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11月, 2019の投稿を表示しています

発達障害と療育・支援は、相関関係にあらず

栄養面からのアプローチで、精神疾患や発達障害をどんどん治してしまう広島の藤川徳美医師。 その藤川医師の本が、障害児教育部門の書籍で1位になった、という情報を目にしました。 まあ、親御さんだったら、「我が子の発達障害を治したい」「治ってほしい」と願うのは自然な感情ですし、実際に、藤川医師のアプローチを取り入れ、治った人達が大勢いますので、書籍が1位になるのは不思議ではありません。 でも、私はその書籍ランキングを見て、不思議に思うことがありました。 それは、2位以下に「コグトレ」に関する書籍が複数入っていること。 たぶん、これも最近、新書で話題になった『ケーキの切れない非行少年たち』の治療プログラムとして「コグトレ」が紹介されていた影響だと推測されます。 本当に皆さん、なんとかプログラム、療法がお好きなんですね。 どうしても、発達障害がある子に対して、指導や支援をしたいんですね。 この新書は、発売後すぐに読みましたし、コグトレに関しても勉強のため、一通りは学んでいました。 しかし、それを敢えてプログラムとして、私が行う援助サービスの一つとしてやろうとは思いませんでした。 何故なら、これも他の療法と同じように、枝葉へのアプローチだから。 と言いますか、受精から2歳前後までに生じている発達のヌケを育てたら、これらの課題も治っちゃうから必要ないよね、って感じです。 ケーキが切れない課題の根っこは、視覚や認知の問題と繋がっており、そこにアプローチするのがコグトレ。 でも、視覚や認知に発達の遅れや未発達があるのは、原始反射が残っていたり、ハイハイ等の運動発達にヌケがあったり…。 だったら、ここが根っこなので、根っこから育てれば、そこに端をなす課題はすべてポジティブな方向へ進みます。 しかも、ハイハイのやり直しに、研修や資格は必要ありませんので、家庭でやれるときにいつでもできるもの。 第一、こういった療法は、ある程度、席に座っていられる、鉛筆が持てる、指示に従える、といった条件が入ります。 でもでも、ハイハイは、どの子も赤ちゃん時代に通った道ですので、遊びの延長として行えますね。 なにか、新しい療法が出たり、誰かが「イイ」って言ったりしたら、一時的なブームになるのは、今までずっとありました。 TEACCHに始まり、コミック会話だ

名も無い遊びが脳を育てる

上の子は学校から帰ってくると、一分も経たないうちに遊びに出かけます。 まるで昭和のアニメのような、ランドセルを置くために帰ってくるような感じです。 「子どもの仕事は、遊ぶこと」と常々言ってきましたので、その教えを守り(?)、毎日、友達と一緒にあちこち行って遊んでいます。 この地域は、学年関係なしに、男女問わず、みんなで遊ぶ文化があるので、そういった面で大変ありがたいと思っています。 「子どもの仕事は、遊ぶこと」はキャッチフレーズのようですが、それくらい遊びは、子どもにとって、発達、成長にとって、とても重要なことだと考えています。 何故なら、遊びの中に様々な要素が入っているからです。 運動発達はもちろんのこと、危険への対処、答えのないものから遊びを考える想像性(創造性)、友達との交流を通して押したり、引いたりといった社会性を培っていきます。 また概念を培うのは、遊びを通してが一番だといえます。 その子が将来自立できるかどうか、非行やメンタルヘルスのリスクを回避できるか。 その基準が、「小学校4年生レベルの学力」と言われています。 これは小学生のうちに小学校4年生レベルの学力を身につけなければならないという意味ではなく、大人になるまで、また大人になってからも、この学力レベルが獲得できれば良いという意味です。 しかし、この『小学校4年生レベル』というのがミソになります。 小学校1,2年生というのは、暗記で乗り越えられます。 たとえ、知的障害があったとしても、繰り返し、繰り返し、学習を積み上げていけば、学力として獲得できます。 でも、3年生辺りから、学習の中に『概念』が入ってきます。 この概念は、単に暗記や反復学習では理解できません。 ですから、発達障害のある子ども達の多くは、3,4年生辺りから学習の遅れが出てくるのです。 学習面の躓きをきっかけとした相談は、このあたりの学年の家庭が多いです。 『概念』理解は、『自立』の条件の一つとも言えます。 概念が掴めない子ども達は、幼少期、または現在も、「外遊びをしない」「友達と遊ばない」という子がほとんどです。 なので、相談を受けたときに最初に尋ねるのが、「ちゃんと遊んでいますか?」というもの。 物事を1通りの理解しかできない子は、早期教育として絵カードを見せて、それに答える

