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井出草平氏の「アスペルガー症候群の難題」(光文社新書)を読んで

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業界内では、話題の著書 井出草平氏の「アスペルガー症候群の難題」(光文社新書) 私も発売日に購入し、一気に読んでしまいました。 なかなか発達障害と触法行為についての書籍や論文がありませんので、発売前から楽しみにしていました。 今までの書籍や論文とは異なり、事象だけではなく、日本の自閉症支援をリードしてきた専門家や機関がどのような言動を行ってきたのか、まで記されていました。 この本を読んだ率直な感想は、「こんなことまで書いて大丈夫かな」という思いでした。 その予想通りの結果となり、発売して間もないのですが、関係者たちから酷評されています。 私もいろいろな意見を見聞きしました。 普通の新書なら「嫌だったら読まなければいい」ということになると思うのですが、そうとも言えない事情があるようです。 確かに「発達障害=危険な人たち、犯罪者」というようなイメージが世の中に広まるのは避けなければならないと思います。 でも、だからといって、このような課題に取り組まなくて良いということにはなりません。 この著書に対する批判の中に「発達障害者が起こす犯罪数は、定型発達の人の起こす犯罪数よりも多いということはない」というような意見がありました。 しかし、そんなことはどうでも良いのではないかと思います。 定型発達の人の中にも犯罪を犯す人もいます。 だから、発達障害の人の中にも犯罪を犯す人がいるのは容易に想像できることです。 注目すべき点は、「発達障害を持った人が犯罪を犯してしまった」という事実ではないでしょうか。 注目すべき点は、「定型発達の人が犯した犯罪と、発達障害を持った人が犯した犯罪の"違い"」ではないでしょうか。 私が関わる自閉症の人たちの中にも、このままいったら犯罪を犯してしまうのではないか(もう起こしている!?)というような人もいるのが実際のところです。 いじめや周囲の無理解といったネガティブな経験が誤った行動と結びつくといった後天的な要因もあります。 でも、それだけでは説明できない事例もあり、やっぱり自閉症の特性、具体的に言えば、"想像性の違い"という中核的な特性と関係していると感じることもあります。 詳しく書けませんが、「他者からどう見られるか」「自分の言動がどのような影響があるか」など、想像

受容から一歩前へ

「この子たちは、生きているだけで素晴らしいんですよ!」 「この子たちは、十分頑張っています。変わるのは社会の方なんです!」 などと、有名な先生は仰っていた。 確かに、この世に生まれてきた人は、すべて意味があって生まれてきたと思っている。 生きていることは素晴らしい。 でも、だからと言って、その人自身は成長しなくても良いのだろうか。 でも、だからと言って、社会だけが変われば良いのだろうか。 障害を持って生まれてきたことが分かったとき、親御さんの気持ちは絶望、不安、ショックなどという言葉で表せないと思う。 そんなとき、親御さんの心に寄り添うことは支援者として唯一できること。 冒頭の言葉は、受容できる前の親御さんへのメッセージ。 でも、いつまでも温かいメッセージを受け取り続けるわけにはいかない。 子ども自身は、日々、大人へと向かい歩み始めている。 私たちが生きる社会は、夢の国ではなく、現実の社会。 厳しい社会の中で生き、充実した人生を送るためにも成長が必要だし、子ども達自身もそれを望んでいる。 それに合わせて親御さんも足を前に進めていかなければならない。 敢えて耳触りの悪いことを言うのも支援者の役目。 過去に、そして今も、親御さんたちを夢の国に連れていこうとする支援者の功罪は軽くない。 私は夢の中ではなく、現実に生きる支援者でい続けよう。

