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8月, 2018の投稿を表示しています

障害者雇用の問題が、どういった現実を表しているのか

意図的か、計算間違いか、認識の誤りかは個別に違うのでしょうが、8月は障害者雇用に関する問題があからさまになりました。 最初は特定の自治体だけと思いきや、全国の自治体でも同様のことが起きており、障害者雇用を促進し、リードする立場の中央省庁でも…。 この問題を「水増し」と表現している媒体や人が多いことからも、ネガティブな出来事として見ている人が多数なのだと感じました。 もちろん、言い出しっぺの、先頭になってモデルを示さないといけないところが水増しに見られるような行為をしていたのはいけないと思います。 でも、私個人としては、特に驚くことはなく、「そりゃそうだよな」って思いました。 本音を言えば、雇うのなら、一緒に働くなら、「できれば障害のない人の方が良い」とみんな思うのが自然です。 私としては、「障害を持った人が入ってくれてよかった」と言っている人の方が信じられませんね。 田舎なんかでは、天下りは日常茶飯事であって、どこどこの元校長先生なんかが公的機関の中で働いていたりします。 そのOBが、自分の教え子なんかを引っ張ってきて、優先的に雇ってしまう。 で、障害者枠で入ってきた若者は、特にすることはなく、やってもやらなくても良いような仕事をして一日を過ごす。 民間の障害者雇用だって、ペナルティを受けたくないから、企業イメージアップのためにと、大なり小なり、障害を持った人を雇う理由になっていると感じます。 何故なら、障害者雇用で働いている人達のほとんどが、適切な仕事を与えられていないから。 ずっと仕事場の奥の部屋に入れられている人もいますし、周囲の掃き掃除だけが仕事という人もいます。 そんな状況に耐えられなくなり、「仕事をください」と言うと、「あなたにやらせる仕事はない」と突き返される人もいる。 つまり、雇用している企業であっても、こういった扱いしかできていないのですから、障害を持った人は雇いたくない、というのが本音であり現実です。 できれば雇いたくないからこそ、いろんな逃げ道、工作が行われる。 その一つの表れが、今回の障害者雇用の問題だといえます。 この問題に対して、ブーブー言うのは簡単です。 でも、現実としてこういった実態があるのですから、当事者の方、ご家族、また支援する立場の人間も、冷静に受け止め、対策を練る必要があ

発達のヌケが埋まると、赤ちゃん返り、幼児返りが始まる

以前、発達のヌケが埋まった大人の女性が、若い頃にできなかった青春を楽しむような生活を送るようになったというお話を書きました。 私が「青春の育て直し」と表現したお話です。 生きづらさを抱えていて、十分に味わえなかった青春時代に戻り、そのとき、同世代の人達が味わい、育てていた部分を戻って育て直しをされているのだと私は捉えています。 こういった過去に戻っての育て直しは、子どもの場合でもよく見られます。 発達のヌケが育ち、埋まると、子どもは赤ちゃん返り、幼児返りが起きます。 赤ちゃんのときにできなかった愛着を育む行動をしたり、普通の子が楽しむような遊びに熱中し始めたり、人とのやりとりを楽しむようになったり…。 中には、子ども同士で喧嘩ができるようになった、という子もいました。 呼吸や内臓、感覚や動きなど、生きる上で土台となる部分の発達のヌケが育ち、埋まり始めると、今度は定型発達の子ども達が成長過程の中で何気なくやっているようなことを辿り始める。 そんな姿を見て、生きるための土台作りが終わった人は、人間として生きるための土台作りを始めるのだと感じます。 「ヒトの発達の次は、人間の発達へと進む」 でも、これは自然で、当たり前のことだと思います。 受精した瞬間から進化の過程を辿り、ヒトとしての発達を遂げていく。 そして、ヒトとしての発達が進んでいくと、人間としての発達を始め、自分の身を守り、自分で生活できる「自立して生きる」まで発達を続けていく。 600万年の人類の歴史を見れば、同じ道を辿っていることがわかります。 発達障害の人達は、ヒトとしての発達の部分にヌケがあり、人間として生きるに支障、生きづらさが表れます。 年齢は、すべての人と同じように重ねていきますが、人間としての発達課題はそのまま、未経験、満たされないまま。 こういった状況の人に対して、年齢相応のことを求めたりしても難しいのは当然です。 年齢は時の流れを示すだけであって、ヒトしての発達段階、人間としての発達段階を表していないからです。 発達のヌケが埋まると、赤ちゃん返り、幼児返りするのは、当然だといえます。 赤ちゃんのとき、お母さんが抱っこしても何だか違和感を感じていた子が、大きくなってから抱っこを求め始めることもあります。 「あれ、みてみて」と共同注視を求

障害受容ってする必要ある??

