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10月, 2019の投稿を表示しています

支援サービスと対価、支援サービスと結果

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ある親御さんが、「近頃、ボランティアが集まらない」という話をしていました。 ボランティアが集まらないから、余暇活動がどんどん乏しいものになっていく、ということも言っていました。 確かに親御さんも年齢を重ねていけば、子どものペースで活動に付き合うことが難しくなってくるもの。 でも、この話を聞いて、あたかもボランティアが来ることが前提、当たり前というような話ぶりに違和感を持ちました。 ボランティアは、あくまでボランティア。 ボランティアだって、意思があり、プライベートな時間がある。 しかし、ボランティアが来ることに慣れてしまった人からすれば、来ないのが異常になってしまう。 そういった現状に、「学生のやる気が」「社会の理解が」「障害児の余暇は乏しくて良いのか!」などという言葉が連なってくると、社会が離れて行っているのではなく、自分たちで社会を遠ざけてしまっていると思うのです。 以前、読んだ本に、難民キャンプの子ども達は「貰い慣れ」してしまっているために、自ら行動しよう、向上しよう、現状を抜け出そうという意思がなくなってしまう、という話が載っていました。 各国から、支援団体から食料や衣服、勉強道具、おもちゃまでが届きます。 ですから、貰うことが当たり前になる。 そんな環境に長くいれば、どんどん意欲が失われていくのは想像が難しくありません。 「だから、無条件に物資を与え続けるのはやめてくれ。彼らに必要なのは、モノではなく、教育とチャンスなんだ」というメッセージがあったと記憶しています。 この難民キャンプの話は、上記のボランティアを当たり前に感じてしまう姿にも重なります。 もしボランティアが来ないが前提だったら。 どうやれば、一人で、家族のみで、休日を過ごせるか、外出先で活動できるか、そういったことを考え、新たな学び、成長へと舵が切れたかもしれません。 手を借りるのが当たり前であれば、自立を想像するのが難しくなる。 学生時代、毎日のように余暇支援ボランティアとして活動していた私としても、彼らの余暇を支援していたようで、もしかしたら、彼らが自立する機会を妨げていたのでは、と思うことがあります。 発達障害の子ども達に必要なのは、生活を支援することではなく、学ぶ機会を支援していくこと。 失敗させないように環境を調整し、転ばぬ先の杖

専門家の土俵ではなく、子の土俵で闘う

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初っ端から私のところへ相談に来る人はあまりいません。 ほとんどの方は公的機関に相談し、療育、支援も受け、学校の先生に相談し…という具合に、多くの支援者、専門家と出会っています。 それでも、「なんだかしっくりこない」「もやもやが消えない」という方が情報を集め、辿りついたというのが、大方の流れ。 セカンドオピニオンというよりも、サード、フォース…オピニオンといった感じでしょうか。 支援者や専門家など、多くの他人と関わりを持つのが、発達障害を取り巻く環境の特徴だといえます。 これは、よくある話なのですが、同じ子ども、行動を見ているのにも関わらず、言っていることが支援者によって全然違うということ。 例えば、過敏性があり、学校に行けなくなっているお子さん。 心理系の支援者は、過去の嫌な出来事、引っかかっている言葉が過敏性を生んでいると解釈する。 教員は、クラス内の人間関係になにか問題がないかと考え、同時に家庭生活に問題がないかと推測する。 医師は、起立性調整障害、睡眠障害などを疑い、発達系は、それが障害特性だから周囲の理解環境調整を提案する。 そして不登校メインでやっている人達は、心の休息と受容、プレッシャーを掛けないことの重要性を説く。 これは例え話ではありますが、似た出来事、相談は少なくありません。 結局、自分たちの土俵の上で闘いたいのが、専門家というもの。 ですから、私が再三言っているように、専門家になるほど、治せなくなるのです。 発達とは生き物であり、流れですので、部分を切り取ると必ず誤ります。 本人、親御さんは、サービスの利用者です。 利用する者が、利用される者に利用されてしまうと、問題が大きくなります。 発達の軸が、子育ての軸がブレブレになってしまうから。 「あの専門家が良い」と行ってみる、「この方法が良い」と試してみる。 それぞれの専門性、アイディアは素晴らしいもので、効果があるものだとしても、発達とは一つの段階をやり切ることで達成されます。 子どもさんが、一つの段階をやり切る前に、「次!」となっている家庭があるように感じます。 素晴らしい専門家、英知を集めれば、子どもが治るか、どんどん成長するか、問題がなくなるか、といったら、そういうことにはならないでしょう。 何故なら、知識は知識であり、部分にし

