間、「このお母さん、おうちは大丈夫」って思ったね。 一人の人間、我が子、〇〇くんがいて、その子には自閉症の部分、瞬間もあれば、同年代の子と同じ部分、普通の子になるときもある。 どんな子も、朝から晩まで自閉症ってことはないよね。 ふと、普通の子、素の自分に変える瞬間がある、というのを掴めているかどうかって、とても大きなことだと思う。 障害名、たとえば『自閉症』というのはただの概念。 ここからここまでは自閉症で、ここからは自閉症じゃない、って人為的に分けて、便宜上、共通した名前を付けているに過ぎない。 その名前自体にはなんの意味もないんだけど、その名前に振り回されている人がほとんどじゃないかな。 自閉があるから情緒学級とか、自閉症だから視覚支援しなきゃとか、自閉症だからこだわりがあるもんだとか、ね。 『自閉症』という言葉のほうに、現実の生活が引っ張られるなんておかしいと思わない? 「自閉症の子は二次障害になりやすい」というドクターに、「“自閉症の子が二次障害”はわかったんですけど、うちの子はどうなんですか?二次障害になるんですか?それは決定事項ですか?」って訊ける親御さんが増えてほしいよね。 時々、「この子は自閉症で」「この子に知的な遅れがあって」「重度の知的障害があって」という親御さんがいます。 もちろん、本人は聞いていない、聞こえていても言葉の内容、意味までは分からない、という前提なんだけど、どの子もわかっちゃうよね、確実に。 行動としてその場を離れたり、ひきこもったり。 葛藤の意味で邪気が出たり、気が淀んだり。 彼らから伝わってくるのは、「そんな風にかあさんも、レッテル張りをするんだね」という声。 丸ごと、全体として自分が見られているんじゃない哀しさだね。 あと話はずれるけど、「自閉症」とか、「知的障害」とか子どもの前で言うと、その子はその枠から抜け出せなくなることがあるから注意したほうがいいね。 「知的障害がある自分」がその子の認識となって、その範囲内で成長を収めようとするから。 「アプローチ、取り組み、本人の能力から考えて伸びが少ないな」と感じるおうちは、親御さんだったり、祖父母だったり、きょうだいだったりが、日ごろからその言葉を使っていることもある。 本人の...

【No.1509】子どもに触れるその手が冷たい

イメージ
時々ですが、このブログを読んでくれた人から感想をもらうことがあります。 うれしいですね。 感想をもらえると、やりとり、交流が生まれるからね。 それがまったくないと、僕が一人で言葉を並べているだけになっちゃうから。 「この文章で、この部分に注目されたんだ」 「ここをそう解釈、捉えたのか」 新しい気づきもあるし、同じ文章でも読み手によって意味の取り方が違ってくるからおもしろい。 思い浮かべる子、今、関わっている子、一人ひとり資質と体験が異なるから、それが出るんだと思うね。 このように言葉とは曖昧なものだし、伝えたいことがピタッとその通りに伝わることはないと私は思っています、数字以外はね。 このブログだって、あれこれ書いてますが、正確に伝えようとして言葉を並べていけばいくほど、真実から遠ざかっていく感じがあります。 きっと伝わらないんだろうな、でも伝えたいな、という想いで綴ってる。 言葉は道具だから、使い方、使い手によって機能が変わってくるのは当然です。 また言葉はヒトの歴史でいえば、ごく最近から使いだしたもの。 生理現象があって、行動があって、最後が言葉。 実態の順番、信頼度の順番、正確性の順番だね。 つまり、子どものことを観察するにも、この順番が大事ってこと。 生理現象にはウソがないけど、言葉にはウソがある。 行動はその中間。 育てる順番も「言葉から育てよう」とするのは間違いだね。 まずは生理現象から始める。 疲れを感じられるようにする(生理現象)。 疲れを感じたら休むようにする(行動)。 疲れを感じて休みたくなったら「疲れた」「休みたい」と言えるようにする(言葉)。 発達相談のあと、当日、観察できたその子の発達状態や課題、発達援助のポイントと仕方をまとめた報告書を作成して、各家庭にお渡ししています。 この報告書は文章で作成したものだけど、ただ私がアセスメントして、こう育てましょう、というのを文字で書いたんじゃ、ほとんど意味が伝わらないし、活用できないでしょう。 だけど、当日、私がするアセスメントや子どもさんとの関わりを傍で見てもらってる。 気が付いたことがあれば、その場で私がぼそぼそ言って、ああでもないこうでもないと関わり方を変えていく。 こうやって私の言葉には表せない発達援助が、私が汗をかいたり、テンションが上がったり、悩んで困ったりするのを、ああだこうだと手を変...

【No.1508】身体の声、聞けてますか?

