自然の中にある揺らぎが多様な刺激を生み、自然な発達を後押しする
ツイッターに流れてきた「ロボット言葉」のお話を見て、そんなこともあったな~と思いだしました。
私が学生の頃、どこの養護学校でもやっていましたね。
「Aくん、~はいけません」
「~しません」
「~します」
「~は、バッテンです」
「~は、マルです」
「~しません」と何度も言いながら、走り回る子どもを追いかけている姿は、学生だった私でも「こりゃあ、ダメやね」と思いましたよ。
耳ふさぎをしている子に向かって、「バッテン」「バッテン」を言い続け、挙句の果てには指で×を作って見せる。
福岡生まれの私は、「あの先生は、博多の出身かね」と言って、友人や親御さん達を笑わせていました。
これは統一した支援の勘違いですね。
統一するのは支援の方向性であって、声がけの仕方、何と言うかを同じにするという意味ではありません。
こういった誤った解釈が、関わる大人が全員同じ言葉を繰り返す、それ以外は言わないという異様な光景を生み、そのロボットのように同じ言葉を繰り返し続けるのが、子どもの口調に移っていく。
だから昔は、ロボットのような話し方をする子ども達が多かったですね。
今どきの子ども達の中には、そんな子は見かけませんが(私だけ?)、20代、30代の養護学校に支援や療育が入りこんできたときの世代の若者たちには、こういったロボットのような話し方をする人をよく見かけます。
このように支援を統一するのは、刺激を単調にするという弊害がありますね。
いっつも同じ言葉しか耳にしていなかったら、覚える言葉も、出てくる言葉も、同じになってしまいます。
だから、自然が一番なんです。
私は、発達援助において、「自然」を核にしています。
その子の持つ自然な流れ、家族が形成する自然な空気感、自然の中で自然な動き、遊びを楽しむ…。
ヒトが生きている限り発達するのは自然なことですし、長い長い人類の歴史を見れば、自然と共に発達、進化の道を歩んできたのがわかります。
「発達とは自然の営みであり、自然の中で育まれる」が、私のモットーです。
自然というのは、常に揺らぎがあります。
不規則であり、ひと時として同じ状態がありません。
一瞬たりとも同じがなく、常に揺らぎが存在するから、複雑が生まれる。
この複雑が発達に必要なのです。
複雑ということは、多種多様な刺激ということです。
多種多様な刺激は、ヒトをより良く発達させます。
複雑な刺激を受け、その刺激を基に発達していくから、ヒトは同じ動きではなく、ナチュラルな動きができるようになる。
自然な環境の中で育っていくから、自然な動き、思考ができるように育っていく。
これが管理された環境で、何の変化もなく、一定の刺激だけの中で育ったら、みんな、ロボットのようなヒトになってしまいます。
そうです、冒頭のロボット言葉を話す子ども達のように。
未発達の状態のため、周囲の情報、刺激の渦の中で混乱する人は、統制された環境が必要でしょう、今、生きるために。
しかし、育つ可能性のある人達、特に子ども達の場合には、刺激を統制し続けることは、自然な発達の機会を奪うことにもなります。
統一された支援が、統一された人間を造る、なんて恐ろしい事態を生みます。
「その子らしさ」「個性を大事にする」「多様性を大切に」などと言いながら、みんな同じスケジュールで、同じ支援の仕方で、同じ声がけ、なんてこともあるのです。
「個性豊かな子ども達に育てたい」と言いながら、「あの学校、事業所を利用している子はすぐにわかるね」というくらい、みんながみんな、統一された方向へ育っていく。
環境側をコントロールする必要があるのも、私は否定しません。
しかし、ある程度の発達段階にきたら、そこから飛びだす必要があると思います。
一番発達が遅れていた段階から利用していた事業所に、ずっとずっと通い続けている子どもがいます。
こういった子どもさんを見て、私は「発達が止まってしまったの」「本人ではなく、親のニーズ、そのままがラクだから通わせてるんじゃないの」と、率直に思います。
「ここの事業所の開設当時から利用しています」と自慢げに話をする人がいますが、同じ刺激の中で、お子さんの発達刺激は満たされているのか、「障害のある人もない人も同じ社会で」と言うのは、ただの理想なのか、とも思います。
