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【No.1131】2020年も大変お世話になりました!

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まずは業務連絡からです。 12月26・27日にお会いした皆さま、昨日の午前中、報告書を郵送いたしました。 早ければ本日、遅くてもお正月明けにはお手元に届くと思います。 2021年の更なる成長を願い、ご本人、ご家族を後押しする気持ちを込めました。 報告書を読んでわからないことや新たなご質問等が出てきましたら、メールくださいませ。 お返事いたします。 ということで、昨日は本局に封筒を出し、その後、神社にお礼参りを。 午後からは経理の仕事を行い、2020年の帳簿を完成させました。 今朝はジム納めをして、駐車場の雪かき、注文していたオードブルとお正月料理を受け取りに行き、お昼に年越しそばを食べ、メール相談の返信をし、今、豆を挽き、珈琲を入れ、飲みながらブログを綴っております。 大人になると、一年が早く感じていましたが、今年に限って言えば、長い一年でした。 途中、動きたくても動けない時期がありましたが、緊急事態宣言が明けたその日から関東出張。 結局、出張も本州だけで11回、北海道内もあちこち行っていましたので、今年の目標であった毎月1回以上の出張を達成することができました。 私に発達相談の機会を与えてくださった皆様、どうもありがとうございました。 一応、個人事業とはいえ、経営者ですので、「どうして依頼が増えたのか?」を分析する必要があります。 一番の理由は、花風社の浅見さんをはじめ、著書の方々、花風社さんの本を愛読する方達が私という存在をお引き立ていただき、広めてくださったからだと考えています。 個人事業主として生き残るかどうかは、腕の良しあしではなく、その前に何よりも「知ってもらう」ことだと思います。 私のように何かモノを売るのではない個人事業主のほとんどは、サービスの質で勝負する前に「知らない」ということで消えていく存在です。 ですから、私一人では難しかった「知ってもらう」ということを後押ししてくださった皆様、どうもありがとうございました。 この一年、発達相談でお会いした皆さまの顔を思い浮かべると、コロナ騒動があろうがなかろうが、たぶん、依頼してくださったと思います。 どういうことかと申しますと、みなさん、自分の頭で考えられる方達だと感じるからです。 いま、全国どこでも公的な支援サービスを受けることができます。 しかも、ほとんど自己負担がなく。 何も疑問を持つことなく、多

【No.1130】『発達障害・脱支援道』(花風社)を読んで

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福祉、特に障害者福祉の世界は不思議である。 施設職員による暴力や人権侵害など後を絶たないが、いつもそれは"内部"告発によって世の中に出る。 自ら訴えることが難しい当事者にとって、本来、一番の代弁者は親であるはずなのに、親からの告発はめったにない。 あったとしても、それは我が子と親の闘いに終わることばかりで、同じ施設を利用している他の親たちに波及することがなく、ネットニュースの一つとして埋もれ、消え去っていく。 そうして、いつまで経っても、福祉の闇は闇のままである。 今回、皆様にご紹介、お勧めする本は、自閉症・発達障害を持つお子さんを育てられた親御さんであり、また自ら様々な福祉の現場で働かれた経験を持つ廣木道心さんが執筆されたものです。 廣木さんほどの経歴・職歴を持っている親御さんは少ないと思いますが、親から支援者の立場になられた人は少なくないでしょう。 しかし、そういった親御さんと廣木さんの違いは、我が子のパニックを治し、働く大人として社会に送りだした点です。 そこがまず大きな違いです。 大部分の支援者に転身した親御さんというのは、我が子に叶わなかった願い、子育てを他人の子を使って気をそらしているだけ。 これまた障害者福祉の不思議なところで、我が子をより良く育て、社会に送りだした親御さんほど、福祉の世界に入ろうとはしないのです。 反対に、「まず我が子をどうにかしろよ」という親御さんほど、ひと様の子の支援や相談、挙句の果てに講演会の講師まで引き受ける始末。 療育手帳では重度という判定を受けながらも、同年齢の子ども達と同じ学校、教育を選択し、社会人になった今では子ども時代から磨いてきた資質を使い、社会の中で一人の大人として生きている息子さんを育てられた先輩として語られる言葉に耳を傾け、学ぶことは大きな意義のあることだと思います。 また冒頭で記した通り、福祉の問題は内部告発でしか表に出ない中、この本で語られている現実は、外から福祉を覗く者にとって貴重な証言になるはずです。 特に、まだ幼いお子さんを育てている親御さんたちにとって。 もちろん、小学校、中学校というように、特別支援の世界が長くなれば、福祉の闇は見聞きするものですし、何となく皆さん、気がついています。 でも、人というのは見たくない現実を頭の中で変換する能力を持っています。 「私が見た児童デイの

1月23日(土)『医者が教えてくれない子どものステキなところ』zoom講座のご案内

出張から帰ってきてバタバタしていたら、ちょうど1ヶ月後になりました。 皆さまへのご案内が遅くなってしまい、申し訳ございません。 既に今回も企画・主催して頂く花風社さんのほうで募集が始まっております。 講座の詳細、お申し込みは こちら です! 前回、9月の講座『医者が教えてくれない育ちのアセスメント』では、皆さまご存じの 『からだ指導室 あんじん』主宰である栗本啓司さんと対談させていただきました。 このときの対談の中心は、医療とは異なる視点で行っているアセスメントについてでした。 今回は花風社の浅見淳子さんから『子どものステキなところ』というテーマを頂戴しましたので、私が行っているてらっこ塾での実践の中から、どのような言動・姿から子どもさん達の「育てたい」「育ちたい」というメッセージを受け取っているのか、をできる限り具体的にお話しさせて頂こうと考えています。 自分で言うのも何なんですが、たぶん、全国探しても私のようにあちこちのご家庭に訪問し、その子とそのご家族だけのためのアセスメントとより良い子育てに向けた話し合いをしている人間はいないはずですので、一般的な支援者とは異なる視点でお話しできると思います。 対談のお相手は、花風社の浅見淳子さんです。 浅見さんは、特別支援の支援者ではなく、編集者さんです。 長年、出版やお仕事を通して、自閉っ子の皆さん、ご家族の皆さんと関わり、また外から特別支援を見てきた方です。 一方で私も20代はどっぷり特別支援の中にいた人間ではありますが、今はこうしてどこの組織にも属さず、家庭支援という仕事を中心に外から特別支援を見ている状態です。 当然、社会人として、起業者としてのキャリアは比べるのもおこがましいぐらい違いはありますが、浅見さんと私は外から特別支援を見ている、そして当事者ではなく、外から見ているからこそ、気づけたこと、見えてきたことがあると思います。 対談の中ではそういった部分も、浅見さんとお話しさせていただき、私個人としても浅見さんの視点をお聞きしたいと考えています。 講座の形式はzoomを使用したものになっておりますので、パソコンやスマホ、タブレットから視聴することができます。 当日、リアルタイムで視聴できない方、何度も観返したい方には、後日録画視聴ができるプランもあります。 【ご視聴金額】 当日のみ:3,000円 当日+後日動画

