愚痴から不快への発達
愚痴ばかり言っていた人が、ある日を境に雰囲気が変わってくる。 愚痴から不快への変化。 愚痴は湿っぽいが、不快には湿っぽさがない。 言葉に湿り気が取れてくると、耳を傾けている方も、発している本人も快へと向かい始める。 本人でも、親御さんでも、支援者でも、愚痴を言っている人は治らないし、治せません。 愚痴を言っている段階は、まだ発達の階段を上り始める準備ができていないと感じます。 ですから、具体的な発達援助の前に、その愚痴を言わざるを得ない状態と状況の解決を目指します。 それまで愚痴だったのが、「これこれが嫌だ」という風に、はっきり不快なことを言えるようになると、発達援助開始の合図になります。 私は自分の中で、このことを「愚痴から不快への発達」と呼んでいます。 愚痴は、その状況、状態から始まる受け身であって、垂れ流し。 でも、不快には、自分が何を不快に思うかという内側からの始まりで、そこに主体性があります。 だから、私はきちんと自分の不快を表明できる人を見ると、主体性を感じ、ヒトが持っている発達、成長へ向かう快に歩んでいけると思うのです。 発達と成長は、ヒトの本能的な快だと考えています。 よって、不快に感じるのは、その発達と成長を妨げられた状況と状態に対してだと思います。 伸びやかに発達、成長していきたいのに、それが叶わないから不快だと感じる。 妨げているものが明確に見えている人ほど、カラッとした表現で不快を述べます。 不快の対象をはっきり掴んでいる人は、快へ向かうエネルギーが満ちている。 一方で、愚痴の段階を抜け出せない人は、不快の対象を掴み切れていない。 だから、治る方向へと進めないのです。 「愚痴ばかりだった人が、ちょっと雰囲気が変わった」 それは状況、状態が改善したのかもしれないし、主体性が育ってきたからかもしれない。 そんな視点で見ていくと、私達の援助の仕方も変わってくるかもしれません。 愚痴と不快の表明は、分けて考える必要があります。 何々が不快だとはっきり述べることは、問題行動ではなく、「快へ向かいます」というその人の主体的な行動の表れなのですから。