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【No.1021】変化に混乱する子は作られる

花風社さんの講演会、集まりは、とても心地が良い風が流れています。 きっと、みんなで諦め合うのではなく、慰め合うのでもなく、より良い子育てを、今よりも良い未来を、という前向きな想いで全国から集まってこられるからだといえます。 私も、来週の「質問する会」を楽しみに、募集と同時に飛行機をとって、という具合にしていたのですが、昨日の北海道緊急事態宣言のため、参加を見合わせる結果となりました。 幼い我が子達を残しておくことも、不安な状況にしておくこともできませんでした。 ひと様の発達、生き方に関わらせてもらっている私ですから、何よりもまず我が子の、家族のことを大事にし、それを行動として現せないといけないと思います。 ご挨拶したい人や、お子さんの様子などをお聞きしたい人がいらっしゃいましたが、次の機会を楽しみにしております。 そして、ご依頼くださった関東での出張相談にお応えできず、申し訳ございませんでした。 必ず機会を作り、伺います。 今朝の新聞を読んでいて、「障害を持った子ども達は、日常の変化に混乱する」という専門家のコメントを目にしました。 3月2日から全国の学校が休みに入るということに対してです。 こういった不測の事態が起きると、必ずといっていいほど、専門家が出てきて、障害を持った子ども達への影響をコメントします。 2011年も、同じ文言を多く目にしました。 結論から言えば、「変化に混乱する」というのは、固定された障害特性ではありません。 ひと言で言えば、身体が育っていない、感覚系の未発達です。 未発達ゆえに、視覚的に処理できる部分に頼って生きているだけ。 だから、いつも目にしていたものが崩れると、たちまちわからなくなるのです。 また、変化への混乱は、後天的に作られた場合が多いと感じます。 みんなが背景にある未発達に気づかなかった時代は、スペクトラムという概念がなかった時代は、自閉症のこだわりがあたかも固定された障害特性のように捉えられていました。 今思えば、道順へのこだわり、車を並べるなどの固執は、未発達ゆえに限られた感覚を使い、なんとか対処していた行動であったのに。 パターンを崩されると混乱するのは、周囲の情報、環境からの刺激を得られる機能が制限されていたからでしょう。 私たちから見れば、「たったそれだけ?」と思

【No.1020】「正しく怖がる」までの発達過程

先日、飛行機に乗っていて、ふと思ったのですが、どうしてコロナ感染者の中にCAさんがいないのでしょうかね。 今日だって、中国に向けて飛行機は飛び立ち、中国からの飛行機が到着している。 クルーズ船の乗務員の人達に多く感染者がいたのにも関わらず、全国の空港職員に感染者が出ていない。 つまり、感染者がいないのではなく、検査を受けていない、または症状が重くない、軽症や無症状の人が多くいるのだと思います。 ヒトは、未知のものに対して、不安や恐怖を感じます。 これは知性が発達したヒトゆえの想像力がもたらすものです。 ですから、こういった実態の掴めないものを怖がるのは、ヒトとしての脳が育っている証拠です。 子どもがオバケを怖がるのは、ちゃんと脳が育っているからです。 赤ちゃんは、オバケを怖がりません。 しかし、これが極端に表れると、問題となります。 このたび、よく見聞きする「正しく怖がる」というのができない状態です。 何故、正しく怖がることができないか。 それは、脳と身体、脳と感覚のバランスが崩れているからです。 赤ちゃんは、身体が危険な状態にさらされると、激しく泣いて本能的に訴え、反射によって乗り切ろうとします。 その段階から、身体と脳が発達していき、少しずつ感覚的に危険かどうかがわかるようになります。 この「感覚的にわかる」というのは、身体を通して受け取った刺激に対し行動を起こし、さらにフィードバックを通してわかる(学習)ようになるのです。 乳幼児期の子どもさんは、なんでも口の中に入れますし、危ないと思われるような場所でも、どんどん進んでいきます。 上れるのなら、どんどん高いところまで上っていくのが、この時期のお子さんの特徴です。 まだ「感覚的にわかる」という段階を歩んでいる途中ですから。 そういったいろんな「危ない」を体験し、少しずつ感覚的に、「この辺でやめなきゃまずいな」「ここまではいけるな」という危険認知力を養っていきます。 これは、お母さんに「危ないから、やめなさい」と言葉で教わるのではなく、知識としてストックしていくのではなく、やはり自分の身体を通した体験から磨かれるものだといえます。 そういった意味でも、身体の発達、感覚系の発達は重要になります。 これらが未発達のままですと、身体を使った体験が乏しくなり