【No.1129】コピペで体裁が整えられた世界

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今年は年末に帰省をしない若者たちがいるそうで、そういえば、大学4年の年末は帰省しない同期たちが多かったのを思い出します。 みんな、1月提出の卒論を必死に執筆していました。 私はというと、いつも通り帰省。 卒論は5月くらいに書き上げ、卒論指導はできた論文から小出しに提出し、「今、執筆頑張っています」風にして、あとはボランティアとか、地域活動とか、自分のやりたいことをしていました(笑) 今もかもしれませんが、ある時期、学生のレポートや卒論にネットから引っ張ってきたコピペが使用されていることが問題になっていましたね。 そのコピペを見抜く教授陣も大変で、そういったコピペを検索してくれるソフトまで開発されたとか。 学生が何でコピペをするかといえば、ラクをするためでしょう。 よさそうな文章を見つけコピペすれば、その分、体裁は整います。 でも、そのとき、学生の頭の中では考える機会が失われているのです。 「自己肯定感を大切にしよう」というのは、私が学生だった20年前から言われていました。 他にも「失敗経験はさせてはならない」「できることをスモールステップで」 そして「できたことは、どんな小さなことでも褒めるように」と。 あれから20年が経ち、自己肯定感という見えないものを崇め、失敗経験をすることなく、小刻みなステップを踏みながら褒めたたえられ育った子ども達は、見事に特別支援教育の世界から福祉の世界へスムーズな移行ができたのでした。 上記の言葉たちもそうですが、学生時代に教わった言葉が今もなお、そのままの形で残り続けていることに私は違和感と特別支援の限界を感じるのです。 そりゃあ、今親になり、子育てをされている方たちにとっては、専門家から聞く真新しい言葉たちなのかもしれませんが、少なくとも支援する側、教育する側に携わってきた人間なら、その言葉たちがコピペ以外の何ものでもないことがわかると思うのです。 「障害児教育の世界は、とにかく人材がいない」 「まずは人を増やさなければならない」 そんな風にも、よく言われていました。 確かに当時、支援らしい支援なんてなく、その地域にある1つか、2つの機関で専門的な"何か"を受けられることが貴重で、親御さんにとってはステータスにもなっていたように感じます。 今のように「どれを選んだらよいか分からない」なんていうのは、ぜいたくな悩み

【No.1128】因果関係のその先へ

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私の気持ちが「ラジオ」へ向かっている中でも、「ブログを見ました」と相談や依頼をくださる方達がいらっしゃいました。 こちらの文字のブログはほとんど開くことなく過ごしていたのですが、以前と変わらず、見てくださる方が大勢いたのがわかり、「そういえば、いきなりラジオのほうにはこないよな」と思ったのでした。 ラジオを始めて1ヶ月ほど経ちましたが、ラジオへ完全移行というよりも、内容を分けて文字のブログも並行して続けていきます。 お便りやご相談など、ライブ感を大切にする内容はラジオへ。 じっくり考え、まとめ上げていくような内容はこちらのブログへ。 入り口としてのブログ、ツウのためのラジオ(笑)というようにしたいと思います。 久しぶりに文章に書きたいなと思ったのは、因果関係についてです。 「Go to トラベルを実施したから、感染が広がった」 まさに因(Go to トラベル)があっての結果(感染拡大)の図式になっています。 この図式を見て、私達は気持ちよく感じるものです。 ヒトは複雑なものをシンプルにすることで、理解や納得"感"を得るからです。 しかし、世の中、こんなに単純明快なことはありません。 因があって結果というのは、実験室の世界の話であり、レベルは小学生の理科であります。 いろんな条件は排除し、ただ日光を虫眼鏡で集めると、黒い紙に火が付く、みたいな。 でも、小学生はこれで良いのです。 分からないことが分からない、何が分からないかも分からないときを生きる子ども達にとって、因果という窓は「分かった!」という充実感を味わわせてくれるから。 今となっては誰が言い出しっぺか分からないマスクも、かたくなに外そうとしないのが多くの日本人です。 なので、これまた誰が言い出しっぺか分からない「自閉症(発達障害)は治らない」という言葉も、かたくなに信じようとする人たちが大勢いるのです。 自閉症、発達障害は、まさに複雑系です。 同じ自閉症という診断でも、一人ひとりがまったく違います。 ある意味、よくもまあ、共通点を見つけたな、というくらいです。 「自閉症」という診断名は、なにも実態を表してはいないのです。 ただ確実に言えるのは、本人が「困っている」という現状のみ。 本人が「困っている」のは分かるけれども、なにが困っているのか、どう困っているのか、その困っている状態はどうすれば

【No.1127】ラジオチャンネル開局のお知らせ

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発達って目に見えないものですよね。 その見えないものを商売にしている私は、とても危ない橋を渡っているといえるのです。 実際に商品が合って、それを売り買いする商売でしたら、モノが残り、またその価値を感じることができます。 しかし、私の行う発達相談、援助はサービス業であり、お客さんが満足するかどうか、そのニーズに応えるかどうか、それが唯一の価値になります。 標準療法は、エビデンス、科学的根拠を重視します。 何故なら、みんなの税で成り立っている商売だからですね。 サービスを利用しない多数の人がいて、少数の人がサービスを利用している。 そのとき、エビデンスが必要になるわけです。 よく勘違いされている人がいますが、少数の利用している人のためにエビデンスがあるわけではありません。 利用していない大多数の人のために、「皆さんから集めた税金は、ちゃんと科学的根拠のあるものに使用していますから」というある意味、建前のためにエビデンスが使われているのです。 親御さんによっては「エビデンスのある療法しか信じない」という人もいますが、たぶん、その人は基になる論文を読んでいないのでしょう。 論文には、こう書かれています。 「被験者〇名のうち、〇%の人に効果があった」と。 つまり、どの論文も100%の人に効果があるとは言っていませんし、そんなことは不可能です。 被験者という括りは同じですが、もっている資質、生活している環境、影響を受けた刺激、その人が歩んできた歴史が違うのですから。 よって、エビデンスがあるから、我が子にも効果があるとはいえないわけです。 エビデンスの根底に流れているのは、「効果があるかないか、やってみなきゃわからない」 70%の人に効果があるけれども、必ずしもその70%に自分の子が入る保証はありません。 効果のない30%に入る可能性だってあるのです。 しかも、その70%も同じように再現できる可能性は少ないから、実際は35%というようなこともある。 さらに論文に書くような実験は、先に挙げたような個別の違いを極力排除というか、見ないようにします。 そこを見たら、研究などできないからです。 それこそ、冒頭でお話ししたように発達とは目に見えないものですし、ある発達課題1つをとってみても、そこに関わる要因は、環境、遺伝とはず、複数あり、それも複雑に絡み合っているのです。 Aというエビデ