身体を遊び道具にする発達段階

11月中旬くらいから、おもちゃのチラシが入るようになります。 おもちゃ屋さんはもちろんのこと、いろんなところで「クリスマスラッピングやってます」「今なら玩具、20%オフ」など、クリスマスモード。 子ども、兄弟は少ないうえに、元気なジジババサンタが大勢いますので、貰えるプレゼントは多くなります。 孫が喜ぶ顔が見たくて、たくさんおもちゃを買ってあげたい気持ちもわからなくはないですが、子どものブームというのは、ほんの一瞬。 もらったその日に見向きもしなくなるなんていうのは、よくある光景ですし、それが自然な子どもの姿です。 「子どもに発達障害がある」となれば、なるべく興味関心があるものを、子どもの知育につながるようなものを、そばに置きたくなるのは、自然な感情だと思います。 特に、「手先が不器用」という様子があれば、手先をいっぱい動かせるようなおもちゃを、と考えます。 「おもちゃでたくさん遊んで、手先を育ててほしい」 そういった家族、親戚の願いが、おもちゃの数として表れます。 新しいおもちゃでも、すぐに飽きてしまうのは、発達障害だからではなく、子どもの特徴です。 しかし、不器用さが改善していかないと、エネルギーが「より良いおもちゃへ」と向かいます。 そして、ちょっとでも長く遊んでくれるおもちゃが見つかると安心し、また子が飽きると焦ってしまう。 そうこうしているうちに、月日とおもちゃが増えていくわけです。 おもちゃがたくさんある家庭は、そうではない家庭と比べて、子どもさんは上手におもちゃで遊べているように感じます。 でも、「おもちゃで遊べる」=「手先の発達」ではありません。 結論から言ってしまえば、手先が不器用な子に、道具(おもちゃを含む)は早すぎる。 もう少し手前の発達段階を育て切る必要があります。 道具を使うから手先が動くようになるのではなく、手先が自由自在に動くようになって初めて道具が使いこなせるようになるのです。 たとえ、おもちゃで上手に遊べるようになったとしても、結局は、そのおもちゃ限定の遊び方を習得したにすぎません。 おもちゃが変われば、また上手に遊べなくなる。 おもちゃ、また道具なども同じですが、そのモノの形態に身体を合わせている限り、根本的な課題は解決していかないのです。 自由自在に動かせる身体→道具を使

発達に基づいたアセスメント、具体的な育み方の助言、そして結果、以上!

「親御さんの情報収集能力はすごいな」と感心することばかりです。 とても勉強熱心ですし、そこら辺の支援者よりも専門的な知識、情報を持っていると感じます。 専門家と呼ばれる人の中にも、自分の専門以外には疎かったり、価値がないものと最初から見向きもしなかったりする人がいますので、ヘタに頼るよりも、親御さん自ら突き進んだ方が良い場合もあります。 専門家、支援者は『対多数』ですが、親御さんは『我が子一人』のエキスパートになれば良いのです。 論文を書くわけでもありませんし、その専門領域内での権威の顔を伺う必要もありません。 ただシンプルに、我が子にプラスになること、より良く育つことができればいいだけ。 支援者、専門家のほとんどは、利用回数が増えると儲かる仕組みになっています。 でも、親御さんの希望は、我が子の自立。 つまり、支援、子育ての手が徐々に離れていくことが目指すべき方向。 なので、同じ知識、情報を持っていたとしても使い方が異なりますし、そもそも自立や治るという情報収集、研究をハナからしていないのです。 発達障害に関しては、親御さんと専門家&支援者との関係性が整理されていくと思います。 発達を促す場、育む場は家庭であり、それを後押しするのが専門家。 具体的には、現在の発達状況を確認し、具体的な育て方の助言を行う。 つまり、『アセスメント』と『具体的な育て方の助言』です。 今までのように、寄りそうとか、傾聴するとか、自己肯定感とか、褒めるとか、そんな抽象的で何とでも言えるようなものは、支援ではなくなりますし、公金で賄われるべき価値もなくなるでしょう。 人がどんどんいなくなっている社会ですので、共感は犬やイルカ、馬。 傾聴は近所の人か、ボランティア。 自己肯定感、褒めて欲しければ、ホステス、ホストさん。 あと、現行の〇✖クイズのような診断ならAIがやってくれると思います。 こういう私も支援者の一人であり、民間で公金なしにやっている身です。 ですから、『発達に基づいたアセスメント』と『具体的な育み方の助言』を磨き続けないと、真っ先にいなくなると思います。 あとは、それにプラスして、今の親御さん達が持つニーズに応えることです。 私のところにいらっしゃる親御さん達の中には、すでに色々な専門家のところに行ったり、自分で情

他人に配慮できる人、気を使える人に育つには?

