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5月, 2016の投稿を表示しています

自分の資質から飛びだすことはできない

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私は、「資質から飛びだすことはできない」と思っています。 別の言い方をするならば、「資質を超えることはできない」ですかね。 資質っていうのは、その人が持って生まれたものであって、その資質を磨くことはできますが、新たな資質を加えるようなことはできない、と思っています。 よく「無限大の可能性」なんて言いますが、その可能性は持っている資質の範囲での可能性ってことですね。 支援を始めるときの出発点は、その人の資質を見抜くことです。 問題行動や心身の不調を抱えている人は、得てして自分の資質を活かせていないものです。 自分の資質を活かしていない、自分の資質ではないことをやっているから、問題や不調が起きるとも言えますね。 自閉症の人達は、自分をモニタリングすることが苦手だったり、そもそもの経験が足りなかったりするので、自分の資質が分かっていないことが多いような気がします。 また、他人の評価、言動をそのまま鵜呑みにする傾向もありますので、言った本人は励ましや期待のつもりで「きみには絵の才能がある」とか、「あなたの取柄は優しさだね」とか、「苦手な運動も頑張ればできるようになる」とか言っているのに、「そうか、自分は〇〇なんだ」というように自己像が作られていく場合もあります。 こうなると、自分の資質とは違うことをやってしまう機会が多くなり、その分、失敗も多くなりますね。 100mを15秒で走る資質しかないのに、10秒切ろうと走り続けている感じです。 100mを15秒で走る資質の人には、「あなたは、どう頑張っても15秒でしか走れないよ」「10秒切るのは無理」というのも、支援の1つだと考えています。 そして、「持っているもので勝負しよう」と言い、適切な方向へと軌道修正するのも大事な支援です。 仕事が続かない、就職できない人の支援にも携わりますが、やっぱり問題や不調を抱える人と同じで、資質に合っていない仕事を選ぼうとする傾向が強いんですね。 「なんでその仕事に就いたんですか?」 「どうしてその仕事に就きたいんですか?」 と尋ねると、自分の資質だからではなく、「〇〇が好きだから」とか、「親が、相談機関が勧めたから」とか、「労働条件が良いから」というのがほとんどです。 定型発達の人のように、自分の資質とは異なる仕事に就いたとしても、柔軟に対処できるなら良いの

愛着形成は哺乳類の脳で

「あなたのことが大切だよ」 「あなたのことを愛しているよ」 なんて言葉で言っても、態度で示しても、子どもとの愛着形成はなされない、と私は思っています。 だって、言葉や態度でのメッセージは人間の脳の部分に届けられるから。 親子での愛着形成って人間の脳じゃなくて、その下の哺乳類の脳の部分に届けるもの。 犬でも、猫でも、親子でじゃれあって愛着形成を行っている。 ということは、人間も、犬とか、猫の愛着形成の仕方と同じ。 人間は知恵を付けたから、「愛している」という言葉や態度、良い服を着せているとか、おもちゃをいっぱい買ってあげてるとか、良い教育を受けさせているとか、そんなんで親子との愛着形成をしようとしてしまっている。 でも、そんなのでは愛着形成はされない。 勘違いしている親から育てられると、子どもは愛着形成ができず、自分の内面に芯ができない。 で、意欲が乏しく、チャレンジ精神が出ず、ちょっとしたことで折れてしまう大人になってしまう。 こんな大人は、自分の内面にある土台の脆弱性を資格や地位、肩書、お金という見えるもので補完しようとしたり、代わりに支えてくれる宗教や占い、パートナー、子ども、友人、愛人などに依存してしまう。 発達障害のお兄ちゃん、お姉ちゃん達と話をすると、子どもの頃、親と目一杯遊んだという記憶がないと言う。 これじゃあ、いけないと思う。 彼らの独特な世界観や感覚の違い、社会性の発達の遅れなど、いろいろな要因はあったかもしれないが、それでも親と目一杯遊ぶことは必要だ。 心の土台を作るために。 つまり、適切な愛着形成を行うため。 本人たちだけではなく、親御さんの中にも心の土台ができていないままの人が多くいるように感じる。 また、支援者と呼ばれる人の中にも。 支援者は、自分より立場の弱い人間を助けることで、自分自身の中に親と築けなかった愛着を受けとろうとしている人も多い。 弱い立場の人間を助けることで、「自分が必要とされている」という感情を持ちたいのだろう。 これも自己治癒のための職業選択の例の一つ。 発達障害でも、定型発達でも、愛着形成を行う方法は、哺乳類になること。 犬や猫の愛着形成の仕方をよく観察し、頭でっかちになった人間が忘れてしまった方法を教えてもらうしかない。 トラブルが起きて相談に来られる当事者

