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【No.1038】言葉の発達とリズム遊び

「発語のあるなし」と、言語理解はイコールではありませんし、当然、その子の認知を表すものではありません。 しかし、診断や知能検査において、「発語のあるなし」は、その見え方に大きな影響を及ぼすのも事実です。 診断者の立場を想像すると、発語のない子を軽いとは診断しづらいといえます。 何故なら、そこに根拠が求められるから。 何度も言うように、現在の診断も、知能検査も、その子の部分を人為的に切り取っているだけです。 ですから、発語のない子に重い診断が下されることに対して、「どうして"重い"という結果なんだ」という指摘には答えやすい。 だって、「発語がないでしょ」「遅れているでしょ」と。 それは、ある意味、客観的な側面を持ちます。 一方で、発語がないんだけれども、実際は言葉の理解もあるし、認知も同年齢と同じように育っている子に対して、言葉では「重度ではないよね」「検査結果上は重度の範囲に入るけれども、実際は結構分かっているよね」とはいえても、数値上は、それを表すことはできないし、その根拠も示しずらい。 となると、紙面上は、行政へ提出する書類には、重度に偏りがちになりますし、受け取った行政、学校等は、医師から「重度」となっているものを、自分の判断で覆すのは難しく、また大部分の人は、「はい、そうですか」と紙面を見て、判断し、振り分けていきます。 いろんな不備や理由が絡み合い、現在のシステム上、「言葉のあるなし」は、その子から切り離され、独り歩きし、それが様々な判断、またいろんな人のバイアスとなるのです。 当然、言葉のない子は、重度の子として支援、教育されていきます。 ですから、ここ1、2年、私はどうしたら発語が促せるのか、何が発語の発達につながるのか、をテーマに勉強し、自分なりの答えを見つけようとしています。 以前のブログにも書きましたが、発語、音声言語はヒトの進化の過程で獲得したものであり、その原型は、リズムでした。 まだ明確な発語を持たなかったご先祖様たちは、リズムやダンス、踊りによって、他者と共感しあい、コミュニケーションをとっていたと言われています。 また、赤ちゃんの発達研究では、リズムにより反応する子、もう少し大きくなってから(1、2歳)ダンスのようなリズム遊び、運動をする子は、発語の発達が良いという結果も

【No.1037】我が子の障害を願う人たち

以前から、周囲からの関心と、それによる心の安定を得るために、我が子の障害を重く見せようとする親御さんの存在は知られていました。 実際、そういった親御さん達と関わったことがありますが、どれだけ自分が大変か、そして頑張っているかなど、とにかく話がそちらばかりにいき、我が子のより良い未来については、話が進まない、否定ばかり、もしくはまったく関心がないようにも見えました。 中には、育てることで治っていく部分を多く持った子もいましたし、ここさえ育てば、だいぶ、本人はラクに生きていけるだろう、と感じる子もいました。 私から見れば、早く治してあげれば良いのに、と思うのですが、親御さんにその気がなければ、どうしようもないのが現実です。 世の中には、こういった本人ではない人の意思、考えによって、「治るもんも治らない」という場合が少なくないのだと思います。 こういった「自分への関心と心の安定」が目的である場合とは違ったケースにも遭遇します。 同じように、我が子に障害があってほしい&治ることの否定、興味なしは共通しているのですが、そして目的は心の安定も共通しているのですが、その目的へと向かう根っこが違います。 それは自分の関わり方、育て方によって、発達障害が発症したと強く思っている節があるのです。 「赤ちゃんのとき、スマホに育児をさせなければ」 「すぐに立ったことを喜び、どんどん歩かせようとしなければ」 「離乳食を食べないから、お菓子を与えていたけれども、それをやめておけば」 「外で遊ぶのが億劫で家の中ばっかりにいたのをやめておけば」 これは実母、実父だけではなく、祖父母に表れることもあります。 そういった強い後悔が、これから挽回しよう、より良い子育てに変えていこう、自分も成長していこうへと向かっていけば、強力なエネルギーとなるのですが、あらぬ方向へ向かうと、子どもの発達、成長を阻む一番の壁になることがあります。 どう考えても、障害ではないし、定型発達の範囲の中にいるのにも関わらず、「いや、この子は障害があるんだ」「障害があるから、治るなんてないんだ」と言い張る人もいます。 そのような人は、私に相談した理由が明確です。 治るという考え、方向性で支援している人に、しっかり「治らない」「それが難しい」「障害だ」と言われたい、というもの。 最初