啓発活動では、「私達に、特性に、配慮を!」という具合に、支援だけではなく、配慮を求め、訴えていることがあります。 配慮が必要な場面で配慮するのは、当然です。 しかし、どうも、この『配慮』が一般的な人達の心に響いていきません。 何故なら、配慮とは、“お互い”が配慮し合うことだから。 常に配慮する側と、配慮を受ける側が替わらない。 とすれば、それは配慮を求めているのではなく、特別扱いを求めていると捉えられても仕方がありません。 職場でも、学校でも、仲間でも、一方的な配慮は、結果的に関係性を維持することができなくなるのです。 職場なら配慮するから、「仕事の成果を」 学校なら配慮するから、「しっかり勉強を」 仲間なら配慮するから、「お互いが楽しい時間を」 配慮を受けた側がそれに応えることと、反対に相手に配慮すること。 それは人と人の間で生きる人間が基本となす部分だといえます。 ですから、発達障害があるなしに関わらず、社会の中で、人との間で生きることを目指すなら、配慮を求めるだけではなく、配慮できる人に育つことが重要です。 では、どうやったら、配慮できる人に成長していけるか。 配慮をもう少し具体化すると、「気を使う」ということになると思います。 幼少期なら、それができなくても当然ですが、ある程度、大きくなったのに、気が使えないというのは、社会性の部分での未熟さを感じます。 学校だけではなく、家の中でも、啓発活動のように一方的な配慮を求める。 お母さんに対し、「僕に気を使え」というような要求をするのに、お母さんには全然配慮をしない、気を使わない。 「うちの中だからイイか」と思いがちですが、それが学校で、社会で、他人に対して表出すると、嫌われるか、仲間外れにされるだけ。 と言いますか、うちの中も、小さな社会ですので、家の中での言動も成長と共に変わっていかなければならないのです。 他人に気が使えるようになるには、2つの要素が必要になります。 まずは、空気が読めること。 そのためには、周囲からの情報をキャッチできる身体が必要であり、皮膚感覚が育っていることが重要。 同じように、内臓感覚や前庭覚、固有受容覚…の育ち、つまり、自己の確立。 自分という存在が感覚的に把握できている状態であることが、自分と空間、自分と他人を分ける

土踏まずは、言語、認知、手先の発達へと続く道標の一つ

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ヒトは、二足歩行ができるようになって、言語や知性、手先を発達させていきました。 ですから、二足歩行ができる身体に育てることは、とても重要だといえます。 二足歩行ができていないのに、言語訓練をしたり、勉強を教えたり、ソーシャルスキルを暗記させたりしても、効果は期待できないでしょう。 中には、自然な二足歩行ができていないのにも関わらず、しゃべったり、学校の勉強ができたりする子もいます。 しかし、そういった子ども達の多くは、脳みそ、特に大脳皮質が頑張って、なんとかこなしているという雰囲気があります。 私達が意識することなく、しゃべり、学ぶことも、脳をフル回転させながら、考える力でカバーしながら進んでいる感じです。 なので、小学校低学年のときは良いですが、3年生、4年生くらいになって、概念や考える力が求められるようになると、ついていけなくなるのです。 ある意味、丸暗記の会話、パターンによる会話、小学校低学年の概念があまり入ってこない学習においては、発達の凸凹があろうとも、発達の遅れ、ヌケがあろうとも、続けていけば、身に付けることができます。 しかし、重要なのは、丸暗記や型が決まった会話ではなく、自然な会話、やりとりです。 それは学習面でも同じ。 決められた計算式で答えを出す、文章に当てはまる文字を書きぬく、文字を覚える…。 こういった基礎、土台から一歩進み、自ら考え、さらに答えのない答えを導き出していけるところまで成長していけることが、学ぶ目的でもあります。 そのために、単に「二足歩行ができる」ではなくて、“自然な”二足歩行ができることが必要になります。 普通級に在籍している子で、勉強や人間関係で躓き、初めて「発達障害では?」というようになる場合があります。 幼少期、物静かな子、勉強や運動が苦手な子も、小学校に上がり、概念と複雑性の世界に入ると、徐々にしんどくなっていきます。 そういったとき、「発達障害の子どもに合わせた方法で勉強を教えてほしい」と依頼が、私のところにきます。 しかし、そういった家庭教師としての役割は、ほとんど行うことがありません。 振り返れば、幼少期から何らかの発達の遅れ、ヌケはあったのでしょうが、特に指摘されることなく、診断を受けることなく、普通級に在籍しているわけです。 ということは、認知の面での根本

