2021年8月2日月曜日

【No.1180】事業所一覧の紙を渡されても

知事のお仕事は気楽なものです。
「お盆期間の帰省の自粛を求めます」とアナウンスすれば、お仕事したになるのですから。
普通、帰省の自粛をお願いするのではなく、みんなが安心して帰省ができるように仕事をするのが行政の仕事ですよね。
たとえ発症しても、安心して医療が受けられる体制作り、準備を行うのが行政の仕事ですよね。
補償はしないけれども、お願いはする。
挙句の果てに、「国民の中で危機感が共有できていないことが問題」だと、なんだか我々のほうが悪いみたいな言い方をしている。


「孫の顔がみたいから」といって、せっせと治験中のワクチンを打ったジジババも少なくないはずです。
あれだけ「ワクチンを打てば、日常生活が戻せる」と言っていたお医者様たち、専門家の皆様たちは、心が痛まないのでしょうか。
これこそ、デマ太郎が注意すべき発言だと思います。
このように言いっぱなしで責任を取らないのが専門家。
行政も、自分たちは汗をかかず、ただアナウンスするだけで、「あとは国民の責任」と投げてしまうのが本質です。


似たようなことは発達支援における行政の姿にもみられます。
なにか支援を受けようとするとき、行政で渡されるのはその地域で利用できる施設の一覧です。
たとえば児童デイなら、〇〇市の児童デイ一覧がまとめられたものが手渡され、「あとはご家族で決めてください」と言われます。
でも、だいたい初めてそういったサービスを受ける親御さんですので、いきなり一覧を渡されても、どこが良いとか悪いとかわかりませんよね。
その地域に1つか、2つかしか施設がなければ、そこまで迷うことはありませんが、今は雨後の筍状態で乱立しているところが多いので、困ってしまうと思います。
だけれども、だれもそれぞれの施設の違いは教えてくれない。
行政は責任を負いたくないので、あとからメンドクサイことに巻き込まれたくないので、意見や説明を求められても、頑なに「ご自身の目で」と言い続ける。


これって、本当に不親切なことだと思うんです。
現実的な問題として、すべての施設を見学に行くことはできません。
たとえ見学に行ったとしても、表面的なことしかわからないと思います。
本来、我が子の課題、今後伸ばすべき点がわかって初めて、選ぶ基準が生まれるのですから。
選ぶ基準が曖昧ですと、「家から近い」ですとか、「利用時間が長い」「なんとなく施設がきれい」などという視点で決めてしまいがちになります。
そうなると、親御さんは良いか悪いか分からないまま、どんな効果があるかがわからないまま、施設が説明することをそのまま受け入れて利用してしまう。
そして実際に利用し、ときが立ったのちに、「ここは違うかも」と思えてくる。
ここでの問題は、費やした時間が戻ってこないことです。
訳も分からず利用していた発達支援が、発達に繋がっていなかったとしたら、その貴重な子ども時代の時間を無駄にしてしまったことにもなります。


一覧表の紙切れ一枚を渡して、お仕事になるのなら、気楽な仕事だと思います。
ですが、それではいけないと、国のほうも見直しが始まっています。
児童デイのあり方について、その専門性、質の担保について検討が行われ、この秋にも公表されることになっています。
どう考えても、今のように申請書の不備がなければ、だいたいOKというあり方はいけないと思います。
どの発達支援も、その原資は税金になりますので、税金の使い方として質の担保なしに認めるのはまずいでしょう。
だから、今日も一日DVDとか、公園に連れていってあとは自由とか、鍵のかかった何もない部屋で過ごすだけ、というような施設が出てくるのです。


児童デイに関しては、レスパイトと発達支援を明確に分けるべきだと思います。
今は発達支援という名のレスパイトが多すぎです。
確かに、レスパイトなら、子どもさんが一日怪我なく過ごしてくれさえすればよくて、募集要項にある「未経験者も大歓迎」という人達でも可能です。
なので、レスパイトならレスパイトとしての役割を明確に打ち出し、親御さんも納得の上で利用できるようのしたほうが良いと思います。


あと、発達に力を入れていると謳っているところは、「うちは発達支援事業所です」と打ちだし、きちんと質の評価をされるべきだと思います。
今どき、スケジュールカードを使っているから発達支援している、とは言えないでしょうし、そんなレベルでは恥ずかしくて外に言えないはずです。
少なからず、神経発達症ですし、発達が盛んな子ども時代なのですから、上辺の対処法ではなく、根本的な発達に寄与するものが行わなければ、税金を使って行う必要はありません。
だったら、学童や放課後クラブ、公文やスポーツクラブなどのほうがよっぽど発達に繋がります。


つまり、税金を使うのなら、もっといえば、ほとんどの国民は利用していないサービスを一部の人たちが独占的に利用するのですから、結果が問われなければならないのです。
今みたいに、「今日の利用者は5名です」で、5名分のお金が貰えるというのはダメだと思います。
ただDVDを観せていても5万円。
一生懸命、発達に繋がるアプローチを行っても5万円。
だったら、みんな前者のほうに流れるよねって、現在問題になり、ようやく見直しのための検討が行われているのです。


