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10月, 2021の投稿を表示しています

【No.1200】「共同作業ができるできない」は、勝手に決められたチェックリストの一つにすぎない

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うちの子ども達がお世話になっていた、なっている保育園は、基本的に自由です。 発達段階上、クラス単位で行動する場面はありますが、ほとんどの時間は遊びたい場所で、遊びたいことをそれぞれの選択によって行っています。 新しく入園した子や兄弟児などがいると、年上の子ども達がお世話をしたり、一緒に遊んであげたり、また年齢も関係なく、遊びたい相手と遊ぶという感じで、異年齢同士でもよく遊んでいます。 当然、一人で遊びたい子はそれでOKで、周りで鬼ごっこしている中で、絵を描いたり、虫を観察したりしてる子もいます。 今回の新刊の中には、この保育園、また保育士さん、そして自由に伸びやかに遊ぶ子ども達の姿から教わり、着想を得た部分もたくさんあります。 大型恐竜が跋扈していた時代、私達のご先祖様は小さなネズミのような生き物でした。 そのご先祖様は、卵で子どもを産んでいましたが、途中からウィルスの力を借り、胎盤を形成し、現在のような出産に変化しました。 それは新しい命を守る戦略だったとも言われています。 そして人類700万年、生まれた赤ちゃんを集団で守りながら、命のバトンをつないできたわけです。 今でも原始的な生活をしている部族、また先進国以外の国では、集団での子育て、保育が行われています。 ヒトも動物の一種ではありますが、他の動物は生殖能力を失う=死・寿命になることがほとんどです。 しかし、ヒトの場合、そうではありません。 ヒトは生殖能力を失っても、生きる意味があるのだと思います。 それはまさに次の世代を育てるために必要だということ。 ヒトの特徴は、その大きな脳です。 単純に幼い命を守るために祖父母の代がいるというよりも、よりよく子どもを育てるために、高齢者がいるのだと思います。 コロナ禍で学校や園が休校の中、「毎日、地域の子ども達と遊んでいました」というご家庭が多くありました。 ある団地では、高校生、中学生が中心になり、そこに住む小学生や幼児さんを集めて一緒に遊ぶというところがありました。 ある地域では、家の扉がオープンになっており、いろんな年代の子ども達がそれぞれの家に行ったり、庭で遊んだりして過ごしていたところがありました。 昨年の段階では、親子の濃密な時間、一対一の関係性の中で大きく育ったと思っていましたが、このように異年齢間での集団が存在している地域の子ども達の姿を見ていますと、こ

【No.1199】出版記念講演会を終えて

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12時45分ごろ、会場につきますと、既に数名の方が待っていてくださいました。 その中には、半年に一回くらいのペースで訪問させていただいている方で、私もびっくりするくらい大きな成長を見せてくれるお子さんのママさんがいました。 若い世代のママさんで、素晴らしい行動力と何よりも深いお子さんに対する愛情を持った方。 皆さんにもご紹介したいくらいのステキなお子さんとママさんです。 やはり知っている方が来てくださるのは心強く、嬉しいものです。 他にも、以前、私が関わっていたご家族がお子さん達を連れて来てくださって、小学生の子も、成人した若者も、ご自身の人生を伸びやかに歩まれている姿を私に見せてくださいました。 援助者としてではなく、一人の大人として、先を生きる人間として、輝いている若者、子どもの姿を見ることは何よりも喜びです。 きっと私は、こういった姿、また親御さん達を見ることができるからこそ、今の仕事を信じて進んでいけるのだと思います。 空の上とジムの筋肉ゾーン以外、ほとんどノーマスクの私ですので、講演中のマスクで酸欠状態になりました。 途中、息が苦しくて、気を付けていた「早口」になってしまったり、一瞬ボーとしてしまうことがあり、聞き苦しいところがあったかもしれませんが、一番お伝えしたかった「発達を援助することの大切さ」に共感してくださった方が多くいらっしゃったようですので、良かったです。 イベント会場は蔦屋書店の2階でオープンスペース。 しかも、レンタルコーナーのすぐそばでしたので、一般のお客さんも大勢歩いていました。 ですから、刺激的な言葉は少なめで(当社比)、でも我慢できず、施設の給料と労働環境、尾身喰いとシャンパーニュは専門家に頼るとろくでもないという例えで使用させて頂きました(笑) 講演会後、昭和のお姉さまたちが列をなして私のところに来てくださり、「これが平成のお姉さん達なら」と一瞬よぎることもありましたが、みなさん、お孫さん、娘家族を心配されているおばあ様たちでした。 実は、おばあちゃん世代からのご相談も全国的に多くあります。 そしてほぼ共通しているのは、「私は普通の子、一般的な子に見えるのだけれども、"発達障害”と診断された」「娘は支援を受けなければならない、というのだけれども、本当にそれで良いのだろうか、と疑問に思う」というお悩みです。 祖父母の代の

