2019年12月13日金曜日

子育ての喜び、親子の時間の楽しさ

今年、出張で伺ったご家族から丁寧なメールを頂戴しました。
お子さんに大きな変化が見られたこと。
我が子の発達、成長をそばで見て、心から嬉しく思っていること。
そして、診断を受ける前のような子育ての喜び、親子の時間の楽しさを再び感じられるようになった、と記されていました。
『子育ての喜び』『親子の時間の楽しさ』
この二つの言葉を目にしたとき、私は今の事業を起ち上げて良かったと心から思うことができました。


今は、こうして発達障害専門の仕事を起ち上げ、行っていますが、大学に入るまでは、自閉症という言葉すら知りませんでしたし、障害を持った人と関わったこともありませんでした。
しかし、障害を持った子ども達のボランティア活動に参加したことから、自閉症、発達障害を持った子どもさんとご家族との縁が生まれ、今に至ります。


学生時代は、主に放課後の余暇支援ボランティアを行っていたのですが、そこで出会った家族の姿に衝撃を受けました。
全員が全員ではありませんでしたが、私には我が子との時間を苦痛に感じているような家族が多かったように感じます。
「どうやって放課後を過ごそうか」
「今日は、午前授業だ、どうしよう」
「夏休みが近づいてくると憂鬱だ」
顔を引きつりながら、ときに我が子に余所余所しく、中には心身を病む方も…。
当時は小学校の教員を目指していましたし、それまでまったく知らない家族の姿でしたので、とても心が揺さぶられたことを覚えています。


学生時代、そして自閉症児施設で支援員として働き始めたときも、ずっと「何故、障害を持った子の家族は、子育てや家族の時間を楽しみ、喜べないのだろうか」と疑問に思い続けてきました。
その中で、教育の問題、医療・診断の問題、療育の問題、福祉の問題を感じました。
みんな綺麗事は言うけれども、実際、家庭で問題が生じても、誰も本気で向き合おうとしない。
というか、ほとんどアイディアを持っていない。
「家庭でのことに足を突っ込むと、それで解決しなかったとき、責任問題になるから」
そんな教員、支援者達の本音は、幾度となく耳にし、幾度となく憤りを覚えました。
ですから、私は24時間365日の施設職員になり、そこで学んだことを地域に還元したいと想い、家庭支援サービスを起ち上げたのです。


私の事業の理念は、この学生時代に見た現実と繋がっています。
「子育てを楽しめる家族を増やしたい」
子育てを楽しめるというのは、おもしろおかしく過ごせればいい、というものではありません。
子育てを楽しめるかどうかは、子どもの成長が中心だと思います。
子どもは成長している自分が楽しみであり、喜びである。
そして、その成長した姿を見ている家族も楽しみであり、喜びである。
当然、家族でいれば、ハッピーなことばかりではありませんが、それでも日々、成長を感じられることが、家族の絆を深め、「ああ、この家族で良かったな」という想いに繋がっていくと思います。
そういった前向きな想いが、子の成長を後押しし、自分の足で自分の人生を歩むまで育つこととなる。


結局、学生時代に見てきた家族には、中心となる成長がなかった、感じられなかったのだと思います。
大変なこともあるけれども、少しずつではあるけれども、子どもが成長している、将来の自立に近づいている。
そのようなことを感じられれば、もっと違った家族の空気感、前向きな姿があったと思います。
しかし、問題が生じても誰も力になってくれない、成長よりも安定して毎日が過ごせるように、また今日も構造化しなきゃ、スケジュール組み立てなきゃ…。
この先もずっと同じことが続くのか、何も変化しないのか、結局、卒業後は施設なのか。
そういう想いがあれば、我が子との時間を苦痛にすら思えてくるのかもしれません。


私は、子どもの成長を後押しすることで、より良い親子の関係、家族の時間、何よりも子育ての喜びを感じてもらいたいと思い、この仕事を続けています。
ですから、冒頭で紹介したようなご家族がいると、事業の目的が果たせたと感じるのです。


私が学生だった頃は、資源が乏しく、根本から解決するようなアイディアもありませんでした。
そのことが、家族を苦しめ、子育てを楽しめないことに繋がっていたと思います。
でも、今は資源と情報に溢れ、そのことが却って、子育てを楽しめないことに繋がっているように感じます。
「療育を受けなきゃ」「支援を受けなきゃ」
幼い子を抱きかかえながら、療育機関に通う姿。
就学が近づいてくれば、普通級にしようか、支援級にしようか、児童デイはどこがよくて…。
しかし、その多くは、症状の改善や根本的な発達を目指したものではなく、結局、子どもが変わっていくわけではない。
そうすると、ますます親御さんは焦り、別のところに問題を解決してくれるものがあるはずだ、と走りだす。
全国、いろいろなところに出張させてもらいますが、理由は変われど、まだまだ子育てを楽しめない、苦痛にすら感じているご家族が少ないような気がします。


家庭に訪問させていただいたとき、子どもさんの発達のヌケ、課題の根っこを確認することと同じくらい、親御さんの想いを感じることを大事にしています。
今、どのような親子の関係性なんだろうか、家族の時間を過ごしているのだろうか。
そういった家族に流れる空気感を感じつつ、その家族にあったより良い子育てを提案したいと考えています。
「どうやって育てたら良いか」「治したらいいか」だけではなく、どうやったら、「その家族らしい子育てができるだろうか」という視点です。
親御さんの資質に合った、資質を活かした子育てにならないと、親御さんが心から楽しむことができませんので。


