「治らない人がいる」=「みんな、治らない」にはならない
「この子は、言葉を話すことはないね」と、医師より告げられた子が言葉で会話をしている。 「この子は、生涯、支援を受けて生きていく子」と、支援者より言われた子が、今、一般就労して働いている。 他にも、「この子は、支援級の子」と言われた子が大学に通い、「運動は無理」と言われた子が体育会系の部活動で汗を流している。 「感覚過敏は障害特性」で環境調整とイヤーマフで生活していた子が、刺激に圧倒されることなく、普通に生活している。 睡眠障害だった子が、夜には眠くなり、朝までしっかり眠られるようになっている。 こういった子ども達に対して、「治った」と言って、何が悪い。 だって、全部、「不可能だ」「無理だ」「治らない」と言われたものだから。 治らないと言われていたものが、そうではなくなった。 症状が消えて、普通に生活ができるようになった。 それを「適応しただけ」「発達しただけ」「成長しただけ」というのは、辻褄が合わないだろう。 治らないものが治ったんだから、「治った」という言葉が一番状態を適切に表している。 治らないと言われていたものが、治る。 それは、「治る」と表現することが間違っているのではなく、前提である「治らない」が間違っていると考えるのが自然だろう。 ましてや、障害と言われるくらいのものなのだから、「治らない」という前提が変わるなら喜ばしいこと。 でも、どういうわけか、発達障害に関しては、というか、どっぷりギョーカイに浸かっている者たちは、前提の間違いを認めようとしない。 当然、発達障害の原因は特定されていないのだから、いろんな要素から神経発達の遅れが生じる。 なので、全員が全員、治るかどうかはわからないが、治る人がいるのは当然。 そしてスペクトラムなのだから、治らない人でも100%治らないなんてことはなく、部分的に治る人もいるだろう。 治らない人の中にも、治せる部分はある。 神経が発達する、そのこと自体が生じない、ダメージを受けているわけでないのなら。 このように考えると、また冒頭で紹介させていただいた私が実際見てきた人達がいるのだから、「治らない」と言い切ることはできない。 「治らない障害」と言うのなら、それは、その人の周りに治った人がいないか、その人がやってきた療育、子育てが、神経発達に繋がっていないか。 あ