【No.1198】親が親になることを妨げるハッタツの世界

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いよいよ今度の日曜日は函館蔦屋書店さんでの出版記念講演会です。 函館はホームといえばホームですが、現在は道外の仕事が多くなっていますし、どのような人がいらっしゃるかもわかりません。 例えると、五輪中、東京ドームで主催ゲームをしたスワローズみたいな感じでしょうか。 基本的に函館ではアウェーなのは変わっていませんので(笑)、そういった状況の中でどういった話ができるのか、どういった部分に共感を持ってもらえるか、が個人的な楽しみでもあります。 若いときから比較的、人前で話す機会があったのですが、どうも事前に原稿を作り込むとうまくいかないことが多い気がします。 本来、どんな場であろうとも、事前の準備は大切で一生懸命行う必要があると思うのですが、あらかじめしゃべることを決めておくと、途中で自分が飽きてしまい(ごめんなさい)グダグダになったり、決められた通りしゃべることに意識が向いて窮屈な感じがしてしまいます。 ですから、ある程度、大枠だけは決めておいて、あとは当日の雰囲気でしゃべるようにしています。 やっぱり誰かを前にして行うのですから、綺麗に話すよりも、ライブ感が重要な気がして、また当日ギリギリまで鮮度が良いもの、その瞬間連想したことのほうが面白いと思っています。 ということで、スライドは完成しているので、あとは当日の雰囲気でって感じです。 昨日の続きになりますが、「生まれつきの障害」という言葉が誰かの気持ちをラクにしたり、それ自体が救いになったりするのもわかります。 しかし、それが拡大解釈され、過剰になっていることの弊害が大きくなっていると私は感じています。 端的に言えば、「親の育て方、関わり方によって、予後が変わる」ということが禁句のような扱いになっている点に問題があると考えています。 昨年の第一回目の緊急事態宣言の際、親子で濃密な時間を過ごした家庭が大きな発達、成長が生じたというのは、発達援助の本質的な部分だといえます。 発達障害の子ども達は、既に誕生時、または乳幼児期の初期に発達のヌケや遅れが生じています。 再三申し上げますが、胎児期から2歳前後に生じる課題です。 とすれば、胎児期はそのまま母子の1対1関係ですし、0歳から2歳も中心は近しい人との1対1関係になります。 つまり、最初の対人関係である1対1関係で生じた課題は、やはり1対1関係の中で育つ部分が大きいというこ

【No.1197】発達障害の世界は差別だらけ

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新刊のタイトルであり、花風社さんの創業25周年記念出版の共通タイトルである『医者が教えてくれない発達障害の治り方』は、個人的にもとても気にいっています。 何故なら、タイトルというのは端的にコアな部分を伝えられるメッセージ性が重要で、そのままストレートに伝わってくる言葉になっているからです。 一目見ただけで、何を伝えたいか、どんな想いを持っているかなどの連想が浮かんできますね。 既にタイトル、表紙から本は始まっている感じがします。 タイトル通り、発達障害に関する医療従事者は「治り方」を教えてはくれません。 それは大前提として「生まれつきの障害」と「脳の機能障害」を引きずっているからです。 かつて「育て方の問題」と言われていた時代があり、そこを否定するために「生まれつきの障害」、つまり、「親の育て方で発達障害になるわけではない」という啓蒙を行っていました。 この国の発達障害をリードしてきた人達は医者であり、発達障害の子を持つ親でした。 30~40年前の当時の空気感を想像するに、医療従事者の中でも我が子が発達障害である人くらいしか、この領域に関心はなかったでしょうし、発達障害の子を持つ親御さんも、そういった医師でもあり、親でもある人を頼るしかなかったと思います。 有効な支援方法もなく、根本的な解決方法がなかった当時の親御さん達にとっては、唯一の救いが「生まれつきの障害」だったのかもしれません。 しかし、時代は進み、もう令和の時代です。 「生まれつきの障害」で良かった昭和の時代から平成の時代に移ったとき、平成は早期診断、早期療育、その他の支援サービスなどが整備され、同時に脳から神経発達の障害へ変わった時期でもあります。 ですから本来は、その環境整備と同時に、もう一度、子育ての中心であり、発達の基盤である家庭に意識が向けられるべきだったと思っています。 傍から見てきた感想ではありますが、あまりにも親御さんに遠慮し過ぎ、家庭での養育力を低く見過ぎ。 「生まれつきの障害」がいつしか、親御さんたいして否定的なことを言ってはならない、家庭に何かを求めてはならない、という空気感を作りだしていたように感じます。 「親御さんを否定してはならない。だって生まれつきの障害だから」 確かに重度の知的障害や症状、行動障害を持っている子ども達には専門的な支援が必要だと思います。 しかし、その一方で本