冒頭のご家族とは違いますが、幼少期診断を受けてから、「このままでは、知的障害で勉強が遅れる」と思い、幼稚園とは別に家庭で教科学習を続けていたご家庭がありました。
しかし、結論から言えば、感覚系を育てる前に、そこの未発達が育つ前に、アカデミックスキルを詰め込んだため、ますます発達の凸凹が大きくなってしまっていました。
ですから、就学後でも文字や計算は遅くなく、むしろ、今は発達の土台を育てる方が重要だと伝え、そこから勉強は一切やめ、親子で思いっきり自然の中で遊ぶようにしたのです。
それから半年が経ち、いわゆる空気が読めるような子になり、今では幼稚園のお友達と遊べるようになりました。
親御さんからは、「今、子育てが楽しいです」「子どもと一緒に泥んこになって遊ぶのが喜びです」という言葉をお聞きしました。


発達の土台は、家庭生活であり、その一番の仲間は家族です。
親御さんほど、子どもの発達を後押しできる存在はありません。
そして何よりも、子ども自身に、子どもの内側に発達する力を持っていて、自分に足りないところややり残したことがあれば、それに気づき、自ら育て直しを行うのです。
子どもの内なる発達の力を信じないものは、どんな専門家であったとしても、彼らをより良く育てることはできない、と思っています。


親子の間での悲しい事件が絶えません。
権威ある専門家だといえども、一人の命を救うこともできないのです。
悲惨な現実には、手も足も出ない。
専門家も、支援者も、教員も、その力は微々たるもの。
ですから、私はその微々たる力と、私の生きる時間を、「子育てが楽しい」と思える、その瞬間のために使いたいと思います。
一人でも多く、「ああ、子育てが楽しいな」「この家族で良かったな」と思える親御さんを増やしていく。
そのための発達相談であり、発達援助であり、治るということ。
これが私の事業の理念です。

2019年12月8日日曜日

『我がこと』と感じられているか

発達障害が「栄養で治る!」というと、嘘くさく感じます。
しかし、発達障害と呼ばれている人達の中に、消化器系を含む、栄養面の課題を抱えている人達が大勢いるのがわかります。
そういった人達の場合、栄養面が、その状態、症状と深く関係し合っていますので、栄養が改善すれば、ガラッと変わることもあるのです。
ですから、「発達障害が栄養で治る」のではなく、「栄養面に課題を抱えている発達障害の人達が、その改善によって治っていく」というのが、真実に近いと思います。


同じように、「発達障害が運動で治る」のではなく、「運動発達に課題やヌケを持っている発達障害の人達が、そこを育てなおすことによって治っていく」というのが、真実だといえます。
ということは、「発達障害が栄養で、運動で治るなんて、おかしい!」と叫んでいる人達は、読解力の問題?と思えちゃうわけです。


発達障害は症候群です。
それならば、ターゲットにすべきものは、その人が持つ一つ一つの症状のはず。
現在、なんらかの困った症状が出ている。
だから、その症状の背景、根っこを探っていく。
そうすると、「ああ、うんちに未消化物が多いよね。ということは、うまく消化、吸収できていないんだね。だったら、栄養不足かもね。発達に必要な栄養が足りてないかもね。そりゃ、発達の遅れが出るよね」となる。
で、栄養面からのアプローチによって、症状が改善し、治っていった人達がいるのだから、そこから学び、我が子の子育てに活かしていくのは、親として自然な姿。


このように考えると、栄養アプローチや運動、身体、言葉以前へのアプローチを行う人と、ハナから信じない人の違いは、子どもをしっかり見ているか、細かく見れているか。
その“見れているか”に関わるのは、親御さんや支援者自身の身体性です。
自分の身体的な感覚が乏しいと、それこそ、育っていないと、目の前にいる子に生じている現象を『我がこと』のように感じることができません。
となると、デジタルの情報のみで、頭主導で物事を処理していってしまいますので、発達障害という自分とは全く異なる別個の存在として認識してしまいます。


ですから、自分が睡眠不足になると、イライラするのに、我が子の睡眠障害には、「それも障害だからね」と、自分と分離させた反応をしてしまう。
目の前の我が子が苦しんでいたら、どうやったらラクにしてあげられるか、真剣に考え、行動するのが自然です。
でも、そこで行動に移せず、あわわあわわと一緒になって苦しんでいるのは、心と身体が一致していない証拠であり、そもそも動ける身体に育っていないわけです。
また、我が子が苦しんでいても、その苦しみに直接アプローチしないで、「自閉症に良い」みたいな習ってきたことをそのままやったりする。
それも、『我がこと』と感じられないことが、明後日の方向のアプローチへと進ませるわけです。


発達相談でも、「我が子が苦しむ姿を見て、私も辛い」と言われる親御さん達が大勢います。
しかし、同じ言葉でも、その雰囲気、意味合いは違う場合があります。
それは、我が子が苦しむ姿を見て、まるで自分の身体が切り刻まれているように辛さを感じられている場合と、「我が子が苦しむ姿がこの先も続いていかと思うと、自分が辛くなる」「どうやって対処したら良いか分からず、自分が辛くなる」という場合です。
つまり、自分の身体、感覚を通して、我が子の辛さを感じているか、その見える世界、デジタルな世界から辛いと思っているか。
発達相談で私が見るのは、その違いです。


