2019年5月23日木曜日

手づかみ食べは、単に手先の使い方の練習のみならず

以前にもブログに書いたような気がしますが、とても重要なことなので、私はそう考えているので、改めて「手づかみ食べ」について書こうと思います。
実際、私とのセッションを行ったご家族の中には、「手づかみ食べしていましたか?」ですとか、「手づかみ食べが足りなかったようですね」「今からでも、手づかみ食べを」という具合にお話しさせていただいた方達がいらっしゃると思います。
必ず確認するわけではありませんが、特に口や手で情報を得たがっている、味わいたがっている雰囲気を感じた場合に、そんな話をさせてもらっています。
(*このあたりの話は『口の時期、手の時期、足の時期』をご覧ください)


では、何故、手づかみ食べが重要なのか。
いきなり結論ですが、手づかみ食べは、口の時期と手の時期を結ぶ懸け橋だからです。
胎児期2ヶ月から口の周りの触覚を発達させていきます。
それ以降、お母さんのお腹の中で、羊水を飲んだり、自分の手や指をしゃぶったりして育てていく。
誕生後も引き続き、おっぱいを吸い、自分の手足指をしゃぶり、いろんなものを口の中に入れて感覚、機能を育てていきます。


そうやって自分の口で、いろんな刺激、情報を味わい尽くし、探索しつくしたあと、今度は手でいろんな刺激、情報を味わい、探索する時期に移行していくのです。
その移行を助けるのが、いや、口で得た情報と手で得た情報を連結させるのが、手づかみ食べだといえます。
イメージで記せば、「刺激→口→脳」から「刺激→『口↔脳↔手』」という感じです。


食べるという行為は、本能的な行動ですので、大いに脳を刺激し、育てます。
1歳半前後まで、主に口周辺の触覚や口の中の感覚で、食べ物の形状や状態などを捉えていました。
しかし、手足が動かせるようになり、自分で食べ物を口に運ぶことができるようになると、本能的な行動ですので、自らどんどん行うようになります。
これが手づかみ食べ。


自分の手で触ったり、掴んだりすると、その情報、刺激が手を通して脳に運ばれます。
グチャッとする感覚や固い感覚、大きい、滑りやすい、掴みやすいなど、とにかく多様で複雑な感覚。
同時に、その食べ物を口に運ぶと、手で感じた情報、感覚が、口の中でも生じるのです。
手で感じた刺激と口で感じた刺激の結びつき。
そうなると、脳内でネットワークができ、ものごとをより立体的に捉えられるようになります。


口で情報を得る時期が完了すれば、次は手で情報を得る時期に移行します。
でも、それはそれぞれ単独で、そういった発達段階があるわけではなく、また脳的にも、それぞれ別個に機能を育てているわけではなく、やっぱり口→手の発達の流れがあるのです。
口の時期が卒業したから、手の時期に入る。
つまり、口の発達の上に、次の手の時期が乗っかる感じ。
ですから、口で得た情報と手で得た情報を感覚的に、脳内的に繋げる、ネットワークを作ることがヒトとして重要なことだといえます。


爬虫類は、口のみで食物を食べます。
哺乳類になると、手を使って食べるようにもなる。
ヒトは、道具を使って食べる。
ということは、手を使って食べることが発達的にも、脳的にも、必要だし、重要なことだと考えられます。


そもそも口以前の段階に、発達のヌケがあると、食べること自体に困難がある子もいます。
また、口の段階は完了したとしても、運動発達の関係で、うまく掴めない、食べられないという子もいます。
しかし、中にはこういった発達のヌケ、遅れからくる「手づかみ食べをしない、足りない」ではなく、周囲の大人の考え方、環境的な要因から、手づかみ食べをしない、しなかったということもあります。


確かに、忙しい日常生活の中、できるだけ子どもにはスムーズに食事を摂ってもらいたいし、後片付けもラクな方が良い気持ちもわかります。
家の、環境側の要因として、なかなか汚せない環境というのもあるでしょう。
食べ物をこぼしても、さっと拭けば綺麗になる床だけではない家庭の事情。
さらに遺伝的な要素もあって、家族が汚れること、ランダムな家事、不測の事態に対応できない、苦手だということもあると感じます。


そうなると、なるべく手づかみ食べはさせずに、という方向へ行きがちです。
汚れるくらいなら、食べさせる。
早めに、スプーンやフォークを使わせる。
手で掴んで食べたとしても、さっと手を拭いてしまう。
そうなると、動物本来の食事、捕食の発達段階、発達刺激を味わえないことも出てきます。
それも一種の発達のヌケだと私は捉えます。


口だけで刺激、感覚、情報を味わっていた段階から、手でも同じように味わう段階になる。
「口で感じた刺激が、手でも同じように感じる!」
この気づきは、脳を大変喜ばせるのだと思います。
特に、食べるは本能的な活動なのですから。
口で感じた刺激と手で感じた刺激が、脳内でつながり、新たなネットワークとなる。


同様に、手で感じた刺激が、足でも同じように感じることができる。
そうなると、『口↔手↔足』の繋がりができる。
そうやって、同じ刺激なんだけれども、いろんな感覚器で感じる、刺激を味わうことが新たなネットワークを作り、さらに脳や感覚を育てることに繋がるのだと思います。


手づかみ食べは、単に手先の使い方、機能の練習のみにならずです。
ただ手先を器用にするだけだったら、自立課題などでネジとナットを回しておけばよいのです。
でも、そういった教育では、感覚同士の結びつきは起きません。
むしろ、発達障害の子ども達の不器用さの背景には、動かし方以前の問題として、感覚同士の結びつき、中枢神経と末端神経の結びつきの課題がある、と私は考えています。
どう見ても、機能の問題じゃなくて、そもそも感覚が繋がっていないのでは、はっきりしていなのでは、と思う子の方が多いです。


現在社会、家庭環境では、敬遠されがちな手づかみ食べ。
しかし、その手づかみ食べが、発達には大きな意味があると思います。
手づかみ食べのアドバイスをしたご家族から、「いろんなことがわかるようになった」「まさに“掴める”ようになった」という報告を受けることが少なくありません。
是非、手づかみ食べを。
道具を使って食べるのは、手づかみ食べをやりきったあとからでも遅くはありません。


【福岡出張に関して】
おかげさまで、福岡出張の調整、手配が完了しました。
6月、3泊4日の日程ではありますが、4家族の皆様と一緒に、時間が許す限り、お子さん達のより良い発達と子育てについて考えさせて頂きます。
日程の都合上、今回、他県にはお伺いできませんでした。
またの機会に、別の機会にお会いできることを楽しみにしております。
情報を拡散してくださった皆様にも感謝申し上げます。
本当にありがとうございました。

2019年5月22日水曜日

「治るか治らないか」よりも大切な親心

おもしろいことに、ある意味当然だといえるのですが、私のところに相談、アクセスしてくる人の中には、「治る」と思っていない人もたくさんいます。
いろんな場面で、私は「治る」と発信していますが、それでも、「そんなわけはないよね」と思いながらも、相談にいらっしゃるのです。


「治る」と発信している私のところに、「治る」を信じられない人が訪ねてくる。
本来なら、その方達は治らないと思っているのですから、別のところに行けば良いものを。
じゃあ、何故、わざわざ相談先に選ばれるのか。
それは、皆さん、特に親御さん達の多くは、我が子を支援や配慮ではなく、育てたいと思っているから。
それに、全部が全部治らなくても、部分的には、ある点に関しては、育んでいけるし、治っていけると思っているから、だと感じます。
ですから、「治る」という表現には共感できないけれども、「発達を後押ししていく」「支援ではなく、子育ての中で発達を促していく」という考え方とそのアイディアに共感されるのでしょう。


最初に扉を開けたとき、「治らない障害」という言葉に衝撃を受けるとともに、なんだか腑に落ちない感情が残ると思います。
本当に、我が子に見られる状態や行動が、すべて特性であり、その子の持って生まれた資質なのだろうか、と。
特に、2歳や3歳など、幼い頃に診断名を告げられた親御さんは、そのように思うはずです。
実際、いろんな親御さんから、そのような当時の疑問、モヤッとした気持ちについてお話を聞きました。


しかし、現実問題として、その子の状態や行動の理由が特性なのか、未発達なのか、生活や環境の影響か、脳や身体、内臓の課題なのか、を見極めることは、とても難しいといえます。
現在の診断は、医師の問診と視診で行われています。
血を採るわけでも、脳波を撮るわけでもなく、今、目の前の状態と行動から判断する。
ガンなどの病気や、染色体、身体的な障害とは異なり、それくらい曖昧なものなのです。


客観的なデータではなく、主観の入る余地のある曖昧な診断。
だからこそ、本当なら、その告知も、その後の特別支援の世界での捉え方も、もっと曖昧なものであるはずです。
でも、何故だか、最初から「治らない障害」と告げられてしまうし、その後の療育、支援、学校も、「治らない障害」前提で進んでいく。
もちろん、発達障害、自閉症の人の中には、遺伝的な部分もあれば、資質的なところもあり、変わらない部分もあるでしょう。
でも、だからといって、あらゆる状態、行動、困ったこと、苦手なことが、「すべて特性である」というのは、とても乱暴だと思います。


これまで、そのような乱暴な言葉、解釈によって、どれだけの本人たちが、親御さん達が傷つき、悲しんできたことか、と思います。
ですから私が、相談に来る「治らない」と思っている親御さんに対しても、
「すべてが障害特性ではないですよね」
「すべてが支援や配慮、周囲が受け入れるべきことではないですよね」
「全部を治すことはできなくても、部分的に育てられ、治せるところもありますよね」
というお話をすると、心からそう思うと納得されます。


こういった親御さん達の姿、感想をお聞きしていますと、親御さんはちゃんと気がついているのだと思いますし、柔軟な発想を持っていると感じます。
確かに専門家のような知識や技術は持ち併せていなくても、「これがこの子の特性であり、生涯変わることのないものだ」という言葉に疑問を持つことができる。
「ここからが特性で、ここからが未発達で、ここからが生活、環境の影響で」という具合に、明確な線引きも、説明する言葉もないかもしれませんが、ちゃんと我が子の育んでいける部分を視界に捉えることができている。


私が関わった親御さんの中に、最初は「治るなんて…」と言っていた方が、お子さんの課題がどんどん解決し、伸びやかに発達、成長していく姿を見て、「これが“治る”なんですね」と感想を述べられたこともありました。
本来、親というものは、「治るか治らないか」が最優先ではないはずです。
我が子が苦しんでいれば、「少しでも良くなってほしい」と思う。
我が子には、伸びやかに、健やかに成長してほしいと思うし、自立へ向かって歩んでほしいと願うもの。
ですから、私が「治る」と発信しているかどうかなんて、ほとんど関係がないことなのだと思うのです。