障害として対処した方が望ましいか、定型発達として対処した方が望ましいか

日頃、特別に意識しているわけじゃないのに、できない姿を見ると、障害を感じ、ふとした瞬間に、同年齢と変わらない我が子の姿を見る。 同じ我が子を見ているはずなのに、「障害児の我が子」と「健常児の我が子」の間で揺れ動く。 「本当は、どっちなのでしょうか」 そんな心の叫びに近い質問、相談を受けることは少なくありません。 発達障害は、障害という言葉が使われていますが、明確な線引きができるようなものでも、実態として具体的に示されるようなものでも、ありません。 神経発達の障害ですから、当然、不具合がある部分もあれば、同年代の子ども達と何ら変わりのない発達を遂げている部分もあります。 むしろ、正常な部分が大部分であり、定型発達の人と何が違うかと言えば、その不具合が発達の初期に起きたかどうかだと思います。 脳の深部、神経発達の初期、土台となる部分に生じるがゆえに、それ以降の発達、神経ネットワーク作りに不具合が生じるのでしょう。 身体障害、遺伝子の障害など、すべての障害を一括りにすれば、発達障害は軽微な障害の側に位置するといえます。 また、さらに発達障害のみで括り、考えてみると、軽度やボーダーなどと言われているグレーゾーンの人達は、限りなく定型発達側に存在するといえるでしょう。 それこそ、つい10年前、20年前までは、普通の人達でした。 グレーゾーンと呼ばれる人達は、定型発達側から見れば、普通の人、ちょっと変わった人。 一方、障害側から見れば、少ないけれども、困難を抱えた障害を持った人。 発達障害と定型発達の間に位置する、また重なり合う部分にいるグレーゾーンの人達は、どの視点から見るか、捉えるかによって、ある意味、障害者にもなるし、健常者にもなる。 当然、その見え方が、親御さん、先生、支援者の子育て、指導、援助に影響を与えます。 2000年以降、アスペルガーブームに乗じて、グレーの人達も、障害を持っている人達として支援対象にしよう、という動きができました。 つまり、「障害側からグレーゾーンの人達を見よう」という動きです。 それによって、早期診断が押し進められ、どんどん支援対象の子ども達が増えていきました。 子育てよりも療育、指導よりも支援。 支援を受けることが権利になっていけばいくほど、本人たちからしたら支援が義務のようになってしま