どうして、そこを見るかといったら、『我がこと』と感じられている親御さんじゃないと、子どもの反応を見て、調整し、育んでいくことが難しいからです。
実際、たとえば栄養アプローチに効果がある人達であったとしても、どういったタイミングで、どういった進め方をしていけばよいかは、一人ひとり違いますし、同じ子であったとしても、成長や体調と共に変化していくものです。
なので、アプローチの入り口は一緒でも、完全オーダーメイド。
どんなに、その人にピッタリなスーツを作ったとしても、ヒトは生きているので、ずっと同じ体形はキープできないのと一緒。
神経の発達は、ヒトの体形以上に複雑で、変化が激しいものです。


私が家庭支援にこだわるのは、子どもだけにアプローチしても効果が乏しいから。
子どもの日々の変化、それこそ、本人の内側から出ている苦しみや発達の流れが感じとれないと、子どもを育てることはできても、本人の欲する環境、刺激を用意することができないのです。
栄養アプローチも、身体アプローチも、子どもの内なる声を無視し、「これが良いから良いから」と親御さんリードで進めていくと、決して良い方向へ進みませんし、見ていても育つスピードが遅いです。


あとは、その都度、「これで合ってますか?」というような確認が多くなるのもまずいです。
私を始め、支援者に依存し始めると、ますます子どもが見えなくなります。
それもまた、子どもの発達には望ましくないことなのです。
子どもを見て、それに応じた環境を用意するのが、発達の遅れ、ヌケを育てていくことだといえます。
そのために、子も、親も、より良く変わっていくことが大事ですし、お互い一つでも発達の遅れ、ヌケを育てることが必要です。


私の発達相談は、親御さんの発達課題を見つけること、その発達を後押しすることも含まれます。
それが、子どもがより良く育つ、第一、条件だからです。
自閉症児専門施設で、子どもを24時間365日預かり、支援しても、治らなかった。
それを実際体験してきた私だから言えることです。
どんな専門集団が預かったとしても、発達の土台は家庭であり、親子での育みが最も重要なのは変わりません。


親御さんも、自分の感覚、身体を整え、育て始めると、それまでの見方が変わってくるといいます。
実際、親御さんが変わり、それに同調するように、子どもさんが大きく変わっていった家庭もたくさんあります。
目の前の我が子を見て、『我がこと』のように感じられるか、感じたあと、すぐに身体を動かせるか。
そういった意味では、親御さんが治ることは、子が治ることとイコールなのかもしれません。

2019年12月6日金曜日

『経過観察』の本来の姿、目的、意義

気が付けば、もう師走。
この一年を振り返ると、2歳とか、3歳とか、本当に小さいお子さんの発達相談が多かったな、と思います。
当たり前ですが、2,3年前まではお腹の中にいた、もしくは姿形もなかった子ども達ですよ。
それなのに、もう診断名が付いて、それに応じた生き方、環境の中を進んでいこうとしている。
脳性麻痺のような疾患を持った子ども達ならわかりますが、「言葉が出ない」「運動発達が遅れている」ということのみで、障害児にされてしまう。


医師が書いている健診に関する専門書をいくつか読みましたが、そこには「言語理解に問題がなければ、3歳まで言葉が出なくても異常とはいえない」とも記されていましたし、「発達の遅れ=障害ではない」「発達の遅れを見つけることは、診断のためではなく、丁寧な経過観察をし、子育て、子の育ちをサポートしていくために」とも述べられていました。
この辺のニュアンスが、同じ医師でも、産婦人科の先生や乳幼児健診を行うような小児科の先生と、ゴリゴリの発達障害専門ですみたいな先生と異なるような印象を受けます。


発達の遅れにも、問題ないレベルや個人差のレベルのものもあれば、即、「障害」「リスク」というレベルのものもあります。
しかし、私の乱暴な解釈かもしれませんが、「即、障害」というレベルのものは、単体ではなく、複数確認できたときに、初めて発達障害というリスクに繋がるのだといえます。
私が勉強した限りでは、「〇〇の遅れのみでは、発達のリスクとは言えない」ですとか、「〇〇の遅れが見られたとき、△△の発達を確認する」ですとか、そういった記述が多かった印象があります。
これは、私が子ども達と接しているときに感じるものと同じだったので、印象に残っているのです。


親御さんから「〇〇の遅れを指摘されて」「これができないんです」という訴えを聞いたあと、実際に確認してみると、「これは問題ないな」「このままにしておくと、まずいな」という感覚があります。
その正体は、発達の遅れの組み合わせであり、もっと言えば、原始的な脳から端を発した問題かどうか、原因の根っこに関するものだと思います。
発達の遅れにもいろんな種類があり、パターン、組み合わせがあります。
ですから、いかに本当のリスクを見つけ、そこを育てられるか、自然な発達、個体差の部分を見つけ、そこをいじくらないようにできるか、が重要であり、技量が問われるところだと思います。