【No.1019】発達が遅れているよりも、早いほうが問題

昨日も、親御さんからのお話を聞いていて思ったのですが、「この子、本人にニーズはあるのだろうか?」と疑問が浮かんできます。 幼児さんからの相談が多くなればなるほど、「どこのニーズ?」「誰のニーズ?」と思ってしまいます。 私のところに相談にいらっしゃる幼い子を持つ親御さんの多くは、「他の子よりも発達が遅れているな~」という感じだったり、そもそも健診で指摘されるまで問題だと捉えていなかったりします。 しかし、ふとネットで検索してみると、「発達障害の子に見られる行動」などの記述があり、不安に思い、公的な機関へ相談に行く。 そうすると、専門家は待っていましたと言わんばかりに、その不安を助長せるようなことを言ってくる。 中には、その場で障害名を告げるような医師や専門家、支援者もいるくらいです。 そうなると、最初は「遅れているな~」くらいな心持ちだったのに、いつの間にかただの不安が確証へと変わっていく。 それも、周囲からの言動、圧によって。 発達の遅れが障害となり、障害が支援を要する子どもとなる。 で、気が付けば、「支援を受ける」ニーズが作られている。 でも、この「支援を受ける」ニーズって、その子自身のニーズなんだろうかと思うのです。 これって、専門家が人為的に作ったものじゃないですかね。 私が親御さんによく言うのは、「発達が遅れているよりも、早いほうが問題です」ということです。 このご時世、少しでも発達に遅れがあると、すぐに「発達障害だ」「支援が必要だ」などという専門家気取りの輩が多すぎ。 私のところに来る相談の中に、その地域の権威や有名な専門家、公的な機関において、「発達の遅れを指摘された」と言われる方達がいらっしゃいます。 でも、その遅れとやらを確認しますと、ただ単に“今は”遅れているだけで、発達の流れ、成育歴を尋ねれば、少しずつ成長していることがわかったりします。 本当に問題なのは、その点において、まったく発達、成長が見られないことでしょ。 ゆっくり伸びているのなら、それのどこに問題があるのでしょうか。 子ども達は、どれだけ早く発達できるか、をみんなで競っているんですかね。 他にも、産婦人科医や小児科医の書いた専門書を見れば、「異常ではない定型の範囲」「発達の個性の範囲」と記されているのを、「発達の遅れ」とあたかも、そ