【No.1036】これからの発達援助の原型

日本もそうですし、各国の報道を見ても、「若者の危機意識が足りない」「若者たちが街に出ている」と批判されていました。 25歳くらいまでは、まだまだ脳の前頭葉が発達途中ですので、自制が利きづらかったり、あえてリスクを楽しんだりするようなところがあるものです。 だからといって、こういった状況にも関わらず、好き勝手して良いわけではありませんが、とっくの昔に脳の成熟を迎えたはずのいい歳の大人たちも、海外旅行へ行ったり、陽性者が出歩いたりしていませんでしたかね。 模範や自制の助けとなるべき存在である大人たちがこうでは、若者たちだけ我慢しろ、というのは無理があるように感じます。 まあ、今は非常時ですので、こういった批判はするだけ無駄だと思いますし、買い占めなんかを見ていますと、ヒトとしての肌身で感じる、動物として感じる部分がますます退化しているのがわかります。 発達相談においても、「リスクとの向き合い方」がテーマになることがあります。 遺伝子は変えられませんので、変えるとしたら環境、刺激側になるわけです。 その環境の中には、発達障害発症の引き金となる要因がたくさんあります。 一つひとつを挙げればきりがありませんし、そういった一つひとつを考えていたら、「何を食べればいいの!?」「どこで生活すればいいの!?」と、とても子育てなんかできないと思われるはずです。 発達障害のリスク因子は、現代社会において、私達の身近に多く存在しています。 別の言い方をすれば、リスクの中で、私達が生活しているといえるでしょう。 ある意味、便利さと今の安心と引き換えに、未来へのリスクを背負っているようなものです。 このようなお話は、親御さんに尋ねられればお答えしていますし、お子さんの発達の流れから見て、それが発達のストッパーになっていると考えられるときには、こちらからお話しすることもあります。 ただ、中には、どうしても生活環境上、個人では変えられない部分がありますし、そういった場合は、できる範囲で避けたり、代替のもので対処したりすることで、発達を押し進めていくことができます。 あるご家族は、水を換えることで、心身の状態が安定し、発達が進んでいった子もいました。 しかし、実際のところは、リスク要因は具体的になっているものの、とにかく数が多いですし、それがその個人にど

【No.1035】触覚=受動的+(能動的⇔固有受容覚)

『触れる主体は誰か?』 というブログを読んだ方から、ご質問がありました。 「本人があまり身体を触らせてくれないので、寝ているときに、マッサージをしているのですが、それって皮膚を育てることに繋がりますか?」というものです。 実は、こういったご質問は、他の方からも多く受けることがあります。 本人が寝ているときに、マッサージをする親御さんは少なくないように感じます。 親御さんに触れられること、穏やかな揺れや刺激は、眠っていたとしても、本人の心地良さ、安心につながると思います。 寝ているときだって、脳は絶えず動いていますので、皮膚から受け取った刺激を脳に運び、それが神経発達につながることもあるでしょう。 ですから、本人が寝ている間の皮膚刺激は、発達につながる可能性はあるといえます。 しかし、一方で、何を育てたいのか、何が本人の発達課題なのか、という点に注目する必要があるのです。 触覚と言えば、すぐに思い浮かぶのが、痛みや熱さ冷たさだと思います。 どちらかといえば、受け身の感覚であり、刺激のセンサーという面が大きいと言えます。 でも、私達が得る感覚刺激には、モノの大きさ、重さ、手触り、バランスなど、能動的に得る情報があり、検知するといった面もあります。 触覚には、受動的に得る感覚と、能動的に得る感覚がある。 そして、その能動的に触れることで得る感覚には、触覚だけではないのです。 ここが今日のポイント。 モノに触れることで、その形態を検知すると同時に、筋肉や腱などが刺激され、自分の姿勢や運動状態が検出されます。 これが固有受容覚、自己受容覚といわれるものです。 つまり、寝ている間のマッサージは、受動的に得る感覚を刺激し育てているのであって、能動的に得る感覚と、それに伴う固有受容覚は刺激されていないし、育たないということ。 図にすると、触覚=受動的+(能動的⇔固有受容覚)。 論理的に考えると、こういった図式になるのだと思います。 しかし、私個人的な経験、意見としましては、受動的に育つ触覚の部分も、ただ単に受け身的に刺激を受けているだけでは育ちが甘い、ゆっくりだと感じますし、考えています。 確かに、皮膚が過敏、皮膚で感じられる刺激の幅が狭いお子さん達がいます。 そういったお子さん達には、安心感がある親御さんからのスキンシ

【No.1034】自閉症特有の行動、自閉症の人にしか見られない行動

「ミニカーを走らせるわけではなく、並べるんです」 「車のタイヤや、換気扇が回るのを、ずっと見ているんです」 「まだ、言葉を話さないのに、ロゴやマークの字にこだわるんです」 「道順にこだわりが…」 こういった様子を話され、心配になり、相談に至る親御さんは少なくありません。 いわゆる、典型的な自閉っ子の姿ですね。 私が学生時代に持っていた本にも、そういった姿のイラストが描かれていましたし、映画やドラマでも、ミニカーを並べる男の子、変更が伝えられるとパニックになる子が登場していました。 今はどうか知りませんが、もう久しく特別支援系の本は手に取っていませんので、いまだに自閉っ子がそのように表現されているのだと思います。 学生時代は、そして数年前までも、このような姿を見かけるたびに、「ああ、自閉っぽいな」というような捉え方をしていました。 しかし、改めて胎児、乳幼児の発達を勉強し直し、多くの幼児期の子どもさん達の相談がくるようになり、そして自分自身が親になり、二人の子の発達、成長を見ていく中で、「自閉症特有の症状、行動」と捉えられていたものの多くが、単に未発達や遅れだったことに気が付きました。 親御さん達の多くは、また支援者の中にも、上記のような行動が確認されると、「自閉症かもしれない」「自閉症だろう」という想いが出てきます。 これは、特別支援の教科書、専門家の発言の影響からだといえます。 では、実際、発達相談でその子とお会いすると、そういった病的な感じはせず、単に発達が遅れているだけ、発達課題の途中経過ということばかりです。 なぜ、そう言い切れるかと申しますと、発達を後押ししたり、まあ、余計なことをしなければ、その段階から次の段階へと発達していくからです。 今を切り取ると、自閉症らしさ満載。 でも、発達の流れから見れば、途中経過であり、それもまた定型発達の流れに沿っているのです。 ですから、全然心配することなし、です。 このような経験から、最近では、「自閉症特有の行動などない」と考えるようになりました。 感覚過敏は、感覚系の未発達。 視覚優位は、聴覚系、三半規管の育ちの遅れ。 変更への抵抗、パニックは、周囲の情報が読みとれない=身体の範囲や軸が掴めていない、内臓を含む感覚系の遅れ、ゆえに前頭葉の発達の遅れ。 言葉の遅