最初の話に戻りますと、幼い子ども達からの相談は、その子の成長、発達に携われる喜びよりも、悲しみの方が強いものです。
何故なら、こうやって出会えた子ども達は良いですが、その子の背後には、「そうか、障害なんだ」と思い、子育てよりも、家庭よりも、療育や支援、理解の方へ傾倒していく多数の子ども達の姿が見えるからです。
発達の遅れを見つけることは、療育を受けるためでも、支援や理解を得るためでもないはずです。
健診に関わる先生たちが言っているように、丁寧に成長の経過を確認していった方が良い子を見つけ、親御さんと子どもを専門家がバックアップしていくことで、将来のリスクを減らし、より良い発達、成長に繋げていくことが、本当の目的。


現在の『早期診断→早期療育』というパッケージ商品には賛同できませんが、2歳や3歳など、低年齢で発達相談に来られることは、とても意義あることだと思います。
ある程度、大きくなったり、療育とか、なんだかんだやったりしていると、どうしても、学習の要素が、その子の姿に影響を及ぼしていきます。
療育もある意味、型があり、その型を学習すること、型にはまることが目的になりえますので、純粋な発達の上に、学習が覆いかぶさり、本来の姿を見えにくくします。


一方で、低年齢の子ども達は、学習が少ないですし、発達の凸凹がそのままの姿で確認できますので、課題の根っこを掴みやすいといえます。
それになんといっても、本来のその子の発達の流れからズレた地点が近いので、軌道修正しやすいし、幼い分、治るスピードも早い。
ですから、今年初めの1月、2月、3月に出張相談で関わった子ども達は、幼い子どもさん達ほど、夏くらいから徐々に「経過観察が終わりました!」「保育園の先生から補助は必要ないね、と言われました!」「兄弟と同じ幼稚園に行けるようになりました!」というような喜ばしい報告を受けるようになりました。


5歳くらいまでの子どもは、月をまたぐ(月が替わると)と、ググッと成長する、大きく変わる、というのは一般的な姿です。
ということは、それくらい発達のスピードが早いということ。
だからこそ、早期に発達のリスクを見つけ、そこを育てていくことが、将来のリスクを減らし、本来の発達の流れに戻る近道。
経過観察は、本来、ポジティブな行為であるはずなのに、結果が伴わないと、ただのその場しのぎであり、親御さんに障害受容する時間を“与える”という意味合いになってしまいます。


療育を受ける前に、治せるところは治す。
できれば、経過観察の間に、その子の本来の発達の流れに戻しておく。
いろんなことを勘案しても、これがベストですし、本来の「経過観察」「早期診断」の姿だと思います。
お金や支援、知識は後から得られますが、幼いときの時間だけは、どうやっても戻ってこないので、一日も早く本当のリスク、発達課題の根っこを掴み、そこを育て始めることが大事だといえます。

2019年12月5日木曜日

『発達のヌケ』から一歩先に

『発達の“ヌケ”』という言葉は、初めて聞いた親御さんでも、すぐにピンときます。
「障害と言うよりも、“ヌケ”なんですね!」
「生まれつきでどうしようもないのではなくて、ヌケているから、そこを埋めていけばいいんですね!」


今日まで過ごした子どもとの数年間。
たった数年間ではあったとしても、そこにはその子の歴史があり、物語がある。
突然、現れた『発達障害』
うちの子は、本当に発達障害という存在なのだろうか。
そういった言葉にならない想い、『発達障害』という一言で片づけられてしまう状態に、ピタッとハマるのが、『発達のヌケ』という言葉なんだと思います。
たった二文字ではありますが、多くの親御さん達に前向きな気持ちと、「私がやろう」という行動の後押しをしてくれます。
たぶん、私がこの仕事を続けている限り、『発達のヌケ』という言葉は使い続けるはずです。


親御さんにとって、前向きな力を与えてくれる『発達のヌケ』という言葉。
ですから、親御さんの意識は、我が子のどこが“ヌケ”なのか、に向かいます。
一番分かりやすいのは、「ハイハイを飛ばした」というもの。
ハイハイをほとんどせずに立ったのは、そのときの家族にとってはハッピーな出来事だったかもしれませんが、本人の発達からしたら、アンハッピーな出来事。
こういった飛ばしは、家族の印象に残っていることが多く、そのニュアンスからも、発達のヌケを連想しやすいといえます。
他にも、印象に残っている動き、行動なんかが、そのまま、発達のヌケであることが多いので、親御さんも気づきやすいです。
そこを育て直すと、変わっていくのは確かです。


しかし、発達相談、出張の依頼で多いのが、「発達のヌケがわからないので、一度、確認してもらいたい」というものです。
この理由としましては、ハイハイなど、特別気になる運動発達のヌケはなかった場合と、ハイハイも抜かしていたけれども、他にも抜かしているところがあるという場合だといえます。


前者の運動発達に特別な問題はなかったお子さんの場合は、「本当に発達障害なのか?」という確認をします。
また、ハイハイができていたように見えても、実際、やり方が違ったり、身体の使い方が違ったりする場合もありますので、「本当にできていた?」「やりきっていた?」という確認もする必要があります。
結構、ご両親のどちらか、また両方ともが運動神経がよく、子も受け継いで、そのポテンシャルで寝がえりしたり、ハイハイしたりする子もいます。
形としてはできているんだけれども、重要なポイントである「足の親指が使えていない」ですとか、勢いをつけて寝返りをしちゃうパターンもありますね。
さらに今では、「栄養面は?」「環境面は?」「愛着面は?」「胎児期の居心地は?」「原始反射は?」など、イメージとしてはヌケというよりも、「神経発達の滞り」の理由探しみたいなこともやります。