どんな専門家でも、親の代わりはできませんし、親以上に関わることはできないのです。
だからこそ、親御さんの物理的にも、心理的にも、本能的にも、優れている部分を活かし、その力を存分に発揮できるようなサポート、後押しをするのが、専門家の役割だと思います。
親御さんが育めると思う部分、まだまだ育っていくと思う部分に対し、アイディアと言動で後押しするのが私の役目。
「ここが治せる部分で、ここが治せない部分」とジャッジするのが仕事ではありません。
何故なら、親御さんの多くは、ちゃんと治せる部分、育める部分に気がついているから。
それを表現する言葉を持ち併せていないときに、そっと言葉をお貸しするのが、親御さんへの後押しの一つになると考えています。

2019年5月21日火曜日

侵食する自閉症の概念

「生涯に渡る支援が必要」だと告げられた人が、「その症状は、障害特性だから。治るとかの次元じゃないから」と告げられた人が、その告知を覆すように治っていく。
そうすると、決まって偽物説が出てきます。
私は、その様子を見聞きし、いつも怒っています。
そうやって本人には、より良くなるための可能性があったのに、それ自体を否定した人間がいたことに。
そして何よりも、まず先に口から出てこなかった「良かったね」の一言に対して。


悩みを抱えている人が目の前にいる。
その悩みを抱えている人をサポートする仕事を私はしている。
だったら、人工的な、便宜上の診断基準に乗っかるかどうかよりも、目の前の人が喜んでいれば、今までよりも良い方向へ進んでいけるのなら、心から「良かったね」「私も嬉しいよ」という言葉が出てくると思うのです。
エビデンスや診断基準のために仕事をしているのではないでしょう。
そういったものを守るために、目の前にいる人が良くなっていく姿を共に喜べないのなら、そもそも人を支援する仕事に適していないのだと思います。


どんな方法でも、私が直接関わりのない人でも、「良くなった」「治った」という話を聞けば、嬉しくなりますし、それ自体が励みにもなります。
世の中に良くなった人がいて、治った人がいる。
それだけで、私が関わらせてもらっている人達も、同じように可能性があるのだと思えるのです。
だからこそ、ますます関わっている人達が良くなるように、治るように、自分も頑張ろうという意欲が湧いてきます。


時折、私が関わった人で「治った」というと、冒頭のように「もともと違った」「偽物だった」という人がいます。
しかし、私に対するその言葉は、褒め言葉だと感じています。
だって、「治る」は肯定しなかったとしても、良くなったことは認められているのだから。
私にとっては、目の前にいる人が本物(?)でも、偽物(?)でも、どうでもよいのです。
「一年前より良くなったね」「〇〇ができるようになったね」「この部分はとても成長したね」
それだけで、私が果たす役割は十分なのですから。


極端なことを言えば、治った人は、みんな偽物で良いと思います。
偽物をどんどん治していけば良いのですから。
そして何よりも、自分たちが言う偽物すら治せない人よりも、ずっと良い。
本当は偽物で、治る可能性がある人までをも、塩漬けにし、鳥籠に押し込め、生涯に渡る支援の名の元に、他人によって人生を消費されてしまうよりも。


真面目な話として、相談者の傾向、全国的な雰囲気から、自閉症の概念が都合の良いように利用されている感じがします。
どう見ても、その子は現時点で「発達に遅れのある子」=「発達障害の子」だったはずなのに、自閉症の概念(ときにADHDやLDなども)が利用され、あたかも、現時点での遅れに伴う困難が、生涯変わらない固定化されたものであるかのごとく、それ自体がその子の特性であるかのごとく、語られたり、告げられたりしている状況。


確かに自閉症者に多く見られるような視覚的な情報処理などは、未発達というよりも、脳みその使い方、特性に近い気がします。
でも、言葉による説明や指示が通らないのは、視覚的な情報処理というよりも、耳が育っていないからかもしれないし、その前の前庭や三半規管が育っていないからかもしれない。
または、過剰なメディア刺激による神経伝達物質の問題が根っこにあるかもしれない。
それなのに、年端もいかない子どもさんに対し、原因を確認することなく、ざっくり「発達障害」と言ってしまう。
しかも、その「発達障害」も、「現時点で発達の遅れが見られますよ」ではなく、ここだけ都合の良いように自閉症の特性かのごとく、「生涯変わらない」なんて言い放ってしまう。


本来、生涯変わらないような、揺るがないような特性、資質というものは、あらゆる発達が生じた上に表れるものです。
まだ育てていないし、育っていない、成長していない部分が多々あるのに、どうして、ある一部分だけを取り出して、それが特性だ、個性だ、資質だ、と言えるのでしょうか。
それこそ、それは「あなたの主観でしょ」の次元だと思います。


主観が入る余地のある診断基準を使っている限り、こういった問題はなくならないと思います。
私の印象ですが、相当数、治るはずの子ども達、未発達が原因で今、困った症状が出ている子ども達がいるように感じます。
そしてはっきり言えるのが、まだ育てていないし、育ちきっていない子ども達の可能性が否定されている現実があるということです。


診断名をつけるには早すぎる子ども達が、「発達障害」という診断名を受けている現実。
しかも、その発達障害というのが、意図的か否かはさておき、自閉症の概念に侵食され、染まってしまっている現実。
そういった中で、子育てをされる親御さん達は、早々に諦めることを余儀なくされる。


支援者というのは、諦めそうになった本人を、親御さんを、「一緒に頑張りましょうよ」「諦めるのは早いですよ」と励まし、背中を押していくのが役割なはずです。
それなのに、年端もいかない子どもに対し診断名を付け、あたかも、それ自体が生涯変わらないかのごとく、印象を与えてしまう。
挙句の果てには、自分と関わりのない他に治った子がいれば、「偽物だった」「誤診だった」とさらに終始、可能性を否定する。


治った人が偽物だったのなら、「偽物は全員治す」という方向へ進むのならまだしも、現実は醜い状況だといえます。
少なくとも、育っていく可能性がある子、未発達の部分が発達していくことにより、症状や課題がなくなっていく子も、過剰に診断されている現実があります。
ですから私は、私のところにいらっしゃる皆さんは、「育つ可能性のある人」「治る可能性のある人」だと思って、関わっています。
何故なら、その人の可能性を信じられない人は、支援者という仕事をやってはいかないと考えているから。
本人が、家族が諦める前に、諦めるわけにはいかないのです。

2019年5月20日月曜日

土台の発達が満たされた結果、次の発達が始まる

身辺自立の遅れや運動発達の遅れは、どちらかと言えば、周囲の対応が遅くなりがちです。
お漏らしやおねしょは、小学校に上がってもしている子はいますし、幼児の場合は親が、大人がささっと対応してしまえば、大事になることはありません。
同様に、「運動が苦手」「手が不器用」に関しても、個性の範疇に見られがちです。


しかし、言葉の遅れは異なります。
やっぱり、どこかで、「言葉が遅いのは、この子の個性」と思うには難しくなる時期がきます。
だからこそ、相談でいらっしゃるご家族の半分くらいは、「言葉の遅れ」に関することです。


「言葉の遅れ」に関して、家庭で何も気にせず、何もせず、ということはありません。
皆さん、読み聞かせを一生懸命やられたり、「〇〇ちょうだいは?」などの促しをやられたりしています。
当然、身近な方たちから助言も貰っていて、「いっぱい話しかけたらいい」ですとか、「顔を見合わせて口の動きを見せたらいい」ですとか、言葉が出るような促しをされています。
でも、なかなか思うような変化が見られないから、相談に至るという場合が多いといえます。


当然、言葉の遅れですから、言葉や音声、口に注目が行きがちです。
私も、若手の頃は、同じように思っていましたし、支援の方向性もそのようなものでした。
でも、いろんな方達と関わらせてもらう中で、言葉の遅れに言葉で対応しても、なかなかうまくいかない、ということに気が付きました。
むしろ、言葉ばかりに注目するのではなく、それ以外の部分、発達こそが言葉、発語につながると考えるようになったのです。


主に施設で働いていたときですが、自閉症の特性だけではなく、知的障害の程度も大変重い方達と関わってきました。
確かに、身辺自立に関しても、身につく年齢が高かったり、身につくまでの支援や練習の回数、年数が長かったりすることがありますが、大人になっても未自立、まったく身につかない、という方はほとんどいませんでした。
発語はなかったけれども、教科学習などは困難だったけれども、ちゃんとトイレで排泄し、ちゃんと自分でごはんを食べ、夜になったら自分で寝ている人はたくさんいました。
しかし、発語はあるけれども、身辺自立がまったくできていない人はいませんでした。
発語がある人は、身辺自立もできている。


つまり、何が言いたいかといいますと、発達の流れから言えば、感覚や内臓の育ち、運動の育ちが言葉の発達よりも先ということ。
別の言い方をすれば、こういった発達が土台となり、言葉の発達が促されていくということです。
ですから、「言葉が遅れているから」と言って、言葉ばかりに注目しても、発達が促されない可能性が高いといえます。


もし、言葉の遅れがあるのなら、「言葉の土台となる部分に、発達のヌケや遅れがないかな?」と思うことが大切なのかもしれません。
近頃、私は「言葉の発達は結果」だと考えるようになりました。
「言葉を獲得する」などの表現から、何かヒト特有の一つの能力、スキルのような印象を受けますが、そうじゃなくて、いろんな土台となる発達が満たされてきた結果として、少しずつ言葉、言語が発達し始めるのではないか、と思います。


言葉の発達に限りませんが、何か気になる部分があって、そこにばかり注目していると、そこばかり育てようとすると、却ってうまくいかないことが多いような気がします。
そういった姿を日々、見ていますと、ヒトの能力を一つ切り取って考えること自体が不自然だと思うのです。


何か部分的に育てようとしても不可能なことが多いです。
何故なら、一つの能力が一つの活動とのみ、繋がっているわけではないから。
一つの活動の背景には、いろんな能力があり、様々な発達の土台の上に成り立っている。
なので、一つ発達のヌケが埋まれば、ある部分の発達の遅れが育てば、ほかの部分でも良い発達、全体的な成長が表れるのだといえます。