「私、障害受容ができていないんです」と言われる親御さんには、「それは良かったです。治るための手数が一つ減りました」と言っています。 治るためには、障害受容など必要ありません。 むしろ、足かせになったり、治り切るのを阻害する要因になってしまいます。 そもそも「障害受容」という言葉はどうして生まれたのでしょうか。 誰のためになる言葉なのでしょうか。 「私、障害受容できています」という人に限って、心の底では障害を受け入れることができず、自分に言い聞かすように、いや、自分自身を洗脳するために使っていたりします。 支援者も「障害受容」という言葉をよく用いますが、その意味するところは 障害受容できている親=自分が行う支援の方針に従う親 障害受容できていない親=自分が行う支援の方針に従わない親、支援よりも育てるを重視する親、治そうとする親 がほとんどです。 つまり、端的に言えば、自分の言うことを聞きやすい従順な親かどうか、なのです。 「お母さん、全然わかってないね」と直接的な表現をする代わりに、「障害受容することが大事ですよ、お母さん」と言っているだけ。 私は、「障害を受容しちゃってどうするの」と率直に思います。 障害はその名の通り、その子の能力、生活、選択肢の障害になっている部分なので、そのままにしちゃだめでしょ、と思います。 本人が生きづらさを感じている部分を、「それが障害ね。私は受け入れるわ」と言ったら、誰がその子の生きづらさを解いていくのか。 誰がその子の発達のヌケを育てていくのか、わかりません。 受容したことで、障害を含めて「その子」みたいな感じになり、結果的に育てるよりも、見守る、介護する、という方向へ流れていきます。 これって、本人のためにならないでしょ、「生きづらいのも、あなた」みたいな感じって。 じゃあ、誰が得をする言葉か、誰のための言葉か、と言ったら、本人以外の人が妥協するための言葉。 「何もできないのではなく、何もしないのではなく、私はちゃんと障害を受容しているの」 「障害受容」という言葉は、自立してほしいと願う親心に覆いかぶさる蓑であり、支援者が思いのままにコントロールしたいという本心を隠す笠なのです。 一度は通る「障害受容」という響きの中。 これは「治そう」「治ってほしい」と願い、日々育てて

「自分が関わっていない時間は成長も、発達もない」という思いこみ

北海道はすでに2学期が始まっていますが、本州でも昨日から2学期が始まったところがあるそうですね。 有難いことに、お子さんの夏休みの変化、成長を伝えてくださるメールがたくさん届いています。 学校から離れ、とことん発達と向き合える1ヶ月は、子どもにとっても、家族にとっても、貴重な時間になったと感じます。 あちらこちらで、発達の「ドカン!」が起きているようです。 夏休みは、子どもの心身に発達する余白を与えるとともに、多忙な先生方にも余裕を生みます。 ですから、2学期の先生というのはエネルギーとやる気に満ちています。 で、特に熱心な先生は、夏休みの研修で得た知識や成果を子どもに還元しようとする。 この姿勢自体は、素晴らしいことなのですが、得てきた成果によっては、先生と生徒の間でギャップを生むこともあります。 たくさん遊び、たくさん心身を動かし、発達と向き合った子ども達にとっては、夏休み前後で、発達自体が変わっているのです。 ですから、2学期の始まりは、その子の発達を確認し、そこから指導を組み立てていく必要があります。 必要だった支援が、必要ではなくなっていることもある。 支援の形態を、よりナチュラルな形態へと変える必要性も出てくる。 そこに、夏休み中、特別支援を学んだ先生が、「さあ、やってやるぞ」と待ち構えていたら溝ができていくのです。 2学期の始まりは、このギャップに悩む親御さんが多いです。 夏休み中、発達のヌケを育て直し、中には「ドカン」と発達した子どもさんもいる。 だけれども、2学期が始まってみれば、1学期の延長だったり、「ドカン」が来る前の子どもの状態から教育内容が組み立てられたり…ということが。 そこで親御さんが、「こんな風に変わりました。成長しました」と伝えても、共感してくれるが、指導の内容は変わらない、特別支援のまま。 これは学校の先生に限らず、支援者というのは、家庭での成果、成長を認めたくないもの。 だって、愛着障害を持っている支援者というのは、「ぼくが いなくても だいじょうぶ っていわないで」と潜在的に思っているから。 また、これに関連して、「学んだことを実践したい」という想いは、「より良い支援ができるようになった僕は、これまで以上に、いろんな人から必要とされるはず、もっともっと必要としてくれる」とい