そして後者のあちこちヌケていて、あれもこれも遅れていて、のお子さんの場合は、発達のヌケの根っこ探しを重点的に行います。
発達は階層なっていますので、いろんなヌケ、遅れがあったとしても、それらはお互いに連動し合っており、辿っていけば、最初の発達のヌケにぶつかります。
それが「おっぱいの吸いが弱い」にぶつかる子もいれば、「原始反射」にぶつかる子もいて、「お腹の中の発達」とぶつかる子がいます。
とにかく初期の発達のヌケが掴めれば、複数あるヌケ、遅れも育っていきますので、あれもこれもでどうしたらいいの状態のご家族には、根っこを掘り当てるのが私の使命となります。


いずれの場合も、やはり共通して、その子の物語を紡いでいく作業が重要だといえます。
今、「発達障害」と呼ばれる状態のお子さんがいる。
じゃあ、なんで発達障害と呼ばれているのだろうか、そういった症状が見られるのだろうか。
それをその子の受精から現在までの流れの中で確認していきます。
どの子にも、ある瞬間、そのときから本来、その子のあるべき発達の流れから外れたり、その流れ自体に滞りが生じた地点があります。
その地点からズレていった結果、その地点から滞りが始まった結果、今、「発達障害」と呼ばれる状態になっている。
その子の物語が出来上がれば、本来の子どもさんの姿が見えてきますので、そこに重なるように子育てをしていけば良いのです。


このようにして、その子の発達の物語を辿っていき、発達のヌケの根っこ、滞りが始まった地点を見つけ、そこから育て直しを行っていく。
シンプルに言えば、これが私の仕事であり、ニーズとしても中心だといえます。
そして一番、私の技量が求められるのが、私個人としても仕事の醍醐味なのが、発達のヌケがあった部分でも、育っている部分を見抜くことです。


子どもさんを見ればわかるのですが、全部が全部、ヌケがそのままの状態で残っているわけではありません。
同じように、滞りの部分も。
ヌケの状態にも、いろいろあって、少しヌケているところから、半分くらい育っている、以前はヌケていたけれども、育ちの中でヌケが埋まっているところもあります。
そこが親御さんによっては、見抜くのがとても難しかったり、なんだかしっくりこない、違和感として残るところだといえます。
意外に、もう大丈夫、育ったと思っていたところが、発達のキーだったりすることもあります。
なので、見抜けるかどうかが重要です。


まあ、たいそうなことを言っていますが、大事なのは、その子の物語が描けるかどうか。
その子の物語、発達の流れが掴めれば、「たぶん、ここもヌケていたよね」というところがわかります。
何故なら、発達は階層になっているし、ほぼ順番が決まっているから。
じゃあ、ヌケていたはずの部分が育っているのは、どうしてだろうか?
本人の力?あの遊びが良かった?保育園の先生との出会い?親御さんの子育ての方向性が合っていた?
こういった連想が生まれると、さらにより良い発達援助、子育てが見えてくるものです。
「ヌケていた部分が埋まっている」は、無意識の中で、自然な生活の中で育った部分ですので、そこが子どもさんにも、家族にとっても、資質に馴染むあり方だといえます。
これを活かすのが、治る近道。


『発達のヌケ』は、見事に親御さん達の心、違和感を表した言葉です。
だからこそ、多くの親御さん達が、この言葉で前向きに行動することができるのだと思います。
こういった心に響く、そして後押しする言葉だからこそ、さらに一歩深めるというか、深いところまでつなぐのが、仕事として携わっているものの役割であり、使命なんだと近頃、考えるようになりました。
「ヌケているのなら、育てればいい」からの一歩先です。


私の理想は、親御さんが、子育ての中で、発達のヌケを育て、治していくというもの。
その理想、ある意味、自然な姿に向けて、どうやって一歩進めていくか、私に何ができるのか、どういった仕事をしていくべきか。
新たな課題に対する答えは、日々の発達相談、援助を通して、答えを見つけていきたいと考えています。
これは2020年に持ち越しの課題ですね。

2019年11月29日金曜日

発達障害と療育・支援は、相関関係にあらず

栄養面からのアプローチで、精神疾患や発達障害をどんどん治してしまう広島の藤川徳美医師。
その藤川医師の本が、障害児教育部門の書籍で1位になった、という情報を目にしました。
まあ、親御さんだったら、「我が子の発達障害を治したい」「治ってほしい」と願うのは自然な感情ですし、実際に、藤川医師のアプローチを取り入れ、治った人達が大勢いますので、書籍が1位になるのは不思議ではありません。


でも、私はその書籍ランキングを見て、不思議に思うことがありました。
それは、2位以下に「コグトレ」に関する書籍が複数入っていること。
たぶん、これも最近、新書で話題になった『ケーキの切れない非行少年たち』の治療プログラムとして「コグトレ」が紹介されていた影響だと推測されます。
本当に皆さん、なんとかプログラム、療法がお好きなんですね。
どうしても、発達障害がある子に対して、指導や支援をしたいんですね。


この新書は、発売後すぐに読みましたし、コグトレに関しても勉強のため、一通りは学んでいました。
しかし、それを敢えてプログラムとして、私が行う援助サービスの一つとしてやろうとは思いませんでした。
何故なら、これも他の療法と同じように、枝葉へのアプローチだから。
と言いますか、受精から2歳前後までに生じている発達のヌケを育てたら、これらの課題も治っちゃうから必要ないよね、って感じです。