「治しやすいところから治す」というのは、一見すると、課題となる部分に直接的ではなく、遠回りのような感じがすることもあります。
しかし、一つでも治ると、そこと繋がっている部分が連動して改善し、治っていくことがあります。
たとえば、しっかり寝られるようになれば、疲れを翌日に持ち越すことが少なくなり、その分、脳に余裕が生まれるかもしれません。
その脳の余裕が、新しいスキルや学習、発達へと繋がる可能性は十分にあります。
ですから、ちゃんと寝られるようになることが、言葉の発達につながることもある。


このように、ある発達は、別の発達の土台となり、それと影響し合うことがあります。
発達とは、独立して起こるのではなく、いろんな発達との結びつきの結果だと思います。
「言語発達は、スキルの獲得ではなく、土台となる発達が満たされた結果である」
そう考えると、言葉ばかりに注目することなく、同時に一喜一憂することもなく、もう少し余裕を持って子育てができるかもしれません。


「発語の準備が整っているかな?」という視点も育みの糸口になると、私は考え、日々接しています。
ヒトは部分的にではなく、全体的に発達するものですから。


2019年5月17日金曜日

口の時期、手の時期、足の時期

今朝、下の子がお兄ちゃんのちっちゃなオモチャを引っ張りだして、遊んでいました。
以前ですと、なんでも口の中に入れてしまっていたので、飲みこんでしまえる形態のモノは、すぐに取り上げていたのですが、今はその心配はありません。
口で情報を得る時期は完了したようです。


口の周りの触覚は、胎児期の2ヶ月目より発達し始めます。
そして、何でも舐める時期が治まってくるのが、生後1か月半くらいから。
ということは、だいたい2年間をかけて、口の周り、口の内側や舌の感覚を育てているともいえます。
胎児期の初期から発達し始める感覚であり、誕生後も、物事を把握する主として、じっくりじっくり育てていく部分。
こういったところからも、ヒトの中には爬虫類の記憶があり、何よりも“食べる”生き物なんだと感じます。


口の時期を卒業すると、次は手の時期になります。
とにかく手を使い、手の平、指先、手全体で情報を得る。
危険なもの、汚いものは関係なく、とにかく何でも触って確かめようとする。
まさに、その姿は、なんでも口に入れるが、なんでも手で触るに変化しただけ。
でも、脳や神経の発達からいえば、とても大きなステップ。
ヒトは、手を使うようになったから、脳が大きくなったとも言われているし、言葉や言語を使えるようになったとも言われています。


そして、いろんなものを触って、手で情報処理する時期を卒業すると、足の時期になる。
手で情報を得なくても、他のもので情報を得られるようになれば、手は自由になります。
手が自由になったということは、地球との接点は足だけに。
足で地球を感じる。


歩きまわれるようになった頃の幼児さんは、水たまりを見つければ、引き寄せられるがのごとく、突入していきます。
あれは、ピシャッという水しぶきを見ているようで、本当は足から感覚を得ようとしているようにも見えます。
何故なら、この時期の幼児さんは素足でも、水や泥を見つければ、突入していくから。
それに、足の裏についたちょっとの砂や土に大きく反応しますし、足で親の身体に触れたり、モノを触ったりするので。


足の裏で情報を得ようとする時期が完了すれば、足は重力との唯一の接点へと変わっていきます。
足は、重力で地球と繋がる。
このように、「口から手へ」「手から足へ」と情報を感じとる部位は移っていきます。
これもまた、爬虫類の姿、哺乳類の姿、人間の姿を連想させます。
ということは、やっぱりこれも発達の流れ。
感覚、運動の発達は、脳の発達と相互関係にありますので、進化の過程を辿ることが脳を育て、人間らしい脳機能を獲得していくことだといえます。


こういった連想をしていますと、仕事で接する子ども達、また若者たち、大人たちの姿にも繋がっていきます。
幼児期を過ぎたけれども、なんだか常に手が口元にある子。
モノの匂いを嗅ぐのに、顔を近づける子。
反対に、ちょっとでも口に何かが付くと、過敏に反応する子。
大人でも、通りすがりに、ちょっと何かに触れようとする人もいれば、手が落ち着きのない人もいます。
そんな姿、手を見ると、「手が情報を得たがっているのでは」と思うことがあります。


足も同様に、靴下がダメな子もいれば、素足で外を歩くのがダメな子もいます。
足がソワソワしている人を見れば、「まだ重力との接点のみの段階にきていないのかな」とも思います。
もしかしたら、足で情報をまだまだ感じたりないのかもしれませんし、手で感じ足りなかった、さらにさかのぼって、口で感じ足りなかったかもしれません。


口や手、足の運動自体はできているけれども、なんだか違和感を感じる。
そんなとき、私は「充足感がないような口、手、足」というように表現することがあります。
親御さんに話をお聞きすると、「そういえば、手づかみ食べをさせてこなかった」「いつも靴下を履かせていた」「口に何かが付くと嫌がるから、液状のものは気を付けていたし、付いたらすぐにふくようにしていた」などというエピソードも。
そうだったら、今から満たしてあげればよいのだと思います。


もっと口元で、手で、足で、いろんな刺激、モノを感じとる、いや、味わい尽くす感じ。
ある若者は、土いじりを始めたら、手の充足感が増してきた方もいました。
そのときは、「目を閉じて、手で見る感じ」というアドバイスをしたことを覚えています。
当然、脳にも良い影響が出ました。



【福岡出張について】

6月21日(金)~24日(月)にかけて出張できたら、と考えています。
ただ、ひと家庭のご負担を考えますと、「もうひと家族、ご希望があれば」と思います。
もし上記の日程で、ご希望があれば、お問い合わせください(てらっこ塾HP)。

また、以前から関東のご家族で出張の希望をされていた方達がいらっしゃいました。
もし日程が合えば、ご希望の家族が複数になりましたら、夏休みに関東&福岡出張にすることも考えています。

志を共にする皆さまのおかげで、いろんな方が情報を得て、問い合わせをくださっています。
本当にありがとうございました。
ただ私の日程や都合のせいで、確定まで至らなかった方達がいらっしゃいます。
私の問題でもありますので、申し訳ない気持ちです…。
皆さまにとって良い形を目指し、そして全国に“治る”を届けられるよう、もう少し頑張ります!

2019年5月16日木曜日

神経がむき出た状態

周産期医療に関する本を読んでいますと、「神経がむき出しの状態」という表現が度々出てきます。
特に、課題があって産まれてきた赤ちゃんや、予定よりも早く生まれてきた赤ちゃんに対して、このような捉え方をしているのがわかります。


「神経がむき出しの状態」という表現を見て、私が関わっている子ども達の中にも、「感覚過敏」「感覚の未発達」というよりも、まさに「むき出している」という表現の方が近いような子もいます。
よく特別支援の世界では、「適応させる」「適応力をあげる」などと言われますが、それ以前の課題として、神経が出ちゃっているんだから、そのまま晒されてしまっているんだから、適応云々じゃあうまくいかないといった感じです。
本当は、何か指導や支援して適応力をあげるよりも、刺激を調整しながら、温かくそのむき出しの神経を育てていく必要がある。


赤ちゃんは、お母さんのお腹の中で、感覚機能を育てていきます。
胎児は羊水の中で成長し、その胎児と羊水を3層の卵膜が包んでいます。
当然、卵膜の外はお母さんの身体があり、何重にも包まれているわけです。
そういった守られた環境の中で、変化や刺激の少ない環境の中で、じっくりじっくり感覚機能を育てていきます。


だけれども、何らかの理由で、神経がむき出しのまま、生まれてくる赤ちゃんがいます。
もちろん、実際に神経がぴろっと外に出ているわけではないですけれども。
そういった場合、まずは刺激を統制する必要があると思います。
胎内の環境と比べて、出生後の世界は、比べられないほど、強い刺激と様々な刺激、そして変化に溢れています。
もし、胎児期の育ちが足りなかった子が、そのまま外の世界で生活しようとすれば、刺激に圧倒され、その刺激の意味を捉える、認知する段階までいけないはずです。


自閉症の人達に見られる“こだわり”の中には、自分なりに刺激を統制し、圧倒されないような自己防衛をしている場合もあると感じます。
脳内の情報処理の関連で語られることもある“こだわり”でもありますが、まさに「むき出しの神経」がそうさせている、そうせざるを得ない身体を持っている、とも考えられます。
実際、施設でも強いこだわりを持つ方は、強い感覚過敏を持っていた、ということがありました。
知的障害も重い方達が多かったですが、今思えば、本能的に胎内環境を求めていたようにも感じます。


皮膚や末端で捉えた情報を、「うまく中枢神経が運べていない」「処理できていない」といった理由の感覚過敏があると思います。
その一方で、神経むき出し状態が故の感覚過敏もあると思います。
一言で「感覚の問題」といっても、脳や脊髄の課題、刺激を受け取る末端の課題があり、末端の課題にも、そもそも受け取れていない、反対に神経むき出し状態という場合が考えられます。
となれば、課題の根っこによって、刺激を与えた方が良い場合もあれば、逆に統制した方が良い場合もあるといえます。


今までを振り返りますと、「神経むき出し」という言葉から思い浮かぶ子ども達は、どちらかといえば、包み込みながら、ゆっくり刺激を与え、育てていく、という方が良い方向に進んだと感じます。
なんとなくではありましたが、「優しく包み込むようなスキンシップを」と提案していましたし、刺激の少ない環境でゆっくりゆっくり育てた方が、感覚面の課題が解決しやすかったと思います。
決して「適応」ではなく、感覚を「育てる」。
でも、その「育てる」も、いろんなバリエーションの刺激を与えるのではなく、刺激の統制された環境の中で、ゆっくり育んでいく感じ。


神経がむき出しているのなら、包んで育てていく必要があると思います。
神経が向き出ている状態は、胎児期の赤ちゃんの姿、胎児期の途中だといえるから。
環境側から包んでいくことによって、自らの身体で神経が包まるように育んでいく。
神経は、その人の身体に、皮膚に包まれている。
その皮膚は、スキンシップによって育てられていく。
皮膚は、元を辿れば、脳と同じ外胚葉。
神経がむき出ているのなら、包むのように育てていくのが良いのかもしれませんね。

2019年5月15日水曜日

専門家が思う最適な方法であって、『答え』ではありません

偉大な記録を樹立し続けたイチロー選手。
そのイチロー選手の打撃理論を否定する人もいます。
当然、イチロー選手と同じことをしても、メジャーで活躍できるとは限りません。
それくらい、野球のバッティングは、個人差があるということ。


