2020年5月25日月曜日

【No.1068】凸凹がある子?全体的な遅れがある子?

親御さんにとっては、告げられた我が子の『診断名』が重くて、大きく感じられるのだと思いますが、私達支援者は、その診断名によって助言や援助の仕方が変わったり、変えたりするわけではないので、ほとんど気にしないものです。
診断名とは、行政用語みたいなものですから、子育て・教育と同様に、結局は一人ひとりを見て、オーダーメイドで作り上げていかなければなりません。
「自閉症だから、こう」「LDだから、これ」みたいな支援は、20年前のお話です。
 
 
「発達障害」という言葉には、大きく分けて2種類の意味があると思います。
発達が"凸凹"しているという意味と、発達が"遅れ"ているという意味です。
ここが支援を創造していく上で最初のポイントになります。
単に「発達障害」というだけでは、凸凹があるのか、全体的な遅れなのかがわかりません。
 
 
凸凹がある子の場合、凹んだ部分に注目されがちですが、凸の部分が重要です。
この凸の部分を確認することで、刺激・発達の極端な偏りなのか、または発達のヌケ、やり残しなのかがわかるからです。
具体的に言えば、凸が同年齢の子以上の発達段階とレベルにあれば、刺激の偏り、脳の使い方の偏り(右脳ばかり使っている、左脳ばかり使っている)だと推測できます。
そうではなく、凸が同年齢の子と同じような発達の範囲にあれば、胎児期から2歳前後の発達にやり残しがあるよねと考えられます。
 
 
一方で全体的な発達の遅れがある子の場合は、その子の資質的な理由から発達がゆっくりであるということと、何らかのストッパーがあるために発達していけないということが考えられます。
遺伝的な要因や出生前後のトラブルなど、どう頑張っても、発達がゆっくりであるという子がいるのも事実だといえます。
そのようなお子さんの場合には、長期的な視点をもって、「とにかく小学校4年生の学力を」「とにかく自立した生活を」という具合に、コツコツ積み上げていくイメージが良いと感じます。
大事なのは、ゆっくりなペースを速めるのではなく、ゆっくりでも歩き続けるような後押しだと思います。
 
 
ただ、発達障害と言われるお子さんは、何らかのストッパーによって、うまく発達が進んでいかない場合のほうが多いといえます。
凸が同年齢と同じくらいのお子さんと同様に、胎児期から2歳前後の発達のやり残しがあるのですが、そのやり残し、ヌケがより胎児期に近いのがこちらのお子さん達です。
ヌケがあるのは一緒でも、それが発達の初期、発達の土台にあるために、その後の発達全般に影響を及ぼしているようなイメージです。
さらにいえば、呼吸や消化、循環など、生きていく上で重要な部分の発達にヌケがある、脳幹の発達がやり残しの始まりといったときに、うまく発達が進んでいかない感じがします。
あとは、栄養や酸素などの摂り込みの問題、偏りのために、神経発達が生じづらいといった理由から、発達全般に遅れが出ている、同年齢と比べて遅れている、ということが考えられます。
 
 
まとめますと、その子の「発達障害」と言われる状態は、「凸凹なのか?全体的な遅れなのか?」が入り口。
 
 
凸凹なら、凸の部分に注目し、「同年齢以上?同年齢と同じくらい?」を確かめる。
同年齢以上→「刺激の偏り?脳の使い方の偏り?」
刺激の偏りなら、過剰な刺激を制限しつつ、異なる刺激が味わえるような環境づくりによって、凸凹から生じる生きづらさを解消していく。
 
 
同年齢と同じ→「胎児期から2歳前後にある発達のヌケ、やり残し」
出生後の運動発達にやり残しがある場合が多いので、そこを育て直す、回数券を使い切ることで、凹に引っ張られている部分を解消していく。
 
 
全体的な遅れなら、「その子の資質?ストッパーの影響?」を確かめる。
ゆっくり発達するのがその子の資質だとしたら、注目するのはスピードではなく、長期的な視点を持ち、歩み続けること。
ゆっくりなお子さんは、身につくのに時間がかかりますが、身についたあとは、それを離さない特徴があります。
一度身につけたものは生涯に渡って大事に使い続ける感じがありますので、大人になっても必要なスキルをコツコツと積み上げていくのが良いと思います。
 
 
ストッパーの影響なら、「発達の土台のヌケ?神経発達の問題?」を確認します。
赤ちゃんのときから違和感を持たれていた親御さんも少なくなく、その場合は呼吸や嚥下、睡眠など、生きる上での土台の部分に発達のヌケの始まりがあります。
運動発達のヌケと同様に、この生きる土台の部分の発達のヌケを育てなおすことで、ゆっくりだった発達を加速させることが可能です。
また、神経発達の問題は、栄養と酸素に注目し、ここを整えていくことが第一歩です。
 
 
細かい部分はさておき、うちの子は、担当しているお子さんは、発達に凸凹がある子か、全体的な遅れがある子かに注目することが大事だと思います。
結局、「自閉症」や「発達障害」からは何も見えてはきませんので、独自の視点を持ち、とにかくお子さん一人ひとりを見ていくことが必要だといえます。



2020年5月24日日曜日

【No.1067】子も、親も、支援者も、自立

6月21日に予定していました『どこでも治そう発達障害の会』特別講座in函館に参加申し込みを頂いた方、また「6月以降、学校が再開してから」「緊急事態宣言が終了してから」ということでお申し込みを保留されていた方、すべての皆さんへ、中止の連絡をしました。
すると、多くの方からお返しのメールを頂戴し、残念なお気持ちとねぎらいのお言葉をいただきました。
皆さんの中にも、「開催は難しいだろう」という想いがあったようでしたので、オンライン講座への参加等、前向きに変わり、動こうとされる様子が伝わってきました。
 
 
コロナの感染者数が落ち着いてきた頃から、予定していた会場が使用できない状況を考え、動いていました。
そんな中で気がついたことは、官民問わず、変わっていこうとする最中なんだということです。
メディア等では、迅速に対応、変化できた地域や組織の話が取り上げられますが、実際、ある程度、大きな組織になればなるほど、地方で交流と財政が乏しいところは、変わるまで時間がかかります。
北海道に関しては長い間、国の中央から「どれだけお金を引っ張ってこられるか?」で進んできた地域ですので、どうしても国や東京などが動いたのを見て、指示を待ってという傾向が強くあるように感じます。
そういった意味では、最初に独自の緊急事態宣言を出した北海道知事は大きな挑戦をしたのだといえます。
ただ、その後は、旧来の勢力に飲みこまれてしまっているようですが。
 
 
北海道は、今までのような大型バスで外国からの観光客を集め、その人達に大量に消費してもらう、というモデルから転換する必要があると思います。
とにかく大きなイベントを開催して、「来道してくれる人達を増やす、それで地元にお金が落ちる」というのばかりでした。
中央からの指示と予算、モデルを元に北海道風に変えるのが独自モデルなどと言われていましたが、それではまさに年がら年中、冬の時期が続くでしょう。
知事が独自の路線を打ち出したように、私達も自分達の頭と身体で考え、行動し、真の独自路線を構築していく必要があります。
 
 
コロナによって問題が生じたのではなく、コロナによって見えづらかった問題が表に出ただけ、問題が加速しただけ、という意見に、私も同意します。
ですから、これから消えていくものは、既にその役目、役割を終えていたものだといえます。
特別支援の世界で言えば、どっかの教授、医師が行う講演会は、わざわざ開催地まで出向く必要はなく、すべてオンラインで大丈夫です。
というか、ほとんどの質疑応答が歌舞伎の型みたいに決まっているので、録画したものを各自で好きなときに見るという形態で良いでしょう。
診断も、脳波・採血がないので、アプリでOK。
本来、発達障害はスペクトラムなので、自閉率何パーセントとか、半年おき、1年おきに判定してもらうほうが実態に合ったものになります。
AIは、「支援を利用するために、一応、診断名をつけておくね」みたいな判断はしないのも良い点です。
 
 
長年といいますか、特別支援の歴史そのものなのですが、どうやって支援を増やしていくか、継続していくか、生涯に渡る支援を確保するか、で進んできました。
しかし、その支援自体がリスクになります。
ここ1ヶ月の陽性者のほとんどは、院内感染か、施設内感染。
集団で生活すること、身体接触を伴うことが、大きなリスク要因になります。
つまり、支援ありきの教育・子育て・支援体制では、その人の安全安心を守ることはできません。
自立を目指すこと、発達の課題を一つずつ解決しておくことは、子ども達の安全安心な生活と未来を築いていくことになります。
 
 
私が20代の頃、トレーニングを受けた専門家は、「受ける支援を最小限にしていくこと、できるだけ一般的な人達が利用している自然な形態にしていくことが、私達の目指す支援なんだ」と繰り返し述べていました。
しかし毎度のことですが、太平洋を渡って戻ってくる最中に改変が行われます。
いつの間にか、最小限の支援が、最大限の支援へと変わっているのです。
その悪しき文化が再び外からやってきたものによって壊されていく。
 
 
子育てが自立を目指すのは当たり前。
発達援助が、その子の持つ発達課題をクリアするために向かうのは当たり前。
その当たり前ができていなかったのが、2000年代から始まった発達障害ブームであり、この20年の遠回りだったといえます。
発達障害という一種の商品を作り上げ、消費していたのが、今までの支援者たちの姿です。
これからヒトも、文化も、システムも、すべて淘汰されて行くでしょう。
残ったものが本物であり、変われたものだけが次の時代へと進むことができる。
 
 
一方で、私は変わらないもの、守るべきものがあると考えています。
それは人と人とが時間と場を共有すること。
私は納得するだけでは意味がなくて、実際に行動し、変わることが重要だと思っています。
ですから、私の仕事は時間と場を共有しながら、その人が変わるための援助を行うことだと考えています。
共有することで自然な鼓動を感じ、変化を感じる。
私には画面を通して、これらを感じとることができませんので。
これから益々、非効率で、リスクのある仕事形態にはなりますが、それ以上の価値と結果が出るような仕事ができなければなりません。
 
 
今後、少なくとも、あと1年くらいは、多数の人が集まる講座、身体を動かす講座は難しくなると思います。
それに真の意味で自立をみんなが目指していくことになれば、親御さんの学び方、支援者の学び方も変えていかなければなりません。
一堂に会するのではなく、個人で高めていく。
その手段としてオンラインがあり、そこで補えない部分は、直接、その人から教わる。
今まで以上に、直接会うこと、直接指導を受けることに大きな価値が出るといえます。
そういった意味では、子どもだけではなく、親も、支援者も、自立的に学び、自分の判断で行動していけることが求められます。
 
 
振り返ると、もしかしたら、子ども達が自立できずにいたのは、私達、大人の側が自立できていなかったのかもしれないと思いました。
結局、どっかの誰かが言った「治りません」「生涯に渡る支援」を信じ、それに合わせて行動してきたのも、一人ひとりの大人が自立できていなかった証でしょう。
誰かが決めたこと、誰かが言ったことに従うだけなのは、自立とはいえない。
これからのキーワードは、子も、親も、支援者も、自立です。
 
 
自らで立ち、行動する。
大量生産大量消費からの脱却です。
それは北海道も、特別支援の世界も。
来道してくれた一人ひとりを大切にし、その人の豊かな時間となることを目指していく。
同じように、一人ひとりの子ども達を大切にし、その子達の豊かな発達、成長を目指していく。
なんとかモデルを真似するのではなく、その子独自の成長と学びを創造していく。
これが実現できれば、より良い未来へと変わっていけると思いますし、その未来のために行動していきたいと私は思っています。
 
 
*7月11・12日のすべての予定が決定しました。3府県4家族の発達相談です。そのため、募集を終了いたします。



2020年5月22日金曜日

6月21日(日)『どこでも治そう発達障害の会』特別講座 in 函館について

開催日時があと1か月と迫った中ではありますが、昨日の北海道緊急事態宣言継続を受けまして、会場の管理責任者と話し合いを行いました。
今回の講座には多数のお申し込みがあり、また座学のみではなく、実際に身体を動かして学び合う時間がありますので、会場の使用が難しいということになりました。
本日、講師を引き受けてくださった浅見さん、栗本さんとお話をさせて頂き、その結果、今回の特別講座の中止が決定しました。
 
 
今回の講座は、3月1日の告知からすぐに20名の参加申し込みをいただきました。
参加申し込みのメールの文面には、北海道での開催を喜ぶ声、直接、お二人のお話、指導が受けられることへの期待が綴られていました。
既にコロナの広がりが見られていた時期にもかかわらず、多くの方が期待して申し込んでいただいた事実に、大変うれしく思ったのを覚えています。
函館、道南地方以外の方からも、複数お申し込みがありました。
ですから、その期待に応えられない結果となってしまい、悲しく思っています。
講師のお二人も、函館で開催できないことを大変残念に思われていました。
 
 
先ほど、お申し込みいただいた方、お一人お一人にメールを送りました。
ただお一人だけ、お申し込み時からメールアドレスが変更になった方がいらっしゃるようで、送付できませんでした(ご家族皆さまで午前中の講座にお申し込みいただいた方です)。
このブログを読んでくださると良いのですが…。
 
 
今回の中止を受けまして、講師の栗本さんより参加を申し込まれた皆さまへメッセージを頂戴しております。
 
 
『緊急事態宣言が解除されても以前と同じような生活に戻るのには時間がかかると思います。
今後考えられることとしてオンラインの仕事や授業が多くなるので目の疲労が増えてきます。
そのために睡眠の質が低下することで精神的な問題が発生してくることが予想されます。
今以上に目の疲労をとることが大切になってくると思います』
 
 
5年、10年後、今を振り返れば、時代の転換期にあることがわかると思います。
今後の講座は、オンラインが中心になってくるはずです。
花風社さん、栗本さんは、随時、オンラインでの講座や指導を行っておりますので、是非、今回参加をお申し込みいただいた皆様、チェックしてみてください。
お送りしたメールには、情報が更新されるページのアドレスを掲載しておきました。
 
 
このたびは、『どこでも治そう発達障害の会』特別講座 in 函館に多数のお申し込みを頂き、ありがとうございました。
また全国で、告知や応援をしてくださった皆さまも、ありがとうございました。
そして何よりも、函館での開催を快諾してくださった講師の浅見さん、栗本さん、誠にありがとうございました。
 
 

2020年5月20日水曜日

近畿地方の出張について(7月11・12日)

7月11日(土)と12日(日)に関西方面で出張の発達相談を行います。


既に11日(土)は訪問するご家庭が決まっていまして、12日(日)でしたら最大2家族の訪問が可能です。
もしこの機会に「子どもの発達について確認してもらいたい」「今後の子育ての方向性を一緒に話し合ってほしい」などのご希望がありましたら、【出張相談希望】と件名に書き、メールをください。


また詳細を確認したい方がいらっしゃいましたら、【出張相談問い合わせ】と件名に書き、お問い合わせいただければ、ご説明いたします。
出張相談についての内容は、てらっこ塾ホームページをご覧ください。
ご依頼&お問い合わせ先:メールアドレス


今年の2月、関西での出張を終え、肉まん片手に帰ってきたときには、世の中がこんなにも変わるとは思っていませんでした。
世の中が自粛や制限に溢れ、日常生活がガラッと変わってしまった状況でも、「コロナが落ち着いたら」「一息ついた頃に」というような出張のご依頼、お問い合わせをいただいていました。
すでにいくつか夏の予定が決まっており、私はそのことをたいへん有難く思っています。
今後、どんな未来、社会がやってきても、変わらないのはその子の身体であり、奪われないのはその子の学びと発達です。
それを育むご家族のお手伝い、後押しができればと思っています。
どうぞよろしくお願いいたします!


*7月11日の午前・午後、7月12日の午前のご訪問先が決定しました(5月22日13時)。
*7月11日・12日のすべての予定が決定しました。3府県4家族のご訪問です(5月23日13時)。
 
 

2020年5月18日月曜日

【No.1066】目は口程に発達を言う

マスク姿での対面が通常になりつつある現在、「そういえば、目についてのブログはあまり書いてこなかったな」と思い、今、文章を書き始めています。
ヒトの発達の順序から考えると、鼻が大事で、口も大事です。
生きるために必要な空気と栄養を摂取する場所であり、危険をいち早く察知する場所でもあります。
それと比べると、順番から言って次の段階の発達が目、視覚になりますが、それでもその人の目からは重要な気付きを与えてくれるものです。
 
 
自閉症や発達障害、また子どもの発達においても、「目が合うか」は重要なポイントになります。
一般的な育児書でも、発達障害に関する本やネット情報でも、もちろん、健診の際にも、目がちゃんと合うかが確かめられます。
言葉の発達の遅れと同様に、目が合いづらいことで違和感を感じられる親御さんが少なくないですし、「カメラ目線ができない」というのも親御さんの気付きとして多く聞かれます。
 
 
発達相談の際、お子さんと対面して「もしかしたら、LDがあるかも」と感じることがあります。
何でそう感じるかと言いますと、御察しの通り『目』です。
表現が適切かは分かりませんが、その子の目は私の目を見ているのに、なんだか私の後方を見ている感じがします。
幼少期の長時間のメディア視聴の子も同じように目に違和感が出ますが、それとはまた違った感じもします。
LDの子ども達から感じる「目が合っているのに、焦点があっていない感じ」からは、これじゃあ、文字や数字が見にくいよね、本や黒板などに焦点を合わせるだけで疲れっちゃうよね、という連想が浮かびます。
中には、本人も、親御さんも、この課題に気づいておらず、「自閉症だから、教室の刺激に影響を受けて」「知的障害があるから勉強が苦手で」という解釈で終わっていたケースもありました。
 
 
誕生時、赤ちゃんの目は、はっきり物を捉えることができません。
視力もほとんどないですし、物体を目で追う力も育っていません。
それが生後1か月半くらいから物を少しずつじっと見ることができるようになったり、生後2ヶ月くらいから目で追うことができるようなったりします。
嗅覚や味覚、触覚、聴覚などが胎児期から育てられるのと比べて、視覚は生後の環境の中で本格的に育っていくイメージです。
 
 
この視覚と関係が深いのが脳幹になります。
脳幹の中脳が、視覚の中継所であり、眼球運動の調整(脳幹の"橋"も)を司っています。
脳幹はまさに生きるために必要な役割を担う箇所ですし、ヒトとして、動物として発達の始まりであり、すべての発達の土台です。
自閉症、発達障害の人達に多く見られる課題(嚥下・呼吸・消化・自律神経)は、この脳幹の部分が関係していますので、「目が合わない」という話も、脳幹が発達する時期に生じた問題の一つの形態といえるかもしれません。
 
 
目が合わないお子さんに対して、「こっちを見て」と促したり、目を動かすトレーニングをしたりすることがあると思います。
私のイメージでは、目を動かすことによって脳幹を育てていく感じです。
発達相談においても、過去にそのようなトレーニングをやったという方が多くいらっしゃいます。
しかし、その効果はあまり芳しくなく、何よりもお子さんが「疲れる」「大変」ということを言われます。
 
 
子どもさんの脳は柔らかく、大人のように刺激が脳のある部位へピンポイントには届きません。
たとえば、呼吸を育てると、その呼吸を司る延髄だけではなく、脳幹全体が刺激され、育っていくといった感じです。
そういったお子さんの脳の特徴を踏まえると、大人の脳のようなピンポイントで刺激し、育てるよりも、脳全体をあらゆる角度から、あらゆる刺激から育てていく方が良いと考えられます。
自然な子どもの発達も、そうですし。
 
 
私の今までの実践、経験から言えることは、目が合わない子、LDで特に読むことに課題がある子に対しては、ピンポイントで目をターゲットにするよりも、脳幹全体をイメージして育てていく方が本人の負担が少なく、より早く育っていくということです。
ある幼児さんは、呼吸や嚥下が成長していくとともに、「目が合うようになった」と親御さんがおっしゃっていました。
もう少し大きな就学されたお子さんは、排泄が整うようになってから「読み書きが向上した」ということもありました。
また中には、身体のバランス感覚が良くなったくらいから、書く字のバランスが整い始めたという人もいました。
脳幹と小脳(平衡感覚、運動系)も関係が深いので、小脳の育ち→脳幹の育ち→目の育ちという流れ、相互作用があったのかもしれません。
 