「気づく前に治っている」という理想を追い求めて

私が訪問すると、毎回、「僕、治った?」と訊いてくる子がいました。 その言葉を合図に、私は「どれどれ」と言って、発達の進み具合を確認します。 「ここは育ったね」「ここはもう少し頑張る必要があるね」と私が受けた印象を伝えると、「僕も、そう思ってた」と言って、その日のレッスンが始まります。 そして、次回までに頑張ることを確認し、お別れするというのを続けました。 ある日、訪問しても、「僕、治った?」と言ってこないことがありました。 そのときは、「別に話したいことがあるんだな」と思いましたが、同時に「もしかしたら」とも思いました。 玄関を開けて、顔を合わせた瞬間、雰囲気がガラッと変わっていたのです。 そうです、発達のヌケが埋まり、その子の本来の歩みが始まっていたのです。 私は一通り確認したあと、こう言いました。 「もう教えることなくなっちゃった」 「治るとは、どういう状態のことを指すのか?」と尋ねられることがあります。 つまんない言い方をすれば、「症状の程度や頻度が減り、生活に支障がないくらいになった状態」でしょう。 でも、治るって、言葉で表現できないというか、言葉で表現できているうちはまだ治っていないような気がします。 「ああ、この人は治ったな」と思う方達にお会いしてきましたが、言葉じゃなくて、雰囲気なんです。 「これができるようになり、ここがだいたいこのくらいまで育っているから、治った」なんてことはありません。 発達のヌケが埋まったかどうかも、状態の確認は行いますが、それよりも本人が育て直す動き、活動をやらなくなった、心地良く感じなくなった、などを重視します。 「〇〇ができるようになったから、治った」 「〇〇という症状がこのくらいの頻度でしか表れなくなったから、治った」 というようなモノサシはないと思ってます。 ですから私は「治った」を雰囲気で感じますし、「治った」とは本人の主観だと考えています。 本人が「治った」と感じれば、治ったんだと思います。 「ああ、私はずっと〇〇という症状に苦しめられていたけれども、それに苦しめられることはない」 「今の私はラクに生きられている」と感じられれば、それは治った状態だと思います。 時々、治った人に出会ったことがない人が「全然、治ってないから」「発達障害は、そもそも治るも

不登校と発達障害、不登校と特別支援

不登校中である発達障害の子の親御さんからの相談も、結構な頻度でいただきます。 あっ、正確に言うと、「発達障害の子が不登校になった」というよりは、「不登校になったから、発達障害の診断を受けて、発達障害になった子」ですかね。 というのも、最初から発達障害の診断を受けている子は、普通学級に適応できなくなると、すぐに支援学級が勧められますし、支援学級では、そこまで登校を刺激されませんし、そもそも個別対応が主ですし…。 なので、支援学級に通えなくなる子は少ないですし、普通学級で不登校よりも切迫感が少ない気がします。 発達障害で悩まれる方が最初、公的な支援機関へ足が向かうように、不登校の子の場合も、最初は公的な機関、不登校メインの機関に足が向かいます。 そして、そこで答えが見つからないために、私のようなところにいらっしゃいます。 私のところにくる不登校を相談される方は、100%このように仰います。 「不登校関係のところに行くと、『受容しなさい』、『今は休みなさい』としか言われない。それでは解決しないし、問題もそこじゃないと思うんです」と。 不登校のきっかけは、イジメなど、様々あると思います。 しかし、不登校の原因は、外にではなく、本人の内側にあるはずです。 何故なら、同じ条件、きっかけになるような出来事があったとしても、みんながみんな、不登校にならないからです。 不登校になる子とならない子がいるのなら、その違いは個人の違いだといえます。 このように言うと、「本人が弱いと言うのか」「ただでも傷ついている子を、さらに苦しめるのか」などと批判を受けます。 酷いレベルのイジメに関しては、どの子も行けなくなりますし、心身に大きなダメージを与えるものなので「個人が」とは言いませんが、それ以外は個人に起因すると考えています。 不登校になる子の多くは、きっかけになる出来事の前から生きづらさを抱えています。 もともと学校に行くのが、授業を受けるのがしんどかったり、人付き合いが苦手。 勉強が遅れていたり、ついていけなかったり、そもそも登校する前の家庭生活で乱れがあったり…。 そして「きっかけが不明確」「学校に行けない理由がわからない」という子も、少なくありません。 イジメは、加害者が100%悪いといえます。 でも、このように不登校に

