名も無い遊びが脳を育てる

上の子は学校から帰ってくると、一分も経たないうちに遊びに出かけます。
まるで昭和のアニメのような、ランドセルを置くために帰ってくるような感じです。
「子どもの仕事は、遊ぶこと」と常々言ってきましたので、その教えを守り(?)、毎日、友達と一緒にあちこち行って遊んでいます。
この地域は、学年関係なしに、男女問わず、みんなで遊ぶ文化があるので、そういった面で大変ありがたいと思っています。


「子どもの仕事は、遊ぶこと」はキャッチフレーズのようですが、それくらい遊びは、子どもにとって、発達、成長にとって、とても重要なことだと考えています。
何故なら、遊びの中に様々な要素が入っているからです。
運動発達はもちろんのこと、危険への対処、答えのないものから遊びを考える想像性(創造性)、友達との交流を通して押したり、引いたりといった社会性を培っていきます。
また概念を培うのは、遊びを通してが一番だといえます。


その子が将来自立できるかどうか、非行やメンタルヘルスのリスクを回避できるか。
その基準が、「小学校4年生レベルの学力」と言われています。
これは小学生のうちに小学校4年生レベルの学力を身につけなければならないという意味ではなく、大人になるまで、また大人になってからも、この学力レベルが獲得できれば良いという意味です。
しかし、この『小学校4年生レベル』というのがミソになります。


小学校1,2年生というのは、暗記で乗り越えられます。
たとえ、知的障害があったとしても、繰り返し、繰り返し、学習を積み上げていけば、学力として獲得できます。
でも、3年生辺りから、学習の中に『概念』が入ってきます。
この概念は、単に暗記や反復学習では理解できません。
ですから、発達障害のある子ども達の多くは、3,4年生辺りから学習の遅れが出てくるのです。
学習面の躓きをきっかけとした相談は、このあたりの学年の家庭が多いです。
『概念』理解は、『自立』の条件の一つとも言えます。


概念が掴めない子ども達は、幼少期、または現在も、「外遊びをしない」「友達と遊ばない」という子がほとんどです。
なので、相談を受けたときに最初に尋ねるのが、「ちゃんと遊んでいますか?」というもの。
物事を1通りの理解しかできない子は、早期教育として絵カードを見せて、それに答えるような訓練をやってきた子か、遊びが乏しい子。
よって、発達援助の方向性としては、身体を使った、五感を使った、遊びを行うことになります。
この遊びとは、子ども主体で自由な、特に意味を求めない遊びです。
必ずしも人との交流は求めませんし、遊びの発達段階が進んでいけば、「感覚遊び」「一人遊び」「平行遊び」「交流遊び」「ルールのある遊び」というように発達していきますので。


特に就学前の子ども達は、「思いっきり遊べるようになるために“治す”」というイメージで、発達相談、援助を行っています。
理由は何度も述べているように、遊びが大きな発達に繋がるから。
ヒトは社会性の動物であり、その社会性の土台は、子ども時代の遊びで培われます。
よく遊んだ子が、高度な社会性を身につけ、同時に自立するために必要な概念、想像性、心身を育む。
子ども時代、よく遊んだ子は「前頭葉がとても発達している」という研究結果は、ヒトという種を考えれば、自然なことだといえます。


遊びによって、前頭葉が大きく発達するのなら、そして小学校4年生レベルに必要な概念が養えるのなら、幼少期の子ども達に対する援助は、まさに遊べるようになるための援助。
ですから、私は伺った地域の雰囲気、文化を感じながら、どうしたら、この子が外で思いっきり遊べるようになるのか、同世代の子ども達と遊べるようになるのか、を考えます。
遊べるようになったら、あとは遊びを通して治っていくので。
まだ小さい子の親御さんには、「遊べるようになったら、最初のゴール」というお話をすることもあります。


児童デイが雨後の筍みたいにできる前は、放課後、障害を持つ子ども達の余暇はとても寂しいものでした。
しかし、児童デイができ、みんな、通えるようになった。
以前と比べれば、放課後の過ごし方は雲泥の差です。
でも、将来の自立につながるどころか、社会性、発達は変わっていかない。
何故なら、同じ遊びでも、遊ばされているから。


子どもの発達、社会性、想像性に繋がる遊びとは、目的の無い遊びであり、ときに危険を伴う遊びです。
子どもの遊びを発達の観点で見れば、子どもは名の無い遊びをひたすら繰り返すことで、遊びを発達させていきます。
つまり、遊びの時間と場所が決まっていて、道具も決まっていて、遊ぶ人も決まっていて、「さあ、遊べ」というのは、最初から発達に繋がる遊びにはならないのです。
意図しない遊び方をすると、決まった遊び方に修正するのが、支援であり、療育だと思っている節がありますし。
また、常に大人の目があれば、そこには危険、スリリング、できるかできないかギリギリのところ、といった要素が排除されてしまいます。
ひと様の子を預かっている児童デイなら、なおさら、危険を回避します。
そうすると、名の無い遊びが行うことができず、大人によって期待された遊びをこなしている、になります。


「名の無い遊び」「目的のない遊び」「思う存分、繰り返せる遊び」「危険を伴う遊び」
この条件を整えるのには、大人の目がないところで遊べるスキルが必要です。
大人がいれば、ついつい手と口が出てしまいますので。
私達が子ども時代、親の目の届かない場所で、どれだけ危険な遊びをしたことか。
でも、それが社会性を培い、物理的にも、社会的にも、危険を回避する、対処するスキルの元となった。
それは、発達障害があろうがなかろうが、どの子にとっても必要な体験であり、学習です。
なので、親がいないところでも自由に遊べる、友だちと一緒に遊べる、という状態を目指すのが、幼少期の発達援助になります。


幼少期の子ども達を「何故、治す?」と訊かれれば、「思いっきり自由に遊べるために治す」と、私は答えます。
それが小学校4年生の壁を飛び越え、将来の自立、資質の開花へと繋がるから。
最終的な目標は、社会の中で自立し、自分の資質を自分のために、社会のために活かすこと。
そして、人生の自由を謳歌すること。
これが目標であり、治すはその過程の一つ。


今日は最高気温でも氷点下。
でも、外には雪がなく、太陽が見えている。
息子よ、さあ、今日も暗くなるまで、思いっきり遊んでおいで。
日が暮れるのと、子ども時代は、あっという間だから。

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