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【No.1179 】「雰囲気を読む」のアセスメント

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マラソン世界記録保持者、ケニアのエリウド・キプチョゲ選手が出るということから、テレビをつけましたが、タモリさんの横に座っていた某ノーベル賞教授の顔の変貌ぶりに驚いてしました。 昨年、ジョギングも感染リスクがあると発信し、マスク着用を推奨していたのにも関わらず、いつの間にかその動画は削除され、何もなかったかのようにオリンピックの特集番組に登場している。 そういった単なる後ろめたさが顔に出ているのではなく、もっと深い何かが顔や表情、佇まいに表れていたと私は感じました。 医師の中には、「魂を売った」と言っている人たちがいますが、ヒトは道を外した行為をしたとき、それが周囲にバレていたなかったとしても、自分自身を騙し続けることはできないのだと思います。 そういえば、分科会会長も、ずっと悲しい顔をしていますね。 たぶん、自分が行っていることの中に、自分で気づいている嘘が混じっていることに悲しみを覚えているのでしょう。 乳幼児の子どもは、周囲にいる子どもが泣くと、自分の状況や感情に関わらず、泣き始めます。 保育園の小さな子のクラスに行くと、時折、涙の大合唱がみられます。 それはまだ自分という存在、自分という身体と他人との身体との違いが明確に理解できる発達段階ではないからです。 一人で歩けるようになり、一人で遊べるようになる。 でも、まだ自分と隣の子は繋がっているのです。 だから、隣の子が笑えば、自分も笑い、教室のあの子が泣けば、自分も泣いてしまいます。 この発達段階は、身体や感覚の未発達ゆえの共同体といった感じです。 一方で、0歳代の子ども達も、同じように近くにいた赤ちゃんが泣けば、つられるようにして泣き出しますが、1歳児以降、自分で自由に移動できるようになった子ども達と事情が異なります。 意味を解釈するのなら、生存本能としての反応です。 自分の耳に誰かの泣き声が聴こえてくる。 ということは、自分の周囲に危険が迫ってきているかもしれない。 だから、自分の親を呼ぶために泣き始めるのです。 それは笑い声が聴こえてきても笑わず、鳴き声のときだけ同調することで上記との違いがわかります。 で、さらに胎児期となりますと、同調に違いがあります。 それは母親だけに特定した同調になります。 母親の感情がそのまま胎児の感情。 へその緒でつながっていますし、胎児から見れば環境=母胎、母親ですから。 母

【No.1178】問題の根本を知ることから始めましょう

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アメリカ大リーグのオールスターは、まさにお祭り騒ぎといった感じで、超満員のスタジアムでみな、歌うし、飲むし、抱き合うし、大声を出して歓声を送っていました。 一方で、日本のプロ野球は1万人の観客で、マスク姿にパチパチと手を叩くのみ。 しかも、神宮球場からちょっと歩けば、国立競技場。 で、どういったわけか、オリンピックは無観客。 新コロちゃんはちゃんと意思があるようで、国内のイベントとオリンピックの違いがわかるのでしょう。 国立競技場は材木をふんだんに使っているので、新コロちゃんたちが集まりやすいのかもしれません、エビデンスは無いけど。 横浜球場でベイスターズの試合は有観客だったけれども、オリンピックの野球の試合は無観客という謎理論。 結局、ウィルスの問題じゃなくて、制度の問題、政治と医師会の問題でしょ。 今までのコロナウィルスのように、体調の悪い人が近所の医療機関を利用できればここまでバカ騒ぎする必要はありません。 「発熱者お断り」なんていうのを病院の扉に貼るのが諸悪の根源。 医師が病人を診なくて、何を見るのでしょう。 元気なお年寄りですか(笑) 慢性疾患を抱えた元気なお年寄りが一番おいしい商売だから、医師を志したときの「病気を治す」という想いを忘れてしまったのかもしれません。 昨日の続きですが、就学相談でも「無理して普通級(支援級)に行けば(支援学校を勧めている)、二次障害になる場合も」なんていう輩が出てきたそうです。 それは就学後とかにとっておく手だったでしょ。 就学相談でその手を使うようになったなら、よっぽど苦しくなっているのでしょう、今の親御さん達に対するのは。 ひと昔前の親御さん達は、「はい、わかりました」が多かったけれども、今はスマホですぐに情報共有ができますからね。 なにかにつけて、「二次障害になる」という言葉を使います。 「もし何も感染対策をしなければ、42万人死ぬ」みたいな西浦理論ですね。 だって、何もしないわけはないし、まったく1ミリも成長しないわけはないですもん。 で、二次障害にならなくても、決してそういった人達は謝らない。 「私が大袈裟に言っておいたから、42万人も死ななくて良かったでしょ」と同じです。 就学相談でも、その他の学校や支援機関でも、言いっぱなし、やりっぱなし。 その子がどんな将来を歩もうとも知ったこっちゃない。 もちろん、42万人