【No.1126】名も無い遊びが連なっていくイメージで

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「子どもは自分に必要な発達刺激が分かり、自らで育てようとしている」というのは、日々の発達相談で感じることです。 この視点を1つもつことができれば、子にとっても、親にとっても、気持ちが前向きになり、どれほどラクになるのかと思います。 ですから、私はせっせとその話を方々でしています。 その一方で気を付けなければいけないな、私の説明に足りないところがあったな、と思うことがあります。 「子どもが主体的に育てようとしている」がひっくり返って、「主体的に行おうとしないことには育ちがない」という解釈です。 確かに今、お子さんが主体的に、それこそ時間を忘れるくらい没頭しているような名も無き遊びがあるのなら、それをやりきれる環境を作ることが発達の後押しになります。 しかし、じゃあ、見向きもしない遊びは全部必要ないかと言ったら、そうではないと思うのです。 あるお子さんは、内耳(前庭感覚)に発達の遅れがありました。 シーツブランコをキャッキャキャッキャと楽しむお子さんでしたが、身体が大きくなりましたので、公園のブランコで揺れる感覚を味わってみたら、と試みました。 そうすると、ブランコに乗って揺らした瞬間、嫌だと降りました。 その姿を見て、親御さんは「やっぱり早かったかも」と止めようとされていましたが、その子は揺れる前までは座っていたのです。 ということは、「揺れの大きさを変えてみたら…」と思いました。 実際に、揺れの幅を小さく、ゆっくりにすると、その子はその揺れを感じるように座っていました(その後も10分ほど)。 たぶん、この子にとっては、ブランコに座り、ちょっとだけ揺れるも、名も無い遊びだったのです。 子どもさんの場合、「知らない」「わからない」がたくさんあります。 ですから、自ら進んで育てようとする名も無い遊びは、どうしても体験したことや見聞きしたことの範囲で選択されることが多くなるのです。 もしかしたら、その子がもっともっと熱中するような名も無い遊びは、ほかにもあるかもしれません。 よって、子どもの世界を広げるためにも、いろんなチャレンジ、体験をすることが重要になります。 そういったときに、一見見向きもしないような遊び、活動の中にも、やり方を変えれば、発達につながるような遊びに変わることもあるのです。 もちろん、そういったことができる前提には、「今、我が子がどこを育てたがっているか

【No.1125】日によってできたり、できなかったり

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自閉っ子は、発達障害の子は「凸凹がある」というような言い方をされます。 確かに、アセスメントをしていても、こっちは同年代と同じくらいで、あっちは数年遅れている、なんてことは多々あります。 まあ、神経発達に不具合がある子ども達なので、というか、神経の繋がりにバラつきがあるのですから、「ああ、ここが抜けた分、迂回してこっちと繋がったのかな」「本来、必要ないくつかの繋がりの部分が少し足りないな」と感じます。 イメージで言えば、たとえ同じようにできていることでも、定型の子どもさんよりも迂回や繋がっている本数が違う分、目一杯でできている感じ。 よって、応用するような場面で、それらの回路がうまく使えなかったりして、能力の凸凹ができてしまうように思えます。 能力の凸凹ですので、「数学はできるけれども、国語がまったくできない」ですとか、「素晴らしい文章は書けるけれども、他人の気持ちを察することが苦手」などというようなことを指すのだと思いますし、実際、そのような人達が多いと言えます。 知的障害を持つ人達の場合、全体的な発達が遅れている、全体的な認知機能で遅れがある、という様相を見せるので、ここが神経発達症の人達に特徴的なところでしょう。 しかし、どうも、この能力の凸凹が拡大解釈されているようです。 子どもというのは、神経発達が盛んな時期ですし、気分や体調によって、できることができなかったり、やれるのに「今日はやりたくない」とやらなかったりします。 これは幼ければ、幼いほど、当たり前ですし、自然な子どもの姿だといえます。 一度、できるようになったことは、コンスタントにできるというのは、心身共に年齢を重ねないと見られない姿です(大人でも難しいww)。 それなのに、この「できたり、できなかったりする」が能力の凸凹であり、発達障害の特徴である、故に自閉症である、なんてことを言う人たちがいるのです。 最初は、親御さんの口からそういった話が出ていましたので、その都度、説明はしてきたのですが、なんと「支援者からそうやって言われた」という親御さんがいたり、中にはそれが診断の決め手だという風に言われ、診断名をつける材料にされてしまったご家族もいるのです。 いつからコンスタントにできる=定型になり、それができないと発達障害になったのでしょうか。 日によってできたり、できなかったりするのが子どもであって、

【No.1124】「長所を伸ばすか、短所を減らすか」ではなく、「資質を磨く、未発達を育てる」

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時々、「発達障害だから私なんだ」「自閉症の特性があって良かったんだ」というような人を見かけます。 たぶん、これは自閉症を一つの才能として捉えているというか、そこに極端にフォーカスしているんだと思いますね。 裏を返せば、それだけ生きづらいということです。 単にポジティブな才能だとしたら、「私、絶対音感があるんです」とか、「私、過敏に相手の気持ちを察することができるんです」とか、「私、一度見た景色をそのまま覚えていられるんです」と言えば良いのですから。 何だかわからないんですが、私にとってかけがえのないものなんだ、それこそが私なんだと言う一方で、「生きづらい生きづらい」と言い、「理解を」と訴えます。 これだと良くなりたいのか、なりたくないのか、わかりませんね。 中にはアクロバティックな主張もあって、「この長所(?)を無くすくらいなら、ずっと発達障害でいい」などという人たちもいます。 まさに、これこそが医原病というか、特別支援病というか…。 育つ部分、治る部分、活かす部分がごちゃまぜというか、良く分かっていないんでしょうかね。 流れ作業のように、マニュアル支援によって「脳の機能障害」という言葉で、「はい、おしまい」になってしまう現状。 一人ひとりの"人"に対するアセスメントが行われていないという実態と、「大人の発達障害はちょっと…」と敬遠しがちで、子ども以上に諦めの態度で臨んでいる支援者たちが、生きづらさに目を閉じて、やたらめたらに「長所長所」と言い続け、こういった人たちを育てているのでしょう。 まあ、支援の目的がいまだに「二次障害にならないように」というのですから、文章を見せられれば「文の才能がある」、絵を見せられれば「絵の才能がある」、こだわりのものを見せられれば「その道を極めてみたら」と、無責任発言が繰り返されるのだと思います。 少なからず、こういった大人たち、特別支援の中の戯言の影響を受けているのでしょう。 お子さんを育てている親御さんの中にも、「特性が良くなる」「症状が育ってみられなくなる」と「長所も消える」という関係性について疑問に思われている人たちがいますね。 ほとんどが感覚の過敏性に関連する部分だといえますが。 結論から言えば、過敏性がなくなる、つまり、聴覚が育つ、前庭感覚が育つ、嗅覚が育つ、味覚が育つ、視覚が育つが、優れて育っている部