「発達障害=療育」「診断→療育」「療育を受けさせるのが良い親」は誤り

ついこの間までは、「発達の遅れを指摘され、診断を受けたら、気が付いたときには申請書に記入し、療育施設に通っていた」とおっしゃる親御さんが多かったです。 でも、最近では、その療育とやらも、どこも枠がいっぱいらしく、利用できるまで間が開くようです。 ですから、その間にいろいろと調べて、自分で行動する親御さん達が出てきたように感じます。 私のところにも、そういった方達からの相談が来るようになり、半年待機なら、一年待機なら、「その間で1つでも治しちゃいましょう!」という具合に、せっせと発達援助を行い、ヌケや未発達を育てていきます。 半年あれば、できることはたくさんありますし、年齢が幼ければ幼いほど、発達は加速度的に進むものなので、育つのも早いです。 「結局、療育施設への希望は取り下げました」というお話を聞けば、公的な資源を使わず、自らの力によって必要性がなくなるほどに治したのだから、これも一種の社会貢献であり、やっぱり治すことは本人にとっても、家族にとっても、社会にとっても、喜ばしいことだな、と改めて感じます。 現状の療育では、治すことを目的としていませんし、症状の軽度化も達成できていません。 とにかく「適応力を上げる」が主であり、その適応力とは、社会への適応ではなく、支援への適応。 つまり、支援しやすい子に育つような支援です。 もっといえば、支援者が介護しやすい子にどう育てるか、というもの。 どうして、そんなことが言えるのか、と問われれば、早期診断→早期療育→特別支援15年で、ほとんどの人が自立できていないから。 ギョーカイの掲げる目標は、「支援を受けながらの自立」なので、まあ、見方を変えれば、思い通りに育てることができているわけです。 「生涯に渡る支援」を高々に謳っていますので、支援の仕方、指導の仕方は、どうしてもそのゴールに向かったものになります。 早ければ、1歳から人生を終えるその瞬間まで、支援を利用してもらいたい。 こういう事情がありますので、また結果として出ていますので、「どうして、早期から頑張って療育、支援を受けたのに、自立しないんだ」と怒ったところで意味がないのです。 社会の中の自立、症状の軽度化、発達のヌケや未発達を育て、治すことを目的としていないので。 これもつい最近まであった不思議な相談なのですが、「幼稚

診断基準は変わる、進歩と人為によって

DSM-5が発表される際、アメリカ国内では騒動が起きました。 新しい診断基準になると、それまで該当していた人達の中に基準から外れてしまう人達が出る、と。 それでは、「今まで受けられていた支援、サービスが受けられなくなる!」「それは問題だ!」ということで、当事者、家族から声が上がったのです。 新しい診断基準へと改定を進めた人達も、当然、こういった反応は予想できたと思います。 (まあ、結論から言ってしまえば、ロビー活動によって、改訂前に診断を受けていた人は、それまでと同様に支援が受けられるようになりましたが)。 では、何故、改定する必要があったのか。 当然、多くの臨床からより実態に合ったものへ、それまで分からなかったことが明らかになったことによって、診断基準が変更されるという面があります。 DSM-5では、自閉症やADHD、LDなどが神経発達症という大きな括りの中に入ることになりました。 「どうも、“神経”発達が大きくかかわっているようだ」という具合に。 一方で、純粋に医学的、科学的な進歩によってのみ、診断基準が変わるわけではないこともわかります。 端的に言えば、診断基準に該当する人を減らしたかった。 先進国では、韓国、日本の順に、発達障害が増加していますが、アメリカでも同様に、ますます発症率も、発症者数も増えているのです。 ある程度、支援サービスが整っている国では、それに伴って、どんどん公的な予算、費用が増えていきます。 そこで有限であるリソースを効率的に分配するためにも、いや、もう予算がないから勘弁してくれ、ということかもしれませんが、開いた蛇口を閉め始める。 そういった側面も、あるのは当然だといえます。 このように人間が行うことには、少なからず思惑が入る余地があるのです。 発達障害が、神経の問題になったとき、神経なら育てられるし、アプローチできることが示されるようになりました。 また、長らく言われていた「生まれつきの障害」という言葉も根拠がなくなり、『発達期に生じる』という言葉によって、環境、アプローチの仕方によって変化が生じるという可能性、希望が見いだせるようになりました。 しかし、私達は医学、科学の進歩による恩恵だけではなく、その裏側にある意図にも目を向け、理解する必要があると思います。 つまり、未来は引き

寄り添うのも、発達を後押しするのも、家族が行えます!