 
発達障害は当然、発達過程に生じるわけで、その現れ方は個人の内的な要因、外的な要因によって多様になるといえます。
ですから、同じ発達障害でも人によって現れ方が異なる一方で、脳幹や小脳など、発達初期に関係する箇所に共通項がみられます。
発達障害がある子ども達に何となく同じような行動、様子が見られるというのは、単に「そういう障害だからね」というのではなく、発達初期に端を発するのは共通しているけれども、脳幹や小脳の機能は複数あるからだと言えるのではないでしょうか。
 
 
よって、この仮説が正しければ、特に子どもさんの場合は、ピンポイントで脳機能にアプローチするよりも、脳幹全体、小脳全体を育てるイメージで援助していく方が良いと考えられます。
脳トレが効くのは、ある程度、成熟した脳、大人の脳であって、子どもの脳の特徴を活かしたものだとはいえません。
目が合わない、もしくは黒板やノートに焦点を合わせるのが疲れる、文字を読むことや書くことに苦手さを持っているお子さんがいらっしゃいましたら、目と関係する脳幹、平衡感覚や運動と関係する小脳全体へアプローチされると良いかもしれません。
カメラ目線ができないのは、その子の人生の大きな支障にはなりませんが、目は発達の入り口ですから育んでいくべき重要なポイントだといえます。
マスク姿が多い今だからこそ、目に注目を。
 


2020年5月16日土曜日

【No.1065】4種類の動きを通して環境と繋がる

その子の発達を堰止めてしまう要因には「原始反射が統合されていない」、つまり、胎児期から1歳前後で役目を終える反射が残っていることが考えられます。
実際、子どもさんによっては、2歳を過ぎてもその反射が頻繁に見られていて、それが終わった途端、ググッと発達が前に進むということもあります。
ですから、発達に遅れがある子を見る場合、原始反射がちゃんと役目を終えているかどうかを確認しますし、その重要性をお伝えしています。
 
 
このようなお話をすると、「原始反射=赤ちゃんの運動」「原始反射を卒業するっていうことは、次の発達段階に移る」といったイメージを持たれる方がいらっしゃいます。
しかし、そうではありません。
お母さんのお腹の中にいるときだって、胎児は自分の意思で動いたり、学習したりすることがわかっています。
決して胎児だから、赤ちゃんだからといって、反射のみで動いているわけではないのです。
 
 
胎児、新生児、赤ちゃんの運動には、原始反射があり、呼吸等の無意識な動きがあり、うつ伏せに寝せると手足をバタつかせるような動きがあり、対象物に手を伸ばすなどの意識的な動きがあります。
大きく分類して、この4種類の運動を通して運動発達、脳の発達を遂げていくのがわかります。
ですから、発達相談において原始反射を確認することは大事ですし、親御さんならそこを育てていくのも大切ですが、他の動きについても確認する必要があるのです。
原始反射はわかりやすく、教科書通りの動きが見られますので、アプローチしやすく、また熱心に取り組まれている親御さんも多いですが、そこだけ育てばいいか、注目すればいいかという話でもありません。
 
 
胎児期からすでに上記の4種類の動きがみられるということは、環境との相互作用によって育つ部分が大きいという意味であり、そうやって発達するようにヒトはできているのだといえます。
なので、発達障害、つまり、発達に遅れがある子が「先天性の障害である」と言い切れないですし、彼らの発達の遅れを取り戻すには4種類の動きに注目し、育てていくことが有効だと考えられます。
「発達障害だからこそ、手が打てない、支援や理解しかない」ではなく、「発達に関わる課題だからこそ、4種類の動きを豊かにすることで治っていく」といえるのです。
 
 
発達障害の子どもたちに共通してみられるのが、バリエーションの乏しさです。
発達相談において私は、上記の4種類の動きをイメージしながら、それぞれどのくらい動きの種類があるかを見ています。
一見すると、運動発達に問題がないと言える子、赤ちゃんの運動発達において気になる点がなかった子でも、動きが単調で、いつも同じパターンで動いていたということがあります。
たとえば、「寝返りの仕方がいつも決まっていた」「その寝返りが変化していかなかった」「前に進むハイハイはしたけれども、後ろに向かうハイハイはしなかった」「立ち上がる一連の動作がいつも一緒」「走り方が単調」などです。
 
 
定型発達のお子さんの場合は、ハイハイ一つとっても、その動き方がバリエーションに富んでいます。
ということは、発達障害と言われるお子さん達への子育てのポイントは、動きの幅を広げていくことだと考えられます。
単に「寝がえりができればいい!」「ハイハイをやり直せばいい!」「走れるようになればいい!」という話ではないことがわかります。
もちろん、基本的な動作、定型である運動発達はできるようになることが基本ですが、そこからどうバリエーションを付けていけるかがもう一歩先に進んだ発達援助だと言えます。
 
 
このブログでも、実際の発達相談でも、私は子ども達の遊びの重要性、必要性を説いています。
これは私が自然派であるとか、意識高い系であるとか、私の趣味嗜好とかいう話ではありません。
一言で言えば、身に付けた基本動作にバリエーションをつけるには遊ぶこと、特に自然の中で全身を使って遊ぶことに勝る方法がないからです。
私が直接的な指導で、基本動作を身に付けさせたり、その方法を教えることはできます。
家の中で、療育機関で、基本的な動作のやり直しはできます。
しかし、決められた環境の中では豊かな刺激と動きを作ることができないのです。
 
 
胎児、新生児、乳幼児は、4種類の動きを通して環境と関わっていきます。
最初は無意識で行っていた運動が、意識してできるようになるのも発達。
意識してやっていたことを無意識でできるようになるのも発達。
コントロールできるようになった動きを組み合わせて、新たな運動ができるようになるのも発達。
子ども達は、自分の身体を通して、自ら動くことを通して、ヒトとして生きるための発達の土台を培っていきます。
動くことで環境とつながり、繋がった環境との間で動きを育て、発達にバリエーションをつけていくのです。
 
 
多くの子ども達と関わってきた中で私が感じるのは、発達障害の中核的な課題はこの動きの乏しさ、バリエーションの少なさである、ということです。
動きが限られていれば、当然、生活の中で、人間関係の中で、社会の中で、うまくいかないことが増えるでしょう。
これらは常に変化し続ける環境ですから。
自立を言い換えると、「変化に対応できるようになること」といえるかもしれません。
「あなたは変化に対応できるだけのバリエーションを持っているの?」が問われるのだと思います。
 
 
動きにバリエーションができるということは、臨機応変な行動ができるようになるだけではなく、獲得した行動と行動を結びつけ、新たな動きを生みだすこととつながっていきます。
それは脳をフル活用し、創造性のある豊かな人生を送ることにもつながっていきます。
そしてそのベースは、胎児期から始まる子ども時代の動きの獲得とそれに伴う脳の発達だと言えるでしょう。
ヒトは4種類の動きを通して環境とつながり、その環境の豊かさを受けて動きにバリエーションを、脳内のネットワークを作っていく。
 
 
原始反射の統合も、赤ちゃんの運動発達のやり直しも、基本的な動作の獲得に繋がるといえます。
でも、そこだけでは発達障害の子ども達の課題を解決したとはいえませんし、発達援助の入り口に立ったとしかいえないと思います。
子ども達が獲得した基本的な動作、動きを、どのように発展させてあげるか、どのようにバリエーションを作っていくか。
そのための環境づくりこそが、発達援助の中心だと考えています。
 
 
そう考えると、やっぱり育てていく中心はその子自身ですし、自然という変化に富んだ豊かな環境の中で遊ぶことが一番です。
自然で遊ぶには、自然に対処しなければなりません。
意識、無意識を問わず、自分が獲得した動きを総動員して、子は遊ぶのです。
自然で遊べるようになった子は変化に対処できる動きと脳を育てたと言えるでしょう。

 
 

2020年5月12日火曜日

【No.1064】乳幼児期に大切な随伴性を伴う遊び

 「行動変容」という言葉を目にすると、そういえば、「行動を変えることが支援であり、療育である」と考えていた集団があったよな、と思いだします。
その昔、私が学生だった頃、当地の支援には視覚支援グループと行動変容グループがあり、お互いをライバル視していました。
視覚支援Gは、「椅子に1分座っていられたら、先生が子どもの口の中にお菓子を入れていたのよ。これじゃあ、動物の餌付けじゃないの!」と言い、行動変容Gは、「狭い衝立の中に閉じ込めて、先生は一言も発しないでカードを渡してたのよ。これじゃあ、人間じゃなくてロボット扱いじゃないの!」という具合に言っていたのを覚えています。
私は学生身分でしたので、両方の親御さんとも関わりがありましたし、両方の施設、支援者とも関わりがありました。
今思えば、学生身分をフル活用し、いろんな体験や人達と出会っていたことは今に繋がる良いことだったように感じます。
 
 
あれから15年のときが流れまして、全国的にみて、当時のようなゴリゴリの視覚支援、ゴリゴリの行動変容というような雰囲気はほとんどなくなったと思います。
よく言えば、いいとこどりで、悪く言えば、つぎはぎの支援という具合に、今は視覚支援を使いつつ、行動変容を目指し、感覚統合をベースに身体を育てていく、みたいな感じでしょうか。
子どもの数だけ正解があり、適切な支援がありますので、「他のアプローチは許さない」などはおかしな話であり、一つの療法で物事が完結できると考えることが間違いだといえます。
ですから、子どもの成長と共に、そのとき、今必要な支援、アプローチを選択していけば良いというか、それしかないと思います。
 
 
昨日は『発達と学習の違い』についてお話ししたので、今日はそれに関連した行動変容について綴っていこうと思います。
今、巷で言われている「行動変容」は、コロナにかからないように、コロナをうつさないように「一人ひとりの行動を変えていきましょう」という意味です。
その一人ひとりの行動を変えるために、変えてほしい側(国・行政)は知識と情報を提供する。
また行動を変えたらこんなメリットがありますよ(給付金)、行動を変えなければこんなデメリットがありますよ(事業者名公表)などを駆使し、変容を促していきます。
 
 
同じように支援や療育で言われている「行動変容」も使うものが違うだけで、アプローチの仕方は一緒です。
たとえば、多動の子がいてなかなか席に座っていられないとします。
その子に対し、席に座ることの大切さや、動きまわることで他者に与える影響を教えていきます。
またタイマーなどを提示し、「1分座ってられたら、チョコをあげるね」とメリットを与えたり、「授業中、離席が5回になったら休み時間なしね」とデメリットを与えたりして多動を減らし、席に座れる時間を長くしていくというのが療育的な行動変容です。
 
 
行動変容でのポイントは、随伴性だといえます。
簡単に言えば、A→Bという具合に、「席に座ったら→お菓子」「お手伝いをしたら→お小遣い」「テストで100点取ったら→ゲーム」と行動に伴う結果が明確に結びついているということです。
確かにこう見ると、ある面では動物の餌付けに見えますし、ある面ではどこの家庭でもやっていることのようにも見えます。
私達大人だって、仕事の半分くらいは我慢料であって、「働いたら→お金が貰える」というような随伴性を伴うからこそ、仕事をしている面もあります。
これが「働いても賃金が発生するかしないかわからない」というような状態ですと、や~めたという人が大勢出てくると思います。
ですから要は使いようです。
 
 
突然、赤ちゃんの話になりますが、乳幼児は同じ行動を繰り返します。
おもちゃを掴んでは落とし、掴んでは落としを繰り返したり、「いないいないばー」を喜んだり、自分が笑うとお母さんが笑うから、さらに微笑み、その反応を得ようとしたりします。
乳幼児は、この繰り返しや何かをしたら同じ結果が引き出せる、みたいな行動、遊びが大好きです。
古今東西、どこの国の乳幼児も同じ傾向があります。
つまり、この繰り返し、反応を引き出す、というのは子どもたちにとって大事な学習であり、その学習形態が随伴性、A→Bということになります。
 
 
乳幼児というのは、まだ感覚や認知の面で発展途上にあります。
特に赤ちゃんは、周囲の情報を得るための感覚が完全に育っていませんし、それを統合して意味理解する脳機能が未熟です。
そんな状態で繰り返す随伴性の遊びは、わからない情報だらけの世の中において、唯一、自分がコントロールでき、結果が予測できる手段となります。
「指を広げると、おもちゃが床に落ちるな」と思っているかは分かりませんが、おもちゃを持っては床に落とすといった行動を繰り返すことによって、自分の周囲の状況がごく部分的であったとしても知ることができる。
同時に、指を広げる(運動)と床に落ちるおもちゃを見る(視覚)が神経ネットワークでつながっていきます。
そうやって複雑な下界の一部を意味ある形で切り取ることができ、運動と感覚を結びつけるとともに、認知を育てていく『随伴性』という学習は、とても意義のある大事な行動だといえるのです。
 
 
自閉症の特性の中に繰り返し行動があります。
何度も何度も、同じ動作、行動を繰り返している子を見かけた人も多いと思います。
確かに不安から繰り返し行動をしている人もいますが、特に子どもさんの場合は、上記の随伴性を伴う学習をしている真っ最中ということもあります。
その見分け方は、やっているときの雰囲気が全然違うのでそこを見れば良いのですが、ポイントは未発達があるかどうか、どれくらいあるかになります。
上記でお話ししたように、乳幼児期に見られる行動ですので、乳幼児さんと同じように感覚が未発達、感覚と運動の結びつきが弱い、全体的に認知の面で遅れが目立つ子が行っているのは、不安だからではなくて学習しているのだと捉えて良いはずです。
不安は取り除かなければなりませんが、本人主体の学習をしている場合は、思う存分、まるで理化の実験のように、「これをやったら、こんな結果になるんだ」という体験を積み重ねてあげられる状況を保障してあげることが大切になります。
 
 
特別支援における「行動変容」というアプローチも、その子の認知、発達段階によっては有効だといえます。
しかし、とても守備範囲は狭いといえますし、本人の状態と不一致が生じると悪影響を及ぼすこともあります。
知識や情報を提供することによって、つまり、本人が理解し、分かった、じゃあ、変えよう、という段階、これができるだけの認知と発達状態の子に対しては、効果的なアプローチの一つだといえます。
また感覚面、運動面、認知の面で多くの課題、遅れがある子に対しては、アプローチの仕方がとてもシンプルなので、本人も理解しやすく、学習方法としては合っていると言えます。
 
 
ただし、「A→B」みたいな段階は、ある意味、乳幼児のレベルなので、それが適切な子、時期は限られていますし、当然、本人の発達が伸びてくれば、不適切な指導になってしまいます。
その辺を敏感に感じられるくらいでなければなりません。
よくあるのが、乳幼児期の発達、認知の段階を超えて子に対しても、継続して「〇〇をやったらお菓子ね」みたいにやってしまうことです。
それが通常になってしまいますと、ご褒美がないとやらない、物事を、人との関係性をも随伴性の中で捉えてしまうようになります。
本当は「A→B」などというシンプルな図式で成り立たない人との関係、人の気持ち、行動を理解できるようになる必要があるのに。
乳幼児期に有効な世の中の切り取り方で社会を見ると、見誤ってしまいます。
 
 
随伴性を伴う遊びは、世の中を知る入り口です。
その入り口付近に立っている子ども達には、どんどんやってもらったらよいですし、教える側もそのアイディアを使うと良いはずです。
でも、あくまでそれは入り口ですし、発達、成長と共に適さなくなります。
支援者に求められるのは、発達を中心としたアプローチの選択だといえます。
アプローチにこだわるのは、子の発達を犠牲にしますね。




2020年5月11日月曜日

【No.1063】学習は繰り返し、発達は待つ

発達は誰のものかといえば、それは本人以外ありえません。
その子が刺激を受け取り、感じることができなければ発達は生じませんし、何よりも自分自身で動き、その刺激を取りに行くことが幅広い発達へと繋がっていきます。
植物のように一点に定まり、常に刺激を受け続けることで成長する存在ではないからです。
受け身で育つ部分は限られています。
ヒトとして、動物としてよりよく生きるためには、意識無意識を問わず、とにかくその人が"動く"ことが発達の始まりだといえます。
 
 
本人が動くことで発達が生じるのですから、周囲の働きかけは二次的なものになります。
一言で言えば、きっかけの一つであり、数多ある環境の中の一つにすぎません。
当然、周囲の働きかけによって育つ部分もありますが、それは受け身で育つ部分であって、植物の育ちだといえます。
動物としての発達、動物としての豊かな生き方には、直接的な影響を与えることはできません。
周囲ができることがあるとすれば、より良い発達のための準備の手伝いと、本人が思わず動いてしまうようなきっかけ作りと、本人一人で創造できない環境への誘いです。
 
 
ですから、周囲が「どれだけ取り組んだか」「時間と回数を費やしたか」ではなく、本人が「どれだけ取り組んだか」「時間と回数を費やしたか」が発達には重要なのです。
時々、発達相談をしていて気になるのがこの点です。
親御さんの中には、自分の取り組みと本人の伸びの差に、感情を乱されている方がいるように感じます。
やったらやっただけ伸びるんだったら苦労はしません。
発達にはタイミングと順序がありますし、当然、遺伝や資質などの内的な要素も関わってきます。
そして何よりも本人が主体となって動かなければ伸びるわけはないのです。
つまり、本人がどれだけ発達の時間、育む時間を過ごせたか、またその時間を豊かに感じられたか、本人のペースでじっくり味わえたかがポイントだといえます。
本人が自分のためだけに育める時間が認められていないご家庭もあるように感じます。
 
 
親心としては「何でもやってあげたい」と思うのは自然なことだといえます。
実際、親御さんが頑張ると、伸びる子もいるでしょう。
でも、得てしてそれは発達というよりも、学習の面の伸びになります。
学習に関しては、やったらやっただけ成長が見られる可能性が高いといえます。
本人の発達段階を超えない学習ですと、繰り返すほど身につきますし、再現することもできるようになります。
繰り返し算数の問題を解けば計算力は上がりますし、毎日ジョギングすれば長い距離を走れるようになる。
 
 
イメージでいえば、神経と神経を繋げて新しいネットワークを築いたり、繋がっている神経同士をより強固なものにしたりが学習。
まだ伸びていない神経を、まだ何ものでもない神経を、ググッと伸ばしていくのが発達。
神経の繋がりが学習で、神経そのものが発達ともいえます。
繋がりを強くしようと思えば、当然、そのネットワークを通る刺激の回数がポイントになります。
神経そのものを育んでいこうと思えば、当然、内的な状態がポイントになり、その刺激も回数というよりも、タイミングと刺激のバリエーションの豊かさがキーになります。
なので、親御さんでしたら「私は今、学習面を育てているのか、発達を後押ししているのか」を考える必要があると思います。
 
 
発達障害のある子ども達は、学習面に障害がある子ども達ではありません。
もちろん、表面的には学習面での課題や遅れが出る子もいますが、それはこの子達の課題の根っこではないのです。
課題の根っこは、生きる土台、動物としての土台の部分に存在する発達の遅れです。
進化の過程と発達の順序を見れば、この土台ができなければ、学習の準備ができていないことがわかります。
学習面に障害があるのではなく、学習に必要な準備の段階に課題があるのです。
 
 
ですから、「取り組んだら取り組んだだけ伸びていかない…」と、そのギャップに悩まれている方は、発達と学習を取り違えている、混同しているのだと思います。
表面にある学習面の課題に対し、繰り返すことで学習させようとしても無理です。
根本が学習の準備ができていないことであり、発達の土台に課題があることですから。
そういった状態で"繰り返し"を行いますと、伸び悩むだけではなく、いびつな学習が出来上がってしまいます。
例えるのなら、手札が足りないのに完成させよと言っているみたいです。
そうなると、真面目な子ほど、足りない手札でどうにかこうにか形を作ろうとしてしまう。
外からは完成したように見えるようにと、外装だけ作って中身がない家みたいな。
すると、ちょっとしたきっかけで、その家は崩れてしまう。
 