【No.1177】丸腰で就学相談に行ってはならない

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予想はついていたんですけど、やっぱりな、という感じです。 オリンピックの無観客の話ではないですよ。 支援級、就学相談の話です。 昨年とは異なり、例年通りこの時期から活発に就学相談が行われています。 で、なにが"やっぱりな"かと申しますと、支援級の普通学級化です。 以前ですと、当然、支援級になるよな、という子ども達が、「支援級は難しい」「支援学校が妥当だ」と就学相談で言われることが増加しています。 で、支援級が妥当と言われる子ども達は、どう考えても普通級で学べるでしょ、という子ばかり。 様々な方面から話を聞く限り、どうしたら普通級に在籍になるのか、よっぽど従順な子ども以外は普通級にならないでしょ、という感じです。 数年前からこの流れはありました。 どんどん支援級に入るのが難しくなっている。 で、支援学校ばかり勧められる。 もっといえば、実力から上、同等ではなく、一つ下の学校が勧められる。 頑張れば普通級で学べる子が支援級へ行き、支援級で学べる子が支援学校に行く。 それがコロナ騒動で、加速した印象を受けます。 ここからは公務員ディスりなのですが(笑)、同じ給料ならできるだけラクな方向へ流れるのが大部分の公務員の特性だと思います。 特に学校の先生は、売り上げなどの成果が目に見える形にはなりません。 しかも、コロナ騒動で、いろいろとめんどくさいことになっている。 だったら、平時でもラクしてお金を得たいな~と思いがちの人達なのですから、少しでも楽になりたい、じゃあ、クラスの人数は減らしたい、と思うのは自然な感情でしょう。 普通級の担任は、できれば一人でも児童が減ってほしい。 で、ちょっと従順ではない子がいれば、「支援級へ」となる。 常套手段は、「苦手な算数だけ個別指導を受けてみては」と、表面的には子どものことを想っての提案を行い、慣れてきたところで、「やっぱり個別指導だと、よく理解できますよ。だから、支援級へ転籍しては」ともっていく。 このパターンは、全国共通で、古典的な方法です。 支援級もそうですし、支援学校もですが、児童に対して先生の数が決められています。 財源に余裕がある市町村は別ですが、だいたい3対1で、肢体不自由の学校などは2対1、または1対1の配置になる。 ということは、普通級とは異なり、児童が一人増える、減るは大きな意味を持ちます。 普通級は

【No.1176】無駄という余白に発達が生じる

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ある人は祭りについて、「人間の愚かさの解放」だと言い、またある人は「定期的に密になることで、集団免疫をつけるため」だと言っていました。 明日は七夕で、函館市内の子ども達は各家を回ってロウソク、お菓子を貰うという行事がありますが、昨年に続き、自粛のお達しがでています。 お祭り、行事、文化というのは、一度途絶えると再興するのが難しいと言われています。 文化というものの本質が、ヒトからヒトへの受け継ぎによるものだからでしょう。 目に見えるモノ、確認することができるモノしか認めないような、価値がないような、そんなことを言っているから人間として進歩し、ヒトとして退化しているのだと思います。 心身の健康には動物としてのヒトに戻る機会が必要で、それが一見するとやってもやらなくても困らないように見える祭りという空間に存在していたはずです。 日常と非日常は、人間とヒトに言い換えられます。 教育や保育、家庭での子育てを拝見させていただく機会が多い私ですが、人間を育てようとする大人が大多数だと感じます。 とくに発達に遅れのある子ども達に対する教育、支援の場合、「なるべく早く人間に育てよう」「少しでも人間らしくなるように教えよう」という雰囲気が伝わってきます。 人間として困っているのか、ヒトとして困っているのか。 そういった視点が乏しいのが気になります。 人間として困っている部分は、社会という環境の中で折り合いがついていないということですから、環境に対するアプローチが中心になります。 しかし、環境側も生きていますので、常に良い具合に折り合いが付くわけでも、折り合いが必ず付くわけでもありません。 理解を求めても、理解したくない人もいる。 環境調整をしても、別の場所には持っていけないこともある。 ですから、発達障害を人間として困っていると捉え、環境側との折り合いをつけようとしている限り、本人に進歩はありません。 日本の特別支援の誤りは、ここにあると考えています。 発達障害は「生まれつきの障害」というような誤解が生まれるくらいですから、胎児期を含め、発達の初期に生じている不具合だとわかります。 この発達の初期とは、ヒトの部分ではないでしょうか。 ヒトとしての部分、動物としての部分に不具合があるのなら、そこを育てようとするのが道理です。 でも、特別支援はヒトとしての育ちを無視し、あくまで人間の部分