福祉の世界では、「障害者に“寄り添う”」という言葉が大切にされています。 私が施設職員として働き始めたときの入社式でも、福祉事業所が主体である会議、研修会、講演会でも、書籍やギョーカイ新聞においても、「寄り添う」という言葉が出てきます。 あたかも、その言葉を入れないといけない決まりがあるような、まるで締めくくりの定型句のような。 「寄り添う」は伝統芸能のように、代々受け継がれてきています。 しかし、その「寄り添う」の流れの始まりを見てみると、昭和の初め、何十年も前にさかのぼります。 当時は、障害を持った人達が座敷牢に入れられていました。 その社会的に消し去られた時代から、障害者の保育、福祉、教育に移り変わるとき、「寄り添う」という言葉が生まれ、本人、家族、福祉に携わる人達にとって意義をもったのだといえます。 社会的に排除され、地域、家族からも存在が否定されていた時代。 その時代においては、障害を持った人に寄り添う、それ自体に価値があったのだといえます。 では、現在においても、「寄り添う」は大きな意義を持つことなのでしょうか。 職業として、仕事として関わっている人間が、その職務の一番に「寄り添う」を掲げて良いのでしょうか。 今は、福祉だけではなく、医療や教育、行政など、あらゆる分野で「寄り添う」「共感する」「認め合う」などと言われています。 でも、寄り添い、共感し、認め合うのなら、赤の他人が税金を使ってやることではないと思います。 寄り添うだけだったら、犬の方が優れているのでは。 本人が福祉の世界に入ると、成長が止まる、むしろ、できたことすらできなくなるのは、未だに福祉の中心に「寄り添う」があるからだといえます。 その施設内で問題が生じても、その問題を解決するよりも、「その人はやりたくてやっているのではない。困っている人である。だから、私達が寄り添うのだ」という具合に流れてしまう。 本人の生きづらさを改善するよりも、生きづらさを抱えている本人を一人にしない、孤立させないと流れてしまう。 「これのどこが仕事なんだろうか」 「この作業を続けていくと、キャリアアップに繋がるのだろうか」 「この自立訓練では、一生、自立できないだろう」 そのような福祉が今もなお存在し続けるのは、職員の質の問題もあるでしょうが、それ以前に福

生きづらさ保全の会

不登校や不登校気味の子の相談で多いのが、「クラスの子が泣いたり、叱られたりしていると、自分も悲しくなる、辛くなる」というものです。 その状況に耐えられなくなると、だんだんと心身に不調をきたし、学校に行けなくなる。 勉強や友人関係に問題はないのに、こういった理由から不登校になる子も少なくありません。 だいたい最初の対応として、「担任の先生にあまり叱らないように」とお願いをするようです。 しかし、いけないことをしたら指導するのは当然ですので、叱る場面をゼロにはできません。 それに子ども同士のやりとり、個人の感情はコントロールできませんので、クラスの子がネガティブになる状況はあり続けます。 となると、結局、本人が辛くなることは変わりませんので、もう一度、要望、話し合いが行われます。 先生としても、本人を叱っているわけではありませんし、クラスの子の感情をコントロールできるわけではありませんので、困ってしまいます。 一方、親御さんの方も、状況が変わらないことに焦り始める。 そういったとき、両者の流れが「発達障害」に向かい始めます。 担任が抱え込めない部分を受け持ってもらうための「発達障害」 特別な配慮をより認めてもらえるようにするための「発達障害」 ちなみに不登校になってから、診断を受けるケースが本当に多いです。 診断を受けると、その学校の不登校数にカウントされないというルールがあるのでしょうかね。 特別支援に関わる人、支援者、専門家の中には、こういった子どもさんに対し、「とても優しいお子さん」「他人の気持ちに共感できるのは長所」などと言います。 でも、本当に優しい子、他人の気持ちに共感できることが長所と言えるまでになる子というのは、ただ悲しんでいるだけではなく、行動に移せる子です。 悲しんでいる子の横で泣いている子は、ただ泣いている子。 そこから一歩成長し、悲しんでいる子に対して、どういった行動ができるか、それを考え実行できる子に育てるのが、また育ってもらうのが、子育てであり、教育でもあると思います。 このようなお子さん達は、一言で言えば、「自分が確立できていない」のでしょう。 自分と他人の境界線が曖昧ですし、その曖昧さは、自分の身体の範囲がわかっていない、ということ。 それは内臓の発達の遅れ、皮膚感覚、前庭覚などの