【No.1033】入所施設の論理

福祉で働く人は、いい人が多いと感じます。 支援を充実させるか、治して自立を目指すか、という考え方の違いはありますが、接点のある支援者さんは基本的に皆さん、いい人で、一生懸命な人ばかりです。 施設で働いていたときも、先輩はいい人ばかり、そして入社していくる後輩もいい人ばかり。 労働環境は最悪でしたが、働く場としては人に恵まれた、と今でも思っています。 福祉を志すということは、根本的に人が好きな人であり、他人のために働きたいという想いを持った人達だと感じます。 また、採用する側も、そういった人物を求めますし、離職率の高い職種ですから、なおのこと、人物重視となるでしょう。 ですから、どこの施設も、大部分の人はいい人。 しかし、一方で、この「いい人ばかり」という面が、福祉の負の面でもあるといえます。 一歩福祉の世界に入ると、本人の自立は、どんどん遠のいていきます。 何故なら、相手の感情を汲みとりすぎるいい人に囲まれてしまうから。 自分のことよりも、やってあげることを優先し、そこに喜びを感じる人たちに囲まれているから。 しかも、「当事者に寄り添う」などが法人理念として掲げられていることが多く、管理職も、現場の職員も、さらに利用する子の保護者も、そういった寄り添う姿勢に価値を見出しています。 一生懸命な職員さんが、困難を抱えている利用者さんに、諦めることなく、優しく寄り添い続ける。 そういった姿を見て、親は安心して任せられると感じる。 管理職も、私達の施設は、利用者さんに愛情をもって接することができている、と胸をはる。 こういった価値観は、今も続いているように感じますし、これからも続いていくと思います。 でも、利用する本人は、これで満足なのか、これが求めていることなのか、疑問に思うのです。 福祉の価値観は、寄り添うこと、優しく接することで良いのかもしれませんが、その人個人の価値観に沿ったものがなされているといえるのでしょうか。 私が施設職員だった頃、支援の質を評価するのは本人であり、福祉も、プロセスではなく、結果が求められるのではないか、と主張していました。 当然、「福祉の考え、法人の理念にそぐわない」と却下されるのですが。 この、ある意味、「いい人どまり」の福祉がゆえに、いつまで経っても、自立していく人は育たないし、支援

【No.1032】3分診断

「3分診療」なんていうのは、大きな病院では、それくらいで患者さんを診ていかないと、経営が成り立たないという意味があるそうですが、これが「発達障害の診断でも行われている」と聞いたら、みなさんはどう思われるでしょうか? 私のところに来る相談が偏っている、特殊な事例ばかり、なのかもしれませんが、どうも、お子さんを見た瞬間に、「ああ、自閉症だね」「この子は、支援学校の子だね」と言われるケースが多く見受けられます。 地方の街なら、発達障害を専門にしている病院が限られていて、そこにいけば、同じ医師が3分診断しまくる、という話ならわかります。 でも、相談者の住んでいる場所は、南も、北も、西も、東も、という具合に、全国各地に散らばっていて、しかも、地方だけではなく、都市圏でも同じような話があるのです。 現在の医療では、発達障害は“治らない”ということになっています。 そうやって、ある意味、「不治の病」みたいなことを告げるつもりなのに、どうして、3分診断で済ませようとするのでしょうか。 親御さんとしては、とてもショッキングな内容なのに、なぜ、そのような診断に至ったかの説明がない。 親御さんが尋ねても、「その根拠の説明がされなかった」という話も、みなさんに共通していることです。 日頃、「エビデンス」「エビデンス」という割には、我が子が自閉症であるエビデンスが示されることがありません。 まあ、最初から、自閉症やADHDなどの診断自体に科学的な根拠がないのですから、仕方がないことのでしょう。 文章で記述されている診断項目を見て、医師が当てはまるか、当てはまらないか、をジャッジする。 そのジャッジ、判断に対する根拠としては、「私には当てはまるように見えたから」としか言えない。 そうなると、現在、どこでの診断待ちの列が長くなっている状態ですので、ある意味、早くさばくために、3分診断が全国どこでも見られるようになる。 そして、早くさばきたい医師にとっては、「どうして我が子が?」という親御さんの問いが、煩わしく感じるのかもしれません。 診断を受ける人の多くは、診断名を受けたがっている人でしょうから。 「発達障害じゃ“ない”」という言葉を聞きたくて、受診する人はそんなにいないはずです。 以前、「診断は時間がかかるのにお金にならなくて、経営ができなく

【No.1031】目の動きの遅れ、言葉の遅れ、その引き金は?