指示待ちの子には「選択の学習」

ある保育士さんが「最近の子は、自分で動けない子が多いんです」という話をしていました。 自分で動けないってことは、指示待ちってことですね。 自閉っ子も指示待ちの子が多いのですが、その治し方は定型発達の子も一緒です。 自分の意思で動く、自分の判断で動くというのは、前段階として選択ができる必要があります。 例えば、食事の時間になったら、「遊び続ける」と「おもちゃを片づける」という選択肢からどちらかを選ぶんですね。 この選択肢が思い浮かばない子、適切な選択肢を選べない子、そもそも選択するスキルがない子は、食事の時間になっても本能のまま遊び続けます。 で、親御さんから「食事の時間よ」「片づけなさい」「手を洗いなさい」と指示をされて動きます。 これが外から見て「指示待ち人間」になっちゃうんです。 犬でも、猫でも、指示されたら動きますよね。 つまり、指示で動く段階って哺乳類の脳の段階。 で、自ら考え、自ら判断し、自ら行動するのって言ったら、人間の脳の段階です。 「最近の子は、自分で動けない子が多い」というのは、人間の脳の段階まできていない証拠です。 表現は良くないかもしれませんが、ペットのしつけと同じレベルと言えちゃいます。 「選択する」って高度な知性なんですね。 だから、選択できるようになるためには、学習が必要なんです。 幼いときから、「飴とチョコ、どっち食べる?」と訊かれて、自分で「チョコ」を選ぶ経験をしなきゃいけません。 最初は選択の意味がわからず、飴も、チョコも、取ろうとしたり、本当はチョコが食べたいのに飴を選んでしまってチョコが食べられなかった経験をしたり。 こんな経験、学習が選択というスキルを身に付けさせるのです。 簡単な選択ができるようになったら、複数の選択肢の中からの選択、状況判断からの選択というようにどんどん高度な選択ができるようにしていきます。 そして、その先に指示待ちではなく、自分の意思、判断で動ける子がいるのですね。 自分の意思、判断で動ける子というのは、選択のスキルを身につけ、人間の脳の発達が順調だとも言えます。 「最近の子は、自分で動けない子が多い」というのは、親に余裕がなくて、子どもに選択させる機会を持たせられていないことが関係していると思います。 仕事から帰ってきて、ご飯を作り、子どもを風呂に入

猫がじゃれあう姿を見て

街を歩いていると、2匹の猫がじゃれあっているのを見かけました。 ああやって、猫も愛情を確かめ合い、愛着形成を行っているのかな。 子ども時代に、親子が遊びを通して心の結びつきを強めていくのは、猫も、人間も一緒なのでしょう。 人間の脳の下には、哺乳類の脳がありますからね。 親子での遊びは、哺乳類の脳を刺激します。 発達援助の大事な視点として“土台を作る”っていうのがあります。 人生を歩んでいくための土台ですね。 地にしっかり足を付けるための土台作り。 これは言葉の通り身体的な土台作りと、もう一つ内面の土台作りです。 自閉症の人達って、不器用な身体、疲れやすい身体、不具合のある身体を持っていることが多いですね。 これだと生活するのも、働くのもしんどい。 ですから、身体という土台をしっかりさせるためのアプローチは大事です。 でも、それだけでは不十分で、内面の土台作りもやらなくてはいけません。 ひきこもりや不登校、問題行動、精神疾患など、何かしらの課題を持っている人って内面の土台がしっかりしていない印象を受けます。 アセスメントしたり、お話をしたりしても、幹がしっかりしていないような、ブレブレのような感じです。 そして共通するのが、みなさん、気持ちが折れやすいし、自らの力でそこから復活しづらい。 依存体質だったり、ひきこもり体質だったりすることも多いような気がしますね。 自閉っ子ってうまく親子関係が築けない場合が多いと言われていますね。 本人の資質としての感覚や認知の違いから、親からの接触を拒んだり、愛情に気づけなかったり。 親自身も発達障害だったり、課題を持っている場合も少なくないので、それでうまく関係性を築けなかったり。 積極系の自閉っ子は叱責されることが多いですし、受け身系の自閉っ子は「手のかからない子」として一人で遊ぶことが多くなる傾向があります。 こういった要因が健全な親子関係を築くことから遠ざけてしまいます。 その結果として、内面の土台が育っていないまま大きくなってしまった人が出てくるのです。 自閉症だからとか、知的障害があるからとかは関係なく、どんな人でも、まずは親子という1対1関係を通して気持ちの結びつきを育む必要があります。 この気持ちの結びつきを育て、強めていくことが、内面の土台作りとなります。