【No.1123】揺らぎ、言語化

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いつも好き勝手書いているこのブログではありますが、読んでくださる方達に向けて2つのねらいがあるんです。 それは「揺らぎ」と「言語化」です。 「揺らぎ」っていうのは、心の揺らぎ、身体の揺らぎ、感情の揺らぎ、いろんな揺らぎがありますね。 「自分はこう考えていたけれども、もしかしたら別の道があるかも」 「もしかしたら、私が捉えていたものは、一側面でしかなかったかも」 とにかく何でもいいんで、揺らぎが起きて欲しいなと思って綴っています。 揺らぎがないと変化が生じないわけで、変化が生じないということは後退がなければ、進歩もないということですし、一切揺るがないというのは危険でもあるんですね。 その道を極めるような職人さんならそれども良いのだと思いますが、相手は生きているヒトですし、我が子とは言え、他人です。 しかも、私たちが関わろうとしているのは、発達という現象です。 その発達こそが、揺れ動く存在そのもの。 非定型なんて言われますが、定型発達だって安定ばかりではありませんね。 発達とは揺れ動きながら前に進んでいくものなので、そういった発達と向き合う大人たちも日頃から揺れ動く体験をしておく必要があると考えています。 「ああ、これでよかったのかな」 「もっと別の方法があったかも」 それがあるから、子どもさんの発達の流れ、揺れに合わせて柔軟な後押しができるのでしょう。 揺れない人っていうのは、子どもに見られる自然な揺れを自分の型の中に収めようとする傾向があり、子どもさんとお会いすると息苦しさを訴えていることが多くあります。 もう一つの「言語化」というのは、一人ひとりの内側にある感覚を言葉に表すことです。 発達相談で感じるのは、既に親御さん達の中ではアセスメントも、どうやって育てたら良いかも気がついている場合が多いということです。 ただ皆さん、それが言語化できていない。 無意識レベルでは捉えているし、日々の生活の中で察している。 だけれども、その感覚に見合う言葉が出てこないから、モヤモヤされているように感じます。 そのモヤモヤの状態が続くと、自分の内側から離れた言葉に身を寄せ始める。 「発達のヌケ」という言葉と出会えず、「それが"障害特性"だから」という言葉で無理やり自分の内側にあるものに命名している感じです。 これまで多くの親御さん達とお会いしてきましたが、察して

【No.1122】心にピッタリな言葉を

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喉元過ぎればなんとやらで、きっと今回のコロナ騒動も、うやむやになって終わっていくでしょうね。 民間レベルでは振り返りや反省、問題点の整理などを行うのでしょうが、たぶん、そういった類の本もでますね、だけれども、国家レベルでは白黒はつけずに曖昧にして処理されていくと思います。 当然、当事者の人達の反省の弁もないでしょう。 気が付けば「コロナが終息した」「私達はコロナに打ち克った」などと言うのも見え見え。 ただ最初からそんなに恐れるレベルではなかったものを、いつまでも恐怖感というムードに引きづられ、軌道修正できなかっただけなのに。 「敗戦」を「終戦」と言ったり、この辺りは日本語の豊かさでもあり、豊かさに胡坐を嗅いだ日本人の悪いところでもあるように感じます。 言葉で言えば、特別支援の世界も、そういった曖昧さを利用した意図的な言い換えが多いですね。 たとえば、「移動支援」 学校終わりに車に乗せ、児童デイまで連れていき、終わったら家の玄関まで届ける。 これのどこが支援なんですかね。 お年寄りの移動"介護"と何が違うのでしょうか。 そしていつも思うのですが、学校の下校時間にタクシーをお願いして、乗り合いで児童デイまで行ったほうが安いと思いませんか。 みんなから集めた税金を使って、タクシー料金の何倍も使っている。 毎日ハイヤーで御迎えかよ、と思っちゃう金額です。 乗り合いなら割り算なのに、税金は人数の掛け算ですよ(ひとの金だと思ってプンプン)。 私はタクシーを使うほうがよっぽど子ども達のためになると思いますね。 タクシーの使い方の勉強、運転手さんとのやりとりから感じるもの、学ぶものもあるでしょうし。 それでいったら、公共のバスとかで移動したほうがいいですね。 一般のお客さんもいますし、沢山の刺激と学び、体験が得られます。 どうせ、「移動支援」というのなら、そういった将来につながるような支援をしてほしいものです。 学校の前からみんなでバスに乗って移動する際の見守り・支援。 支えるも何も、流れ作業のように子どもを乗せて、ただ送り届けているのは支援と言わないでしょ。 「自立支援」なんてもいいますが、その自立支援を受けて自立につながる人はいませんね。 だってやっているのが、自己肯定感を高めるという名の接待であり、将来介護しやすい人になるための、もっといえば、支援者が

【No.1121】発達の遅れ=自閉症なの??

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毎年、この時期になると、お子さんの成長した様子を教えてくれるメールが多く届きます。 夏思いっきり遊んだ子ども達が、だいたい3ヶ月くらい経って、ググッと神経が繋がり、大きく育つ時期なんでしょうね。 中には「大久保さんの発達相談のおかげで、治りました!」と言ってくださる親御さん達もいますが、まあ、私はきっかけの一つであって治す力は持っていませんし、言うならば治したのは子どもさん本人で、それを後押ししたのはご家族です。 でも、その「治った」も、私が関わるお子さんの場合、なんか違う気がしますね。 治ったというよりも、ヌケていた発達課題が育った、未発達の部分が育ったという感じ。 子どもが発達するのは当たり前なので、それに未発達が育つのは特別な出来事ではないですし。 ですから、治ったというよりも、特に幼児さん、小学生の子ども達に関しては、いま、「育った」のだと思います。 この辺りのニュアンスが、やはりある程度、年齢を重ね、生きづらさを抱えながらも、生活も、脳内も、折り合いをつけてきた人たちとは違うような気がします。 ここ1年くらい、「治った」と「育った」をその人の雰囲気で使い分けていました。 でも最近、わかったんですね、その違いが。 この前もそうなんですが、自閉症という診断名がある子のおうちに行ったんですね。 でも実際に本人にお会いしたら、どこが自閉症なんですか?と思うくらいナチュラルだし、そもそも診断基準ぜんぜん満たしてないじゃん、という子だったんです。 私が仕事で伺ったのに、反対にお母さんに「どうして自閉症って診断できたんですか?」「どういった行動、症状があったんですか?」と尋ねちゃうくらいです。 でも、こういった出来事というか、現象というか、本当に多いんですよね、道内だけではなくて、全国あちこちでも。 現在の診断方法が適当かはおいといて、自閉症というからには中核的な特性が揃っている必要がありますね。 言葉の遅れや他者との関わり、それに伴う想像性や固執、感覚面の異常さとか。 しかし私がお会いする子ども達は、あっても1つか、2つかで、それも既に治っている、症状や異常さが消えている、定型の範囲まで育っている場合ばかりなんです。 ここで考えられるのが、「治った」ということですね。 確かに診断を受けた時点では、自閉症の中核的な特性が一定以上見られていた。 でも、その後の成長の中で、