ありがたいことに、こういった状況の中でも、出張の問い合わせ、依頼をいただいております。 確かに、新型コロナはよくわからなくて怖いけれど、いつまでも恐れて止まっているわけにはいきませんね。 特に、子どもさんは成長著しい時期を1日、1日と過ごしているんですし、最近、発達の遅れがわかった親御さんにとっては、コロナ以上に我が子の今と将来が気になるはずです。 雰囲気的に、国内は5月上旬くらいから落ち着いていくでしょうし、オリンピックは夏には行われない。 そう判断した私は、夏の出張相談の航空券と宿泊場所の予約を済ませました。 今は、腕と感性を磨く時期と捉え、いつもとは違った学びをしている日々です。 あと、 6月21日(日)の特別講演会 のお申し込みは、現在、午前の部が残り10名、午後の部が残り12名となっています。 午前は親子向けの講座ですので、あと3~4家族といったところでしょうか。 「新年度になって予定がはっきりしてから」という人たちもいらっしゃいますので、ご検討中の方は、どうぞお早めにお願い致します。 午前中、香川県で「ネット・ゲーム依存症対策条例」が可決されました。 まあ、条例が施行されても、長時間ゲームをする人はするでしょうし、許す家庭は許すでしょう。 ですから、この機に及んで名を売ろうとする専門家と、他県のゲーム愛好者がワーワー言う姿を冷めた目で見ていました。 確かに、全員が全員、長時間それらに触れたとして、依存症になるとはいえません。 ですが、遺伝子的に、ネットやゲームからの刺激に対し、影響を受けやすかったりする子がいるのも確かでしょう。 完全に個人の責任にして放置しておくのではなく、こうやって議論に挙げ、検討することで、本人や家族への問題提起になる、という意味で捉えれば良いのだと思います。 この「全員に当てはまらないけれども、誰かにとってはとても大事な警告となる」というのは、私も重要だと考えています。 発達障害が、後天的な環境、刺激によって、遺伝子のスイッチを入れることが明らかになってきた現在ですので、発達障害の引き金となる環境要因について、皆に当てはまらないけれども、知っておく、というのは必要なことだといえます。 今回で言えば、長時間のメディア視聴は、発達障害の引き金の一つです。 目の動きが乏しい子、立体視が

【No.1030】選ばれた言葉を窓に、親子の時間を、その子の発達を覗き、連想する

冷やし中華のように、「メール相談始めました」と言ったわけではなかったのですが、いつの頃か、相談のメールが来るようになり、「これだけニーズがあるのなら」と告知をしたら、ほぼ毎日、誰かしらのご相談があるようになりました。 メールの文面を拝見していますと、人によって書き方がバラバラ。 だったら、フォーマットを用意した方が良いかな、なんて一瞬思ったのですが、やっぱり良かったと思いますね。 「年齢は?」「運動発達で気になったことは?」「今、何が気になりますか?」なんていうようなアンケート用紙のみたいなものを用意したら、たちまちつまらんものになります。 それは、私にとっても、親御さんにとっても。 確かに、書く項目が明確になっている方が書きやすいというのはあると思いますが、それじゃあ、相談する意味はなし、です。 多分、アンケートのような記述には、マニュアル的な返しになります。 誰に訊いても同じような答えしか返ってこないから、こうやって民間の怪しい私に、わざわざ相談しているのですから(笑) 質問用紙というのは、実につまらんものです。 枠があると、回答する方は脳みその省エネができます。 でも、利点はそのくらいなもの。 書いている親御さん、本人にとっては、時間だけかかって、得るもの少なしです。 発達相談等で、枠いっぱいに、びっちり記述される親御さんは多いですが、まともな返事、助言が返ってくることはほとんどなかったでしょ。 だって、自信がないから、実力がないから、枠に逃げたくなるのです。 枠からはみ出たとき、その支援者の真の実力が問われることになる。 あるときから私は、相談メールに回答するのが、楽しく感じるようになりました。 相談者のメールの文面のバラエティさから、あることが見えてきたからです。 それは、何かを記述したということは、何かを“記述しなかった”ということに。 相談するということは、今、何かに困っていたり、悩んでいたりするからです。 だけれども、悩んでいることすべてを記述するわけではないと思います。 生きていれば、子育てをしていれば、何かしら悩みを持ち続けるもの。 でも、その中から意識、無意識に関わらず、相談するものが選別されている。 同じように、成育歴などの記述も、書かれているものの背景には、何百倍もの書かれていない