 
親御さんが頑張ることは否定しませんし、それが自然な親としての心身の動きなので当然だと言えますが、その方向性を誤ってはいけないと思います。
発達の主体は、その子本人であること。
ですから、親がこうしたいと思っても、親が頑張ってアプローチしようとも、その子自身が刺激に対して意識が向いていなければ、その子自身が動こうとしなければ、動物としての発達の部分は進んでいきません。
 
 
また、その発達に必要なのは、繰り返しの刺激ではなく、豊かな刺激、バリエーションのある刺激のほうです。
「一緒に遊ぶようにしたら、こんな遊びをするようになった」という話をよく聞きますが、実際に遊んでいる様子を見てみると、その遊び自体が学習だったということが少なくありません。
その子の発達状態から見て、その遊びは、おもちゃという道具を使った遊びは早いと言えるのに、しっかり遊んでいるように見える子がいます。
でも、その子の遊び方を見ると、遊ぶ順序・やり方がパターン化されている。
パターン化も、パターン学習という学習です、発達ではありません。
遊びの中の発達とは、本人自らやり方を考え、時間を忘れて没頭しているときに生じているものなのです。
 
 
よって、本人が発達に没頭できるような環境を用意すること、そのきっかけを提供すること、刺激が単調になるときにバリエーションを付け変化を持たせることが、周囲に求められることだといえます。
まさに、これこそが発達保障だと言えます。
学習を保障することも大事ですが、それよりもまず子ども達の発達を保障すること、子ども達が思い思いに自分の発達刺激を味わえること、育んでいけるような時間と環境を確保することが大事だと思います。
 
 
子どもの発達を後押しする親御さんの、さらに後押しをするのが自分の仕事だと考えています。
そのためにアセスメントを磨く必要があるのだと思っています。
子ども達が今、学習しているのか、発達しているのか、そのどちらが必要なのかをお伝えしていく。
子どもさんの何気ない行動、同年齢から見れば違和感に感じる行動が、どんな発達と繋がっているかを確認し、通訳していく。
親御さんも、発達の意義と、その行動と発達の繋がりがわかれば、焦る必要がなくなります。
 
 
繰り返しで行う学習なら、頻度と回数によって達成時期を早めることができますが、発達となればそんなことはできません。
一言で言えば、発達は時間がかかる。
もっと具体的に言えば、学習のように達成が読みづらい。
何故なら、繰り返しになりますが、発達とはタイミング、順序、何よりも本人が満足するか、やりきるかにかかっているから。
心地良くやり切れる環境は準備できるが、準備したからといって、その通りに事が運ぶとはいえません。
環境を準備するのは周囲であり、発達するのは本人だから。
 
 
自分もそうかもしれませんが、世の中、待ちきれない人が多くなっているような気がします。
パッと調べれば答えが出る、ワンクリックすれば欲しいものが届く、という生活に慣れてしまったからだと思います。
また親御さんの中にも、常に刺激を欲しているタイプの方、あれもこれも手をつけてないと落ち着かないタイプの方がいらっしゃいます。
そうなると、必然的に発達に関しても、すぐに結果が欲しくなる。
学習に関しては「短期間で効率よく結果を出す」と相性が良いですが、発達に関しては「無期限(本人次第)で非効率的(無駄や退行、遠回りが大事)で徐々にではなく突然結果が出る(ドカン)」という具合なので現代人とは相性が悪い。
ですから、子が発達するのを待てるためのサポート。
 
 
我が子が今まさに育てようとしているという姿が読みとれれば、ぐっと待つことができると思います。
同時に、我が子のために費やしたいエネルギーを子が育つための環境の方へ、発達ではなく学習の方へ導いていく。
子ども達の発達を保障するということは、子どもを信じ、子どもの発達する力に委ねるということだと考えています。
親御さんに求められることは、我が子の未来を想像しながら温かく見守ることと、本人がやりきるまで待ってあげることだと思います。
 
 


2020年5月9日土曜日

【No.1062】努力は裏切る、生きているから

今日も午前中から子ども達の元気な声が聞こえてきます。
場所によっては、「外で遊ぶなんて!」という声があるようですが、私の住む地域では比較的温かく子ども達を見ている大人が多いようです。
厳しい冬のあとの春ですから、十分な陽を浴びながら外で遊ぶことは、免疫力をあげ、心身の健康に繋がるのだと思います。
子ども達にとっては人生の土台作りの時間なので、「コロナにはかからなかったけれども、他の病気に患いやすくなった。発達の土台作りができなかった」なんてことがないようにしてもらいたいです。


「自分は頑張って自粛しているのに、〇〇はけしからん!」という具合に他人が気になる人が少なくように感じます。
日本人は特に輪を乱すこと、乱れることを嫌いますし、「努力が実を結ぶ」「失敗は努力が足りないから」と考える傾向がありますので。
どのように捉え、考えるかは人それぞれであり、別にとやかく言うつもりはありません。
しかし個人の感情と実際の感染リスクは分けて考える必要があると思います。
自粛している人は絶対感染しないか、感染させないかといえばそうではないでしょうし、むしろ外で過ごすほうが三密にはなりづらいといえます。
そもそも家で自粛することができない医療現場の人たちや治安や物流を支えている人達も大勢いますし。
ですから自分の心を乱す根っこは、他人の行動ではなく、自分自身の不安や努力と結果を強く結びつけるような個人の考え方なのだと思います。


発達相談の仕事をしていて、同じような経験をすることがあります。
親御さんが頑張って子育てをされた結果、子どもさんの多くの課題がなくなった、発達の遅れを取り戻すことができた、「一生福祉」と告げられた子が自立して生活するまで育った、などのポジティブな変化が見られる家庭があります。
その一方で、親御さんが一生懸命子育てや取り組みをされているのに、それがポジティブな変化として子どもさんに表れない家庭もあります。
じゃあ、ポジティブな変化が見られない家庭は努力不足か、やり方が悪いのか、愛情のかけ方が間違っているかと言えば、まったくそんなことはなく、むしろ、なかなかポジティブな変化が見られない親御さんのほうが一生懸命行動し、深い愛情をかけていることを感じる場合も多々あるのです。
「ポジティブな変化が見られない」
「発達・成長してはいるけれども、劇的に変わるぐらいまで、もっといえば、定型の子達とは近づいていかない」
そんな親御さん達の言葉からは、ご自身を責め、自らの手で傷つけている雰囲気を感じます。


「発達障害が治るのは分かった。でも、うちの子は治らない。きっと自分の育て方に問題があるのだろう。やり方がまずかったのだろう。取り組み始めたのが遅かったから。あのとき、私がああしたから…」
私も二人の子の親でもありますので、こういった親御さんの葛藤を重ねて感じることができます。
本来、ご自分を責め、自ら傷つけるべきところではないところで苦しんでいる親御さん達は少なくないと感じます。
「やったらやっただけ育つ」「時間をかけただけ、お金や労力をかけただけ育つ」
発達とはそんなに単純なものではありません、当然子育てもそうです。
ですからご自身を責められている親御さんにお伝えしたいのは、「子どもの発達・成長において親も家庭も最も大切で影響のある環境だといえるが、あくまで子が育つ環境の一つであり、決定要因ではない」ということです。


気持ち的には「頑張った家庭の子がより良く育つ」というほうがすっきりしますが、まったく手をかけないでほったらかしている家庭の子が置かれた環境で自らたくましく育っていったという不都合な真実もあります。
子が育つ環境は多様であり、本人の内側にある育つ力、発達する力は一人ひとり違っています。
当然、遺伝子、資質も違いますし、課題の大きさ、複雑さも違います。
なので、あっちの子が良かったことがうちの子には当てはまらないこともありますし、親御さんが一生懸命行ったことが実を結ばないこともあります。


取り組みの結果がポジティブな変化になるとは誰も証明ができないことです。
子どもさんの発達に他のことが大きな影響を及ぼしていて、実際は気がついていないこともあるでしょう。
たまたまそのタイミングと取り組みがあったということもあるはずです。
そもそも子どもさん一人ひとりの内側には育つ力、発達する力がありますので、その子の変化はその子自身が決めていくのだと思います。
親という一つの環境ができることは、虐待などで発達を阻害する以外は、その子の発達をそっと後押しするくらいなものです。


子の土台から、根っこから、他人がすべて変えよう、変えられると思うのは、子どもという自分とは異なる一人の主体を信じ切れていないような気が私にはします。
子どもには、その子の発達の流れがあり、人生がある。
その発達の流れを加速させたり、人生を豊かにと彩りを加えたり。
それが現実であり、一つの環境としての自分ができることなのではないでしょうか。
ですから、「定型の子まで追いつけなかった」「支援級から転籍できなかった」「知的障害が残ったまま」という事実を自分のせいにも、誰かのせいにもする必要はないと思います。


子育てで大事なことは、その子の発達を後押しし続けることであり、二度と戻ってこない今日一日を大切に、家族の思い出、幸せな時間を作っていくことです。
それなのに他と比べ、また自ら自分のせいだと苦しむのは間違っているといえます。
どんな結果になろうとも、そのとき、そのときでベストだと思う選択、行動ができていれば、それでよいのです。
私の今までの発信の仕方、仕事の仕方がまずかったのだと思います。
一部の親御さんに、「やれば治る」「やれば問題が解決する」という印象を強く持たせてしまいました。


実際は、「やれば治る部分があり、その部分を後押しする方法がある」ということです。
確かに支援校だった子が一般就労したり、支援級から普通級へ転籍したり、幼児期に診断受けた子が普通の子として生活できるようになったりするケースがあるのも事実です。
当然、そういった子ども達の家庭、親御さんの影響は大きいと言えます。
しかし、それでもやっぱり最後はその子自身で、その子の資質、発達する力と意思だと感じます。


また事実、健常域まで育った子達の多くは、メディア視聴の影響で一時的に自閉症様が出ていたとか、ある発達課題が育っていなかったために以降の発達に遅れが見られているとか、そもそもが障害じゃないよね、誤診じゃないの、という子です。
そういったお子さんに対しては、積極的に治す方向で提案していこうと思います。
もちろん、特性を持ったまま、健常域までいく子もいますので、『発達の土台を育てる』『未発達ややり残しを育てていく』という方向・アイディアは同じです。
だけれども、やっぱり自分の仕事の核は家庭支援であり、親御さんが我が子のより良い発達を願い、家族として成長していける後押しだと考えています。


そう考えると、自分が磨くべき、追及していくべき仕事は、見たて。
その子の発達の流れ、物語を紡いでいき、どの時点で本来の流れからずれたかを見極めていく。
どこの課題が表に現れている課題となっているかを確かめ、それをその子自身で育てていける環境を提案していく。


「努力は裏切らない」と思いたいのは自然なことです。
でも、子育ては違います。
だって、子は生きているから。
たとえ生まれたばかりの弱々しい赤ちゃんだって、自分の人生を歩み、自分の命を全うしているのです。
その瞬間を思いだすことが、ご自身を傷つけているその手を止めるきっかけになるかもしれません。



2020年5月7日木曜日

【No.1061】シンプルな発達相談、援助を目指して

子ども達は、大人から見れば「無意味」「無駄」と思えるような行動をするものです。
もしかしたら「名の無い遊び」というのが、それにあたるかもしれません。
大人というのは無意識のうちに行動の意味を問い、その意義を求めます。
何故なら目的を持ってから行動するのが大人であり、無駄なものを排除できるようになることが大人になるということですから。
 
 
子どもが何故、その行動をするのかといえば、「やりたいからやるんだ」になると思います。
子ども自身、その活動の目的、意味を見定めてから行動するわけではなく、「ただなんとなく」「気が付いたらやっていた」というのが自然なことだといえます。
そんな姿を見るたびに、子どもが内側から突き動かされているように私は感じます。
そうです、それこそが各々が持つ発達する力。
 
 
子どもが内側から突き動かされて行動しているとき、つまり一見すると無駄で意味や目的のない行動をしているときが発達に一番近づいているときだと考えることができます。
発達相談において「この行動は止めさせたほうが良いですか?」と訊かれる行動のほとんどは、その子の発達にとって必要なものです。
自閉症や発達障害というメガネを掛けてみると奇妙で心配になる行動も、今まさにその子自身で育てている最中なのです。
ですから、その子が主体的に繰り返す行動、没頭する行動は止めるのではなく、内側から突き動かす力がなくなるまで発散させたほうが良いと思います。
 
 
どんな専門家であったとしても、その子の内側に入ることはできず、「たぶん、これが良いだろう」ということしかいえません。
実際、専門家の言う通りにして子に良い影響が見られたとしても、それがベストであるか、それが本人が今望んでいるものなのかはわからないのです。
大人はどうしても目的が先にあり、効率的に物事を行おうとします。
子どもに良い変化があると、「もっともっと」になるし、「あれもこれも」になる。
そうなると、その子の発達に余白がなくなっていきます。
 
 
ある幼児さんのご家庭は毎日、日課のごとく、あれもこれもをやっていました。
実際、その様子を見させてもらうと、親も子も苦しそうにやっているのがわかりました。
そして何よりも、やったところは伸びるけれども、それ以外が伸びていないのがわかったのです。
つまり、親に合わせて発達していた。
本来、発達とは本人が主体的に行うものなのに。
内側から突き動かされて動いていると、大人が意図していないところから子どもは発達するものです。
発達をコントロールすると、部分的な発達になる。
「部分的な発達か、全体的な発達か」は見るとわかるものです。
 
 
またある小学生の子は、「いろんなことをやらされるのが嫌だった」と振り返っていました。
当時は表現できなかったけれども、ついていくので必死で余裕がなかった、苦しかったと言います。
確かに、この子はいろんな発達課題をクリアし現在に至りますが、残念ながら愛着の部分で課題が残ったままです。
やらされている限り、やるとやらすの間柄である限り、その関係性に安心感は育たないのです。
ここ数年、人数は少ないですが、発達の課題はクリアしたけれども、愛着形成に課題があるケースが気になるようになってきたところです。
 
 
大人は知識を集め、情報を集めるのは大事なことです(そして上手に情報を捨てられること)。
しかしそれは大人側に必要なことであって、子どもが必要としていることではありません。
子が必要としているのは、誰にも邪魔されず、存分に自分の発達課題をやりきれる環境です。
現在、発達障害が治り切らず大人になる子が多いのは、大人の視点で効率的にあれもこれもをし過ぎているからだといえます。
大人が子どもの余白を奪っていると言われても仕方がないのです。
子どもが無駄なことをしていると、「他のことを」とつい言ってしまいがちです。
無駄、遠回り、寄り道、名も無い遊び、退行こそが、その子の発達そのものなのに。
 
 
今回の新型コロナの影響で、子ども達に余白が戻ってきました。
いろんな方から今どのように過ごしているかといった連絡がきますが、戻ってきた余白を子ども達が伸びやかに使っている様子が伝わってきます。
中には、急に幼い子がやるような行動が見られて心配される親御さんもいますが、「ああ、本人の中ではそこがやりきれていなかったんでしょうね」「そこが違和感として残っていたんでしょうね」というお話をしています。
私を含め大人が「今、これが大事」と考えていたところが、実際は違っていたというのがよくわかります。
原理原則の通りにいかないことが、その子が自分で育てたいところを育てている証拠だといえます。
休校、休園の間で、部分的な発達をしていた子に全体的な発達が見られたということが多くあり、私は嬉しく思っています。
 
 
現在、私は過去の本を読み返したり、新たな分野の勉強をしたりしています。
そんな中で思うのが、「今は必要のないものを減らしていく時間である」ということです。
子ども時代、多くの課題を持っていましたが、それがクリアされ、今自立して生活している若者たちがいます。
その若者の親御さんに目を向けると、本当におっしゃることがシンプルです。
「食べることが何よりも大事だから、偏食だけ直す」
「とにかくどんな仕事でもいいから、自分で稼げる子に育てる」
「ひと様に迷惑をかけることだけなくしていく」
そんなシンプルな言葉で子育てをされていました。
そういった姿からわかるのは、譲れないポイントだけ押さえておいて、あとは本人に任せる、委ねる姿勢です。
 
 
自立して生活している若者たちを見ると、結構、特別なことはされていなかったし、あれもこれもじゃなかったと思います。
私が思うに、そういった若者の親御さんは切り捨てるのが上手。
必要な部分は頑として譲らず、それ以外は子に任せていた親御さんが多いと感じます。
私も一度立ち止まり、情報や知識を整理していると、本当に必要なものは限られているのがわかりました。
発達とは、とてもシンプルな事象であり、その発達の大部分は子が行い、子に委ねられるもの。
援助を最小限にし、子どもさんに任せる部分をできるだけ多くすることが、私が求めていく仕事のあり方ではないかと考えるようになっています。
 
 
「何を育てたいか」「どこから育てたいか」は、その子しかわからないものです。
今まで「発達課題のできるだけ根っこのほうを掴むのが良いことだ」と考えていましたが、本当にそうだったのか、その子の発達する力を私が信じ切れていたのか、改めて考えています。
私自身が発達援助に溺れていたような気すらしてきます。
学校に行かなくても、幼稚園や保育園、療育機関に通わなくても、発達している子ども達がいる。
何か特別なことをしたわけではなく、ただ子どもに余白が戻っただけなのに。
もしかしたら、その余白こそが内なる発達する力を発揮する条件なのかもしれません。
「子どもを信じ、委ねられる部分が多くなるほど、発達相談、援助はシンプルになる」
私はそこを目指して歩んでいきたいです。
 

 
 

2020年5月6日水曜日

【No.1060】学力に差ができるのは自然なこと

「地域ごとの学校再開では、子ども達の学力に差ができて不公平だ」
このような発言があることにびっくりしました。
日本は南北に長い国で、地域によって実情は異なるはずです。
リスクが小さい地域、対策がとれる地域から、どんどん学校を再開して勉強することの何が悪いというのでしょうか。
コロナが完全にこの世からいなくなることなどないのですから、どこかで人が判断しなければなりません。
 
 
日本人は遺伝子的に周囲と歩調を合わせる、乱れるのを嫌う人達が多いと言われています。
ですから、「ある地域だけ学校が始まるのは良くない」「学力の差ができるのはまずい」などと考える傾向があります。
こうやっていつまで経っても、ある意味、できない人に合わせたラインづくりをしているから、本来伸びる力を持った子ども達がその資質を活かせずに没落していくのだと思います。
学力においては最低限のラインだけ決めておき、あとは各々の興味関心、資質が最も活きるような学びと成長を遂げていけば良いはずですし、これからはそのように変わっていかないといけない時代だといえます。
 
 
本来、特別支援教育が率先して個人に合わせた教育をしていなければならないところだと思います。
しかし日本人のメンタリティーがそうさせないのでしょうか、「タブレット学習は他の子に影響が出る」だとか、「一人だけ交流学習の時間を増やすのは無理だ」とか、子のニーズよりも、集団の輪を重視することがあります。
過去には「一人だけ普通級に転籍したら、他の家庭から不満が出るから、小学校のうちは…」などと言われたケースもありました。
支援級においても、みんなが同じプリントで同じペースで学習している様子を見聞きすることが多く、「普通級で行う授業をただゆっくりにしたのが支援級」というのがまだ少なくないように感じます。
これだったらタブレットなどを使い、個人で、家庭で学習を進めていったほうが良いと思いますし、それが可能なら支援級ではなく、普通級に在籍したほうが良いと思います。
 