コロナ騒動後、福祉予算が削られるのは目に見えています。
当然、表向きは「支援の質の担保」ではありますが、実際は予算削減のための事業者同士の淘汰を目指したものになると思います。
すると、今後は事業者として選ばれるサービスができるかどうか、そしてそれをアピールできるかどうか、がポイントになっていくはずです。
そういった近未来を考えると、事業所ごとの特色が重要になっていきますし、そこで私のほうも商売になるかな、と思っています。
特色をつけるために一番簡単なのは、特色のある人間を入れる。
「〇〇氏の定期コンサルを受けています」とか、「欧米で認められている〇〇療法の認定者がスタッフにいます」とか、がインスタントにできる方法です。
どう考えても、いちから人を育てるのは大変ですし、そもそもがこの児童デイで生涯やっていこう、と思っているスタッフがどれほどいるか。
ですから、児童デイの質が問われるようになると、私たちのような個人でやっている支援者同士の質が問われるようになってくるだろう、とふんでいます。


「帰省しないでください」「県境を跨がないでください」
というのは、やっている感だけ。
やはりそこには実際の行動と責任がなければ、責務を果たしたとはいえないと思います。
どう頑張っても、「行動の自由」の上に知事は存在しない。
同じように、ペラッと一覧表を渡すだけの福祉行政もダメ。
ちゃんと行政の責任で、事業者を指定し、そして質の担保を目指すためのチェックは行わなきゃ。
行政的な手続きはわかるけれども、行政の中にそれぞれの事業所、支援サービスの内容の説明ができる人をつくらなければならないと私は思います。




*8月27~29日の予定で関東出張を行います。28日(土)は一日予定が決まりましたが、それ以外の日程でご希望の方がいらっしゃいましたらお問い合わせください。
てらっこ塾HP→ここをクリック


2021年7月20日火曜日

【No.1179 】「雰囲気を読む」のアセスメント

マラソン世界記録保持者、ケニアのエリウド・キプチョゲ選手が出るということから、テレビをつけましたが、タモリさんの横に座っていた某ノーベル賞教授の顔の変貌ぶりに驚いてしました。
昨年、ジョギングも感染リスクがあると発信し、マスク着用を推奨していたのにも関わらず、いつの間にかその動画は削除され、何もなかったかのようにオリンピックの特集番組に登場している。
そういった単なる後ろめたさが顔に出ているのではなく、もっと深い何かが顔や表情、佇まいに表れていたと私は感じました。
医師の中には、「魂を売った」と言っている人たちがいますが、ヒトは道を外した行為をしたとき、それが周囲にバレていたなかったとしても、自分自身を騙し続けることはできないのだと思います。
そういえば、分科会会長も、ずっと悲しい顔をしていますね。
たぶん、自分が行っていることの中に、自分で気づいている嘘が混じっていることに悲しみを覚えているのでしょう。


乳幼児の子どもは、周囲にいる子どもが泣くと、自分の状況や感情に関わらず、泣き始めます。
保育園の小さな子のクラスに行くと、時折、涙の大合唱がみられます。
それはまだ自分という存在、自分という身体と他人との身体との違いが明確に理解できる発達段階ではないからです。
一人で歩けるようになり、一人で遊べるようになる。
でも、まだ自分と隣の子は繋がっているのです。
だから、隣の子が笑えば、自分も笑い、教室のあの子が泣けば、自分も泣いてしまいます。
この発達段階は、身体や感覚の未発達ゆえの共同体といった感じです。


一方で、0歳代の子ども達も、同じように近くにいた赤ちゃんが泣けば、つられるようにして泣き出しますが、1歳児以降、自分で自由に移動できるようになった子ども達と事情が異なります。
意味を解釈するのなら、生存本能としての反応です。
自分の耳に誰かの泣き声が聴こえてくる。
ということは、自分の周囲に危険が迫ってきているかもしれない。
だから、自分の親を呼ぶために泣き始めるのです。
それは笑い声が聴こえてきても笑わず、鳴き声のときだけ同調することで上記との違いがわかります。


で、さらに胎児期となりますと、同調に違いがあります。
それは母親だけに特定した同調になります。
母親の感情がそのまま胎児の感情。
へその緒でつながっていますし、胎児から見れば環境=母胎、母親ですから。
母親が感じたままに、それが胎児の感じたことになるため、母親と感情がシンクロするのです。


つまり、何を言いたいかと申しますと、子どもさんの感情の変化について、こういった発達段階を踏まえてアセスメントしていく必要があるということです。
単に感情が幼い、怖がりの性格、知的に遅れているから、発達障害だから、というのではなく、どのように感情が推移するかを確認する必要があります。
大事なのは、自分という子が確立し、状況に合った感情表出ができるようになることであり、ひとまず目指すべき姿です。


子どもさんによっては、終始泣いていたり、突然感情が爆発したり、脈絡もない感情の表出が一日中生じることがあります。
それは上記で挙げた「母子一体」「生存のための反応」「未発達ゆえの共同体」からも外れた段階に課題があるといえます。
周囲の雰囲気に気づく、同調する以前に、自分の内的な感覚、刺激に感情が振り回されている状態です。
ですから、ここは発達の段階というよりも、神経発達、もっといえば、神経同士の繋がり、ネットワークに課題があると考えられるのです。