【No.1029】発達は文字化することができない

相談メールと併せて、結構、ブログに関する質問や感想が多く寄せられます。 そういったブログに対するリアクッションを読んでいますと、一人ひとり捉え方も、響き方も、違うことがわかり、またそれを楽しんでいる自分がいます。 同じ文章、文字を書いても、見え方、捉え方が異なる。 当然、私が伝えたいこととのズレも生じるわけです。 でも、それが当たり前で、自然なこと。 言葉は、伝える手段としては、とても優秀なものだけれども、細部まで表すものではありません。 伝えているのはニュアンス。 たとえ同じ言葉であったとしても、それをどう捉えるか、は受けて次第で、その受け手の受け止め方を決めるのは、個人の体験に他なりません。 そういった意味で、円滑なコミュニケーションというのは、滑らかに言葉が出るとか、語句が豊富でバラエティに富んでいるとか、ユーモアのセンスがあるとかじゃなくて、相手と共感できるか、感覚を共鳴できるかということなんだと思います。 「僕、コミュ障なんで」という人は、だいたい空気も読めない人。 だけれども、同じ趣味嗜好の人とはコミュニケーションがうまくいく。 つまり、土台が感覚系の未発達であり、それに覆いかぶさっている課題が、体験、経験値の乏しさ。 おば様たちの会話を聞いていると、ト書きにすればあべこべなんだけれども、コミュニケーションが成り立っている。 それは、同じような年代で、同じような生活、人生を送ってきた共通点の多い人同士だから、ニュアンスで共感し合っているからなのでしょう。 五感が働かないと、ニュアンスに注意が向かず、その言葉、文字情報にグッととらわれる。 昔よく言われていた自閉っ子の「字義どおりに捉える」というのも、結局、相手との共感がうまくいかなかっただけのことであって、自分に感覚系の未発達があれば、言葉の持つニュアンス、つまり、それを発した人の背景、感覚がわからなくなるのも仕方がない。 言葉は曖昧なものであり、発した人の感覚、受け取った人の感覚によって変化するものです。 若い支援者からも、相談、助言を求められることがあります。 そんなとき、よくお話しするのが、勉強の仕方。 若手の頃は、私もそうでしたが、専門的な知識をとにかく取り入れようとします。 障害の特性から、療育の方法、脳や神経、ヒトの発達など、ありとあらゆ

【No.1028】手が汚れるのを嫌がる子の発達段階

今日は、もう少し触覚、触れるということについて書こうと思います。 最近書いたブログの 【No.1015】 と 【No.1022】 がそういった内容で、それを見た方から質問や相談が続きました。 答えているうちに、「ここも書いておいた方が良いな」と思うところがありましたので、これから記していきます。 幼児さんの中には、まあ、小学生くらいのお子さんでも、「土が触れない」「手が汚れるのを嫌がる」なんてことがあります。 そういった様子を見たり、相談があったりすると、支援者はすぐに「触覚過敏」という言葉を使いたがるものです。 「それは触覚過敏ですね」 「ASDの子に多く見られる特性です」 「無理して慣れさせようとすると、却って過敏が強くなりますよ」 とお決まりのパターンがあり、最後には「トラウマが」「二次障害が」と続き、結局、全面的に受け入れるしかないよね~という話で終わります。 確かに、触覚過敏というお子さんもいると思いますよ。 でも、土に触れないだけ、触れたがらないだけで、触覚過敏は乱暴すぎですよね。 というか、たぶん、その人は、ヒトの発達をご存じない。 どうやって、子どもが発達していくか。 この場合で言えば、どういった発達過程を辿り、触覚を育てていくかが分かっていないのでしょう。 触覚が胎児期前期に、そして最初に働き始める感覚だという話は、前回の内容。 今回は、生まれたあとの触覚の育ちです。 触覚というのは、何のために、存在するのでしょうか。 そこが、「すべて触覚過敏では乱暴ですね」という話とつながります。 結論から言えば、触覚とは、危険を察知するための感覚です。 原始的な動物は、危険から身を守るために、触覚、触れるという活動を獲得し、発達させたのだと思います。 ということは、やはりヒトにおいても、最初の発達過程は、危険の察知の段階だといえますね。 土に触れるのを嫌がるのも、手が汚れるのを嫌がるのも、触れること自体に怖さがあるというのも、実は正常な発達なんですね。 「これって何だろう?」「危険かな、大丈夫かな」というのを探索しているのです。 この発達過程をやり切ると、触れるという行為に不安や怖がるといった感情を伴わなくなります。 つまり、次の発達過程に進んだという表れ。 動物は、危険を察知するために