治り切るを妨げていたものは…

今朝、きみか先生が言っていたように、人間、仕事とか、生きがいとか、誰かのためになっているという実感とかが、生きる力の源だと思いますね。 病気だからといって、いつまで経っても病人扱いするのは、「病人」というキャラクターを作ることになる。 お年寄りに「もう年だから」と言うのは、老化を加速させるだけ。 山口の行方不明になった子を見つけた男性は、元気な足腰があったから見つけられたのではなく、「誰かの役にたちたい」という想いが活力を生み、行動として表れたのだと思います。 障害があるからといって、障害者扱いをするから、「障害者」というキャラクターが出来上がり、無理をさせない、頑張らせないという姿勢が、生きる力を奪っていく。 私は、子ども達には家庭の中での役割を、若者たちには地域の中での活動を、大人になった人達には社会の中で働くことを勧めています。 「自分が誰かの役になっている」という実感は生きる力につながります。 そういった意味で、社会には人を癒し、発達、成長を促す力があるのだと思います。 発達のヌケが埋まり、治った人達が最後に通る道があります。 それは「発達障害」というラベルを剥がすこと。 支援グッズ、連絡ノート、支援者とのお別れ。 家族の後押しによって、発達のヌケを育て直し、「もう治ったね」と言えるくらいの状態までになった子がいました。 本人も、「もう配慮も、支援もいらない」と言っていました。 そこで私が関わるのを止めたのですが、このくらいで治り切るだろう、本来持っていた発達の流れに戻っただろうという時期になっても、治り切らないし、グラついている。 発達に後戻りはないので、何か治り切る力を押し返しているものがあるのではと思い、再び訪問したのです。 お宅に訪問し、すぐにその原因がわかりました。 治り切るを押し返していたのは、支援グッズだったのです。 この子は、長い間、特別支援を受けていて、私が初めて訪問したときには、家中、支援グッズで溢れていたのです。 当然、必要なものは残しつつも、役割を終えた支援グッズは取り外していくようにお願いしていました。 本人の発達、成長と共に、支援グッズは減っていき、徐々に自然な部屋に変わっていきました。 「もう大丈夫です」と言って支援を終了したときに残っていた支援グッズが、再び訪問したと

理由が分からない生きづらさの根っこを探しに行く

この仕事をするようになって、世の中には、こんなにも生きづらさを抱えている人がいるんだ、と思うようになりました。 「学校に行けない」「仕事が続かない」「対人関係がうまくいかない」というような実生活での躓きからの生きづらさ。 過去のいじめや失敗経験からの生きづらさ。 聴覚過敏や疲れやすい身体、片づけられない、順序立てて物事が行えないような特性からくる生きづらさ。 このように、自らで生きづらさの端を掴んでやってこられる人がいる一方で、なんとなく生きづらさを抱えている人、理由が分からないけれども生きづらい人がいます。 上記のように、ご自身で生きづらさを掴まれている人は、その口調に苦しさがにじみ出ていますが、言葉が流れていきます。 そして語られていることと、目の前の姿が一致します。 しかし、「なんとなく」ですとか、「理由がわからない」という人は、たとえ自分ではこう思います、と論理的に説明していても、理由が伝わってこないのです。 本人や家族が説明した通りの部分に、発達課題を見つけようとしても、見つからないことが多いのです。 この夏、集中的に関わったお子さんは、自分の気持ちを話さなければならない場面になると、しゃべられなくなり、涙が止まらなくなります。 幼少期、言葉の遅れがあったために、発達障害の診断を受け、この自分の気持ちがしゃべられなくなるのも、言語発達の遅れや求められていることを想像する力の障害として見立てられ、お決まりの視覚支援とSSTで支援されていました。 でも、一向に良くならないし、変わっていかない。 それで、私のところに依頼がきたわけです。 親御さんは、支援者の言う通りに「障害からくるもので」と説明されていました。 でも、挨拶や雑談、質問には自然な反応が返ってくるし、足の親指やふくらはぎの発達に問題はなさそう。 会話の中に概念が出てきましたし、学校の勉強も遅れがない。 だから私は、障害特性ではないと思ったんです。 そして、その見立ては、この子の発言から決定的になりました。 私が「どうして、自分の気持ちを話そうとしても、言葉が出てこないんだろう?」と尋ねると、「わからない」と返ってきたのです。 「生きづらさの理由が分からない」と言われる人は、子どもに限らず、大人でもいます。 お子さんの発達援助で伺ったけれども、親

目の前にいるのは「重度の自閉症」ではない

先日、お話しさせていただいた成人の方達の支援をしている方が、こんなことを仰っていました。 「一人ひとりがよく見えるようになった」 「何かやりようがあると思えるようになってきた」 と。 お話をした前後で、顔が明るくなり、前向きな発言と態度が出るようになっていたので、私も嬉しい気持ちになりました。 「重度の障害者」というのは、その人を表す言葉ではありません。 記号であり、便利で効率的にするための言葉です。 一人の人を正確に、かつ具体的に表現することは不可能です。 身長が、年齢が、性別がとなり、どんな性格で、どんな能力があり、どんな課題があり、運動面は、感覚面は、学習能力は、今までの経験は・・・。 その個人を構成する要素は無限にあり、いつまで経っても、その人を正確に表現することはできません。 同じ「自閉症」「重度」「行動障害」の人であったとしても、その背景は一人として同じではないのです。 だから、便宜上、「重度の障害者」「自閉症」「発達障害」などと表現し、その大枠の情報だけが必要で、利用している人同士が効率よくコミュニケーションできるように使っている言葉だといえます。 こういった個人を特定するわけではなく、大枠を伝えるための言葉は、その存在を知らない人たちに紹介するために、サービスを利用するための必要なグループ分けをするために、統計や制度作成、運用に利用する目安を得るために用いられたものでした。 しかし、いつの間にか、直接的な支援を行う者たちのところまで浸食し、今となっては、その違和感すら感じない人たちが多くなってしまいました。 便利に、効率的にするための言葉が、支援に用いられるようになってしまったのです。 「重度の人だから、自立は無理だ。できるのは介助しかない」 「自閉症の人だから、環境調整と視覚支援だ」 「行動障害には、薬と賞罰で行動を変えさせる」 「発達障害は生まれつきの障害だから治らない、一生支援を受け続ける」 インスタントに伝えあうための言葉が、インスタントな支援を生みました。 最初は便宜上、また必要な場面で限定的に使うために人間が生んだ言葉が、人間を食ってしまったのです。 生みだした言葉にコントロールされる人、その人に直接支援を受ける本人たちの生活、人生はインスタントラーメンのような消費のされ方になってしま

