【No.1449】教育や支援の質、行政の問題ではない
「発達障害がある子も、学んだり、成長できたりする機会を提供する」 そんな事業構想を表明したとき、一番批判してきたのが学校の先生たちでした。 「わざわざお金払ってサービスを受けたいなんて人、いないでしょ」 「どうして公的な機関があるのに民間なの」 そんな表面的な批判の裏に彼らの本音を聞くことができました。 「どうせ、この子たち、将来、施設に行くのに、そんなのやる必要があるの?」 「どうせ、やったって変わらないでしょ」 当時、それなりの役職についていた先生はちゃんと言葉で伝えてくれました。 「現状維持で丸儲けな子たちだよ、大久保くん」 「どうせ、施設」 「どうせ、変わらない」 これは学生時代から散々聞かされた言葉です。 自閉症、知的障害がついた時点で、医師も、教員も、支援者も、みんな、諦める。 どう支援しやすい、介助しやすい子に育てるか、学習させるか、が目標になる。 だって生涯にわたる“支援”が必要だから。 「支援に頼りながら幸せに生きていく」 一時期、この意味不明なワードが流行ったことがあります。 現在も、発達障害を持つ人、その家族を取り巻く環境、システムには多くの問題があるでしょう。 行政の予算の付け方、支援者の質、学校教育の専門性、診断と投薬のみの医療。 この国の特別支援教育が何を目指しているのか、どういった子を育てていきたいのか、不明確なままです。 しかし問題の根本は身体や遺伝子の障害と、発達障害を同じ「障害」に位置付けていること。 神経発達の違いは障害ではありません。 自閉症も、知的障害も、ADHDも、神経発達が“生じない”障害ではないのです。 その前提が間違っているから、いくら資格や研修を増やしても、予算を増やしても、サービスの種類を増やしても、制度設計を変えても、意味がないのです。 未だに「脳の機能障害」「生まれつきの障害」から始まっているのです。 そこから出発すれば、「できるだけ支援やサービスを増やしてあげよう」「現状維持を目指そう」「いま、楽しいことをしてあげよう」または子どもよりも、介助する家族、支援者に「負担がかからないほうへ」と進んでいくのは自然な流れです。 まじめで一生懸命な先生、支援者ほど、手を貸しすぎて、彼らの育つ機会、試行錯誤する機会を奪っている。 「“治る”、“診断が外れる”だなんて奇を衒ったことを言うのは、お客さんを増やそうとしている...