周りをコントロールすることは難しい

先日のセッションでの話。 トイレで手を洗っていたら、トイレに入ってきた同級生に「お前は手を洗っていない」と言われたとのこと。 そのとき、腹が立ち、相手に言い返そうとしたが、我慢した。 でも、その日は一日気持ちが収まらず、ずっと部屋にこもっていたということでした。 よく話を聞くと、同級生の態度や言い方に腹が立ったわけではなく、自分は手を洗っているのにその事実と異なることを言われたことに腹が立ったそうです。 (ここは定型発達の人と注目するポイントが異なると感じました) どうしてそのようなことを同級生が言ったのか、まではわかりませんでした。 もしかしたら、相手はからかって言ったのかもしれまんし、手の洗い方が不十分だったかもしれませんし、過去に手を洗っていなかったことを指摘したのかもしれませんし、見間違いの誤解かもしれません。 こういった場合、同級生に本人の特性などを伝え、接し方の留意点を伝えるという支援方法もあります。 でも、私はこの支援方法は選択しませんでした。 理由は、周りをコントロールすることには限界があるからです。 たとえコントロールできたとしても、最後には必ず行き詰まってしまう。 限られた世界で、限られた人間としか接しないのなら、もしかしたら周囲の環境をコントロールできるかもしれません。 でも、それができたとしても、不測の事態はどうしても起きますので、完全にコントロールすることは無理でしょう。 一般的な生活を送っていれば、自分が嫌だと思う出来事も、人も、避けることはできません。 ですから、私は周りをコントロールする支援方法に懐疑的な立場です。 では、実際にどのようなセッションを行ったというと、本人と一緒にその出来事を振り返り、対応の仕方と考え方の勉強をしました。 言い返そうとしたが、自制できたことは良かったこと もし言い返したら、さらなるトラブルが考えられること 腹が立ったという高まった気持ちを静める方法 世の中には、事実以外を言う人もいること などを一緒に学びました。 「我慢して言い返さなかったことは、大人の対応だったと思うよ」と伝えると、「そうですか」と言い、表情が穏やかになっていました。 周囲をコントロールしようとしても限界があります。 また原因を外に求めるため、"本人の成長"

問題なのは"対応の仕方"ではなくて"教育の質"!

学校や支援機関などで繰り返される誤った解釈による責任のなすり合い。 「〇〇さんの対応の仕方がよくない」 「〇〇さんのときだけ、子どもが問題行動を起こす」 「新人や実習生、見学者が入ると子ども達は落ち着かないよね」 このような会話を耳にするたびに思うことがある。 それは、問題なのは支援者の対応の仕方ではなく、"支援者の教育の質"ということ。 支援者の対応に左右されるということは、自分の中に正しい行動規範を持てていないということであり、そのような状態の人に育ててしまっている教育の至らなさの方が問題である。 そもそも支援者は一人ひとり経験も、専門性も、センスも異なるのだから、全員が同じ対応ができるわけはない。 また特定の集団の中だけ統一した対応ができたとしても、世の中に出たら障害特性について理解し、正しい対応ができる人はほとんどいない。 だからこそ、周囲からどのような対応をされようとも、適切な行動がとれるように教育をしていく必要がある。 適切な判断基準を自分の中に築き上げていくことが教育に求められること。 厳しいことを言うようだが、ちょっとやそっと変な対応をされたからといって、行動がゆがんだり、混乱しているようではいけない。 自己の中に正しい価値判断を確立できている人は、たとえ障害を持っていたとしても社会の中でたくましく生きている。 子ども達の中にも、周囲からどんな対応をされようとも、実習生や見学者が来ようとも、まったく動じず望ましい言動ができる子たちはたくさんいる。 将来、社会に出たときに生き抜いていけるように導くことが教育の目的だろう。 だから今すぐくだらない責任のなすり合いは止め、今までの自分たちの教育を反省し、未来に向かって改善しなければならないと思う。 正しい価値基準を他者ではなく、自分の中に!