発達相談において、お母さんが緊張していると子どもさんも緊張していて、お母さんがリラックスできていると、子どもさんも伸びやかに遊び始める姿をよく見かけます。
確かに、発達段階的に言えば、母子一体の段階ですので、胎児期の発達段階です。
でも、それが悪いわけではなく、じゃあ、そこから周囲の雰囲気に反応できる段階まで育てよう、という目標が生まれるきっかけになるのです。
同じように、園で他の子が泣けば一緒に泣いてしまう段階なら、次は自己の確立を目指し、未発達の感覚、身体を育てていこうという話になります。


これだけ全国的に猛暑で、「熱中症に気を付けて!」「昨年は子どもを含む、100名くらいが熱中症で亡くなっています」とアナウンスがあっても、かたくなにマスクを外そうとしない、また子どもに強要する人達がいるのは、マスクをすること自体が目的化してしまっているからです。
発達検査が半年待ち、就学先を決めるために検査を受けてきてください、というのは、まさにこのマスクと同じ。
「子どもさんをよく見る」ということは丁寧な確認作業を行っていくことであり、それはなぜ行うかといえば、よりよく子育て、発達援助を行うためです。
アセスメントというのは、必ず具体的な子育て、発達援助と繋がっていなければなりませんね。




2021年7月14日水曜日

【No.1178】問題の根本を知ることから始めましょう

アメリカ大リーグのオールスターは、まさにお祭り騒ぎといった感じで、超満員のスタジアムでみな、歌うし、飲むし、抱き合うし、大声を出して歓声を送っていました。
一方で、日本のプロ野球は1万人の観客で、マスク姿にパチパチと手を叩くのみ。
しかも、神宮球場からちょっと歩けば、国立競技場。
で、どういったわけか、オリンピックは無観客。
新コロちゃんはちゃんと意思があるようで、国内のイベントとオリンピックの違いがわかるのでしょう。
国立競技場は材木をふんだんに使っているので、新コロちゃんたちが集まりやすいのかもしれません、エビデンスは無いけど。
横浜球場でベイスターズの試合は有観客だったけれども、オリンピックの野球の試合は無観客という謎理論。


結局、ウィルスの問題じゃなくて、制度の問題、政治と医師会の問題でしょ。
今までのコロナウィルスのように、体調の悪い人が近所の医療機関を利用できればここまでバカ騒ぎする必要はありません。
「発熱者お断り」なんていうのを病院の扉に貼るのが諸悪の根源。
医師が病人を診なくて、何を見るのでしょう。
元気なお年寄りですか(笑)
慢性疾患を抱えた元気なお年寄りが一番おいしい商売だから、医師を志したときの「病気を治す」という想いを忘れてしまったのかもしれません。


昨日の続きですが、就学相談でも「無理して普通級(支援級)に行けば(支援学校を勧めている)、二次障害になる場合も」なんていう輩が出てきたそうです。
それは就学後とかにとっておく手だったでしょ。
就学相談でその手を使うようになったなら、よっぽど苦しくなっているのでしょう、今の親御さん達に対するのは。
ひと昔前の親御さん達は、「はい、わかりました」が多かったけれども、今はスマホですぐに情報共有ができますからね。


なにかにつけて、「二次障害になる」という言葉を使います。
「もし何も感染対策をしなければ、42万人死ぬ」みたいな西浦理論ですね。
だって、何もしないわけはないし、まったく1ミリも成長しないわけはないですもん。
で、二次障害にならなくても、決してそういった人達は謝らない。
「私が大袈裟に言っておいたから、42万人も死ななくて良かったでしょ」と同じです。
就学相談でも、その他の学校や支援機関でも、言いっぱなし、やりっぱなし。
その子がどんな将来を歩もうとも知ったこっちゃない。


もちろん、42万人じゃないけれども、死ぬ人もいれば、二次障害になる子もいるでしょう。
でも、それは少数派です。
もし発達障害の人の大部分が二次障害になるのなら、それは発達の障害ではなく、精神障害になるはずです。
そうじゃなくて、発達の障害というか、発達の遅れ、不具合な状態なのですから、二次障害がレア事例です。
そのレア事例を持ちだして、他人の家に土足でどかどか入ってくるのは失礼にもほどがある。
子育ての問題、家庭の問題なのに、どうして他人がとやかくいえるのでしょうか。


「"二次障害になる"と言われました」と相談される親御さんに対して、「だったら、二次障害になっても治してみせます」と言ってみたらどうですか、と助言したことがあります。
二次障害になるのは親御さんの問題なのでしょうか。
親御さんが支援学校ではなく、支援級または普通級を選択したことが原因なのでしょうか。
そこんとこをよく考えた方が良いと思います。
親が子どもの成長を願い、可能性を信じるのは当たり前。
できるだけ将来の選択肢を狭めないような道を選ぶのは自然なことでしょう。
で、もし学校に通っている間に、二次障害になるのなら、それは学校の問題もあるでしょ。
100%親の問題、家庭の問題とはいえないはずです。


そして私がもっとも言いたいのは、医療、支援者、あんた達です。
そもそもといえば、医療が二次障害を治せないのが問題なのです。
二次障害には投薬??
それって症状を抑え込んでいるだけで、対症療法でしかありません。
どうして二次障害、精神的な不調をきたしているのか、そこの原因、根っこから解決しないと治らないのです。
そういう意味で、二次障害になっても治せる医師が(ほとんど)いない、から縮小生産の方向へ進むのです。


