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【No.1410】自己治療を応援する

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「良いところを見つけ、良いところを伸ばす」 特別支援学校の先生も、支援者も、大学の先生も、みんな、口をそろえて言っていた。 だけど、私は一瞬でそれは一種の”慰め”だとわかった。 「あなたに、あなたの子に発達障害はあるけれども、良いところもあるでしょ」 「全部が全部、ダメなわけじゃない」 そんな慰めの言葉はお作法として有難く受け渡しされていた、親と支援者の間で。 「良いところを伸ばす」という実践はどこでどんな風に行われているのだろう? 色のマッチングができる子に、ひたすら色分けされたカードを分別させるのは「良いところを伸ばす」なのだろうか。 ゴミにこだわりがある子に、回収されたペットボトルのラベルはがしをさせるのは「良いところを伸ばす」なのだろうか。 日常生活をルーティン化させる子に、ルーティンで物事を習得させるのは「良いところを伸ばす」なのだろうか。 色に強く意識が向くのは目の未発達かもしれないし、ゴミのこだわりはトラウマから逃れようとしている行為かもしれない。 すべてのルーティン化は洪水のように押し寄せる刺激への対処かもしれないし、脳内の情報処理がうまくいかない”もがき”かもしれない。 私は「良いところ」ではなくて、「資質」なんだと思う。 その子の持って生まれた資質。 それはある程度、年齢が上がったあとに見えるものではなくて。 学校や施設で見える「良いところ」は往々にして環境との折り合いをつけた対処法だったり、作られた学習形態だったりする。 だから、それらをいくら取り入れ、繰り返し、褒めちぎったとしても、治療にはつながっていかない。 発達の課題はその人の内側にあるものであって、だから治すのもその人本人。 発達障害を治すのは自分自身であって、”自己”治療が真実だから。 資質というのは、言葉を獲得する前、2歳くらいまでの時期にどんな動き、遊び、興味を持っていたかで見えてくる。 言葉を獲得したあとは学習するが、それ以前は教わっていない自らで編み出した形のまま。 「心地よい」に突き動かされる行動こそ、その子が引き継ぎ、持って生まれてきた資質。 「”心地よい”を大切にしよう」というのは、その子の資質の表れだから。 そんな資質は、生まれ出た世界で生き抜くための発達のエンジン。 生活の中に資質を活かした活動がある子は、日々治っていく。 仕事の中に資質を活かした活動がある人は、年

【No.1409】”胎児期のヌケ”に新たな視点

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昨日は「制限を取っ払った状況、なにものにも縛られず、自由な環境こそが、その子本来の支援、治療、学習の姿が現れる」というお話をしました。 でも、だからといってみんながみんな、無人島のような環境の中にいれば、「勝手に育つ、勝手に課題をクリアしていく」とは言い切れないと思っています。 いや、確かに現代における「発達障害」という課題の大部分はそれでクリアされるはずです。 ただもう一つ重要なポイント、視点があると考えているのです。 それは「制限も、重要な発達を促す要素の一つ」ということです。 私は胎児期も大事な発達期だと考えています。 お母さんのおなかにいるときも、絶えず刺激を受け、心身共に発達をしている。 だからこそ、想像してほしいのです。 胎児は身体が大きくなるにつれて、動きに制限が加わります。 それまで羊水の中を泳いでいたのに、日に日に大きくなり、妊娠後期にはほぼ動けない状況になります。 だけれども、それがいいのです。 それが必要なのです。 手足は屈曲し、動かせる部位が限られていく。 そうなると、胎児の赤ちゃんは動かせる部位を必死に動かそうとする。 それが手や指、口などの顔の筋肉であり、捻じるというそれまでになかった動きを生むことになる。 いろんな事情により早期に生まれた子ども達は、そういった「制限された環境での発達」を抜かしていることがあります。 そして抜かしているからこそ、欲しているように見えることがあるのです。 自ら狭い空間に入っていったり、私たちから見れば物理的にも、心理的にも、行動的にも不便そうな環境づくりをしたり。 中には自らの身体を縛ったり、固定したり、敢えて動かそうとしなかったり。 環境を変え、身体機能を変えることで、自らに制限を加えている。 それは一見すると、障害児っぽさであり、障害特性であり、その子自身で行う発達援助。 発達相談でお子さんのアセスメントをしていると、このような姿、子ども達からのメッセージを感じることがあります。 「発達のヌケ」には運動発達のヌケ、進化の過程のヌケだけではなく、こういった制限された状況で育つはずのヌケもあるような気がしています。 「胎児期のヌケ」に一つ新たな視点が加わった印象です。 ======================= 【発達相談のご案内】 11月に熊本、12月に宮崎に出張予定です。 もしこの機会に「発達の悩み