【No.1120】発達のヌケは診断基準を満たすためにあるのではない

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巷にノウハウ本やマニュアルが溢れているのは、それだけ「勉強熱心な人がいる!」ではないんですね。 みんな続かないから、そういったものがたくさんあるんで、積み上がったノウハウ本を見て、達成感の前借をしているんですね。 進学塾の先生も、「頭のいい奴はあれこれと参考書に手を出さず、その参考書を何度も解くもんだ」といっていました。 「浪人する奴は、参考書を買ったことに満足する」とも。 同じように療育の世界もマニュアルばかりですね。 「自閉症には構造化」 「問題行動は無視」 「二次障害回避には自己肯定感」 ほんと、A→Bみたいな感じで、全国どこに行っても、だいたい同じ問いに同じ答えが返ってきます。 まさに機械のマニュアルと一緒ですね。 「このボタンを押したら、画面が変わる」みたいな。 機械相手に商売しているのなら、これで良いのかもしれませんが、目の前にいる子ども達は生きている生の人間です。 だから、そもそもマニュアルのようなモノを作っても、まったく役には立たないんですね。 ではなんで特別支援の世界はマニュアル化に進んでいくかといったら、人材不足でしょう。 マニュアルの目的は、「誰でも同じ結果」です。 どの支援者、専門家も、一人ひとりの見立てをたて、その子に合った助言や支援ができれば、そんなものは邪魔なだけでめんどくさいだけ。 だけれども、現実はそうじゃないから、どの支援者も支援者っぽく見えるように、結果は良く分からないけれども、なんとなく専門的な何かをやっている雰囲気を出すために、一律のマニュアルが必要になります。 そうじゃなきゃ、ひと昔前の介護員と変わらないでしょ、支援員って。 やっていることは一緒だし。 私は支援員と名乗るためにこそ、マニュアル療育があるんだと思っています。 数学の計算式のような療育も、子育てもありませんね。 「栄養療法で発達障害が治った」というのも、ある意味、間違えになります。 現象としての、結果としての"治った"はあるでしょう。 だけれども、この場合は、「A君にはタンパク質不足や鉄不足があり、神経発達に必要な栄養素、酸素が足りない状態が続いていて神経発達に遅れが出る原因の一つになっているから、栄養面から改善を図った結果、刺激に反応するだけの準備が整って滞っていた発達が進み、治った」というくらい、まあ、短く書いてもこれくらいの言葉が抜け

【No.1119】金魚体操で思う

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9月のzoom講演会で「金魚体操原理主義」という言葉がありましたね。 黄色本(『自閉っ子の心身をラクにしよう!』花風社)の中で、著者の栗本さんが金魚体操を紹介されたのがきっかけで、それから一気に広まったのだと思います。 それまで金魚体操は、保育の世界の知る人ぞ知る、知る人しか知らない小さな実践だったといえるのですが、今では神経発達症の子ども達をより良く育てよう!と考えている親御さん、支援者の中では当たり前みたいな感じになっています。 全国を見渡せば、寝る前の日課にされているご家庭が多いのではないでしょうか。 私の発達相談でも、「うちの金魚体操のやり方を確認してほしい」というようなこともがあります。 でも私は、自分ちの子ども達用に保育園で教わった方法しかわかりませんし、正しい(?)金魚体操というのがあるのかわかりませんが、栗本さんが実践、指導されている方法とは違うと思います。 というか、それでいいんですよね、一人ひとり違って。 黄色本にも、ポイントは子どもさんの呼吸の変化と表現されていましたし、具体的な時間とか、回数とかは書かれていませんでしたし。 ここからは黄色本を読んだ私の解釈になりますが、黄色本のこの部分について大事なことは、「金魚体操をやりましょう」「やったら良くなる」ではなくて、自閉っ子特有の身体的な固さと弛めることの大切さ、弛緩できる身体を育てることの必要性だと思いますね。 ですから、「うちの子、金魚体操が難しいんです」みたいなご家庭へは、弛む感覚を本人が感じられればいいんで、金魚体操にこだわる必要はないと思いますよ、と言っています。 金魚体操が唯一無二の素晴らしい方法みたいな感じで、金魚体操ができないなら、金魚体操ができる身体に育てる、みたいなちょっとズレてきている場合もあるかも。 ある若者は、近所で太極拳を教えてくれるところがあったみたいで、そこに通いながら「ああ、これが"弛む"か」なんて具合に、感覚的に掴めるようになったと言っていましたね。 他には、プールが好きな子は、弛むと水に浮かぶようになるから、それを目標に親子でゆらゆら揺れに行って育てている家庭もありました。 まあ、とにかく力を入れるだけではなく、入れたり、弛んだりできるように育つことが重要なんですね。 我が子に金魚体操をやろうとしても、なかなか受け入れてもらえないのなら、

【No.1118】他の家の育ったエピソードは「希望」と「考えるきっかけ」

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人間、「ない」を目標にすることはできないんですね。 「ない」というのは具体的ではありませんし、だからこそ、そういったもんを思い描きながら何かをするって言うのは難しいんです。 よって「二次障害がない」っていうのは目標になりませんね。 二次障害が起きないようにするために、早期から療育に通う、療育を頑張って受ける。 イメージできないものを頑張ることはできませんので、そういったことを目標に掲げ、療育を受けていると、いつの間にか受けることが目的となり、振り返れば何のための年月だったのかと思うことになってしまいます。 ですから、「ない」ではなく、「ある」を目標にしなければなりませんね。 たとえば、「一人で宿題を始めて、終えることができる」とか、「自分で尿意を感じて、トイレで排泄できる」とか。 これだったら目指すべき姿が明確ですので、ちゃんと終わりがはっきりしていいんです。 何より、その子の顔、姿が浮かびますね。 お子さんにとってそうですし、親御さんにとっても待つ姿勢が保てて良いと思います。 親御さん達のお話を伺っていると、我が子の発達の遅れやなかなかヌケが埋まっていかないことのみに悩んでいるわけではないんですね。 むしろ近頃では、他の神経発達症の子どもが育っていく様子と自分たちを比べて、それが新たな悩みになっている場合が多いように感じます。 「ああ、あの子は順調に育っている(我が子は…)」 「同じようなアプローチをしているのに、うちの子と伸びが違う…」 「育った」「治った」という声は希望であると同時に、心を締め付ける作用もあるのだと思います。 そういった親御さん達に私はお話しするのですが、「診断が外れた」とか、「普通級で大丈夫になった」とか、「症状が治った」というのは、明らかに希望なんですね。 私が学生時代の親御さん達なんて、希望らしい希望すらなかったんですから。 「将来、どんなことを希望されますか?」と学生時分の私が親御さん達に尋ねると、ほとんどの親御さんが、「卒業後、家にいるのではなくて、どこか施設に入れること」「施設職員から嫌われないで生きていけること」「他人に迷惑をかけないで生きていってもらうこと」「できるだけ自分たちが長生きして、この子を置いて死なないこと」などとおっしゃっていました。 まさに、「ない」「ない」「ない」ばかりだったんですね。 なにかが「ある」姿が描けな

【No.1117】その「多動」って障害ですか??