私も高校時代、監督、コーチ、OB達から、バッティングについて指導を受けましたが、皆さん、言うことが違いました。
一人ひとり体型も違いますし、筋力も違います。
打席に立った感覚やボールの見え方だって違う。
だからこそ、指導する側も、自分の身体、感覚を通して感じたこと、考えたことを伝えているわけです。
どう頑張っても、自分の身体を軸に物事は展開するのです。


親子ですから、似ているところがあるのは自然だといえます。
でも、どう頑張っても、我が子と同じ身体、感覚にはなれません。
へその緒でつながっていたとしても、胎児期からすでに別の独立した個体同士です。


我が子とは言え、別の身体、感覚を持った他人ですので、自分に良かったこと、効果があったことがすべて当てはまるとは限りません。
だからこそ、子どもさんをしっかり見ることが重要です。
すべての答えは、そこにあります。
「良い表情になった」「自ら求めてきた」「変化があった」
それが答えであり、我が子からのメッセージです。


我が子を愛するが故、子育てを頑張ろうとするが故、専門家から一生懸命学ぼうとされます。
そして学んだことを、子育てに取り入れ、実際に行ってみる。
そうすると、我が子が応じなかったり、うまくいかなかったりすることもあります。
子どもは日々、変化するものですし、何より生きていますので、それは当然だといえます。


しかし、「すごい先生から習ってきたんだから」という想いから、教わった通りにできるように、と自分を変えようとする。
「私のやり方がまずかったんだ」「私がちゃんとできていないから、我が子は応じないんだ」
そんな想いが積み上がっていくと、いつしか、真正面に見ないといけない我が子の姿から、視点が徐々に自分に、そして教えてくれた専門家の方へ移っていきます。
すると、子育てが支援になり、親が支援者となる。


専門家というのは、一言で言えば、原理原則を知っている人だといえます。
発達の流れや順序、身体、神経の繋がり、といった原理原則。
それにプラスして、それぞれの専門家が、その子に合った方法を実践と経験の中から導き出し、提供する。
専門家のセンス、腕によって差はありますが、自分の身体、感覚を通して、目の前の人に対する見立てを行い、原理原則と経験を補助に、最適な方法を伝えています。
つまり、いくら専門家であっても、伝えられるのは最適な手段、方法であって、答えではないということです。


答えを知っているのは、その子自身です。
ですから、うまくいかないことがあれば、教わった専門家ではなく、我が子に直接聞けば良いのです。
もちろん、これは言葉のやりとりに限りません。
「こうしたら、どう?」「ああしたら、どう?」「先生はこう言っていたけれども、違う方法もいいかも」という具合に、反応を見ながら対話しつつ、答えを導き出していけば良いのです。
そういった交流、親子の育み合いが、より良い発達、成長へとつながっていくのだと思います。
それは子どもの発達、成長だけではなく、親御さん自身も。


教わった通りにできなくても焦る必要はありません。
思ったような反応が返ってこなくても、不安になる必要はありません。
それは、「もっと良い方法があるよ」という子どもからのメッセージです。
専門家が教えてくれるのは、原理原則。
そして、専門家が思う最適な方法。
間違えてはいけないのが、子どもが思う最適な方法ではないこと、それ自体が答えではないこと。
だから、うまくいかなくても落ち込む必要はなく、「もっと良い方法があるよ」と教えてくれている、と前向きに進んでほしいと思います。


親子の育み合い、試行錯誤の先に、その子に合った育ちがあるはずです。
専門家は公式を教えてくれる存在。
その公式を使って、どんな計算をし、答えを導き出すか、はそれぞれの家族次第。
答え合わせは、子どもさんの反応、表情、変化、結果。
我が子の姿を、一番側で、一番長く見ているのは親御さんですね。


今日の息子の、娘の表情はいかがですか?
いい表情が見られていますか?
お母さん、お父さんも、いい表情ですか?
親の顔から支援者の顔に変わっていませんか?
子育ての中に、親子の自然な関わりの中に「治る」があるはずです。

2019年5月14日火曜日

「うちの子も、治ったんだから」

ありがたいことに、数年に渡って、交流させていただいている方達がいます。
定期的にお会いしたり、メールでのやりとりを通して、お互いの近況報告や、ときに一緒により良い方法を考えたりしています。


交流させてもらえる時間が長くなるほど、子ども達の変化だけではなく、親御さん達の変化にも気がつきます。
最初の頃は、切羽詰まった感じ、将来の不安で苛まれている感じがしていて、我が子、いや、正直、自分のことしか見えていなかった親御さんもいらっしゃいます。
それは当然ですし、自然な姿だと思います。
でも、少しずつ頭と気持ちが整理されてきて、そして何よりも、我が子にちょっとでも良い変化が見られてくると、親御さん自身も定まってくる感じがします。


表情や雰囲気、声や文面に、「定まり」を感じると、そこから一気に進んでいくような印象を受けます。
子どもさんが季節や変化に翻弄されたり、良くなる⇔悪くなるを繰り返すのは、発達の土台が不安定だから、という理由もありますが、親御さん自身が定まっていない、という場合もあります。
案外というか、それが自然だといえるのかもしれませんが、親子はやっぱりシンクロします。


「子どもが大変なんです」と言っている、その親御さんの方が大変だったりするのは、よくあることです。
私は、家庭支援を中心に仕事をしていますが、親御さんが定まれば、ほとんど仕事は終わったようなものです。
上記のように、親御さんが不安定だと、お子さんも不安定になることもありますが、反対に、親御さんが「これだ!」と定まったあとの凄まじさはありません。
他人の子がどうだろうとも、専門家がとやかく言おうとも、「私は信じる道を行く」「私は、この子の成長と自立と幸せのために、なんだってする」と腹が決まる。
そうすると、不思議と子どもさんも落ち着いてきたりするのです。


本人を抜かして、一番側にいる環境である親御さん、家族。
その親御さんが定まると、子も定まり、共により良い方向へ向かって走りだします。
親御さんが後押しし、それにお子さんが応える。
子どもの成長を感じられるから、ますます後押しが頑張れる、そういった良い歯車が回りだす。


でも、最初の最初、不安定な親御さんには、ちょっとでも良い変化を感じられることが大事です。
そのとき、子どもさんの力を信じるのも良いのだけれども、そこで、そっと手を出すのが支援者の仕事。
不安定な親御さんを支えつつ、アイディアを提供する。
そこでやってみて、行動に移してみて、ちょっとでも良い変化が見られれば、親御さんは落ち着き、そして持っている親として、一番側にいる環境としての素晴らしさを発揮することにつながっていきます。
だからこそ、私の仕事は、だいたい1回でお役御免になるのです。


切羽詰まり、我が子も見えない状態だった親御さんが、腹が決まり、子どもさんの発達、成長を後押しするようになる。
そして、いつしか、「あのときの大変さはなんだったのか」と思えるくらいに、子ども達が成長していく。
そうすると、親御さんの気持ち、見る方向が広がっていきます。
「うちの子も、治ったんだから、他の子にも、知ってほしい、届けたい」
我が子だけではなく、これからの子ども達にも、会うことはないかもしれないが、同じ時代を生きる子ども達にも、治ってほしい、より良く育ってほしい、という想いが溢れてくる。


我が子が治っていく様子を、我が子がより良く育っていく姿を、一番側で見ていた親御さん達。
その親御さん達が、同じ想いを持ち、それを願っている次の世代の親御さん達と繋がっていく。
そうすれば、もっと、社会の中で自分の資質を活かして生きていける子ども達が増えていくと思います。
これこそが、自然な形の親御さん同士の繋がり合いです。
そういった自然な交流、「治る」「より良く育つ、育てる」で、多くの親御さん達が繋がっていければ、私も嬉しく思います。


切羽詰まって、我が子の姿が見えないくらいだった親御さんが、いつしか、そういった親御さんを支え、定まることの後押しをする存在、そして「あの親御さんのお子さんのように育ってほしい」「あのように育てたい」という希望になる。
そんな姿を想像すると、我が子を治すことは、未来の子ども達を治すことに繋がっているのではないか、と思います。
いつしか本当の意味で、子育ての中だけで治せる時代、治るのが当たり前になる時代がやってきてほしい、と願っています。


*福岡出張の件ですが、今のところ、二家族がほぼ確定です。
ただ、他にも数件、お問い合わせを頂いていますし、他県からも問い合わせがありますので、まだ検討中です。
福岡県内で収まりそうなら、6月に。
他県にも伺うとなれば、夏休み、一定期間、九州に滞在して回ることも考えています。
6月なら、そろそろチケットの手配もしないといけないのですが、あと2,3日、お待ちしたいと思いますm(_ _)m

2019年5月13日月曜日

良いものをパクり、パクったものをお渡しする

「大久保さんから教わったこと、お友達のお母さんに教えちゃいました」と言われることがあります。
このようなことをおっしゃる親御さんは、なんだか申し訳ない感じがしているのかもしれませんが、全然気にしません。
むしろ、大歓迎です。
もちろん、「その知識や情報は、〇〇さんのお子さんに合わせたものなので、他の方に合うかどうかはわかりません」と伝えるようにしていますが。


私が書いたレポートやメールを、他の親御さんや先生、支援者たちに見せるのも、問題ありません。
なにかヒントや考えるきっかけになるのでしたら、嬉しい限りです。
事業を起ち上げたときの願いは、家庭で、子育て、親子の関わり合いの中で、より良く子ども達を発達、成長させてもらいたい、ということ。
ですから、間接的にでも、たとえお会いすることがなくても、同じ時代を生きる子ども達がより良く育ち、将来、社会の中で自分の資質を活かしながら生きていってもらえたら、それで良いのです。


「こんな話、情報、知識を教えてくれる人はいなかった」などと言われることもありますが、元を辿れば、私の知識、技術は、素晴らしい実践家や先輩ママ(パパ)達、そして本人たちから教えてもらったこと、気づかせてもらったことです。
一瞬、「自分のオリジナル」なんて錯覚することがありますが、それはただ自分が過去を忘れていただけだと思っています。
私にオリジナルの知識や技術などありません。
ほとんどが教えていただいたことであり、ほとんどがパクリです。


パクリはパクりなりに、一生懸命パクろうと思っています。
方向性は、治る、治す、社会の中で資質を活かす。
その方向性はブレずに、いろんな視点から発達援助と向き合っています。


パクる対象は、発達障害、特別支援に限りません。
むしろ、その外側にある様々な発達との向き合い方、その視点が、多くのことを教えてくれるように感じています。
もちろん、論文等も読みますが、それ以外の書物、ブログ、講演会でのお話、生の声などからも大いに学ばせてもらっています。