「発達障害バブル」という嫌な言葉

支援が必要なら、堂々と支援を利用すれば良いと思います。 そして支援が必要ではなくなったら、返せばよいだけのこと。 もし、再び支援が必要になったときがきたら、また利用すれば良いと思います。 私も含め、民間のサービスは、必要なときに利用し、必要がなくなったら利用を止めるのが、普通のことです。 でも、お金の出所が自分の財布じゃなくなると、一度得たものを手放そうとしなくなるのはどうしてでしょうか。 いつも私は、私の事業を利用する必要がなくなったら、親御さんに「もう止め時ですよ」と言います。 中には、それでも利用を続けたいという人がいますが、その場合は「お金の無駄遣いになってもよろしいですか」と断りを入れます。 しかし、これ以上は言いません、個人のお金なので。 ですから公的なお金を扱う人たちは、私以上に慎重になる必要があると思います。 公的なお金は、自分のお金ではありませんので。 みんなのお金であり、別の言い方をすれば、今の子ども達が将来背負っていく借金でもあります。 支援者の間では、「発達障害バブル」と言われていたりします。 今は発達障害に対する社会的な注目、意識が高まっている時期なので、発達障害の診断がつけやすいし、いろんな申請も通りやすい、サービスも受けやすい、という意味です。 私はこの言葉が支援者の姿勢をよく表していると思いますし、私はこの言葉が大嫌いです。 発達障害の人達を飯のタネ、金の生る木のように見ている感じがよくわかるからです。 都市部では、だんだん蛇口が閉まってきているようですが、地方ではタイムラグがあるので、まだまだバブルの中。 診断も、申請も、希望通り、求めた通りに進むことが多いです。 しかし、平成のバブルがはじけたように、発達障害のバブルだって、必ず終わりがきます。 昨日のブログで紹介したように、少なく見積もっても、自閉症の人、一人が生涯支援を受け続けたら1億円くらいの税金が必要なのですから。 10人で10億円、100人で100億円、1000人で1000億…。 国も、地方も、「発達障害の診断を受けました。じゃあ、サービス提供してください」と言われて、「はい、わかりました」と言えない状況になってくるのは、容易に想像できます。 サービスの申請は通りにくくなるでしょうし、利用できても日数や金額は減

必要なくなった支援を手渡していける社会

発達障害と経済的な負担というテーマでも、多くの研究、調査が行われています。 たとえば、2014年ペンシルベニア大学の研究グループの試算では、自閉症の人が生涯に渡って使うお金が、知的障害を伴わない場合は約140万ドル、伴う場合は240万ドル、日本円にすると約1億4千万~2億4千万円となっています。 もちろん、家族の負担だけではなく、税金も含みます。 他にも、こういった研究、調査はされていますが、あまり日本では、というか、身近な支援者からこういった話は聞きませんよね、話題にも上がりませんよね。 発達障害による心理的な負担は話題にするのに、経済的な負担は話題にしない。 これはおかしい話だと思いますね。 家族の経済的負担だって、みんながみんな、お金に余裕があり、ずっと負担し続けられるわけではありません。 当然、国のお金、税金だって、無限にあるものではなく、ある意味、日本全体で共有している財産だといえます。 特に、自分の給料や事業の収入の主が税金からのお金である場合、経済的な負担にも目を向ける必要があると思います。 いや、同じ国に住む社会人なら税に対する意識を持つのは当然でしょう。 それなのに、ほれ、支援を利用しよう、もっと国に訴えていこう、とだけ言い続けるのは無責任と言われても仕方がないと思います。 支援を利用することは悪いことではありませんし、必要な人が安心して利用できる世の中の方が良いに決まっています。 でも、支援者たちが「利用しよう」という支援は、治すことが目的でもなければ、軽度化することが目的でもありません。 敢えて言うのなら、二次障害にならないのが目的。 その二次障害だって、支援者は「なる前の予防が大事です」と言って、結局、なった人を治せるわけでもない。 それに、そもそも予防もできていないし、本人の意思を無視した支援者の介入を受けることによって病んでいく人が後を絶ちません。 発達障害というのが、発達しない障害であり、支援を受け続けることで、より良い生活と選択肢を増やすことになるのなら、生涯に渡る支援は必要な支援であり、その人達が安心して支援やサービスを利用できる社会を目指すのは、私も賛成です。 しかし、発達障害の人達も発達しますし、たとえすべての発達課題をクリアできなかったとしても、軽度化し、部分で見れば治っていくとこ