 
以前から私は飛び級と留年に賛成ですし、支援級はいらないと考えています。
これから先の社会を考えても、というか今の社会を見れば、いろんな人が存在し協働しているのが自然な状態です。
幼少期につけられた障害名や一時的な症状によって教室が分けられてしまうことに違和感を感じます。
そうやって子ども時代の大部分を分けられた子が、どうして社会の一員として主体的に生きていくことができるでしょうか。
いろんな子ども達が同じ場所で学び、成長していくのが自然な姿。
飛び級や留年があれば、習熟度に合わせて学ぶことができ、今のような分断は必要なくなるはずです。
発達援助と同様に、発達の遅れをそのままにしておくから障害、生きづらさになるのであって、学習においても習得できない部分をそのままにして年齢だけで学年が上がってしまうから途中でドロップアウトしてしまう子ども達が出てきてしまうのだと思います。
 
 
とはいえ、公教育ですので一気に変わっていくことは難しいでしょう。
だとしたら、今の子ども達は現実的な路線で考えていく必要があります。
支援級においては、その少ない人数の中での一番遅れている子に合わせた学習内容に設定されがちです。
ですから勉強ができる子は家庭学習で力をつけていき、同時に普通級で学べない理由に当たる発達の課題を育て、転籍を目指していくことが大事だと思います。
発達障害の子ども達においては、支援級在籍理由が「学習の準備が整っていない」ということであり、その課題の根っこは胎児期から2歳前後の間にある発達過程のやり残しになります。
そのやり残しをできるだけ早い段階で、できれば就学までにクリアしておくことが望まれます。
「発達障害の診断を受けたから学習に支援が必要」ではなく、「現時点では学習するのに支援が必要なため、その準備を整えていく、発達を後押していく」というのが真実です。
 
 
「うちの子は5年生なのに、まだ1年生くらいの学力」などと言われる親御さんがいますが、その4年の差が問題なのではありません。
大事なのは何年かかったとしても、その1年生の学力が2年生の学力へ進んでいくこと、できれば4年生の学力を習得することです。
知的障害のある若者たちとも関わりがありますが、学校に通っている間だけが学力を身に付ける期間ではなく、成人後、就職後も、前に前にと学習できる準備と実際の学習を通して4年生の学力を身に付ければ良いのです。
そう考えると、気がラクになる親御さんもいるでしょうし、実際、学力を身につけ自立してける若者ももっと増えていくと思います。
 
 
結局、シンプルに「我が子に自立してもらいたい」→「小学校4年生の学力を身に付けさせる」と考えられないのは、私達の内側にある日本人のメンタリティーが許さないからだといえます。
小学校では小学校の学力、中学校は中学校の学力。
そんな考えにとらわれているから、それについていけない支援級の子ども達の教育がおざなりになり、また教育する目的を見失っているように感じます。
なんとなく「自立」「就労」などとは言っていますが、それに必要な小学校4年生の学力をしっかり身に付けさせようとしていない、家庭では学習の準備を整えていない状況が見受けられます。
せっかく特別支援教育というシステムがあるのだったら、一貫して「とにかく小4の学力」という具合に12年間を続けていければいいのになと思います。
 
 
「アクティブラーニング」などの横文字や専門用語の数々は外向けの見せるための言葉であって、子どもの視点に立った言葉ではありません。
物事を突き詰めていくと、シンプルになるものです。
ヒトは何故発達するかといえば、生き抜くためです。
生き抜くとは、その生まれ出た世界に適応すること。
どんな環境に生まれ出るかがわからないために、ヒトは余白を持って生まれてきます。
余白を埋めていく作業が、まさに発達です。
ですから、より良く発達するためには自然の刺激を受け、自然の中で遊ぶことが必要になります。
自然の中で思いっきり遊んだ子は道具が使えるようになり、それが学習の準備が整った合図。
この社会で自立して生きていくには最低限小学校4年生の学力が求められます。
そこさえ習得できれば、あとは本人の資質に合わせた学び、成長を続ければ良いのだといえます。
 
 
自立に必要な最低限の学力をつけることなく、「子どもの資質を伸ばす」「個性を活かした学びを」などとはおかしな話です。
特別支援教育がいくら「個に合わせた教育」を掲げても、家庭生活の中で土台となる発達が育ちきっていなければ、横並びの教育をするしかなくなります。
特別支援が理想な姿へと変わっていけないのは、家庭の責任であり、そんな家庭にしているのは未発達と障害の区別ができない専門家、支援者たちです。
自然の中で、遊びの中で育っていくものを、難しい言葉を使って、あたかも特別な方法があるかのごとくするのは、そうしないと商売にならないから。
時間がかかっても、最終的に育てばよいだけなのに、日本人の横並びメンタルティーにつけこんで、同年齢の子ども達ができることができないとまずいような雰囲気を出し、支援の道へ引き込んでいく。
 
 
子どもの発達は短距離走ではなく、長距離走。
早くゴールするのが良いのではなく、最後まで走り切ることが大事です。
チェックポイントがあって、そこを確実にクリアしていく。
その先に自立というゴールがあるのだと思います。
どんなペースで走るかではなく、最後までゴールを目指し歩を進めること。
日本人が気づきづらい一面は、現在のような一斉に立ちどまったときに見えてくるものです。



2020年5月5日火曜日

【No.1059】環境に適応し、生き残るためにヒトは発達する

北海道も桜が満開になり、その桜も少しずつ緑の葉っぱが目立つようになってきました。
北海道の春は、桜だけではなく他の花々も一気に咲き始めるので、見るものを楽しませ、やっと心地良い季節がやってきたなと思わせてくれます。
全身に陽を浴び、目や耳、鼻で春の訪れを味わう日々です。


自然の中ほど、子どもの感覚を育てるのに最適な場所はありません。
特に日本には四季がありますので、その四季を感じる行為自体が何よりの発達援助になります。
発達相談において感覚系の発達の遅れ、課題を挙げられる親御さんが多くいらっしゃいますが、ほとんどのお子さんは「自然の中で思いっきり遊びましょう」で私の助言は終わります。
何も特別なことは必要ありません。
子の本能に、発達する力に、自然の持つ豊かな刺激に委ねれば良いのです。
ある意味、委ねきれないからこそ、発達の遅れが遅れたまま、未発達が育たぬままになるのだと思います。


ヒトはどうして感覚面を進化させたか、発達させるかといえば、生き残るためです。
生き残るとは、つまり環境に適応すること。
ヒトが適応する場所とは、家の中でも、学校の中でも、会社の中でもなく、自然の中です。
学校で勉強ができるようになるために進化したわけではありません。
職場で働くために感覚面を発達させるのではありません。
自然という常に揺らぎと変化、五感への刺激、生命への危険が存在する環境へ適応するために、私達はいろんな面を発達させるのです、発達させる必要があるのです。


ですから人間が作った環境では発達が生じにくい。
より効率的に学習や仕事をするために不安定さを排除したからです。
当然、自然の中にある危険も遠ざけていきました。
社会の発展とともに、感覚刺激・発達刺激は乏しくなったのです。
私達の親の世代、その親の世代までは、特別な支援などと言う必要がなく、まさに自然の中で自然に育っていったのだと思います。
現在、発達の遅れが遅れたままの子ども達が増えているのは、まさに自然の中で自然に育っていたという機会を失ったからだといえます。


発達の遅れを訴えられ、相談に来られるお子さんのほとんどは、この機会を失っているだけの子ども達です。
何かかっこよく専門用語などを使いながら、あたかも高尚な技術、助言であるかのごとく示すこともできますが、それをやるのは二流、三流がやる仕事です。
とにかく本人主導で、その子の想いのまま、時間を忘れるくらい自然の中で遊び切れば、多くの未発達、発達の課題は育っていくものです。
ヒトの進化、発達という本質から見れば、至極当たり前の話。
自然に適応するための"発達"なのですから、その自然に身を任せればよいのです。


しかし一方で、自然の中で遊んでも育たないお子さん達がいるのも事実です。
毎日、外で遊び十分な刺激を浴びているのに感覚面の発達が滞っている。
そんなとき初めて仕事になります。


感覚面の不具合は、感覚器だけの問題ではありません。
たとえば皮膚で刺激を受け取る。
でも受け取っただけでは感じることができないのです。
つまり、皮膚で受け取った刺激を脳まで届ける必要がある。
そして届いた刺激を脳が認識することで感覚というものが成り立つのです。


自然の中で十分に刺激を浴びているのに育っていかない子は、この刺激の移動に躓きが存在する場合があります。
お子さんとお会いしたとき、お子さんの首に違和感を感じると、感覚系の滞りを私は連想します。
首は感覚刺激の通り道。


首に違和感を感じる場合は、おっぱいの吸いや首の据わりなどを確認します。
私達は当たり前のように首を動かしていますが、首が自由自在に動くということは、脳が指令を出せている証拠です。
脳と首が神経でつながっているからこそ、自然な首の動きができます。
ということは、自然な首の動きができなければ神経の繋がりに課題があり、当然、末梢神経から伝わってくる刺激が首を介して脳まで届かないということになります。
そういった場合、いくら自然の中で刺激を受けようとも、感覚系の課題が育っていきません。


感覚系の発達の遅れ、未発達は、「刺激が乏しい」「感覚器の問題」「首(背骨も)の問題」が考えられます。
2/3は自然が育てる。
残りの首や背骨の問題は、親御さんの促しが必要ですが、それも遊びを通して本人が育ててしまうことのほうが多いと言えます。
よって、子の感覚面の育てたいと思えば、それが障害特性などと誤認識し育てることを諦めないようにするだけ。
あとは本人の内なる力と自然の刺激に委ねるのみです。
何も難しいことはなく、ヒトがなぜ、発達しなければならないかという原点に立ち返れば大丈夫。


せっかく良い季節がやってきたのですから、自然の中で過ごしてみる。
せっかく日本には四季があるのですから、その四季を全身で味わってみる。
特別支援と聞くと、何か特別なことをしなければならないと思いがちですが、まったくもってそんなことはありません。
特別な方法も、特別な知識も、特別な支援も必要なし。
目の前にいる子の発達をどうしたらより良いものにしていけるか、豊かなものにしていけるか。
その答えはとてもシンプルなものなのです。


「環境に適応し、生き残るためにヒトは発達する」
現在で言えば、自然の中でよりよく適応できる人、適応できる発達を遂げた人が、学校でより良く学び、会社でよりよく働き、社会で自立して生きていけるということ。
この順番、流れさえ間違わなければ、多くの子ども達が将来、自立した人生を送ることができます。
ヒトが発達する意味、ヒトの発達の順番・流れを押さえると、子育ての方向を間違うことはないと思いますし、他の子と比べてゆっくりでも最後には発達課題をクリアしていると思います。




2020年5月3日日曜日

【No.1058】今まさに我が子の発達が心配になっている親御さんへ

このブログを読んでいる方の中には、我が子が「自閉症かも」「発達に遅れがあるかも」「なんか他の子とは違う感じがする」といった想いを持つ人がいることでしょう。
そういった人達に向けてメッセージを送りたいと思います。


多くの親御さんはスマホを操作し『目が合わない 自閉症』『言葉が出ない 発達障害』などといった気になるワードを検索画面に入力したと思います。
その結果はすさまじい数のサイトがヒットしたはずです。
専門家やその組織が発信しているもの、先輩ママ達が書いたブログなどが上位に並んでいて、それを喰いいるように読まれたことでしょう。
そして皆さんはどんな想いが湧いてきましたか?


読んでいてどんどん暗い気持ちになっていった人、将来に対する不安が増してきた人、こうしちゃおれないとすぐに公的な機関へアクセスした人が多いのではないでしょうか。
どのサイトも、「受け入れることが大事」といったメッセージが込められています。
しかし、ちょっと待ってください。
知らず知らずのうちに、既に我が子が「自閉症である」「発達障害がある」といった考えで進んでいないでしょうか。
本当に、あなたのお子さんは自閉症?発達障害?


中には1歳、2歳、3歳などという低年齢で既に診断を受けた子もいます。
でも診断の際、脳画像を撮りましたか?採血しましたか?家庭での様子と成育歴をしっかり確認し結論が出されましたか?
現在の医療・科学では、自閉症や発達障害を生物学的に診断できません。
他の病気や障害のように、脳画像や血液の数値ではわからないのです。
ではどうしているかといえば、「こういった症状や行動が見られる」という具合に文章で書かれた診断基準というものがあり、それに当てはまるか、そこに記載されている行動があったかで診断がされます。
ですから、医師の問診と成育歴の確認、診断室での様子によって診断名が決まっていくのです。


「医師が診断したことだから」「専門家が言うことだから」と考えられる人とはここでお別れです。
ほとんど目新しい情報を提供できずに申し訳ございません。
もし我が子が本当に自閉症だろうかと疑っている方、診断を受けたけれども気持ちがモヤッとしたままの方がいらっしゃいましたら読み進めてみてください。


自閉症や発達障害は『脳の機能障害』と言われている時期が過去にはありました。
しかしながらそんな時代であったとしても、誰一人、脳の機能障害を確認した人はいなかったのです。
「脳の機能障害である」と言うわりに、今と同様、脳画像にそれが共通の問題として明確に現れ、証明できていたわけではなかったためです。
「自閉症の人達は、脳になんらかの不具合がある」といった段階から現在は「神経の発達に不具合」という段階へと認識が変わりました。
自閉症の症状、発達障害の現れ方は一人ひとり全く異なるということは、脳のある部位に共通して問題があるというよりも、神経の発達の仕方・つながり方が影響としていると考えるほうが妥当だといえます。
脳以上に、一人ひとりの莫大な数の神経を見ていくことは難しいでしょうし、いまこの瞬間も休むことなく変化し続ける神経をすべて捉えることは不可能だと思います。


特に年端もいかない子どもさんの親御さんは、その診断名を疑うことから始めたほうが良いと思います。
スマホの検索画面に「自閉症 耳ふさぎ」などを入力すると、自閉症で耳ふさぎをする子の情報が目の前に現れてきます。
でも「自閉症で耳ふさぎをする」のと、「自閉症"だから"耳ふさぎをする」というのは違います。
定型発達の子でも、幼い時期なら特に耳ふさぎをする子は当たり前にいます。
何故なら幼い子はみんな発達の途中であり、未発達の部分を多く持っているから。
耳ふさぎは聴覚や前庭覚などが育っていないときに見られる行動です。
また遊びで耳ふさぎをする子もたくさんいます。
耳ふさぎは異常行動ではありません。


このように大事なことは「何故、その行動をするのか?」です。
その瞬間、子どもの発達過程のひと時を切りぬいて「これが異常だ」「これが正常だ」という判断はできませんし、それ自体あまり意味のないことです。
その状態や様子、行動や症状がいつまで経っても変化していかないときに初めて「障害」という言葉と概念が使われるのだといえます。


そもそも「障害」とは何でしょうか?
現在も障害を数値化して表すことはできません。
画像のように客観的な事実として確認することはできません。
じゃあ、「障害」とは医師や専門家が決めるかどうかだといえるのでしょうか。
それは違うと私は思います。


発達相談で多くの子どもさん達と関わってきましたが、困っているように見えない子が少なくありません。
健診で、専門機関で自閉症や発達障害を指摘されたと言われる親御さん達。
確かに、その時点でなんらかの課題や遅れはあるでしょう。
でも、子ども達が困っているわけではない。
同年齢の子ども達と同じように発達は前に前にと進んでおり、家族との生活、その子の遊びを楽しんでいる様子が見られる。
それのどこが問題なのでしょうか?問題があるといえるのでしょうか?


「このままいくと、将来困るよ」という専門家の忠告は、全国どこでも行われています。
でも専門家は未来を視る占い師でも、霊能力者でもありません。
第一、神経発達に課題があるというその課題すら見ることができていないのです。
現状の課題を確認できていない人に、その子の1年後、5年後、10年後がわかるのでしょうか。
その子が今後、どのような神経発達を遂げていくかは、どのような環境で、どのような刺激や体験をしていくかで変わってきます。
そのすべてが予測できるとしたら、その人の言う「将来困るよ」はその通りになるでしょう。


親としたら、子の未来・将来を心配するのは当たり前です。
しかし生まれて数年しか経っていない子の未来など、その後の子育て、環境、人との出会いによっていくらでも変わってきます。
たった数年で、子どもの未来が決まるわけはないのです。
ですから、その「障害」というものをいろんな角度から疑いましょう。
そして目の前の子の未来がより良いものとなるように、今日一日を大切に頑張っていけばいいのだと思います。
親だって、子の年齢と同じだけしか親になっていません。
だから一緒に子も、親も育っていけば良いのです。
完璧な子育てを目指すよりも、子と自分の成長、未来を否定しないことが大事だといえます。


子どもの声を聞いて、今困っていることがあれば、それに対処していく。
こういった後押しをすれば、この子はより良く育っていくと感じる方向へ進んでいく。
その積み重ねが未来を変えていきます。
また中には、そのような考えと方向で進んでいたとしても、子どもの成長が滞ったまま、課題が解決しないまま、困ったが続いたままの家庭もあるでしょう。
そういったときに初めて「障害」という概念で捉えたり、支援を求めたりすることが大事になってくると思います。
もちろん、子どもが感じている今の「困った」に対処するために支援を求めるのは悪いことではありません。
未来を変えるための支援なら、利用するほうが良い場合もあります。


最初は「自閉症かも」と心配になった耳ふさぎが、成長と共に見られなくなりました。
そんなことをネット上にわざわざ投稿する人は少ないでしょう。
わざわざ発信しないから検索画面になかなか出てこない。
大なり小なり、どの親御さんも我が子の成長に心配を持っていて、でもそれが消えていけば、自然と気にしていたことを忘れてしまうものです。
今、発達に課題があるのなら、忘れてしまうくらい成長すれば良いわけですし、今、我が子に困っていることがあれば、それが解決できれば良いわけです。
診断も、個人的な「発達障害かも」という心配事も入り口であって、進む方向は子のより良い成長とその後押し、ゴールは子の自立と幸せになります。
入り口の扉を開けたら一本道が続いていると思うのは勘違いです。
そもそも入り口に書かれた「障害者」という文字すら確認できていない怪しいものですから。


困った状態を困ったままにしておくから、本当に困っている人になってしまう。
発達・成長を滞らせているままにしておくから、本当に発達に遅れがある人になってしまう。
将来、その子がどんな発達を遂げるかなんて、誰にもわかりません。
わからないからこそ、今、我が子が何を求めているかに親が全身を傾け、そこを後押ししていく。
大事なことは止まりながらも発達、成長を進めていくことであって、子の未来を早々と決めてしまうことではありません。
それは発達障害云々に関わらず、どの子も、どの親もやることは同じです。
積み重ねた先に未来がある。




2020年5月2日土曜日

【No.1057】自閉症"様"と自閉症

最近やっと「乳幼児期のテレビ視聴による問題」が研究結果として発表されました。
物心つく前のテレビ視聴が脳や感覚系への影響を及ぼすなんて当たり前の話で、現場レベルでは10年も、20年も前から指摘されていたことです。
今回の研究結果では、「テレビ視聴=ASD、ASDになるリスクが高まる」ということではありませんが、18か月未満の子どもがテレビを見ることによって自閉症のような症状が現れるとのことでした。


「自閉症の"ような"症状だったら、自閉症になるわけじゃないし、そこまで問題ないんじゃないか」という声が聞こえてきそうですが、『ような』だからこそ大問題なわけです。
ここ数年で1歳代の診断なんていうのは当たり前になってきました。
私のところにも、1歳代のお子さんを持つ親御さんからの相談が増えています。
その1歳代で診断を受けた子、発達の遅れを指摘された子の多くは、「本当に自閉症なの?」という子ばかりです。
今後、症状が重くなり、固まってきて将来的に何らかの診断名が付く可能性がないとはいえませんが、それにしても診断を確定するには早すぎるし、症状も部分的に見られるかなっていう程度なのです。


