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9月, 2014の投稿を表示しています

季節の変わり目が苦手

「季節の変わり目が苦手」という自閉症の人は少なくないと思います。 変化が苦手な人は、衣類や使用する物が変わることに不快感を持つ人もいます。 また感覚の違いを持っている人の中には、定型発達の人が気がつかないような光や湿度、においなどの気候の微妙な変化に気づき、不快感を持つ人もいます。 てらっこ塾を利用してくれる人の中にも、先月あたりから心身の不調を訴える人がみられるようになりました。 過去に関わっていた人の中にも、季節の変わり目が苦手で不調に陥る人もいました。 関わりのある自閉症の人を数年単位で見ていくと、同じような時期に、同じような不調を訴える傾向があるように感じました。 「年度の変わり目や行事の前後など、イベントの前後に不調になるな」 「やっぱり夏から秋に変わる時期に調子が悪くなる」 など、感覚的に気が付いている本人や周りの人もいます。 年間のバイオリズムを記録することは、有効な工夫の一つだと思います。 年間の心身の状態を把握することができれば、不調になる前に対策、準備をとることができます。 勉強や仕事のペースを緩めたり、引っ越しなどの予定を別の時期にずらすことができます。 また支援者としても、心身の不調になったからといって慌てて対応する必要はなく、どのくらいに調子が戻るかが予測でき、落ち着いて支援に臨むことができます。 支援方法自体に問題があれば、すぐに変える必要がありますが、もし年間のバイオリズムから見て不調になる時期でしたら、問題のなかった支援方法を変えることで、さらに不調にさせてしまう危険性があります。 そのときの心身の状態を把握することは大切ですが、年間を通した心身の変化を把握しておくことも同じように大事だと思います。

良い支援者は自分の役割を認識している

自閉症支援を実践する力があるからといって、他者に説明することがうまいとも限らない。 反対に、他者に説明することがうまいからといって、良い実践ができるとも限らない。 自閉症に関する知識をたくさん持っているからといって、実践がうまいとも限らない。 反対に、実践がうまいからといって、自閉症に関する知識をたくさん持っているとも限らない。 いろいろな支援者とお会いしたり、一緒に仕事をしたりしますが、「実践する力」と「他者に説明する力」はイコールではないと感じています。 実践する力と、説明する力は別々のスキルで異なっている。 ですから、両方のスキルアップには、それぞれトレーニングが必要なのだと思います。 また、同じように自閉症に関する知識や経験値イコール実践力にもならないと思います。 支援者の役割は、それぞれの仕事で異なっています。 啓発することが役割であったり、他者にわかりやすく説明することが役割であったり。 支援者を育てることが役割の仕事もあれば、支援者同士が円滑に支援できるようにコーディネートする役割の仕事もあります。 それぞれの仕事には、それぞれの役割があるので、その人が「どんな力を持っていて、どんなことができるか」ということよりも、役割に応じた行動とそれを担える適当な人を充てることが大切だと日々、感じています。 この前提が崩れてしまうと、より良い支援を行うために存在する支援者が支援の足を引っ張ってしまうということも起きてしまいます。 私の仕事の役割の1番は、より良い実践をすることです。 そして、その実践を本人や親御さんに分かりやすく説明することが、自分に与えられた役割だと考えています。

自閉症の人が『雑談』が苦手な理由

自閉症の人の中には、「雑談が苦手」と言う方が多くいます。 実際に話をしている様子をみてみると、雑談ではなく、結論を出そうとしていて議論のような会話をしているな、と感じることもあります。 雑談はそもそも「意味がない」ことが大切です。 意味がある会話、結論の出る会話は、議論になってしまうからです。 定型発達の人は、雑談には意味がないことや、言葉のやり取り自体が目的であることを感覚的に知っています。 しかし、自閉症の人は、この雑談の目的に気が付きづらく、言葉を字義通りに受け取る傾向があるため、1つ1つの会話の内容に真剣に答えようとします。 また雑談ですので、会話の内容が次々に変わります。 そうなると、会話の意味を追いかけて理解するだけで疲れてしまいます。 結論を出してしまうと会話が終わってしまうので、結論を出さないで目まぐるしく会話の内容が変わる雑談についていくことは大変なことです。 雑談は言葉のやり取りを行うことが目的で、そのやり取りを通して人間関係を円滑にしています。 その雑談が苦手な場合、学校や会社などでの人間関係を築くことが難しかったり、雑談に参加すること自体に大きなパワーを使ってしまうこともあります。 会話を行う相手も、論理的な話し方で常に結論を出そうとする人とは会話を楽しめないと感じやすいものです。 定型発達の人が自然と意味を理解し、意識しなくてもできてしまう"雑談"についても学ぶ必要があります。 雑談には、「結論を出さない」というルールがあること。 話の内容自体はどうでもよく、会話のやり取り自体を楽しむことといった意味があること。 (過去に意味のない会話をする意味があるのか!と怒る方もいました) 相手の話したことに対する返事は相槌くらい軽いものでよく、会話の内容は聞き流しても構わないこと(実際、ほとんどの人は雑談の内容を真剣には聞いていない!) などを1つ1つ学んでいく必要があります。

『樹陽のたより』に参加してきました!