「障害ゆえに生きづらい」と「生きづらいゆえに障害」という連想

誤学習ランキングをつけるとすれば、「発達障害ゆえに生きづらい」が上位に食い込んでくると思います。 面談でお話ししていると、「それって、発達障害、関係なくね」と思う場面がよくあります。 「私は発達障害だから勉強ができないんだ」 「僕は発達障害だから、みんなに嫌われる」 詳しくお話をきくと、同じ勉強方法にこだわっていたり、そもそも勉強していなかったり。 周囲の人達は、発達障害を嫌っているのではなく、迷惑行為を嫌っていたりする。 「そんなことをしていたら、発達障害じゃなくても、嫌われるよね」ということがあります。 失敗や嫌われるにしても、因果関係が掴めていない。 ゆえに、また同じミスを繰り返す、の無限ループ。 因果関係が掴めないのは、情報が読みとれない、空気感が捉えられない、という本人側の理由が考えられます。 まあ、これが「発達障害ゆえ」と言われたら、そういう面もあるでしょう。 しかし、こういった部分は脳の機能障害ではなく、感覚系の未発達。 ですから、育てれば発達するし、感覚的にわかるようになる。 感覚系に未発達がある→情報が読みとれない、となると、頭先行で物事を捉えてしまいがちになります。 そこに脳の余白がないと、先着一名様の思考と重なって、特定の考え方に縛られてしまう。 それが「発達障害ゆえに生きづらい」という考え方(?)文言(?)スローガン(?) 本やネット、メディアなどでは、「〇〇ができない」「〇〇で失敗する」という具合に、ネガティブワードで溢れています。 そもそも診断基準の記述が、そのような「できない探し」で構成されているので無理もありません。 因果関係は載っていないで、「〇〇ができない」という文言ばかりなら、「発達障害=できない」という図式が出来上がってしまいます。 本当は、できないことよりも、「何故、できないか?」が重要なのに。 当事者会に行けば、形式的な自己紹介後は、「今、困っていることは何ですか?」と、みんな、困っていること大前提で会が進行していく。 その困っていることは、悩んでいることは、同世代の人達も同じように悩んでいるかもしれない。 そういった視点が持てなければ、当事者会は「同じ悩みが共有できた」という心の軽さよりも、「発達障害は、あんな困難も、こんな困難もある」という心の重さが増すば

強度行動障害と排便

施設では、管理栄養士が365日、朝昼晩のメニューを考え、それが提供されていました。 メニューに自由はありませんでしたが、偏り、過不足なく、必要な栄養が得られていたので、ある意味、同世代の大人たち、子ども達よりも、健康的な食事だったといえます。 そんな考えられ、健康的な食事が毎食摂れていたのにも関わらず、入所されている人達の多くは、排泄面で課題を抱えていたのです。 便秘の人は多かったですし、便が緩い人も多かったです。 当時、「どうして、こんなにも栄養バランスが整った食事を続けているのに…」とよく思いましたし、同僚とも話をしていました。 強度行動障害の人達は、精神科薬を服用していました。 ですから、当時は「精神科薬の副作用だろう」と捉えていましたが、今振り返ると、やはり内臓系の発達の遅れがあったのだと思います。 それは、新入所として入ってくる子ども達にも、排泄が未自立な子が多かったから。 排泄の課題の根っこを辿っていけば、幼少期からの排泄の課題、また排泄の自立がなかなかできない、という姿が見えてきて、さらに進めば、運動や感覚面だけではなく、内臓の発達の遅れとつき当たる。 精神科薬の束と、内科の薬の束が同じ高さくらいだったのが印象に残っています。 精神科薬を服用する前から、ずっと排泄の課題を抱えてきた、という人が多いのだと感じます。 便秘の人は、多動性が強かった。 便が緩い人は、衝動性が強かった(ちなみに、便が緩い場合、未消化物が多い)。 行動障害が激しい人は、排泄面で課題が多く、排泄の課題が大きい人は、行動障害が激しかった。 こういったのは、施設職員なら感覚的に理解しているような気がします。 排泄に課題がある人は特に、便の状態を確認することが、私達の大事な仕事の一つ。 なかなか健康状態を訴えることができない人も多かったので、排泄の状態は、体調の変化にいち早く気づくために重要な情報でした。 ですから、行動障害を持つ人や、知的障害、発達障害を持つ人の中には、排泄の課題を持った人が多いことがわかります。 またまた今思えば、行動障害を視覚支援や賞罰などで制止、改善しようとするだけではなく、「排泄の課題をクリアする」という視点があれば、内側から良い変化が得られたのではないか、と思います。 「他害を治す」と思えば、時間もかか