イメージ
僕は若いときから『アセスメント』というのが嫌いだったね。 なんだか「この範囲だけを見なさい」「この点を中心にみなさい」と言われているようで窮屈だったし、こんな切り貼りしたようなもんで、その人全体がわかるかいな、という反発心もあった。 管理職から「施設で使える実践的なアセスメントを作ってよ」と言われて作ったこともあったけど、納得できるものはとうとう作れなかったね。 まだ使われるのかな。 ちらっと「まだ大久保さんが作ったアセスメントシート、使われてますよ」って聞いたけど。 アセスメントを作るように命じられた背景は、教育大とか、福祉系の専門学校とか、そういう関係のある学校を出た人が入社しなくなって、「職安で募集があったから」というような職員が増えたことだったね。 結局、日々、利用者さんを観察し、評価して支援を組み立てよう、といっても、まずどこを見たらいいのか全然わからないような職員も、一応、「ここさえ見れば、ひと先ず大丈夫」となれるためのもの。 必要な評価項目を挙げていったらどんどん多くなっちゃうし、それじゃあ、初めて障害者と接しますみたいな職員は「こんなにあるなら、ああヤメタ」と使わなくなるから、最低限に項目を絞って…。 特別支援の世界にはたくさんの種類の「アセスメント」があるけど、どれも同じじゃないかって思うよ。 どこかの教授、医師、専門家が中心となって、アセスメントを作る。 そのプロセスの中で、これは重要だ、これはなくてもよいだろう、これは残しておくべきか、というのを当事者“ではない”誰かと誰かが話しあって、「こんな部分を観察しましょう」「それによって、その人を評価しましょう」とやる。 これって利益が大きいのは支援者側だよね。 なんでこんな昔話、アセスメントの話をしたかといえば、子どもと支援者のズレ、子どもと親御さんのズレが大きくなっていると感じるから。 昔から「この子は、こうなんです」と言い切るような支援者、親御さんはいたけど、いまはそのズレが単なるズレというよりも、独りよがりの見解に見えちゃうんだ、申し訳ないけどね。 その背景、理由を今日は詳しく述べないけど、アセスメントする側が、主に大人のほうが自分の身体の声を聞けてないことがあると思うんだ。 「(この子に)こんなんしたら気持ちよく感じるのですね」 「こうしたら発達のヌケが埋まって、育っていくんですね」 という...

【No.1507】場所によって表出の仕方が違う

イメージ
「保育園や学校では落ち着いているけど、家に帰ると暴れる」って話はよく聞きますね。 反対の「保育園や学校で暴れて、家に帰ると落ち着く」というのはまあ、学校で暴れる子は家でも手に負えないというケースが一般的だからね、比べると少ないけどあることにはあります。 その昔は、「自閉症は環境の変化が苦手だから」と説明されてて、家から学校、学校から家といった変化は本人にとって大きなストレスなんだろう、と言われていました。 で、ちょっと時代が進むと、今度は感覚過敏がメインになることが多くなって、「学校は刺激が多いから」「掲示物が多いのかもしれない」「蛍光灯がー」「子どもの声がー」「机を動かす音がー」となった。 「じゃあ、家よりも刺激が多い学校で落ち着いて、家に帰って暴れるのはどうして?」という疑問には、「学校で我慢した分、家で爆発するんだろう」と解釈する人が多かったですね。 あとは「学校は支援が充実していて刺激が制限、整理されているから」という家庭ディスりをする場合もあった。 今はどんな捉え方、解釈がされることが多いのだろう。 その環境に原因があって暴れる場合と、ストレスを発散できる場所だから暴れる場合と、どっちもあるんじゃないかな。 その環境の問題には、苦手な刺激がある、過剰な刺激がある、嫌な人がいる、嫌な記憶がある、嫌な活動がある、というのが考えられる。 あとはその場が楽しくて、その環境が嬉しすぎて「暴れちゃう」という場合もあるね。 興奮もストレスになっちゃうし、その興奮、感情の高ぶりをうまく制御できない、それは神経伝達物質とか、自律神経とかの問題として生じる話です。 あと主に家に帰ると暴れる話なんだけど、その理由はやっぱり外で我慢してきた分を一気に吐き出しているという面が強いと思うな。 施設で働いていたとき、結構、こんな子ども達いたもんね。 寮の玄関で靴を履き替えたら自分の居室に直行して、布団被ってワンワン泣いたり、押し入れの中にこもって大きな声を出したり。 寮に帰ってきた途端、自傷を始める子も何人もいたね。 きっと学校で相当我慢してきたんだろう、嫌なことがあったんだろう、と思ってた。 それは専門家、支援者の自分というよりも、素人、人間としての私が感じたことだけど。 そういう子たちは5分とか、10分とか泣いたら、自分で出てきてスケジュールを進めてました。 切り替えの時間の長さか...