受け継いだ自閉脳、作られた自閉脳

「自閉症とは、脳のタイプの違いである」 若い頃、このようにトレーニングの中で教わりましたし、15年ほど経った今でも、そう思っています。 一言で言えば、情報処理の仕方に特徴がある、ということ。 ですから、それ自体、良いも、悪いも、ありませんし、障害とは違う話だと思います。 自閉症のままで自立し、幸せな生活を送っている人達がいますので。 自閉症自体が障害だとしたら、すべての自閉症者が自立できず、生きづらさを抱えることになります。 自閉症が脳のタイプ、情報処理の仕方の一つだとしたら、障害の部分、生きづらさの根っこは、別のところにあるのだといえます。 多くの自閉症者が苦しむところは、情報処理の仕方というよりも、感覚の違いであり、自律神経の乱れであり、内臓や運動機能の不具合です。 こういった不調、不具合は、自閉症の人だけに生じるものではありません。 なので、同じ悩みを持つ人達が改善し、治していったアイディアが、その自閉症の人にも当てはまる場合が大いにあります。 同じ不調、不具合なのに、自閉症以外の人は治り、自閉症という脳のタイプを持つ人だけが治らない、ということは考えにくいのです。 不調が治った自閉症の人と、治らない自閉症の人がいるのが、何よりの証拠です。 感覚も、自律神経も、内臓も、運動機能も、育てられることがわかっていますし、そういった育て方のアイディアを持っている実践家の人達は、特別支援の世界の外にたくさんいます。 自閉症ではなく、人としての悩みなのですから、その悩みに応えられる専門家、実践家を頼るのが一番です。 自閉症という脳のタイプ、情報処理の仕方に合わせた子育て、教育をしたいのなら、特別支援という括りにこだわる必要があるかもしれませんが。 自閉症が脳のタイプの一つだとしたら、その多くが親やその上の世代の人達から受け継いだものだと考えられます。 実際、発達のヌケや未発達の部分が育ったあとも、自閉症が残り続ける子ども達がいます。 同じ自閉症という診断名を受けた子どもさんでも、未発達ゆえの自閉症っぽい情報処理の仕方か、もともと持っているタイプとしての情報処理の仕方か、は全然違いますし、すぐにわかります。 子どもさんから感じる雰囲気、空気感、佇まいが違いますし、そういった雰囲気を感じた際は確認の意味で、親族に似たような方

身体性を伴わない言葉

「言語訓練を受けています」というお話は、実際、親御さんの口から聞かなくても、お子さんを見ればわかるものです。 単語レベルで止まっていたり、2語文、3語文を話したとしても、その文章が1つのパターンになっていたりします。 そして何よりも、コミュニケーションとしての言葉ではなく、「音をそのまま覚えました」「言いました」というような発し方が特徴的だといえます。 動物としての発声から発語という発達の流れとは異なり、知能でカバーし、暗記した言葉。 そういった言葉からは、どうしても感情が伝わってきません。 その雰囲気を感じると、言語訓練を連想するのです。 驚くことに、未だに具体物や絵、写真を見せて、それに答えさせるような言語訓練が、専門家の療育として行われているようです。 それは、小学生の英語の授業と同じレベルです。 りんごの絵を見せて、「アップル」と言うみたいな。 発声から発語、会話、コミュニケーションというような発達の流れを進んだ子、また話すための脳と身体を培ってきた子なら、そういった覚え方でも効果があるでしょう。 でも、発達障害の子どもにおける言葉の遅れは、外国に行った子が初めてその地の言葉に触れる、覚えるといったものではありません。 言葉を知らないのではなく、言葉を発する準備が整っていない、ということ。 同世代の子ども達と同じように、周囲に言葉があるのだけれども、それが意味ある言葉として捉えられない、耳にした言葉を声に出すことができない、という部分に課題があるといえます。 言葉を聞く準備が整っていない子に、言語訓練をしたら、どうなるでしょうか。 真面目な子どもほど、相手の口元に注目し、必死にその口の形にしようとするでしょう。 言葉を話す準備が整っていな子に、言語訓練をしたら、どうなるでしょうか。 素直な子どもほど、聞いた音をそのままの調子で、リピートするでしょう。 こういった覚え方をしてきた子ども達は、場面と一緒に言葉を覚えてしまいます。 実態を伴わない、意味を伴わない言葉ですから、どうしても場面をフックにしなければ、覚えられないし、思いだせないのです。 ですから、彼らの会話は般化が難しいし、文章丸ごと、一つの型として覚えている。 文章の一文字でも変われば、理解できなくなるのは、そもそも理解を伴った言葉ではないか