資格や学歴がなくても仕事はできる

「私は高校中退してしまったから」 「私は大学に行っていないから」 「私は資格がないから」 「私はずっと不登校だったから」 「私はずっとひきこもりだったから」 こういったセリフは、成人相談あるあるです。 必ずと言っていいほど、みなさんがおっしゃることです。 このようなセリフを聞くと、普通の支援者なら共感し、「辛かったね」と涙の一つでも流すのでしょうが、私は違います。 「資格がない、学歴がないと言うけれど、五体満足の身体があるじゃないか」と言いますね。 だって、そうでしょ。 資格がなくても、学歴がなくても、働いて自立している人はたくさんいます。 というか、仕事って資格があるとか、学歴があるとかが重要なのではありませんね。 求められる仕事ができるかどうかが、重要なのです。 「就職には資格と学歴が必要」というのは、周囲の情報から作られた仕事像かもしれません。 世の中には、資格や学歴が必要な仕事もあります。 でも、資格や学歴がないのなら、そういった仕事を選ばなければ良いのです。 自分ができる仕事を見つけ、就職し、そこで認められればOKです。 最初はパートで働き、仕事ぶりが認められ、正社員になった人もいますよ。 仕事ってありもの勝負なんです。 自分の持っているもので勝負です。 自分の持っているものが、五体満足の身体なら、その身体を使って働けばいいんです。 「資格や学歴が大事」っていう偏りの価値観って学校教育が作ってると思いますね。 だって、教えている人達が資格と学歴を大切にして生きてきた人だから。 そういった人達には見えない世界がありますね。 見えない世界を想像し、見えるのが定型発達の子ども達で、同じように見えない世界が見えないのが発達障害の子ども達。 だから、学校的な価値観が根付いちゃうんです、発達障害の子ども達の中に。 資格が大事、学歴が大事って。 それは地方公務員になるために大事なものです。 働くための、自立した生活を送るための必須条件ではありません。 成人の方たちの話を聞いていると、「みんな公務員になりたいの」って思っちゃんですよね。 これって、それだけ発達障害の人達の中に「学校教育的仕事像」が根付いちゃっている証拠だと思いますね。 相談は、この仕事像をぶっこわすことから始めます。 もちろん、成人し

就職前にアルバイトをしよう

4月から人生初のアルバイトを始めた学生さん。 学業やサークル活動も忙しいけれど、「バイトが楽しい」って。 お客さんから理不尽なことを言われることがあるそうですが、クレーム対応の仕方を教えてもらったから「大丈夫」と言っていましたね。 親御さんから見ても、アルバイトに行くようになってから変わったとのことでした。 以前よりも、コミュニケーションが滑らかになったような気が私もします。 私は、お兄ちゃん、お姉ちゃんたちには、アルバイトを勧めます。 アルバイトって学校とは違う学びがありますね。 異年齢の交流だったり、働く姿勢だったり、仕事やお金の仕組みだったり…。 とにかく実践的なのがいいです。 知識があっても、実践と結びつかないことがある方たちですから。 働く姿勢、マナーなんて、ヘタなSSTをやるより、一発で身につきます。 周りにモデルもたくさんいますし、ファミレスやコンビニなどは、マニュアル化されていますし。 将来就職できるかどうか、就職しても続けられるかって、アルバイト経験が大きいと思うんです。 仕事って人生で始めて経験することですし、「見えないものは、ない」という人達にとっては想像が難しい世界だと思うんです。 中には、小学校の次が中学校のように、やることリストみたいな感じで「大学を卒業したら、(自動的に)就職するもんだ」とくらいの認識しかない人もいます。 大学の就職セミナーが始まって、初めて「就職について、働くことについて全然理解ができていない」というような学生さんも少なくありません。 よく大学の就職担当の職員さんから連絡が来ます。 だいたいこういう学生さんって、大学生活がいっぱいいっぱいでアルバイトする余裕がなかったり、親御さんも発達障害のこともあるから「とにかく卒業。バイトはしなくて良い」みたいなことがほとんどだったりです。 いきなり就職ってハードルが高いように感じますね。 その前のステップとして、実践的な勉強として、週に1回でも、1時間でも、アルバイトしたら良いと思うんです。 働くってことに対する実感が持てますし、たとえ失敗してもアルバイトですから就職に不利になったりはしませんから。 週1回のアルバイトができるようになったら、週2回に増やしたり、2時間に増やしたりする。 そういった積み重ねが、就職につながると思いま