本人が治そうとするその日まで

私は、良い縁に恵まれているな、と思うことが多々あります。 先日も、「仕事が続けられています。新しい仕事を任されました!」というような報告をいただきました。 そして今日も、「仕事が決まりました。一般の人として」という喜びの報告があったところです。 メディアやネットでは、生きづらさ120%の大人たちばかり登場しますが、ご縁があるのは前向きで、頑張っている若者たちばかり。 本当にありがたいことだな、と思っています。 私は、そんな大人の方達と接するときと、子どもさんとその親御さんと接するときで、相談、援助の方向性を変えているところがあります。 それは、治せるところ、未発達&ヌケを、すべて言うか、聞かれるまで言わないか、という違いです。 お子さんの場合は、特に親御さんに対して、そのセッションの間で気がついたこと、確認できたことを余すことなくすべて伝えるようにしています。 もちろん、後日の報告書においても、より詳しく、考えられることはすべて記述します。 一方で、当事者である若者たちに対しては、基本的に尋ねられるまで、相談があるまで、私からは言わないようにしています。 何故なら、育てる立場ではなく、育てる主体であり、選択する主体だからです。 どこを治し、どこを育てるか。 もっと言えば、どう生きるか、は本人の考えと行動によって決められるものであって、他の誰からも侵略されてはいけないものだと、私は考えているのです。 仕事をしている人、自立して生活している人。 そのような若者たちであっても、すべての発達課題がクリアされているわけではありません。 と言いますか、発達課題は人生全てをかけて育て、治していくものなので、未発達やヌケがある状態が自然なのです。 それこそ、生涯が「発達期」 たとえ、未発達やヌケ、発達課題が残っていたとしても、社会生活が送られていれば良いわけで、悩みや生きづらさを抱えつつも、「今日一日頑張って、ちゃんと休息して、また明日元気に活動できる」で良いのです。 ゲームの世界とは異なりますので、すべての課題がクリアできた人から、次のステージへ、みたいなことはありません。 大なり小なり、すべてのヒトが、未熟さを抱えつつ、社会生活を営んでいる。 それが実社会というものです。 本人と出会った際、「ここを治せば、もっと生き

一方的な配慮ではなく、お互いに配慮し合う社会へ

「治らないから、”障害”なんだ!」と言われる人がいます。 確かに、身体などに障害を持った人たちは、そうかもしれません。 しかし、そもそも発達障害というのは、そういった確認できるような障害でなければ、何かが欠損しているような障害でもありません。 もし、発達障害と呼ばれる人達が、「神経が欠損している人」または、「神経発達が生じない人」ということを指しているのなら、発達障害は治らないし、治らないから障害だといえるでしょう。 でも、実際は発達障害ではない人と同じように、身体全身に神経が張り巡らされていますし、刺激によって神経同士が繋がっていくという機能も持っているのです。 違いがあるとすれば、その神経同士の繋がり方。 「この月齢なら繋がっているだろう神経ネットワークができていない」 「最も盛んな時期を過ごしているはずなのに、神経同士の繋がりがゆっくりだ」 すべての神経同士は、お互いに関連し合っていますので、発生初期から誕生後すぐの時期に生じるべき神経ネットワークが築かれなければ、それ以降の発達に影響が出ます。 これが発達のヌケ。 栄養不足や刺激の偏りによって、神経ネットワーク作りに滞りが生じれば、それが発達の遅れとなって、表面化するのだといえます。 発達のヌケや遅れがあるからといって、それが即、障害にならないのは、昨日、記した通り。 子どもなら子どもの、青年なら青年での、大人なら大人での、社会生活が支障なく、営まれていたのなら、発達の凸凹、違いは問題にならないのです。 ちなみに、どんな人にも発達の偏り、違いがあるのは当たり前であり、それと同じように、悩みや苦労のない人などはいませんので、社会生活に”まったく悩み、苦労がない”ではなくて、”支障がない”という表現になります。 じゃあ、「発達障害を治す」という表現を使わなかったとしても、共に生活している我が子に”支障”が生じたら、それを取り除こう、治そうと思うのは、どの親御さんでも一緒だと思います。 社会生活を送るのに支障となっているものの根っこを辿っていけば、神経発達に繋がります。 だったら、その神経発達を後押ししよう、運動、栄養、環境、遊び、家族の育みによって。 これは自然な親心であり、発達障害を治そうとするのは当然です。 どこの世界に、我が子が苦しむ姿を見て、「そのままで

