【No.1128】因果関係のその先へ

私の気持ちが「ラジオ」へ向かっている中でも、「ブログを見ました」と相談や依頼をくださる方達がいらっしゃいました。
こちらの文字のブログはほとんど開くことなく過ごしていたのですが、以前と変わらず、見てくださる方が大勢いたのがわかり、「そういえば、いきなりラジオのほうにはこないよな」と思ったのでした。
ラジオを始めて1ヶ月ほど経ちましたが、ラジオへ完全移行というよりも、内容を分けて文字のブログも並行して続けていきます。
お便りやご相談など、ライブ感を大切にする内容はラジオへ。
じっくり考え、まとめ上げていくような内容はこちらのブログへ。
入り口としてのブログ、ツウのためのラジオ(笑)というようにしたいと思います。


久しぶりに文章に書きたいなと思ったのは、因果関係についてです。
「Go to トラベルを実施したから、感染が広がった」
まさに因(Go to トラベル)があっての結果(感染拡大)の図式になっています。
この図式を見て、私達は気持ちよく感じるものです。
ヒトは複雑なものをシンプルにすることで、理解や納得"感"を得るからです。


しかし、世の中、こんなに単純明快なことはありません。
因があって結果というのは、実験室の世界の話であり、レベルは小学生の理科であります。
いろんな条件は排除し、ただ日光を虫眼鏡で集めると、黒い紙に火が付く、みたいな。
でも、小学生はこれで良いのです。
分からないことが分からない、何が分からないかも分からないときを生きる子ども達にとって、因果という窓は「分かった!」という充実感を味わわせてくれるから。


今となっては誰が言い出しっぺか分からないマスクも、かたくなに外そうとしないのが多くの日本人です。
なので、これまた誰が言い出しっぺか分からない「自閉症(発達障害)は治らない」という言葉も、かたくなに信じようとする人たちが大勢いるのです。
自閉症、発達障害は、まさに複雑系です。
同じ自閉症という診断でも、一人ひとりがまったく違います。
ある意味、よくもまあ、共通点を見つけたな、というくらいです。
「自閉症」という診断名は、なにも実態を表してはいないのです。
ただ確実に言えるのは、本人が「困っている」という現状のみ。


本人が「困っている」のは分かるけれども、なにが困っているのか、どう困っているのか、その困っている状態はどうすれば解決できるのか。
特に親御さんは、そんな「わからない」と直面することになります。
そんなとき、たとえそれが浮き輪であり、ただその苦しいときに呼吸を確保してくれるだけのものでしかなかったとしても、飛びついてしまう。
少しでも「分からない中のわかる」を感じさせてくれる窓が因果関係といえ、「自閉症は治らないということが"分かった"」という理解や納得"感"を持つことができる。
溺れているときは、浮き輪の絵柄、形態、質を気にしている余裕はないのと一緒です。


浮き輪から顔を出した先には、「早期療育は良い」「自閉症は支援が必要」「特別支援は手厚い支援」「支援がないと二次障害」「必要なのは理解」「変わるのは社会」というように、因果関係の波が押し寄せてきている。
特別支援の世界に溢れるこのような言葉たちには、根拠もなければ、どのような効果があるのか、そもそも効果があるのかすらわからない。
あるのは混とんとした世界、複雑に影響し合う発達障害という状態に対する分かった"感"。
「自閉症とは〇〇なんです」と力説する人に限って、まったく理解していないのは、感のみで生きているからだといえます。
啓発活動で登壇している人達が誰よりも先に障害の理解が必要だと感じるのは、私だけではないでしょう。


支援者のほうへ目を移すと、支援者の中にも因果関係で自閉症、発達障害を捉えている人たちが大勢います。
そのほとんどは実験室、つまり、療育機関や学校など、ある特殊な環境のみしか知らない人達です。
なので、彼らにとっては療育も、支援も、全部、実験なのです。
「〇〇をしたから、こんな反応があった。〇〇をしなかったから、こんな反応があった」
「自閉症には〇〇療法。その療法がうまくいかないのは、本人の症状が重いから。家できちんと〇〇療法をやっていないから」
支援者の見立て、アセスメントの文面が眠気を誘うのは、こういった小学生の理科の実験を長々と見せられるからなんだと思います。


子どものことを知りたい、担当している人のことを知りたい。
これは人間特有の本能的な欲求だといえます。
そしてたとえ一時的であったとしても、「わかった」という味わいに飢えを感じる。
しかし、親も、支援者も、このレベルで終わってはいけません。
その次に、「分からないことが分かる」段階に進む必要があります。
「分からないことが分かる」段階に行けば、「自閉症は治らない」ということは分からないという認識が生まれます。
「発達障害の子は早期診断、療育が必要だ」ということは分からない。
「支援を受けなければ、二次障害になる」ということは分からない。
「特別支援だけが子どもを伸ばす」ということは分からない。
複雑系である自閉症、発達障害という状態をなにか因果関係があるかのように錯覚している段階から脱したときが、支援から子育て、発達援助へ脱皮できた瞬間となるでしょう。
分からないことに分かった瞬間、子育ては自由になり、発達の可能性は無限に広がっていく。


この仕事を続けていくと、「1つわかると、10わからないことが生じる」という感覚があります。
理解すればするほど、わからない世界が広がっていくイメージです。
なので、若手の頃より、自信を失い、替わりに諦めを得た感じがします。
「自分は援助者なんて言っているけれども、援助できているのはごく限られた部分だな」と。
でも、だからこそ、若手のときには感じられなかったモノを感じられるようになったのだと思うのです。
治るかどうか、育つかどうか、その生きづらさを脱することができるかどうか、は本人の自然治癒力と発達する力による。
頼るべきは本人の内側に存在する力であり、私達援助者にできることは、その力が発動しやすいように、伸びやかになるように後押しすること。
私は心からそのように考えるようになっています。




コメント

このブログの人気の投稿

【No.1358】体軸が育つ前の子と、育った後の子

【No.1364】『療育整体』を読んで

【No.1369】心から治ってほしいと思っている人はほとんどいない