寄り添うのも、発達を後押しするのも、家族が行えます!
福祉の世界では、「障害者に“寄り添う”」という言葉が大切にされています。
私が施設職員として働き始めたときの入社式でも、福祉事業所が主体である会議、研修会、講演会でも、書籍やギョーカイ新聞においても、「寄り添う」という言葉が出てきます。
あたかも、その言葉を入れないといけない決まりがあるような、まるで締めくくりの定型句のような。
「寄り添う」は伝統芸能のように、代々受け継がれてきています。
しかし、その「寄り添う」の流れの始まりを見てみると、昭和の初め、何十年も前にさかのぼります。
当時は、障害を持った人達が座敷牢に入れられていました。
その社会的に消し去られた時代から、障害者の保育、福祉、教育に移り変わるとき、「寄り添う」という言葉が生まれ、本人、家族、福祉に携わる人達にとって意義をもったのだといえます。
社会的に排除され、地域、家族からも存在が否定されていた時代。
その時代においては、障害を持った人に寄り添う、それ自体に価値があったのだといえます。
では、現在においても、「寄り添う」は大きな意義を持つことなのでしょうか。
職業として、仕事として関わっている人間が、その職務の一番に「寄り添う」を掲げて良いのでしょうか。
今は、福祉だけではなく、医療や教育、行政など、あらゆる分野で「寄り添う」「共感する」「認め合う」などと言われています。
でも、寄り添い、共感し、認め合うのなら、赤の他人が税金を使ってやることではないと思います。
寄り添うだけだったら、犬の方が優れているのでは。
本人が福祉の世界に入ると、成長が止まる、むしろ、できたことすらできなくなるのは、未だに福祉の中心に「寄り添う」があるからだといえます。
その施設内で問題が生じても、その問題を解決するよりも、「その人はやりたくてやっているのではない。困っている人である。だから、私達が寄り添うのだ」という具合に流れてしまう。
本人の生きづらさを改善するよりも、生きづらさを抱えている本人を一人にしない、孤立させないと流れてしまう。
「これのどこが仕事なんだろうか」
「この作業を続けていくと、キャリアアップに繋がるのだろうか」
「この自立訓練では、一生、自立できないだろう」
そのような福祉が今もなお存在し続けるのは、職員の質の問題もあるでしょうが、それ以前に福祉が「寄り添う」ことを第一に考え、寄り添うことが自分たちの使命、役割という価値観が続いているからだといえます。
日本の場合、福祉がリードしてきた歴史がありますので、特別支援教育においても、福祉の色が出ています。
さらに医療の分野においても、障害を持った子の親であるドクター達がリードし発展させてきた流れがありますので、本人の成長を後押しする教育でも、本人の生きづらさの元を治す医療でも、「無理をさせない」「頑張るのは本人ではなく、周り」という姿勢が強く出ています。
多分、福祉の中核である「寄り添う」が、それぞれの領域に派生したのでしょう。
言葉は違えど、弱い立場である人たちを守り、寄りそうという雰囲気は一緒です。
発達障害という分野でお金を貰っている以上、具体的な助言ができないようでは、プロとしては失格です。
子育てで悩んでいる親御さんに、「お母さん、その子の良い面を見ましょう」「お母さんがラクになると、子どもさんも成長しますよ」と言う。
これは良いことを言っているようで、何の足しにもならないことを言っています。
良い面を見ようとしても見れないくらい子育てが大変、本人の発達が不安。
だから、相談しているのに、寄り添った風の綺麗事を言うだけ。
こういう専門性がない言葉が堂々と発せられ、繰り返されている。
これはとても恥ずかしいことですし、日本の公的な支援の質が停滞している象徴的な場面でもあるのです。
「時間が解決する」なら、支援者はいらない。
「私の地域は、遅れています」
このような言葉は、いろんな相談者の方からお聞きします。
でも、住んでいる地域の支援の質が遅れているのではなく、現在の発達障害に関わる公的な支援全体が遅れているのです。