LDと言われている子ども達の中に

発達障害の“引き金”である環境リスク要因を見ると、現代社会において、それらを避けて通ることはできないと感じます。 山にこもるか、無人島に行くか。 いや、山は空でつながっていて、島は海でつながっている。 そうなると、この地球上、どこに居ても、違いは「リスクの程度の違い」だといえます。 相談の中には、「LDという診断を受けた」「読み(書き)で課題がある」といったケースもあります。 小学校低学年くらいは、本人の認知の部分でカバーできたり、同級生との違いが大きくなかったりすることがあります。 しかし、3年生くらいから学習内容も、求められる処理スピードも、グンとレベルアップしますし、同級生との違いも目立つようになります。 そうなると、親御さんも、周囲も、見て見ぬふりができなくなり、当然、本人がだんだんしんどく感じるようになってきます。 今は、だいぶ合理的な配慮が認められるようになり、タブレット等の学習をサポートする機器を使って学習する子ども達が多くなりました。 当然、勉強の目的は知識や技能を獲得すること、考える力を養うことですので、どんな道具を利用しようとも、その子に力がつけば良いわけです。 なのに、親御さんの中には、単にタブレットを利用すれば良いとは感じない人達がいて、私みたいなのに相談に来るわけです。 相談に来る親御さん達は、我が子のしんどさに目を向けています。 タブレットを使えば、学習面は大丈夫かもしれない。 でも、本人のしんどさは、タブレットでは改善できない。 文字を読むのにも、書くのにも、相当な苦労があるとしたら、それは生活すること自体、もっと言えば、見ること、手を動かすこと、そういった一つ一つの動作に生きづらさを抱えているということになる。 その生きづらさをどうにかしたい、改善したい、治したい、というのが親御さん達の願いです。 LDも、神経発達障害ですので、発達のヌケや未発達の部分、原始反射や脳のバランス等を確認し、神経発達を後押ししていくのが基本となります。 発達のヌケ等が育ってくれば、見ること、聞くこと、身体を動かすことがラクになってきます。 それが結果的に、読み書き計算などの学習面へつながっていくのです。 学習スタイルとしてタブレット学習を続けていく子もいますし、そういった機器を使わなくても学習できるよう

退行することで発達のヌケは埋まる

「わかりました。自然の中で思いっきり遊ぶようにします!」 相談やセッションのあと、山や海、川、公園の中で遊ぶようになるご家族が多くいらっしゃいます。 それまで室内で療育的なことを行っていた方も、休みのたびに遠出したり、キャンプを行ったり、できるだけ自然の中で刺激を受けながら過ごすように、と変わっていかれます。 発達障害を持つ子ども達は、言語を獲得する以前、2歳までの発達過程の中にヌケがあることが多いです。 なので、多様な刺激を全身で浴びることで感覚系を育てる、複雑で揺らぎのある自然の中で身のこなし方、基本的な運動機能を養う。 そういったことが、発達のヌケ、未発達な部分を育むことに繋がります。 それまでの生活とは異なり、できるだけ自然の中で遊ぶようにしているのに、順調に発達する子どもさんと、そうではない子どもさんがいることがわかります。 見立てでは、「もうその発達課題はクリアしていてもいいのに」「もう治っている頃では」という具合なのに、イメージよりもゆっくり進んでいる感じです。 実際に確認したり、状況を伺う中で、なんとなく、その違いがわかるようになりました。 「遊ぶ」と「遊ばせる」の違いです。 その子の持つ発達の流れどおりに進んでいるご家庭は、とにかく一緒に遊んでいます、親御さんが。 親御さんも泥んこになり、びちょぬれになり、とにかく思いっきり遊んでいる。 その姿からは、子どもと大人が遊んでいるのではなく、子どもと子どもが遊んでいる雰囲気を感じます。 どちらかといえば、親御さんの方が楽しんじゃってるって思うこともあるくらいです。 一方で、自然の中で遊ぶようにしたんだけれども、本人の発達の流れからしたら、ゆっくりだなと感じるご家庭は、子どもを遊ばせているような気がします。 子どもが遊ぶ様子を傍で見ている感じ。 「今、我が子に必要な発達刺激は“揺れる”だから」と頭で考え、ブランコや吊り橋に誘うような、準備したよ、さあ遊べ、みたいな雰囲気があります。 「遊ぶ子どもと、それを観察する大人」では、同じ発達刺激でも、同じ遊び、運動でも、発達するスピード、刺激の伸びやかさは変わってきます。 何故なら、子どもが子どもに戻り切れないから。 もっと言えば、動物であるヒトに戻り切れないから。 大人の目は、指示は、誘導は、文化に染ま