「協力」と聞いたら、役割分担を始めます

この前、「ああ、自閉症の人らしい捉え方だな」と思ったことがありました。 それは、ある講義で「協力して課題を完成させなさい」と先生より指示を受けた場面でした。 定型発達の人たちのチームは、お互い意見を出し合ったりしながら、内容や方法、主張などを変化させ、1つの課題を完成させていました。 しかし、自閉症の人のチームは、最初にそれぞれの役割分担を行い、それぞれで課題を行い、最後に1つにまとめて課題を完成させていました。 結果から言えば、どちらのチームも"協力して課題を完成させた"ことにはなりますが、自閉症の人のチームは"協力する"という意味に気が付いていないようでした。 協力するということは、一人で行うよりも様々なアイディアが出やすく、より高い質と効率性が得られます。 また協力することによって、チーム内の人と人との交流が増え、団結心や友情、達成感の共有などを育み、より良い人間関係を築くといった側面もあります。 しかし、効率性以外は目に見ることができません。 自閉症の人の目を通すと、協力するということは「役割分担する」というようにしか見えないのだと思います。 確かに、他のチームの様子から見える部分は役割分担している姿だけです。 誰も「協力するっていうことは、お互いの意見を調整して、より良いものを完成させることだよね」とか、「協力すると、団結心が育まれるよね」とは言っていませんでした。 「協力して課題を行うと、このような意味や効果があるんだよ」と自閉症の人のチームのメンバーに伝えると、皆さん一様に驚いた表情をし、「そんな意味があるんですね!」と言っていました。 幼いときから遊びや学校生活を通して経験してきた"協力する"でしたが、見えない意味や効果を教えてくれる人はいなかったそうです。 定型発達の人たちが経験を通して自然に気が付く点も、自閉症の人には気が付かないということがわかる場面でした。

どんな職場を選べばいいの?

一般就労を目指す方から「どんな会社が良いですか?」と尋ねられることがあります。 大前提は、「その仕事を行うだけの能力が本人にあること」だと思います。 そして、「その仕事自体に本人の興味関心があることがあるか」という点だと思います。 この2点は、働く側で確認しておくポイントだと考えています。 では、会社側の確認ポイントと言われたら、私なりにいくつかあります。 例えば、その会社の離職率です。 年がら年中、「職員募集」となっているところは危険です。 それだけ職員が辞めてしまうということは、仕事自体が大変か、働きやすい職場ではないことが想像できます。 そうなると、そこで働いている職員は余裕がないことが多く、また多くのストレスを抱えていると考えられます。 もし、そのようなところで自閉症の人が働こうとすれば、丁寧に教えてくれなかったり、最悪の場合にはストレスのはけ口になってしまう危険性があります。 例え事業拡大による人材不足の「職員募集」であったとしても、事業が拡大とするということは場所や人、システムの変化が多く、落ち着きのない職場になりがちなので、どっちにしろお勧めはしていません。 あとは経営システムです。 全国的な会社なら障害者雇用に関するシステムが整っている可能性が高いので良い反面、融通が利きづらいということがあります。 その支店の店長に決定権がない場合が多く、採用や待遇面で柔軟的な対応ができないことがあります。 その分、地元の小さな会社なら融通を利かせてもらいやすいですが、障害を持った人に対するノウハウはあまり期待できません。 この他にも、社員とアルバイトの比率、社員の人数、経営状況、社外活動の有無、そして1番大事なことが「過去に障害を持った人を雇ったことがあるか」という点です。 雇ったことのある人は、どのような障害を持っていたのか? その人はどのくらい働いているのか? いつから障害を持った人を雇い始めたのか? 障害を持った人の離職率は? などの点を確認することも仕事に就いたときのことを想像するのに参考になると思います。 よく「障害を持った人が働きやすい職場はどこですか?」と質問を受けますが、はっきり言えば、福祉的な職場を除いたら、全国を探してもほとんど見つからないのが現状だと思います。 最初から障害者雇用に意識の高い

正しいときこそ、"正しい"という評価を伝えよう!