本来は、常に質の向上を目指し、前の世代よりも良いものに進歩させていくために、日々、研鑽を積んでいく必要があるのに。
どういったサービスを提供し、利用者にとって、どのくらい利益があったか。
そういったことが問われることなく、利用した数字によって、公的な資金が得られる、その仕組みに胡坐をかき、座敷牢の時代に芽生えた「寄り添う」だけで飯を食っている。
こういった現状に、公的な支援に、「NO」をつきつけるのは、令和の時代に子育てをしている親御さん達なら、またその原資を担っている社会人なら、当然の権利。
これは反社会的な行動ではなく、むしろ、社会をより良くしていくための心ある行動です。
発達障害は、その名の通り、発達に関わる障害なので、どうすれば、発達が促されるか、発達のスピードが加速するか、具体的に助言ができなければなりませんし、実際にやり方を示せる必要があります。
自分ができないのに、自分がやったことがないのに、良いも悪いもありません。
①生きづらさ、困難、悩みの根っこは、どの発達と繋がっているのか。
②その発達は、どのような順序で、どのようなアイディアによって、育っていくのか。
③実際に言葉で、実践で、示していく。
④そして、それを本人、家族がやった結果、ポジティブな変化が見られた。
そこで初めて、その支援、援助、相談が価値あるものとなります。
現状の多くは、①に入る手前で終わっています。
だって、治らないし、個性だし、無理させないから。
公的な支援サービスが変わるには、まだまだ時間がかかりそうです。
たとえ、単に「寄り添う」だけから、結果が問われる仕組みに変わったとしても、今の子育て世代には間に合わないでしょう。
ですから、自分自身で学び、行動していくのみ。
「発達は診察室のみで起きるのではない」
「療育施設のみで起きるのではない」
「学校のみで起きるのではない」
あらゆるところに、発達の機会があります。
当然、一番長く過ごす家庭生活が発達の中心です。
寄り添うのも、発達を後押しするのも、家族が行えるのです。
私が施設職員として働き始めたときの入社式でも、福祉事業所が主体である会議、研修会、講演会でも、書籍やギョーカイ新聞においても、「寄り添う」という言葉が出てきます。
あたかも、その言葉を入れないといけない決まりがあるような、まるで締めくくりの定型句のような。
「寄り添う」は伝統芸能のように、代々受け継がれてきています。
しかし、その「寄り添う」の流れの始まりを見てみると、昭和の初め、何十年も前にさかのぼります。
当時は、障害を持った人達が座敷牢に入れられていました。
その社会的に消し去られた時代から、障害者の保育、福祉、教育に移り変わるとき、「寄り添う」という言葉が生まれ、本人、家族、福祉に携わる人達にとって意義をもったのだといえます。
社会的に排除され、地域、家族からも存在が否定されていた時代。
その時代においては、障害を持った人に寄り添う、それ自体に価値があったのだといえます。
では、現在においても、「寄り添う」は大きな意義を持つことなのでしょうか。
職業として、仕事として関わっている人間が、その職務の一番に「寄り添う」を掲げて良いのでしょうか。
今は、福祉だけではなく、医療や教育、行政など、あらゆる分野で「寄り添う」「共感する」「認め合う」などと言われています。
でも、寄り添い、共感し、認め合うのなら、赤の他人が税金を使ってやることではないと思います。
寄り添うだけだったら、犬の方が優れているのでは。
本人が福祉の世界に入ると、成長が止まる、むしろ、できたことすらできなくなるのは、未だに福祉の中心に「寄り添う」があるからだといえます。
その施設内で問題が生じても、その問題を解決するよりも、「その人はやりたくてやっているのではない。困っている人である。だから、私達が寄り添うのだ」という具合に流れてしまう。
本人の生きづらさを改善するよりも、生きづらさを抱えている本人を一人にしない、孤立させないと流れてしまう。
「これのどこが仕事なんだろうか」
「この作業を続けていくと、キャリアアップに繋がるのだろうか」
