支援サービスと対価、支援サービスと結果

ある親御さんが、「近頃、ボランティアが集まらない」という話をしていました。
ボランティアが集まらないから、余暇活動がどんどん乏しいものになっていく、ということも言っていました。
確かに親御さんも年齢を重ねていけば、子どものペースで活動に付き合うことが難しくなってくるもの。
でも、この話を聞いて、あたかもボランティアが来ることが前提、当たり前というような話ぶりに違和感を持ちました。


ボランティアは、あくまでボランティア。
ボランティアだって、意思があり、プライベートな時間がある。
しかし、ボランティアが来ることに慣れてしまった人からすれば、来ないのが異常になってしまう。
そういった現状に、「学生のやる気が」「社会の理解が」「障害児の余暇は乏しくて良いのか!」などという言葉が連なってくると、社会が離れて行っているのではなく、自分たちで社会を遠ざけてしまっていると思うのです。


以前、読んだ本に、難民キャンプの子ども達は「貰い慣れ」してしまっているために、自ら行動しよう、向上しよう、現状を抜け出そうという意思がなくなってしまう、という話が載っていました。
各国から、支援団体から食料や衣服、勉強道具、おもちゃまでが届きます。
ですから、貰うことが当たり前になる。
そんな環境に長くいれば、どんどん意欲が失われていくのは想像が難しくありません。
「だから、無条件に物資を与え続けるのはやめてくれ。彼らに必要なのは、モノではなく、教育とチャンスなんだ」というメッセージがあったと記憶しています。


この難民キャンプの話は、上記のボランティアを当たり前に感じてしまう姿にも重なります。
もしボランティアが来ないが前提だったら。
どうやれば、一人で、家族のみで、休日を過ごせるか、外出先で活動できるか、そういったことを考え、新たな学び、成長へと舵が切れたかもしれません。
手を借りるのが当たり前であれば、自立を想像するのが難しくなる。
学生時代、毎日のように余暇支援ボランティアとして活動していた私としても、彼らの余暇を支援していたようで、もしかしたら、彼らが自立する機会を妨げていたのでは、と思うことがあります。


発達障害の子ども達に必要なのは、生活を支援することではなく、学ぶ機会を支援していくこと。
失敗させないように環境を調整し、転ばぬ先の杖になるのではなく、失敗を失敗経験のままにしておかない手助け、転んだ時の差し出す手。
発達の凸凹を受け止める心ではなく、発達の遅れ、未発達の部分を埋める援助なんだと思います。
しかし、ボランティアにしろ、教育にしろ、福祉にしろ、行政にしろ、身体に障害を持つ人達と同じような感じで、生活自体の支援が必要な支援となってしまっている。
だから、本当は自立できるような人、一般的な高校や大学で学べる人、一般の人と同じように働ける人が、幼いときから支援を受け続け、それが子も親も先生も支援者も当たり前になり、どんどん受け身の人間が出来上がってしまう。


「治らないのに、治さないのに、どうして病院に通うんだろうか」
そういった疑問の声が、どんどん大きくなっているように感じます。
一般の人からすれば、治らないものに、どうして多額の税金が使われるのか疑問に思うのは当然だといえます。
症状の緩和、改善のための薬の処方なら理解できますが、中には話を聞くだけの診察で終わっているのもあります。
それがカウンセリングだと言われたら、そうかもしれませんが、傾聴し、肯定し続けるだけだったら、それこそ、ボランティアで良いのではないかと思います。


どんな人でも、少ない負担で医療を受けられるのは、日本の健康保険制度の素晴らしい面だといえます。
でも、少ない負担が当たり前、地域によっては自己負担なしというのが当たり前になってしまうと、意思や目的、また変わろうとする意欲が失われていくように感じます。
以前、高齢の方達が病院の待合室で井戸端会議をしているのが問題になっていました。
治療よりも、通うことが日課であり、余暇になってしまっているとの指摘が。
結局、当たり前じゃない当たり前がもたらした副作用といえるでしょう。


極論ではありますが、治ることを目的としない診療なら、患者負担を増やすべきだと思います。
10割負担になったなら、治さない病院には行かないはずです。
「もし全額負担なら」
そういった視点で選び、行動することが、本人の成長、改善だけではなく、サービス自体の質を向上させることにつながるかもしれません。


サービスを受けたら、対価を渡す。
その対価が高すぎても、低すぎても、良くない結果を招きます。
発達障害に関するサービスにおいては、まずその価値を見抜く目が必要になります。
大前提として、特に子どもなら尚更のこと、何もしなくても発達は進んでいくもの。
ですから、現状維持は「0」ではなくて、「マイナス」という意味です。
盛んな発達期にある子どもが、一年も、二年も、状態が変わらない方が異常です。


また発達しているけれども、緩やかというのも、必ずしもプラスに作用しているサービスだとはいえません。
その子の発達の流れ、ストーリーから見て、同じペースで発達しているのなら、それは単にその子の持つ発達がそのままの形で表れているだけ。
つまり、そのサービスを受けても、受けなくても、変わらないという意味。


よく「発達障害の子も、発達するに決まっているだろう」という人、支援者がいますが、大事なのはその発達のスピードと幅です。
本来持っているその子の発達の流れが、加速した、よりバリエーションが増え、豊かになった。
そのとき、初めてそのサービスに価値があると判断できるのです。
「あの支援者の指導、助言を受けてから、ググッと発達のスピードが速くなったような気がする」
そういった印象が、実際の変化が見られないと、支援者の腕、サービスの質に疑問が付きます。
たとえ自己負担が少なくても、そういったサービスを選択し続けることは、社会の負担を増やしているといえるのです。


発達障害が治る水や数珠、壺などが売らていることがあります。
でも、水で150円くらいなら、治らなくても対価として正しい。
また、こういった類のものが、社会的な問題にならないのは、全額自己負担だから。
これが、一部でも税金が使われていると、大問題になります。


サプリやプロテインは、それ自体に価値がありますし、その対価が販売値となっています。
本も一緒。
私のような民間の支援も、サービスの質、結果に対する対価を貰っているのです。
でも、公的な支援、サービスは話が別。
1割自己負担なら、利用していない人が9割負担しているのです。
それで、現状維持、発達のペースが加速しない、では問題ありです。
傾聴する、見守る、受け入れるだけなら、家族や友人、ボランティアでも担える。


発達障害が治る水も、治さない支援も、結果で見れば、同じ結果。
水なら飲めるが、支援は喰えない。
喰えない支援は、受け身の姿勢、人生につながっていく危険性がある。
支援には、支援を“受ける”という言葉がついてくる。
発達とは、本人の主体性と能動性が必要。
つまり、支援を受け続けている限り、発達も、自立も、成し遂げられないということです。
そう考えると、この15年余り進んできた特別支援の道が正しかったか、否かが見えてきます。
今、子育て中の親御さん達は、この15年間の結果を見て判断ですね。



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