昨日は"褒めること"について文章を書きました。 でも、私が言う"褒める"は一般的な意味よりも、「"正しい"という評価を伝える」という意味の方が強くあります。 自閉症の人は、自分自身のことを客観的に見ることが苦手です。 また周囲からどう思われているかを想像することも苦手です。 そうなると、自分自身が行った言動に対する評価が良く分からないことがあります。 失敗したときは、自分が失敗したことに気が付きやすいと思います。 何故なら、"失敗"というのはできないことを指すことが多く、自分の目で見てできなかった状態というのはわかります。 また対人面での失敗なら、相手から叱責されるといったようなネガティブなリアクションがあるからわかります。 でも、正しいことをしたときというのは、その言動自体が正しかったということを自分自身で気が付くことは難しいといえます。 例えば、TPOに合った服装を選んだり、きちんとお礼が言えたりしても、自分自身で正しいかどうかを見て分かりませんし、一般常識からいって当たり前のことに対しては、誰も褒めてはくれません。 ですから、失敗したときに比べて、正しいことをしたときはそのことに気が付きづらいといえます。 よって、自閉症の人は自分が行っている正しいことには気づかずに、失敗したことばかり気が付いてしまうため、自己評価が低くなってしまうことが多々あります。 このような理由から、私は自閉症の人が正しいことや望ましいことをしたときには、そのことを伝えるようにしています。 そうすることにより、自閉症の人が「自分のやっている行動は良いんだ」と気が付いてもらえるからです。 自分の言動が正しいことが分かれば、「その言動をまたやってみよう」という自信や動機づけにつながると考えています。 ただ闇雲に褒めているわけでありませんし、褒めるということ自体にモチベーションを上げるという効果が強くあるとは思っていません。 「その習慣は良いと思うよ」「その考え方は素晴らしいね」など、「私はあなたの考え方(行動)を指示します」というメッセージはきちんと伝えようと心掛けているだけです。 あくまで本人の気づきのための"褒める"ということです。

「自閉症の人を褒めましょう」というトレーニングは受けていません(笑)

自閉症の人からは 「大久保さん、本当に僕(私)のことをよく褒めてくれますよね」 親御さんや支援者からは 「この子の良いところを見つけることが上手ですよね」 などと言われます。 「どうしてそのような見方ができるの?」 「特別なトレーニングを受けているの?」 「強調して褒めることが〇〇という療育なの?」 などと質問されることもあります。 どうしてその人の良い点が見つけられるかといったら、幅広い年齢、特徴の自閉症の人たちと出会ってきたからだと思います。 どうして褒められたことが相手の印象に残るかといったら、具体的に褒めているからだと思います。 褒め方も自閉症の人への伝え方なので、この伝え方に関しては専門的なトレーニングを受けた成果だと思います。 しかし、「自閉症の人に対しては意識して褒めましょう」などという指導は受けたことはありません。 ただノースカロライナに行ったとき、支援者たちがよく自閉症の人たちの素晴らしい点を本人たちに伝えている姿を目にしました。 私が自閉症の人たちに対して良い点を伝えるのは、自閉症の人たちの視点や能力は素晴らしいと心から思っているからです。 決して「自閉症の人たちは障害があって可愛そうな人たち」だとは思っていません。 ですから、私が称賛しているときは、本当に素晴らしいと感じているときです。 今まで無意識にやっていたことなので、改めて振り返ってみると、このようなことが背景にあるのかな、と思いました。 過去に「褒めましょう」などというトレーニングは受けたことがありませんでした(笑) 自閉症だから褒めるのではなく、素晴らしいと感じたから相手にその気持ちを伝え、改めた方がよいと思ったからその点を伝えているだけです。 自閉症の人たちに称賛する気持ちが伝わったときは、私自身も嬉しく思っています。

褒められると戸惑ってしまう

困ったことや失敗したときの表情やしぐさはできる。 でも、褒められたり、ポジティブな感想を言われたりすると、無表情になったり、戸惑った表情をする、といった自閉症の人に多く出会います。 不安や緊張は本能に近い感情ですので、学習しなくても自然とそのような表情ができるのだと思います。 でも、褒められることなど相手から称賛されることは社会性を持つ動物間にのみ見られるので、どのような表情や行動をとったら良いか、学習していく必要があるのだと思います。 ですから、相手から称賛されるときの適切な反応の仕方を学んでいない人は、どう反応したら良いか分からず、無表情になったり、戸惑ったりするのだと思います。 このような未学習という要素以外に、こんなことを言う自閉症の人もいます。 「今まで褒められたことがなかった」と。 人生でまったく褒められたことのない人はいないでしょう。 ただ"褒める"という行為自体、抽象的なので本人に褒められていることが伝わっていないことが多いのだと思います。 また自分自身の立ち位置や状況を自分自身で把握することが難しいため、どうしても他者と比べて自分はどうなのか、と見てしまう。 そうすると、他人と比べてできないところばかり意識してしまい、褒められたことよりも、ネガティブな記憶ばかりが強くなってしまうのかもしれません。 相手から褒められたときのリアクションの仕方を学ぶこと。 褒めるときは具体的にどんなことに対して称賛しているのかを伝えること。 この2点の必要性を感じます。