自然の中にある揺らぎが多様な刺激を生み、自然な発達を後押しする

ツイッターに流れてきた「ロボット言葉」のお話を見て、そんなこともあったな~と思いだしました。 私が学生の頃、どこの養護学校でもやっていましたね。 「Aくん、~はいけません」 「~しません」 「~します」 「~は、バッテンです」 「~は、マルです」 「~しません」と何度も言いながら、走り回る子どもを追いかけている姿は、学生だった私でも「こりゃあ、ダメやね」と思いましたよ。 耳ふさぎをしている子に向かって、「バッテン」「バッテン」を言い続け、挙句の果てには指で×を作って見せる。 福岡生まれの私は、「あの先生は、博多の出身かね」と言って、友人や親御さん達を笑わせていました。 これは統一した支援の勘違いですね。 統一するのは支援の方向性であって、声がけの仕方、何と言うかを同じにするという意味ではありません。 こういった誤った解釈が、関わる大人が全員同じ言葉を繰り返す、それ以外は言わないという異様な光景を生み、そのロボットのように同じ言葉を繰り返し続けるのが、子どもの口調に移っていく。 だから昔は、ロボットのような話し方をする子ども達が多かったですね。 今どきの子ども達の中には、そんな子は見かけませんが(私だけ?)、20代、30代の養護学校に支援や療育が入りこんできたときの世代の若者たちには、こういったロボットのような話し方をする人をよく見かけます。 このように支援を統一するのは、刺激を単調にするという弊害がありますね。 いっつも同じ言葉しか耳にしていなかったら、覚える言葉も、出てくる言葉も、同じになってしまいます。 だから、自然が一番なんです。 私は、発達援助において、「自然」を核にしています。 その子の持つ自然な流れ、家族が形成する自然な空気感、自然の中で自然な動き、遊びを楽しむ…。 ヒトが生きている限り発達するのは自然なことですし、長い長い人類の歴史を見れば、自然と共に発達、進化の道を歩んできたのがわかります。 「発達とは自然の営みであり、自然の中で育まれる」が、私のモットーです。 自然というのは、常に揺らぎがあります。 不規則であり、ひと時として同じ状態がありません。 一瞬たりとも同じがなく、常に揺らぎが存在するから、複雑が生まれる。 この複雑が発達に必要なのです。 複雑ということは、多種多様

苦手なままの夏にするよりも、味わえる夏に育てる

今日は午後から晴れているものの、すでに空気が夏ではなくなっています。 私の大好きな季節、夏が終わろうとしていて、寂しい気持ちになります。 個人的に好きな夏ですが、私がこの夏にお会いした子ども達は「夏が嫌い」「夏が楽しめない」という子でした。 発達障害の人達の中には、夏が苦手な人が多いです。 当然、発達の遅れは認知の発達のみを指すのではないのですから、内臓や感覚の発達の遅れから夏が苦手になっている、と考えるのが自然です。 夏が苦手なのは、社会性の問題でも、コミュニケーションの問題でも、想像力の問題でもないのですから。 まさか今どき、自閉症=変更が苦手=季節の変化、夏が苦手、とは…。 でも、そのまさかと思うような捉え方で、そこを基に支援や助言がなされていました。 「この子は夏が苦手です。なので、外には出ないようにして、家の中の室温と湿度をしっかり管理しましょう」 いやいや、夏の間、ずっと家の中にいたら、経験が偏るし、健康にだって良くないでしょ。 クーラーがない施設は、「理解ガー」とやるんですか。 暑い日は、学校にクーラーが無いから休ませるのでしょうかね。 で、実際に休ませるを助言する支援者がいてビックリ。 「毎年、夏になると不調になるから、7月8月は無理に登校しなくて良いですね。学校に行っても、集団で授業を受けるのは負担になるので、個別対応をお願いしましょう。配慮として授業の代わりにプリントを用意してもらうのも」と言って、年度初めにカレンダーに書きこんだ、なんて話がありました。 なんでもかんでも「障害のせい」で「理解だー」「配慮だー」とは、なんとラクな仕事でしょうか、支援者というのは。 その子の抱える問題に対し、何も手がなくて、ただ「理解だ―」「配慮だー」とやっているのならまだしも、親でも、親戚でもない赤の他人が、子どもの学ぶ権利を奪い、あたかもそれが正しいことをしているように振る舞う現実。 この話を聞いたときは、さすがの私も絶句でした。 「夏が苦手だから、学校を休むのを許可する」 これは理解でも、配慮でもありませんね。 ここまでひどい話ではありませんが、いつから「夏が苦手」が障害特性になったのか、診断基準に入ったのか、と思うような支援、支援者がいるのは事実です。 そんなに「夏が苦手」を障害にしたいのなら、人体