今日は、ひきこもり当事者・経験者の集い「樹陽のたより」に参加してきました。 一言で表現すると、大変居心地の良い空間&時間! 当事者の人たちが、自分の心に浮かんだことを自分の言葉で語ってくれて、気づかされることも多く、楽しい時間を過ごすことができました。 話題の中で出てきた「BeingとDoing」という言葉。 世の中全体、余裕がないため、常に何かをすること(Doing)が求められます。 でも、そんな状態ばかりですと、疲れ果ててしまいます。 ですから、いてくれているだけでOK(Being)という実際の場所でも、心の空間でも、このようなところが必要だ、という話でした。 私も前々から「自閉症の人たちが心を開放できる場所を作りたい」と考えていました。 サークルのような形態もいいのですが、それよりも常時開放されているような場所ができたら、と思っています。 ふらっと立ち寄って、そこに行けば、理解者がいる。 日常生活の中では、自閉症を隠して生活している人たちもここにくれば、自閉症をオープンにできる。 私が目指している「自閉症のままで生きられる」を場所で表現したいです。 場所と空間をコーディネートする人員が課題ですが、是非この函館で実現したいと思っています! 一緒に行った発達障害の友だちが「有意義な時間だった」と言っていたように、私にとっても有意義な時間でした。

「〇〇君の支援に携わって、いろいろと勉強になりました」って言ってイイの!?

よく謙遜の気持ちからか「〇〇君の支援に携わって、いろいろと勉強になりました」「〇〇ちゃんから教わることが多くて、私にとって先生のような存在です」などと言う支援者がいます。 しかし、このコメントを聞いた親御さんの多くの本音は、「私の子で勉強しないで」というもの。 私もいろいろな世代の親御さんたちとお話しますが、皆さん、このようなことを言われた経験があり、ほとんどの方が不安や不快な気持ちになっていることが分かります。 定型発達の子ども達もそうだと思いますが、自閉症の子ども達の時間というものは、とてもかけがえのないものであり、将来の生活まで大きな影響を与えると思います。 定型発達の子どもの場合、まだ未熟な先生が担任になったとしても反面教師にして成長の糧にしたり、どうやって補っていけばよいか想像することもできます。 しかし、自閉症の子ども達にとっては「反面教師」という存在はなく、みんなが正しい先生であり、そのままの形で大きな影響を受けることがあります。 「この先生は、まだ経験が浅いな」とか、「この先生の言っていることすべてが正しいわけではない」などと、想像力を働かせて解釈し、その結果、行動を起こすことが自閉症の人は苦手だからです。 私も偉そうに言いますが、すべての療育が成功するわけではありません。 でも、自分の療育が目の前の人に大きな影響を与えることは認識しています。 ですから、極力、誤ったり、失敗したりしないように準備や勉強を重要に捉えています。 言った方は何気ない発言かもしれませんが、「勉強になりました」という言葉は親御さんを不安な気持ちにさせます。 どの親御さんも、携わる支援者の影響の大きさを認識していますし、子どものうちに多くの正しいスキルを身に付けて欲しいと願っています。 我が子との時間を支援者のスキルアップのためだけに使ってほしくないのです。 よく本で読んだことや研修してきたことをすぐに実践したり、流行の支援方法を取り入れたりする支援者もいますが、これも考え物だと思います。 自閉症支援の基本は『一貫性』です。 「今までの積み重ねは?」「これからも引き継がれていくの?」 これも受け取り方にとっては、我が子を実験台に使っているような印象を受けることもあります。 謙虚な姿勢や子どもから学ぶ姿勢は大切だと思います。 でも、自