二次障害になっても治せる医師がいない。
だから、二次障害にならないようにする。
そのために、頑張らせない、無理させない。1ランク下げた選択肢を選ぶ。
子どもの成長のために、支援級、支援学校なら良いのですが、二次障害にならないために支援級、支援学校はとても危険な発想です。
それがどこに行き着くかと言えば、何もしない、施設の中でただ時間が流れていくのを待つだけになって、昔の福祉に逆戻りです。
せっかく特別支援ができて、これだけ認知が進み、親御さんが利用できるサービスと知識が増えたのにもかかわらず、結局、福祉施設で一生涯面倒を見てもらえばいいや、というのは非常にまずいのです。


精神科病棟には何十年も入院し続けている人たちがいます。
福祉施設には何十年も入所し続けている人たちがいます。
コロナ後の世界は、中小企業がボロボロになり、そのまま再建できず潰れていくか、一部の大企業、投資家に買いたたかれていくでしょう。
効率効率の流れの中に、日本の社会、そして教育も飲みこまれていく。
そうなったとき、人を育てる、子が育つという一番効率から離れた場所にある大切なものが渦の中に飲みこまれる可能性は小さくありません。


既にリモート授業が行われ、これだったら優秀な一部の先生が全国の小学生、中学生に同時進行で授業を行えばよいではないか、という話も出てきそうです。
で、もちろん、それは特別支援教育を受ける子ども達にも当てはまり、むしろ普通級の子ども達よりも先に効率化の流れに飲みこまれる可能性だってあります。
何故なら、ずっと、私が学生時代から20年以上も、「どうせ、卒業後は福祉だろ」と言われているから。


どうせ、二次障害は治せないから、支援学校に行く。
どうせ、支援学校に行ったら、自立しない、一生福祉だから、一生懸命教育しない、できるだけ平穏無事に学校の時間が終わればいい。
というか、自分が担任の間だけ、問題が起きなければいい。
親御さんも、どうせ自立できないなら、支援学校でのんびり過ごしてもらえばいい。
楽しく学校に通ってくれさえすればいい。
二次障害にならないように、無理させないでほしい。
どうせなら放課後の迎えは移動支援を使い、そのまま児童デイで過ごしてほしい。
オーバーに書いてるように見えるかもしれませんが、私が約20年間で見てきた現実です。
それがコロナ騒動で加速する気配がするので、危機感を持っているのです。


病院が診てくれないから、コロナに罹りたくない。
だから、どんなに暑くてもマスクをするし、過剰な自粛と感染対策を行う。
そうじゃなくて、最初からコロナは医療が治せないし、治すのは一人ひとりの自然治癒力だと認識することです。
同じように、医療は二次障害を一時的に抑えることはできるけれども、根本から治すことはできない。
だから「二次障害になりますよ」と脅されても、結局、二次障害になろうがならまいが、自分自身で頑張るしかないし、家庭がより良い子育てを目指して行っていくしかない。
発達障害の分野において医療ができることは診断と投薬のみ。
やることは一緒なら、最初からいつでも行ける道を選ぶのではなく、チャレンジできる道を選んだ方が良いと思いますよ。
結局最後は親御さんの覚悟です。




2021年7月13日火曜日

【No.1177】丸腰で就学相談に行ってはならない

予想はついていたんですけど、やっぱりな、という感じです。
オリンピックの無観客の話ではないですよ。
支援級、就学相談の話です。


昨年とは異なり、例年通りこの時期から活発に就学相談が行われています。
で、なにが"やっぱりな"かと申しますと、支援級の普通学級化です。
以前ですと、当然、支援級になるよな、という子ども達が、「支援級は難しい」「支援学校が妥当だ」と就学相談で言われることが増加しています。
で、支援級が妥当と言われる子ども達は、どう考えても普通級で学べるでしょ、という子ばかり。
様々な方面から話を聞く限り、どうしたら普通級に在籍になるのか、よっぽど従順な子ども以外は普通級にならないでしょ、という感じです。


数年前からこの流れはありました。
どんどん支援級に入るのが難しくなっている。
で、支援学校ばかり勧められる。
もっといえば、実力から上、同等ではなく、一つ下の学校が勧められる。
頑張れば普通級で学べる子が支援級へ行き、支援級で学べる子が支援学校に行く。
それがコロナ騒動で、加速した印象を受けます。


ここからは公務員ディスりなのですが(笑)、同じ給料ならできるだけラクな方向へ流れるのが大部分の公務員の特性だと思います。
特に学校の先生は、売り上げなどの成果が目に見える形にはなりません。
しかも、コロナ騒動で、いろいろとめんどくさいことになっている。
だったら、平時でもラクしてお金を得たいな~と思いがちの人達なのですから、少しでも楽になりたい、じゃあ、クラスの人数は減らしたい、と思うのは自然な感情でしょう。


普通級の担任は、できれば一人でも児童が減ってほしい。
で、ちょっと従順ではない子がいれば、「支援級へ」となる。
常套手段は、「苦手な算数だけ個別指導を受けてみては」と、表面的には子どものことを想っての提案を行い、慣れてきたところで、「やっぱり個別指導だと、よく理解できますよ。だから、支援級へ転籍しては」ともっていく。
このパターンは、全国共通で、古典的な方法です。