そして共通する点として、0歳代からのテレビ視聴、スマホ、タブレット視聴とその時間の長さ。
上記の研究結果をそのまま引用すれば、早期からのテレビ視聴によって自閉症のような症状が出ている、とも考えられるのです。
もし、そもそもが自閉症ではなくて、障害ではなくて、早期からのテレビ視聴の影響で自閉症っぽい症状や行動が出ているとしたら。
でも、そういった背景があろうとも、現在の診断は基準に当てはまるかどうかなので、『ような』であったとしても行動が確認できれば診断がついてしまうわけです。
しかも日本の常識では、いまだに「障害は生来的なものであり、一生変わることがないもの」となっています。


ということは、そもそもが自閉症ではなく普通の子だったのに、乳幼児期のメディア視聴によって自閉症っぽい行動が出るようになっただけなのに、障害児として特別支援のレールに乗っけられる危険性があるといえます。
本来なら即座にメディア視聴を止め、自然な遊びや親子のスキンシップなどへ切り替えていけば、その症状が緩んでいくのに、「じゃあ、療育を始めましょう」と幼少期から人工的な環境へ誘われていくわけです。
そうなれば、遠ざけるべきメディア視聴が、「それで、その子が安心できるなら」という支援グッズの一つになって肯定されてしまう。
自然な遊び、同年齢との遊び、集団での活動が、一人の子として心身の発達に重要なのに、わけのわからない環境で大人と一対一で活動することとなる。
「早期から療育、支援を受ける子ども達は、どんどん症状が重くなっていく」というのは、もともとは一時的な影響だったものを、「生まれつきの障害」「障害は生涯変わることがない」という誤った認識、特別支援の世界だけの常識によって障害児として育てられてしまう、教育されてしまうことの表れでしょう。


早期からのメディア視聴、長時間のメディア視聴が、柔らかい子どもの脳と感覚、神経発達に影響を及ぼさないわけがありません。
乳幼児健診でも、メディア視聴の様子を必ず訊かれます。
なのに、発達障害専門の病院では、そこを尋ねられない、指摘されないのはどうしてでしょう。
反対に「子どもさんがそれで落ち着いているんなら」といって推奨する人すらいるくらいです。
同じ医師でも、こうも違うわけです。
その理由が「専門領域の常識=権威ある医師が言ったこと」であり、そのために現場とのギャップ、リアルタイムでの変化が難しいのかもしれません。


しかしそんなことはどうでもよくて、問題は自閉症"様"が自閉症として扱われてしまうことです。
自閉症"様"と自閉症とでは、その子の人生がまったく違ったものになってしまいます。
当然、親御さんの接し方、子育て、選択が変わってきますし、家族としての生活、人生にまで影響を及ぼします。
自閉症として育てられた子が、あとから「やっぱり違った」では取り戻せないものが大き過ぎます。
同年齢との交流、集団生活、同年齢の子ども達が一般的に味わうことのできた経験や経験。
それらをすべて失うことになります。
幼児期の、とくに同年齢の子との交流で得られる経験と刺激を、大人になって再びやり直そうとしても難しいといえます。
一人で行える退行なら大丈夫ですが、こういった幼児期の環境ゆえに得られるものについては、後からのやり直しが困難です。


「大久保さんに診てもらって治った」と言われる親御さんもいますが、ほとんどのお子さん達は治っていません。
治るも何も、そもそもが自閉症ではありませんし、本来の姿と発達の流れに戻っただけです。
完全な自閉症(?)というものがあって、それを治したのなら崇められても良いかもしれませんが、私のところにいらっしゃる子の大部分は一時的な影響で自閉っぽくみえたり、発達の遅れが出ているだけです。
なので、影響を及ぼしているものを遠ざけたり、除いたりしていけば、まずそれ以上悪くなることはありません。
そしてそこから定型の範囲、元の発達の流れに戻るには、悪影響を受けていた期間にやり残していたこと、発達が滞っていたところを育て直していく、環境を整えて必要な刺激を確保することです。
ですから幼い子の方が早く戻りやすく、年齢が上がるにつれて、障害児として教育された期間が長くなるにつれて時間がかかるわけです。


それにしても、乳幼児健診で必ず訊かれる「メディア視聴」について、どうして発達障害専門では尋ねないのでしょうか。
1歳とか、2歳とかで診断名を確定してしまうよりも、「ちょっとテレビを観る時間を減らしてみましょう」といえないのでしょうか。
メディア視聴に関わらず、子どもの神経発達に影響を及ぼすリスク要因は具体的に明らかにされています。
ですから、そこに「メディア視聴」が加わっただけ。
そういったリスク要因を確かめることこそ、発達障害の専門家に求められることだと言えます。
そういったリスク要因が見当たらないとき、リスク要因を排除していっても改善していかないとき、初めて診断名という話になり、支援を受ける、療育を受けるという選択肢が出てくるのだと私は考えます。


最初から「待ってました」と言わんばかりに、1歳、2歳、3歳の子ども達にバンバン診断名をつけていく。
一度診断名が付けば、自動的に特別支援のレールの上を歩き始めるシステムが出来上がっている日本では、人生の転機が生まれて数年のうちに、親になって幾年も経たないうちにやってきます。
本当に馬鹿げた話だといつも思いますが、それが現実です。
今はちょうど診断もストップしている時期。
この数か月、1年、2年のうちに、本来の姿、発達の流れに戻っていく子ども達が増えていくことを願っていますし、私は絶好のチャンスだと思っています。




2020年4月29日水曜日

【No.1056】絵が内的な世界を表し、描く行為が外的な世界を表す

今朝来た相談メールにも子どもさんが描いた絵が添付されていました。
2年前に【子どもの絵と発達】というテーマでブログを書いてからは、相談文にプラスして絵も送ってこられる親御さんが増えました。
当然、実際にお会いする発達相談でも、お子さんの絵を拝見しますし、一緒に絵を描いて遊ぶこともあります。


絵は、その子の世界であり、その子の脳そのものです。
「どんな絵を描くか」「どんな色を使うか」
そこに意識を向けていくと、子どもの目を通した世界が見えてきます。
発達段階や精神状態などの内側を追体験することができますので、子どもさんが描いた絵を拝見し読み解くことは、私達支援者にとって重要な仕事になります。


絵そのものが内的な世界を表しているとしたら、絵を描いている様子は外的な世界を表しているといえます。
色鉛筆も、クレヨンも、絵の具も、道具です。
つまり、絵を描いている様子で注目するのは、この道具の使い方なのです。
道具の使い方で、どのくらい勉強の準備が整っているか、今後どのくらい学力を積み重ねていけるかがわかります。


ヒトの進化において、道具を使えるようになったことが言語獲得へと繋がったのは有名な話です。
道具を操作しているときに働く脳の部位は言語野だといわれています。
私達が言葉を話すようになったことと、道具が使えるようになったことは密接な関係にありますので、発達援助においても、どんな道具をどれくらいうまく操れるかに注目するのです。
使える道具が増えると、言葉も増えてきます。
反対に道具がうまく使えないと、言葉の遅れがみられます。
ぎこちない道具の使い方がそのままぎこちない言葉へと表れます。


お子さんが絵を描いているとき、そのペンの持ち方と同時に、力加減と滑らかさに私は注目しています。
持ち方(指の位置・形など)はストレートに発達段階を表しますし、力加減と滑らかさは学習における脳の準備の状態を表現しています。
力加減は強すぎても弱すぎても、まだ学習の準備は整っていないことになります。
ペンの運び方、滑らかさは思考の柔軟性を表しますので、ぎこちなさを感じると「単純計算は大丈夫そうだけれども、文章問題・思考を問う問題はどうかな」と心配になります。
「しなやかな身体が柔軟な頭を作る」と言われており、それが指先にも表れると考えても良いかもしれません。


就学後のお子さんや成人した若者たちの字を拝見しますと、小さいときに思いっきり絵を描いたか、全く描かなかったか、また絵を描いたか、字や記号ばかりを描いたかがよくわかります。
特に成人の方が書く字は、思考そのものが表れやすく、硬い字を書く人は思考が固く、字が弱々しい人は知的な課題をもっていて、筆圧が強い人は衝動性が高い傾向があると、私は感じます。
しかし生涯発達は続きますので、当然、その人の生活・環境・発達によって字も変わっていきます。
届いた手紙を見て、その内容からではなく、字体から成長している様子が伝わってくることがあります。


セラピーの一つに絵を描くことがあります。
心理系の考えでは絵を描くことで、その人の内的な感情や課題が解き放たれ癒していくというように捉えられますが、私が思うに絵を描くこと自体に発達を促す効果があるような気がします。
先ほどお話ししたように、絵を描くことは道具を操作することになりますので、その行為を繰り返すことが言葉の発達から認知の発達に繋がっていくのだと思います。
なので、心理的な効果はかじった程度でよくわかりませんが、発達的な観点から成人した方にも絵をお勧めすることがあります。


実際に絵を描き始めた成人の方は、最初は「ただ描いて」と言われても描けませんので、模写をしたり、好きなキャラクターを描いたりしていました。
そうやって繰り返していくうちに、自由な絵が描けるようになり、気が付いたら手の操作性が上がっていましたし、思考も柔らかくなっていました。
子どもさんの場合は、大人の変な介入さえなければ、自由に絵を描くものなので心配ないのですが、成人した方はどうしても字や記号を書いてきた経験が多すぎますので、(自由な)絵を描かなかったヌケを埋めるのは難しいです。
なので、ある程度、介入と支援、援助が必要なわけです。


絵を描くこと、それが発達につながるためには、"自由"が何よりも大切なことになります。
小さいときから、「数字やロゴなどを描いていた」というのは発達障害の子にあるあるの話です。
数字やロゴは、そのままコピーであり、学習の準備を整えることにはなりません。
確かに就学前から字が書けるかもしれませんが、字が書けることは厳密に言えば学ぶ力とはいえないのです。
文字が大事なのは、就学後学習を積み重ねていくために必要な力は、その文字が表す概念を理解し、そちらに注目できることになります。
そういった意味で自由に絵を描くというのは、抽象的な概念を味わう行為であり、育む作業だといえます。


子どもの絵が上手か下手かなんかどうでもよい話です。
就学前の子に絵の描き方を教えるなんて言語道断、そんなのは教育とは言えません。
とにかく自由に、思いっきり絵を描き切ること、絵を描く楽しみを味わうことです。
たくさん描いたら描いただけ、その子は育っていきます。
あと「うちの子、絵を描かないんです」「興味を示さないんです」という相談が多いですが、それに対する答えは一つ。
「遊びが足りない」ということ。
身体、五感を存分に使って遊ぶ、全身で刺激を受けることが、そのまま絵に表れます。
ですから、絵を描かない子は遊びが足りなく子。
数字やロゴばかり描く子は視覚しか使っていない子、裏を返せば感覚、運動系に発達の遅れが多い子です。
学習の準備のために絵を描くように、絵の準備のために全身と五感を使った遊びを増やしていきましょうね。





2020年4月28日火曜日

【No.1055】児童デイに伺ったとき、まず何に注目するか?

起業して8年目となると、その間に色んな方から色んなお話がありました。
結構、児童デイに関しては厳しめの発言を繰り返していますが、児童デイに関わる方達からもお話があります。
「一度、うちの事業所を見てくれないか。助言をくれないか」と言ったものから、「一緒に児童デイを」「うちで児童デイを起ち上げるから、その代表に、アドバイザーに」などというものまでです。


児童デイに伺ったとき、そこで行われている療育や支援、スタッフの能力よりも、まず注目するところがあります。
それは代表がどういう人か?
もっと具体的に言えば、その人の経営力、もしくはちゃんと経営を担ってくれるスタッフがいるか、そういった専門家からコンサルタントを受けているかという点に注目します。


コロナ後、児童デイの半数くらいは潰れると思います。
たぶん、事業者が受け取る利用料1人分が減額されるでしょう。
だけれども、それでは事業者から、保護者からクレームが来るのは目に見えていますから、行政のほうは、1事業所当たりの利用できる人数の制限を緩めていくはずです。
そうなると、事業所に入るお金は変わらずですが、どこもすし詰め状態になる。
この状況下で、事業者も、保護者も、家庭の「レスパイト」という側面を訴えているくらいですし、既に児童デイを卒業した子の多くが福祉的なサービスを利用しているという結果も出ていますので、児童デイ=発達援助よりも、児童デイ=レスパイトという方向へ舵が切られていくと考えられます。
多くの子ども達を少ないスタッフがケアする状態。
そうなれば、低賃金&危険→スタッフが集まらない→志のあるスタッフもやりたい支援ができない→やる気のあるスタッフが辞めていく→経営&運営成り立たない→潰れるという流れができてしまいます。


私が児童デイの経営に注目するのは、こういった理由からです。
コロナ後は一気に潰れる、撤退する数が増えることになりますが、もともと事業として甘すぎるのです。
社会的な責任を果たそう、本気で子ども達の発達に関わろうと思えば、必然的にしっかりとした経営、安定した経営を目指さなくてはいけません。
児童デイは慈善行為でも、ボランティア活動でもないのですから。
それなのに、多くの児童デイは民間企業の意識が乏しい。
行政に提出する書類に関しては頑張るのに、経営には無頓着。
その収益のほとんどを公的なお金に頼っているということは、行政の考え方、制度変更によってもろに影響を受けるわけです。
つまり、もともとの財政基盤が脆い。


潜在的に財政的な不安定さを持っているのだったら、他で稼いで安定を目指すのが当然のことです。
代表が講演会やコンサル、大学の講義などで稼ぐ。
他のスタッフも、半数位の人は外に出て行って自力で稼げるくらいじゃなければ、事業を継続していくことは難しいでしょう。
「児童デイ一本で頑張る!」というのは、志は素晴らしいけれども、経営は学生サークルレベルだといわれても仕方ありません。
今まで見てきた児童デイでうまくいっていると感じたところは、代表・幹部に経営専門の人がいるところと、ある意味片手間で児童デイもやっているところ。
片手間というのは、本業、母体の収益事業が別にあり、児童デイもやっていますよ、という意味です。


当地だけではなく、全国的にそうだといえるのですが、児童デイや福祉事業所などは親御さんが起ち上げたところが多いです。
「この子の幸せのために」「この子が将来、困らないように」と考えるのは、親御さんとしては当然であって、その形の一つとしてそういった事業所があるのはわかります。
親御さんが起ち上げると、その地域の行政も、福祉関係者も、みんな温かい目で、温かい気持ちで応援してくれます。
ですから、これだけ全国で親御さん発の事業所ができたのでしょう。


しかし一方で課題もあり、どうしても「n=1」の支援になりがちなのです。
経験の浅い支援者も同じことが言えるのですが、自分が関わった子をベースに、これからの子と関わってしまいます。
親御さんで言えば、我が子にうまくいったことを他の子にもやりがちだし、求めがちになります。
今まで学生時代から合わせると、私が直接か関わった発達障害の人達は800人くらいでしょう。
それでもまだまだ経験が足りないと思いますし、1000人を超えて初めて一人前になれると思っています。
正直、「n=1」で仕事ができるほど、ひと様の発達と人生に関われるほど、あまくはありません。
一人として同じ人がいない、同じ発達の仕方をしないということは、それだけ多くの人達と関わらなければ仕事ができないということです。


事業を起ち上げた親御さんの中には、こういった弱点を意識し、専門家を外部から中に入れるところもあります。
数は多くありませんが、有名どころを入れて人気を博したところもあります。
でも、ここでも課題があり、事業所=その専門家になってしまうのです。
どういうことかと言いますと、その専門家のコピーばかりができあがり、その専門家以上のものが生まれなくなってしまうということです。
その専門家が全国的にリードしているうちはいいですが、流行り廃りもありますし、特別支援の世界もどんどん新しい考え、アプローチが生まれてきます。
それに柔軟に対応し採り入れられる専門家は良いのですが、どうも過去の栄光、自分の見識の中から脱することができない人が少なくありません。
しかも、スタッフも、代表である親御さんも、その専門家には実力的に口出しできませんので運命共同体となります。
もともと専門家は、児童デイをやりたくて専門家になったわけではないので、自分の名を売るために一時的に利用しましたねという事業所も複数見受けられます。


まあ、こういう風に書いているだけでめんどくさくなりますし、到底、私などにはできないし、関わりたくもないと思ってしまいます(笑)
一人ですと、誰かに給料を払わなくていいですし、何よりも自由なのがいいです。
こういう私も、最初は志一本で始めちゃったところがありましたが、それでは事業継続はできないとわかり、経営の助言をもらったり、勉強をしたりしました。
ですから途中からですが、その児童デイ、事業所の経営の部分に注目するようになったのです。


どうしても福祉の世界は、親御さんや兄弟児など、当事者に近い人達が関わり、働いていることが多いといえます。
なので、自然と気持ちや感情の部分に流れて行きがちです。
しかし、仕事である以上、儲けなければなりませんし、経営を安定させなければなりません。
他の民間企業のようにリスクを最小限に、またリスクに手を打っておく必要があります。
それなのに想いだけでやっちゃう。
想いは始めるきっかけ、原動力になりますが、継続する力にはなりません。
今現在、どれだけの普通の人が事業を起ち上げているのでしょうか。
コロナ後、福祉予算が減らされていく中、どうやって自力で立ち続けることができるでしょうか。


就学時から児童デイに通っていた子が、学校卒業後、福祉事業所を利用する。
福祉事業所を利用するのは悪いことではありませんが、どうして自立する子、社会の中で働いていける子がもっと出てこないのか、そこに私個人としての不満があります。
学校で学び、放課後も将来の自立に向けた準備をする。
とても素晴らしい制度であり、恵まれている環境だといえます。
それなのに児童デイの延長で福祉事業所に移行する。
それって場所が変わっただけじゃないの?と思ってしまいます。


では、何故、児童デイから自立する子ども達が、社会に飛び立っていく子ども達がもっと出てこないのか。
それは児童デイ自体が自立していないから。
経営的に、経済的に自立していない事業所、たとえばある日から公的なお金がストップになっても立ち続けられるところはどれくらいあるのでしょうか。
そのときになって、「それは障害者差別だー」「社会の理解がないんだ―」と叫んでもどうしようもないのです、もう遅いのです。
ですから、少なからず児童デイ以外の収益も考えないといけませんし、スタッフの一人や二人は外に出て行ってバリバリ外貨を稼いでくるくらいじゃなければいけません。
「あー、制度が変わったので無理でした」「事業を続けられないから、撤退します」といって一番困るのは、利用している子ども達。
スタッフは転職できますが、子ども達の育ちは簡単に変えることができないのです、子ども達の時間は返ってこないのです。


先見の明がある親御さんは、児童デイ、福祉サービスをずっと使えると思っていないし、使おうとも考えていません。
しかし、それが本来のあり方です。
福祉は必要な人が利用し、必要がなくなれば、他の人のために席を譲るもの。
そのために福祉サービスを利用しつつも、目標は自立であることを忘れない。
コロナ後、児童デイも、他の福祉事業所も、一気に淘汰されていきます。
本物しか残らない。
その何が本物かといえば、その子の自立に向けた発達を支援できるかどうか。
そういった面で、支援者の腕が問われ、事業所の経営が問われるのだと思っています。




2020年4月25日土曜日

【No.1054】不確実な未来の中にある確実なもの

視覚的な支援の中の「スケジュール」とは、見通しが持てない人が見通しを持てるようにするためのツールだと言われています。
つまり、これは平時の道具だといえます。
今のように誰もが見通しのもてない時期に、見通しが持てないことを視覚的に表しても結果は同じです。


もし強引にも見通しを持たせようとするのなら、そのスケジュールの内容はとても乏しいものとなるでしょう。
「朝ご飯を食べる」「テレビを観る」「お昼ご飯を食べる」「音楽を聴く」「夕食を食べる」「お風呂に入る」「寝る」
見通しが立たず、社会生活の中にいろんな制限がある今、確実な予定を提示しようとするのなら、こういった内容しか出てきません。


様々な場所から聞こえてくる話の中に「コロナの影響で日常的な活動ができずに大きなストレスを感じている自閉症の人達」ということがあります。
これは国内だけではなく、アメリカなどでも、同様の状況、人たちがいると聞きます。
こういった制限のある状況では、定型・自閉症に限らず、どの人もストレスを感じるものです。
でも、自閉症の関係者、支援機関は、それが自閉症の特性であるかの如く訴えます。
そしてこの期に及んでも、視覚的な支援ツール、支援・援助・理解を求めているのです。