【No.1196】本に込めた想い

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今朝、ジムで上半身をイジメてきたあと、家に着くタイミングで佐川のお兄さんが大きな段ボールを抱えてやってきました。 お兄さんが軽やかに段ボールを持つ上着の袖から出たその上腕は素晴らしい張りをしていて、羨望の眼差しで見ていると、送り主のところに「花風社」の文字が書かれているのに気がつきました。 今回、新刊の制作に携わらせていただいたため、お世話になった方達にお贈りしようと思い、まとまった数をお願いしていたのです。 午前中は、まだ私が何者でもなかった頃、そしてほとんどの人が起業することを、起業したことを鼻で笑っていた時期に応援してくださった方たちへ感謝の気持ちを込めて、新刊の発送を行っていました。 午前に郵便局から郵送しましたので、明日、明後日にはお手元に届くと思います。 もし水曜日頃までに届かず、「私も散々世話したのに!」という方がいらっしゃいましたらご連絡ください(笑) 即、郵送いたします。 今回、初めて本の制作に携わらせていただいたのですが、1冊の本ができるまでに、これほど多くの方達の力と専門性が注がれているのだと実感することができました。 本をめくりながら、携わってくださった皆さまの顔が思い浮かびます。 本は好きで、子ども時代からたくさん本を読んできた私ですが、何気なく手に取り、読んできた本一つ一つに多くの人が携わり、たくさんの想いが詰まっていることに改めて気づくことができました。 いろんな人が携わり、いろいろな考えや体験を元に出来上がった本ですので、全面的に同意していただく必要はなく、「ここはそう思う」「いや、ここは違う意見だ」「これってどういうことだろう」など、読んでくださる皆さまが主体的に考え、そしてより良い明日に繋がるようなきっかけになれば、と思っております。 本を読んでくださった前と後で、何かが変わるのでしたら、それがその人の幸せに近づけるのなら、私は心から嬉しく思います。 そんなこんなで、新刊の発売と同時に、いろいろなことが動き始めて、急にバタバタと忙しい日々を過ごしていました。 そしてやっとのことで、先週の金曜日の「おかえりモネ」を録画で観ました。 鈴木京香さん、お母さんが家族が集まる中、震災当時の出来事を語る場面は良かったですね。 あれこそ、まさに心の傷を癒していく自然な人間の姿だといえます。 震災当時、いろいろな葛藤や悲しみ、心の傷を負った人は多

『医者が教えてくれない発達障害の治り方 1 親心に自信を持とう!』出版に伴うご案内

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【本の出版のご案内】 既に昨日より花風社さんに直接お申し込みいただいた方には本が届いております。 一般書店では10月15日から18日くらいに購入できる予定です。 この本は花風社さんの25周年記念事業の第一弾として出版されました。 本の「まえがき」「あとがき」「目次」は こちら からご覧いただけます。 【出版記念イベントのご案内】 10月24日(日)13:30~15:00 函館蔦屋書店にて出版記念講演会を開催させていただけることになりました。 事前のお申し込み、参加費は必要ありませんが、会場の都合上、先着30名になっております。 1時間ほど、実際のエピソードを交えながら本の紹介をさせて頂き、30分ほど質疑応答の時間をとりたいと考えております。 詳細は函館蔦屋書店さんの HP でもご確認いただけます。 【zoom講演会のご案内】 11月6日(土)13:00より『コロナ禍のヌケも育て直せる!』という講演をさせて頂きます。 主催は花風社さんです。 当日リアルタイムで参加できない方には、後日録画を視聴することも可能です。 お申し込み方法、講演の内容は こちら をご覧ください。 コロナ禍において子ども達の発達には既に影響が出てきているといえますが、本格的な影響が出るのはコロナ後になると感じています。 この1年半の発達相談において気づいたことと、それに対する発達援助のアイディアをご紹介したいと考えております。