美味しいご飯の喫茶店に入ったら、そこに障害を持った人が働いていた

地域に"障害"を前面に出したお店がたくさん(ほとんど?)ある。 中には看板に"障害"という文字を入れているところまである。 "障害"を前面に出し、大きくPRする意図はなんだろうか? "障害"を前面に出すことで、そのことを知らないで入ってくるお客さんを減らし、誤解から生まれるトラブルを減らそうとしているのだろうか。 それとも、「"障害"を持っているけれど、頑張ってます。是非、買いに来てね」と言っているのだろうか。 商売を行うということはお客さんからお金を貰うことであり、対価に見合うサービスを提供する必要がある。 「"障害"があるから対価に見合うサービスは提供できないけれど、勘弁してね」というのでは、お客さんは納得しない。 第一、"障害"が全面に出たお店を目にしたとき、一般のお客さんはどのように感じるのだろうか。 結果的に、"障害"を持った子どもの家族や、学校や福祉施設の支援者ばかりがお客さんになってしまうのではないだろうか。 これは本当に当事者の方たちにとって幸せな就労の形だといえるのか。 障害を持った方たちのコミニティーとして存在しているお店があっても良いと思う。 でも、中には"障害"を前面に出したお店で働きたくない、という当事者の方もいる。 「障害のない人と一緒に働きたい」と思う、また働ける能力を持った方たちも、この地域にはたくさんいる。 そういった方たちのためにも、敢えて一般の人たちとの間に境目を作るようなことは減らしていってほしいと願っている。 私の理想は、美味しいご飯の喫茶店に入ったら、そこに障害を持った人が働いていた、というようなお店がこの地域に増えること。 やっぱりお客さんはたくさん来てほしいし、対価に見合ったサービスを提供できることは働くことの喜びにつながると思う。

程よい距離感を持った支援者

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支援や療育で関わらせてもらっている親御さんたちから「この子が大人になっても一生、力になってくださいね」と言ってもらえることがあります。 『てらっこ塾』は大きな組織や行政の機関ではないので、大久保という個人を信頼してくれていただけていると感じます。 このような言葉は本当に励みになります。 民間で自閉症支援を行わせてもらっている強みとして、長期にわたって同じ支援者が関わることができるという点が挙げられます。 ですから、この地域にいる限り、彼らの生活が豊かになるような実践を行っていきたいと思います。 ただ関わり方自体は、年齢や本人の状態に合わせて変化していかなければならないと思っています。 ときに、支援者は本人の成長の妨げになることもあると考えています。 同じ支援者が長期にわたって支援していると、依存関係になりやすいと感じています。 それは本人ももちろんですが、親御さんも「〇〇さんに任せておけば良い」という気持ちになりやすくなります。 支援者と依存関係になると、敢えて難しいことや苦手なことに挑戦しようという意識が薄くなったり、狭い視点で支援が展開されたりする危険性が出てきます。 長い目で見て、私は敢えて手を貸さないことも、本人の成長にとっては大切だと考えています。 自閉症という障害を持っているかもしれませんが、その人の人生はその人のものです。 良いことや悪いことも含めて本人の人生です。 自分の人生を主体的に歩めるようになるまでは積極的に関わっていきます。 でも、ゆっくりかもしれませんが、本人の足で自分の人生を歩み始めた人に対しては、徐々に距離を離れていき、本人が困ったときに、そっと駆けつけられるような程よい距離感を持った支援者になっていきたいと思っています。 紅葉し始めた大沼からの景色