【No.1018】関西出張(+広島)を終えて

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昨日、3泊4日の関西出張を終え、函館に戻ってきました。 新型コロナが騒がれていますので、お断りされるご家族もいらっしゃるかな、とも思っていましたが、予定していた4家族の皆さんは大変温かく、反対に私の方を気遣ってくださいました。 本当にありがとうございました。 今回の出張を終え、一番に思ったのは、私の妻への感謝でした。 金曜日から移動しましたので、3連休をまるまる息子たちと過ごしてもらいました。 全国あちこち出張して一発勝負で発達相談をしている仕事に対して、いろんな方からお褒めの言葉を掛けてもらいますが、本当にすごいのは私ではなく、妻だと思っています。 家族の理解と協力がなければ、いくら治すアイディアを持っていたとしても、届けることはできません。 真っ先に家族のことを思ったのは、今回、お会いしたご家族の皆さまの影響だと考えています。 当然、訪問するご家族はお互いについて知りません。 ですが、今回はお子さん達の年齢が皆さん近く、そして何よりも、身体全身を使って我が子を思いっきり愛しているご家族でした。 どのご家庭に訪問しても、とても雰囲気が良いのです。 お子さんが、ご両親の愛情をたっぷり受け取っているのが、本当に良く分かりました。 そんな愛情たっぷりのご家族と関われたからこそ、自分の家族を一番に思い浮かべたのだと思います。 我が子を心から愛し、全身で表現しているご両親。 しかし、その家族のエネルギーを奪おうとする存在がいます。 幼い子を前にして、この子の将来がすでに決まっているかのように告げる専門家。 乳幼児期の中心は家庭であるのにも関わらず、そこでの様子、成長に耳を傾けることなく、チェックシートとにらめっこして、診断名をつける医師。 大事なのは、親御さんが知りたいのは、チェックシートに当てはまるかどうかではありません。 100歩譲って当てはまってもいいし、診断名がついてもいい。 でも、それ以上に、どうすれば、この子がより良く育っていくか、そこが知りたいのです。 そんなにチェックシートが大事なら、各家庭に配って、親御さんにつけてもらえば良い。 お金を貰って仕事している身なら、腐っても「専門家」と名乗っているのなら、より良い未来について具体的な助言ができなければなりません。 往復の飛行機で、ちょうど読めるくら

【No.1017】「障害がある子に見えない」という言葉の意味の変化

一昔前は、「障害がある子に見えない」「本当に、自閉症なの?昔は、こういう子、普通にいたよ」なんて口にすると、「そういうのが一番傷つくんです!」「そうやって、本人の自己肯定感が失われてくんです!」なんてことを言う人が大勢いました。 ですから、一般の人も含め、一度、診断を受けた子に対しては、ちゃんと障害者っぽく、障害者として接することが求められました。 これは、本人に対しての配慮というよりも、親御さんに対する配慮だったように感じます。 「見えない障害なんだから、周囲が理解して」というのは、未だに言う人がいるのかもしれませんが。 独立、起業してからは、誰に忖度する必要もありませんし、そもそも思ったことをストレートに表現する私ですので、「本当に、障害があるんですかね」「診断基準、満たしていますか?」なんてことを言います。 ここ最近は、どう考えても、本人の特性ではなく、単なる発達の遅れ、未発達だと感じるケースが多くなっています。 自閉症の中核的な特性は、社会性の部分です。 それなのに、1歳、2歳、3歳の子が、「自閉症」という診断名を受けています。 こういった幼い子ども達の社会性って…。 私が思うに、社会性の障害の部分が出てくるのは、もっと年齢が高くなってから生じるでしょうし、そもそも同年齢の子ども達の発達を見ても、みんな、まだ社会性が芽生え始めたばかりですね。 過剰診断やその原因まで問わない診断形式ですので、「本当に、障害なの?」と思うようなケースが増えていく一方だと思います。 しかし、最近、私が思うのは、治っていくアプローチを教わり、実際に治っていく人達が多くいるからこそ、その障害を疑う場面が増えたということです。 つまり、以前は、私の無知により「障害」と見えていた人、部分が、今は育み方が見えるし、治る可能性が高いと感じられるようになったのです。 私が施設で働いていた頃、いや、この事業を始めた当初は、「治る」が見えていなかった。 だからこそ、対処療法を学んだし、実践もしてきた。 「治らないんだから、少しでもラクに」という具合に。 当時、私が治す方向へ支援できていなかったのは、今のような過剰診断が多くなかったからでも、超早期診断が行われていなかったからでもありません。 単に、私が知らなかったから。 今振り返れば、治る可能性があっ

