本人が治そうとするその日まで

私は、良い縁に恵まれているな、と思うことが多々あります。
先日も、「仕事が続けられています。新しい仕事を任されました!」というような報告をいただきました。
そして今日も、「仕事が決まりました。一般の人として」という喜びの報告があったところです。
メディアやネットでは、生きづらさ120%の大人たちばかり登場しますが、ご縁があるのは前向きで、頑張っている若者たちばかり。
本当にありがたいことだな、と思っています。


私は、そんな大人の方達と接するときと、子どもさんとその親御さんと接するときで、相談、援助の方向性を変えているところがあります。
それは、治せるところ、未発達&ヌケを、すべて言うか、聞かれるまで言わないか、という違いです。
お子さんの場合は、特に親御さんに対して、そのセッションの間で気がついたこと、確認できたことを余すことなくすべて伝えるようにしています。
もちろん、後日の報告書においても、より詳しく、考えられることはすべて記述します。


一方で、当事者である若者たちに対しては、基本的に尋ねられるまで、相談があるまで、私からは言わないようにしています。
何故なら、育てる立場ではなく、育てる主体であり、選択する主体だからです。
どこを治し、どこを育てるか。
もっと言えば、どう生きるか、は本人の考えと行動によって決められるものであって、他の誰からも侵略されてはいけないものだと、私は考えているのです。


仕事をしている人、自立して生活している人。
そのような若者たちであっても、すべての発達課題がクリアされているわけではありません。
と言いますか、発達課題は人生全てをかけて育て、治していくものなので、未発達やヌケがある状態が自然なのです。
それこそ、生涯が「発達期」


たとえ、未発達やヌケ、発達課題が残っていたとしても、社会生活が送られていれば良いわけで、悩みや生きづらさを抱えつつも、「今日一日頑張って、ちゃんと休息して、また明日元気に活動できる」で良いのです。
ゲームの世界とは異なりますので、すべての課題がクリアできた人から、次のステージへ、みたいなことはありません。
大なり小なり、すべてのヒトが、未熟さを抱えつつ、社会生活を営んでいる。
それが実社会というものです。


本人と出会った際、「ここを治せば、もっと生きやすくなるだろう」と感じることがあります。
でも、本人が今の状態で、とても前向きに、社会生活が送られているのなら、それで良いのではないか、と私は思うのです。


「まだまだ未発達、発達のヌケを多く抱えている。
でも、本人はとっても明るく、幸せそうに生きている。
それは今日この日が来るまで、何倍も、何十倍も、多くの未発達、ヌケ、課題を抱えていたのだろう。
それを一つひとつ育て、治してきたからこそ、今、幸せな雰囲気が出ているんだ」
こういった連想が、私がお節介な支援者になるのを止めてくれています。


成人した人に関しては、治すことよりも、本人の充足感だと思っています。
治すことの優先順位は最上位ではありませんし、すべてを治す必要はありません。
しかも、治すのは本人の選択と意思によって。
それに今、治さなくても、時期がくれば、そのとき、治せば良いのだと思います。


子どもの場合は、親が、家庭が、育つための一番の環境になります。
ですから、すべて伝えます。
より良い子育てのために、材料は一つでも多い方が良いから。
いつか、本人自ら育てよう、治そうとする、その日まで試行錯誤は続きます。

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