支援級もそうですし、支援学校もですが、児童に対して先生の数が決められています。
財源に余裕がある市町村は別ですが、だいたい3対1で、肢体不自由の学校などは2対1、または1対1の配置になる。
ということは、普通級とは異なり、児童が一人増える、減るは大きな意味を持ちます。
普通級はよっぽど児童が増えない限り、ふたクラスに分かれることなく、大きな増減はありません。
でも、支援級&支援学校は1人増えると、先生を1人増やすことができる可能性がある。
とすれば、先生が増えれば、それだけ学校内の分掌、仕事が分担できるわけです。
全体から見れば、仕事がラクになる。
北海道なんかは組合が強いから、先生を増やして組合員を増やそうという流れもあるのです。
そこんとこでいえば、支援級、支援学校は、普通学級よりも先生が増やしやすいわけです。


就学相談で、頑張るよりも、頑張らない選択を迫られることは日常茶飯事です。
「あなたの子は、支援学校に行った方がいい」
なんていうのを、なぜ、年長の夏、秋に言い切ることができるのでしょうか。
「この2週間を頑張れば、元の生活に戻る」くらい、根拠のない言葉です。
発達途中の6歳の子どもを目の前にして、どうして小学校6年間がわかるのか。
そんなことを言うと、「今までの経験から、そういえるのです」と就学相談の先生や医師は言うけれども、それが当たらないから、みんな自立しなくて困っているんだろ、ってツッコミを入れたくなります。
こういう自分の経験、つまり、専門家というのを盾にしてモノを言う奴らは、どうせ、子どものことなんか見ていなくて、診断名くらい、検査の数値くらいしか見ていないものです。
だから、キーボードを叩いて「42万人で出マチター♪」とそのまま、〇〇丸出しで公言してしまう。
「もし感染対策を何もしなかったら、〇〇になる」で良いなら、なんとでもいえる。
「もし支援をまったく受けなければ、二次障害になる」
バカやろう、ギョーカイの支援を受けないからと言って、親が何もしないわけじゃないだろ。
感染症の専門家が個人の免疫を無視したように、子ども達の発達する力、成長する力、そして親御さんの子育ての力を無視するな、バカにするなよ。


ということで、やっぱりコロナ騒動を絡めてしまいましたが、今日言いたかったことは、全国的に実力以下の選択を迫られるケースが増えているということです。
知的に問題なく、とくに問題行動もないけれども、就学前に診断を受けていたから、療育・支援を受けていたから、というそれだけで、普通級ではなく、支援学級が勧められることもありました。
そうなると、支援学級が勉強ができて、席に座って授業が受けられて、でも、幼少期診断や支援を受けた子になる。
つまり、普通級で学び成長していた子ども達が、支援級の多数派になっていくのです。
そうなると、教科学習をする力はあるけれども、コミュニケーションの部分で、社会性の部分で、ちょっとこだわりなどの特性があって、という子ども達がどんどん支援学校へ送られていく。


これって、本当に子ども達のためになるのでしょうか。
年長の夏に、小学校6年間が決められてしまうのです。
しかも、頑張るではなく、頑張らない方に。
その根拠は、某会長が「人流」「飲食店」とオウム返ししているように、専門家としての勘です。
直感と当てずっぽは違います。
特に、そんなちょっと会ったばかりの就学相談の人たちに、子どもの6年間が見えるわけないのです。
彼らは教育"行政"を担う人なので、どのような配置をしたら人事がうまくいくか、いや、よく言い過ぎましたね、ただ来年度の児童数、生徒数を見て、振り分けているだけ。
この振り分けは早くしないと、夏は教員採用試験がありますし、秋ぐらいから異動の調整が始まりますから。
単に一年間のスケジュール通り、右から左に流しているだけ。
だって、これが滞ると、教育行政としての仕事が増えるでしょ。
どうせ、同じ給料ならラクがしたいのは、現場だけではないでしょう。


テレビばかり観て、流れてくる情報をただ受け取っている人達は、このクソ暑い日にもマスクを付け、衝立の中で飯を喰い、言われた通りに行動している。
まるで畜牛のようです。
政府や行政、会社の経営者などは、管理しやすい方向へと持っていきたいものです。
何も言わず、従順に指示に従ってくれさえすれば良い。
それが大人の社会から大学生へ、大学生から高校生、中学生、小学生、そして幼児教育に間で侵食しています。
それがコロナ騒動から見えることですし、現場の学校の先生も「できるだけ従順な子」を育てたいし、求めたくなっている。
ですから、情報を自らとりに行かない人間は家畜のように、他人に支配された人生を送るのです。
丸腰で、就学相談に行ってはいけません。
就学相談員、医師、専門家がそういったから、そうしますは最悪です。
すると、どんどん管理がしやすい方向へ持っていかれていまいます。
特別支援の世界における「管理がしやすい」は、支援者に従順な人間、つまり、福祉適応する人間になるということです。
コロナ騒動で、この流れは強くなった気がします。
皆様、情報は受け取るものではなく、取りに行くものです!