「自閉症だから」という思考

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普通の子として ちょっと変わった子として 不思議ちゃんとして 生きてきた人が、あるとき、診断を受けに行く。 そのきっかけは、自分の中に生まれた違和感だったり、実生活でのトラブルだったり、周囲からの勧めだったり…。 周囲との違いに気がつき、その違和感を自ら調べ、診断までたどり着く人もいます。 でも、ほとんどの人は、離職や不登校、いじめや精神疾患など、ネガティブな出来事が出発点となっています。 だから診断を受けたとき、白黒思考と重なって「今までの問題は、自閉症のせいだった」と捉えやすいのです。 それに医師も、支援者も、「〇〇というトラブルの背景には、自閉症という特性が関わっていた」なんてことを言うので。 本当は、自閉症だけがトラブルの背景ではないのに。 家族が「あなたの障害に気づけなくて、ごめんなさい」などと謝罪の言葉を述べれば、「早く気づいてくれれば、私はこんな辛い思いをしなかった」と恨んだり…。 悲しむ家族を見て、「自閉症って個性さ」なんてポジティブな感情が湧くわけがありませんよね。 家族の謝罪だって、早期に気づけなかった自分自身への罪の意識や後悔、子どもに余計な苦労をかけてしまったという悲しい思いなど、複雑な感情を「あなたの障害に気づけなくて、ごめんなさい」という一言にしているのです。 でも、自閉脳の捉え方では、このような定型発達の意図とは異なる受け取り方をしてしまいます。 「自分を理解したい」というような前向きな診断なら違うのでしょうが、ほとんどの場合は、トラブルが起きたあとの診断です。 ですから、診断直後にどのような話をするかが重要だと思います。 あまりにも「自閉症ガー」とやってしまうと、トラブルと自閉症を強くくっつけちゃう危険性があります。 何でも自分の障害のせいにする人がいますが、そういった方のほとんどは、ある程度、大きくなって診断を受けた人、またはトラブルが起きたから診断に至った人ですね。 これは、その人の性格的な問題と言うよりは、トラブル=自閉症というような思考を作らせてしまった周囲にも問題があるように感じています。 その問題の1つが、上記に書いたような診断時の説明の仕方の問題、周囲のリアクションだと考えています。 私は、本人たちと話をするとき、「自閉症だから」というような誤解を招く言い方はしないように

自閉症の当事者ではなく、自分の人生の当事者に!