そもそも視覚支援とは、確実性の上に成り立っているものです。
つまり平時の支援であり、非常時の支援ではありません。
東日本大震災のときも、避難所で「個人のスペースが」「パーテンションが」「スケジュールが」という話がありました。
本来「支援を求める行為」とは、本人が困ったとき、困っているからこそ、求め受けるものではないでしょうか。


平時のとき、決まり切ったスケジュール・予定を視覚的に提示することの意義はどういうことでしょう。
本人がやりたいことをただ視覚的に示すこと。
周囲の人間がやらせたいことを視覚的に示し、やらせたくないことを示さないこと。
そういった支援が、どのように本人たちの困ったに応えているといえるのでしょうか。
本人が困ったとき、助けを求めたいときにこそ、その支援の進化と日頃の積み重ねが現れるのです。


「スケジュールで予定を視覚的に示したのに、この子は落ち着かない」というケースは以前から多く見られていたことです。
それは当然です。
本人がやりたいことが提示されなければ、やりたくないことが提示されれば、不安定になります。
だって、理解と感情は別問題だから。
「日課で買い物に行く〇〇というお店に行けない」「電車に乗って、遊園地に行って、アイスを食べるのが週末の楽しみだったのに、それができない」というのが現在。
だからこそ、「荒れて困る」という話があります。
でもそれは視覚支援のやり方云々とか、自閉症の人の"同一性保持"という特性とかではないと思います。


一言で言えば、日頃の積み重ねが出ているまでです。
非常時を想定して、望みが叶わないことを体験させたり、日課・活動がパターン化しないような工夫やバリエーションを広げる育みは行っていたでしょうか。
どうも見ていると、自閉症の人の「同一性保持」という言葉を盾に、周囲にいる人間が大事なことを教える手間を省いていたのではないかと思えることが多々あります。
日課のパターン化は非常に危険です。
非常時に、私達が感じている以上のストレスを人為的に与えることに繋がるから。


現在のような非常時に不安定になる人達の中には、この日課のパターン化ゆえに過度なストレスを感じてしまっている人が少なくありません。
今こそ、支援を求めているときなのに、その力になれない支援の数々。
この機会に「今、支援者は何をしているか」「今の私達に何をしてくれていたか」をしっかり見て記憶しておくことが重要だと思います。
それが非常時から平時に戻ったとき、自分に・我が子に本当に必要な支援と人を明らかにしてくれるから。


現在の状況の中で「不確実な未来の中にある確実なもの」ということを考えながら、仕事・生活・人生を私は見つめなおしています。
特別支援の世界でいえば、児童デイ・通所・入所施設など、直接関わる人が減るのは確実です。
それでいてAI化も難しい仕事。
つまり非常時はもちろんのこと、平時になったとしても支援の手ができるだけ少なくても生きていけるようにしておくことが必要です。
ということは、育てられるところは一つでも多く育てておく、発達させておく、たとえ時間がかかったとしても。
障害の程度に関わらず、どの子も将来的な自立を目指し学び、私達は子育てと援助をしていく。


今回のテーマで言えば、平成の支援・療育からの脱却も必要です。
もともとは知的障害のある自閉症の人を想定した支援の数々でした。
それを「高機能」という概念ができたばっかりに、そういった人達までをも支援の枠組みの中に入れようとしたばっかりに、一度「自閉症」と付けば、どんな子かは問わずに従来の支援に押し込めていく。
知的障害のある自閉症を想定していたから、官僚言葉のような「支援を受けながら自立」という意味不明な目標が出てくるのです。


非常時こそ、本人たちが困っているときこそ、それに応えられる仕事・支援・援助を。
それが私の出した結論です。
平時のやってもやらなくても変わらない仕事・支援・援助などに興味はありませんし、そういうのに時間を割いているほど人生は長くないと感じます。
明日がわからないからこそ、確実なものにエネルギーを注いでいくのです。


コロナ後の世界で、どんな学力・仕事・生活が求められ、消えていくかはわかりません。
しかし生きている限り確実なものがあります。
それは自分の身体という存在。
身体を整え、発達という土台をしっかり培っておく。
そこができていれば、時代に翻弄されることなく、非日常がやってこようとも、自分の人生を生き抜くことができる。
その原理原則は、700万年の人類の歴史の中で変わらぬこと。
平時に非常時を想定し準備する者が命を全うできる者。
そういった視点で世の中を問うと、見えてくるものがある。
小手先の支援ではなく、地に足のついた育ちです。

2020年4月24日金曜日

【No.1053】まだ生まれてきていない子ども達を援助する

スーパーに買い物に行くのを「3日1回にしてほしい」と、小池都知事が言っていました。
どこのスーパーも人がいっぱいなようで、まさに三密状態。
お客さんは自分の意思で避けることができますが、従業員は基本受け身なので、常にリスクにさらされている状態だといえます。
従業員がいなくなれば、それこそ食料が手に入らなくなりますので、「働く人を守る」という意味で買い物する側の行動変容が起きれば良いな、と思っています。


しかし一方で「買い物客は減らない」と、私は思います。
何故なら、この前もブログで書いたように、みんなが"ヒト"モードになっているから。
「経済だ」「資本主義だ」などと言われますが、結局、お金を介して狩猟生活をしているのが私達人間です。
平時、自分の安全が守られた状態ですと、より精神性の満足感に意識が向いていきます。
たとえば、仕事でのやりがい、ひとの役に立つこと、自分で立てた目標に向かい努力する自身の姿、家族の幸せ、世界平和などに。


でも今は、一番の土台である安全安心が揺らいでいます。
700万年の人類の歴史そのものが「安全安心」と「子孫を残す」ための闘い。
ですから、身近に迫っている危険を前にし、人間はヒトに戻っていく。
「開いているところがスーパーくらいだから」と考えるのは、ABA。
「身の危険を感じている今だからこそ、生きるための(現代の)狩猟へと心が掻きたてられる」と、私は考えます。
食べ物を得るというのは、それ自体が安心感と繋がっています。


発達相談において、成人の人達からよく聞く言葉に「無理して働かなくていいって言われました」というものがあります。
公的な相談機関でも、病院でも、家族からでも、「(人的、金銭的)支援を受けて生きればいい」と勧められる。
確かに公的な支援を受ければ、物理的には生きていくことはできます。
しかし、心理的に生きることはできるでしょうか。


今まで多くの若者たちと出会ってきましたが、「働く必要はない」と言ったことはありません。
たとえ知的障害を持っていたとしても、今すぐに働くことが難しい状態だとしても、必ず働くことを目標に取り組んでいきます。
何故なら、働くことが現代の狩猟だから。
自分の目の前に届けられる獲物と、自分で身体を動かし、ときに危険を感じながら得た獲物とでは、肉体的な満足は一緒でも、精神的な満足はまったく違うものになります。


働くことで、ガラッと変わった人達がたくさんいます。
IQが上がった人もいますし、言葉のバリエーションが増えた人もいます。
働くという中には試行錯誤といった脳を育てる機会があります。
しかし、そういった学習の機会だけではなく、安心感と直結する「自ら動き、自ら得る」という行為が次の働く意欲、より向上しようとする意欲へと繋がっているのだと、私は感じます。


コロナ後の世界を想像すると、今まで以上に実感を持ちづらい働き方と形態が中心になっていくと
思います。
そうなったとき、つまり、バーチャルな世界での狩猟となったとき、私達は何で安心感を得るのだろう。
たぶん、ヒトとしての、動物としての土台である発達が培われていない人は、どんどん病んでいくはずです。
生きているという実感がないまま、ときだけが過ぎていく。
また環境の変化に翻弄され、ひたすら不安を感じるだけの存在になる。


肉体性のない狩猟の世界では、より精神的な生きる意味が求められます。
そのためには、自らが地に足つける安心基地にならなければなりません。
「生きる段階」の発達が整い、自分の身体が安心を生みだす。
自分の身体と共にある安心感が、より高度な、人間としての喜びと生きる目的を運んでくる。
コロナ後の世界は、自己実現や世のため、人のために生きることの喜びを感じられない人、祖の段階まで発達できていない人にとっては、生きづらい世界になると思います。


子育て世代である私達は、バブル・好景気は体験していませんし、これから先も金銭的な豊かさとは無縁のまま、生涯を終えると思います。
新型コロナと向き合い、このときを生き、改めて人間とは脆く、弱い存在なんだと感じます。
自分の生まれた時代を不幸だとは思いません。
しかし、自分の仕事、生き方を考え直す時期だと思います。


金銭的な豊かさではなく、精神的な豊かさ。
今、私の幸せではなく、未来に繋がる幸せ。
100年前のスペイン風邪のときの様子を見ると、現在とまったく同じ状況であり、対応だったことがわかりました。
ヒトは100年単位などでは変化しません。
それくらい弱い存在。
でも、私達、人間は想像する力を持った動物です。
他の動物にはできない100年後の未来を想像することができる。


100年後、もしかしたら、人類は今回と同じような事態に陥るかもしれません。
ですから、今体験したこと、学んだことを未来に届ける役目があります。
そう考えたとき、自分の仕事を見直すと、私の仕事はまだ生まれてきたいない子ども達のために頑張る必要があるのだと思うのです。


コロナ後の世界を見据えて、発達援助を行っていく。
今回の事態でよくわかったのが、こういった「生きるか死ぬか」という状況の中では、発達障害があるとかないとかではなく、皆、平等で「人」が問われるということ。
発達障害を治すとか、治さないとかは、とても小さな話で、これから先、どんな世界がやってこようとも子ども達が生き抜くことができるように育てていく、その後押しをしていくことが大事なんだと思います。
治した方が良いとか、治すのがすごいとかではなく、生き抜いてほしいからこそ、治していく。


呼吸や感覚、運動や内臓など、育ちの遅れがあれば、それだけ生き抜くことが難しくなる。
特に、全体的に貧しくなれば、余裕がなくなれば、弱者への手は遠のいていくばかり。
そして肉体的な実感を伴わない仕事が主となる世界では、人間としての高度な喜びを感じられないと、精神的な満足を得て生きていくことが難しくなる。
「この仕事が、見えない誰かの役になっている」「よりよい社会のためになっている」
そんな風に感じられるには、爬虫類の脳から哺乳類の脳、そして人間の脳まで育っている必要があります。


今、目の前にいる子ども達を援助することは、まだ生まれてきていない子ども達を援助することにもつながる。
100年後の子ども達が生き抜いていけるように、今の子ども達の発達課題をクリアして自立し、生き抜ける大人たちへと後押ししていく。
人間は弱い生き物だからこそ、想像力を使い、より良い未来を作っていくのだと思います。
その想像力を発揮できるように、発達の土台から育てていくのです。
2022年後を人間らしく生きていけるように。



2020年4月21日火曜日

【No.1052】不確実な未来で、確実なもの

高齢者のデイサービスと同じように、児童デイでも送迎サービス、移動支援(なにを支援してる?)を一時休止にして開所しているという話を聞きました。
大いに結構なことだと思います。
一人で通所することが困難な高齢者や肢体不自由の子ども達なら、送迎の意義、必要性はわかります。
でも、五体満足に生まれ、元気よく行動できる発達障害の子ども達が、どうして学校から事業所、事業所から家までの送迎が必要だというのでしょうか。
必要性を感じないうえに、あることで、子ども達の成長、自立の妨げになっている、と私は思うのです。


以前、不登校の子のご家庭に訪問したとき、「授業がすべてオンラインになれば、この子達は問題がなくなる」と言っていた親御さんがいました。
確かに、授業がオンラインで展開されるようになれば、家から出る必要はなく、学力だって身につけることができるでしょう。
しかし、それで済むのなら、そもそも学校という存在が必要ないのだといえます。


学校が教科を教え、それを身につけさせることだけが目的だとしたら、学校と塾の境目はなくなります。
また単に学力だけなら、授業を録画したものを、各家庭で自分が好きなときに観て、勉強すれば良いわけですし、既にタブレット学習が一般化されていますので、就学と同時に一人一台配れば、学校という箱モノも、大量の教師という職業も、必要がなくなります。
学力、一点に絞って言えば、オンライン化、タブレット学習にすれば、とても効率的になります。
実際、こういった声は、いろんな人達から上がっていますし、今後、議論されていくことになると思います。


「学校は、教科を教えるところであり、学力を身に付けさせるところ」というのは、当然です。
私が学校に対して批判的な感情、意見を持つときは、この教科学習をないがしろにしている場合です。
支援級、支援学校で、きちんと教科が教えられない、教科書すら渡されない、6年間、ほとんど同じ内容、という話を聞いたとき、私は憤りを覚えます。
学校が学校の存在意義を否定するような行為、「どうせ、この子達には教科は無理」といった失礼な態度に。


しかし、学校の存在意義は、「学力を身に付けさせる」だけではないと思っています。
教科とは違った学ぶ力を養う場所、養われていく場所。
私はそう感じています。
たとえば、「登校する」ということだけ、一つとっても、とても意義のある行為であり、学びだと思います。


「登校する」という行為には、様々な要素が関わっています。
家の扉を開ける以前に、時間の理解、時間に合わせた行動、必要なものを準備、天候に合わせた服装の選択、基本的な生活リズムの確立など、生きるための発達土台から、計画や自制などの人間としての発達段階の育ちが問われます。
問われるということは、こういった一つ一つの要素を培い、課題をクリアしていくこと自体が、発達、成長そのものだといえます。


家の扉を開けたら、目的地である学校まで移動し続けなければなりません。
道順を覚えること、交通ルールに従うこと、間に刺激があり、注意が逸れたとしても、また自力で「登校する」という目的に意識を向けること。
そして何よりも、たとえ同じ道順だとしても、一日たりとも、同じ刺激、環境ではない、それを体験することでの育ちの大きさです。
私が「登校する」という行為に感じる発達刺激の豊かさと、その意義の深さは、まさにこの部分です。


ヒトは歩くことで進化し、脳を大きくしていきました。
歩く、移動するというのは、コンピューターのように、入力と出力の繰り返しではありません。
そこには、バランスや周囲の刺激の受信といった感覚系の話から、動作、運動系を総動員すること、危険の察知と臨機応変な行動、目的地までの記憶や経路の想像、推測、計画など、高度な脳機能まで幅広く必要となります。
特に現代社会の中では、人為的な環境のコントロールが進められてきたため、子ども達は危険の察知や臨機応変に対処を学ぶ機会が少ないといえます。
本来、動物であるヒトが、危険や見通しが立たない不確実性の中での体験を元に、問いのない答えを導き出してきたのに。


「登校する」という行為は、失われていた動物性を取り戻す訓練であり、危険の察知、臨機応変な対処など、生き抜くために必要な力を養う貴重な場だと、私は考えています。
学力は、他のものでどうにでもなると思いますが、季節が移ろう中、何年間も1つの場所に通い続けるという行為自体が、現代の子ども達にとっては必要だといえます。
就学前のご家庭での発達相談では、授業を受ける準備(「一斉指示がわかる」「他人に迷惑をかける行為がない」「離席せずに一定時間、座れる」)と同じくらい、一人で登校できる準備の大切さをお伝えしています。


支援校に通っていた、ある女の子は、話すことはできますが、学力の面では小学校低学年くらいでした。
でも、その子の親御さんが、「将来、この子には働く大人になってほしい。そのためには、自分で目的地まで行って、帰ってこれる力をつけなければならないと思います」とおっしゃり、実際に取り組みを行いました。
最初は、学校の近くまで車で送り、親御さんが見える範囲からの登校。
徐々に、距離を伸ばしていき、また別のルートや繁華街などの変化を持たせ、学校生活後半では、敢えて公共交通機関を使っての登校も練習しました。
こういった取り組みを重ねていった結果、卒業後、一般就労。
もちろん、公共交通機関を使って。
事故などで、遅れが出たとしても、その旨を職場に連絡し、落ち着いて行動できているそうです。


このご家庭の親子の取り組みを見て、生きる力を育てるとは、まさにこういうことをいうのだと思いました。
学校の先生からは、「何かあったら、大変ですよ」「今は、障害者の送迎サービスも利用できますよ」などと、何度も言われたそうですが、一切動じず続けました。
そういった小さな取り組みが積み重なっていく中で、会話の幅が広がり、世の中の理解力が伸び、人とのやり取りが上手になり、自分で考え、行動する力がついてきました。
親御さんは、度々、「いくら働く力があっても、通えなかったら、仕事はできないでしょ」と言っていましたが、働くために必要な発達と、働くという行為の本質を見抜かれていたのだと思います。
働くとは、自立するとは、「危険を察知し、それを回避できること」「その場の状況に合わせて、臨機応変に行動できること」が求められるのです。


学校が終わると、校門の前に並んだ車に乗せられ、事業所まで連れていかれる。
事業所で公園に行くときも、車。
帰るときも、家の前まで車。
その移動の時間に、なんのサバイバルもなければ、なんの発達刺激、学ぶ機会もありません。
結局、送迎サービスとは、加算が目的なのであり、子の発達が目的ではないのです。
確かに、親は安全、安心かもしれませんが、それと引き換えに失うものが大き過ぎます。
自分で準備し、学校に行って帰ってくる子と、全部お膳立てされて12年間過ごす子とでは、学力の面では差ができないかもしれませんが、生きる力、生き抜く力、働く力の面では大きな差ができるでしょう。


「うちは知的障害があるし、重いし」という親御さんもいます。
しかし、それは言い訳にすぎません。
何故、取り組む前から無理だと考えているのでしょうか。
そもそも、育てずにしてできる子が、どれほどいるというのでしょうか。
先ほどの女の子は、就学時、重度の知的障害という判定でした。
でも、12年間かけて取り組んだ結果、重度から中度、中度から軽度まで育っていきました。
つまり、土台である「生きる段階」の発達を、登下校を通して養っていけたということなんです。
それこそ、いくら知的障害がなく、働くスキルがあったとしても、自分を律することができず、自分で準備し、目的地まで移動できなければ、コンスタントに通うことができなければ、仕事などできるはずがありません。
働く力、働き続ける力の土台は、技能や知識ではなく、生きる段階の発達であり、危険を察知し、臨機応変に行動できる育ちなのです。


「三密になるし、介助者と近距離になるから」という理由で、送迎サービスが中止になっています。
ちょうど良い機会です。
自力で通所できるように練習すれば良いのです。
「一生、この子の送迎をやらなきゃいけないのか…」とこぼす、親御さんもいますが、それなら一緒に取り組みましょう。
一人10万円は、空から降ってくるのではありません。
全部、私達の税金であり、我が子が将来、払い続ける借金です。
世の中、みんなが苦しくなれば、最初に切られるのは、弱い立場、福祉に決まっています。
1日、一人通って1万円が続くなんて、のほほんと思っていれば、終息後に痛い想いをします。


福祉も、制度も、人が決めるもの。
人が決めるものに、確実なものなどありません。
それこそ、今は、すべてが不確実な世界であり、それが私達の未来。
その子が身に付けたもの、育ったものは、誰にも奪われることがありません。
唯一、私達大人ができること、それは不確実な中で、確実な力を子に付けさせてあげること。
それこそ、「生きる段階」の発達であり、子育て、発達援助のあり方。
発達をお金で代替することはできるが、お金で買うことができない。
発達障害の子ども達に必要なのは、自立に必要なお金を国に、社会に要求することではなく、その土台を育んでいくことだと、私は考えています。

2020年4月19日日曜日

【No.1051】いろんなものが淘汰されていく真っ只中

講演会や研修会などのテーマには、「最新研究」「最新の情報」といった文言が入ることが多くあります。
若い頃の私は、「少しでも新しい情報を」と思い、こういった講演会に足を運んだものです。
しかし、どの講演会でも、"最新"の情報は冒頭の少しくらいなもんで、あとは例年通り、本やネットで出てくる情報ばかり。
結局のところ、その講演者や主催者、組織の"押し"を広めるためのものだと分かったのは、20代後半になってからでした。