2021年7月6日火曜日

【No.1176】無駄という余白に発達が生じる

ある人は祭りについて、「人間の愚かさの解放」だと言い、またある人は「定期的に密になることで、集団免疫をつけるため」だと言っていました。
明日は七夕で、函館市内の子ども達は各家を回ってロウソク、お菓子を貰うという行事がありますが、昨年に続き、自粛のお達しがでています。
お祭り、行事、文化というのは、一度途絶えると再興するのが難しいと言われています。
文化というものの本質が、ヒトからヒトへの受け継ぎによるものだからでしょう。


目に見えるモノ、確認することができるモノしか認めないような、価値がないような、そんなことを言っているから人間として進歩し、ヒトとして退化しているのだと思います。
心身の健康には動物としてのヒトに戻る機会が必要で、それが一見するとやってもやらなくても困らないように見える祭りという空間に存在していたはずです。
日常と非日常は、人間とヒトに言い換えられます。


教育や保育、家庭での子育てを拝見させていただく機会が多い私ですが、人間を育てようとする大人が大多数だと感じます。
とくに発達に遅れのある子ども達に対する教育、支援の場合、「なるべく早く人間に育てよう」「少しでも人間らしくなるように教えよう」という雰囲気が伝わってきます。
人間として困っているのか、ヒトとして困っているのか。
そういった視点が乏しいのが気になります。


人間として困っている部分は、社会という環境の中で折り合いがついていないということですから、環境に対するアプローチが中心になります。
しかし、環境側も生きていますので、常に良い具合に折り合いが付くわけでも、折り合いが必ず付くわけでもありません。
理解を求めても、理解したくない人もいる。
環境調整をしても、別の場所には持っていけないこともある。
ですから、発達障害を人間として困っていると捉え、環境側との折り合いをつけようとしている限り、本人に進歩はありません。
日本の特別支援の誤りは、ここにあると考えています。


発達障害は「生まれつきの障害」というような誤解が生まれるくらいですから、胎児期を含め、発達の初期に生じている不具合だとわかります。
この発達の初期とは、ヒトの部分ではないでしょうか。
ヒトとしての部分、動物としての部分に不具合があるのなら、そこを育てようとするのが道理です。
でも、特別支援はヒトとしての育ちを無視し、あくまで人間の部分に、そして環境に適応することを目指してしまっている。
だから、障害者として生きる環境、つまり、福祉適応を主眼として学校教育が行われ、その福祉のような学校教育に合わせて幼児教育や療育が行われてしまっているのです。


今の子ども達を見ていると、ネットの世界に非日常、祭りを求めているような気がします。
大人の目の届かない場所がどんどん減ってしまったからでしょう。
目に見える成果ばかりが求められ、子ども達から無駄が取り上げられてしまったこともあるでしょう。
大人の目の届かない場所は非日常的な空間であり、無駄な時間はヒトとしての育ちに戻る機会だといえます。


特別支援の世界では長らく、クルクル回るとすぐに止められ、ハイハイをすると「ちゃんと歩いて」と言われ、洋服の首元をかじると「それでは福祉施設で嫌われる」と言われてきました。
でも、それはすべてヒトとしての育ちで必要な行動。
発達障害の子ども達も同じように、無駄が撮り上げられてしまった結果、歪みが大きくなっているのだといえます。
年々問題が大きくなる子どもというのは、行き場を失ったヒトとして育ちたい欲求が膨らみ続けている結果のように感じます。


赤ちゃんは成果などが求められ、発達成長しているわけではありません。
また人間としての作法を教え込まれることで、発達成長しているわけでもありません。
無駄に動き、無駄に触り、無駄に遊ぶことで、ヒトとしての土台を培っていく。
ですから、早期療育なんて百害あって一利なし。
彼らは徹底的に無駄を無くし、家ではできない、ここでしか、私達専門家しかできない支援をやろうと動いているのですから。
そうしなきゃ、お金(税金)は貰えませんので。


発達が遅れているから、あれもしよう、これもしよう、は逆効果です。
むしろ、発達が遅れているからこそ、赤ちゃん時代のような環境、時間にとらわれない自由で無駄な時間が必要なのです。
なので、成果が先にある夏休みの計画は大概失敗します(笑)
「感覚に遅れがあってそこを育てたいから、キャンプをしよう」は、家族がイライラする元です。
あそこのキャンプに行ったら楽しそう、だから行く。
行ってみたら、たくさん遊べて良かった。
で、帰って来たら、こんな変化があった。
これが自然なヒトが育つ姿です。


祭りを楽しむのは、人それぞれ。
だけれども、祭り自体が開催されなければ、ヒトに戻る機会、ヒトとして育つ機会が失われる。
だから、大人は祭りを開催するための準備と、子ども達が思いっきり楽しめる環境を用意する。
私は祭りのような非日常的な時間、成果から解き放たれた無駄な時間にこそ、ヒトとしての発達が起きる可能性があるのだと考えています。
発達のヌケは育てようと思って育てるのではなく、自由に育てられる環境の中で過ごしていたら自然と育っていた、というものだと思うのです。




2021年6月30日水曜日

【No.1175】人間の脳は強い不安と出くわすと、考えることができなくなる

河野大臣はブログ内で、ワクチンデマを流す目的を4つ挙げていましたね。
①ワクチンを批判して、自分の出版物やオリジナル商品に注目を引きよせて、お金を稼ぐ
②科学よりも自分の信奉するイデオロギーに基づいて主張する
③過去に誤ったことを発言したために抜け出せなくなっている
④自分に注目を集めたい
簡単に言えば、「お金」「主義主張」「保身」「愛着障害」のために、ということになるでしょう。