【No.1408】発達援助のコツは「無人島」

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「発達援助のコツは?」と訊かれることがあります。 コツと言われても、いろいろあって一言で表現するのは難しいのですが、今日はその中の一つについてお話ししようと思います。 私の発達相談では実際におうちに伺って数時間、お子さんと一緒に過ごします。 そしてその時間の中で私は想像するのです、「もし、なにもない環境で過ごしていたら?」と。 ”なにもない環境”とは、つまり、なにも支援も、援助も、医療も、教育も、受けていない、ということです。 もしそんな環境の中で生きていたら、この子はどうやって自身の困難と折り合いをつけ、対処し、治療していたのだろうか、と想像します。 私たちは発達障害の子がいれば、無意識的に「支援・医療・教育」を連想し、そのために行動しています。 とくにこれだけ特別支援や教育、医療や福祉が整備された現代社会においては、「なにもしない」という選択肢はないようなものです。 一度発達の遅れが指摘されれば、医療⇔福祉⇔教育という無限ループの中にパッケージング化されていく。 だけれども、本当に「支援・医療・教育」は必要なのでしょうか。 それがないと、受けないと、どうにもこうにもならないものなのでしょうか。 受ける前は、子ども自身、何もできていない?していない? そうじゃないと思うんです。 子どもさん自身をよく観察すると、自分で自分を支援し、治療し、学んでいることがわかります。 「偏食」と言われる子は、心地よい食感、匂い、色の食べ物を選択し、不快・不必要な食べ物を自らで取り除いている。 それを支援者が行えば支援となる。 「食べられるものが増えるように」と先生が張り切れば、偏食”指導”となる。 でももしこの子が自然の中で生きていれば、食べられるものを食べ、生きていくだろう。 内なる欲求、判断力で自ら食べるものを狭めたり、広げたりするのは問題なのでしょうか。 部屋の中を動き回る子がいれば、「多動」「ADHD気質」などと問題視される。 だけれども、彼は動き回ることでリラックスしているかもしれない。 情報過多になった頭の中を整理しているかもしれない。 息のあがる運動をすることで、酸素をより多く取り込んでいるかもしれないし、幸せホルモンを放出されているのかもしれない。 きっと彼も無人島にいれば、健康的で幸せな日々を送っていることでしょう。 独り言だって、言葉の学習かもしれないし、リズム

【No.1407】援助・支援・余計なお世話

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発達障害は「マイノリティ」「少数派」と言われていた。 少数派の人たちだからこそ、その一人ひとりの事情や特徴、ニーズに合わせた配慮が必要だと説かれている。 だけれども、診断名を見れば、みんな、「発達障害」で一括り。 しかも、その括りは広がるばかりでとどまることを知らない。 医療や支援の目標は、この国の人全員を、発達障害にすることじゃないかとすら思えてくる。 「健康でいたければ、医者の言うことと逆をする」 「長生きしたければ、病院に行かない」 ここに「発達障害をよくしたければ、病院と支援機関に行かない」が加わるだろう。 「発達障害」は、その対象が「発達」である限り、動きを伴うものである。 しかし、診断基準を見れば、どの項目も固定されている。 文字で表現される限り、動きを捉えることはできず、まるで写メを撮るようにその子の一部分を切り取り、静止させる。 切り取った静止画を見て悪趣味の人たちが「ああ、よく撮れた」と発達障害コレクションを増やしていき、儲け主義の人たちが加工アプリを使って発達障害を盛っていく。 研究対象は決まった形がなければならない。 研究者同士で会話ができないからである。 だけれども、私たち一人ひとりは自分の人生を生きている。 ”発達”は生きているのだから、”発達の遅れ”も生きている。 生きている限り、常に動き、曖昧な存在。 それぞれの人生の目的、幸せが曖昧なように。 発達の遅れが不幸であると、誰が決めたのだろうか。 そもそも発達の遅れというものは、本当に発達が遅れているのだろうか。 その子固有の発達の仕方、育ち方、歩み方だとしたら、「余計なお世話」と言われても仕方がない。 もしかしたら子ども達にとって医療も、支援も、療育も「余計なお世話」かもしれない。 少なからず私の中には余計なお世話をし続けてきた自覚がある。 一人ひとりが示す症状は、バランスをとるために必要不可欠な創造物。 なんの「バランスをとる」といえば、「生きるための」となる。 この世界と折り合いをつけ、生命維持のためにおのおのの症状が生まれる。 だから症状は一定でなく、揺れ動く。 発語がないのは、発語がないことでバランスをとっているように見えることがある。 右脳と左脳とのバランス。 原始的な脳と新しい脳とのバランス。 本能と知性とのバランス。 私の感情と親の感情とのバランス。 人工的な社会と動物であ

【No.1406】待つ

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少年野球のコーチになって初めての公式戦が終わりました。 結果は初戦負け。 まだまだ課題が多いというか、勝負をする以前の段階かもしれません。 でもそれだけ伸びしろがあるということで、可能性の塊の子ども達とともに汗を流す日々は新たな生きがいを私に与えてくれているように感じています。 少年野球は「教える」がメインのようなイメージがあると思いますが、中に入って実際にやってみると「待つ」がメインのような気がしています。 当然、教えるべきことはある。 だけれども、その選手が教えられる準備ができているか、その段階にあるか見分けなければなりません。 いくら熱心に、また丁寧に教えても、その子の理解が届いていないことはある。 たとえ理解できたとしても、身体を使ってそれを表現できないことはある。 そこを見極めないで、教え方をころころ変えたり、「根性が足りない」と練習量を増やしたり、「だから今どきの子は」なんて愚痴ってもいけませんね。 子どもの発達は踊り場付きの階段系なので、ずっとできなかったことが急にできるようになることがある。 踊り場をゆっくり歩いて次の階段に向かっている最中に、いかに「待てるか」が重要だと感じています。 また子ども達を見ていると(もちろん、少年野球の子ども達だけじゃなくて)、学ぶ機会の喪失を感じることがあります。 親御さんは忙しいので、「自分がやった方が早い」とあれこれ手を出してしまう。 きょうだいがいなかったり、少なかったりするので、我が子に手をかけすぎる。 そうなると、子どもはやってくれるのを「待つ」 だからいざ集団活動になると、みんな、動くことができない。 大人が大きな声を出して指示をすれば、それは素直に実行することができる。 でも、その指示がなければ、立ち尽くすか、おのおの自分勝手な行動へ向かってしまう。 全体を見て、「ああ、これをやらなくては」とはなりにくい。 だって、そのように考え、行動する前に、大人が行動してくれたから。 この前、うちの下の子が水筒を忘れて学校に行くと、学校から電話がかかってきて、「水筒、忘れてますよ」って担任の先生がわざわざ(遠足とかじゃなくて普通の日)。 水筒を忘れても、蛇口から水を飲めばいいし、忘れたのは自分が悪いんだから「今度忘れないようにするにはどうしたらいいかな」と考えるのも大事だと思うんですが。 大人になっても片付けができな