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発達相談では、ほんまかいな自閉症も多いんですが、ほんまかいな多動も多いんですね。 「ADHDの診断も受けているんです」というお母さんに、「それって、不注意のほうですかね」と訊くと、「いいえ、多動でついているんです」というパターンが少なくありません。 いやいや、家で静かに遊んでいるし、「それやめてね」と言われれば、自分で行動を制止できてるし…。 幼児さんが、公園とか、幼稚園・保育園とかでワーッとなっちゃうのは当たり前。 むしろ、ワーッとならないで、一人でぼんやりしている子のほうが心配ですね。 同じくらいの年代の子が集団になれば、テンションが上がるの普通だし、公園とか開放的な空間に行けば自然と走り回りたくなるのは普通だし。 子どもが子どもらしくして「障害児」になっちゃうんだったら、その診断の付け方が問題ですよ。 どうしてこんなことが起きるのかといえば、1つの診断キットというか、複数の視点や検査で診断していないからなんですね。 家の中で終始動きまわり、テーブルの上に上がる、声を叫びまくる、大人からの制止が利かないというくらいだったらわかりますが、そのようなお子さんはほとんどいなくて、結構、集中して活動できている時間があるんですね、家だと。 まずその家の姿をみれば、その「ADHD」という診断が適切ではないことがわかると思うんです。 だけれども、あるひと場面の様子のみで診断してしまうから、当然、そこで多動や落ち着きの無さを強調しちゃえば、それがすべてになってしまうのです。 でもね、診断ってかなり重いものだと思いますよ。 その診断名一つで、学校や進路、それこそ、服薬するかどうかまで決まっちゃう子とあるんだから。 それなのに、いまだに生物的なマーカーではなくて、親御さんからの聞き取りと、その場での行動のみで診断が決まってしまう。 今、どんな病気でも、それこそ、画像や数値などで客観的に判断できるものまでも、複数の医師が集まって、複数の検査を行い、この病気は本当にこの診断でいいのか、治療法でいいのかを慎重に検討するんですよ。 町医者が喉を見て、「ああ、風邪ですね」というのとは重みが違うんですよ、障害と診断するってことは。 障害というからには、その多動も、自分自身ではどうしようもない、コントロールすることができないというくらいの生活に支障が出るレベルのものだと思うんです。 私も、本当の

【No.1116】なんで発達したかなんて、わかりっこない

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ほんとに驚いてしまいます。 未だに「これだけの人数で抑えられているのは、多くの人が感染予防に努めているから」と言っているなんて…。 単なる負け惜しみか、自分が宣言したことを撤回できないだけなのか。 欧米で亡くなった方達も、そのほとんどが基礎疾患を持っている高齢者というデータが出ていますね。 「日本人はきれい好きで、予防の意識が高い」なんていうのも、屁理屈もよいところで、だったら、日本よりも決して衛生状態が良くないといえる東南アジアの国々で、どうして感染者数が少ないのか、死者数が増えないのか。 でも、一番腹立たしいのは、こういった発言をしている専門家が一般の人たちをバカにしていることですよ。 「緩めたら感染者数が爆発する」というのは、こちらが指示しなきゃ、自分たちで自己防衛は無理だろう、どうせすぐに好き放題、元の生活に戻るんだろう、という専門家特有の上から目線ですね。 そんなにいうのなら、世界的に基礎疾患を持っている人たちが重症化し、亡くなっているのですから、そっちの基礎疾患を治すほうを頑張ってくれよ、と思うのです。 私達は今回の騒動で今一度、立ち止まり、「医療とは」と問い直す必要があるのではないでしょうか。 立ち止まると言えば、今回、緊急事態宣言が出され、ほとんどの療育機関がストップした時期がありましたね。 未だに制限があったり、以前のような講演会、研修会が執り行われていない状況です。 今一度、考えましょう、「特別支援ってなんなのだろうか?」「療育ってなんなのだろうか?」と。 私がこの世界に入ったときには既に「早期療育は良いもの」「特別支援を受けることは当然のこと」とされていました。 でも、なんで早期療育を受ける必要があるのでしょうか。 どうして、支援級や支援学校に通う子ども達は、放課後は児童デイに行き、定期的に療育機関や病院に通うのでしょうか。 その目的と答えがよくわからないのです。 学生時代、確か療育も、支援も、「本人の"自立"へ繋げるものだ」と教わりました。 でも、いくら早期から療育を受けようとも、私達一般の人たちがイメージする自立をしている人はほとんどいませんね。 早期から療育や支援を受けた子は、大人になっても支援を受け続けています。 「自立」を掲げていたのは、輸入元である欧米の理念をそのまま持ってきたからでしょう。 私も実際に見てきまし

【No.1115】専門的な(?)対処法って

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「エビデンス」同様、この界隈では「専門性」という言葉がよく出てきます。 「専門的な支援」 「専門的な療育」 「専門性を持った職員が指導を行います」 こうやって強調している様子を見ると、よほどご自身の専門性に疑念を持っているのかと思います(笑) 料理人がいちいち「私、包丁さばきの専門家です」なんて言いませんよね。 まあ、「創作フレンチの店」くらいは言うでしょうが、あえてその専門性を強調したりしません。 そりゃあ、その仕事をしているんだったら、腕の良しあしは別にして専門家には違いないのですから。 あまり他の職業というか、一般的な社会の中で生きていると、自分で自分のことを専門性があるとかないとかは言いません。 だから、この世界に入ってから、ずっと違和感を持っていたんですね。 みんな、恥ずかしげもなく「専門性」という言葉を自分たちに使っているから。 フツー、そういうのって、利用してくれた人とかが評価して言うものだと思うのですが。 そう考えると、なんで特別支援の世界にいる人間が「専門性」にこだわるのかよくわかります。 結局、外からは評価しづらいんですね、特別支援の世界って。 療育でも、支援でも、特定の支援者の関わりでも、本当にそれが子どものポジティブな変化に繋がったかどうかわかりません。 私も20年近くこの世界にいますが、そりゃあ、短期的に、今この瞬間のレベルでいえば、よい変化につながったかなと思うこともありますが、そんなのはわからないし、評価なんてできません。 まあ、これは将来的にネガティブな変化に繋がるな、というのはビシバシ分かりますが(笑) 「よくなった」という姿が、単に本人の発達と成長によるもの。 そういった場合がほとんどだといえます。 週に1回とか、一日1時間とか、療育・支援を受けたからって、なにがどうってことはありませんね。 そんなのでうまくいくなら、早期療育を受けた子ども達が「診断が外れないのはナゼ?」「卒業後の進路が福祉一択なのはナゼ?」「幼いときの問題行動が大人になっても続いているのはナゼ?」 やってもやらなくても変わらないのが大部分。 だから私はいつも「趣味嗜好」と表現してるんですね。 揺れ動く親御さんにとっては、優しい言葉をかけてくれる人が、しかも、その人が自分のことを「専門性がある」って言っているし、専門性がある支援者の人が私に「大丈夫だよ」と言って寄