私はこのブログ、そして前後で行われたメディアでの発言を見て思ったのは、相当困っているんだな、危機感を感じているのだな、ということです。
大規模な集団接種会場を作ったのに接種する人が少ない。
また高齢者の接種が思うように進んでいかない。
若い世代の中には、接種するメリットがほとんどなく、リスクのほうが大きいことに気づいている人たちが少なくない。
つまり、それはワクチン接種における大臣の責任問題につながる。
①のお金を政治家生命、またゆくゆくは総理大臣に、という言葉で置き換えると、そのまま4つともご自身に当てはまってしまうわけです。


「イデオロギー」「主義主張」で発言することは何ら問題はありませんし、ある程度、大人になって、社会人としての年数が経って、なんの主義主張もないほうが問題です。
よって、人が何かを発信しているときは、上記の4つに分類しようと思えばすることができる。
ということは、この発言において私達が注視しなければならないのは、「デマ」といったところだと思います。
「デマ」というのはレッテル貼りで、それ以上、議論しないし、考えないという意思表明でもあります。
本格的な接種が始まって1年も経っていないのですから、常識的に考えれば中長期的な影響は「わからない」というのが正しい。
大臣も、取り巻きの医師も神様ではないので、「わからない」というのがわからないわけではないのですから、彼らなりのイデオロギーがあり、お金と愛着障害、保身のためにそうさせているのでしょう。


特別支援の世界に「標準療法」というものがあると仮定しますと、それ以外のアプローチはすべて標準から外れた方法になります。
しかし、どの世界にもそれまで標準であり、それが有効だと考えられていたものが、新たな発見によってひっくり返ってしまうことは珍しくはありません。
むしろ、科学の発展、人間の知恵の進歩のためには、それまで常識を疑うこと、否定することからしか始まりません。
それまでの標準とは違ったものが生まれたとき、生まれようとしたとき、そこに興味を示し、またその可能性を信じ、掘り下げていこうとする者が発展の力になるのです。


だけれども、そういった人達に対して、「トンデモ」「エビデンスがない」「デマ」という言葉を掛けてくる人間がある一定数います。
それは先ほど述べた通り、レッテル貼りであり、「もう考えたくない」という意思表明であります。
じゃあ、なぜ、「考えたくない」というのでしょうか?
もしかしたら、別の可能性があるかもしれないのに、もしかしたら、現状の不満足を解決してくれるかもしれないのに。
特別支援で言えば、どうせ自立しない支援なのですから、ゼロと一緒、何もしていないのと一緒、いや、むしろマイナスでもあるのに。


私達人間は、大脳皮質で考えます。
現状と比べたり、未来を想像したり、情報を分析したり。
一方でレッテル貼りをする人間というのは、大脳皮質に情報が伝わっていないのです。
どういうことかと言いますと、古い脳、大脳辺縁系を中心に感情で処理してしまっているということです。
動物は強い不安や緊張、身に及ぶであろう危機感と直面すると、通常とは異なる情報処理の仕方を行うことがわかっています。
現代とは異なり、自然の中で生きてきた私達の祖先は、天敵の動物と出くわしたとき、いちいち考えて行動していてはすぐに食べられてしまいます。
だから、考えることを敢えてせず、感情や原始的な反射で対応していたのです。
その名残が我々の中にも当然残っていて、サバンナでの肉食動物が、現代の社会的な危機に替わり、ある意味、サバイバルしているのだといえます。


函館も連日20℃を超え、顎マスクの人たちが増えてきました。
私は潔癖症ではありませんが、あの汗ばんだ顎マスクをまた口に持っていくかと思うと、それだけでゾッとします。
しかし、彼らからすれば、最初に怖いものとして反応してしまったコロナ、また多数派から外れることで感じる危機感に対して、原始的な脳で処理してしまっているのだと思います。
ですから、夏は熱中症のリスクがある、コロナは日本人の0.04%しか陽性になっていないし、その8割が軽症または無症状者、20歳以下は誰も死んでいない、といっても、聴く耳を持たないのです。
そもそもが大脳皮質に伝わっていないのですから。


サバンナの大地で生活していた私達の祖先は、集団になることが獲物を得る手段であり、肉食動物からのリスクを分散する方法だったのだと思います。
そのように考えると、治験の終わっていないワクチンを勧める人達、副反応で亡くなる確率は云々と言っている人達は、ワクチン接種という集団を形成し、リスク分散、自身の生き延びる確率を上げようとしている人たちなのかもしれません。
同じように標準療法(?)を辞めよう、特別支援ではなく普通の園、学校を目指そうとする人達は、彼らにとっては集団から出ていく人間であり、自分たちのリスクを高める要因になります。
万が一でも、出ていった人間が自分たちの知らない豊富な食べ物、安全な土地を見つけたりすれば…。
特別支援の世界から出ていった人たちが課題をクリアし、より良く成長し、自立していったら、身の危険が及ぶのは集団に残った人たちになります。


限られた食べ物を集団で分け合いながら細々と生きていく集団は、やがて小さくなり、消滅していきます。
一方で集団を飛びだし、新たな環境を手に入れた集団は生き延び、また次の世代を残すことができる。
特別支援の世界を出ていった親御さん達が、集団から指を指されていたように、集団から離れていったご先祖様も、後ろ指を指されていたかもしれません。
しかし、その一歩がなければ、現状を変えることはできないのです。