【No.1027】訪問時、ノートをとらなくなったわけ

いつの頃か、発達相談中のノートテイクはやらなくなったんですね。 この前、「大久保さんは、ノートとらないんですか!?」と驚かれ、そういえば、いつからだったかな、と思ってました。 起業当初は、「できるだけ書きこめるように」と、1ページが大きなノートを買って、持ち歩いていたんですが、それが、「そんなに書きこまないな」「もっと手軽に持ち運べるものがいいな」と、どんどんノートが小さくなり、今はポケットサイズのノートをメモ代わりに使っているだけ。 もう、対面している間には、ノートを出すことはなくなりました。 どうしてノートをとらなくなったかと思い返すと、心境の変化があったのかな、と思います。 相談内容や気がついたことをノートいっぱい書いていた頃は、どこか頭の隅に後日お渡しする報告書があったり。 それに、書き記したノートを眺めながら、そこで自分の頭を整理しながら、相談に対する答えを出そうなんて思っていたり。 でも、これって、対面する意味がないというか、意義がないというか。 せっかく、場と時間を共有しているのに、私の頭は未来に行ったり、時間を止めたりしていたんですね。 あるとき、思ったんです。 わざわざ家庭に出向く意味ないよな、って。 そこから、もやもやしている時期があって、もう一度、どうして私が訪問支援、家庭支援にこだわるのか、そこを仕事の中核にしているのか、考えたんです。 私がやりたかったのは、知識や技能の伝達ではない、一方的に何かを与えたいんじゃない。 そんなことがやりたくて、わざわざ起業したわけじゃないんです。 それがやりたいのなら、既存の枠組み、組織を使えばいい。 時間という概念をとっぱらい、時間を忘れるくらい、その子の発達をご家族と一緒に考えぬきたい。 そうか、私はとことんその子の発達と向き合いたいんだと気づくのです。 時間を忘れて、発達相談、援助を行っているときがあります。 そういったときは、あっという間に、時間が過ぎている、という感じです。 当然、ノートをとることなんて忘れています。 ノートをとらず、さようなら、が続いたとき、「帰ってから、報告書が書けるかな」と心配でした。 でも、仕事場でパソコンを開くと、結構覚えている。 まあ、覚えているというよりも、そのときの映像、雰囲気、感情までも、今、リアルに感じるわけ

【No.1026】やりようがあるところを支援しないで、何を支援するというのだろうか

昨日の就労支援に関しても、どうしてやりようがあるところをやらないのか、はなはな疑問です。 職場への理解も、どういった配慮を受けるかも、相手があってのことだし、思い通り、全面要求通り、なんてことは望めない。 そんな、希望的な観測みたいな、どうなるかわかんないものに、時間を費やすのも、それで支援したことになるのも、意味不明。 やれるところをやるのが、すべてにおいて、大原則ではないだろうか。 就労に関しては、働ける身体を育て、整えることは、今からでもできること。 できることを支援しないで、何を支援するというのでしょう。 私は全国どこでも、家庭まで出向き、そこで発達相談を行います。 対面にこだわるのは、臨場感の違いです。 目の前で、私がお子さんと関わり、発達の状態を確認し、その子の発達流れ、受精から現在まで続く物語を紡いでいく。 その姿を間近で見てもらうことで、親御さんの中に気付きと変化が生じる。 また、そのときの親御さんの変化を受けて、私自身も頭が忙しくなり、訪問前には想像していなかった気づきと変化が生じる。 このようなお互いに変化が生じることで、初めて意味のある支援ができたといえるのだと思っています。 一方的に、変化を起こそう、与えよう、という支援は、そのあとに続いていきません。 結局、そのときはわかったつもり、できたつもりでいるけれども、場面が変われば、日常の流れの中に消えていく。 これが、「教わったら、教わり続ける」「支援を受けたら、支援を受け続ける」の理由です。 渡す人がいて、渡される人がいる。 渡されたものは、外付けするしかできず、その人の内側までは入っていけないのです。 私の発達相談、援助を受けた方は分かると思いますが、基本的に教えませんし、教えようともしません。 ハナから、何か知識や技能を与えようとなど、考えていないからです。 じゃあ、何しに行っているか、わざわざ飛行機を乗り継ぎ、訪問しているか、といえば、「やりようがある」というのを伝えるため。 目の前で、臨場感を出しながら、場と時間の共有をしにいくのは、この一点を感じてもらいたいから。 「やりようがある」というのを、実際、目の前でやりようがある姿を見てもらうことで、感じてもらう。 何故、感じてもらうかといえば、ヒトは感情で動く動物なので、感覚的な

【No.1025】自閉症の人ができない仕事ってなんだろう?

「では、何社の面接を受けられたのですか?」と尋ねると、だいたい返ってくるのが「1社」「2社」という答え。 1社に書類を送り、面接を受けただけで、採用が決まるなんて、どんなに優秀な人だというのでしょうか。 そりゃあ、ヘッドハンティングされるくらい、前の会社で実績があるのならわかりますが、学校を出たてだったり、行くことが目的みたいな福祉的就労、支援からの一般就労だったりすると、1社受けて1社受かるなんて、よっぽどの運がなければ難しいといえます。 これだけ多数の企業がある日本で、自分が就きたい職場と、企業側が採用したいと考える人材が1度でピッタリ合う確率は、そんなに高いことではないと思います。 成人の方からの相談の大部分は、就職に関することです。 で、だいたいの人が、「自閉症ガー」「発達障害ガー」「周囲の理解ガー」と理由づけをされます。 「自閉症の人でも、就職して、自活して、結婚して家庭を持っている人もいますよ」という話をすれば、必ず「私の症状は重くて…」と、今度は重いアピールが始まります。 本当に重ければ、こうやって相談などできないでしょうに。 まあ、とにかくネットか、家族か、支援者か、わかりませんが、典型的な誤学習をされてから、相談に来られる場合がほぼ100%です。 この誤学習さえなければ、話が早いのに、と思うことばかり。 発達につながることは何もしなくていいから、せめて誤学習だけはしてくれるなよ、支援者たち。 結論から言えば、面接のとき、「私自閉症です、配慮してください!」と大きな声でアピールしなければ、言葉の節々から支援されるのが当たり前、当然という雰囲気を醸し出さなければ、自閉症ゆえに不合格ということは少ないといえます。 今は、障害者差別に関しても厳しい態度がとられますし、そもそも働き手不足の社会状況。 ですから、採用してくれる企業を探し、そこにトライすれば、就職はできる。 「一般就労は難しいぞ~、怖いぞ~」と言い、あたかも一般就労が難しいように見せかけるのは、自分たちの支援に引きつないでおく常套手段。 支援者が言うほど、「一般就労の壁は高くない」というのが、私が出会ってきた若者たちから教わったこと。 結局のところ、就職後、仕事が続くかどうかも含めて、身体の問題。 面接を1社受けるだけで、疲れてきって寝込む人は、次の