【募集】関西で発達相談を行います(2024年6月)

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大阪府にお住いのご家族から発達相談の正式なご依頼がありました<m(__)m> ありがとうございます! 【日程】 6月1日(土)函館→伊丹/ PM「大阪」 6月2日(日)AM 「  」 / PM 「大阪」 「大阪」 もし大阪、近畿地方にお住いのご家族で「この機会に発達相談を受けてみたい!」という方がいらっしゃいましたら、お問い合わせください。 現在生じている我が子の発達の遅れや課題にはどのような理由があり、今後どのように育てていけばよいかをご家族と一緒に考え、お伝えします。 『支援』ではなく、よりよく育つための『発達援助』と『子育て』。 【今後の流れ】 SNSで募集(一週間くらい)→ご希望やお住まいの地域を踏まえ日程調整→訪問スケジュール決定→各ご家庭に日時と料金の連絡→当日を迎える てらっこ塾HPは こちら 発達相談の内容は こちら お問い合わせ・お申し込みは こちら お問い合わせ、お申し込みをお待ちしております!

【No.1405】ありのまま

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「ありのままでいい」というが、「そんなわけないだろう」と私は思っていた。 ありのままでいいのなら、勉強する必要はないし、努力する必要もない。 向上心だって必要ない。 だって、ありのままはそのままってことだから。 支援者は当事者に向かって、この言葉を使う。 「あなたはあなたのままでいい」 「障害も個性の一つだと思えばいい」 これは発達の凸凹に苦しんでいる人、いま、生きづらさを感じている人、ずっと感じてきた人に対して、「その苦しみを受け入れろ」「我慢しろ」と言っているように聞こえる。 裏を返せば、その当事者の苦しみに対して、「私はなにもできない」と白旗を上げているようなものだ。 ありのままでいいのなら、支援者などいらない。 ここに愛着障害の視点を持ってくると、聴こえ方が変わってくる。 「ありのままでいい」という言葉は、当事者に向けられた言葉ではなく、支援者自身が反芻したい言葉なのだろう。 ありのまま、つまり、存在そのものを認めてほしいという欲求。 それはまさに胎児期から乳幼児期における愛着形成。 その時期に、「あなたはそこに存在しているだけで愛おしい」という感情を身体で受け取ることができなかった子ども達が外側を大人に変え佇んでいる。 「ありのままでいい」という人は、ありのままでいられなかった人たち。 だから、自分が何かをしないと認められないと思っている。 だから、常に他人の評価を気にしている。 だから、多数派に流されてしまう。 みんなが打つから打ち、みんながするからして、みんなが「発達障害は治らない」というから「治るもんか」と思ってしまう。 見ている先はいつも外で、自分の内側、内言に目や耳を傾けることがない。 「我が子にどうなってほしいか?」 「今後、どのように育ってほしいか?」 という質問に、答えられる親御さんは案外少ない。 「発達障害を治したい」 「発達のヌケを埋めたい」 そんなふうに答える人もいるが、それは治したい派の模範解答であって、その親御さんの内側から出た生身の言葉ではない。 心の奥底から、湧き出るような、その親御さんの”ありのまま”の言葉、声はなんだろうか。 ☆『医者が教えてくれない発達障害の治り方』のご紹介☆ まえがき(浅見淳子) 第一章 診断されると本当にいいことあるの? 〇医者は誤ることはあるけど謝ることはない 〇早期診断→特別支援教育のオススメルー

【No.1404】「縄文人を育てる」という視点

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今年度は支援級を選択したご家族が多かったような印象です。 毎年、というか、一年間を通して「普通級にするか、支援級にするか」の相談があります。 数年前までは「なにがなんでも普通級に」という親御さんも多かったですし、私もその方向で応援させていただくことが多かった。 でも、コロナ騒動を経て、うちの上の子も小学生から中学生になり、普通級にこだわる必要はないんじゃないかなという気持ちが大きくなりました。 実際、小中と支援級だった子が、受験して私立の高校に進学したり、不登校や学校にいかなかった子も高卒認定を取って大学に進学したり、通信制の高校で学び、就職したり。 そんな姿を見てきたこともあったかもしれません。 だからといって、「支援級のレベルが上がった」「充実した特別支援教育が受けられるようになった」とは思っていません。 一部の熱心で、自立を目指した教育をしている先生もいるのはわかりますが、それは10年前だって一緒です。 ほとんどは構造化するか、同じプリントするか、「個に合わせた教育」という名のアリバイ的な授業をやっているか。 上記のような私立に進学、高卒認定から大学進学などは、学校の力ではなく、その家の親御さんのサポートがあったから。 学校に任せっぱなしでうまくいくことなんて、普通級に行ってたってあり得ないのです。 結局は家庭次第で、強いて言えば10年前、20年前よりも選択肢が増えたということなのでしょう。 でも決して、それはギョーカイの啓発が功をなしたからではなくて、少子化だからでしょう。 子ども、生徒を獲得するために、門戸が広がったという感じです。 この国の大人は子どもがお金を生むお客さんにならない限り、関心を向けないのですから。 この春は卒業式と入学式に参加しましたが、相変わらずマスクをつけた先生ばかり。 その先生に、一人の人間としてのなにかはないのでしょうか。 そうやって他人からの評価でしか自分の存在が明確にならないのなら、自立した大人とは言えないでしょう。 自分たちの10年後、20年後の姿が10円くらいの布切れ一つ自らの意思で取れないのなら、どうして大人になることを、社会に飛び立つことを楽しみに過ごすことができるのでしょうか。 「普通級が良い」のではなく、普通級も支援級も大差ない、というのが現実に近いと私は思います。 学校で授業を受けている分、家でやることが減るくら