【No.1195】ひっくり返して考えてみる

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緊急事態宣言が終わり、市内での陽性者もZEROが続いているのに、自主的にマスクをつけている人達がいます。 もちろん、私がマスクをつけない自由があるように、その方達にもマスクをつける自由があるわけです。 だけれども、どうしてマスクをつけようとするのか、どうなったらあの人達はマスクを外すようになるのだろうか、と疑問に思います。 戦時中のように「欲しがりません、勝つまでは」「外しません、ゼロコロナまでは」という具合に必死にコロナが全国からいなくなるまで、はたまた岸田首相が「みなさん、マスクを外しましょう」と言ってくれるまでつけ続けるのかもしれません。 「マスクをつける」という行為は、他者である私から見れば、みなさん、同じように見えます。 そんな人たちと指さして「おかしい奴」とレッテル貼りをするのは、脳みその省エネで、考えることを放棄したのと一緒です。 ですから、「マスクをつける」という行為、つまり結果をひっくり返して考えてみます。 マスク→同調圧力→主体性の未確立(他人軸)→愛着障害 マスク→同調圧力→集団の和から離れることの不安→その人にとっての適応の形態(学校適応、会社適応、社会適応) マスク→思考停止→心身に余裕がない→生活の苦しさ マスク→思考停止→心身に余裕がない→考えることの放棄(マスクをつけないことの説明がメンドクサイ、説明を省くため) マスク→思考停止→本能的な恐怖→感情的なショック(有名人の死、身近な人または自分の体験、テレビからの視覚情報) マスク→思考停止→自ら考えるという習慣のなさ・とくに自分の考えはない マスク→お守り→自分自身の健康不安 マスク→飛沫の防止→身近な人の健康不安 マスク→不快を感じない→長年の身体不調に対する慣れ マスク→経済的な理由→雇用主から求められている マスク→義務感・正義感→不安のひっくり返し マスク→ポジティブな感情→小顔に見える、化粧しなくて良い、綺麗に見える このように他人から見れば、みんな同じようにマスクをつけている人にしか見えませんが、そこに至るまでの過程は様々、背景も様々だということです。 では「マスク」を「感覚過敏」に変えてみましょう。 感覚過敏といっても、どの部位にどのくらいの強さ、または弱さ、まったく感じない、そしていつ頃から顕著になったか、その波は?という具合に、様々な症状の表れ方があります。 当然、

【No.1194】コロナ禍のヌケも育て直せる!

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本日より下半期が始まると同時に、2021年もあと3ヶ月となりました。 函館は今日も20度越えで、明日以降も25度前後になる予想。 例年9月はあちこちで運動会が行われるのに、市内で25万分の10人/1日前後という奇病にもかかわらず、全部運動会は10月に延期。 明日から土日は、延期していた分の運動会が行われるので、お天道様はせめてもと子ども達に温かい空気を届けてくれているようです。 私も明日、朝一で道内日帰り出張で、日曜日は下の子の運動会でライン引きと準備片づけがあるので、一緒に汗をかいてきたいと思っています。 私にとっての緊急事態宣言は、出張先のラストオーダー19:30までに店内に入れるかどうかの影響のみで、この1年半ほとんど生活は変わっていません。 皆さまがご遠慮されている分、私は遠慮なく酸素を頂戴していますし(笑)、行きたいところに行き、ご依頼があれば全国どこにでも伺ってきます。 これだけ普通に生活しているのなら、何度もコロちゃんに暴露しているに決まっています。 しかし、今まで体調が悪くなったことはないですし、ちょっと喉が、咳が、熱っぽいな、となってもだいたいその日のうちか、一晩寝れば治っていますから、まだまだ私の自然免疫のほうがコロちゃんより強いということでしょう。 なので、わざわざお注射をする必要性を感じません、副反応で仕事の依頼に応えられない方が嫌なので、私の接種券は既に回収され、灰になりました(笑) だからといって、他人がマスクを付けていようとも、接種しようとも、特になんとも思いませんし、自分の考えをもって感染対策や接種をされた方はそれで良いのだと思います。 でもまずいのは、「みんながしているから」「職場の同調圧力が」「医者が言うから」とか言っている人間です。 集団免疫仮説が否定された現在、対策も、接種も、また接種しないという選択も、自分の命を守るために行うものです。 でも、自分の体内こそ、最大のプライベートゾーンなのに、その判断を自分以外に委ねているということは、私から見れば命をないがしろにしている感じがします。 TVやネットに出てくる専門家は、あなたの命や健康の選択を委ねて良い人間なのでしょうか。 そこまで信じて良い人間なのでしょうか。 彼らにとっては、あなたは見ず知らずの他人。 なにがあっても、それは「1」という数字でしか認識できないのです。 まさに