ケーキが切れない課題の根っこは、視覚や認知の問題と繋がっており、そこにアプローチするのがコグトレ。
でも、視覚や認知に発達の遅れや未発達があるのは、原始反射が残っていたり、ハイハイ等の運動発達にヌケがあったり…。
だったら、ここが根っこなので、根っこから育てれば、そこに端をなす課題はすべてポジティブな方向へ進みます。
しかも、ハイハイのやり直しに、研修や資格は必要ありませんので、家庭でやれるときにいつでもできるもの。
第一、こういった療法は、ある程度、席に座っていられる、鉛筆が持てる、指示に従える、といった条件が入ります。
でもでも、ハイハイは、どの子も赤ちゃん時代に通った道ですので、遊びの延長として行えますね。


なにか、新しい療法が出たり、誰かが「イイ」って言ったりしたら、一時的なブームになるのは、今までずっとありました。
TEACCHに始まり、コミック会話だ、ソーシャルストーリーだ、PECSだ、平成初期の映画のCMのように「全米ナンバーワン!」みたいに鳴り物入りで輸入されてきたものも、今、どれくらいが残っているのでしょうか。
やっているところがあるとすれば、かつての先進地域と、増えすぎた有資格者が食い扶持ゲットのために地方で細々とやっているくらい。
部分的な効果しか得られないようなものは、支援者が食いついても、親御さんはすぐに撤退するものです。


発達障害は、療育や支援によって、改善、解決するものなのでしょうか。
別の言い方をすれば、療育や指導の不足が、症状の悪化、または改善していかないことに繋がるか、ということ。
私は、発達障害と療育、支援は、影響することはあっても、相関関係にはないと考えています。
つまり、療育や支援が、神経発達を促すものではない、という意味です。


発達障害とは、なんらかの要因によって、神経発達に滞りが生じている状態だといえます。
なので、重要なのは、その滞りがどこかを確認し、その原因を取り除くこと。
私の捉えでは、本来、その子が持っている自然な発達の流れがあって、そこからズレている状態が「発達障害」と呼ばれる状態。
どの子も、発達する力は自身の内側に持っているものであり、与えられるものではない。


ですから、発達のヌケがその後の発達の遅れにつながっているのなら、そのヌケの段階に戻って育て直す。
栄養面の問題なら、摂取する栄養を改善していき、本来の発達の流れに戻っていけるよう後押しする。
左右の脳のバランスが崩れているのなら、そこを整え、本来の能力が発揮できるようにしていく。
心身に余裕がなくて、脳に余白がないのなら、身体を整えることによって、発達、成長の余白を作っていく。


私がなんとか療法に傾倒していかないのは、発達援助の本質が、「その子の内側に流れている発達の流れに戻していく」というイメージだからかもしれません。
ですから、決められたプログラムがあって、その型通りにやっていくみたいなのは、本人の流れとは別の流れを作ろう、というような雰囲気がするので嫌なのだと思います。
発達は授ける物、訓練し習得するものではなく、後押しするものでしょ。
だって、もともと、本人の内側に存在しているものだから。


本来の発達の流れに戻れば、それ以降、何を学び、成長していくか、は本人次第です。
なので、治すのは、本来の発達の流れに戻る手前まで。
治すを矯正と勘違いする人がいますが、治すのは、その人の持つ資質を開花させるため。
つまり、その人らしく自由に、伸び伸びと人生を歩んでもらうために治すのです。
私の仕事も、そういった本来の姿を、自然な姿を取り戻すためのお手伝い。
ですから、表面的なアプローチではなく、発達の流れが生じた最初のズレまで戻り、根っこから育てることを仕事の核にしています。

2019年11月28日木曜日

名も無い遊びが脳を育てる

上の子は学校から帰ってくると、一分も経たないうちに遊びに出かけます。
まるで昭和のアニメのような、ランドセルを置くために帰ってくるような感じです。
「子どもの仕事は、遊ぶこと」と常々言ってきましたので、その教えを守り(?)、毎日、友達と一緒にあちこち行って遊んでいます。
この地域は、学年関係なしに、男女問わず、みんなで遊ぶ文化があるので、そういった面で大変ありがたいと思っています。


「子どもの仕事は、遊ぶこと」はキャッチフレーズのようですが、それくらい遊びは、子どもにとって、発達、成長にとって、とても重要なことだと考えています。
何故なら、遊びの中に様々な要素が入っているからです。
運動発達はもちろんのこと、危険への対処、答えのないものから遊びを考える想像性(創造性)、友達との交流を通して押したり、引いたりといった社会性を培っていきます。
また概念を培うのは、遊びを通してが一番だといえます。


その子が将来自立できるかどうか、非行やメンタルヘルスのリスクを回避できるか。
その基準が、「小学校4年生レベルの学力」と言われています。
これは小学生のうちに小学校4年生レベルの学力を身につけなければならないという意味ではなく、大人になるまで、また大人になってからも、この学力レベルが獲得できれば良いという意味です。
しかし、この『小学校4年生レベル』というのがミソになります。