発達と向き合っているから前向きで元気になる

この夏は、いろんな方とじっくり時間をかけてお話ができているように感じます。 そして、お話をしていると、「元気が出ました」「希望が見えてきました」「頑張ってみようと思います」というように、みなさん、前向きな言葉を言ってくださいます。 本人や家族の方達から前向きな言葉が聞かれると、お伺いして良かったと心から思います。 大事なことは、前に足を動かすことですから。 一歩でも、半歩でも、昨日より今日、今日より明日、前に進んでいれば、より良い人生を歩んでいる証です。 時間は後戻りできませんし、前へ前へと進むのが自然の原理というものです。 時々、「話をさせてもらうと、元気になる」「私が前向きな気持ちになるように、前向きな言葉を使うようにしているのですね」などと言われることがあります。 しかし、私は敢えて前向きな言葉を使おうとは思っていませんし、本人のためだったら厳しいこともガンガン言います。 もし意図的に前向きな言葉を使っているとしたら、それは私が特別支援の世界に見た接待していることになりますし、本人の幸せではなく、自分の仕事や自分自身を見て仕事をしていることになりますので、そんなことはあり得ないのです。 接待や支援者自身のための支援は、本人の成長と自立を阻むのを散々見てきましたから。 では、なぜ、前向きな話になるのか。 それは、私の仕事が発達に関わることだからです。 この前も書きましたが、成長には良い成長と悪い成長がありますが、発達には良い発達しかない、ということです。 発達は、前に前にしか進むことができません。 発達が後戻りするなどということはなく、やったらやっただけ発達の器には水が溜まっていきます。 発達にヌケを持ったまま成長したお兄さん、お姉さんも、発達のヌケが埋まった瞬間、どどどっと一気に成長することがあります。 それは、もっと幼かった頃、ちゃんと発達の器に水を溜めていたからです。 当時、その取り組みは、結果として表れなかったけれども、少しずつ水は溜まっていた。 発達のヌケが埋まって堰が切られた瞬間、その水が溢れ出した。 よく「一気に変わった」というような場面に遭遇しますが、それは単に発達のヌケが埋まっただけではなく、それ以外の部分での育み、蓄積がちゃんとあったからだといえます。 たとえ、そのとき、意味がないよ

治っていくと、本来の姿が現れる

明確な発語がなくて、表情も、動きも乏しいお子さんのところへ行ってきました。 このような状態ですと、当然、重い知的障害と判定され、医師や支援者からも「無理せず」「この子のペースで」「支援を受けながら」と言われていました。 昔の言い方ですと、カナー型の自閉症の子。 私が部屋に入ってきても、注意を向けることはありません。 まるで、一人の世界で生きているようです。 しかし、一瞬ではありますが、同世代の子どものように、自然な表情で、柔らかい身のこなしを見せることがありました。 それは一緒に思いっきり遊んだときです。 この子は、大きな声を出して笑って、「もっともっと」と要求するのです。 その瞬間の姿は、とても子どもらしく、重い障害のある子には見えませんでした。 たぶん、この子の本来の姿なのだろう、と私は思いました。 と同時に、この子の課題は「神経同士の繋がり」 なのだと感じました。 こういった自然な姿が垣間見れる瞬間というのは、他の子でも見られることです。 特に、感情が揺さぶられるような状態のとき、まるで全身に電気がビビっと駆け巡るみたいで、表情や動きがとても自然になります。 「発達の遅れ」という言葉からは、その部位、機能自体の遅れ、未発達が連想されますが、このように繋がりに課題がある場合もあると感じます。 ですから、このケースの場合の発達援助のテーマは「神経同士の繋がり」となるのです。 神経同士の繋がりが良くなれば、その子らしさが出てくる、という視点は大事だと思います。 もしそういった視点がなければ、表情が乏しいのも、動きが固いのも、障害だから、自閉症だから、となってしまいます。 「障害だから」という言葉は、症状の固定化を生みます。 症状の固定化は、本来の姿を見えなくするものです。 ある意味、発達援助の目的は、本来の姿を取り戻すことだといえます。 障害によって、その人らしさ、本来の姿が表れていない、資質が開花せずにいる。 だからこそ、発達のヌケを育て直す、神経同士の繋がりを育てる。 発達障害が治ったあと、本来の姿、資質が表に出てくると考えています。 バリバリ発達の遅れがあり、バリバリ症状が出ている状態で、それをその人の「個性だ」なんて言う人もいます。 でも、それは障害以外のなにものでもなく、治す対象だ