頑張る部分と頑張らない部分

現在、てらっこ塾を利用してくれる方のニーズとしては、スキルアップしてほしいというような依頼が全体の1割程度であり、残りの9割が本人や周囲の人が困っていることをどうにかしてほしいという依頼です。 圧倒的に困った行動に対する依頼が多いのですが、そのとき、気をつけていることがあります。 それは、その困った行動の背景に自閉症の特性があるか、ないか、という点です。 「奇声を上げて困っている」 「ネガティブな考え方から脱せなくて困っている」 「自傷や他害行動に困っている」 「学校の授業を受けられなくて困っている」 など、いろいろな内容で依頼が来ます。 しかし、すべての行動が自閉症故の行動かといったら、そうでないことも多いと感じます。 自閉症の人の中には、奇声を上げる人がいます。 しかし、自閉症だからと言って、みんなが奇声を上げるわけではありません。 奇声を上げてしまうことの背景、つまり自閉症の特性がどのように影響しているのかに注目します。 そして、その背景に自閉症の特性の部分が絡んでいれば、その部分にアプローチするようにしています。 例えば、言いたいことがうまく表現出来ないことであったり、環境からの刺激に圧倒されてしまっていたり。 中には奇声を上げることで、自分がやりたくないことから逃げ出そうとする人もいます。 こういたった場合、注意が必要です。 奇声を上げることはコミュニケーションの苦手さという自閉症の特性の部分と関連していますので、適切で分かりやすい伝え方を練習する必要があります。 この部分は、自閉症支援です。 しかし、自分がやりたくないからと言って、何でもやらなくて良いということにはなりません。 嫌でも歯は磨かないといけませんし、好きなゲームもずっとはすることはできません。 この部分は、人としての幼さがあり、自己をコントロールする未成熟さが関係しています。 ですから、この人の部分は変わったり、成長してもらうために頑張ってもらわなければなりません。 自閉症の特性の中には、どうしても変わらない部分があります。 この部分は、頑張る部分ではなく、自閉症支援として妥協点を見つけたり、様々な手立てで補助していきます。 しかし、人の部分は変わる可能性がありますし、成長できると思います。 よって、その人に頑張ってもらう。 こうい

成長したい気持ちを大切にする

自閉症は変わらないかもしれない。 でも、人は成長すると思っています。 「自閉症は先天性の障害で我が子は変わらないのだから、親が変わらなければならない」 「自閉症の人が働けるようになるには、自閉症を理解する企業を増やさなければならない」 というお話を耳にすることがあります。 もちろん、周囲の人間が変わることは大事だと思います。 でも、当事者の人たちも変わることが大事だと思います。 お互いが歩み寄ることによって、理解し合い、共生できる社会へとつながっていくのではないでしょうか。 私は、自閉症の部分を変えようとは思いません。 私がアプローチするのは、本人の人ととしての成長の部分です。 自閉症の人に合わせた学びを提供しているだけです。 ある当事者の方は「自分自身が変わらないと、何も良くならないことは分かっている。だけど、1人の力じゃ変われる自信がないから手伝って」と言っていました。 いろいろな世代の自閉症の当事者の方たちとお話をしましたが、誰一人として「自分はこのままでいい」「成長なんかしたくない」というような人はいませんでした。 みなさん、心から学びたがっているし、変わりたい、成長したい、と思っています。 ですから、そのような本人たちの気持ちを周囲の人間は大切にしていかなければならない、と思います。

当事者は本当に啓発活動を求めているのか?

自閉症に関する啓発活動は、「社会に正しい自閉症の理解を求めていこう」という目的で行われる。 ということは、やはり社会の中では、自閉症の理解が進んでいないってことになる。 では、社会の中で自閉症の理解が進んでいないことに誰が一番困っているのだろう? 私のところにも"困っている"自閉症の人たちからの連絡が入る。 でも、誰一人「社会からの無理解で困っているんです」という相談は受けない。 もちろん、私は発達障害者支援センターなどのような公的な機関ではないので、このような相談が来ないのかもしれないが。 「親子関係に困っています」 「就職できなことに困っています」 「友だちとうまくつきあえないことに困っています」 「会話が続かないことに困っています」 「余暇の過ごし方に困っています」 「不適切な行動がやめられなくて困っています」 てらっこ塾を利用してくれる多くの人は、自分自身の"今"の生活に悩んでいる。 そして、自閉症に対する社会の無理解ではなく、ごく近い、日常的に接する人たちに"今"、理解されないことに困っている。 当事者の人たちは、社会の無理解に苦しんでいるのではない。 本当に困っていることは、もっと自分の近くにある世界。 彼らは"今"の生活に困っている。 「社会のみなさん、自閉症について正しい理解をしてください!」 というよりも、 「今すぐにでも生きやすい生活が送れるようにしてくれ!」 これが多くの当事者の心の叫びではないだろうか。