【No.1016】『知的障害は治りますか?』(花風社)を読んで

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著者の愛甲さんの文章、言葉を目にすると、いつも目の奥に人の姿が現れてきます。 人を大切に、人との関わり合いを中心に、臨床をされている方なんだと想像します。 ですから、その語られている言葉には、必ず繋がっている人物の存在があるのでしょう。 臨床、現場を大切にされている方の言葉は、一緒に雰囲気まで運んでくれる。 それは、言葉以前の段階まで含めたアプローチをされている何よりの証拠だと、私は思います。 今回は、花風社さんから出版された新刊のご紹介です。 冒頭でもお名前を記させていただいた心理士の愛甲修子さんの著書になります。 「治りますか?」という題名の著書は、今までにも花風社さんから出版されてきました。 最初に、その「治りますか?」という言葉が入った書籍は、2010年に出版された『発達障害は治りますか?』です。 このときの著者の中に、愛甲さんのお名前もあります。 この『発達障害は治りますか?』は、時々、読み返す本の一つでもありますが、今感じるのは、「?」に疑問の雰囲気が強かったこと。 でも、それから10年経った現在、出版された 『知的障害は治りますか?』 の「?」には、ほとんど疑問の雰囲気を感じません。 つまり、10年前、「本当に治るの?」という想いを持っていた段階から、私達は「治るよね」という自信、確信を持つことができた、ということ。 それは、この10年の間で、実際に治る人が一人、二人の話ではなく、あっちもこっちも、という状態に変化したということなんだと思います。 発達障害はもちろんのこと、知的障害を持った人の中にも、IQが伸び、手帳返納する人が珍しくない時代となりました。 読者の一人として、このような印象をもつ一方で、「治りますか?」とタイトルにあったのには、そのこと自体に意味があるような気がします。 著書を読めばわかるのですが、やっぱり全国には、まだ「治りますか?」と疑問を持っている人がいて、さらにいえば、疑問すら持てずに過ごしてしまっている人がいる、ということなんだと思います。 ですから、そういった方達に向けた花風社さんのメッセージであり、応援の意味がこもっている「治りますか?」という問いかけのような感じがします。 著書の中で、愛甲さんは「目詰まり」という言葉を使って、神経発達を滞らせる要因、状態について説明

【No.1015】原始反射がなかなか卒業できない子は、触覚と固有覚を確認しましょう

数年前までは、発達相談でも原始反射の説明から始めていました。 しかし、近頃は、そんな説明をする必要はなく、多くの親御さんが「原始反射ですね。うちの子の場合は…」という具合に話がポンポンと進んでいきます。 ですから、以前は半日から1日くらいかけて行っていた発達相談も、今では半分くらいの時間で完了できるようになりました。 そもそも原始反射は、私のような教育系の大学や医療系の大学で学ぶものです。 なので、あまり一般的な知識、情報ではなかったのですが、多くの親御さんが知ることとなりました。 これは、花風社さんのお蔭だといえます。 2016年に出版された 『人間脳を育てる』 という書籍の中で、とてもわかりやすく、またポイントが押さえられて説明されています。 いろんなご家庭に訪問しますが、みなさん、本棚にこの本があるのを拝見します。 親御さんが、我が子の原始反射の統合を目指されるのなら、この1冊が手元にあれば、十分だといえます。 原始反射が普通に使われる言葉になり、各ご家庭で原始反射統合に向けた試みが行われています。 そうやって、家庭で原始反射を統合させていく方達がいる一方で、どうも、うまく育っていかない、卒業していかない、という方も中にはいらっしゃいます。 そんなご家庭に訪問し、エクササイズの方法を拝見しますと、「やりかた自体に問題があるわけではない。でも、なかなか統合しない」という場合があります。 その原因を突き止めるには、原始反射について、もう少し深く見ていく必要があります。 そもそも原始反射とは、いつから芽生えるものでしょうか、始まるものでしょうか? それは、もちろん、胎児期であって、もう少し具体的に言えば、在胎10週頃と言われています。 「在胎10週」と聞いて、「だから、なんだ」となりそうですが、この在胎10週頃というのは、とても重要な意味が含まれています。 この時期に、触覚が出現するのです。 触覚が出現するから、原始反射が始まるのか、原始反射が出現するから、触覚が機能し始めるのかはわかりませんが、とにかく原始反射と触覚は相互作用にある、ということがわかります。 さらに私のウンチクが続いて申し訳ないのですが、出生後の原始反射の誘発には、触覚だけではなく、固有受容覚がちゃんと機能していることが必要となります。 た