成長には良い成長、悪い成長があるが、発達には良い発達しかない

子どもが、自分自身の発達のヌケを育てようとしている行為を、「年齢にそぐわないから」といって止めてしまう。 その行為は誤学習であり、問題行動なのに、「障害だから」といって、すべて受け入れてしまう。 こういったチグハグな対応をする支援者は少なくありませんね。 だいたいこういったチグハグな対応をしてしまう人は、子どもが軸ではなく、自分の軸で支援しているのだと感じます。 興味関心があるのは、目の前にいる子どもではなく、その子の行動のみ。 だから自分から見て、問題に見えるその行動を止める、抑え込む。 障害に関係なく、誤った経験、学習を積み重ねていった結果であるのに、「障害はかわいそうだ」「障害を持った子ども達は100%頑張っている」「障害を持った子は、全面的に受け止め、受け入れる存在だ」という個人的な思想により、注意や制止しないばかりか、その行為を認め、強化することすらある。 子どもを軸に、もっと具体的に言えば、発達を軸に支援する人は、こういった過ちは犯しません。 発達の軸がわからないとしたら勉強不足ですし、そもそも発達にヌケや遅れがある人と関わるべきではないと思います。 人がどのように発達するのか。 これがわからなくして、どうして発達援助ができる、やっていると言えるのでしょうか。 まあ、支援者の多くは、人の発達が分からないから、支援グッズを作ること、支援技法と知識の量を比べること、啓発活動に向かっていくのでしょう。 親御さんからも、「我が子のどんな行動が発達を育てなおしているのか、問題があり、止めるべき行動なのかわからない」と相談されることがあります。 基本的に支援者とは異なり、親御さんは我が子が育てなおしているのか、問題を起こしているのか、直感的に、本能的にわかると思います。 もし、それがわからなければ、頭でっかちになっているか、親御さんにも課題があるかですので、そこを治していきます。 「わからない」という親御さんには、このようなお話をしています。 「成長には良い成長と悪い成長がありますが、発達には良い発達しかありません」と。 好青年に成長する子もいれば、どうしようもない大人に成長する子もいます。 まったく成長しないということもあります。 でも、どうしようもない発達、まったく変化のない発達などありません。 発達は、常

資質が喜ぶ声を聞く

聴覚過敏がバリバリで、人混みの中は辛くていられない。 発語は小学校に入学してからで、ずっと話すのが苦手だった子。 でも、今、その子は社会人として週40時間以上働き、休みの日にはライブハウスに通うようになっています。 好きなバンドの演奏を聴きながら、踊ったり、同じ会場にいる人達と会話を楽しんだり。 仕事も、プライベートも充実し、「今、私は幸せ」と言っていました。 この言葉を聞いて私は、資質が開花したのだと感じました。 聴覚過敏やその他の課題が治った、ただそれだけではないと思います。 治った先に、本来持っていた資質が飛びだしてきたのです。 しゃべることが苦手で、人と関わること、人と一緒にいることすら苦痛だった姿は、本来の姿ではなかった。 本来の姿は、社交的で、みんなと一緒に盛り上がるのが好きな人。 治った先にあった今の姿は、本人や家族だけではなく、本人の持っていた資質も喜んでいるのだと思います。 「資質が喜ぶ」 これは本人のみの目標ではありません。 子どもの発達を後押しする家族も同じだと思っています。 家族一人ひとりの資質が喜んでいるだろうか? 家族が自分たちの資質が喜ぶ子育てをしているだろうか? そんな視点で、ご家族とも関わらせていただいています。 発達障害を持つ子は、どっか別のところから急に現れたのではありません。 少なからず、両親から資質を受け継ぎ、また兄弟児も似たような資質を持っています。 ですから、家族の資質を見ること、特に資質が開花し、喜んでいる様子を見ることは、本人の発達援助をする上で、重要な気づきを与えてくれます。 充実した生活、人生を送っているという親御さん、兄弟の背中には、資質を開花させた物語があるものです。 その物語の中には、本人の資質を喜ばせるヒントがあると、私は信じています。 子どもが伸びやかに成長していかない、発達が埋まっていかないのは、親御さんの資質に合っていない子育てをされている、ということが多々あります。 うまくいかないとき、「私の勉強不足」「私のやり方が間違っている」と考える親御さんがいますが、間違っているのは方法ではなく、資質と子育ての関係性です。 直感的に行動してきた人が、知識を詰め込み、考えて子育てしようとするとドツボにハマります。 じっくり考えて行動してきた人が