【No.1114】短期的な有効性、長期的な有効性

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有効な治療法が確立されている場合、その診断名には意味があるといえるでしょう。 しかし、発達障害や自閉症、近頃で言えばHSPなどは、診断名に対応する治療法が存在しませんので、一時的な効果があるかもしれませんが、本人の生きづらさの根本を解決につながるわけではありません。 最近も、「ホント、診断受ける理由って、なんなんですかね」と訊かれましたので、「まあ、"分かった気"にさせてくれるという効果はありますね」と答えています。 「過去に自閉症の人と関わったことがある」 「発達障害について本で学びました」 一人ひとりがまったく異なるのに、なんだか知った気分にしてくれるのが「自閉症」「発達障害」という言葉の起源なのでしょう。 同じような印象を持つのが、エビデンスという言葉です。 「エビデンスがある療育」なんていうと、それだけで我が子にも、自分が担当している子にも効果がある、と思ってしまう。 これだけ療育という言葉が浸透したこんにちにおいても、いまだに療育が将来の自立につながるというエビデンスが出ていないのに。 現在、エビデンスのある療育と言われているものの多くは、対症療法です。 ですから、そのあると言われるエビデンスも、長期的な効果、有効性ではなく、短期的な効果、有効性になります。 その療法を受けて1週間後、1ヶ月後、3ヶ月後、1年後の有効性をフォローできるかもしれませんが、はたしてその持続している効果が療育だけの効果なのか、単に1年経ってその子が発達したためできているのか、学習や理解ができるようになってできているのか、そんなのは時間が経てば経つほど、わからなくなるものです。 ですから、いくらエビデンスがあろうが、短期的な効果になってしまうのです。 確かに視覚支援は有効です。 それは、まだ言葉や理解が進んでいない乳幼児にとって。 そのくらいの子ども達は、言葉よりも、目で見たほうが理解できます。 確かに行動療法は有効です。 それは、まだ十分に考える力が育っていない子ども達にとって。 今、次の瞬間、良いことがある、悪いことがある。 幼い子どもにとっては行動を変える力になりますが、成長するにつれて短期的な未来のみでは行動を変えなくなります。 長期的な視野、展望、自分の考え、過去の経験、私という自我と感情、そして体調も。 それらが複雑に絡み合いどういった行動をとるかが

【No.1113】批判的な視点と合理的な判断

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夕食のとき、上の子が「マスクするのって"日本のルール"なの?」と訊いてきました。 即否定しようと口先が動きましたが、せっかくの気付きでから、どうしてそのような疑問を持ったのか尋ねてみると、学校にマスクをつけたがらない子がいて、先生がその子を注意(?)するときに、「日本のルール」という言葉が出たとのことでした。 そのとき、なんだか変だなと思って、私に訊いたそうです。 まだ生まれて1桁しか生きていない子です。 なので、日本が法治国家であるとか、科学的な根拠がどうだとかの理解は難しいでしょう。 でも、自分なりに学校の外ではマスクしていないし、外を見ればマスクしていない大人がいるし(父さんしていないww)、なんかおかしいなと思ったようです。 私は基本的に、上の子が自分でつけようと思えばつければいいし、いらないと思えば外せばいい、と伝えています。 そして、マスクをつけていないことを指摘されて、嫌なことや自分で解決できないことがあれば、父さんに言いなさい、と言っています。 「そのときは徹底的にやっつけてやる」と(笑) まあ、とにかく自分で疑問に思うこと、自分で考え行動することは、これからの長い人生の中でとても重要なことです。 今回のコロナ騒動は、子ども達にとってウィルスの害よりも、社会から受ける害のほうが圧倒的に多かったといえます。 しかし、そんな中でも唯一良かったことは、こうやって大人は嘘をつくことも、間違うこともある、という事実を体験することができたことでしょう。 上の子には常々、大人も、先生も、親である私も、間違うことがあるし、嘘をつくことがある、と伝えています。 大事なことは、「誰かが言ったから」というだけで思考停止して信じることは間違いであり、まず自分で考えること、例え多数派ではなかったとしても、自分がおかしいと思ったことはきちんと批判的に考えることだと思っています。 「もし自粛しなかったら、42万人が死ぬ」 今年も変わらず夏があり、お盆があり、シルバーウィークがあり、そしてGOTOもあった。 明らかに緊急事態宣言のときとは異なり、みんな、自粛はしていなかったのに、お亡くなりになった方は1600人ちょっと。 まあ、いまだに自粛して引きこもっている人もいるとは思いますが、この数字の開きはどういうことでしょうか。 私なんて、2月も出張していたし、緊急事

