2018年8月26日日曜日

「気づく前に治っている」という理想を追い求めて

私が訪問すると、毎回、「僕、治った?」と訊いてくる子がいました。
その言葉を合図に、私は「どれどれ」と言って、発達の進み具合を確認します。
「ここは育ったね」「ここはもう少し頑張る必要があるね」と私が受けた印象を伝えると、「僕も、そう思ってた」と言って、その日のレッスンが始まります。
そして、次回までに頑張ることを確認し、お別れするというのを続けました。


ある日、訪問しても、「僕、治った?」と言ってこないことがありました。
そのときは、「別に話したいことがあるんだな」と思いましたが、同時に「もしかしたら」とも思いました。
玄関を開けて、顔を合わせた瞬間、雰囲気がガラッと変わっていたのです。
そうです、発達のヌケが埋まり、その子の本来の歩みが始まっていたのです。
私は一通り確認したあと、こう言いました。
「もう教えることなくなっちゃった」


「治るとは、どういう状態のことを指すのか?」と尋ねられることがあります。
つまんない言い方をすれば、「症状の程度や頻度が減り、生活に支障がないくらいになった状態」でしょう。
でも、治るって、言葉で表現できないというか、言葉で表現できているうちはまだ治っていないような気がします。
「ああ、この人は治ったな」と思う方達にお会いしてきましたが、言葉じゃなくて、雰囲気なんです。


「これができるようになり、ここがだいたいこのくらいまで育っているから、治った」なんてことはありません。
発達のヌケが埋まったかどうかも、状態の確認は行いますが、それよりも本人が育て直す動き、活動をやらなくなった、心地良く感じなくなった、などを重視します。
「〇〇ができるようになったから、治った」
「〇〇という症状がこのくらいの頻度でしか表れなくなったから、治った」
というようなモノサシはないと思ってます。


ですから私は「治った」を雰囲気で感じますし、「治った」とは本人の主観だと考えています。
本人が「治った」と感じれば、治ったんだと思います。
「ああ、私はずっと〇〇という症状に苦しめられていたけれども、それに苦しめられることはない」
「今の私はラクに生きられている」と感じられれば、それは治った状態だと思います。


時々、治った人に出会ったことがない人が「全然、治ってないから」「発達障害は、そもそも治るもんじゃないから」と、自分のモノサシで判断してくることがあります。
しかし、本人の主観と、他人のモノサシ、どちらが本人の状態に近くて、どちらが本人をより良い明日へ向かわす原動力になるのでしょうか。
私は、本人の主観こそが尊いと思います。
発達援助とは、発達のヌケや遅れを育て直す後押しをする行為ではありますが、その目的は、特定の行動ができるようになることでも、特定の症状をゼロにすることでもなく、本人がラクになり、そして前向きに人生を歩めるようになることですから。


自分が治ったかどうか、尋ねてくる方は少なくありません。
でも、尋ねてくるうちは、治っていないと感じます。
「自分は治ったような気がする」
「私は治ったと思う」
というような実感が持てれば、治った状態に入ったと思います。
しかし、それでも、まだ「治り切った」には入っていません。


治り切った人というのは、「治った」と実感する状態を抜けた人だと感じます。
別の言い方をすれば、主観にすら入ってこない状態。
私が治った雰囲気を感じる人は、みなさん、「治る」を忘れている人であり、「治る」がその人の生活の中に入ってこない人。
冒頭のお子さんのように、「治った?」と訊かなくなるのが、治り切っただと思います。


そもそも「治る」「治らない」を話題にすること自体が間違っていると思います。
支援する対象は、本人の内側にある生きづらさ、発達のヌケだから。
本人が生きやすくなって、ラクになって、自分の目標とより良い人生のために「頑張ろう」という活力が出てきたら、それで十分。
本人の主観が喜び、伸びやかになれば良いのです。
そこに外部の思惑が乗っかってくるから、話がややこしくなる。
本人の主観を「障害」や「生きづらさ」「特別支援」から解き放ち、主観を開放することこそが「治る」です。


幼い子ども達の内側には、「障害」という概念も、「治る治らない」という概念も、感じません。
伝わってくるのは、「今よりもラクになりたい」という想いであり、伸びていきたいというエネルギーの鼓動です。
なので、概念を植え付けられる前に、そのまま気づくことなく、治ってほしいと願っています。
幼い子ども達との関わりを通して、「気づく前に治っている」という理想を見ます。


「治った」と実感できること。
「治った」と実感すること自体を忘れてしまうこと。
これが治り切る。
そして、主観が「障害」や「治る治らない」と出会う前に、治ってしまっていることが理想です。
私は、この理想を求め、日々、特別支援の匂いのしない、残らない発達援助を目指しています。

2 件のコメント:

  1. はじめまして。
    わたしは治ってないですが、治った人が
    嘘をついてるとは思わないです。

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    1. コメント、ありがとうございます。

      実際に、「治った」と言っている方にお会いすると、本当に心から「治る」を実感されているのがわかりますね。
      実感が乏しかったり、生きづらさが残ったままですと、そのような言葉は出てきません。

      過去の自分と比べ、違いが一番わかるのは、本人なのですから、本人の主観、感覚が「治った」なら、それで良いのだと思います。

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