いろんな情報と向き合っていますが、誰が書いたか、どんな媒体、形式で書かれているか、は意識から無くすようにしています。
何故なら、そんな表面的なことでは、内容、そのものの価値は測れないからです。
時折、「論文しか読まね~」「専門家の意見しか聞かね~」という人がいますが、それは論文を書いている自分、またはそれを読んでいる自分をよく見て欲しいといったクダラナイ優越感に浸る行為です。
何故、論文を読み、学ぶか、誰のために知識をアップデートしているのか、を見失っている証拠。


これだけ日進月歩で科学が進歩している中、まだまだ人間、そのものは未知の部分が大半です。
私達が何故生まれ、どうして生きていくのか、わからないのです。
発達と向き合うということは、今まさに生きているヒトと向き合うこと。
「これが絶対に正しい」「今後、100年も、200年も、同じ価値のまま」ということはあり得ません。
だったら、自分が良いと思ったものを、そして実際に良い結果、自分が求めている結果として表れたものを真摯にかき集めることが、より良い未来への一歩だと考えています。


専門家が書いたものだろうが、一般の人が書いたものだろうが、良いものは良いのです。
専門家の最先端の研究よりも、今、まさに子育て真っ只中であるお母さんの一言の方が、多くの含蓄があり、心を揺さぶられることがあります。
私は、治らない、良くなることのない専門知識よりも、「発達した」「良くなった」「治った」という本人、家族の生の声の方が感動しますし、そこにこそ、大きなヒントがあると思っています。


世の中に溢れる情報、言動の中には、ある人にはためになり、ある人には耳の痛いことになるものもあると思います。
しかし、だからといって、発信しないというはよくないことだと考えています。
よい情報、知識を持っていて、それを必要としている人に届けないのは間違っています。
もしかしたら、その一言によって、誰かの生活、人生を変えることになるかもしれないからです。
私達は、社会の中で生きているのですから、相互に影響し合っている。
だったら、求めている人がいれば、私の持っている情報を届けたいと思うのです。


福岡在住のご家族から出張の依頼がありました。
そのことを発信したら、すぐに「ブログに載せましょうか?」と言ってくださった方達がいました。
本来、新規開拓、宣伝は、事業者である私の仕事。
しかし、「我が子じゃなくても、治る子が増えるのは嬉しい」という想い、志を共にする方達からのお声だったので、ありがたく甘えさせていただきました。
出張の際は、訪問させていただく家庭が増えれば、その分、費用が割れるので抑えることができます。
そして何よりも、私が持っている情報をいろんな方にお渡しすることができます。
私がパクってきた素晴らしい方達の知識、知見が、また誰かと誰かを繋げることになるかもしれません。
仕事自体、大きく儲かるような話ではありませんが、起業時の志を果たすことができるのは、私の喜びであり、事業が存在する価値だと思っています。


ありがたいことに、土曜日のアナウンスで、すでに数件、お問い合わせをいただいております。
ブログ等で、発信してくださった皆様、本当にありがとうございます。
発信してくださった方達は、多くの学びを頂いているブログを書かれております。
私もブックマークしていますし、読まれた方が良いなと思われる方達に紹介もしています。
私のツイッターで、リツイートさせてもらっている方達ですので、ぜひ、皆さまも訪問されると良いかと思います。
有料無料、専門誌ブログに関わらず、良いものは良い!
どこに目の前の子を幸せにする言葉が落ちているかはわかりませんので、広い視野を持って、良いものを求めていくことが大事だと思います。


*6月、または夏休みの福岡出張の件は、もう少しの期間、募集しようと思っています。

2019年5月10日金曜日

発達障害が生じる3段階

私は、相談者と初めてお会いするとき、まず遺伝の部分を確認します。
子どもさんに見られる特徴の中に、ご両親、または親戚に似たいような特徴を持った方がいらっしゃらないか。
当然、親子なのだから、遺伝する部分があるはずです。


親御さんが子どもだったとき、今の我が子と似た様子があれば、それは受け継いだものであり、大きくは変わらない部分でしょう。
その場合、それ自体を変える、治すというよりは、活かす方向へと導きます。
同時に、親御さんは、その特徴と折り合いを付け、また生活に支障がないくらいに、ときには長所として活かすくらいになっているわけです。
ということは、親子で重なる部分があれば、親御さんの歴史の中にその特徴を育み、活かすアイディアがあるはずです。


遺伝の部分は、親御さんに勝る援助者は存在しないわけです。
だからこそ、まず遺伝の部分を確認する。
そして同時に、明確になった部分以外は、「育てられる」と希望、可能性を見出すことができます。
治せる部分、治せない部分をはっきりさせるのは、発達援助の一歩だと考えています。


発達障害が生じる段階は、3つあるといえます。
胎児期、出生時、出生後。


低出生体重児、早産児と発達障害の関連性は、調査、研究によって明らかにされています。
身体が小さければ、胎内にいる時間が短ければ、それだけ胎内での動きが制限され、結果として発達に影響が出ると考えられます。
また背景には、母体からの栄養、または胎児の吸収の課題があるはずです。
母体の受けたストレスが、胎児の動きを制限することもあるでしょう。
しかし、胎児期の運動、刺激の問題で生じた発達の遅れは、やり直すことによって育むことができます。


現在の日本では、無事に生まれてくるのが普通のような感覚がありますが、出生時はいろんな危険がはらんでいます。
出生時の脳の神経細胞の数と大人の神経細胞の数は変わらず、同じ数ですので、もし出生時に発達障害が生じたのなら、神経細胞自体へのダメージが考えられます。
しかし、この場合も、8歳までの脳は特に柔軟性に富んでいますので、環境と刺激を整えることで、どんどん神経細胞同士の繋がりを生むことはできますし、たとえ大きなダメージを受けたとしても、そこを迂回して新たなバイパスを通すことができます。


出生後に生じる発達障害は、神経細胞同士の繋がりの問題だといえますので、その場合は、まずは、とにかく阻害する要因を取り除き、より良く繋がっていけるような栄養、環境、刺激づくりをしていけば、発達のヌケも、遅れも取り戻すことができます。


本当は、個別の要因があり、もっと複雑に絡み合っていますが、発達障害が生じる段階を考えれば、胎児期、出生時、出生後だといえます。
いずれも、栄養、環境、刺激との相互作用の中で生じた発達障害だといえますので、あとからでも育てることはできると思います。
一方で、遺伝に関しては、ある意味、ゼロの段階、受精した瞬間といえるので、ここは受け継いだものを磨き、活かしていく。
もちろん、遺伝的な要素を持っていたとしても、環境や刺激によって発現しないことがありますが、それを目指すのは現実的に難しいと考えます。


こうして考えてみると、現実とのギャップを感じます。
あたかも、一度、発達障害という診断を受けたら、ずっと変わらない、それで自立や普通の生活、人生は望めない、みたいな空気感が漂っています。
でも、発達障害が生じる可能性は、どの子にもありますし、どの子にもあるくらいの可能性だったら、それ程、恐れることもなく、何よりも変化する可能性が大いにあるといえます。


ヒトの発達、成長を決めるのは、遺伝子だけではないのは誰もが認めること。
遺伝と環境の相互作用によって、発達、成長は変わっていきます。
発達障害は遺伝100%の障害ではないのです。
それに私がお会いするご家族の皆さんは、親御さんはナチュラルな方ばかりですし、特性を持っている方も治っているし、治している。
どう考えても、胎児期、出生時、出生後の“たまたま”、“偶然”が発達のヌケや遅れに繋がっていると思われます。
誰がいいとか、悪いとかではなく、本当にたまたま。
だからこそ、あとからでもやり直せるし、育て直せる。


平成、特に2000年代以降を振り返ると、発達障害を実態以上に大きく化けさせたのが問題だったように感じます。
冷蔵庫マザーからの脱却が命題だったレジェンド世代の支援者たち。
発達障害、特に高機能ブームに乗った愛着障害の支援者たち。
その支援者たちが、当事者を、親を接待し、問題は個人ではなく、「その障害である」と、個人と障害を別個ものとして切り離す。
そして、発達障害だけが独り歩きし、そのイメージを膨らませ続けてしまったのでしょう。


発達障害は、神経発達の遅れ。
それ以上でも、それ以下でもない。
発達障害という独立した何かがあるわけではありません。
これからも、等身大の子どもと向き合い、子育てを前向きに行っていけるような後押しと情報を、頑張りたい親御さんに向けて発信していきたいと思います。

2019年5月9日木曜日

胎児の育みのような発達援助

胎児は、お腹の中でお母さんの声を聞いたり、外の明暗がわかったりします。
ということは、感覚の始まりは、お腹の中。
じゃあ、具体的には受胎後、どのくらいから感覚の発達が始まるか、を調べました。
すると、触覚が妊娠2ヶ月より口の周りの触覚が発達。
20週までに、全身に皮膚の受容器細胞がみられ、24週には皮質の体性感覚やが発達することがわかりました。
やはり、口の周りが触覚の始まりで、重要な部分。
しかも、妊娠2ヶ月という早い時期から発達が始まる。


他にも、前庭感覚、味覚&嗅覚、聴覚、視覚という具合に、それぞれ発達の始まる時期と流れがわかります。
この中で、視覚が最後に発達を始めるのですが、それでも23~25週目に始まり、30~32週目には自分で眼を開いたり、開けたりするようになります。
このように感覚機能の発達は、妊娠2ヶ月くらいから始まり、胎児期にある程度の土台を作るわけです。


こういった事実を知ると、お腹の中で生じた発達のヌケも、ちゃんと後から育てられる、と思うのです。
だって、胎児自ら感覚を使い、感覚機能、神経を育てているのですから。
これがもし、胎児に動きがなく、ただ胎内で受け身の状態だったとしたら、それこそ、生まれつきの障害になるだろうし、出生後、あとから育てるのは不可能だといえます。
でも、そうじゃない。
そこに希望がある。


相談にこられる子ども達を見ると、やっぱり課題の根っこは、感覚の未発達、発達のヌケに繋がっていることが多くあります。
じゃあ、その感覚の始まりは、といったら、胎児の頃に繋がっている。
口の周りが過敏な子がいます。
肌感覚が過敏だったり、反対に情報が掴めなかったりする子がいます。
うまく食べ物を飲みこめない子がいます。
揺れや重力との付き合い方が苦手な子がいます。
味覚や嗅覚、聴覚や視覚が過敏だったり、反対に鈍麻だったりする子がいます。


