障害として対処した方が望ましいか、定型発達として対処した方が望ましいか
日頃、特別に意識しているわけじゃないのに、できない姿を見ると、障害を感じ、ふとした瞬間に、同年齢と変わらない我が子の姿を見る。
同じ我が子を見ているはずなのに、「障害児の我が子」と「健常児の我が子」の間で揺れ動く。
「本当は、どっちなのでしょうか」
そんな心の叫びに近い質問、相談を受けることは少なくありません。
発達障害は、障害という言葉が使われていますが、明確な線引きができるようなものでも、実態として具体的に示されるようなものでも、ありません。
神経発達の障害ですから、当然、不具合がある部分もあれば、同年代の子ども達と何ら変わりのない発達を遂げている部分もあります。
むしろ、正常な部分が大部分であり、定型発達の人と何が違うかと言えば、その不具合が発達の初期に起きたかどうかだと思います。
脳の深部、神経発達の初期、土台となる部分に生じるがゆえに、それ以降の発達、神経ネットワーク作りに不具合が生じるのでしょう。
身体障害、遺伝子の障害など、すべての障害を一括りにすれば、発達障害は軽微な障害の側に位置するといえます。
また、さらに発達障害のみで括り、考えてみると、軽度やボーダーなどと言われているグレーゾーンの人達は、限りなく定型発達側に存在するといえるでしょう。
それこそ、つい10年前、20年前までは、普通の人達でした。
グレーゾーンと呼ばれる人達は、定型発達側から見れば、普通の人、ちょっと変わった人。
一方、障害側から見れば、少ないけれども、困難を抱えた障害を持った人。
発達障害と定型発達の間に位置する、また重なり合う部分にいるグレーゾーンの人達は、どの視点から見るか、捉えるかによって、ある意味、障害者にもなるし、健常者にもなる。
当然、その見え方が、親御さん、先生、支援者の子育て、指導、援助に影響を与えます。
2000年以降、アスペルガーブームに乗じて、グレーの人達も、障害を持っている人達として支援対象にしよう、という動きができました。
つまり、「障害側からグレーゾーンの人達を見よう」という動きです。
それによって、早期診断が押し進められ、どんどん支援対象の子ども達が増えていきました。
子育てよりも療育、指導よりも支援。
支援を受けることが権利になっていけばいくほど、本人たちからしたら支援が義務のようになってしまったように感じます。
放課後、否応なく、校門前に並んだ車に乗せられていく子ども達の姿を見れば、もう一つの義務教育か、なんて思ってしまいます。
大学を卒業するような若者たちが、障害者枠で働き、また福祉的就労をしている人達までいる。
同じような大学を卒業した人達が、一般就労で貰える金額と比べれば、その差は歴然としています。
当然、その人の人生設計も大きく違うはずです。
しかも、一度、障害者枠、福祉的就労で働けば、それは履歴として残り続けます。
当地のような地方なら、そういった情報はすぐに知れ渡るため、一般企業に転職しようにも難しくなる。
私が関わった若者たちの中にも、当地を飛びだし、自分のことを誰も知らない土地に行った人達がいます。
どうして前科者のように、人目を忍んで、知らない土地に行かねばならないのでしょうか。
必要だったのは、部分的なサポートだったのに。
グレーゾーンの人達を障害側から捉えることによって、必要な支援、援助を受けられた人もいるでしょう。
一方で、障害側から捉えられてしまったばかりに、必要ではない支援を受け、結果として同年代の子ども達が得られていた学習機会、経験、体験ができなかった子もいるはずです。
問題なのは、障害側からの視点が強調されすぎてしまったばっかりに、普通の子として育てようとする行為が、よくない子育て、教育をしているように見られてしまうこと。
グレーゾーンという概念は、困っている人達にとっては助けになる。
でも、本当に助けが必要だったのか、本人が求めていたのか、と疑問に思う子ども達の存在があります。
彼らは、部分的には支援が必要だったかもしれないが、多くは同年代と同じような学び、経験、発達の機会だったのではないか、と思うことが多々あるのです。
いつの間にか、グレーの子ども達がまるまる障害児のような扱いをされていることに危惧しています。
グレーゾーンの子ども達に必要なのは、診断名ではなく、発達を促すアイディア。
いつも私は、診断をつけずに援助できないものか、教育できないものか、と思うのです。
と言いますか、「グレー」「グレー」と言われる前は、親子の自然な育みの中で発達を促し、自立できる子を育てていた。
学校教育の中でも、子ども達に合わせた指導が蓄積され、受け継がれていた。
教育の質が問題に挙げられることが増えましたが、教育の質を下げたのは特別支援だと考えています。
特別支援は、個(子)を見ているようで、障害を見ているから。
相談される親御さんには、定型発達側から見る視点の重要性を伝えています。
そうすると、定型の中にある障害というイメージができるから。
障害はそもそもその子の部分でしかありません。
定型発達から見ることで、定型発達とのズレ、違いに気がつき、そこを埋めるアイディアへと繋がります。