同じ社会の中で生きていってほしいと願うのなら、ある程度発達した後は、自然な環境、社会の中で学んでいく必要があるのは当たり前です。
同じ支援、環境を使い続けるのなら、それは発達が止まってしまったか、諦めたか、本人以外の怠慢なのでしょう。
私は「ずっと利用するものではない」と言うので、児童デイや事業所から目の敵にされています(笑)。
「ここまで発達のヌケが埋まったら、一般的な習い事や公園で遊んだ方がこの先伸びます」「逆に利用し続けると、伸びないし、障害者っぽくなりますよ」とも言いますから。
でも、これが真実です。
子ども自ら「つまらない」「もう行きたくない」と言う子もいますし、表現しなかったとしても、刺激の物足りなさが伝わってくるのです。
あとは、「そこ以外の刺激を知らない」という子もいて、その子からは子どもらしい躍動感、生命力を感じない、なんてことも、悲しいけどあるのです。
子どもによっては、長い時間かけて療育機関に通うよりも、その同じ時間があるのなら、公園で思いっきり遊んだ方がより良い発達に繋がる、という子もいます。
療育機関は、刺激が統制されている場合が多い。
ある意味、不自然な環境なのです。
刺激を統制することで、情報がキャッチでき、その分、成長や学習につながる子もいるのは確か。
でも、いつかはその段階から飛びだす時期がくる。
そして、飛びだす先は、複雑で多種多様な刺激に溢れる自然な環境。
この自然の中にある常に動き、不規則で、変化に富んだ刺激が、発達に幅を持たせてくれる。
ヒトは、どんな環境にも、あとから対応して生きていけるように、胎児の状態で一年早く生まれてくる道を選択したのです。
どんな環境にも適応できるだけの余白、幅、柔軟性を持ったヒトが、統一された環境の中で生きる、それも発達目まぐるしい子ども時代を過ごすのは不自然なこと。
私は、発達障害の持つ限界よりも、ヒトの持つ可能性の方を信じます。
だからこそ、発達のヌケが埋まった人達に、「ここからは社会が、自然な環境が、あなたを育てます」と言っています。
そして、私の支援を受けるのを止めるよう提案しています。
必要のない支援、援助を利用し続けるのは不自然ですから。
私が学生の頃、どこの養護学校でもやっていましたね。
「Aくん、~はいけません」
「~しません」
「~します」
「~は、バッテンです」
「~は、マルです」
「~しません」と何度も言いながら、走り回る子どもを追いかけている姿は、学生だった私でも「こりゃあ、ダメやね」と思いましたよ。
耳ふさぎをしている子に向かって、「バッテン」「バッテン」を言い続け、挙句の果てには指で×を作って見せる。
福岡生まれの私は、「あの先生は、博多の出身かね」と言って、友人や親御さん達を笑わせていました。
これは統一した支援の勘違いですね。
統一するのは支援の方向性であって、声がけの仕方、何と言うかを同じにするという意味ではありません。
こういった誤った解釈が、関わる大人が全員同じ言葉を繰り返す、それ以外は言わないという異様な光景を生み、そのロボットのように同じ言葉を繰り返し続けるのが、子どもの口調に移っていく。
だから昔は、ロボットのような話し方をする子ども達が多かったですね。
今どきの子ども達の中には、そんな子は見かけませんが(私だけ?)、20代、30代の養護学校に支援や療育が入りこんできたときの世代の若者たちには、こういったロボットのような話し方をする人をよく見かけます。
このように支援を統一するのは、刺激を単調にするという弊害がありますね。
いっつも同じ言葉しか耳にしていなかったら、覚える言葉も、出てくる言葉も、同じになってしまいます。
だから、自然が一番なんです。
私は、発達援助において、「自然」を核にしています。
その子の持つ自然な流れ、家族が形成する自然な空気感、自然の中で自然な動き、遊びを楽しむ…。
ヒトが生きている限り発達するのは自然なことですし、長い長い人類の歴史を見れば、自然と共に発達、進化の道を歩んできたのがわかります。
「発達とは自然の営みであり、自然の中で育まれる」が、私のモットーです。
自然というのは、常に揺らぎがあります。
不規則であり、ひと時として同じ状態がありません。
一瞬たりとも同じがなく、常に揺らぎが存在するから、複雑が生まれる。
この複雑が発達に必要なのです。