当然、胎児期の感覚機能の発達は順調で、準備万端で出生しても、その後の刺激や環境によって、発達に遅れやヌケが生じる子もいるでしょう。
でも、胎児期の準備の時点で、足りなかった、十分じゃなかった子もいると考えるのが自然です。
だからこそ、胎児期の発達を学び、胎児の姿を想像することが、あとからその発達を育て直すヒントになると思うのです。


まだ具体的なものは掴めていませんが、胎児期の育ち、環境が、発達障害の子ども達を後押しする着想につながる気がしています。
ぼやっとしていますが、母体の中で、もう一度、育て直すイメージです。
胎内は羊水に満たされている。
聴覚や視覚の刺激は、強いものではなく、揺らぎがある。
まだ上下左右がはっきりしていない世界で、重力から解き放たれている。
でも、胎児が身体を動かすと、すぐに母体の壁とぶつかり、それが刺激となって神経を通っていく。
狭い胎内でできる動きは、手足の曲げ伸ばしと、身体の回転。
飲む練習は、コップで水を飲むような感じでは無理なので、口をすぼめ、顔の筋肉全体を使って吸うような感じ…。


胎児が、胎内で刺激を受け、感覚機能を育てているのだったら、あとからでも育てられるはずです。
ただし、環境は胎内に近づけないといけないと思います。
胎内と、母体から出た外の世界の大きな違いは、受ける重力の大きさ。
あとは、外からの刺激が直接的ではなく、間接的なところ。
上下左右のない世界での感覚の育ちを、どうやって外の世界で育んでいけるか。
その具体的な答えは見つかっていませんが、一つの学びのテーマとして頭の中に置き、実践の中からヒントを得ていきたいと思っています。
目指すは、胎児の育みのような発達援助です。

2019年5月8日水曜日

「治らない」という前提が揺らぎ始めている

GWに放送されたNHKの番組(再生医療や人体Ⅱ)などを観ていると、特別支援の医療は、本当に医療なのか、と思いました。
発達障害が疑われる子を診断する。
衝動性や心身の安定、睡眠に対症する薬を処方する。
確かに、これらは医師にしか認められていない医療行為です。
でも、そこには医療としての大事な視点が入っていないような気がするのです。
それは、「治す」という視点。


脊髄損傷やエイズなど、現在医療では治せない病気は、たくさんあります。
しかし、治せないと言われている病気に対し、懸命に治そうとしている人達がいます。
それが医療関係者。
今までにも、治らないと言われてきた病気が医療の発展により、治るようになりました。
もし、当時、治らないと言われていた病気に対して、「どうせ治らないんだから、研究しても無理。治そうとするなんておかしい」と、治すこと自体を諦めていたら、今も多くの病気が治らないままだったといえます。


医療機器、技術の向上、iPS細胞などの再生医療などによって、治せなかった病気に対して、日夜立ち向かっている人達がいます。
その人達は、「今は治らないけれども、きっと治す方法がある」と思い、心血を注いでいるのだと想像します。
その人達に対して、誰一人、おかしいとは言わない。
むしろ、それが自然な姿だと思う。
何故なら、医療の出発地点は、「治したい」という想いだから。


医学が確立されていない時代も、医療行為はなされていました。
それが時代と共に、科学的な意味の医学に変わっていった。
医学の始まりは、目の前の一人の患者さんだったはずです。
その患者さんが良くなった、治った。
そして、その理由を探っていった。
その積み重ねが、医学へ進歩させたのだと思います。


今まで治らないと言われていたけれども、治った人がいた。
だったら、その人と徹底的に向き合い、何故、治ったのか、理由を見つけるのが医療だと思うのです。
それなのに、特別支援の世界の医療は、最初から「治らない」と言い切ってしまう。
現代医療では、発達障害になった原因を特定できないのにも関わらず、年端もいかない子どもを前に、言い切ってしまう。
せめて、「今は治らないけれども、将来、治せるようになるかもしれない」と言ってほしかった、とおっしゃる親御さん達は少なくありません。


医療機関にかかるのだから、なにか良くなる方法、治せる方法を提示してもらえると思うのは、自然です。
何故なら、他の科の医療は、治すための医療行為がなされるから。
虫歯でも、骨折でも、風邪でも、「治る」と思うから、普通の人は病院に行きます。
もし、最初から「治せない」と言われるのだったら、誰も病院には行きません。
病院が治せないのなら、その痛み、苦しみから逃れるために、民間療法へ向かうのは当たり前のこと。
だって、治せないんだから、治そうとしないんだから。


全国から電話やメールで相談を受けています。
そのとき、相談者の口から出るのは、「病院に通う意味はあるのでしょうか」ということ。
もちろん、私は医療の専門家ではないので、その点に関しては、直接的な、明確な助言は避けます。
しかし、多くの人が、発達障害に関する医療に対して疑問を持っているのは確かです。
だって、治らない、治さないが前提の医療なのですから。


私は、こういった生の声を聞くたびに思うのです。
できるのなら、治った、良くなったという人と真摯に向き合ってもらいたい、と。
そして、その治った、良くなった人を、「たまたまだ」「誤診だ」「違うものだった」と否定するのではなく、その人の中に存在する治った理由を、医学的な視点から見つけ出してほしい、と。
それこそが、医療従事者、専門家だからこそ可能な仕事、役割だと思うのです。


私のところにも、治った声はたくさん届いていますし、実際、診断基準から外れ、今は普通に学校に行ったり、仕事をしたりしている人達もいます。
そういった人達の声、存在こそが、とても貴重だと思います。
治ったという貴重な声が集まれば、そこに大きなヒントが見つかるかもしれません。
それが、治った者同士が繋がり合う理由です。


医学が、一人の患者、一人の治った、から発展してきたのと同じように、発達障害も治ったという人達の声にこそ、より良い発展と未来があるのだと考えています。
DSM-5には、診断基準から外れる人達の存在、可能性が示されていますし、そういった研究は海外でなされています。
明らかに発達障害だった人が、発達障害の診断基準を満たし、診断名を受けていた人が、その範囲から外れて成長していく人達の存在が確認されているのです。


だったら、「発達障害は治らない」という前提が揺らいでいる証拠。
そんな前提にしがみつくから、良くなった人、治った人、診断基準から外れた人を祝福ではなく、否定や傷つけることをしてしまう。
しかも、それが治すが出発地点であるはずの医療関係者だったら、目も当てられない。
固定観念から飛びだすからこそ、新たな視点や発展が生まれるのです。
そういった意味では、日々の子どもの姿を傍で見ている親御さん達が、一番柔軟で、一番治せる人達だといえます。


繰り返しになりますが、発達障害の原因は特定できていないのです。
だったら、我が子に発達障害が生じた理由はわからないし、わからないのだったら、治らないと言い切れないし、治るとも言い切れない。
だったら、少しでも治る方向へ進むのが自然な姿。
実際、「治った」と言っている人達、診断を受けたのに、診断基準から外れ、普通に生活している人達がいるのですから。
少なくとも、「治らない」という前提が揺らいでいる今ですから、そんなものと心中するのは得策ではありません。
治った人がいるのなら、その治った人の中に、その育ち、歩みの中に、治った何かがあるはずです。
その治った理由を懸命に探そうとする人達と繋がっていたいですね、私は。

2019年5月7日火曜日

神経細胞の数ではなく、繋がりを変えるという戦略

新生児の脳の重さは400gで、大人の脳は1,400g。
1歳になる頃には、800gになると言われています。
1年間で、脳の重さが2倍になったのだから、神経細胞が2倍に増えたと感じるかもしれません。
でも、神経細胞の数は、生後増えることはありません。
つまり、新生児も、1歳児も、大人も、みんな、同じ数。
ちなみに、ヒトの脳の神経細胞は、生まれたときに全体で1,000憶個あり、そのうち、大脳新皮質には140憶個の神経細胞があります。


じゃあ、脳はなぜ、重くなるのか?
それは、神経細胞と神経細胞の間を連結するシナプスが増えるから。
生後、外の環境からの刺激によって増えていくのです。
繋がりを増やすことで脳は大きくなり、繋がりが増えるということは、感覚、動作、認知の発達だといえます。


生後、1年間は、もっとも脳が育つ時期だといえるでしょう。
その最も脳が育つ時期、劇的な発達を見せる時期に、「なんの問題もなかった」「特に変わったことはなかった」「むしろ、順調に育っていた」と言われる子ども達が少なくありません。
「おっぱいを吸うのが難しかった」となれば、胎児期の発達に根っこがあると考えられます。
早産や未熟児だったとなれば、当然、お腹という環境の中で行うべき発達や栄養が足りなかったとなるので、その影響が生まれたあとに出るのは自然だといえます。
明らかに「ご本人さまですね」という親御さんなら、遺伝の影響が考えられます。


おっぱいを吸うのも、運動発達も、親との交流も、順調に育っていた。
特に、胎児期、出生児にトラブルがあったように思えない。
親御さんや家族、親戚に、同じような特徴を持った人がいるわけではない。
でも、「1歳を過ぎたあたりから…」「2歳になっても言葉が出ず…」という子ども達がいます。
それも珍しい話ではなく、よく聞く話なのです。


順調に1歳、2歳まで発達する子ども達に遅れが出る。
この子達は、確かに発達に遅れが出るので、発達障害の子ども達なのだと思います。
しかし、じゃあ、先天的な障害か、と言われれば、そうではない可能性が高いといえます。
だって、先天的な障害だとしたら、少なくとも、新生児、赤ちゃんの時点で、何らかの課題が生じているはずだから。
超早期診断というのもありますが、そのマーカーに引っかからないのです、だって、その項目はクリアし、順調に育っているから。


受精し、細胞分裂の時点で、神経細胞の数が少なければ、それはもっと器質的な障害として表れるでしょうし、生まれること、生きることが難しいかもしれません。
しかし、私が関わる子ども達は、最初から神経細胞が少ないなどと思われるような子はいません。
神経細胞の数は、出生後、変わらないのですから、違いがあるとすれば、その繋がりの問題。
何らかの要因から、うまく神経細胞同士が繋がっていかなかったと考えるのが自然だといえます。


では、1歳、2歳まで順調に育っていた子の発達の遅れは、どう捉えれば良いのか。
当然、神経細胞同士の繋がりは、神経なのですから、栄養と刺激に左右されます。
もちろん、個人的な見解ではありますが、栄養面で言えば、おへそからの栄養摂取ではなく、口からの摂取になりますので、食べたものが偏っていたり、栄養が足りなければ、神経細胞同士の繋がりが生じにくくなるでしょう。
それに、消化、吸収に関する個体差があるでしょうから、バランスよく食べても、消化、吸収がうまくできなければ、結果的に偏りが生じ、それが繋がりに影響を及ぼす。