【No.1403】開業12年目を迎えて

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お子さんの、またはご本人の発達の悩みを聞く仕事を続けてきました。 すると、わかるのですが悩みと悩みが繋がっていく感じがします。 ある子の発達の悩みが、また別の子の発達の悩みと繋がっていく。 あるお母さんの悩みが、別のお母さんの悩みと繋がっていく。 ある子の発達の悩みが、ある大人の発達の悩みと繋がっていく。 家族の悩みと子どもの悩みが繋がっていく。 同じ発達に関する悩みだったとしても、一人として同じ悩みや背景はなくて、同じ解決方法も、育てる方法もない。 だけれども、なんだかお互いが繋がっている。 繋がっているからこそ、この子のアイディアが、あの子のアイディアになっていく。 そして目の前の子と家族を全力で援助することが、別の子の発達を後押しすることにも繋がっていく。 日本中にいる発達に悩みを持つ子と家族を援助し、治る後押しをすることはできないけれども、この子が治ると、あの子も治る。 それは場所を超えて、時間を超えて、世代を超えて。 だから、我が子を治すことはただその子だけのためにあるのではない。 我が子を治すことは、別の子を治し、これから生まれてくる子ども達の発達をよりよいものに変えていくエネルギーとなる。 今まで1000人以上の発達相談を行ってきました。 人数から言えば、まだまだ大きな数とはいえませんが、その一人ひとりが繋がり、大きな輪になっている気がします。 お子さんの変化を見た別の親御さんが触発され、「よりよく育てよう」「治してあげたい」と動き、実際に治ったこともあったでしょう。 ですから、みなさんに「ありがとうございます」と伝えたいです。 子ども達がよりよく育つための縁を広げてくれたことに。 函館も雪がなくなり、あと1か月もすれば、一斉に花や木々、植物が顔を出すことでしょう。 皆様にとって新年度がよりよいものとなるようにお祈りいたします。 12年目に入ったてらっこ塾も、応援よろしくお願いします! ======================= ▷てらっこ塾HPは こちら 発達相談の内容、ご依頼方法の紹介、問い合わせフォームがあります ▷YouTubeチャンネル『発達援助のこころ』は こちら 我が子の発達を後押しするコツを動画配信しています ▷『X(旧Twitter)』は こちら その時々で連想したことや出張相談、講演会の告知をしています ▷ラジオ『発達援助のお応

【No.1402】その姿、佇まい、身体から発せられるメッセージ

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神田橋條治先生の書籍の中には「イメージの針」が紹介されています。 その人のどの年齢、時期に愛着形成の課題があるかを診ていく手技ですね。 私も練習して、一応、できるようになったんですが、どうも苦手というか、はっきりした実感が得られないんです。 たぶん、私にはしっくりこない方法なのでしょう。 じゃあ、どうやって愛着形成や精神的な発達の課題を診ていくか、と言われれば、私の場合、イメージなんですね。 たとえば、ある発達相談では中学生の子だったんですけど、3歳くらいの女の子が「私を置いていかないで」と言って泣いている姿が見えてきました。 「なにか、3歳くらいにありましたか?」とお母さんに尋ねると、ちょうどその時期、家族の形態が変わるような出来事があったそうです。 「当時、まだわかっていないと思っていたけど、ちゃんと見て、理解していたんですね」とお母さんがおっしゃっていたのが印象的でした。 またお子さんの発達相談で伺っているのにもかかわらず、親御さんのほうに意識が向いてしまうことがあります。 発達相談でいろいろと話をしているのですが、親御さんに重なって見える(イメージ上の)子どもさんが私に話しかけてくるんです。 「一緒に遊ぼう」 「お兄ちゃん(私:実際はおじさん)、私を抱っこして」 「私、お母さんのこと、許せない」 などなど。 で、無視することはできず、その見えてくる姿から年代を推測し、子どもさんの発達の悩みを聞いている風で、徐々にそっちのほうに話を持っていく。 次の発達相談があるときは、端折って「お母さん、8歳くらいの女の子が泣いているんですけど、なにか思い当たることありますか?」なんて訊いちゃったりする(笑) で、だいたい共通して多いのは、離婚、親の失業や精神疾患発症、DV、虐待、きょうだい間の差、いじめなどですね。 たぶん、その時代、時期、子どもらしく過ごせなかったことの想い残しが、身体に記憶として刻まれるのでしょう。 それがイメージとして伝わってくる感じです。 あと、その人の年齢より上の姿も見えてくることがあって、その場合はその人の親御さんの念だったり、ご先祖様だったりするのかなと思っています。 まだ現代科学では観測できないなにかがあり、そういった情報をそれぞれ人は持って生きているのかもしれませんね。 いつからこんな風に私がなったのかといえば、小さいころからだったと思い