引き継がれないのが普通です

担任の先生が代わると、それまでの指導がガラッと変わるなんてことは、よくある話です。 相談にいらっしゃる親御さんの中にも、「せっかく支援ミーティングしたのに」「引き継ぎ資料を作ったのに」と言い、前年度のような指導、学習がそのまま引き継がれないことに不満を述べられる方もいます。 特別支援が始まって15年くらい経ちますので、全国どこでも引き継ぎは行われます。 同じ学校内でも、年度末には引き継ぎ資料を作成するものです。 しかし、「引き継ぎ資料を作る」「引き継ぎの会議を行う」というのと、「引き継ぐ」は異なります。 学校の先生も多様ですから、考え方の違いによって、前年通りの指導を引き継がない、という場合もあります。 でも、ほとんどの場合は、「中途半端なものを引き継がない」のだと思います。 たとえば、「箸を使って一人で食事ができる」ですとか、「大便の拭きとりは一人でできる」ですとか、自己完結できるようなスキル、活動は、そのまま、引き継がれます。 敢えて、一人でできていることをやらせない、なんてことはないからです。 一方で、「平仮名は書けるが、漢字は1年生のものを練習中」「足し算、引き算はできるが、2桁以上になると難しい」「プリント学習は、大人がそばにいないとできない」「時々、言葉が不明瞭で伝わらないことがある」など、完全にできないわけではないんだけれども、まだ指導、支援、介助が必要みたいなものは、だったら、「平仮名の練習だけやればいいのでは」「プリント学習やらなくていいのでは」「不明瞭な言葉なら、カードを使えば」という具合になりやすいといえます。 もちろん、指導途中のものを、そのまま引き継いで指導していこうという先生もいますが、人が代わるので完全に同じような指導はできません。 また、厳しいことを言うようですが、一年間、同じ先生が指導しても身につかなかったという子は、できているように見えることでも、その先生自体がきっかけ、ヒントになっていることが多いものです。 そういった子は、先生との関係性の中で再現している行動であることが多々ありますので、代わった先生が同じようにしようとしてもできないし、できていたこともできなくなることもあるのです。 同じ学校内でも、なかなか前年度のまま、引き継ぎができない現状があります。 じゃあ、他の学校へ転校する

親御さんにとっての就学相談

例年、この時期は、就学に関わる相談が増えます。 就学時健康診断で指摘があった。 普通級と支援級、支援級と支援学校、どちらにしようか。 我が子の発達障害を認識して子育てをされてきた親御さんも、そういった認識を持つことなく子育てをされてきた親御さんも、悩まれるのは当然だといえます。 答えのない答えを出さなければならない。 しかも、日々、来年の4月が近づいてきている中で。 就学が子の一生を決めるわけではないけれども、成長と将来の選択肢に大きな影響があるのはわかる。 他のおうちは参考になるけれども、我が子が同じようにいくわけではない。 就学や進路選択においては、どう頑張っても「n=1」から逃れられることはできないのです。 どういった選択が、我が子にとってベストになるか、には答えをくれるエビデンスはありません。 今まで多くの方達の相談にのらせていただきましたし、有難いことに選択後のお子さんの様子も教えてくださる親御さん達がいます。 子ども達は、どこに行こうとも、皆さん、その場に適応しようとしますし、その場できちんと学んでいこうとするものです。 就学時、「ああ、僕には他の選択肢があった。他にも学ぶ環境があった」とは思わないもの。 いろんな子ども達を見てきて感じるのは、土台が育っている子は、どんな環境でも成長していけるということです。 「学校の担任ガー」「交流学習ガー」「カリキュラムガー」「同級生ガー」 「普通級だから」「支援級だから」「支援学校だから」 環境はコントロールできないものですし、不満を挙げればきりがないものです。 学校だって、いろんな人がいるわけですし、それぞれのシステムがあり、文化があります。 予測不能で、常に自分に都合の良いことばかり起きるわけではない。 そういった環境の中で、何を学ぶか、どう学んでいくか。 まさに、子ども自身の姿勢、行動が問われているのであって、もっと言えば、家庭の姿勢、行動が問われているといえるのです。 土台が育ち、主体的に学び、成長していく子は、時期が来たら、自らの意思で学ぶ場所を変えていくものです。 最初、支援級で学んでいた子も、感覚的にそこが合わなくなったと感じれば、普通級へと意識が向くようになります。 反対に、普通級で学んでいた子が支援級を希望し、そこで伸びやかに学び、成長