「この自立訓練では、一生、自立できないだろう」
そのような福祉が今もなお存在し続けるのは、職員の質の問題もあるでしょうが、それ以前に福祉が「寄り添う」ことを第一に考え、寄り添うことが自分たちの使命、役割という価値観が続いているからだといえます。
日本の場合、福祉がリードしてきた歴史がありますので、特別支援教育においても、福祉の色が出ています。
さらに医療の分野においても、障害を持った子の親であるドクター達がリードし発展させてきた流れがありますので、本人の成長を後押しする教育でも、本人の生きづらさの元を治す医療でも、「無理をさせない」「頑張るのは本人ではなく、周り」という姿勢が強く出ています。
多分、福祉の中核である「寄り添う」が、それぞれの領域に派生したのでしょう。
言葉は違えど、弱い立場である人たちを守り、寄りそうという雰囲気は一緒です。
発達障害という分野でお金を貰っている以上、具体的な助言ができないようでは、プロとしては失格です。
子育てで悩んでいる親御さんに、「お母さん、その子の良い面を見ましょう」「お母さんがラクになると、子どもさんも成長しますよ」と言う。
これは良いことを言っているようで、何の足しにもならないことを言っています。
良い面を見ようとしても見れないくらい子育てが大変、本人の発達が不安。
だから、相談しているのに、寄り添った風の綺麗事を言うだけ。
こういう専門性がない言葉が堂々と発せられ、繰り返されている。
これはとても恥ずかしいことですし、日本の公的な支援の質が停滞している象徴的な場面でもあるのです。
「時間が解決する」なら、支援者はいらない。
「私の地域は、遅れています」
このような言葉は、いろんな相談者の方からお聞きします。
でも、住んでいる地域の支援の質が遅れているのではなく、現在の発達障害に関わる公的な支援全体が遅れているのです。
本来は、常に質の向上を目指し、前の世代よりも良いものに進歩させていくために、日々、研鑽を積んでいく必要があるのに。
どういったサービスを提供し、利用者にとって、どのくらい利益があったか。
そういったことが問われることなく、利用した数字によって、公的な資金が得られる、その仕組みに胡坐をかき、座敷牢の時代に芽生えた「寄り添う」だけで飯を食っている。
こういった現状に、公的な支援に、「NO」をつきつけるのは、令和の時代に子育てをしている親御さん達なら、またその原資を担っている社会人なら、当然の権利。
これは反社会的な行動ではなく、むしろ、社会をより良くしていくための心ある行動です。
発達障害は、その名の通り、発達に関わる障害なので、どうすれば、発達が促されるか、発達のスピードが加速するか、具体的に助言ができなければなりませんし、実際にやり方を示せる必要があります。
自分ができないのに、自分がやったことがないのに、良いも悪いもありません。
①生きづらさ、困難、悩みの根っこは、どの発達と繋がっているのか。
②その発達は、どのような順序で、どのようなアイディアによって、育っていくのか。
③実際に言葉で、実践で、示していく。
④そして、それを本人、家族がやった結果、ポジティブな変化が見られた。
そこで初めて、その支援、援助、相談が価値あるものとなります。
現状の多くは、①に入る手前で終わっています。
だって、治らないし、個性だし、無理させないから。
公的な支援サービスが変わるには、まだまだ時間がかかりそうです。
たとえ、単に「寄り添う」だけから、結果が問われる仕組みに変わったとしても、今の子育て世代には間に合わないでしょう。
ですから、自分自身で学び、行動していくのみ。
「発達は診察室のみで起きるのではない」
「療育施設のみで起きるのではない」
「学校のみで起きるのではない」
あらゆるところに、発達の機会があります。
当然、一番長く過ごす家庭生活が発達の中心です。
寄り添うのも、発達を後押しするのも、家族が行えるのです。
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