今は世界的に、どの人間も、"ヒト"モードになっています。
大なり小なり、命の危機を感じる時期ですので、「生きるか死ぬか」に意識、無意識が向いているといえます。
ですから、「生きるか死ぬか」という軸で、いろんなものが淘汰されていく真っ只中にいるのだと思います。
歴史を振り返ると、こういった出来事のあとには、まったく新しい価値観、文化、システムが生まれているのがわかります。
「早く、もとの生活に戻りたい」などと言う人が時々いますが、もう2019年の頃のような生活がやってくることはないでしょう。


今、世の中は、新型コロナの話ばかりですが、北朝鮮はミサイルを飛ばすし、中国船も日本の領海にやってきています。
地球環境の問題もありますし、ついこないだまで働き方改革だ、ジェンダーだ、マイノリティーだ、と言われていました。
でも、今はほとんど、そういった話題にならないし、解決に向けた動きがみられません。
ということは、根本的な「生きるか死ぬか」とは関わりのない話題だったんだといえます。


今年は建物を青くしたのかどうかもわからないまま、4月2日が過ぎていきました。
今までは、ずっと「啓発が大事」「理解が大事」と主張されていましたが、意気込んでいろんなところから寄付を募っていましたが、あってもなくても変わらないことが証明されてしまいました。
本当に必要なもので、当事者、家族を救うものであったとしたら、どんな状況でも、むしろ、今のような不安を感じるときのほうが、その意義が明確に現れるのだと思います。


もう十年以上前ですが、それこそ、20代の頃に行っていた講演会、研修会の主催者から、「開催中止のお知らせ」がメールで届きます。
どのメールにも、「誠に残念ですが…」と書かれていますが、残念に思っているのは、主催者だけじゃないの、と思ってしまいます。
そもそも、ほとんどの講演会、研修会に、わざわざ足を運んで参加するだけの価値があったのでしょうか。
新型コロナのせいにしていますが、コロナのおかげで、より早く淘汰されただけのように、私は感じます。


収束から終息まで、まだまだ年単位でかかるのは明らかです。
この1年、2年の間で、様々なものが淘汰されていくでしょう。
2020年前に必要だったものが、2022年には必要じゃなくなっている。
自然淘汰で消えていくものが、新型コロナによって、一気に片づけられてしまうといった感じでしょうか。


特別支援の世界で言えば、今までの「生涯に渡る支援」が淘汰されると思います。
今回の件で、人と人が関わり続けることのリスク、施設等の集団で生活することのリスクが、多くの人間に刷り込まれるからです。
こういったリスクの最前線に立ち続けないといかない現場の職員だって、この仕事を避けていくでしょう。
そもそも、介護、支援、福祉の世界は人が集まらなかったのですから、終息後は施設運営が成り立たないくらい人材不足になるのは明らかです。
あちこちの福祉施設、事業所が撤退、潰れていくはずです。


また親御さんの意識の中にも、「この子に生きる力を」「サバイバルできる力を」「自立して生きていける力を」という想いが強くなると思います。
2000年以降、上辺の支援、みんなが行っているから療育&児童デイが氾濫していましたが、現在、定期的に行かなくても、本人の生活、発達にはなんの関係もないのが分かった家庭は少なくないと想像します。
別に療育に行かなくても、家庭の取り組みの中で子は育つし、児童デイに行かなくても、家で学ぶことはできる。
結局、親の安心のための療育であり、親のレスパイトのための児童デイだったのです。
この「生きるか死ぬか」という雰囲気の中で、どうしても通わなければならないくらいの場所だといえるのでしょうか。


新型コロナに関しては、いろんな情報や専門家の発言が出ていますが、どれも正しいかどうかはわかりません。
だって、人類が遭遇していない新型なのですから。
当初言われていた「若者は重症化しない」というのも、海外で重症化し、亡くなった若者が出ましたし、「基礎疾患が」というのも、同様に重症化、亡くなる人が出ました。
「免疫ができる」というのも、本当にできるのかわかりませんし、既に「武漢型」「欧米型」などの型の変化が出ていますので、一度かかったから大丈夫、とも言えません。
つまるところ、どれも「n=1」で考えるしかないのです。
基礎疾患のない元気な若者も、自分が罹って死ねば終わり。


頭ばかりが肥大化した人類が、ヒトに戻る機会なのかもしれないと、私は思うようになりました。
スマホでいくら情報を手に入れようとも、新型コロナのリスクをゼロにすることはできません。
どんなにテクノロジーを駆使しても、結局は、自分の身体で対処するしかないのです。
危険を察知し、そこを避ける。
それは頭ではなく、感覚が担う部分です。
そういった意味で、身体や感覚、運動などの「生きる段階」に発達のヌケや遅れがあることがリスクとなります。


今までの療育や支援などが、いかに、この「生きる段階」に直結したものでなかったか、上辺だけの、それこそ肥大化した脳を喜ばせるためのものであったのか、それがはっきりしたと思います。
ずっと、「支援を受けながらの自立」などと、この短文の中ですら、論理が破綻していることを言い続けてきたギョーカイ。
自立とは、その字が表すように、自らの足で立つことであり、それを育てるのが真に支援するということ。
今まで、その人を支援したわけではなく、支援している姿を見せることで、親を、社会を安心させようとしていただけです。
だから、「生きるか死ぬか」という状況になったとき、お呼びがかからないのです、中止になっても、なにがどうということはないのです。


授業や講義、会議や式が、どんどんオンライン化されていきました。
既にその流れはありましたが、これまた一気に、情報伝達と共有の価値が限りなくゼロに近づいていったといえます。
情報の価値=(ほぼ)ゼロです。
なので、「欧米からの最新の情報」などといった講演会の価値もゼロ。
私が綴っているような「どんな視点でアセスメントするか」「どこを育てれば良いか」「何と何が発達的につながっているか」などの情報も、価値はゼロ。
調べれば出てくる情報、どこかに載っている情報も、価値はゼロ。
情報を切り売りするだけの仕事は、淘汰されていくといえます。


では、特別支援の世界で、どんな仕事が残っていくのか。
肥大化した脳から、ヒトへの揺り戻しが起きる。
ですから、情報と身体をつなぐ仕事が必要になるといえます。
多くの相談で、「発達の順やポイント、育て方はわかったんだけれども、目の前の我が子に、どのように当てはめれば良いか、どんな方法がベストかがわからない」と言われます。
それは無理もない話です。
今までの私達は、脳を肥大化させることばかりに熱中したのですから。


そんな中で、親になり、子どもに発達の遅れが見られる。
この子ども達は、主に胎児期から2歳前後という「生きる段階」「生きるための土台」に課題がある。
今まで、誰も気に留めることなく、ほとんどの子ども達は自然にクリアしていた段階に、です。
なので、親御さんは混乱し、脳と身体を結びつけることに苦労される。
だからこそ、親御さんの身体、動き、感覚を総動員するような援助が求められていくのだと思います。


2022年以降、その子の「生きる段階」の発達に手が出せない支援者は消えていくでしょう。
上辺だけの支援、とにかく支援ありき、人ありきの支援、情報の切り売りの専門家、理想論だけを語るような人達も。
情報で満足する時代は終了です。
対人職は、情報以外のところで勝負できなければなりません。
誰でも、調べればわかるようなことに、お金は出さないし、リスクも犯さない。


この2年間で、私の実力、価値も、明らかになると思います。
警戒状況も、弛緩を繰り返すはずです。
波が高くなり、低くなり、徐々にそのふり幅が小さくなって、収束から終息に向かうでしょう。
その波が低くなったとき、弛んだとき、私の仕事が求められるか否か。
人類平等に「生きるか死ぬか」の状況で必要とされるのは、生き抜くための援助ができる人と仕事。
その審判が下る未来を、私は今から楽しみにしています。




2020年4月18日土曜日

【No.1050】「生きる段階」「遊ぶ段階」「学ぶ段階」

新学期が始まり、子ども達の元気な声が戻ってきたのも、つかの間。
そんな生活も2週間ほどで終了し、再び自粛生活が始まりました。
少なくとも今年度は、こういった登校→自粛→登校のような学校生活になるのだと思います。


この緩まった隙(?)に、いろんな相談、仕事がありました。
皆さん、きっとこの機会を待ち構えていたのだと思います。
学校や幼稚園など、「1学期で、こんな取り組みをしよう」「この1年間で、こんな力を身に付けさせよう」といった悠長な教育計画は立てられないでしょうし、保護者もそれを期待するのは難しいと言えます。
となると、今まで以上に、家での過ごし方、生活が問われるわけです。


メディアでは、「学校が休校になり、勉強の遅れが心配」といった声が並びます。
しかし、厳しい言い方をすれば、学校が1ヶ月、2ヶ月、休みになったくらいで、その子の学力に遅れが出るとしたら、そっちの方が問題です。
小学校低学年なら、大人が傍で見守ったり、教えたりしながら学習していく必要がありますが、基本的に自分で学ぶという主体性がないといけませんし、それを育てるのが小学校の間です。
学力を身に付けること以上に、こちらのほうが大事。
自ら学ぶ姿勢が培われている子は、学校があろうがなかろうが、学力が身についていきます。


不登校の子の親御さんの中には、「学校に行けないから学力に遅れがある」と言われる人もいます。
でも、それは間違いで、そもそも自ら学ぶ姿勢が育っていないといえるのです。
その証拠に、学校に行けなくても、家の中でしっかり学力を身につけ、進学、自立していく若者たちがいますので。
確かに、学校に行けていないことは、学ぶ機会の乏しさに繋がりますが、学力に直結する問題ではないのです。
問題の本質は、環境以前に、その子自身。


これは、支援級、支援学校に通う子ども達の話ともつながります。
「支援級では、通常級のレベルを落としたものを、ゆっくりやるだけ」
「そもそも支援学校では、教科学習をしない」
だから、学力が身につかないと言われます。
確かに、学校側の問題もあるでしょう。
しかし、そういった環境の中でも、しっかり学力を身に付けていく子もいるのも確かです。
もちろん、学校で教わる機会が乏しいので、その分、家庭での勉強はやります。
そのポイントは、「やれば身につく」ということです。


学校は公的な制度で成り立っていますし、どんな学校で、どんな先生に教わるかは運次第。
そのような外敵な要因は、個人でコントロールできませんし、する必要もありません。
大事なのは、どんな外的な環境かではなく、どんな内的な環境かということ。
今回のような状況の中で問われているのは、内的な環境、つまり、その子個人の発達段階です。
いくら優秀な教員、学ぶための豊かな環境があったとしても、その子に学ぶ準備ができていなければ、やれば身につくという段階まで育っていなければ、どうすることもできません。


では、その「学ぶ準備が整っている段階」とは、どういう状態のことであり、どうすれば、育てられるのか。
これは、私がアセスメントで使う視点のお話をすれば、わかると思います。
発達相談では、いろんな視点、軸を持って、その人の発達を見るのですが、その中の一つです。


この視点というのは、他の視点と比べて、大きな枠組み、イメージで言えば、一歩引いて俯瞰して見るような感じです。
ちなみに「原始反射は?」「運動発達は?」などが細部を見る視点です。


当然、「学ぶ準備が整っている段階」というのも、発達の流れの一つですので、そこには階層があります。
まずは「生きる段階」があり、次に「遊ぶ段階」があり、そして「学ぶ段階」があります。
私は、その子と対面したとき、この中のどの段階かな、というのを見ますし、それを親御さんにお伝えすることもあります。


「生きる段階」とは、その名の通り、生きていくために必要な発達を遂げている段階です。
呼吸や感覚、運動はもちろんのこと、ちゃんと寝れて、食べれて、排泄できることや、危険を感じたら回避できるなど、この先、長い人生を生き抜くために必要な発達の部分です。
ここが培われていないと、ここに課題が残ったままですと、当然、次の遊びがうまくできませんし、その遊びがうまくできないということは、学ぶ段階まで育っていかないということになります。


「遊ぶ段階」の育ちで確認するのは、自分の身体で遊べるか、自分のイメージの中で遊べるか、他人を意識して遊べるか、他人との関わりの中で遊べるか、他人と協力して遊べるか、などです。
前回の「概念理解」も、この遊びの段階で培われますし、社会的な動物としての土台はここで養っていきます。

このように挙げると、「他人と協働できないけれども、学力優秀な人もいる」という声が聞こえてきそうですが、それは学びを一面的に捉えているのだと思います。
確かに知識を得る、その得た知識で課題を解くのも学力ではありますが、社会性の動物である人間の学び方としては乏しいといえます。
「学ぶ段階」の次は、「自立する段階」です。
自立するためには、問いのない答えを出していく能力が求められます。
そうでなければ、自分の資質を活かしながら、自由に選択して生きる、という生き方ができないからです。


「学ぶ準備が整っている」というのは、しっかり遊び切った子のことを言います。
遊びきれないまま、学校生活に入ると、どうしても伸び悩み、躓きが生じてきます。
それが3年生という概念理解をベースとした学習内容に変わったタイミングで、もろに出てきます。
3年生で躓く子は、学ぶ準備が整えなかった子であり、遊びきれなかった子。
発達相談では、一緒に公園に行ったりして遊んでいる様子を拝見しますが、その子がどんな遊び方をするかで、だいたい将来の学力がわかるものです。


遊ぶことは、学習の土台になりますので、遊びきれるように育てることが重要になります。
ある意味、発達援助という仕事は、遊びきれる段階までに育てることを指すのだといえます。
当然、「生きる段階」である運動や感覚などを育てることは重要ではありますが、目的はそこではなく、やっぱり思いっきり遊べることです。
思いっきり遊びきった子が、しっかり学んでいけて、しっかり学び、身に付けていった子が、社会に飛びだっていく。
学ぶ準備が整えば、あとはその子自身で主体的に、興味があるもの、面白いものを学んでいきますので。


ちょうど、自粛が緩まった期間で行った発達相談では、この段階の話をしました。
確かに、年齢的に言えば、「学ぶ段階」なのですが、だからといって、その段階に必要なことをいくやっても伸びていかないし、子も、親も、幸せにはならない。
今、その子が「遊びの段階」なら、遠回りかもしれないが、遊びきれることを後押ししていく。
ある程度、大きくなったとしても、まだ「生きる段階」にやり残しがあるのなら、そこを援助して育てていく。


どうしても、今の学校システムが年齢基準の横並びですので、「〇年生だから、〇年生の勉強をしなきゃ」「2年生なのに、1年生の問題がわからないから、焦って頑張らなきゃ」となってしまいます。
でも、大事なのは、学ぶ準備が整っているか、そこまで発達段階が来ているか、だと思います。
生きる段階に不安定さがある子は、どうしても学ぶことは難しい。
学んだとしても、本質的な部分まで理解できないと思います。
それは概念理解が伴わないからであり、概念理解がないと、表面的な情報の記憶と利用に留まってしまいますので。


大学を出たのに、支援を受けながら作業所で働く人達の中には、積み残したまま、年齢が成人を迎えた人が少なくないのだと思います。
大人になって、精神的な不安定さが出るのは、「生きる段階」の積み残し。
対人面での不安定さが出るのは、「遊びの段階」の積み残し。
そういった成人の人達の姿から、子どもさんの発達援助を見ると、遠回りが一番の近道になることがわかります。
なんの近道かといえば、その人らしく幸せに生きるための近道ですね。

2020年4月16日木曜日

【No.1049】三歳児健診で問われる概念理解

先日、下の子の三歳児健診に行ってきました。
1回だけ、どうしても仕事の都合で行くことができませんでしたが、それ以外は上の子のときから全部参加しています。
だって、日頃、学んでいることを、目の前で見れる絶好の機会ですから。
いくら書物で情報として知っていたとしても、実際に行われるテストや聞き取りなどは、非常に勉強になります。
保健師さんの意識の向け方、力の入れ方で、どの発達課題が重要か、その濃淡がわかります。
また、同じ月齢の子ども達が一堂に集まる機会はとても貴重で、待っている間など、その雰囲気を感じておくことは、私の仕事へ大きなヒント、着想を与えてくれます。


一歳半健診では、主に運動系の発達が重視されていましたが、三歳児健診では、それ以外の知能に関する発達の確認が重視されます。
特徴的なのが、単にモノの名前を知っているか、自分の名前が言えるか、ではなく、概念の理解、芽生えがあるかについて検査されます。


モノの概念、数字の概念が重要になってくるのが、小学校3年生くらいからです。
小学校低学年くらいまでは、概念を問うような学習、それを元にした問いなどはほとんどないのですが、中学年くらいになりますと、概念理解がないと解けない問題が出てきて、教科の内容も、その概念がしっかり理解できているという前提で展開されていきます。


以前にもブログで紹介しましたが、計算問題は得意、漢字も得意、なんなら就学前から計算と文字が書けていて、「この子は知的には高いね!」と言われていた子が、中学年以降、ガクッと成績が落ちる、授業が分からなくなる、というケースが多くあります。
それは、一言で言えば、「概念理解の問題」です。
文字の読み書きや計算などは、その子の概念理解が問われません。
ですから、小学校低学年までは大丈夫。
でも、中学年からはガラッと変わるのです。


ちなみに、中学年から不登校が始まる子の中には、この概念理解の問題から授業がわからなくなり、成績が落ち、登校意欲が激減する、という子も少なくありません。
周囲から見れば、「小さいときから、お勉強できていた子なのに」「いっぱい言葉を知っている子なのに」となるのですが、単に文字を形としての丸暗記、計算自体(式と答え)を丸暗記、言葉は知っているけれども、それが示す範囲が極端に狭い、などがあります。


3歳児健診では、1つの言葉を多面的に理解しているか、捉えられているか、が確認されます。
たとえば、眼鏡の絵を見せて、「これは何?」「かけるものは、どれかな?」「同じものを付けている人はいる?」などを尋ねます。
また、年齢が答えられるか、モノの数がわかるか(これは単に「3歳」といえる、ではなくて、増えていくという概念への問い)。
「今日は何で来たの?」「誰と来たの?」「おうちはどこ?」といった抽象的な問い(これも概念が必要)に答えられるか。
「好きな"食べ物"はなに?」「好きな"遊び"はなに?」
「長い方はどっち?」「小さい方はどっち?」
「赤色は?」「黄色は?」「緑は?」、さらに「赤い車は何ですか?」などの発展形も。
このような概念理解を問う課題が多く見られますし、裏を返せば、3歳児時点での概念の発達が、重要な指標となるのです。


3歳児以降、この概念理解をベースに、さらに理解と範囲、バリエーションを広げていきますが、そこまで大きな変化はないといえます。
どういうことかと申しますと、3歳児までは「1,2,3」くらいまでしかわからないものが、10までわかる、100までわかる、という具合に発展するという意味です。
つまり、「概念を獲得している」という段階がとても重要であるということです。
小学校中学年以降で、相談に来られるお子さん達をみますと、案外、こういった3歳児健診で問われるレベルのものが曖昧、理解できていない、という子ども達が多くいます。
同じように、大人の中にも、使っている言葉の意味範囲が狭い、パッと言われている意図が掴めないといった様子がある人にも、概念での躓きがみられます。
辿っていくと、やっぱり文章問題が苦手、小学校中学年以降、成績が落ちた、支援級に行った、3歳児健診で、すでに指摘された、という具合に繋がっていくのです。


3歳児時点で、初期の概念理解が達成されている。
その概念理解は、3歳児以降に多く見られるごっこ遊びへと繋がっていきます。
2歳児くらいが熱中する見たて遊びは、多分、初期の概念理解を育てているのでしょう。
そして、3歳児以降のごっこ遊びへ発展し、それが対人遊びへと繋がっていく。
自閉っ子たちに対人面での遅れが見られる背景には、「対人遊びをしない、しようとしない」といった経験不足があり、何故なら対人遊びに必要な概念理解が培われていないから、とも考えられます。
もちろん、感覚面や運動面の発達の遅れから対人関係へ発展していけないというのもあるでしょうが、自閉っ子の多くは見たて遊びはしますので、そこからもう一歩、初期の概念理解まで進めないことがポイントだといえます。


じゃあ、概念理解が確立できていない子ども達に対して、どういった子育て、発達援助をしていけばいいのか。
そこにも、3歳児健診の中にヒントがあります。
3歳児健診で、上記のような概念を問うものに対して、答えることができる。
ということは、0歳、1歳、2歳の中に、概念を育てるエッセンスがあるということです。
複数ある絵の中から、「眼鏡はどれ?」に答えられるには、絵を見て具体物を想像できなければなりません。
絵自体が概念です。
その絵という概念を、どうやって0歳児、1歳児、2歳児は、学んでいくのか?