【No.1014】「Special Needs」を持った子ども達

現在の特別支援の混迷は、「Special」を「特別」と訳したことに始まると思っています。 日本で「特別」という言葉は、区別や例外、通常とは異なる状態という意味と雰囲気をまとっています。 本来、Specialという言葉は、Needsにかかる言葉です。 「特別なニーズ」をもった子ども達へのサポート、教育であって、「特別な子ども達」のニーズではないのです。 特別支援は、まさに特別な子ども達を造ってきました。 その最たるものが、「頑張らなくて良い」というものでしょう。 「あなた達は、特別な人、つまり、区別される、例外的な人なのですから、他の人たちのように頑張る必要はない」 生きとし生けるものはすべて、植物でも、動物でも、光の方へ状態を変え、餌のある方へ身体を向ける。 動物は特に、生き抜くには、自立して生きていくには、頑張るしかない。 頑張ることをやめた瞬間、誰かの体内の一部になるから。 野生の動物のように、ヒトは頑張ることを止めても、生きていくことはできます。 でも、それは肉体的に、という意味。 心は、野生動物のように、誰かの体内の一部になってしまうのです。 どれだけの子ども達が、特別支援によって、支援者の食い扶持の一部になったことか。 子ども時代に、頑張る機会を与えられなかった人は、自分の足で立つという実感を持たないまま、大人になる。 それが支援者がいないと生きられない人につながっていく。 年少の子どもが、同年齢の子ども達と関わることなく、衝立の中で黙々と課題をさせられたら、どうだろうか。 学校に行っているのに、教科学習はプリント1枚、あとは余暇エリアで過ごす、っていうのは、どうだろうか。 放課後、同級生は友達と遊び、習い事に通い、各々の時間を楽しんでいるのに、校門から乗用車に乗せられ、古い一軒家の中の片隅で、何時間もDVDを観て過ごすのは、どうだろうか。 年端もいかない子どもが、本人が何を飲まされているかも理解できないうちから、精神科薬を飲み始めるのは、どうだろうか。 一般の子ども達には憚れることが、特別な子ども達には許容されている現実。 彼らは特別な子どもだからと言って、一般の子ども達なら絶対にやらないこと、望まないことをやってもよいといえるのでしょうか。 特別なニーズの“ニーズ”とは、どういったことを指すの