【No.1401】悩みを育てるお手伝い

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治るということは、悩みがなくなることではなく、悩みを忘れていくこと。 そんな風に私は感じています。 悩み自体はなくなるわけじゃないけれど、悩みの種類が成長していく。 相談当初は問題行動や感覚過敏、遅れやヌケをどう育てていくか、など、発達に関わる悩みが中心です。 しかし、そういった悩み、課題が一つずつクリアされていくと、徐々に友達関係や自我の芽生え、進路に関する悩みへと変わっていく。 相談を受けている中で、「それって、同年代のお子さんと親御さんが悩むことですよね」ってことがあると、その子本来の発達の流れに戻っていっている合図になる。 指摘されたお母さんも、「ああ、そういえば、これってどの子も経験する悩みですね」って、パッと明るい顔になる。 若者たちの相談も同じことがある。 疲れやすさや身体の動きのぎこちなさ、トラウマや愛着障害に悩み、苦しみ、私のところに尋ねてくる。 当然、「私は生きづらい」「苦しい」と訴える。 だけれども、それらの課題が解消されていくと、いつしか「どんな仕事があっていると思うか」「面接はうまくいくだろうか」「恋人はできるだろうか」「親のことを許せるだろうか」と悩みの種類が変わっていく。 口では同じように「私は生きづらい」「苦しい」というけれども、そこに空虚感がなくなり、実態を持った重さというか、そこに生きている実感が伴ってくる。 そのことを指摘されると、涙をこぼし、喜ぶ若者の姿がある。 人間、生きている限り、悩みはなくならない。 逆に言えば、悩みがあるからこそ、生きている実感があるのかもしれない。 発達の遅れや凸凹、症状やトラウマなど、振り回される悩みから自分の意思が入る悩みへの成長。 私のところに来れば、悩みがなくなると思っている人も多いが、私自身、悩みを育てるお手伝いをしていると思っている。 お母さんは、我が子の子育ての悩みを愉しめるように。 若者は、自分で決められる悩みが持てるように。 ======================= ▷てらっこ塾HPは こちら 発達相談の内容、ご依頼方法の紹介、問い合わせフォームがあります ▷YouTubeチャンネル『発達援助のこころ』は こちら 我が子の発達を後押しするコツを動画配信しています ▷『X(旧Twitter)』は こちら その時々で連想したことや出張相談、講演会の告知をしています ▷ラジオ『発達援

【No.1400】子ども達の発達の問題は、私達、世代で終わらせる

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花風社さんが主催された「愛甲修子さんに質問する会(2024.2.17)」を録画配信で見たのですが(すでに3回観た)、本当におもしろい! 過去一って言い方が正しいのかわからないけれども、本当に今回の質問会は神回でした。 たぶん、会場に参加者の方たちがいたのも大きいと思いますが、愛甲さんと相談者さんが溶け合い、悩みが課題へと昇華していくような印象を受けました。 実際に悩みを持たれている方はぜひ、次回参加して相談したらよいですね。 治せる人と出会うのは、大谷君と結婚するくらい貴重です(笑) 質問会の助言の一つに「お墓参り」の話がありました。 実際の様子を見ていない人は、「えっ、スピリチュアル!?」と思われてしまうかもしれませんが、そうじゃなくて、私も「そのようなアドバイスをするな」と思ったんです。 このブログを読んでくださっている人の中に、私の発達相談を受けた方もいると思いますが、その中に「同じことを言われた」という人もいると思います。 私も、「お墓参りに行ってみると変わるかもしれませんね」「生まれ故郷に行ってみると、苦しみから解き放たれるかもしれませんね」「ご自身の家のルーツ探しの旅はどうでしょうか」などと助言することがあります。 そして実際にやってみた人からは心身の変化が見られ、長い休職から就職活動→就職となった方や自分の親への執着が取れ、やっと我が子を見て愛情を向けられるようになった方などがいらっしゃいます。 それこそ、「憑き物がとれたようだ」と感じるくらいまで、表情や姿勢、発言が変わるような人もいるのです。 ここからは愛甲さんとの違いについてお楽しみいただければと思うのですが、私がこのような助言をするようになったのは、親子だけではなく、祖父母の代からの3代を通したアセスメントをするようになってからです。 子どもさんだけをアセスメントしていじくってもダメ。 親子という関係性、親、家族という環境の中で生じている(発達の)課題ですので、やはり親御さん自身が先に変わる必要がある。 だけれども、その親御さんが変わるには、「さあ、良い親になろう」などという心持ちの変化を目指すだけでは無理で、その親御さんが持つ歴史を振り返り、辿っていく道をちょっとずつ修正していくようなことが必要。 つまり、祖父母、親、子はみんな、つながっている。 特に子育て中の親御さんは、この3代の真ん中に位