【No.1024】この“今”というときを、より良い未来のために

後日、手紙やメールを頂戴することがあって、今日も一通届いていました。 「新型コロナ、大丈夫ですか?」というお気づかいと共に、「今は、心から子育てが楽しい。我が子が愛おしいと思えるようになりました」と記されていました。 本当にうれしいですね。 この仕事を起ち上げて良かったと思いますね。 私の仕事は、発達障害を治すことではありませんし、親御さんにとっても、子育ての目的は治すことにはなりません。 「何故、治すのか」といえば、その子の未来をより良くするためであって、そこには「自立」と「自由」と「選択」がより良いものへとなるような願いがあります。 究極でいえば、ゴールはその子が幸せになること。 その手段、方法の一つとして“治る”があるし、親御さんには“治す”がある。 ひと家庭ずつ、訪問し、時間と場を共有し、じっくり子育てについて考える仕事ですから、我が子に幸せになってほしいと思う親御さんも、幸せを感じてもらうというのが、この事業の意義、存在理由だと思います。 事業を起ち上げてから、もうすぐで丸7年が終わろうとしています。 開業当初より、親御さんの中には、「子育てが楽しいと思えない」「私は子どものことが好きではないのかもしれない」「正直、我が子を愛おしいと思ったことがない」、そんな心のうちを話してくださる人達が少なくありませんでした。 私は最初、家庭内の孤立や共働きによる余裕の無さ、子や兄弟が減ったことによる体験不足など表面的な捉え方をしていたんですね。 今、振り返ると、本当に薄っぺらい、リアルのない捉えです。 でも、ずっと、このような親御さんの生の声に耳を傾けてきますと、子育てが楽しいと思えないのではなくて、「楽しいとは思ってはいけない」「愛おしいなんか、軽々しく言ってはいけない」、そんな自分で自分を否定するような、ストッパーをかけているような、雰囲気、本当の姿が見えるようになってきたんです。 中には、その背中に、十字架を背負っているかのような姿すら感じる方もいました。 親御さん達は、何を背負っているのか。 それは、私には理解することも、「わかります」なんて言葉を発することもできない、とてもプライベートな感情だと感じます。 雰囲気から感じることですが、どの親御さんも、多かれ少なかれ、後悔の念をお持ちになっている。 小田和正で

【No.1023】私達は不必要なものに囲まれ生きている

連日、うちは学童保育所か、保育園か、という具合に、家の中で息子たちが騒いでいます。 通学できず、通園できず、それでいて友達と遊ぶこともできない。 少しでも、外で遊ぶ機会を、家の中で楽しいことを、とは思っているのですが、親としてできることには限度があります。 でも、こうやって兄弟がずっと一緒にいることは今まで少なかったので、やいのやいのと喧嘩しつつも、二人にとっては貴重な時間なのかもしれない、と思っています。 いろんなお子さんの発達と関わっていますので、我が家でもゲームは買い与えていません。 ふと、こういったときに、「ゲームがあれば…」なんて考えることもありますが、長い人生、脳が柔らかい時期への影響を思えば、これで良かったのだと思います。 やりたければ、もう少し成長してから、大人になって、腐るほどやればいい。 他の家庭の話を聞けば、「一日、ゲーム」というところもあるようですが、本来、子どもというものはたくましく、創造性豊かですから、うちの子も、いろんな絵を描いたり、工作したりして、この時間を楽しんでいるようです。 大人の私も、週末外出禁止、ジムにも行けず(涙)という状況ではありますが、案外、家の中でどうにかなるものです。 平時は、当たり前だと思っていたものも、案外なくても大丈夫。 むしろ、いらなかったのでは、余分に持っていたのでは、と思うことばかりです。 30年前の子どもも、制限のある今だからこそ、気が付くこと、創造性が刺激されることが多々あるように思う今日この頃です。 ある親御さんとお話ししていて、「療育も全部、中止になった」ということがありました。 そこで私は、その親御さんに訊いたわけです。 「療育に通わない状況で、お子さん、どうですか?」と。 すると、「何も変わらない」という返事がきたのです。 活動が制限され、家の中で過ごす時間が長くなると、「家でできる発達につながることを」と考えられるご家庭が多いと思います。 子どもにとっての1ヶ月は、とても長く、とても貴重な時間だといえます。 ですから、何か1つでも発達につながるようなことを考え、実行することは大事です。 しかし、それだけではなく、こういった機会だからこそ、今まで受けてきた支援、療育、教育を振り返ってもらいたい、と思うのです。 今、目の前にいる我が子

【No.1022】触れる主体は誰か?