自閉症の人たちと食事をすると

「職場の同僚から食事に誘われて行くんだけれど、ご飯食べたらすぐに帰ってくるんですよ~」 と、ある親御さんは息子さんのことを言っていました。 私も自閉症の人たちと食事をする機会が多くありますが、同じような様子はよく見られます。 食事が運ばれてくるまでは話をしたりしますが、ごはんが目の前に来たとたん、そちらの方に意識が切り替わります。 定型発達の人だったら、他者と一緒に食事をしていると、食べながら話をしたり、相手の食べるペースを意識したりしますが、そのような様子はほとんど見られません。 自閉症の人は一点に意識を集中させる傾向がありますので、食べるんだったら食べる、話をするなら話をする、というように態度がはっきりしています。 私はこのような自閉症の人たちの好みがわかりますので、黙々と食事をしていることが気になりませんし、話がしたいときは食事が運ばれてくる前か、食べ終わったあとにお話をするようにしています。 ただ注意しなければならないのは、食事が運ばれてくる前は良いのですが、食べ終わったあと、すぐに帰ろうとすることです。 食事が終わったのだから目的は達成されています。 食事が終わったら、席を立つのが当然だと思いがちなのが自閉症の人です。 ですから、お話がしたいときは、「食事が終わったら、〇分くらいお話がしたい」と、事前に伝えるようにしています。 このように事前に伝えられれば、相手の気持ちに気が付き、一緒に会話を楽しむことができますので。 この文章の最初に示した親御さんのエピソードの彼は、同僚からの食事の誘いを字義通りに受け取っているかもしれません。 食事の誘いは、食べることがメインのように表現されていますが、本来は「一緒に話をしようよ」という意味合いが強いといえます。 「本人はそのことに気が付いていないかもしれませんね」とお話しさせていただきました。

未来を創造する大学!

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大学の中にカウンセラーだけでなく、自閉症の専門家を入れるということは、すごいことだと思いませんか! このお話をいただいたとき、自閉症の人たちが安心して学べる環境づくり、システム作りの大きな一歩になると確信しました! 以前に 「東京大学に自閉症の専門家を!」 でも書いたのですが、絶対これから必要になってくることだと思いますし、近い将来当たり前の姿になると思います。 昔と違い自閉症と診断を受けて、大学に進学する人が多くなりました。 自閉症の発症率も増加しています。 各大学や専門学校で自閉症の学生に対応した環境を提供することは、これからやらざるを得ない時代にますますなってくると思います。 少子化で、どんどん大学がつぶれる時代です。 ですから、特色のある大学づくりの1つに「自閉症の人に安心して学んでもらえる大学です」というのも当然入ってくるでしょう。 大学になると、高校時代までとは異なり、自分で学びを組み立てたり、チームで学びを進める機会が多くなります。 ディスカッション形式の講義も増えています。 また大学以外でも、親元を離れて暮らし始めたり、アルバイトなどを行ったりすることもあるでしょう。 だからこそ、大学でも、大学生活でも、自閉症を専門にしたサポートが必要なのです。 大学と自閉症の専門家のコラボレーション。 まだまだ全国的には珍しい取り組みをこの函館から、そして自分が携われることに興奮しています。 このような柔軟で、時代の先を読む大学と出会えたことに心から感謝し、まさに未来を作る若者のために頑張っていきたいと思っています! 常に時代の先を見て、若者たちを育てる大学

自閉症のポジティブな情報の数を増やしていこう!