【No.1399】特別支援という幻想

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専門家が「本当の〇〇」と言い出したら、その内容、いや、その人自体がニセモノになる。 「これが本当の自閉症支援だ」 「これが本当の〇〇アプローチだ」 そんな風に言うとき、対象はそれを受け取る子ども達、親御さん達ではなく、自分とは異なる考えで実践している専門家となる。 「あいつが実践している自閉症支援は間違っているから、私が本当の自閉症支援を教えてやる」といった具合に。 これは特別支援の世界に限らず、職場でも、人間関係でも、「本当の」「真実は」「正しいのは」と言っちゃう人はいるでしょう。 特別支援の世界に、「本当」「真実」「正しい」というものはあるのでしょうか。 そもそもあなたのお子さんが、本当に自閉症なのでしょうか、発達障害なのでしょうか? 自閉症という(我々とは異なる)人間がいるのは真実なのでしょうか? そのあなたのお子さんに付けられた診断は正しいのでしょうか? コロナ騒動も、ようやく皆が冷静になり、そのおかしさを口にするようになりました。 注射の危険性、超過死亡、過剰な感染対策、人権侵害、自由の制限など、それらの問題について「間違いだった」という人も増えてきました。 でも、3年間のコロナ騒動の問題は、上記のことではありません。 問題の根本は、PCR検査、その診断なのです。 鼻やのどにウィルスの断片があっただけでも、その検知したウィルスに感染する力がなくても、そもそも医師の所見がなくてもただキットが陽性になれば否応なく「コロナ感染者」としていたことです。 診断がおかしければ、それ以降の対応、出来事すべてが間違ってしまう。 「普通級と支援級、どっちがよいでしょうか?」 「〇〇アプローチの仕方は合ってますか?」 「療育でこんな支援を受けているのですが、これは効果があるのでしょうか?」 「正しい発達援助を教えてください」 様々なご相談を日々、受けています。 でも本当に我が子が発達障害なのか、自閉症なのか、支援が必要な普通の子とは違う子なのか、疑問に思う親御さんは少ないと感じます。 診断名が正しいと思った時点で、どんな子育て、アプローチをしたとしても、ずれが生じてしまうものです。 特別支援の世界の最大の罠は、この診断、診断名だと私は考えています。 人為的に決められたチェックリストに、これまた第三者の主観によって記入がされ、診断名が決まっていく。 だけれども多くの親御さん達は

【No.1398】コピペ医師、コピペ教師、コピペ支援者

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一応、これでも開業して10年なんですよ。 でも、函館市には存在しないことになっている(笑) 開業当初は市内の学校の先生とか、支援者とか、支援機関とか、行政とか、それなりに交流はあったんですね。 だけど、一切交流はなくなった。 まあ、私も紹介しないし、あっちも紹介しない(笑) 「”治す”なんて奇を衒った商売に走っている」なんて批判もあったけど、それもなくなった。 たった30万人くらいの地域で、発達障害というニッチな商売をやっているんだから、どこかで接点ができそうなものも、笑っちゃうくらいなんにもない。 だから、この地域で発達相談を依頼してくださるご家族は、「全国のどこかに的確な助言をくれる専門家がいるはずと探していたら、まさか同じ函館にいるとは思いもよらなかった」と口をそろえて言いますね。 一回、全国に飛んで、函館に戻ってくる感じ。 なんで、医師は、支援機関は「大久保さんを紹介してくれなかったのでしょう」と投げかけてくれる親御さん達も、発達相談が終わるころには自らで答えを出しています。 「ああ、大久保さんを紹介したら、1回で終わっちゃうから。支援機関に通わなくなっちゃうから、か」 10年前は「猫も杓子も発達障害」というくらいに、ちょっとでも悩みがあれば、発達障害にされていました。 そして「少量処方」という名で、就学前の子ども達にも向精神薬が処方されていました。 もちろん、発達障害の人には化学物質が強く出ることが多いから、基本的に「少量処方で進めていく」というのはわからなくない。 だけど、「少量ですから心配ないですよ、お母さん」という意味で、バンバン処方しているのがおかしいってこと。 そもそもその子に向精神薬が必要ですか? 向精神薬がないと生活がままならないくらいのお子さんですか? いやいや、その子、本当に発達障害と言えるようなお子さんなのですか? 向精神薬で発達のヌケや遅れは育ちますか? 服用によって子どもの身体へのネガティブな影響はありませんか? 私はこの疑問を投げかけ続けたけど、10年経っても同じことがされている。 この頃、そんな幼少期から向精神薬を飲み続けているお子さんからの相談が続いていました。 また相変わらず、視覚支援やってる(笑) スケジュール見せて、衝立立てて、向精神薬を飲んで、それ以上でもそれ以下でもない。 これってただのコピペでしょ。 医療も、支援機

【No.1397】YouTubeチャンネルを分析したら明らかになった驚きの事実

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てらっこ塾のYouTubeを開設してから、もうすぐで1年になります。 ブログやエックス(旧ツイッター)などの文字だけじゃなくて、「音声でも発信を」ということでラジオを始め、ラジオのリアクションが良かったので、今度は「音声+動画で」という具合に情報発信のツールを増やしてきました。 すべてに共通しているのは「親御さん」に向けて発信すること。 そうやっててらっこ塾開業とともに10年以上、発信を続けてきたのです。 YouTubeを開設してから、「うちで動画編集しますよ」「視聴者数を増やすための分析と助言をしますよ」「一度、zoomでお話でも」という売り込みが来るようになりました。 いやいや、そんなの外注してまですることじゃないし、自分で分析だってするし。 そんな具合で、「じゃあ、分析データってのを見てみるか」と思って開いてみると、予想外のことが起きていました。 YouTubeの視聴者のデータを見ると、40歳前後が一山ともう一つ60歳前後にもう一山できているのです。 しかも、70代の視聴者さんも多いことがわかりました。 えっ、私、健康と年金、お墓の話してたっけ?? かわいい猫ちゃんとか、昭和の名曲とか流してたっけ? 映っているのは40を過ぎた(イケメンじゃない)おじさんが発達障害の世界について文句を言っているだけ(笑) すべてのコメントに返信できていませんが、「孫が」という書き込みがたびたび、来ています。 たぶん、視聴者の中にはおばあちゃんやおじいちゃんがいるのでしょう。 そして孫に発達の遅れが、それを指摘された、という方がネット検索でたどり着いたように感じます。 いま、70代の人でもスマホを使いこなしてますし、タブレットを持っている人も多い。 私のイメージではこのあたりの人は、朝ドラ見て、朝の情報番組見て、昼の情報番組見て、夕方の再放送見ている感じで止まっていたけど、そうじゃないですよね。 いま、日本の家庭、子育て世代になにが起きているのでしょうか。 実は発達相談やメールでも、おばあちゃんからのものが来るんです。 「孫が発達障害と診断され、いろんな支援機関に通うようになって娘は心身共に疲弊している」 「心配するほどじゃないのに、”この子には障害がある”といって聞かない」 「将来を悲観して、娘がどうにかなってしまいそうだ」 「孫の発達障害を改善するような助言をもらいたい」 子

