支援者はサービス業

遺伝的な要因が基盤であり、引き金が環境要因。
それが発達障害発症のメカニズムだと言われています。
膨大な数の遺伝子の中で、どれが関わり、どういった組み合わせなのか。
そして、その遺伝子に影響を与えた環境要因は、何で、どのくらいなのか。
その発症パターンを明確にするには、まだまだ時間がかかりそうです。


言葉の遅れや感覚の異常、特異的な行動や不適応行動。
そういった姿を見ると、人はその原因を明らかにしようという心の動きが生じます。
因果関係をはっきりさせたいのは、未知の環境が命の危険と隣り合わせだった頃の名残かもしれません。
分からない状況、先の読めない真っ暗な環境は、不安を喚起する。
同時に、認知の部分を異常に発達させた人は、なんでもすぐに答えを求めてしまう文化に慣れた人は、曖昧な状態が脳への大きな負荷となり、それに耐えられなくなっているのだと思います。


我が子に発達障害が発症したメカニズムも、表面化した課題に対する因果関係も、本来、それ自体は価値のないことであり、「労多くて得るものなし」といったものです。
何故なら、因果関係がシンプルにまとめられるようなことは、ほとんどないからです。
しかも、その答え合わせはできません。
「一つの要因があって、一つの結果になる」ということはなく、中心となる複数の要因とそれに影響を及ぼした無数の要因が合わさり、ある状態を表面化するというのが真実に近いといえます。


「どうして我が子に発達障害が発症したのでしょうか?」
そういった質問をされるご家族は少なくありません。
「どこに発達のヌケがありますか?未発達の部分がありますか?」
こちらの質問は、ほとんどのご家族がされます。
当然、これらの質問に対し、正確な答えを返すことはできません、と言いますか、言葉で表せるほど、単純な表現はできないのです。
しかし、実際は「〇〇が理由だと考えられます」「〇〇が育っていないですね、ヌケていますね」という具合に、単純明快な言葉を使って返答します。


本当は、誰にも確かめることのできない複雑系なものを、あたかも因果関係がはっきりしているようなことを言う。
その理由は、あくまでサービス業だからです。
子どもさんにとって、家族にとって、より良い変化、利益が生じる方法を選択するのは当然です。
相談して、利用して、支援を受けて、何も状況が変わらない、状態にポジティブな変化が見られない。
それは、本人、家族を裏切る行為であり、公的、私的に関わらずお金が生じているのなら詐欺と言われても仕方がありません。


親御さんの心をより苦しめるのは、我が子に発達障害があったことよりも、どうしたらよいかわからない、何が正しくて間違っているか分からない、といった分からないことだらけの状況と、それに伴う無力感の方だと思います。
ですから、何か一つでも理由がわかれば、どこに未発達、ヌケがあり、育てていく部分がわかれば、心が晴れ、子どものために行動することができるようになります。
わからない環境と、動けない状態は、動物としてのヒトがもっとも恐れる状況。
命は自由自在に動くからこそ、輝いていく。
相談が終わったあと、パッと表情が明るくなる様子を見て、今日その瞬間から育みを始められる様子を見て、「私は最低限の仕事はできた」と実感するのです。


発達には順番があるということは、前後でつながっているといえます。
行動、能力、知能は、ボタンのスイッチの関係ではなく、複雑な機能、身体、細胞、神経が複雑に絡み合う連係プレイによって成り立っています。
とすれば、「〇〇が未発達ですね。そこを育てましょう」という言葉は、あながち間違えではないということになります。
つまり、何か一つでも育てば、必ずそこと繋がっている神経、細胞、機能、感覚、身体が影響を受けるのです。
「治しやすいところから治す」というのは、とてもシンプルな表現ではありますが、まさに発達援助における真理を表した言葉だといえます。


当然、発達援助に関わる者は、それを仕事にしている者は、未発達な部分、ヌケている部分を見たてられなければなりません。
ただし、常に「私が見たてたものは、答えではなく、答えの一部である」という意識は持ち続ける必要があります。
完全な答えを述べられないという事実が、自分の発した言葉、仕事、関わった本人、家族の出した答えに、責任を持つ姿勢へと繋がるからです。


未発達な部分、ヌケている部分が分かれば、その育て方は、本人が心地良い方法、親御さんの資質にあった方法で行えば良いのです。
「こうしなければならない」「この方法しかない」というようなことはありません。
むしろ、特定の方法を勧める人の方が怪しく、一つの方法にこだわる方が部分的な発達だけに留まってしまう可能性があります。
とにかく育てばいい、どんな方法でも。
それが真実です。


因果関係があるように説明するのは、支援者もサービス業だから。
曖昧な状況よりも、たとえ答えの一部であっても、なにか明確になる方が、子どもにも、家族にも、利益があると考えられるため、そうしているのです。
ただし、100点満点な答えではなく、「1点くらいだな」の意識は持つ。
それが仕事への責任、結果への責任を持つことに繋がる。
1点をとれなければ、2点、3点と上がっていかない。
同時に、1点取るお手伝いは支援者がやっても、残り100点を目指して積み上げていくのは、本人、家族である、と意識する。


未発達な部分、発達のヌケを確認してもらうのは、治すための入り口を開いてもらうくらいなもの。
あまり支援者、専門家を過大評価してはいけません。
そもそも自分で未発達、ヌケが分かるのなら、頼る必要はないのです。
どっちにしろ、育てるのは本人であり、家族ですから。
「勝てば官軍」のように、育てばOK、自立できればOK。
「どうやって育てたか」は家庭によって違うもの。
だって、原因も、根っこも、遺伝子も、環境も、神経も、身体も、一人ひとり異なるから。
まさに「発達障害、治るが勝ち!」なのです。

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