治すのは、より良い社会生活が送れるために

「発達障害が治る」と言うと、すべての困難が治り、普通の人になることをイメージされる方が多いと感じます。 しかし、「普通の人になる」というのが治るだとしたら、それは不可能です。 何故なら、普通の人などいないからです。 一人ひとり遺伝子は異なりますし、その遺伝子がどのタイミングで、何が発現するか、しないかは環境側が握っています。 当然、発達の仕方も、学習の仕方も、生まれたあとの環境によって違いを生みます。 同じような時代、環境の中で生きた人間でも、一人として同じ人間はいません。 つまり、定型発達と呼ばれる発達の順序があったとしても、偏りもあれば、バリエーションもありますので、どの人も個性的で、発達に凸凹、違いがあるといえるのです。 「じゃあ、発達障害が治るって何だよ」という疑問が生じます。 その疑問に答えるためのポイントは、『障害』という言葉、概念です。 発達障害、もっと丁寧に言えば、神経発達の障害であり、神経発達に遅れがありますよ、ということ。 でも、神経発達に遅れがある子は少なくありません。 乳幼児健診でも、指標となる行動と月齢がありますが、発達には幅があるという前提がありますので、月齢よりも発達が遅れていたとしても、すぐに問題にはなりませんし、当然、障害にもなりません。 神経発達が遅れていても、あとから追いつけば良いのですし、遅れたままであったとしても、社会生活に支障がなければ問題ありません。 そもそも個々の神経を詳細に調べることはできませんし、健診等でも、それこそ、発達障害の診断でさえも行えないし、行っていません。 発達障害と無縁と思われる人、いわゆる定型発達で育ってきた人の中にも、知られていないだけで神経発達の遅れや、一般的な神経同士の繋がり方とは異なる人もいるはずなのです。 そこで、『障害』という言葉、概念です。 発達障害、神経発達障害などと言われていますが、本当に神経の発達が遅れているか、そこに不具合が生じているか、は確認しているわけではありません。 つまり、「神経発達に遅れ→社会生活に支障」ではなく、「社会生活に支障→神経発達に遅れ“だろう”」ということ。 よって、障害の有無は医学的、生物学的、神経学的に決定しているのではなく、社会生活に支障があるかないか。 世の中に、変人、変わった人はごまん

正常と異常の判断は、どうやるの?

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支援者の腕の見せ所が、正常と異常の判断だといえます。 その言動は、その子の発達は、正常なのか、異常なのか。 異常と見えるような事象でも、正常発達における個人差、発現のパターンだったりします。 母子手帳や育児書などには、この月齢はこんなことができる、こんな様子がみられる、という情報が載っています。 新生児、乳幼児、子どもの発達は、世界各国で研究されていますし、だいたいどこの国でも同じような発達パターンを辿ります。 いわゆる、その共通する発達パターンが定型発達と呼ばれるものです。 一方で、発達障害の子ども達は、その定型発達から外れたり、異なるパターンを辿ったりします。 しかし、定型発達のパターンから外れた、その通りに進まないからといって、すべてが発達障害になるわけではありません。 「この月齢ではこの運動」というような大体の目安はあったとしても、個人差がありますので、それよりも早い月齢でできたり、遅い月齢でようやくできるようになることもあります。 発達に関しては、早ければ良いものでも、遅ければ悪いものでもありません。 重要なことは、飛ばさず、ちゃんとやり切ること。 たとえ他の子ども達より遅れたとしても、やりきり、発達課題をクリアすればよいのです。 親御さんは、この子の言動は、正常なのか、異常なのか、その判断で迷い、悩まれます。 でも、その悩みに拍車をかけているのは、近くにいる支援者、専門家だと感じるのです。 ここ数年多いのが、達成する月齢から少しでも遅れようなら、「発達障害では」と言う支援者の存在。 面談し、お子さんの様子を確認すれば、ただの個人差の範疇というのに、それが発達障害の疑いとなってしまう。 もちろん、発達の指標は、障害やリスクがある子を見抜くためのものではありますが、そこから外れたら、即、発達障害ということではないのです。 あくまで、そういった可能性に早く気付き、経過を丁寧に見ていきましょう、という話です。 啓発活動の成果によって、発達障害が身近なものになり、できるだけ早く見つけるのが、そして支援に繋げるのが良いことである、というような認識が広がったような気がします。 その結果、発達の意味を深く理解し、学ぶことなく、流れ作業のように発達のリスク、障害というレッテルがつけられるようになりました。 何か一つで