【No.1396】減薬、断薬からの身体の回復、心の回復

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「医者は向精神薬を処方することを悪いこととは思っていない」 それは私が施設で働いていたときの実感でした。 利用者さんと受診する際、少しでも「寝られていない」「学校で暴れた」「自傷があった」などと口にするものなら、「じゃあ、薬増やそう」と間髪入れずに言ってきます。 ですから、2週間ごとの受診の際、出来事をそのまま言っていては薬は増え続けるばかり。 実際、薬だけでお腹いっぱいになるんじゃないって感じの利用者さんはたくさんいましたね。 幼児さんや小学生の子に、向精神薬を飲ませるのって抵抗あるじゃないですか。 一般的な心があれば、「できれば飲ませたくないな」と思う。 私は親じゃなくて、施設職員という関係性ではありましたが、どの子にも向精神薬を飲ませたくはなかったし、飲んでいた子もできるだけ減薬、飲まなくても安定して生活できることを目指していました。 これが普通の感覚だと思っていたけれども、現実は違いました。 医師はどんどん処方するし、減薬などという言葉は出てこない。 むしろ、職員たちが「減らしたいんですけど」といえば、「大丈夫」「また暴れたらどうするの?」「このまま、落ち着いているほうが良いんじゃない」と言ってくる。 また職員の中にも、ずっと眠っておいてもらった方が良いと思う人もいたし、暴れるのを止めるくらいなら向精神薬でおとなしくしてほしいと思う人もいた。 学校の先生だって同じ。 学校で問題が起きると、「次の精神科受診はいつですか?」「薬増やしてもらえないかいってくれないか」と言ってくる。 これは施設に入所している子だけじゃなくて、普通級でも起きていることでしょ。 「ADHDの子が落ち着ける薬があるみたいですよ。受診してきてください」なんていう越権行為があちこちで起きている。 「薬飲まないなら、普通級にはいられません」などという学校もあるくらい。 みんな同じだよ。 原因を突き止めない。 暴れるには暴れる理由がある。 環境の問題があるかもしれないし、その子本人の発達のヌケや未発達、また誤学習やフラッシュバックだってあるでしょう。 そこを見ないで、暴れる→薬で抑え込む、という機械的な対応をしているだけ。 そして何よりも、自分には問題の本質を見抜く目も、根本解決する腕と気力を持ち合わせていないことから目を背けている。 100歩譲ってこういった人たちは他人です。 その子の人生の責

【No.1395】明日は節分

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1月の下旬あたりから不調に悩まされていました。 なんだか身体が重い感じで、なにかが私に覆いかぶさっているような、頭の上から押し付けられているような感じ。 確定申告の準備などの事務仕事とか、日々の発達相談とかはできていたんだけど、なにか発信しようとすると、急に肩と頭が重くなって動かなくなりました。 こうやってたった数行文字を打っただけでやっぱり肩が重くなってきた、同時に指の力が脱力してくる。 だけど、だいぶ良くなったので、こうやって綴っているのですが、たぶん、気の流れが大きく変わる前兆だからと私は解釈しています。 明日の節分で大きく気が変わる、気が変わっていく次の20年が始まっていく。 例年、節分の前は「変わる感じ」がしているのですが、今年は強烈でした。 いろんな価値観が崩れ、そこで取り残されていく人たちも大勢出てくる。 だけど、旧来の価値観から脱し、新しい価値観とともに一歩を踏み出せた人、その準備ができていた人にとっては素晴らしい20年間が始まるような気がしています。 停滞の20年間が終わり、動き出す20年間が始まる。 民主主義も制度疲労で、終わっていく感じがします。 それが王政になるとか、独裁、共産主義になるという意味ではなく、「多数がすべて」というのがなくなっていくイメージです。 「みんながマスクしているからマスクする」 「みんなが打つから私も打つ」 「みんなが診断をもらいに行くから、療育に行くからうちも行く」 それは思考停止であり、ゾンビのような物体に過ぎない。 多数決は間違うし、その多数決の実態は自由と意思の放棄。 これからは(も)、自らの頭で考え、選択し、行動できる人間が、そういった人間同士が部分的に調和しながらより豊かな人生、社会生活を送っていくのだと思います。 これに付随して、専門家の失墜、科学の失墜も、起きえるでしょう。 医療も、専門家も、お国も、行政も、自らの存続を求めているのみで、私たちを救おうとはしなかった3年間。 他者に自らの選択権を手渡すことがどれほど危険なものかわかった3年間。 医師が治してくれるのではなく、自らの自然治癒力が治すのだ。 国や専門家が自由をもたらすのではなく、自らが自由を手に入れるのだ。 そんなメッセージが改めて伝えられたのではないでしょうか。 ハッタツの話でいえば、「専門家がどうにかしてくれる」というのはないでしょう。

【募集】福岡で発達相談を行います(2024年3月)