刺激に関しても同様で、単一的な刺激や、自然ではないコントロールされた環境、反対に強すぎる刺激を受ければ、それに応じて、繋がりが生じにくかったり、反対に局地的な繋がりばかり生じてしまったりする。
そして、本人の感覚に課題があれば、同じ刺激を受けても、十分に受容、反応できないのですから、そこでも繋がりに影響が出る。


まあ、端的に言えば、一言に「発達障害」と言っても、後天的な発達障害もあるということ。
というか、これだけ、モノと刺激と人工的な環境に溢れる現代ですから、それに親世代がとても忙しく余裕のない時代ですから、便利でインスタントなモノに流れていくのは自然だといえます。
人類の歴史から考えれば、これだけ短い時間の中で、強烈な変化、非自然なものに溢れた環境で生きることは経験したことがないのですから、DNAや身体がその変化に、刺激に、追いつけず、バグを起こすのは当然です。


私は、便利で快適なものをすべて捨てろ、と言っているのではありません。
ただ、神経細胞同士の繋がりを、出生後の環境、刺激によって変えられるような戦略をとってきたヒトという生き物が、現代社会の影響をもろに受けるのは当然だと思っています。
だからこそ、子ども達の環境、刺激は、大人が守らなければならないのです。
子どもがより良く発達できる環境と刺激を用意するのは、大人たちの役目であり、責任です。
子どもの発達を阻害する環境と刺激から守っていくのも、同じこと。


1歳、2歳まで、つまり、脳が2倍も重くなる時期を、順調に育ったのですから、その発達の遅れは、生来的なものではなく、生まれつきのものでもなく、生涯変わらないものでもない。
環境と刺激の影響で、脳の神経細胞同士の繋がりにネガティブな影響が出たのなら、そのネガティブな環境、刺激から遠ざけ、反対にポジティブな環境と刺激で、より良い繋がり、発達を促していけば良いのです。
とてもシンプルな話。
だって、神経細胞の数は変わらないのです。
じゃあ、あとは繋がりだけ。
神経細胞同士の繋がりは、栄養と刺激で生じるのです。


今回は、いわゆる折れ線グラフ型の子ども達について書きましたが、他の発達障害の子ども達も、生後の栄養と刺激で、どんどん変わっていくと思います。
何故なら、どう考えても、神経細胞の数の問題ではなく、繋がりの問題だといえるから。
つまり、その発達の遅れの根っこが、たとえ胎児期であっても、それが生来的、生まれつきとは言えないから。
胎児だって、羊水の中で身体を動かしたり、羊水を飲んだりして、神経発達を促しているのです。
出生後からではなくて、胎児期から刺激を感じ、身体を動かして、自分の脳や神経を育てている。
だから、ここの時点で発達の遅れが生じたとしても、あとからこの胎児期のやりのこしをやれば、神経細胞同士の繋がりは生じるのだと思います。


発達障害と呼ばれる子ども達の多くは、神経細胞同士の繋がりの問題。
じゃあ、先天的な障害とはいえないでしょ、生まれつきの障害といえないでしょ、治らないといえないでしょ。
もちろん、先天的で神経細胞自体の数が少ない子、それ自体に問題がある子もいるでしょう。
でも、ほとんどの子は、違うはず。
じゃあ、あとからでも、生まれたあとからでも、良い栄養と刺激によって、より良く神経細胞同士を繋げていこうよ、より良く育てていこうよ、というお話。
諦めるのも、やらないのも自由だけれども、発達障害の子ども達の中に治って、診断基準から外れ、普通の子として成長していく子がいるのは、ごく自然なことですね。
ヒトは神経細胞の数は一定にしつつ、環境と刺激によって、「神経細胞同士の繋がりを変えられる」という戦略をとった生き物なのですから。




2019年5月6日月曜日

親次第で子は変わる

中学生の親御さんとお話したら、塾に行っている子と、いない子では、いない子の方が成績が良いということでした。
実は、以前にも同じことを学校の先生から聞いています。
塾に通っている子は、通っているだけで満足している。
その点、自宅で家庭学習をコツコツやっている子は、自分で考えること、自分で積み上げていくことの大切さを知っているから、きちんとした学力がついていく、と。


結局、中学生くらいになってから、「いざ、家庭学習」「いざ、自分で計画立てて勉強」といっても、できるようにはなりません。
ということは、もっと小さいときからの取り組みが大事。
小学生の頃から、親御さんが手をかけ、目をかけ、学ぶ姿勢を育んでいく。
最初からできるわけはないのですから、ある意味、親次第といえるのだと思います。
ちなみに、運動系の部活をやっている子の方が成績が伸びる、とも言っていました。
これは当然ですね。
神経は全身に張り巡らされているのですから。
考える土台は、神経の育ち。


こんな話をしていると、塾が児童デイに聞こえてきます。
児童デイに通わせていることだけで満足してしまう親御さん。
療育に通っていることだけで満足してしまう親御さん。
有名支援者とつながっていることだけで満足してしまう親御さん。
療育や児童デイにびっしり通っている子ほど、状態像が変わらないのは、支援者の腕もあるでしょうが、目的がはっきりしないまま、受け身的に通う、通わせていることに課題の根っこがあるような気もします。


発達障害になるのは、親御さんのせいではないかもしれないし、そもそも我が子が発達障害になってほしいなど、望む親御さんはいないでしょう。
しかし、なるのが親御さんのせいではなくても、その予後、発達、成長には大いに影響し、関係があるといえます。
だって、本人を抜かせば、一番側に存在する環境は親御さんだから。
神経の発達には、栄養と刺激が関係する。
その栄養を提供するのは(胎児期から)親御さんだし、一番の刺激も親御さん。


1970年代までは、両親のNICU(新生児特定集中治療室)への入室に厳しい制限がありました。
しかし、退院が近づいても子どもを連れて帰りたがらない親御さんや、退院後の育児放棄や虐待が多いことがわかり、それから徐々に親と子の関わりを重視する方向へと進んでいった経緯があります。
入所施設でも、最初は入所すら拒んでいた親御さんが、最初は毎週のように迎えに来ていた親御さんが、徐々に帰省が減り、数年後には連絡すらなくなる、ということは少なくありませんでした。
結局、いくら血縁があったとしても、受け身的な関わりでは、関わる時間が短くなれば、心身共に離れていくのは自然なことなのでしょう。


支援者の人から、「面接しても、親御さんが、子どもの長所や短所、特徴、好きなこと、嫌いなことなどが“わからない”と言うんです」といった相談を受けることがあります。
そりゃあ、幼少期から子育ての主体を、他人に預け続けていたら、「わからない」のは当然だといえます。
一緒に暮らしていたかもしれませんが、主体性を持って子育てを行ってこなかった。
我が子のことなのだから、自分の頭で考え、選択し、試行錯誤し、行動するのが子育ての基本。
だからこそ、「子育ての主体を奪い続ける現在の特別支援のせいですね」と、私は答えています。


まとめると、発達障害になるかは親御さんのせいとはいえないが、その予後、発達、成長は、本人次第、親御さん次第ということ。
特に、まだ選択や試行錯誤ができない子どものうちなら、もろ親御さんの選択や行動が影響するのは当たり前。
一生懸命試行錯誤して、その子に合った栄養と刺激を与え続けているのなら、その子は伸びていくのが自然な姿。
反対に、他人に任せっぱなしで、目の前の子を見ようとしない、その子に合った刺激、環境を用意しなければ、状態は変わらないだけではなく、固定化もされていく。
遅れを遅れのままにしておくから、どんどん遅れていき、その発達には凹凸ができていくのも自然な姿だといえます。


本来、子どもの予後、将来を決めるのは、幼少期、子ども時代の栄養であり、刺激であり、環境のはず。
たまにしか会わない専門家の言葉ではないのです。
そんな至極当たり前のことが、なんだかタブー視されている。
何故、全体的に頑張らない方向へ進もうとするのか、障害を障害のまま、遅れを遅れのままにして進もうとするのか、まったくもって意味不明。
「赤信号、みんなで渡れば、怖くない」レベル。
車が来て轢かれても、誰も責任はとってくれないのと同じように、子ども時代、関わってきた支援者達は、大人になった我が子の大きくなった凸凹、それまで感じ続けてきた生きづらさに責任をとってはくれない。


本来、支援者、専門家というのは、親御さんの養育力を高めるためにサポートするのが役割だったはずです。
それがいつの間にか、親御さんのラクをサポートするようになってしまった。
だから、支援者はベビーシッターになり、預ける人と預かる人の関係になってしまう。
その子の人生の始まりだからこそ、本当は親御さんに「お父さん、お母さんの育て方によって、この子はより良く発達するし、成長する。親御さん次第によって、この子の未来は変えられる」と伝えるのが支援者の役目だと思います。


それが愛着障害を持つ傾向の強い支援者という人達が、「お母さんのせいじゃないから」と強調し、悲しむ人に寄り添う自分を造りだすことで、自分自身の愛着障害を治療しようとする。
だから、親御さんを悲しませる“お子さん”を、“子育て”自体を、支援者が預かろうと手を伸ばす。
「私達が支援するから」と預かれば、その瞬間は、親御さんの心は癒える。
ただ預ける時間が長くなるほど、親と子の心身は離れていく。
そうなると、親子の間で、家庭という環境の中で、刺激はやせ細っていき、結局、より良い発達、成長が起きなくなる。
それが「お子さんの特徴を教えてください」と言われて、「わかりません」という言葉になって表れる。


塾に通っているから成績が上がるのではなく、勉強するから成績が上がるのは、当たり前のこと。
だったら、親の役割としては、勉強を教えることではなく、自ら学び、成長していける姿勢、身体を育てることだといえます。
「あとはお願いね」みたいな姿勢は、子どもを育てているとはいえません。
それはお金を出しているだけ。
お金を出すだけでうまくいくのなら、毎日、児童デイに通っている子は、専門機関の療育を受けている子は、みんな、症状は消えていき、自立していくでしょ。


「親次第で、この子の未来は変わる」と思えば、親御さんは頑張れるもの、我が子のために必死になれるもの。
逆に、「障害だから生涯変わりませんよ。社会が変われば、この子達は生きやすくなる」と言われれば、どんどん子育ての意欲、主体性が失われていくのは当然。
結局、今の特別支援は、親御さんの子育ての機会を奪い、養育力を高める機会を奪っている。
だからなおのこと、預けるしかなくなる。
預かれば、支援者は安泰。
ある意味、親御さんも安泰。
でも、その子の人生は、どうなるのか。