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私は当事者の方たちに言いたい。 「ちゃんと当事者意識を持とうよ」と。 これは自閉症の、発達障害の“当事者”という意味ではないです。 自分の人生の“当事者”という意味です。 支援者は、自閉症の人達のことを「当事者」と呼びます。 「当事者の方が前向きに生きられる社会に」 「当事者の意見を大切にしましょう」 「当事者の方が生きやすくなる支援を」 などなど、当事者を中心とした支援を目指すと言います。 でも、だからといって、支援者があなたの生活、人生を豊かにできるわけではありません。 支援者と呼ばれる人達には、医師や教師、相談員などがいます。 彼らは一般の人達よりは自閉症の知識を持っていて、仕事として支援しています。 しかし、自閉症の知識があったり、自閉症支援ができたりしますが、それはあなたの持つ“自閉症”の部分に対して支援ができるという意味です。 決して、あなたの生活、人生すべてを支援できるというわけではありません。 自閉症だからあなたなのではなく、あなたの中に自閉症があるのです。 あなたを支援できるのは、あなたしかいないと思っています。 何故なら、あなた以外は、みんなあなたではないから。 他人はあなたの生活が豊かになって、より良い人生、幸せになってほしいと願うことがあります。 でも、自分自身が本気で「成長したい」「幸せになりたい」と思わなければ、未来を変えることはできません。 だって、あなたと24時間365日一緒にいるのは、あなただけなのですから。 「生涯に渡る支援を」と言う支援者はいますが、一生あなたの側にいられる支援者はいないのです。 あなたの行動を変えられるのは、あなただけです。 「この支援者の言う通りにしておけば、任せておけば」なんて考えるのは甘いです。 自閉症の部分が改善できれば、幸せになれるわけではありません。 自閉症=あなたではありませんし、支援者はあなたの自閉症の部分のみ支援しているのですから。 よく当事者の方で生活や人生がうまくいかないのは「自閉症のせいだ」と言う人がいますが、それは大きな間違いです。 いま、幸せを感じられていなのなら、それは自閉症だからではなく、あなたの考え方、行動、生活、環境が幸せではないからです。 持って生まれた自閉症は変えることができないかもしれませんが、あなたの考え方

ブログ500号を前にし

私の書くブログって辛口みたいですね。 自分ではそう思わないのですが(笑) 以前、「敢えて過激な表現をしたり、批判的な意見を述べたりして注目を集めているんだ」などと言われたこともありました。 まあ、私も商売をやっていますので、物事の本質を見抜く力のない人にはそう見えちゃうのかもしれません。 でもね、はっきり言って商売にはつながりませんよ。 むしろマイナスです(苦笑…) だって、耳の痛いこと、一般的な本には書いていないこと、優しい支援者なら言わないことを書いているのです。 興味を持つ人はいるかもしれませんが、大部分の人は「怖そう」「怪しそう」「やめとこ」になるでしょう(笑) 「ブログを読んで電話しました♪」みたいな人は、ほとんどいないですね。 「じゃあ、お前は何でブログを書いてるんだ」とツッコミが入っちゃいますね。 私がブログを書いている理由は、言葉の鍛錬のためです、支援者には表現力が求められるので。 20代の頃は、ノートに気が付いたこと、考えたこと、学んだこと、アイディアなどを毎日書いていましたが、より表現力を高めるために他人の目を意識すべくブログに書くようにしました。 自分のために書いているっていうのが、大きな理由ですね。 もう1つ理由がありまして、それは少しでも皆さんの中に情報を増やしてほしいと願っているからです。 「こんな考え方もある」「こんなアイディアもある」「こんな情報もある」っていうのを伝えたいんですね。 昨日のブログにも書いたように、一人ひとりに合わせた支援を行うには、情報をたくさん持っている必要があります。 1つの療法や少ないアイディアでは、支援の最適化なんかできません。 支援の最適化ができないってことは、その場で足踏みしたり、後戻りしたり、あらぬ方向へとすすんでしまったり …。 つまり、その人の成長や未来に関わってくるんです。 その人の発達をちゃんと援助できるかは、情報量と種類の多さにかかっています。 「一昔前よりアクセスできる情報量、増えてるでしょう」って思われるかもしれません。 でも、その増えた情報には偏りを感じるんです。 また、本当に本人のことを第一に考えた情報なの?支援者側にとって都合のいい情報じゃないの?って思うことが多いんです。 (こんなことを書くから、またギョーカイからクレームがきます