【No.1506】対処行動は治ったら、どう変化していくか

イメージ
症状に見える行動を“対処”として捉えてみましょう、というのが前回の話でした。 で今日は、その“対処”として捉えた行動がどのように変化していくか、どうなったら理想的な形か、という部分について話をしたいと思います。 結論から先に言っちゃえば、対処行動自体は消えていきます。 そしてその対処行動を本人が作り出すためにいろんな能力を使ったと思うんだけど、それらの能力が日常生活の中で、生きていく中で有益なパターンとして発揮されるようになります。 たとえば、対処行動としての多動が「良く働き、良く遊ぶ」として使われるようになったり、頭でっかちでいろいろ考えを巡らせて対処していたのが治ったらクリエイティブな方面へと能力が発揮されたり。 他害をしていた子が適切な拒否を身に付けることで、今度は筋肉活動としてその力を使ったり、攻撃性を膠着状態を突破する、組織を改革する、といった方面へ活かせるようになったり。 物事へのこだわりが治ったら、几帳面な仕事、職人気質な作業や「正しさへのこだわり」から警察官や裁判官を志すことになったり。 同じ自傷でも、同じこだわりでも、同じ感覚過敏でも、その対処の仕方、様相は一人ひとり異なっていますね。 そこにはその人の資質が現れているんだと思います。 資質が苦しみ、生きづらさから逃れるための対処として発揮されている。 だけど、その生きづらさが治れば、より適切で豊かな対処の方法が見つかれば、そちらに使われていた資質が別の方面へと使われるようになります。 さらに生きづらさに対する対処行動を行っていたとしても、そこには絶え間ない「行動→刺激→調整→行動」といった学習、脳や神経発達への刺激が繰り返されていますので、単に「対処してました」ではなく、豊かな発達と成長があるんです。 だから、これは自閉症の症状だ、知的障害だからやる特異的な行動なんだ、で、「じゃあ、その症状とやらを抑えてしまおう」とやるのがとってもまずいんですよ。 その人の資質まで抑え込んじゃうことにつながるからね。 ギョーカイでは「二次障害」なんていわれるけど、私は医原病、支援者が支援することで作り出す病じゃないかって思ってる。 想像してみてほしいんだけど、自分の資質、能力が発揮できないことって辛いし、それは伸びやかさを奪うことだと思うんだ。 言い換えれば、内なる自由を奪う行為。 心に自由を奪われた人は、みんな...

【No.1505】それは症状か、対処行動か

イメージ
昨日の続きです。 発達に遅れや凸凹がある子ども達って、年齢にそぐわなかったり、特異的だったりする行動をするよね。 パッと見、理解することができなくて、周囲はそういった行動を「症状」の一つとして捉える。 で、それは親御さんだけじゃなくて、先生も、支援者も、医師や専門家も同じ。 乱暴な言い方かもしれないけど、「わからないものは、全部、症状に入れてしまえ」という風にも私からは見える。 「アセスメントが大事」というけど、国から予算を貰ってそういった研究はされているけれども、そもそもの見立て、見方がおかしいと思うな。 特異的な行動、ちょっと変わった行動を見たら、それを「症状」のボックスに入れるんじゃなくて、まずは「対処」のボックスに入れてみるのが大事じゃないかな。 もちろん、純粋な症状というのもあるけど、その場合も、「その症状体に対してこの子はどんな対処行動をしてきたのかな」と確認してみる。 「症状」じゃなくて、「対処(行動)」と捉える利点はいくつかあります。 大きなところを上げると、応援、後押ししたくなるよね。 「症状」だったら諦めるとか、受け入れるとか、手を出すところじゃないって感じがするけど、「これはこの子の対処行動なんだ」と思えると、どうにか力になりたい、なれるんじゃないかって思いが湧いてくる。 だって、対処するっていうのは、よりよい未来のための行動だから。 もちろん、その対処のやり方がうまくないなぁと感じることはあるけど、本人の良くなりたい気持ち、意向は変わらないもん。 あとは、その対処行動を観察することで、その子の能力や心身の状態を掴むことができる。 その対処行動に、どのくらいの工夫がされているのか。 その対処行動に至るまでに、どんな試行錯誤、経緯、周囲や環境と折り合いをつけてきたいのか。 そのあたりから、その子の持つ力、使ってきた力を知ることができるね。 対処行動がシンプルで、乱雑なものは、能力や心身の状態があまりよくないと捉えることができるし、反対に複雑で、周囲と折り合いがつく、つきそうなものは、それだけ能力や状態が良いって捉えることができる。 こういった現場のリアルなアセスメント、実践的なアセスメントって研究されないよね(笑) 研究者は曖昧な情報を捉えるのが苦手な人が多いから。 そしてこれも重要な利点なんだけど、みんなが参加できるようになるよね。 子ども達が...