特別支援の結果は、もう十分すぎる程出たでしょう。
小学校から高校までだとして12年間、早期診断・療育をつかったとしたら、15年以上。
そんだけ税金と時間、家族のかけがえのない時間を使って、「やっぱり卒後は福祉でしたね、テヘッ」でどうするんです。
その場所にそれ以上いても、得られる食べ物はありません。
むしろ、誤診連発で、じゃんじゃん「発達障害」というレッテル貼りが行われている結果、食べ物が喰い尽くされた場所に、どんどん新しい人たちが入ってきているのです。


コロナ騒動で経済はボロボロ。
子どもの数は減る一方でしょう。
でも、特別支援という集団には、次々と人がやってきている。
そんなんで限られた資源、支援が、全員の手に渡るとお思いでしょうか。
考えれば、0.5秒くらいでわかることです。
しかし考えられない人がいて、考えようとしない人がいる。
その人達は大脳皮質ではなく、感情で反応している人達。
たった一度の出来事でも、強烈な不安とぶつかると、ヒトは考えることができなくなってしまうのです。


ですから私は特別支援に入る前、診断を受けに行く前が勝負だと考えています。
一度足を踏み入れてしまえば、霊感療法と同じで、ネガティブな情報ばかりです。
「もしかしたら、うちの子、発達が遅れているかも」
そんなときにポジティブな情報、アイディアを提供していきたいと考えています。
そのときなら、ヒトはまだ冷静に考えることができますので。
考えた上で、特別支援の世界に入るのは自由。
だけれども、考える間もなく入ってしまうのは、親御さんにとっても、子どもさんにとっても、マイナスなことが多いと思っています。




2021年6月24日木曜日

【No.1174】海と愛着障害

沖縄は高校2年の修学旅行以来、約20年ぶりでした。
そのときは「平和学習」がメインでしたので、南部を中心に関連する施設やガマなどを見学し、観光地らしい場所や海にはほぼ行かずじまい。
ですから今回の出張では、とにかく海を見ようと、那覇空港に着いてすぐに海に向かい、また仕事以外の時間も海に向かいました。
到着した日は金曜日で、まだ沖縄県の小中学校は休校期間中。
海には子ども達が元気に泳ぐ姿が見られましたし、よちよち歩きの小さな子どもさん達が親子で、またおじい、おばあと浜辺で遊んでいる姿を多く見かけました。
その土地土地の発達援助があり、名もなき遊びの環境がある。
まさに沖縄は海とともに育ち、治っていく場所だと思いました。


青い海を眺めていると、そうだ、帰ってからこのことをブログに書こうと思うことが浮かんできました。
それは海と愛着障害というテーマです。


以前から私は海が近くにある環境に住まれているご家族には、海での発達援助を提案しています。
循環器系、泌尿器系に未発達がある子ども達は、海の塩水自体がよいでしょうし、運動発達のヌケがある子は魚類と両生類の動きを行うことができる。
さらに五感(+前庭感覚&固有受容覚)への刺激は豊かですし、名もなき遊び&概念学習の宝庫です。
ですから実際、海遊びを続けることで、多くの発達課題がクリアされていく子ども達がいます。


でも実はこれは当たり前の話で、私が注目しているのは親御さんに生じる効果です。
あるとき、気がついたのですが、「この夏はおもいっきり海で遊びました!」とおっしゃる親御さんで愛着の課題がクリアされていた方がいらっしゃったのです。
相談時は、ご自身も認めるような愛着の課題をもっていたのに、いつの間にかその課題がクリアされている。
子どもさんが海でググッと育ったように、親御さんも海で愛着の課題を育てたような気がしました。
「とにかく私も海で過ごすのが心地良かったんです」


海は胎内、羊水を連想させるのでしょう。
そしてヒトは雄大な自然に身を任せられるようになると、とくに胎児期の愛着障害は弛んでいく。
また浜辺での遊びは、幼少期の家族の記憶を思いださせ、我が子と遊ぶことで、自分の幼き頃に退行できるような気もします。
ある親御さんがガラッと変わったのを境に、子どもさんの発達だけではなく、親御さんの変化にも注目すると、同じように愛着障害が治っていく方が他にもいらっしゃいました。


函館にも海がありますので、ある若者に海の散歩を勧めたことがあります。
その方は海の波の音を聴くと元気になるとおっしゃっていて、拾った貝殻を部屋に飾っていました。
私達生き物は海から陸へ上がってきましたので、癒しや発達、そして愛着に大きくかかわるのだと思います。
お腹の中に作った海が羊水なので、近頃は胎児期の愛着障害を抱えて子どもさん、親御さんには海遊びを提案することが増えました。
海はお金がかかりませんし、副作用もないですから。


沖縄でいつかのビーチ、また地元の人しかいかないようなビーチに行き、一時の時間を過ごしましたが、そこで遊んでいる子ども達、親子、おじい&おばあの姿からは愛着障害を感じませんでした。
今回、訪問させていただいたご家族の皆さんも、愛情あふれる方達で、子どもさん自身が「ぼく、わたしは、愛されています。いつも愛情たっぷり貰っています」と感じていて、また私にもそれが伝わってくるのが印象的でした。
親御さんの愛情のかけ方以前に、発達障害を持つ子は愛着形成に課題が出やすいので、正直珍しいと思いました。
沖縄自体が海に囲まれているので、そういった環境の影響もあるのかもしれません。
今回の出張は、発達の場としての「海」を改めて考える機会になりました。
呼んでくださった皆様、誠にありがとうございました。
報告書完成しましたので、郵送しています。