一方的な配慮ではなく、お互いに配慮し合う社会へ

「治らないから、”障害”なんだ!」と言われる人がいます。
確かに、身体などに障害を持った人たちは、そうかもしれません。
しかし、そもそも発達障害というのは、そういった確認できるような障害でなければ、何かが欠損しているような障害でもありません。


もし、発達障害と呼ばれる人達が、「神経が欠損している人」または、「神経発達が生じない人」ということを指しているのなら、発達障害は治らないし、治らないから障害だといえるでしょう。
でも、実際は発達障害ではない人と同じように、身体全身に神経が張り巡らされていますし、刺激によって神経同士が繋がっていくという機能も持っているのです。
違いがあるとすれば、その神経同士の繋がり方。


「この月齢なら繋がっているだろう神経ネットワークができていない」
「最も盛んな時期を過ごしているはずなのに、神経同士の繋がりがゆっくりだ」
すべての神経同士は、お互いに関連し合っていますので、発生初期から誕生後すぐの時期に生じるべき神経ネットワークが築かれなければ、それ以降の発達に影響が出ます。
これが発達のヌケ。
栄養不足や刺激の偏りによって、神経ネットワーク作りに滞りが生じれば、それが発達の遅れとなって、表面化するのだといえます。


発達のヌケや遅れがあるからといって、それが即、障害にならないのは、昨日、記した通り。
子どもなら子どもの、青年なら青年での、大人なら大人での、社会生活が支障なく、営まれていたのなら、発達の凸凹、違いは問題にならないのです。
ちなみに、どんな人にも発達の偏り、違いがあるのは当たり前であり、それと同じように、悩みや苦労のない人などはいませんので、社会生活に”まったく悩み、苦労がない”ではなくて、”支障がない”という表現になります。


じゃあ、「発達障害を治す」という表現を使わなかったとしても、共に生活している我が子に”支障”が生じたら、それを取り除こう、治そうと思うのは、どの親御さんでも一緒だと思います。
社会生活を送るのに支障となっているものの根っこを辿っていけば、神経発達に繋がります。
だったら、その神経発達を後押ししよう、運動、栄養、環境、遊び、家族の育みによって。
これは自然な親心であり、発達障害を治そうとするのは当然です。
どこの世界に、我が子が苦しむ姿を見て、「そのままでいなさい。それが個性だから」という親がいるというのでしょうか。


「発達障害を治す」に抵抗感を持つ人というのは、その意図を深く理解していない人、理解しようとしない人だと感じます。
特に、反射的に拒否反応を示している人が多いような印象を受けます。
そういった人は、「治す」から「矯正」を連想し、「発達障害でなくなる=普通の人になる」と思っているようです。


私も小さい頃には、散々叱られたものです。
そんなとき、親からは、「どうして普通にやらないの」「普通、そんなことしないでしょ」というような表現で叱られたこともあったでしょう。
でも、そこで用いられている”普通”は、「普通になれ」という意味ではなく、ただの叱り文句の一つ。
こういったのは、子どもでも、瞬時にわかるものです。


でも、中には、それを真っ正面から受け止める、字義通りに捉える、といった弛めない身体、察することの苦手な身体、意図や行間を想像するのが難しい脳を持った子もいたと思います。
そういった子どもが大人になり、家族ができると、似ている子どもが生まれる。
そんなとき、「発達障害を治す」という言葉と出会うと、その言葉、発信者の意図を理解しようという前向きな行動よりも、「普通になれなかった”自分”」「普通という言葉に息苦しさを感じていた”自分”」が思いだされ、反射的に拒否反応を示すのだと感じます。
それこそ、普通、我が子が困っている状況で、他の家族、お子さんで良くなった、治ったと聞けば、「どんなものだろうか」と興味関心、前向きな行動が生じるものです。


「発達障害を治す」という言葉に、必要以上に拒否反応を示し、執拗なまでにその言葉を打ち消そうとする人達というのは、「あなたこそ、まず治った方が良い」と感じる人です。
つまり、日々、生きづらさを感じ、社会生活がままならないくらい困難と支障がある人。
昭和、平成と学校生活を送ってきた世代は、現代よりも強く「同じ」が求められた人達。
さらに、まだ家の文化がある地方で育った人なら、余計、同じこと、はみ出さないことを求められ育ってきた。
そんな時代に生きた30代以降の大人たち。


診断を受けることなく、ずっと生きづらくて、ずっとみんなと同じようにできなかった。
「みんなと同じように、普通にやれ」と叱られ、何度もやり直しさせられた。
「発達障害を治す」という言葉は、「今の自分ではダメなんだ」という息苦しさと、望んでもなれない「普通」への強迫性を思い起こされる。
そうです、彼らに必要なのは、トラウマ処理。
言葉以前の問題を抱えている人に、言葉で説得、理解、やりとりをしようとしても、それは無理な話。


「発達障害を治す」という言葉をどうしても受け入れられない、反射的に拒絶してしまう人達がいるのは仕方がないことです。
大事なのは、今、より良い社会生活を送るために頑張っている人と、これからの社会を担っていく子ども達。
将来の社会を担っていく子ども達が、社会生活を送る上で支障が出ているのなら、それを治すのは、親の役目であり、大人たちの責任です。


ますます社会は、多様性のある社会へ変化しています。
文化や思想、考え方が異なる人達と共に歩んでいく社会です。
そんな社会で生きていくとき、「私には発達に凸凹があって、配慮してほしいんです」と言って、どれほどの配慮を得られるでしょうか。
きっと、今の子ども達が生きていく社会は、一方的な配慮ではなく、お互いがいろんな場面で配慮していかなければ、生きていけない社会になると思います。
発達の違いも、文化、思想、考えの違い、と同列になる。


ですから、大切なことは、社会に出ること。
そのために、社会生活を送る上で支障になる部分を治しておく。
発達の凸凹も、社会の中に入ってしまえば、目立たぬ違い、と言いますか、みんな、発達の凸凹は持っているのです。
子どもが、社会生活を送るためにできることは、身近に、家庭の中に、子育ての中にたくさんあります。
そうやって、多くの若者たちが治り、社会に出て行っています。
彼らに凸凹は残っていますが、今日も、自分の資質を、自分のために、社会のために活かして、社会生活を営んでいます。

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