それは、やっぱり実物の眼鏡をたくさん見ること。
そして、見た眼鏡を手で触り、赤ちゃんは口の中に入れ、その重さ、形、質感を触覚で感じる、つまり、視覚と触覚の連合です。
眼鏡ではなく、食べられるものなら、実際に匂いや味などの感覚との連合もあるでしょう。
そうやって、複数の感覚同士を連結させることによって、多面的に物事を理解していく。
それこそが、概念理解を育む行為となります。
ということは、感覚をしっかり早い段階で育てておくことが重要だといえます。
感覚過敏(感覚系の未発達)がある子には(大人にも)、言葉の範囲が狭い人や文章問題での躓き、対人スキルの乏しさが共通するのと、これで合点がいきますね。


私は、2歳児、3歳児で、「砂遊びをしない」「泥遊びをしない」という話を聞きますと、すぐに概念理解の遅れを連想します。
2歳児、3歳児は、外に行くと、すぐに砂や土に手が伸びるものです。
1歳児なら、口に入れようとするのが自然な姿。
ですから、この時点で、触ろうとしない、触れないという触覚の遅れを疑いますし、それこそ、砂や土は概念学習の土台中の土台ですから心配になるわけです。
遊ぶこと自体が、複数の感覚同士の連結であり、「重い&軽い」「大きい&小さい」「減る&増える」「分ける&足す」「高い&低い」などの概念の宝庫。
体験的に概念を培うのです。


以前、相談のあった小学生のお子さん。
「文章問題がカラっきりダメ」という相談でしたので、「じゃあ、砂遊びをしましょう」と提案し、また一緒に遊びにも行きました。
親御さんは、私に対して、こういった子に対する特別な教え方を望まれたようで、最初は拍子抜けをされたそうですが、砂遊びを続けていくうちに、急に文章問題が解けるようになった、と驚いていました。
他にも、言葉の範囲が狭くて、ヒトとのやり取りに固さがある成人の人に対しては、庭での野菜作りをお勧めしました。
成人ですから、少し時間がかかりましたが、1年、2年と野菜作りを続けていくうちに、触覚が育ち、概念も育ち、やりとりに柔らかさが感じられるようになりました。


3歳児健診の話から、最後は大きい話になってしまいましたが、とにかく3歳児の時点で、初期の概念理解ができているということです。
感覚や運動の発達には目が向きやすいですが、案外、概念の発達の大切さ、重要さには気づかれていない方が多いような気がします。
でも、3歳児健診では、そこがメインです。
やっぱり、定型発達を知るということが、何よりも発達援助の技能向上へとつながりますね。

2020年4月14日火曜日

【No.1048】子どもの行動を「異常」と決めつける前に

親御さんからの相談で、「どれが異常で、どれが幼さかがわからない」という話がよくきます。
確かに育児本には、「1歳3か月で〇〇ができる」などの説明がありますが、その異常さについて解説されたものは、ほとんどありません。
産婦人科や小児科のドクターが書いた医学書には詳しく載っているんですけれども、そういったものは一般的な人は読みませんよね。
また、最初の子だったり、近くに親戚の子や同じくらいの子がいなければ、わからないのは当たり前。
親だって、初めて親になるわけですし。


一番早いのは、発達障害専門ではない医師や保健師、保育園の先生に相談することです。
発達障害の専門家が発達障害を基準に診るのに対し、小児科の医師や保健師、保育園の先生などは人を基準に診ます。
その月齢、年齢の発達から言って、異常だと言えるのか、正常の範囲なのか。
正常の範囲なら、早いのか、遅いのか、ちょうどよいペースなのか。
そういったヒトの発達をベースに、その子の言動を見なければ、本当のところはわかりません。


しかし、現に目の前の我が子の言動を見て、悩まれている親御さん達がいらっしゃいますので、また心配になったからと言って、すぐにそういった専門家のところへ行けるわけではないので、主にどういった視点で見ていけばいいのかをお伝えしようと思います。


まず『持続性』です。
赤ちゃんが泣くのは仕事ですし、幼児さんが泣いたり、感情を爆発させたりするのも当たり前です。
しかし、こういった泣く、感情の乱れが、長い時間になるようでしたら、異常だといえるかもしれません。
赤ちゃんなら5分も泣き続ければ、疲れてしまいますし、幼児さんもだいたい体力的にも10分までは持続しません。
よく「泣いたら、30分でも、1時間でも」とか言われる親御さんがいますが、それはやっぱり長すぎます。
自分たちに置き換えても、30分泣き続けるのは、相当な負荷がかかりますので難しいといえます。


あと、遊びに関しても、ミニカーを並べたり、タイヤをくるくる回したり、換気扇が回るのを見ていたりすること自体は異常でもなんでもなく、定型発達の子にも見られますが、やっぱり持続性に違いがあります。
小学校低学年の集中力が10分と言われていますので、いくら好きな遊びだとはいえ、20分も、30分も、同じことを繰り返す姿には、なにかあるのかな、と思わざるを得ません。
あちこち意識が散るのが幼児さんですし。
ただ、単純に時間だけではなく、ここでは遊びの内容も確認が必要です。
同じ遊びをしているようでも、そこに変化があれば、たとえば、同じ場所に同じようにミニカーを並べ続けるのではなく、順番を変えたり、別のミニカーを持ってきたりするような変化があるのなら、そこにはバリエーションと注意の転動がありますので、異常とはいえません。
遊びの場合は、まったくもって同じ動きを20分も、30分も続ける、という点がポイントです。


他害等についても、同じことが言えます。
衝動的に、嫌なことがあってモノを投げたり、親御さんを叩いたり、近くにいた友達を噛んだりするのは、いけないことではありますが、幼児さんならどの子にも見られる行動です。
しかし、やっぱりここでも、モノを投げるのを10分以上続けるですとか、親御さんを叩くのを止めないですとか、その子の年齢でいえば、こんなに続かないよな、みたいな時間やり続けると、異常性を感じます。
小さい子なら、パッと気分が変わるようなことを言ったり、モノを見せたり、場所を移動したりすると、行動を止めるのですが、それが利かないという場合も、異常性を見ます。
それこそ、昨日、記したブログの“強い苦痛”を連想させる部分です。


『持続性』と同様に、『頻度』も大事な視点になります。
一日に何度もかんしゃくを起こす。
いったん止めたかなと思っても、またすぐにやり始める。
子どもは、すぐに忘れるのが当たり前なのに、同じ気分に何度もなる、気分を引きずる、同じことに執着する、というのは、不自然さを感じます。


よく、変わった行動が見られたり、それこそ、発達障害系の書籍に出てくるようなイラストの行動をすると、すぐに「異常かも」と思われる親御さんがいますが、そうではありません。
定型発達の子も、ミニカーは並べるし、クルクル回るし、ちっちゃな変化でギャーと泣いたりします。
でも、そこに違いあるのは、上記の『持続性』と『頻度』の部分です。
この視点がないと、少しでも変わった行動があると、すぐにスマホで検索→「発達障害 ミニカーを並べる」→検索数5,000件みたいになります。
『持続性』と『頻度』は大事な指標であり、当たり前に確認するところなのに、そんなことを言う発達障害系の支援者っていないでしょ。
それは、〇✖クイズの診断基準に慣れちゃっているからだと思います。


厳密に言えば、実際、お子さんを前にアセスメントとするときは、成育歴や発達の流れ、全体的な発達状態と部分的な発達状態を確認してから、総合的にその行動が発達途上の問題ないものなのか、ちょっと注意が必要な行動なのか、を見ていきます。
でも、この『持続性』と『頻度』に注目すると、だいたいわかってくるはずです。
異常に見える行動も、一過性のものがほとんど。
「半年以上、同じ遊びを繰り返す、遊びに発展がない」というのなら心配ですが、幼児さんは1ヶ月単位で変わるのが一般的です。


ここまで読まれると、中には「持続的で、頻度も多い」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。
これで終わってしまうと、心配にさせるだけで無責任になっちゃうので、異常性を感じたときの更なる確認ポイントと対処方法を簡単にですが、書かせていただきます。


まず、最初に行うことは、身体的な病気や不調が隠れていないか、という点です。
私は、施設職員だったとき、強度行動障害を持つ人達の生活支援を行ってきましたし、今の仕事でも、そういった課題を持った人達とも関わっています。
そこで感じることは、多くの問題行動には、身体的な病気、不調が関係している、ということです。
ある人には虫歯があり、ある人には風邪があり、ある人には骨折があり、ある人には脳波の異常がありました。
また、快食快眠快便という部分が整っていないのも、問題行動、感情の爆発につながりやすいといえます。
食事の量、食べる物に偏りはないか。
夜には自然と眠くなるか、夜中に起きないか、朝起きたとき、機嫌が悪くないか(熟睡できているか)。
排尿の間隔はどうか、便秘はしていないか、尿の色は、便の色、形は?
他にも、顔色は?体重は増えているか、皮膚に湿疹がないか。
幼いお子さんなら特に、こういった身体的な病気と不調が、もろに行動へと出る場合が多いといえます。


もちろん、未発達や発達のヌケ、遅れが、異常に見える行動へとつながっている場合もあります。
発達にヌケや滞りがあると、必然的に発達段階が進んでいかず、『持続性』と『頻度』が多くなってしまいますので。
あとは、「身体的に不調も見当たらないし、発達的にも定型の範囲内だ」というときは、トラウマやフラッシュバックも考えられます。
どうしても、大きい人のイメージが強いトラウマやフラッシュバックですが、幼児さんの中にも見られますし、胎児期からのトラウマというのもあります。
ここの見分け方を説明するだけの言葉は、残念ながら私には持ち併せていません。
論理的に、病気は?成育歴は?発達状態は?と確認してはいきますが、だいたいは直感的に違和感を感じて、「もしかしたら」となるのが、私の場合です。
ただ、こういった視点もあった方が、道が開けていくかな、と思い、また大事な視点でもありますので、最後に記しました。


お子さんの行動を「異常」と見るのは、ある意味、簡単なことだといえます。
でも、それが本当に異常なのかを見分けるのが、私達の仕事であり、一番傍にいる親御さんにもわかってほしいところです。
一旦、子どもの行動が異常に見えると、すべてが異常に見えてしまいますので。
実際、それで診断を受けたり、必要のない療育や薬を飲んだりする子もいます。
大事なのは、問題を感じたとき、どのような行動をするか、できるかです。
それが育めることなら、育んでいく。
治せるところなら、治していく。
人やモノでサポートできるなら、それを利用していく。
私の約15年間の経験の中からではありますが、まったく何もできない異常とは出会ったことがありません。
どこかに解決の糸口があるものであり、周囲の大人が諦めない限り、その糸の端っこを掴むことができます。
ですから、単に「異常」「障害特性」と言って片づけてしまうのは、勿体ないと思います。

2020年4月13日月曜日

【No.1047】『切り替えが苦手』は、障害特性なのか?

自閉症スペクトラム障害の診断基準の中に、「同じであることへの“固執”」「ルーチンへの頑なな“こだわり”」という文言が出てきます。
具体的には、小さな変化による“強い苦痛”、行動を移行することの“困難”といったところです。
この『固執』や『こだわり』は、今の診断基準(DSM-5)の前から用いられていた言葉ですので、自閉っ子の行動を表現するとき、昔からよく使われていました。
ですから、『固執』『こだわり』と言えば、自閉症であり、自閉症といえば、固執やこだわりがある、という認識が当たり前になっているような気がします。


自閉症が神経発達症の一つであることが示される前、つまり、まだ、それが障害特性で、生涯変わることのない特徴と考えられたときの名残が現在も続いているような印象を受けます。
なんとかの一つ覚えのように、ある行動を止められなかったり、次の活動に移行するまでに時間がかかったりすると、「ほれ、固執だ」「こだわりだ」と言われます。
しかも、診断基準に固執やこだわりの項目がありますので、そういった子どもの姿を見て、「自閉症かもしれない」とチェックが入ったりすることもあるのです。
実際、こういった子どもさんの姿が確認されると、「ASDの疑いあり」といった診断になることも少なくありません。


で、そういったお子さん、ご家族から相談が来るわけです。
実際、お子さんにお会いすると、というか、会う前からわかるのですが、ほとんどが固執でも、こだわりでもありません。
厳密に言えば、言葉的に言うならば、固執やこだわりなのかもしれませんが、病的なものではないのです。
ある行動を止められない、次の活動への移行に時間がかかる。
それは、単に幼いからであり、どの子もそういった発達過程を辿るものです。


じゃあ、なぜ、それがわかるか、言い切れるかといえば、とっても簡単。
そこに強い苦痛も、困難も、存在しないから。
幼児さんが、遊びを途中で止めるように言われると、ギャーと泣く。
公園で遊んでいて、「そろそろ夕食の時間だから帰りますよ」と言われて、「嫌だー」と言って、手に持っていたスコップを投げる。
これが障害特性というのなら、世の中の幼児さんは、みんな自閉症。
強い苦痛というのは、遊びの中断からパニックになり、感情爆発、激しい興奮、自傷などが起きて、初めてそうだと評価できるようなもの。
ギャーと泣くくらいでは、強い苦痛とは評価できません。


同じように、「夕食だから」と言われても、まだ時間の概念がよく分かっていないし、お母さんの意図を想像しきるまでは経験値が乏しい幼児さん。
たまたま持っていたスコップを投げただけで、他害と評価するのには無理があります。
他害というのは、明らかな方向性があり、つまり、「あいつを攻撃しよう」という目的があり、敢えて道具を持つ、勢いをつけて向かっていく、というような明確な意図がなければなりません。
幼い子が、うまく気持ちを表現できなくて、手あたり次第投げるのは、子どもさんによく見られる行動です。
これも、本人からしたら「嫌なこと」かもしれませんが、強い苦痛とまではいえず、「今日のごはん、好きなハンバーグなのに」と言われて、ケロッとするのなら、そこに次の活動への移行の困難は見当たりません。


まとめますと、診断をつけるための診断をしている職業の人にとっては、それが幼い子に共通してみられる幼稚な行動か、苦痛を伴うほどの行動か、はどうでもよく、「固執」「こだわり」を連想できるものだったら良いわけです。
現行の診断基準は、当てはまる行動を見つけることが診断に繋がりますので、その背景に気を留める必要はない。
ですから、実際にお子さんにお会いすると、「ただ幼いだけじゃん」「別の場面では、スムーズに移行できているじゃん」「いつも切り替えられないんじゃないし、ちゃんと理由があるじゃん」ということばかり。
よくもまあ、この行動で、“強い苦痛”を伴う固執と評価したな、と思うことも少なくありません。
ほとんどのお子さんが、成長と共に、切り替えが上手になっていきます。


診断という入り口で間違うから、次に出会う支援者たちも、こぞって間違いを犯します。
「自閉症=こだわり」という頭、先入観で、子どもの行動を見れば、すべてこだわり行動に見えてきます。
1つの行動が止められない→切り替えが苦手となる。
この切り替えが苦手も、いつの間にか、拡大解釈がなされ、あたかも自閉症の障害特性みたいな扱いがされています。
何度も言うようですが、切り替えが苦手なのは、幼児さんの幼さゆえの自然な発達過程です。


拡大解釈によって生まれた「切り替えが苦手」という偽の特性。
もうこの時点でアウトなんですが、切り替えが苦手という偽の特性に対して、視覚支援なんかを始めちゃう支援者がいまだにいます。
「切り替えが苦手だから、見通しを持たせよう」と、せっせと絵カードを作り、スケジュールを提示する。


確かに知的障害が重く、周囲の状況、意味理解が乏しい人たちにとっては、絵などによるスケジュールが、唯一、理解できる情報になるので、それに従っていくような傾向があります。
でも、幼さゆえの切り替えの苦手さを持つほとんどの子ども達は、最初は好奇心で、面白そうだからやることはあっても、すぐに飽きて、提示されたスケジュールに従わなくなります。
そうすると、支援者との間で、押し問答が始まるわけです。
スケジュールに従わせようとする支援者と、自分がやりたいことをやりたい子どもさんとの闘い。
「スケジュールをやります」「次は〇〇です」と言い続ける支援者と、床で寝転ぶ子どもさん。
こういったやりとり、姿を、平成の世から数え切れないくらい見てきましたし、いつも、「どっちが自閉症で、どっちが支援者かよ」と思うことばかり(笑)


切り替えが苦手なのは、障害特性ではなく、単に幼いからですね。
脳の前頭葉が、自分の行動をコントロールするわけですが、幼児さん達は、小学校低学年くらいまでは、もっといえば、ここが完成するのは20代になってからなので、まだ自制したり、切り替えたりするのは苦手で当たり前。
「遊びたい」という本能的な欲求を、自制するまで、子ども達の前頭葉は育っていません。


ですから、固執やこだわり、切り替えが苦手などと指摘され、診断に至ったお子さん達の発達相談では、その前頭葉の発達状態を確認します。
幼児さんは、未熟とはいえ、日々、育っていく部分でもありますので、その年齢で「だいたい、このくらいの発達段階」というのはわかります。
よって、その発達段階と比べて、明らかに遅れている場合、それを育てる方法を親御さんに提案します。
でも、これは、自閉症を治すというよりも、発達を促す意味での子育ての範疇です。
遅れていれば、育てれば良いのです。
それを固定された固執のような誤った解釈をし、スケジュールなどの視覚支援で、自閉症として生きることを学習させるから、従来の支援が「グレーを黒くする」と言われるわけです。


年齢と比べて、前頭葉の発達が遅れている子に対しては、まずは胎児期から2歳くらいまでの間に生じている発達のヌケを育てなおすことが、一番です。
前頭葉が最後のほうで育っていく部分ですので。
そこを育てつつ、前頭葉を刺激する遊び、活動をすると良いです。
で、ここで出てくるのが、「切り替え」という話。
活動の切り替えには、前頭葉の発達が必要であり、ということは、活動の切り替えという要素が、前頭葉の発達に繋がるのです。


活動を切り替えるには、まず今やっている行動を「やめる」「とめる」「とまる」ということが必要です。
まず活動を止めなきゃ、次の活動へは移れない。
そして、この活動を止めるには、時間的な“間”が必要であり、その“間”を作るには、自分の身体を止めるだけの運動機能、筋力が必要なわけです。
他にも、止められるようになったら、次に移行しようという意思が出なくちゃならなくて、そのためには「今と次」という流れを感覚的に掴める必要があります。


という具合に、ほかにも必要な要素があるのですが、長くなるのでやめにしておきます。
とにかく前頭葉を育てる方法はたくさんあるし、子ども達は主に遊びを通して前頭葉を育てている。
その結果として、幼いときは切り替えが苦手だったけれども、徐々にできるようになるわけです。
30代の大人が、「切り替えが苦手なんです」といえば、そこには工夫や配慮が必要なのかもしれませんが、幼児なら当たり前で、当たり前だからこそ、障害ではなく、育てていく。
「自閉症だから固執、こだわり」ではなく、その固執の背景は?発達の流れから見て、どうなのか?という視点で、子どもさんをしっかり見ていかなければ、いつまで経っても、誤診や『未発達保存の会』『白をグレーに、グレーを黒にする会』『青色を見る会』がなくなりませんね。