【No.1013】「子どもとどうやって遊んだら?」という戸惑い

まだ子どもが小さいので、家族で動物園に行くことがあります。 子ども達は、日頃、見ることのないその動物の姿、形、色や動きに心を奪われます。 そして、動物が活動する様子を見て、「あれがお父さんで、こっちがお母さん」「お腹空いたって、言っているんだ」「子ども達で、一緒に鬼ごっこをして遊んでいるんだね」などと、擬人化して解釈します。 そんな子ども達の会話を聞き、私は子ども時代とは違った動物園の愉しみを感じるのです。 前回のブログでは、学校の先生や支援者からの相談について、感じることを綴りました。 今回は、親御さんの相談から感じることです。 親御さんからの相談の中に、気になる相談がちらほらと見られます。 それは、「どうやって遊んだらいいか分からない」というものです。 発達相談を受け、その子の発達の流れを読み、発達課題を確認していく。 発達のヌケに関しては、「ここがポイントで、こんな風に育んでいけば」というお話をすることで、一生懸命実行される親御さんが多くいます。 一方で、発達援助、子育てには、発達のヌケや課題をクリアするだけに留まりません。 発達のヌケや課題を育てなおすことは、とても重要なこと。 でも、子育てには、その子の発達を後押しする、という意味合いも含まれているといえます。 ヌケや未発達ではないんだけれども、発達が遅れている部分へのアプローチです。 これには、ヌケや未発達が育ったあと、遅れていた部分を育てていくことも含まれます。 遅れていた部分を発達させていく。 これは、発達全体がそうであるように、やはり子どもの自発的な活動、名も無い遊びが中心となります。 その際、親御さんが介入することで、その自発的な活動、遊びにアクセントやバリエーションを加えることができます。 一人遊びを他者との交流のある遊びへ変える。 活動から得られる刺激を豊かにする。 そして何よりも、親子という安心感の中で、活動する喜びと、その活動を喜んでくれる体験を積み重ねていくことが、親御さんが活動に、遊びに、入っていく意義だといえます。 親御さんは、子どもさんにとって、一番身近で、一番影響力のある環境です。 しかし、その環境も、ただ刺激を与える一方向の関係性では留まりません。 相互に作用していくことで、発達を後押しし、加速させることができる

【No.1012】職務を全うした先に、「治す」が顔を見せる

こう見えて、学校の先生や支援者からも、相談を受けることがあります(笑) 以前は、「こういうお子さんの、こういう行動に困っている」「なにか助言を貰えないいか」という内容が多かったです。 でも、最近では、「担任している子を治したいです」からの助言を求められることが増えたような印象を受けます。 これだけ親御さんの中に、また実際に治った子ども達、若者たちが増えてきたのですから、学校の先生や支援者の中にも、「治したい」「そういった支援、教育がしたい」と思う人達が出てくるのは自然な流れだと思います。 学校の先生からの質問で多く見られるのが、「どういった勉強をされていますか?」というもの。 これに対しては、私の答えは決まっています。 「そんなの自分で考えんしゃい!!」 親御さんのように、我が子のみを育てる、治したい、という方には、そのご家族にあった書籍やブログ、実践家の方などをお教えしますが、少なからず、お金を貰って仕事をしている者が、そんなことを言っちゃあ、おしまいですね。 「どういった勉強をしているか?」という言葉が口から出るということは、何かノウハウや特別な情報があると、想定している。 その特別なものを手に入れられれば、同じようにできるんだ、という考え自体が浅はかであり、私から見れば、プロ失格。 一人ひとり子どもさんが違うように、教師、支援者だって、一人ひとり違う。 だからこそ、自分に足りないものを補い、そして、こういった知識や技術が今の、未来の関わる子ども達に役に立つかもしれない、という想像力を働かせながら、日々、研鑽を積むのが当然の姿勢。 そこを、「どんな勉強を?」などと、インスタントに捉えていてはダメですね。 第一、同じ知識を得たとしても、その人の技量や経験によって、見え方が、どこまで深く理解できるか、は違います。 そしてもう一つ多い質問が、「私は治したいと思っている。でも、同僚ガー、親御さんガー」というもの。 自分が関わっている子に、「治ってほしい」「治してあげたい」という感情が出るのは当然のこと。 しかし、再三言われているし、私自身も申し上げているように、治すのは教師でなければ、支援者でもない。 治すのは、その身体を、神経を持っている本人です。 本人が自発的に動かなければ、発達は生じません、いくら周りが促したとしても