【No.1112】関係性から見る「療法」と「支援者」

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函館ではほとんどそんなことはないんですが(笑)、出張での訪問となると、お父さんも遊びには行かず、中にはわざわざ仕事をお休みして、ご両親、ご家族そろって発達相談を受けられる場合が多くあります。 数年前までは、「どうして俺もいなきゃいけないんだ」というオーラぷんぷんのお父さんもいましたし、隙あらば席を立とうとするお父さんもいましたが(笑)、今は積極的なお父さんばかりで、私も楽しい時間を過ごすことができています。 もちろん、母子だけという相談もあります。 しかし、家のその場にお父さんがいなくても、いろんな理由から離れて暮らしていたとしても、子どもさんの中には、きちんと関係性が表れています。 「普段はこうやって遊んでいるのかな」 「こういった部分は、お父さんからの影響を受けているのかな」 「お父さんは、我が子をこのように育てたいと思ってのかな」 母子関係ばかり強調されますが、男の子は特に父親との関係性の中から学び取ろうとする本能的な力を感じます。 私は家庭訪問をしているので、自然な親子、家族の関係性が見えるという利点があると思ってます。 というか、発達相談なので、その関係性が見えなければ、仕事になりませんね。 よく子どもだけとか、お母さんだけとか、単独での検査や面談が行われますが、それでは課題の本質は見えてこないだろう、と思います。 そして何よりも、検査も、面談も、やっておしまいではなくて、その後の未来、家庭生活の中にフィードバックされるからこそ、意味が出てくるのだといえるでしょ。 子どもが家庭の中で、親子間で、家族との関係の中で見せる姿が本当の姿。 子育てとは特にヒトにとっては関係性を中心に営まれるものなので、関係性を通して子どもさんを見て、その関係性をより豊かにしていくことがより良い育ちへと繋がっていくのです。 まあ、ここまでが前フリで、今日のメインはここからです(相変わらず、前置きが長い)。 一旦、特別支援の世界へ足を踏み入れると、いろんな名称の専門家が出てくるし、勧めてくる療法も様々だし、子どもよりも、支援者、専門家との付き合いのほうが疲れる、という親御さんは少なくないと思います。 そういった親御さんは、「関係性」というのをキーワードにして烏合の衆を見ていくと、すっきりしていくでしょう。 たとえば、視覚支援。 視覚支援は、なんだかんだ道具が出てきますが、結局のところ

【No.1111】発達に必要なのは「時間」

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子ども達の発達に何が一番大事かと問われれば、私は迷うことなく「時間」と答えます。 神経の発達には、タンパク質等の「栄養」が重要です。 でも、生きていくための最低限の栄養があれば、神経発達は生じます。 人類の歴史のほとんどが飢えとの闘いだったことを考えると、それがわかるでしょう。 同じように「酸素」も神経発達には重要になりますが、こちらも生きていくための最低限が確保されていれば大丈夫。 もちろん、栄養と酸素の充足具合が神経発達の広がり方に影響を及ぼしますが。 最後に「刺激」ですが、たとえ無刺激な空間があり、そこにいたとしても、身体の内部では変化が生じ、刺激が生まれ続けます。 ですから、「栄養」「酸素」「刺激」に関しては、生きていくための必須ではあっても、神経発達の必須条件ではないといえます。 しかし、「時間」だけは違います。 ヒトが生きているように、神経も生きています。 生きている神経が変化するには、時間が必要なのです。 別の言い方をすれば、「時間があるから変化が生じる」になります。 発達相談をしている中で感じるのは、8割は時間が解決してくれる(誤学習は時間が解決しません)ということです。 前回のブログで、秋になると年中さんの相談が増える、相談者の低年齢化が進んでいる、というお話をしました。 でも、これらの問題は、子どもさん自身の問題でも、家庭の子育ての問題でもありません。 言うならば、本人の発達のペースと社会が求めるペースとのミスマッチが原因です。 一人ひとり子どもには発達のペースがあり、それは必ずしも社会の区切り、年齢の区切りと一致するわけもない(というか、同学年でも4月生まれと3月生まれは全然違う)。 なのに、今はどんどん余白が失われていき、発達がマニュアル化されてしまっています。 社会、大人のほうに余裕がなくなり、効率化の波が子育て、教育にも入ってきたともいえるでしょう。 しかし、こういった子育てのマニュアル化、定型発達か否かを明確に区切り始めたのは、特別支援に関わる人間だと思っています。 もともと学校、教育には寛容さがありました。 いろんな課題、凸凹、発達のペースの違いを持つ子ども達がいるのが当たり前でした。 それが2000年以降の高機能ブームに乗っかり、専門家、ギョーカイ団体が誤った認識を広げ、あらゆる分野に侵食していきました。 令和になってもそれまでと変

関東出張のご案内(11月27日~29日)

お陰様で予定がすべて決まりました(2020年10月11日8:00) 本日、正式なご依頼があり、11月27日~29日の間で関東に出張することになりました。 まだ航空券等に余裕がありますので、他のご家族でお申し込みがあれば、それをお受けしてから日程を決めたいと考えています。 【訪問可能な日時】 11月27日(金)午前「✖」 午後「△」*ご希望があれば調整します。 11月28日(土)午前「〇」 午後「〇」 *「午前午後可」という形で1家族決まりました。 11月29日(日)午前「埼玉」午後「〇」 たぶん、2020年は最後の関東出張になると思います。 お子さんの発達の確認、2021年に向けたより良い子育てなど、「この機会に」というご家族がいらっしゃいましたら、お問い合わせください。 お問い合わせ先→ てらっこ塾HP どうぞよろしくお願い致します。

【No.1110】2030年以降、『予防』が中心になっていく

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近頃は、口に関する勉強をしています。 医学的な咀嚼や嚥下の話はもちろんのこと、機能改善のためのリハビリ、保育の方面からも離乳食、幼児の食事について改めて学び直しています。 それはコロナ後を見据えた準備です。 既にちらほら影響が聞かれてきていますが、来年以降はもっと口に関するトラブルを抱えている子ども達が表面化してくると思います。 咀嚼や嚥下は生きるための基本であり、そこに遅れが出るということは、多方面へ波及してしまいます。 酸素不足、口呼吸によるダメージ、歯茎からの情報探索、言葉の遅れ、手との協調運動、味覚、聴覚の育ち…。 それがさらに、対人面、認知面、運動面の発達に影響を及ぼしていきます。 乳幼児期の子どもにとって、モデルとなる大人の口元が見えないということは大問題です。 私は民間の経営者ですので、今のニーズだけを見て仕事をしていけば、すぐに倒産してしまいます。 生き残っている民間企業を見れば、どこも時代のニーズの半歩から一歩先を歩いているのがわかります。 私で言えば、今のニーズは家庭でのアセスメント、子育ての仕方ではありますが、近い未来はコロナ禍で作られた発達障害の子の遅れをフォローすることであり、その先は発達障害の予防になると考えています。 今までは発達に遅れが見られてからの相談であり、ニーズでしたが、今後も、少子化は歯止めが利かず、一方で診断を受ける子が増えるでしょうから、妊娠が分かった親御さん、出生後、さあ、子育てを始めていこうという親御さんからの相談、ニーズが出てくると予想しています。 2030年代には、「発達の遅れが出てから」から「発達の遅れが出る前に」になると思います。 以前からそのように考え、準備していましたが、ここ1、2年でさらに強く思うようになりました。 それは発達相談の低年齢化です。 もう今では2歳代の子のご家族からの依頼には驚かなくなりました。 1歳代の子も珍しくはなくなったのです。 1歳代で診断をつける意味がわかりませんが、実際、診断をつけられる子が増えているのも事実。 この先、0歳代の子のご家族から依頼があったらどうしようかと思う一方で、それが将来のニーズである「予防」を連想させるものでもあります。 同じように「先に先に」という流れを感じることがあります。 来年度に就学を迎えるお子さん達は、夏から秋にかけて就学相談や就学時健康診断が行わ