ミツバチが花の蜜を吸うように

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人に対しても、支援に対しても、ミツバチが花の蜜を吸うように、良いエッセンスを抜き取ろうとしなければなりません。 「どうして、この人は就職ができたんだろう?」 「どうして、問題行動がなくなったのかな?」 と、常に疑問に思う姿勢が大切です。 そして良いアイディア、エッセンスを抜き取って、自分自身や支援している人に合わせて再構築していきます。 この繰り返しが、個人に最適な支援を形作っていくのです。 「〇〇療法こそが一番だ」なんて言っているのは、その療法が広まることで儲かる人だけです。 それか学ぶことを止めてしまった人。 どっちにしろ、こんな人には個人に最適な支援なんてできません。 支援というのは、良いとこどりなんです。 「〇〇療法を信じているから、△△療法はやりません」なんてことはないんです、普通の支援者なら。 TEACCHも、ABAも、PECSも、感覚統合も、目の前にいる人が必要なものを、必要なときに取り入れればよいのです。 支援に人を合わせるのではなく、人に支援を合わせていくんですね。 有名当事者や質の高い生活を送っている当事者を指し、「あの人は偽物だ」「もともと軽かったんだ」「最初からできた」というのは、言い訳をしているだけなんです。 本当は、その人達から良い部分を抜き取り、活かせばいいんです。 「〇〇療法のここが良い、ここが悪い」なんて言うのは、時間の無駄遣いをしているだけです。 どんな人にも最適な療法なんてあるわけありません。 最適な療法は、一人ずつに合わせて作り上げる必要があるのです。 このプロセスを端折って、1つの療法に飛びつくのは考えが浅はかだといえます。 「良いものは何でも取り入れてやる!」という姿勢がなければ、他人を成長させることなんてできません。 そのためにも、色々なことを学び、常に興味関心を持ってアンテナを張り巡らせておくことが大事なのです。

風邪の自覚症状がある人に「風邪でしょう」と言って終わるような病院

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悪寒がするし、喉が痛いから病院へ行きました。 そしたら、ドクターが「風邪かもしれませんね」と言って診察終了。 躓いて足をひねったら、次の日、足が腫れ上がっていました。 病院に行くと、レントゲンを撮って、「骨は折れていませんね」と言って診察終了。 もし実際にこんな病院があったら、私は次からそこへは通院しないでしょう。 だって、病状をリピートしているだけだから。 患者としては、医師の口からちゃんと病状を聞くだけで、安心することもあります。 でも、症状って自分の身体だから何となく分かるし、それよりも、どうすれば治るのか、どれくらいで治るのかが知りたいところだと思うんです。 風邪だったら、薬飲んで2,3日安静にしていれば治るとか、足首の腫れは明日には引いて、一週間後くらいから普通に歩けるようになるとか。 病院は治したいから行くのであって、どのくらいで治るのかというシロートには見えない未来を聞きに行っているんだと思います。 なんでこんな当たり前のこと&自閉症支援とは関係のないようなことをくどくど書いているのかと言いますと、実際にあるんですよ、自閉症界隈で。 本人やその家族の方が病院に行きますよね。 そして「最近の様子はどうですか?」と尋ねられ、近頃のことを話すんです。 「大学には毎日、通えてますが、なかなか友だちができません」 「授業中、他の人の話し声が気になっちゃって、先生の話に集中できないんですよ」 「季節の変わり目が苦手で、体調を崩しちゃってました」 「就職するものの、仕事が続かないんです」 などと。 すると、うんうんと話を聞いてくれたドクターはカルテに様子を記入し、「それは自閉症の特性ですね」と教えてくれるのです…。 これって風邪っぽいと思って来た患者に「風邪ですね」と言っているようなものです。 自閉症の診断が欲しくて受診しているのならまだしも、自閉症という診断を受けた人が悩みを言って、「それは自閉症の特性ですね」ってどうなんでしょう。 もちろん、悩みの背景には自閉症の特性が絡んでいるのか、それとも別の問題が絡んでいるのかを知ることは有益です。 でも、それにしても解決の仕方、対処の仕方がないというのは問題だと思います。 「あのドクターは“様子を見ましょう”しか言わない」 「解決方法を訊いても、“自閉症の特性ガー