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福岡県にお住いのご家族から発達相談の正式なご依頼がありました。 【日程】 3月22日(金)函館→福岡 3月23日(土) AM「  」 /PM「福岡」 3月24日(日) AM「福岡」 /PM:福岡→函館 *予定( 「  」 )が決まり次第、随時更新していきます。 もし福岡県にお住いのご家族で「この機会に発達相談を受けてみたい!」という方がいらっしゃいましたら、お問い合わせください。 現在生じている我が子の発達の遅れや課題にはどのような理由があり、今後どのように育てていけばよいかをお伝えします。 4月からの新年度、新学期に向けて課題を整理し、よりよいスタートを切りましょう。 【今後の流れ】 SNSで募集(一週間くらい)→ご希望やお住まいの地域を踏まえ日程調整→訪問スケジュール決定→各ご家庭に日時と料金の連絡→当日を迎える てらっこ塾HPは こちら 発達相談の内容は こちら お問い合わせ・お申し込みは こちら

【No.1394】アプローチは”結果”である

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プロ野球の監督であった野村克也氏は「プロフェッショナルの”プロ”はプロセスのプロだ」という言葉を遺している。 結果が求められ、結果で評価されるプロ野球の世界でも、よい結果を出すためにはよい過程を踏むことが重要なのは変わりがない。 よい過程があるからこそ、よい結果がある。 それはどの仕事でも、私が行っている発達相談でも、発達援助でも、子育てでも通ずる話だと思います。 いろんなところで、いろんな専門家、支援者がアプローチの仕方や療育法を教えてくれます。 しかし、それをそのまま我が子にやっても、部分的に改善することはあっても、根本から治っていくことは少ないといえます。 また一時的に良くなっても、そのターゲットとしていた課題がクリアされても、「じゃあ、その次は?」というところで立ち止まってしまうことも多いのではないでしょうか。 そして「やっぱり私にはムリ」「やっぱり専門家の先生のところに行って、また改善してもらおう、新しい方法を聞いてこよう」となる。 かくいう私も、「大久保さんだからできる」と親御さんに言われることで悩んでいた時期があります。 商売的にはそう言ってもらえた方が何度も利用してくれるし、継続的な利益確保にもつながります。 でも、私がそれをやってしまっては、敢えて独立し、起業した意味がなくなってしまいます。 目指すところは、その子、その人の自立ですね。 自立を目指して仕事をしているのに、その本人や家族を依存させたらだめでしょ。 「継続的な支援」と「自立」は相反する話。 本気で自立を目指すのなら、本人もそうだし、その家族自身でアプローチできる、そして本人の状態によってアプローチを生み出せなきゃダメなんです。 悩んでいた私が出した答えは、こうです。 結局、アプローチは結果。 各専門家が生み出したアプローチには、それに至るまでの研鑽と試行錯誤の歴史、プロセスがあります。 私でいえば、施設職員や学校の先生、また日本の専門家、海外の専門家から見聞きし、トレーニングした歴史があっての「アセスメント」であり、そのアセスメントから導き出される「こんなアプローチが良いですね」となります。 だからいきなり結果であるアプローチを見せられ、教わっても、再現するだけで、人によってはなんとなくわかった感じで終わってしまう。 そうなると、いつまで経っても、専門家頼みになり、外部に答えを求める姿

【No.1393】発達障害アプローチマニアは、かつてのTEACCHオタク、ABAオタク

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「発達障害」と言われた1秒前と1秒後で、子ども自身はなにも変わらない。 だけれども、その1秒後で親は大きく変わる。 「ああ、これで基準通りの発達ができない」 「ああ、これで普通の子にはなれない」 「ああ、これでいろんなことを諦めないといけない」 子育ての楽しみが「できる」だったはずなのに、その瞬間から「できない」に変換される。 専門家に「発達障害」と言われようが、どっかの誰かが作った診断基準に当てはまろうが、子どもは子どものまま。 だけれども、ここで多くの親御さんが子育ての方向性、方法を変えてしまう。 いや、実際のところは「変えないといけない」と思ってしまう。 本当に変える必要があるのだろうか。 発達の遅れた子と、遅れていない子は同じ方法で育ててはいけないのでしょうか。 別の言い方をすれば、発達の遅れた子と遅れていない子、それぞれ固有の子育てというものがあるのでしょうか。 「子どもは一人ひとり違う」というのはみんな知っていて、当たり前なのに、なぜか普通の子と遅れた子、凸凹している子は分けられてしまう。 それがこの国の特別支援であり、多くの親御さん達も行っていること。 「発達が遅れているのだから、何か特別な方法、関わり、アプローチ、食事や薬によって良くなる」 というのは大きな勘違いだと私は思います。 そういったものを信じちゃう時点で、ここでいうと支援者、専門家に騙されているのです。 そして親御さん自身も思考停止状態だといえます。 一言で「発達が遅れている」といっても、その背景は一人ひとり違いますし、本当にそれが遅れているのか、今後も続くほどの問題なのか、そもそも問題なのか、だからなんなのか、その子の将来の自立や幸せ、生活の質を決めるものなのか、ツッコミどころ満載です。 「発達が遅れているから特別な方法」ではなく、「目の前にいる我が子がよりよく育つ方法」が必要なのではないでしょうか。 どうも全体的に前者を求めている人が大多数である印象を受けます。 それを求め続けている限り、良くなることはあっても、治ってはいかない。 それが私の率直な感想です。 子どもがよりよく育つための環境づくり、後押しを続けていった結果、振り返ると「治っていたね」が実際のところ。 発達障害アプローチマニアは、かつてのTEACCHオタク、ABAオタクと同じでしょう。 この世界に20年ばかりいると、まさに