支援者はサービス業

遺伝的な要因が基盤であり、引き金が環境要因。 それが発達障害発症のメカニズムだと言われています。 膨大な数の遺伝子の中で、どれが関わり、どういった組み合わせなのか。 そして、その遺伝子に影響を与えた環境要因は、何で、どのくらいなのか。 その発症パターンを明確にするには、まだまだ時間がかかりそうです。 言葉の遅れや感覚の異常、特異的な行動や不適応行動。 そういった姿を見ると、人はその原因を明らかにしようという心の動きが生じます。 因果関係をはっきりさせたいのは、未知の環境が命の危険と隣り合わせだった頃の名残かもしれません。 分からない状況、先の読めない真っ暗な環境は、不安を喚起する。 同時に、認知の部分を異常に発達させた人は、なんでもすぐに答えを求めてしまう文化に慣れた人は、曖昧な状態が脳への大きな負荷となり、それに耐えられなくなっているのだと思います。 我が子に発達障害が発症したメカニズムも、表面化した課題に対する因果関係も、本来、それ自体は価値のないことであり、「労多くて得るものなし」といったものです。 何故なら、因果関係がシンプルにまとめられるようなことは、ほとんどないからです。 しかも、その答え合わせはできません。 「一つの要因があって、一つの結果になる」ということはなく、中心となる複数の要因とそれに影響を及ぼした無数の要因が合わさり、ある状態を表面化するというのが真実に近いといえます。 「どうして我が子に発達障害が発症したのでしょうか?」 そういった質問をされるご家族は少なくありません。 「どこに発達のヌケがありますか?未発達の部分がありますか?」 こちらの質問は、ほとんどのご家族がされます。 当然、これらの質問に対し、正確な答えを返すことはできません、と言いますか、言葉で表せるほど、単純な表現はできないのです。 しかし、実際は「〇〇が理由だと考えられます」「〇〇が育っていないですね、ヌケていますね」という具合に、単純明快な言葉を使って返答します。 本当は、誰にも確かめることのできない複雑系なものを、あたかも因果関係がはっきりしているようなことを言う。 その理由は、あくまでサービス業だからです。 子どもさんにとって、家族にとって、より良い変化、利益が生じる方法を選択するのは当然です。 相談して、利