誰が見ても、一人の働く女性

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昨晩、嬉しいメールが来ました。 「今日、初給料もらいました!」というメールです。 今春より社会人になった女の子…じゃなくて、女性からです。 社会人として充実した日々が送れていることがわかる文面でした。 働いて対価を得るということは、社会参加している証です。 給料明細を受け取り、その実感が得られたのでしょう。 お金よりも、「私も社会人になった」という方が大きな喜びだったように感じました。 私から聞いたわけではありませんが、「〇万〇〇〇円です」という細かい金額まで教えてくれました。 その金額を見ると、他の人と同じ条件で働いていることがわかります。 障害者枠でもなく、福祉的な就労でもなく、一般の人として働き、同じだけの対価を得ています。 店長さん以外は、知的障害があることも、自閉症であることも知りません。 ただ一人の18歳の女性として働いています。 同僚からも、お客さんからも、一人のスタッフとして接してもらっていることが嬉しいようです。 自分の気持ちの中でも、特別扱いされないことの喜びを感じているのでしょう。 今までのようにオーバーに褒められることはなく、またきちんと注意も、指導もしてくれる。 特別支援の枠を飛びだしたからこそ得られた経験です。 私は3年間、成長のお手伝いをしてきましたが、そんな3年間の学びよりも、この1か月間の方が何倍も、何十倍も多くのことを学んだんだと思います。 私は社会こそが一番成長できる場だと考えています。 朝早く出勤したり、午後から出勤して閉店まで働いたりという変則的な勤務。 新人スタッフとして覚えることが山積みの上に、他のスタッフとの関係性を築く日々…。 毎日、勤務するだけでいっぱいいっぱいの状態だと思いますが、それが充実感にもつながっている。 メールの中にあった「幸せ」という文字は、大変ながらも充実感を得られていることと結びついているのでしょう。 仕事の後に、コンビニでデザートを買ったり、一人でお店に入ってお茶や食事をしたりしているそうです。 学校時代は、そんなことをしたこともなかったのに! きちっとした服を着て、化粧をし、バリバリ働き、仕事が終わったあと、喫茶店で食事をする…誰が見ても、ついこないだまで特別支援学校に通っていた女性だとは思わないはずです。 この姿こそが、本人も、家族

「今は、エネルギーを溜めているとき」っていう言葉は支援じゃない

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社会参加できていない状態の当事者に対して、「今は、エネルギーを溜めているときだよ」っていうのは、どうなんだろうかといつも思いますね。 不登校の子とか、ひきこもりや休職&求職中の若者とか、結構言われたことがあるって聞きます。 でも、私には職場放棄しているだけじゃんって思っちゃいます。 そもそもエネルギーって、何のエネルギーなんでしょうかね。 身体的なこと? 怪我をしているんだったら、それが治癒するまでってわかるけれど、不登校やひきこもりの人って怪我をしているわけじゃないですし。 それに若い人だったら、一晩寝れば疲れも回復するでしょう。 むしろ子どもや若者が休み続ける方が、身体的にはマイナス。 身体はなまるし、頭はボーとする。 脳みそも、筋力も、持久力も、休んでいると発達ってしていかない。 使うから発達するし、使って放出するから、その空いたところに元気なエネルギーが入ってくる。 身体的なエネルギーって消費→回復→消費…の循環でしょ。 じゃあ、医師や支援者が言う「今は、エネルギーを溜めているとき」って、心のエネルギーを指しているのでしょう。 でも、心のエネルギーって何? 気力とか、やる気、意欲のことでしょうか。 それとも、うまくいかないことで負った心の傷が癒えるまでってことでしょうか。 私も、不登校やひきこもり、仕事ができずにいる発達障害の子どもや若者と接しています。 その人達の中には、学校に行くようになったり、就職したりして、そういった状況を抜け出した人が何名もいます。 でも、その人達って「十分に休んだから」「心の傷が癒えたから」っていうのではなく、動くようになったから脱したといえます。 だって、私に依頼が来る前まで、何年間も休んでいた人ばかりだから。 つまり、休むのを止めたから本人が変わっていったんです。 人間には、そもそも自然治癒力っていうのが備わっています。 身体を動かし、エネルギーを使うから、自然治癒力が発揮され、新たな活力が湧いてくるのです。 社会の中、人間の中で傷ついた心は、社会の中、人間の中で癒えていくのだと思います。 仕事で失敗し負った心の傷は、仕事をして癒すしかありません。 対人関係で失敗し負った心の傷は、人と接して癒すしかありません。 そのために準備する、つまり休むのではなく、動くのです。