【No.1011】だましだましで生きてきた

1歳代の子ども達と関わっていると、「ああ、まさに発達障害の根っこは、ここと繋がっているんだな」と改めて感じます。 この時代から始まっている発達のズレを、そのままにしておくか、ちゃんとクリアし、本来の流れに戻しておくか。 そこが、これから続く長い人生に大きな影響を及ぼしていく入り口となる。 小さなお子さんから急に大きな人達からの相談があると、「だましだましで生きてきた」というフレーズが頭に現れてきます。 現在、困ったことがあり、相談に来られている。 しかし、「現在の困った」は、だましだましの結果である。 そんな風に思います。 何を“だましだましか”と言いますと、その手の使い方であり、その皮膚の感じ方であり、身体のバランスの取り方です。 私達は、空気を読みます。 でも、これはデジタルにではなく、瞬時に、特に意識することなく、その場の空気がわかる、察することができます。 一方で、発達に課題のある人達も、空気を読むことができます。 でも、その読み方は、経験や学習によるものが多い。 つまり、結果的に、その場の空気を読んでいるのには違いないけれども、瞬時に皮膚感覚として捉えられているか、知能知識として捉えられているか、に違いがあるということです。 ヒトは、スキンシップや自然からの刺激によって、皮膚を育てます。 その皮膚を育てきれなかった子が大きくなり、経験値の中から空気が読めなくなると、ショート起こし、「現在の困った」となる。 「現在の困った」に対処しようとすると、その場からの回避や周囲の配慮など、環境側をいじくりたくなるものです。 でも、そこじゃないし、それを続けていく先には、社会との分離しかまっていません。 認知的には問題なさそうに見える人も、よくよく見れば、だましだまし生きている。 左右非対称の動きをしていたり、足の裏に重力を感じることができていなかったり。 立っているようで立てていない。 歩いているようで歩いていない。 自分が存在しているようで、重力との付き合い方ができていない。 言葉で会話しているようで、そこにやりとりが存在していない。 一見すると、ちょっと変わった人くらいだけれども、本当は自分自身をもだまして生きている。 その本人も気づいていない“だましだまし”に騙されないのが、その人の支援者になり得る

【No.1010】違和感と繋がっているお子さんの行動に、「持続性」と「非対称性」がありますか?

今までもそうだったのですが、1件あると、その後、続くということがあります。 昨年までは、ほとんどなかったのですが、今年に入ってから1歳代のお子さんの相談が続いております。 実際に訪問させていただいたご家族もいます。 お子さんの様子を拝見すると、皆さん、「よく気づかれました」と感じるような小さな兆候をしっかり捉えられていました。 確かに、定型発達と呼ばれる流れとは違った流れが生じており、ズレは既に始まっていました。 でも、そのズレは胎児期を合わせて2年間の中にあります。 ですから、子育てや家族の関わりの中で、十分軌道修正ができますし、そういったアイディアをお伝えしてきました。 今までは、1歳半健診をスルー、または「様子を見ましょう」と言われ、その後、親御さんの中で「やっぱりおかしい」ということで、情報収集→公的な機関→療育を勧められる→見学→でも、やっぱり違う、からの発達相談という流れが多かった印象があります。 なので、早くても、2歳、だいたい3歳になってからの発達相談が中心でした。 しかし、これはネットの良い面だと思うのですが、自分の中の違和感を確かめられるようになったことが、1歳代での発達相談へと繋がっていると感じます。 〇〇という動き、様子がある。 それをネットに打ち込むと、似たようなお子さんがいることが瞬時にわかります。 名前も知らない親御さん、お子さんだけれども、誰かの背中を押す力になって、「このままじゃいけない」と行動が生まれます。 今までも、赤ちゃんのときから、すでに違和感を感じられていた親御さんがたくさんいらっしゃいましたが、次の行動までタイムラグがあったり、そもそも次の行動の選択肢が限られていたりしたようなことがあったと思います。 その“違和感”が肯定も、否定もされない時間があるかないかが、今の親御さんとの違いになっている気がします。 一方で気を付けないといけないのは、「当てはまる/当てはまらない」に捉われすぎてしまうことです。 これは現在の診断の課題とも重なる部分ですが、当てはめようと思えば、いくらでも当てはまる、ということです。 神経発達が今まさに行われているお子さんと、発達のズレが生じているお子さん。 どちらも、神経は日々、「発達する」という方向で進んでいますので、似たような行動が表れるもので