自分が「自閉症じゃないかな」と感じている人や、自閉症と診断された人が、インターネットや本などで自閉症について調べたことがある、という話は良く聞きます。 こういう話を聞くたびに思うのですが、とても危険なことだな、と思います。 特にインターネットで「自閉症」を検索すると、圧倒的にポジティブな情報よりも、ネガティブな情報が出てきます。 自閉症の人が苦労している話や「こんなことが苦手です」といった内容、自閉症者に対して中傷する内容も多く出てきます。 定型発達の人の場合、インターネットに書かれている内容はすべての事実を表していないことや、極端に強調されて表現されていること、ネガティブな情報ばかりだがポジティブな情報も実は書かれていないだけで存在していることを想像することが自然にできます。 しかし、自閉症の人の場合、書かれている内容以外を想像することが苦手であったり、視覚的情報に強く反応する傾向があるため、書かれている文字が強烈に脳にインプットされることがあります。 また単純に目の前に現れる分量で比較して「ポジティブな情報よりも、ネガティブな情報の分量が多いのだから、自閉症とはネガティブなものだ」と捉えてしまうこともあります。 ですから、実際にお会いする自閉症の人の中で、ネットなどの情報から判断し、「自閉症はネガティブなもの」と思っている人が多くいます。 自閉症の特性として、いろいろなことがありますが、その特性は長所と短所が表裏一体になっているといえます。 決められたパターンを好むという特性は、良い面で言えば、きちんと物事を行うことができるということであり、悪い面で言えば、融通が利かないということになります。 私が日々、自閉症の方たちと接する中で大事にしていることは、自閉症のポジティブな情報を彼らに伝えることです。 ネガティブな情報は、嫌と言うほど目にし、経験している方たちです。 ですから、本人たちの持っている自閉症情報の中で、ネガティブな情報の量よりも、ポジティブな情報の量が増えるように、と心がけています。 よく自閉症のポジティブな部分を伝えると驚く当事者の方がいます。 それだけ自閉症のポジティブな情報は少なく、本人たちも気が付いていないといえるのだと思います。

久しぶりに出会った「自閉傾向」の人

自閉傾向って何だろう?? 学生時代、とても疑問に思ったことです。 自閉症の診断基準が決められて存在しているのですから、自閉症か、自閉症ではないか、しかないのでは、と当時、私は思っていました。 まあ、10年以上前のことですから、まだまだ診断できる医師も少なく仕方ないのでしょう。 時が過ぎ、最近、久しぶりに「自閉傾向」と診断された方にお会いしました。 未だに「自閉傾向」などと診断する医師がいるのか、と驚いてしまいました。 その方に「自閉傾向ってどういうことだろうね?」と尋ねると、「ちょっと状態が悪くなると、自閉症になるということですかね」と言っていました。 「自閉傾向」という診断名の功罪は小さくないと思います。 診断された本人や親御さんとしたら、「状態が良くなれば、自閉症ではなくなる」「ちょっと自閉症の特徴があるだけ」などと考えることもあります。 また"傾向"という曖昧さに、「自分(我が子)って何だろう」と、不安に感じることもあります。 結果として、自閉症の特性の部分へのアプローチが遅くなるということが見られます。 診断する方からしたら、本人や親御さんの気持ちに配慮しているのかも知れません。 でも、結果的に本人やその家族をより不安に感じさせたり、適切な支援が受けられなくなったりすることにつながります。 自閉症の診断は専門的な知識とトレーニングが必要ですので、もしかしたら「自閉症」と確定するのには自信が無いのかもしれません。 だったら、自閉症の専門の医師を紹介したり、「自分には難しい」と言ってほしいと思います。 「自閉傾向」と診断された方の多くは、告知のときに、きちんと自閉症について説明されていません。 それはそうだと思います。 診断する側がきちんと自閉症であると捉えられていないのですから。 今は1,2歳から診断できる時代です。 適切な自閉症の部分へのアプローチを開始するためにも、きちんと診断が受けられるようになってほしいと思う最近の出会いでした。

2014年後半戦突入!

10月に入り、2014年度も後半に突入しました! 9月に大学と業務提携という契約を交わし、下旬より大学の中に入り、支援を行わせていただいています。 まだ携わって日が浅いですが、発達障害を持った学生が少なくない印象を受けました。 発達障害の学生は、学力はあるものの、チームで活動を行ったり、自分で計画を立てて講義や論文を作成したりしなければならないことに苦労している場合が多くあります。 高校までの学校生活とは大きく異なる大学生活を安心して学ぶことができ、社会へ飛びだってもらえるように応援していきたいと思います。 全国的に見ても、カウンセラーではなく、発達障害専門のスタッフを中に入れることは珍しいことだと思いますので、是非、大学の職員の方たちにも「大久保を入れてよかった」と思っていただけるように頑張っていきます! 全国の大学に、発達障害専門スタッフが入る日が来るまで☆