小学校1,2年生というのは、暗記で乗り越えられます。
たとえ、知的障害があったとしても、繰り返し、繰り返し、学習を積み上げていけば、学力として獲得できます。
でも、3年生辺りから、学習の中に『概念』が入ってきます。
この概念は、単に暗記や反復学習では理解できません。
ですから、発達障害のある子ども達の多くは、3,4年生辺りから学習の遅れが出てくるのです。
学習面の躓きをきっかけとした相談は、このあたりの学年の家庭が多いです。
『概念』理解は、『自立』の条件の一つとも言えます。


概念が掴めない子ども達は、幼少期、または現在も、「外遊びをしない」「友達と遊ばない」という子がほとんどです。
なので、相談を受けたときに最初に尋ねるのが、「ちゃんと遊んでいますか?」というもの。
物事を1通りの理解しかできない子は、早期教育として絵カードを見せて、それに答えるような訓練をやってきた子か、遊びが乏しい子。
よって、発達援助の方向性としては、身体を使った、五感を使った、遊びを行うことになります。
この遊びとは、子ども主体で自由な、特に意味を求めない遊びです。
必ずしも人との交流は求めませんし、遊びの発達段階が進んでいけば、「感覚遊び」「一人遊び」「平行遊び」「交流遊び」「ルールのある遊び」というように発達していきますので。


特に就学前の子ども達は、「思いっきり遊べるようになるために“治す”」というイメージで、発達相談、援助を行っています。
理由は何度も述べているように、遊びが大きな発達に繋がるから。
ヒトは社会性の動物であり、その社会性の土台は、子ども時代の遊びで培われます。
よく遊んだ子が、高度な社会性を身につけ、同時に自立するために必要な概念、想像性、心身を育む。
子ども時代、よく遊んだ子は「前頭葉がとても発達している」という研究結果は、ヒトという種を考えれば、自然なことだといえます。


遊びによって、前頭葉が大きく発達するのなら、そして小学校4年生レベルに必要な概念が養えるのなら、幼少期の子ども達に対する援助は、まさに遊べるようになるための援助。
ですから、私は伺った地域の雰囲気、文化を感じながら、どうしたら、この子が外で思いっきり遊べるようになるのか、同世代の子ども達と遊べるようになるのか、を考えます。
遊べるようになったら、あとは遊びを通して治っていくので。
まだ小さい子の親御さんには、「遊べるようになったら、最初のゴール」というお話をすることもあります。


児童デイが雨後の筍みたいにできる前は、放課後、障害を持つ子ども達の余暇はとても寂しいものでした。
しかし、児童デイができ、みんな、通えるようになった。
以前と比べれば、放課後の過ごし方は雲泥の差です。
でも、将来の自立につながるどころか、社会性、発達は変わっていかない。
何故なら、同じ遊びでも、遊ばされているから。


子どもの発達、社会性、想像性に繋がる遊びとは、目的の無い遊びであり、ときに危険を伴う遊びです。
子どもの遊びを発達の観点で見れば、子どもは名の無い遊びをひたすら繰り返すことで、遊びを発達させていきます。
つまり、遊びの時間と場所が決まっていて、道具も決まっていて、遊ぶ人も決まっていて、「さあ、遊べ」というのは、最初から発達に繋がる遊びにはならないのです。
意図しない遊び方をすると、決まった遊び方に修正するのが、支援であり、療育だと思っている節がありますし。
また、常に大人の目があれば、そこには危険、スリリング、できるかできないかギリギリのところ、といった要素が排除されてしまいます。
ひと様の子を預かっている児童デイなら、なおさら、危険を回避します。
そうすると、名の無い遊びが行うことができず、大人によって期待された遊びをこなしている、になります。


「名の無い遊び」「目的のない遊び」「思う存分、繰り返せる遊び」「危険を伴う遊び」
この条件を整えるのには、大人の目がないところで遊べるスキルが必要です。
大人がいれば、ついつい手と口が出てしまいますので。
私達が子ども時代、親の目の届かない場所で、どれだけ危険な遊びをしたことか。
でも、それが社会性を培い、物理的にも、社会的にも、危険を回避する、対処するスキルの元となった。
それは、発達障害があろうがなかろうが、どの子にとっても必要な体験であり、学習です。
なので、親がいないところでも自由に遊べる、友だちと一緒に遊べる、という状態を目指すのが、幼少期の発達援助になります。


幼少期の子ども達を「何故、治す?」と訊かれれば、「思いっきり自由に遊べるために治す」と、私は答えます。
それが小学校4年生の壁を飛び越え、将来の自立、資質の開花へと繋がるから。
最終的な目標は、社会の中で自立し、自分の資質を自分のために、社会のために活かすこと。
そして、人生の自由を謳歌すること。
これが目標であり、治すはその過程の一つ。


今日は最高気温でも氷点下。
でも、外には雪がなく、太陽が見えている。
息子よ、さあ、今日も暗くなるまで、思いっきり遊んでおいで。
日が暮れるのと、子ども時代は、あっという間だから。

2019年11月25日月曜日

身体を遊び道具にする発達段階

11月中旬くらいから、おもちゃのチラシが入るようになります。
おもちゃ屋さんはもちろんのこと、いろんなところで「クリスマスラッピングやってます」「今なら玩具、20%オフ」など、クリスマスモード。
子ども、兄弟は少ないうえに、元気なジジババサンタが大勢いますので、貰えるプレゼントは多くなります。
孫が喜ぶ顔が見たくて、たくさんおもちゃを買ってあげたい気持ちもわからなくはないですが、子どものブームというのは、ほんの一瞬。
もらったその日に見向きもしなくなるなんていうのは、よくある光景ですし、それが自然な子どもの姿です。


