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【No.1385】だから「治った」ではなく「育った」

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繰り返しになりますが、耳タコの人もいるかもしれませんが、言わなきゃいけないことがある。 私が発達相談で関わったご家族、そしてかつての発達の課題がクリアされ、今は同世代の子と同じように生活できてる子ども達のほとんどは、「治ったんじゃなくて、育った」ということを。 今こうしている間にも、同じ日本の中で「発達障害です」「自閉症です」「ADHDです」と告げられる子がいます。 子ども自体の人数は減っているのにもかかわらず、そういった診断名がつく子は増加の一途。 ですから、どんどん親御さん達も、このハッタツの世界に入ってきています。 「治る」というと、それだけで「なわけはない」と反応してしまうのも理解できます。 それだけ「障害」という文字が与えるインパクトが強いのでしょう。 ほとんどの親御さんは我が子の発達の遅れに気が付いてはじめて「障害」という言葉と真剣に向き合う。 だから、「障害」という言葉を聞いてすぐに思い浮かべるのは、子ども時代に見た身体”障害”の人であり、知的”障害”のある大人の姿。 そこから連想するので、「治る」は現実離れした話のように感じるのも無理はありませんね。 私はというと、実際に関わる子ども達、ご家族に対して「治る」「治った」という言葉は使いません。 なぜなら、ほとんどの子ども達が「治った」のではなく、「育った」だから。 「発達年齢で2歳以上の開きがある」 「知的障害でいえば重度」 「生涯、発語はないでしょう」 「行動障害があって、このままでは強度行動障害にまで至る」 そんな風に告げられた子ども達が、数年経って普通級で学んだり、受験したり、就職&自立したりしている。 当時の絶望的な告知や状態からの変わりようから見れば、それは奇跡に思えるし、まさに「治ったでしょ!」と叫びたくなるのは当然。 でも冷静にならなくてはいけません。 奇跡の物語、親子の感動的てな物語にしてはいけないのです。 少なからず私のような支援者の立場にいる者は。 そもそも同世代の人と同じように成長や生活できる子どもに対して、親子に対して絶望的な未来を、そして今後発達成長していく可能性を否定したのです。 そのとき、「子どもの発達は多様で、子どもの時の診断名なんかあてになりませんよ」「同じような幼少期だった子も、大人になって就職していますよ」と当たり前の話をすれば、幼い子と親になったばかりの家族が奈

【No.1384】育っている証

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「なにをしたらよいか、わからない」 この悩み、相談は開業当初から続くものです。 なので、新しいアプローチや療法が登場すると、ワーッと親御さん達が集まるのは理解できます。 「普通の子育てはムリです」 そんな風に言われれば、途方に暮れてしまうのは当然でしょう。 自分が受けてきた子育て、同年齢の子が受ける養育じゃダメ。 「だったら、なにをすればいいんじゃ」となりますね。 かつてTEACCHやABA、SSTや感覚統合などがウケたのも、マニュアル化された療法で、なにをやったらよいか具体的だったからだと考えています。 だって、結果が伴っていないのに続いていたから。 幼少期からTEACCHをやろうが、ABAをやろうが、結局、行きつく先は福祉施設。 学校が提示してくる進路も、支援付きの就労か、障害者枠での雇用。 私には「自立」よりも、「やっていること」自体が目的になっていたように見えました。 「できることはなんでもしたい」というのは純粋な親心だと思います。 しかし「なにをするか」が重要であって、発達障害に良いといわれることを「なんでもする」は違うのです。 同じように発達が遅れていたとしても、個人によってその背景や原因は異なります。 というか、そもそも「発達障害」や「自閉症」などが幻想であり、統一された状態などないのです。 目の前の子の個人を見ず、どこのだれかに効果があったといわれる方法を行う。 ある子には改善につながったけれども、別の子ではネガティブな結果につながった、なんてことは当たり前にありますよね。 正直、「できることをなんでもおこなった」結果、却って治るから遠ざかっていた家庭も多く見てきました。 その理由は単純で、子育ては引き算だから。 とくにヒトとして生きる土台となる動物の部分を育てる時期(0~5歳前後)は足すことよりも、引くことが重要。 生まれ出た環境、自然に必死に適応するために身体、神経、感覚を育てているのですから、人為的、人工的な刺激は邪魔なのです。 ナントカ療法、アプローチを「しよう」とした時点で人為的であり、それ自体が人間が考えた人工物ですね。 日々の生活の中で、子ども達は遊びや運動を通して、「いま、こんな刺激がほしい」「いま、こんなところを育てたい」というメッセージを発しています。 そのメッセージが受け取れるかどうかが大事なのです。 我が子が何を育てたいかが分

【No.1383】発達に遅れがあるから「普通の子育てはできない」という誤解、言い訳

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児発や児童デイのスタッフさん、学校の先生、保育士さんなどから相談を受けると、「同じ方向で支援できない問題」がよく挙がります。 確かに福祉や教育の分野はいまだに「治すよりも、支援」「自分で行動よりも、支援を受けやすい子に」で進んでいますね。 だからそういった組織にいる「治そう!育てよう!」という志と行動力のある支援者さんが私を呼んでくれて、「さあ、この思想をぶっ壊してください」というわけです(笑) 他人の考えを変えるのは難しい。 ましてや、長年、そこに勤務しているベテラン職員となると、なおのこと、難しいというか、不可能。 だいたいどこにでもいるでしょ、「その人しか支援できない状態」にしちゃっていることって。 この支援者、先生が勤務しているときは落ち着いているけれども、別の人がくると乱れる子どもさん。 これって見方によっては「支援がうまい」「長年の信頼関係」などと言われるけれども、そうじゃない。 結局、支援者側の愛着障害に起因する共依存関係ってこと。 生涯、この支援者がそばにいてくれるなら良いかもしれませんが、卒業とともにポイっと捨てられる関係性。 学校を卒業したあとの親御さん達はこんなことを言います。 「ああ、学校にいる間は落ち着いていたのに」 「ああ、児童デイに通っている間はこんな問題はなかったのに」 これも一言でいえば、親御さんも”依存”していたという証拠。 学校や児童デイに任せっぱなしだったから、卒業後、乱れているのです。 だって、自身をコントロール術を、自立して生活していけるスキルを身に付けられなかった、18年間という子育ての中で教えられなかったってことだから。 学校や児童デイ、支援者、学校の先生がそれらを教えきることができるって!? それは学校や福祉、専門家、教員、支援者に期待しすぎだし、表面上期待しているふりをして(深層心理では)責任転嫁の自己防衛ってとこでしょ。 志ある支援者さん、学校の先生や保育士さんにはこんなことをお話しています。 もし本気で「治そう!育てよう!」と考えているのなら、「仕組みを作りましょう」と。 そこに通ってくる子ども達が勝手に育っていくような、自身で育っていけるような仕組みを作るのです。 組織のメンバーを変えようとしても難しいし、時間もかかる。 逆に「自分一人だけでも」と頑張れば、その人が勤務しているときだけ、になる。 「〇〇さん、