子育てが親自身の発達援助になる

大きな変化、成長が起きるのは、子どもだけではありません。 子育てをされている親御さんにも、大きな変化、成長が起きることがあります。 久しぶりにお会いすると、ガラッと変わった親御さんが立っていることも少なくありません。 親が子どもを育て、子どもが親を育てる。 子育て自体が、親の発達援助になっているのかもしれません。 相談に来られる親御さんの中には、ご自身でも発達障害、自閉症やADHDなどを持っている方がいらっしゃいます。 そういった親御さん達のお話を伺うと、ただでも大変な子育てがより一層苦労に感じられているような印象を受けます。 資質でもある真面目さ、一生懸命さが、子育てに向かう。 それ自体は素晴らしいことだといえるのですが、限度を超えて頑張ってしまうことがある。 子どもさんの発達援助よりも、まずはお母さん、お父さんが元気にならなければ、というようなご家庭も少なくありません。 子どもは育てたいようには、育たないものです。 たとえ赤ちゃんでも、自分とは異なる別人格の人間だからです。 どう動くか分からない、どう育つか分からない、変化に富んだコントロールできない存在。 その先の読めない曖昧さ、不規則性、そして何よりも「子育てには正解がない」という真理が、親御さんによっては人一倍脳に負荷をかけているように感じることがあります。 しかし、この負荷は、親御さんの脳を育てる負荷にもなります。 もちろん、心身が疲弊する状態では、過度な負荷、有害な負荷といえますが、心身が整った状態で向き合うと、それが発達につながるような気がします。 駆け込み寺のような状態でいらっしゃった親御さんでも、心身が整ってくると、「自分ではどうにもならないことがある」という具合に受け入れられるようになります。 すると、子育ての一つ一つにどう対処していくかを考え、行動するようになる。 行動して出た結果に対し、また自分で考え、工夫し、さらなる行動へ移していく。 こういった繰り返しが、脳に柔軟性を持たせ、脳を育てることに繋がる。 いろいろなアイディアが浮かぶようになったり、不測の事態に対応できるようになったり…。 親御さんの変化に「脳の余白の広がり」を連想します。 他にも「一緒に自然の中で、思いっきり全身を使って遊んでください」と提案させてもらった親御さんが

生き物である発達に委ねる

土台が育っていない人、整っていない人が苦手とする季節の変わり目。 その季節の変わり目を自然と迎え、翻弄されることなく、過ごせる人というのは、それだけで発達、成長しているのが分かります。 さらに、「大きな変化がありました!」「ドカンが来ました!」というようなお話を聞くと、「知」を超えた「生」の姿、ヒトの持つ力に、感動を覚えるのです。 夏、思いっきり遊んだ子ども達は、秋を迎える頃に、大きな変化を見せます。 9月に入ってから、そのような素晴らしい発達、成長を遂げた子ども達、親子のエピソードをたくさんお聞きしました。 喃語や単語が出るようになった子、普通級に転籍後、友達ができた子、一斉授業を理解し、学力を積み重ねていけるようになった子、IQがボーダーを超え、正常域に入った子、不登校から学校に通い始めた子…。 若者たちの中にも、アルバイトが決まり、休むことなく働いている人、正社員として働き始めた人などもいました。 まさに「実りの秋」という表現がピッタリな方達です。 しかし、この「実りの秋」は、養分を蓄え、陽を浴び、根や葉を伸ばしていくという準備段階の育み、培う時期をちゃんと過ごしたからこそ、迎えられたものです。 何かをやったから、パッと実ができた、大きな変化があった、などではありません。 小さな積み重ね、目に見えないような変化を積み重ねていった結果、土台がしっかりし、一気に開花したのだといえます。 いろんなご家庭を拝見してきましたが、大きな変化、ドカンが来る子の親御さんは、どちらかといえば、粘り強い人が多い気がします。 「ドカン」という表現になるのですから、それまでほとんど変化が見られない、見られても小さな部分で、というのがほとんどです。 ですから、そういった変化がない時期を、ブレずに育み続けられるか、一つ信じた道を結果が出るまで待てるか、ということがポイントだといえます。 今日から下半期が始まりますが、これは世の中が決めたことであって、子どもが決めたことではありません。 特に年少の子ども達は、その生まれ月で、同じ学年とはいえ、発達&成長が大きく異なります。 世の中の流れの影響を受ける親御さんが、子どもの歩むスピードを見て、余計に遅く感じてしまう、焦ってしまう。 こういったことは多々あることで、特別なことではありません。