「子どもに発達障害がある」となれば、なるべく興味関心があるものを、子どもの知育につながるようなものを、そばに置きたくなるのは、自然な感情だと思います。
特に、「手先が不器用」という様子があれば、手先をいっぱい動かせるようなおもちゃを、と考えます。
「おもちゃでたくさん遊んで、手先を育ててほしい」
そういった家族、親戚の願いが、おもちゃの数として表れます。


新しいおもちゃでも、すぐに飽きてしまうのは、発達障害だからではなく、子どもの特徴です。
しかし、不器用さが改善していかないと、エネルギーが「より良いおもちゃへ」と向かいます。
そして、ちょっとでも長く遊んでくれるおもちゃが見つかると安心し、また子が飽きると焦ってしまう。
そうこうしているうちに、月日とおもちゃが増えていくわけです。


おもちゃがたくさんある家庭は、そうではない家庭と比べて、子どもさんは上手におもちゃで遊べているように感じます。
でも、「おもちゃで遊べる」=「手先の発達」ではありません。
結論から言ってしまえば、手先が不器用な子に、道具(おもちゃを含む)は早すぎる。
もう少し手前の発達段階を育て切る必要があります。
道具を使うから手先が動くようになるのではなく、手先が自由自在に動くようになって初めて道具が使いこなせるようになるのです。


たとえ、おもちゃで上手に遊べるようになったとしても、結局は、そのおもちゃ限定の遊び方を習得したにすぎません。
おもちゃが変われば、また上手に遊べなくなる。
おもちゃ、また道具なども同じですが、そのモノの形態に身体を合わせている限り、根本的な課題は解決していかないのです。
自由自在に動かせる身体→道具を使いこなす、が自然な流れ。


赤ちゃんは、起きている時間が長くなると、腕や足をバタバタと動かします。
これは意識的な運動ではなく、付随運動である反射によって引き起こされます。
この段階では、赤ちゃんはまだ自分の手足という意識はなく、例えるのなら頭中心で生きている状態です。
見えているもの、聞こえているもの、匂っているもの、口を中心に触れているもので世界が成り立っています。


その段階から一歩進むと、徐々に自分の手が自分のものである、という意識が芽生えていきます。
最初は舐めて確認できた手が、見て自分の手だと理解できるようになる。
そうしているうちに、反射の段階から意識して動かせる段階に発達していく。
でも、まだこの段階では、手先まで自由自在に動かすことができません。


手先、指を発達させるには、他の身体、運動機能と同じように、『重力を感じる』ことが必要です。
うつ伏せになり、自分の身体を支え、起き上がる。
ズリバイに始まり、ハイハイ、高這い、動物歩きなど、立位に至るまでの運動発達をやり切る。
その過程において、手先がしっかり開くようになり、自由自在に動かせる手、指への一歩が始まります。


指が開くようになったら、すぐに手先が器用に動かせるわけではありません。
大事なのは、『自分の手を遊び道具にする』という過程です。
いろんなものに触れる、そして、手から、指から刺激を感じる。
手で押す、引く、手を叩く、手を振る。
モノを持つ、掴む、つまむ。
手で砂を掘る、手で積み重ねる、手で固める。
このような道具以前に、自分の手をまるで道具のように使う段階、手で遊ぶ段階を経て、子ども達は自由自在に動かせる手、指を手に入れていくのです。


ですから、「手先が不器用」というお子さんがいらっしゃいましたら、手に持っているその道具、おもちゃを一旦置いてみるのも必要かもしれません。
手全体が丸まっていたら、手がまだ重力との付き合い方を学びきっていないかもしれません。
土や泥などに直接、触ろうとしなかった。
砂場で、泥で遊ぶよりも、おもちゃで遊んでいる方が多かった。
砂場にいたけれども、手ではなく、スコップばかりで遊んでいた。
そういった場合、手を遊び道具として使う発達段階を飛ばしているかもしれません。


いろんなお子さん達と出会い、そしてこの仕事が長くなるにつれ、子どもにとって一番の遊び道具は、「子どもの身体そのもの」だと思うようになりました。
デジタル技術やいろんな道具、テクノロジーが身近で利用できるようになりましたが、どんな素晴らしい道具があったとしても、それを使いこなす身体に不自由さがあれば、恩恵を得ることができません。
特別支援の世界も、どんどん専門化していき、アプローチの仕方がマニアックになっています。
でも、発達障害は、発達にこそ、答えがあるのだと思います。


赤ちゃんがどのように手を育てていくか、自由自在に動かせる身体を培っていくか。
赤ちゃんは、手先をピンポイントで育てているのではなく、付随運動から始まる運動発達の過程を通して、ゆっくりゆっくり、全身を通して育んでいくのです。
だからこそ、子どもは全身を使った遊びが大好きであり、本能的な活動になります。
おもちゃで遊ぶのは学習。
なので、子どもが身体を遊び道具にして思いっきり遊べるような環境と、モノの数の配慮が必要です。


「遊び道具を片づけたら、全身を使って遊ぶようになった」
こうやって発達のヌケを育て直し、手先の不器用さを治した子ども達も多くいます。