2018年8月20日月曜日

「発達障害バブル」という嫌な言葉

支援が必要なら、堂々と支援を利用すれば良いと思います。
そして支援が必要ではなくなったら、返せばよいだけのこと。
もし、再び支援が必要になったときがきたら、また利用すれば良いと思います。
私も含め、民間のサービスは、必要なときに利用し、必要がなくなったら利用を止めるのが、普通のことです。


でも、お金の出所が自分の財布じゃなくなると、一度得たものを手放そうとしなくなるのはどうしてでしょうか。
いつも私は、私の事業を利用する必要がなくなったら、親御さんに「もう止め時ですよ」と言います。
中には、それでも利用を続けたいという人がいますが、その場合は「お金の無駄遣いになってもよろしいですか」と断りを入れます。
しかし、これ以上は言いません、個人のお金なので。


ですから公的なお金を扱う人たちは、私以上に慎重になる必要があると思います。
公的なお金は、自分のお金ではありませんので。
みんなのお金であり、別の言い方をすれば、今の子ども達が将来背負っていく借金でもあります。


支援者の間では、「発達障害バブル」と言われていたりします。
今は発達障害に対する社会的な注目、意識が高まっている時期なので、発達障害の診断がつけやすいし、いろんな申請も通りやすい、サービスも受けやすい、という意味です。
私はこの言葉が支援者の姿勢をよく表していると思いますし、私はこの言葉が大嫌いです。
発達障害の人達を飯のタネ、金の生る木のように見ている感じがよくわかるからです。


都市部では、だんだん蛇口が閉まってきているようですが、地方ではタイムラグがあるので、まだまだバブルの中。
診断も、申請も、希望通り、求めた通りに進むことが多いです。
しかし、平成のバブルがはじけたように、発達障害のバブルだって、必ず終わりがきます。
昨日のブログで紹介したように、少なく見積もっても、自閉症の人、一人が生涯支援を受け続けたら1億円くらいの税金が必要なのですから。
10人で10億円、100人で100億円、1000人で1000億…。


国も、地方も、「発達障害の診断を受けました。じゃあ、サービス提供してください」と言われて、「はい、わかりました」と言えない状況になってくるのは、容易に想像できます。
サービスの申請は通りにくくなるでしょうし、利用できても日数や金額は減る一方。
今、高齢者福祉の世界で起きているのと同じように、施設に入るには、福祉サービスを受けるにはお金が必要になり、富める者とそうではない者の差が開いてくる。
自宅で介護が大多数になり、サービスを受けられても週に1時間だけ、というような未来は、障害者福祉の世界も近い将来というか、今の子ども達が大人になる頃には必ず来ていると思います。


歴史を学ぶのは、暗記して受験で点数を取るためではなく、自らの人生、より良い社会のために活かすためです。
公共サービスは、最初にドバっと水を流し、魚を集める。
そしてある程度、数が集まったところから、水の量を減らしていく。
そうやって公は土台を作ったあと、民に切磋琢磨させるものです。
平成のバブルがはじけたように、発達障害バブルも必ずはじけますし、そのあとは自己責任の流れになっていきます。


「家事のできるひきこもりを目指そう」
「発達障害の人達は、生涯に渡って支援を受け続けるもの」
「この子達は充分頑張っているのですから、頑張るのは社会の方です」
など、無責任な発言をしている人達だって、あと10年、20年もすれば、現役を引退します。
こういった人達は、ちゃんとお金を貯め、老後は悠々自適に過ごしていくはずです。
何故なら、「じゃあ、先生は家事のできるひきこもりになりたいですか?生涯に渡って支援を受け続けたいですか?それが可能な社会がやってくると思いますか?」と尋ねられれば、「YES」と言わないからです。
どうして、自分がやれないこと、できないことを他人様に本気で勧めることができるのでしょうか。


「児童施設なのに、成人になっても利用し続ける人がいて、そのために、今サービスが必要な子どもが利用できない」なんて話は、あちこちで聞かれます。
他にも、利用できなくなるからといって、みんなでグルになり、行動障害があるようにしたり、重い判定がでるような工作をする人たちもいますし、利用に制限がかかりそうになると、役所に行って、脅迫まがいに怒鳴り散らしてくる、なんて話も珍しくありません。
私も嫌と言うほど、こういった自分のことしか考えられない人達、公的なものは貰えるもんはもらっておこうとする人達を見てきました。
そしてその陰には必ず「この子が利用できたら」「この家族が救われるのに」という人達の存在があるのです。


必要なときには、安心して支援を利用でき、必要がなくなったら、その分を誰かに渡す社会が理想だと思います。
頑張りたい人が、いつからでも、何度でも頑張れる社会が望ましいですし、健全だと考えています。
私のところには、成人した方達からも依頼や相談がきます。
私よりも、一回りも、二回りも年上の方からの依頼だってきます。
みなさん、いつからでも頑張りたい、治せるところから治していきたい、と思われている方達ばかりです。
何度でも起き上がり、挑戦し、頑張っていきたいという姿から、私は人生の先輩として刺激を受けるとともに、本来なら私のような民間ではなく、公的な機関で、こういった方達の想いを後押しできたら良いのに、と思うのです。


事業を開始してから利用された方の最年長は、50代の方。
短い間でしたが、いろいろとやりとりを行い、定職に就かれた方です。
もう何年も前ですし、連絡は取っていませんが、最後に「仕事が楽しい」「遅れてきた青春を楽しんでいる」と言っていました。
ちょっと話が逸れますが、発達のヌケが埋まったあと、若い頃にできなかった青春、楽しみをやりなおす人が少なくないように感じます。
若者のファッションを楽しんだり、アイドルや趣味を楽しんだり…。
青春のヌケも育てなおしているのかな、なんて思うこともあります。


結局、言いたいのは、支援が必要なら堂々と支援を使えばいい、ということ。
そこに後ろめたさや批判されているような雰囲気を感じるのなら、それはその人の問題。
社会や他人の問題にすり替えてはいけません。
後ろめたさは、本当は必要のないものであり、前向きに行動を表せない自分に気づいている証拠。
批判されているように感じるのなら、主体性が育っていない、他人軸、他人の評価で生きている、恐怖麻痺反射が残っている証拠。


社会は頑張るための支援、後押しをしようとしている。
そして側にいる人達は、発達障害の理解云々以前に、頑張る人が好きだし、応援したいと思っている。
それを政争の具にしてしまうのは、いつだって、それによって利益を得る者。
発達障害の生活、人生を政争の具にするのはナンセンスであり、そうさせてはならないのです。
みんなが見る先は、本人がより良い人生を歩むということ。
そのために支援する人、療育する人、指導する人、治す後押しをする人がいる、というシンプルな話だと私は思っています。
あるのは役割の違いだけ。


歴史に永遠はありません。
時代の変化に生き残れる者は、過去から学び、未来に活かせる人達。
発達のヌケを育てなおす、治しやすいところから治していくは、子ども達の10年後、20年後をより良く生きるための道なのです。

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