【No.1487】行動を支援するのではなく、その行動をする本人を支援する
通常なら、しない行動をする。 通常なら、もうしないであろう年齢でその行動をする。 ぴょんぴょん飛び跳ねたり。 独り言を言ったり。 急に飛び出したり。 誰でも彼でも触ったり。 そういった行動をやめさせたい、やめてほしいと願う。 それは共に暮らす家族にとって、他の子ども、ヒトがいる場で教育や支援を行っているものにとって、自然な気持ちだといえます。 しかし、やめさせようとしてやめさせるのはほぼ不可能です。 行動支援、援助などと綺麗な言葉でまとめていますが、現実はするための選択肢を排除しているにすぎません。 「施設ではやらないのに、家に帰った途端、行う」というのは施設に自由がない証拠です。 施設を見学すれば、看守のような支援者の姿に出会うことができるでしょう。 「強度行動障害に対する行動支援」という題名の講座はできても、実践はできないのです。 行動支援=行動をやめさせる、変容させる。 これが可能なのは、お互いに信頼関係があり、また行動を変える側に納得感が得られる必要があります。 そのためには当然、交渉に応じること、妥協点を探っていくための能力が必要です。 知的障害がある人、重い人に、また幼い子どもに、この能力が備わっていることは稀。 となれば、行動を変えてほしい側の一方的な交渉が進み、本人の納得が得られないまま、行動支援が始まってしまいます。 そこに本人支援の視点がありません。 行動を支援するのではなく、その行動をする本人を支援する。 それが本来の行動支援となります。 そのためにはその行動をする本質をつかむ必要があります。 行動は本人にとって必要だから行っているのです。 同じ飛び跳ねるのでも、一人ひとりその様相は異なっているということは、そこにその人個人の要素と行動を作り上げるまでの歴史、物語があるのです。 自閉症の人達のその行動にもがきの雰囲気を感じましょう。 自閉症の人の多くは内なる環境(発達の凸凹、感覚の違いなど)と外との環境(様々な刺激)の間で不快を中心とした生きづらさを抱えています。 その不快感、生きづらさを和らげるための自らへの援助活動として特定の行動を生む。 周囲から見て、その行動に異質性、独特さを感じるのは、それがかなりパーソナルな背景と繋がっているからです。 また繰り返し、繰り返しその行動をするというのは、その不快な環境が「私のそばにあり続けている」という...