それが発達のヌケを埋める、未発達を育てるという視点に繋がるのです。
同じ我が子を見ているはずなのに、「障害児の我が子」と「健常児の我が子」の間で揺れ動く。
「本当は、どっちなのでしょうか」
そんな心の叫びに近い質問、相談を受けることは少なくありません。
発達障害は、障害という言葉が使われていますが、明確な線引きができるようなものでも、実態として具体的に示されるようなものでも、ありません。
神経発達の障害ですから、当然、不具合がある部分もあれば、同年代の子ども達と何ら変わりのない発達を遂げている部分もあります。
むしろ、正常な部分が大部分であり、定型発達の人と何が違うかと言えば、その不具合が発達の初期に起きたかどうかだと思います。
脳の深部、神経発達の初期、土台となる部分に生じるがゆえに、それ以降の発達、神経ネットワーク作りに不具合が生じるのでしょう。
身体障害、遺伝子の障害など、すべての障害を一括りにすれば、発達障害は軽微な障害の側に位置するといえます。
また、さらに発達障害のみで括り、考えてみると、軽度やボーダーなどと言われているグレーゾーンの人達は、限りなく定型発達側に存在するといえるでしょう。
それこそ、つい10年前、20年前までは、普通の人達でした。
グレーゾーンと呼ばれる人達は、定型発達側から見れば、普通の人、ちょっと変わった人。
一方、障害側から見れば、少ないけれども、困難を抱えた障害を持った人。
発達障害と定型発達の間に位置する、また重なり合う部分にいるグレーゾーンの人達は、どの視点から見るか、捉えるかによって、ある意味、障害者にもなるし、健常者にもなる。
当然、その見え方が、親御さん、先生、支援者の子育て、指導、援助に影響を与えます。
2000年以降、アスペルガーブームに乗じて、グレーの人達も、障害を持っている人達として支援対象にしよう、という動きができました。
つまり、「障害側からグレーゾーンの人達を見よう」という動きです。
それによって、早期診断が押し進められ、どんどん支援対象の子ども達が増えていきました。
子育てよりも療育、指導よりも支援。
支援を受けることが権利になっていけばいくほど、本人たちからしたら支援が義務のようになってしまったように感じます。
放課後、否応なく、校門前に並んだ車に乗せられていく子ども達の姿を見れば、もう一つの義務教育か、なんて思ってしまいます。
大学を卒業するような若者たちが、障害者枠で働き、また福祉的就労をしている人達までいる。
同じような大学を卒業した人達が、一般就労で貰える金額と比べれば、その差は歴然としています。
当然、その人の人生設計も大きく違うはずです。
しかも、一度、障害者枠、福祉的就労で働けば、それは履歴として残り続けます。
当地のような地方なら、そういった情報はすぐに知れ渡るため、一般企業に転職しようにも難しくなる。
私が関わった若者たちの中にも、当地を飛びだし、自分のことを誰も知らない土地に行った人達がいます。
どうして前科者のように、人目を忍んで、知らない土地に行かねばならないのでしょうか。
必要だったのは、部分的なサポートだったのに。
グレーゾーンの人達を障害側から捉えることによって、必要な支援、援助を受けられた人もいるでしょう。
一方で、障害側から捉えられてしまったばかりに、必要ではない支援を受け、結果として同年代の子ども達が得られていた学習機会、経験、体験ができなかった子もいるはずです。
問題なのは、障害側からの視点が強調されすぎてしまったばっかりに、普通の子として育てようとする行為が、よくない子育て、教育をしているように見られてしまうこと。
グレーゾーンという概念は、困っている人達にとっては助けになる。
でも、本当に助けが必要だったのか、本人が求めていたのか、と疑問に思う子ども達の存在があります。
彼らは、部分的には支援が必要だったかもしれないが、多くは同年代と同じような学び、経験、発達の機会だったのではないか、と思うことが多々あるのです。
いつの間にか、グレーの子ども達がまるまる障害児のような扱いをされていることに危惧しています。
グレーゾーンの子ども達に必要なのは、診断名ではなく、発達を促すアイディア。
いつも私は、診断をつけずに援助できないものか、教育できないものか、と思うのです。
と言いますか、「グレー」「グレー」と言われる前は、親子の自然な育みの中で発達を促し、自立できる子を育てていた。
学校教育の中でも、子ども達に合わせた指導が蓄積され、受け継がれていた。
教育の質が問題に挙げられることが増えましたが、教育の質を下げたのは特別支援だと考えています。
特別支援は、個(子)を見ているようで、障害を見ているから。
相談される親御さんには、定型発達側から見る視点の重要性を伝えています。
そうすると、定型の中にある障害というイメージができるから。
障害はそもそもその子の部分でしかありません。
定型発達から見ることで、定型発達とのズレ、違いに気がつき、そこを埋めるアイディアへと繋がります。
それが発達のヌケを埋める、未発達を育てるという視点に繋がるのです。
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