親次第で、子は変わる。
子が変わるから、また親は頑張ろうと思う。
その育み合いが、子どもの人生をより良いものへと変えていく。
発達に遅れがあろうがなかろうが、子どもを育てているのだから、それは療育でも、支援でもなく、子育てです。
専門家の療育、支援が一番の成長と自立につながるのなら、コロニーの時代に戻りますかね。



2019年5月4日土曜日

支援そのものを問う

私が20代の頃、自閉症支援の創成期の人物と関わりのあった時期がありました。
その人物は、それまでの介護を支援へと変えていった中心の一人であり、いわゆるレジェンドと呼ばれるような人でした。
そして近頃、そのレジェンドから言われた言葉、教えられたことを思いだしています。


「大久保くん、排泄の自立を教えていくのは、私達、支援者が行うべき支援なのか」
「食べること、身辺自立に関わること、生きていくことに必要な基本的なスキルを身に付けさせるのは、本当に自閉症支援なのか」
いつからか、自閉症支援の名の元に、家庭が担う部分、子育ての範疇のことまで、支援者が手を出すようになってきた。
それと同時に、親の方も、子育ての部分まで支援者に丸投げしようとする姿が見られるようになってきた。
このレジェンドから教わった時期は短かったですが、このままでは家庭の養育力を奪ってしまいかねない、自閉症者の自立を促すための支援が、反対に自立を妨げる危険性がある、と繰り返し言っていたのが印象に残っています。


また海の向こうのレジェンドと直接、お話しさせていただく機会があり、そのときも、「日本人のあなたにも聞いてもらいたいことがある。アメリカでは最近、どんどん自閉症の範囲を広げ、増やそうとしている動きがある。本当に嘆かわしいことだ。普通の人として育つ子ども達まで障害者、支援の対象者になってしまっていく」と仰っていました。
奇しくも日米の最前線で、自閉症介護から支援へと押し上げてきたレジェンドが同じことを嘆いていたのです。


本人が困っていることに対してサポートするのが支援であり、その支援の目的は、本人の自立である。
家族と支援者は協力し、チームとして役割を果たしつつ、本人の自立を後押ししていく。
自閉症支援を作った人達は、支援が増えていくことも、支援対象者が増えていくことも、望んではいなかった。
一般社会の中で、自立して生活していけるために、それまでの隔離、介護から支援へと変えていったのです。


このようなレジェンドたちの想いは、その姿と共に、見えなくなりました。
今の特別支援は、どうでしょうか。
レジェンド達が危惧していた方向へと進んでいないでしょうか。
早期発見は、良いことだと思います。
しかし、2、3歳の子ども達に発達障害という診断名をつけたあと、本当に子ども達の自立へ向けた育ちが行われているのでしょうか。
若い親御さん達の子育てを、支援者は支え、後押しすることができているのでしょうか。


胎内という環境から外に出て、今まさに神経発達をしていこうという子ども達に、診断名をつける。
当然、神経発達が始まったばかりの子ども達なのですから、その診断名も、現時点での状態像であり、“仮”のもの。
そういった前提を知ってか知らずか、「発達障害は治りません」というように、あたかも固定したものであるかのような印象を与える支援者達。


本来、支援者とは、親御さんに子育てを諦めさせるのが仕事ではありません。
よりよく育てていけるように、親御さんをサポートするのが役割なはずです。
でも、親御さんを親御さんではなく、支援者の一人のような扱いにしてしまう。
若い親御さんを前に、支援の仕方を教えようとする。
親御さんは、我が子をより良く育てたいからこそ、支援者、専門家を頼っているのに。
子育てと支援の違いが分かっていない支援者の存在。
一度、発達障害と付けば、その子に関わることすべてが支援、療育に錯覚する。
これこそが、レジェンド達の嘆き、そのものです。


昨日、ブログに書いたように、最近は周産期ケアなどの医療系の勉強をしています。
その中には、医療のプロ、専門家としての役割として治療だけではなく、親御さんの養育力をどのようにサポートしていくか、それこそが重要な役割である、と記されています。
つまり、医療者として胎児、新生児の命、発達を守るだけではなく、その後の子育ての中心である親御さんをしっかりサポート、後押ししていくことこそが、その子の人生をトータルで考えた命と発達を守ることになる、ということです。


じゃあ、人生の始まりである妊娠、出産に関わる医師や看護師が必死に守り、渡そうとしているバトンを、発達障害に関わる者たちは、しっかり受け取ることができているのか、という話です。
子どもの命と発達を必死に守り、親御さんの養育を支え、より良く育ってほしい、と願い、渡されたバトン。
それを2歳、3歳の子どもに、「はい、発達障害です」「はい、治りません」「はい、療育ですね、支援ですね」と言ってしまう。
挙句の果てに、しっかり子育てを頑張ろうとする親御さんに対し、「受容ができていない」などと暴言を吐く。
支援者自身が、支援の意味が分からず、バトンを落としているにも関わらず。


私は、産科に関わる人達の現実を知るたびに、自分自身が問われているような気がしています。
医師や看護師さん達は命を守るだけではなく、胎児、新生児の発達を阻害するような環境を徹底的に排除し、さらにより良く発達できるよう環境とケアと親御さんのサポートを行う。
そのような人達がいて、そのような人達の想い、願いがあって、今、私は仕事として子ども達と向き合っている。
その子ども達の命、発達、そして彼らの自立を守り、後押しすることができているのか、と。


神経発達に問題が起きないように、高次機能障害、発達障害にならないように、必死にケアしている人達がいるのに、「根本的には変わらないよ」「治んないから」というような人が、支援者であってはならない。
また、親御さんの養育力を奪うような、子育ての主体性を奪うようなことがあってはならないし、本人の自立を支援していることを忘れてはならない。
いつの間にか、親御さんのラクを支援している支援者がいるから。


レジェンドは、こうも言っていました。
「本当に必要な部分、必要な人を見極め、支援するのが支援者の役割」
今まさに、支援そのものが問われていると思います。




2019年5月3日金曜日

子どもの発達を守り、促している最前線の人達

近頃、産科医が書いた本や、周産期ケアや新生児医療に関する医学雑誌等を読んでいます。
医師や看護師が、どういったところを気にかけ、確認し、どういった治療とケアを行っているのか。
特に、早産児や低出生体重児への治療、ケアについては興味深い内容ばかりでした。
医療従事者でもない私が、せっせと医療従事者向けの専門誌を集め、読んでいるのは、そこに神経発達を後押しする知見があると思ったから。


私が仕事で出会うお子さん達の中には、食べ物を呑み込むのが苦手な子、口周辺の感覚が過敏な子、口がぽかっと開いているような子が多くいます。
こういった様子を見ていますと、おっぱいを吸う姿を連想します。
胎児期は、お母さんの胎盤から栄養を貰っていた子が、出生後からは口から栄養を摂ることになる。
ここの切り替えがスムーズにいかなければ、当然、発達に影響は出ますし、何よりも、生命維持に関わる重大な話になります。
ですから、胎児期には、おっぱいを吸う練習、そのための発達が行われている必要があるのです。


実際、胎内での吸啜運動の芽生えは胎齢3週に始まり、胎齢17週には嚥下運動も始まるそうです。
そして出生のときまで、羊水を飲むことを通して、口や舌、喉の筋肉や感覚を育て、おっぱいを吸う準備を行う。
さすがに出生後の命にかかわることなので、このような胎齢3週目から胎児でいる間の時間を目一杯使って育てるのだと感じました。
そのため、産科医や看護師にとっても、新生児のおっぱいの吸いは、重要なチェックポイントになっているそうです。


おっぱいの吸いがうまくできなければ、栄養面でのケアをしなければなりません。
それと同時に、どうしておっぱいが上手に吸えないのか、その原因を調べていくとのこと。
当然、おっぱいの吸いが悪いということは、出生自体に問題がなければ、胎児期に何らかの原因の芽があったと考えられます。
おっぱいを吸うための練習が足りなかったのか、胎児期の神経発達に課題があったのか。
ちなみに、触覚や前庭感覚、味覚、嗅覚、聴覚、視覚といった感覚は、早いもので妊娠2ヶ月より発達が始まります。


発達障害を持つ子ども達は、いろんな感覚に偏りや未発達の部分があります。
その感覚の発達は、胎児期に始まるのです。
でも、出生後、それこそ、大きくなってからでも、感覚は育てられます。
最近でも、匂いが分かるようになった、目が回るようになった、高いところが怖く感じるようになったなどの報告を受けています。


同じように、出生に関わる医師や看護師さん達も、出生時に課題があったり、妊娠中にリスクがあると判断できたりしたときには、出生後のケアを通して、赤ちゃんの神経発達を促すように努めると記されていました。
実際に、どういった治療やケアをするのか、親御さんへのサポートをするのかまで、いろいろな研究がされており、実践されていることがわかりました。
そして、そこには、どの医師や看護師も、出生後のケアの仕方によって、将来の神経発達に影響が出ること。
具体的には、「発達を促すケア」と「障害を防ぐケア」。
いろんなリスク、一般的な赤ちゃんとの違いをそのままにしておくこと、環境の影響をモロに受けてしまう新生児に不適切な環境、刺激を与えることは、脳障害や発達障害、高次機能障害に繋がるとも記されていました。


一人の医師だけではなく、いろんな医師、看護師が上記のようなことを述べていることからも、出生に関わる医療従事者の中では、共通認識としてあるのだと感じました。
私達、一般の人は、無事に生まれてくるところのみしか見ていませんが、このような細かな発達の確認と、リスクがあったときの発達ケアが現場では行われていることがわかります。
そして、特別支援の世界では「生まれつきの障害」と言われている発達障害も、胎児期、出生時、出生後の刺激、環境、栄養によって生じることもあれば、反対に適切な刺激と環境と栄養というケアによって防いだり、発達を促すことができることもわかりました。


妊娠、出産、出生後のケアに関わる最前線の人達が、子ども達の神経発達を守り、促している。
それがわかっただけでも、勉強して良かったと思っています。
最前線の人達が、赤ちゃんのどこを見て、どうケアしていくのか。
その知見は、これから仕事で出会う子ども達、親御さん達に還元できる着想に繋がると感じています。
まだ集めた書籍、雑誌をすべて読み終えてはいませんが、しっかり最前線のプロたちから神経発達を守る方法、促す方法を学び、活かしていけたらと思っています。