お子さんの雰囲気から、「皮膚が育っていないな」「皮膚の育ちが今、必要だな」と感じることがあります。 そういったとき、私は「皮膚を育てましょうね」というお話をします。 どういうときに、皮膚の課題を感じるかといいますと、やはり一番は、身体と空間の境目がないとき。 他者との距離感が近すぎたり、背面の意識が乏しかったり。 他には、触覚刺激に過剰or過少の反応だったり、本人のモノへの触り方に違和感が見られたりするときです。 このような課題があるとき、親御さんの多くは、マッサージやスキンシップを通して、皮膚を刺激し、育てようとします。 私もそれが良いと思い、ずっと仕事をしていました。 でも、最近、皮膚への刺激で育つ子もいれば、そうではない子もいることに気づきました。 と言いますか、気づいていても、それに対する解を私が持ち併せていなかったのだと思います。 ヒトが最初に皮膚を感じるときは、いつでしょうか? ヒトは、どうやって皮膚感覚を育てていくのでしょうか? そういった物語の中に、“解”があったような気がしました。 胎児が皮膚感覚を得るとき、つまり、「あ、自分には皮膚がある。包まれたものがある」と気づくのは、自分の手が口元に、足がお母さんの子宮壁に、当たったとき。 もし、子宮内が手足が伸ばせるくらい広ければ、腕が曲がらず伸びきった状態のままであれば、羊水から得られる全体的な圧のみの刺激しか得られないはずです。 こういった連想をすると、羊水から得られる全体的な圧と、自ら身体を動かし得られる感覚刺激には、違いがあるような気がするのです。 足を動かす→子宮壁に当たる→当たった刺激が皮膚を介し、体内へと戻っていく。 行動に伴う感覚刺激のフィードバック。 この繰り返しが、皮膚を育て、感覚器を育てていくのだと思います。 マッサージやスキンシップで皮膚が育ったお子さん達は、きっと羊水からの圧刺激に満たされなさがあったのだと思います。 ですから、今まで、皮膚に刺激、特に圧刺激を得ることで発達してきた子ども達がいた。 一方で、それでは育たない、育ちがゆっくりな子ども達というのは、胎動による皮膚刺激に満たされなさがあったのだと想像します。 皮膚に対する圧刺激というのは、どちらかといえば、受け身です。 でも、胎動によって得られる刺激

6月21日(日)『どこでも治そう発達障害の会』 特別講座 in 函館

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2020年5月22日に開催中止が決定しました。     このたび、北海道函館市になんと!花風社の浅見淳子さん、からだ指導室『あんじん』の栗本啓司さんをお招きし、特別講座を開催することになりました。 この講座は、発達障害を治す知見を持った講師の人達を全国に派遣し、本人や家族の悩み解決、より良い発達、子育てを応援する 『どこでも治そう発達障害の会』 のご協力をいただき、開催実現に至りました。 長年、発達障害に関する書籍を出版されてきた 花風社 の浅見淳子さん。 浅見淳子さんは、支援者としてではなく、仕事のパートナーとして、社会人の一人として、発達障害の人達と関わってこられた方です。 いち早く、自閉症の人達の「身体の問題」に気づき、それが学業や仕事だけではなく、人間関係や社会で生きていくこと、つまり、自立を阻む大きな障壁になっていることを理解されていたのでした。 そこから、「どうすれば、自閉症の人達の身体の問題を解決できるか?」「少しでもラクになれるか?」、その一心で、全国にいる優れた知見を持った人達を尋ね歩き、集めたアイディアを書籍の形に表し、数多く世に送りだしてきました。 『自閉っ子、こういう風にできています!』 の出版から15年。 その15年間の歩みの中で見てきたこと、見えてきたことを、出版だけではなく、全国各地で講演をされている浅見さんにお話しして頂こうと考えております。 基調講演のテーマは、『発達障害がどこでも治ると言える理由は何か』です。 もうお一方お招きする講師は、神奈川県小田原市で愉しみながら身体や動きを整え、育てる指導をされている からだ指導室 あんじん の栗本啓司さんです。 栗本啓司さんは、古今東西のあらゆる療術、体操、ボディワークを学ばれ、25年以上、老若男女、障害を持った人たちへの指導を実践されてきました。 現在、小田原には、全国から指導を受けたい人が集まってきており、また全国各地から依頼があり、出張での指導、コンディショニング講座も毎週のように行われています。 発達障害の人達に多く見られる「眠れない」「季節の変化に弱い」「感覚の過敏さ」などの生きづらさに対して、身体のどんな状態、課題と繋がっているのかを確認し、身体を整えること、背景にある未発達の部分を育てることによって解決していきます。 栗本さんの指導は、ト