複雑ということは、多種多様な刺激ということです。
多種多様な刺激は、ヒトをより良く発達させます。
複雑な刺激を受け、その刺激を基に発達していくから、ヒトは同じ動きではなく、ナチュラルな動きができるようになる。
自然な環境の中で育っていくから、自然な動き、思考ができるように育っていく。
これが管理された環境で、何の変化もなく、一定の刺激だけの中で育ったら、みんな、ロボットのようなヒトになってしまいます。
そうです、冒頭のロボット言葉を話す子ども達のように。
未発達の状態のため、周囲の情報、刺激の渦の中で混乱する人は、統制された環境が必要でしょう、今、生きるために。
しかし、育つ可能性のある人達、特に子ども達の場合には、刺激を統制し続けることは、自然な発達の機会を奪うことにもなります。
統一された支援が、統一された人間を造る、なんて恐ろしい事態を生みます。
「その子らしさ」「個性を大事にする」「多様性を大切に」などと言いながら、みんな同じスケジュールで、同じ支援の仕方で、同じ声がけ、なんてこともあるのです。
「個性豊かな子ども達に育てたい」と言いながら、「あの学校、事業所を利用している子はすぐにわかるね」というくらい、みんながみんな、統一された方向へ育っていく。
環境側をコントロールする必要があるのも、私は否定しません。
しかし、ある程度の発達段階にきたら、そこから飛びだす必要があると思います。
一番発達が遅れていた段階から利用していた事業所に、ずっとずっと通い続けている子どもがいます。
こういった子どもさんを見て、私は「発達が止まってしまったの」「本人ではなく、親のニーズ、そのままがラクだから通わせてるんじゃないの」と、率直に思います。
「ここの事業所の開設当時から利用しています」と自慢げに話をする人がいますが、同じ刺激の中で、お子さんの発達刺激は満たされているのか、「障害のある人もない人も同じ社会で」と言うのは、ただの理想なのか、とも思います。
同じ社会の中で生きていってほしいと願うのなら、ある程度発達した後は、自然な環境、社会の中で学んでいく必要があるのは当たり前です。
同じ支援、環境を使い続けるのなら、それは発達が止まってしまったか、諦めたか、本人以外の怠慢なのでしょう。
私は「ずっと利用するものではない」と言うので、児童デイや事業所から目の敵にされています(笑)。
「ここまで発達のヌケが埋まったら、一般的な習い事や公園で遊んだ方がこの先伸びます」「逆に利用し続けると、伸びないし、障害者っぽくなりますよ」とも言いますから。
でも、これが真実です。
子ども自ら「つまらない」「もう行きたくない」と言う子もいますし、表現しなかったとしても、刺激の物足りなさが伝わってくるのです。
あとは、「そこ以外の刺激を知らない」という子もいて、その子からは子どもらしい躍動感、生命力を感じない、なんてことも、悲しいけどあるのです。
子どもによっては、長い時間かけて療育機関に通うよりも、その同じ時間があるのなら、公園で思いっきり遊んだ方がより良い発達に繋がる、という子もいます。
療育機関は、刺激が統制されている場合が多い。
ある意味、不自然な環境なのです。
刺激を統制することで、情報がキャッチでき、その分、成長や学習につながる子もいるのは確か。
でも、いつかはその段階から飛びだす時期がくる。
そして、飛びだす先は、複雑で多種多様な刺激に溢れる自然な環境。
この自然の中にある常に動き、不規則で、変化に富んだ刺激が、発達に幅を持たせてくれる。
ヒトは、どんな環境にも、あとから対応して生きていけるように、胎児の状態で一年早く生まれてくる道を選択したのです。
どんな環境にも適応できるだけの余白、幅、柔軟性を持ったヒトが、統一された環境の中で生きる、それも発達目まぐるしい子ども時代を過ごすのは不自然なこと。
私は、発達障害の持つ限界よりも、ヒトの持つ可能性の方を信じます。
だからこそ、発達のヌケが埋まった人達に、「ここからは社会が、自然な環境が、あなたを育てます」と言っています。
そして、私の支援を受けるのを止めるよう提案しています。
必要のない支援、援助を利用し続けるのは不自然ですから。
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