ネガティブなことは書けない連絡ノート

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「連絡ノートにネガティブなことを書くなって指示されるんだよ」と某教諭(友人)。 こんなことやってるから、どうりで子どもの実態が掴めていない親御さんが多くなるのですね。 暴れたとか、授業に集中できなかったとか、トラブルがあったとかには一切触れず、「〇〇ができました」「△△を頑張っていました」と書くらしい。 毎日、「作文か」って思いながら、連絡ノートを記入しているんだって。 できます!素晴らしいです!ノートを見ての反応は、3パターン。 ①「我が子はちゃんと支援さえすれば、できるんだ」と思い、支援をとにかく頑張るパターン。 ②家とのギャップに落ち込み、自分を責めちゃうパターン。 ③「えー、そんなはずはない」と、ノートの誇張に気が付くパターン。 ①と②は、モロ誤学習パターンです。 誇張された我が子の姿がベースになってしまうから。 で、そのベース以下の場合は、「(我が子ではなく)支援が悪い、支援のせい」となる。 これを繰り返すと、どんどん我が子の真の姿が見えなくなり、アセスメントが歪むんですよね。 結構、多いですよ、「高く見積もり過ぎ」と感じる親御さん。 また、落ち着かない我が子を見て、「自分の支援が悪いから…」と自分を傷つける親御さん。 ③のパターンの親御さんは誤学習しないかって言ったら、そうとも言えませんね。 気づけた親御さんには、言語体力が求められます。 「先生、うちでは全然ダメですよ」「落ち着いて勉強なんかできませんよ」と言ったら、すかさず… 「支援ちゃんとやってますか?」 「家は頑張る場所ではなくて、リラックスする場所になっちゃうんですよ」 「家は刺激が多いんじゃないですか?」 「今までの積み重ねが…」 とツッコミが入ります。 そのツッコミに耐えられるだけの力があるかっていうのが、問われますね。 「家の姿が本当の姿です」なんて言う人はいませんね。 ましてや「実は誇張してノートに書いてるんですよ」とは口が裂けても言いません。 たま~に「学校でも暴れるとき、ありますよ」なんて、ぽろっと言う人もいますが。 まあ、支援者から「家でもちゃんと支援していますか?」と言われて、「ちゃんと支援しています」と言えるような親御さんは少ないです。 個別支援計画書の作成にあたり、親御さんの希望も聞きますね。 そのとき、「ん…

SSTの多くが“知識与える系”の指導

対人関係や社会性の部分で課題がある自閉っ子は少なくありません。 で、そこでよく行われるのが、ソーシャルスキルトレーニング(SST)ですね。 いま、行われているSSTの多くが、「こういった場合には、こうやって振る舞いましょう」的なのが一般的です。 でも、これでうまくいく子と、うまくいかない子の両方がいますね。 何故なら、SSTの多くが知識与える系の指導だからです。 「こういった場合には、こうやって振る舞いましょう」というのは知識ですよね。 知識を増やすことによって、適応力をあげましょうというお話です。 しかし、知識を増やしてうまくいくのは、知らないからできないタイプの子ども達です。 「そうか、謝るときは、笑顔じゃいけないんだな」 「笑顔だと、反省していないように相手から見えるんだ」 「謝るって、言葉だけじゃなくて、態度も大事なんだ」 というように、知らないからトラブルにつながっちゃいましたっていう子の場合は、知識を教わり、知ることによって、ソーシャルスキルを向上させることができます。 一方、知らないからできないタイプではない子ども達、つまり、そこが問題ではない子ども達の場合には、知識与える系の指導ではうまくいかないですよね。 例えば、知識を実行に移すことが難しい子、知識を獲得するのに限りがある子、自分の認識、他人の認識が弱い子…つまり、脳機能の発達の遅れや連携に不具合がある子です。 脳機能に何らかの不具合がある場合、知識の獲得自体が難しかったり、脳内で複雑な思考ができなかったりします。 そういった子に、いくら「こういった場合には、こうやって振る舞いましょう」と知識を教えても、うまくいくはずがありません。 先日も、ある親御さんが一生懸命お子さんにマナーや適切な振る舞い方などを絵と文字で教えられていました。 確かに、その子は絵や文字は読めるんです。 でも、知的障害もあって複雑な思考が難しい子なんです。 教わったことを声に出して言うことはできますが、その意味や概念を理解したり、行動と結びつけることが難しい。 ですから、「おみせのなかではおおきなこえをだしません」というセリフを暗記しているだけなんですね。 そして、お店の中で大きな声を出し、親御さんから叱られる→SST→また大きな声を出す…となって、「私の指導しているSSTのどこ