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8月, 2020の投稿を表示しています

【No.1096】代替という視点

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「自閉症=視覚支援」というのは、「自閉症の人達は視覚優位だから」という話から来ています。 海外の当事者の人が「私達はビジュアルラーナー(視覚的に学ぶ人)」と著書の中で述べたことも影響していたでしょうし、自閉症支援の歴史を辿れば、初期は言葉の遅れ、知的障害がある子が中心で、その子達に言葉を主とした検査では本当の能力が発揮できない、だから、音声言語を用いない検査を、彼らには言葉ではなく、絵や文字で伝えよう、という具合に、自然と「自閉症=視覚支援」になっていったといえます。 私も学生時代から施設職員時代にかけて、一貫してそのように教わりました。 もう10年以上前になりますが、ある親御さんからこんな相談を受けました。 「うちの子、検査したら、視覚優位じゃなくて、聴覚優位って出たんだけど、このまま視覚支援をしたほうが良いの?」と。 その子は、何年も前に「自閉症」という診断を受けていました。 ですから、検査者は困ったそうです。 「自閉症なのに、視覚優位って結果が出ない…」 親御さんは、その辺りを検査者に尋ねたのですが、検査者はごにょごにょ。 他の支援者に尋ねたら、「それは検査者のやり方が悪かっただけ」「もしかしたら、自閉症じゃないんじゃない(笑)」などと言われたとのことでした。 それで私のところに相談があったわけです。 基本的に私は、形式的な検査自体、ほとんど信用していませんが(笑)、実際にお子さんを見たところ、やっぱり聴覚からの情報処理が優れていました。 ですから、視覚支援にこだわることなく、本人がわかりやすくて、学びやすい方法である聴覚からの情報提供、いわば、普通の子に教えるように言葉を中心にしていった方が良いとアドバイスしました。 その後、あまり得意ではない視覚支援、スケジュールとか、視覚的な教示とか、その子にとってはメンドクサイ手数が減り、勉強がはかどっていったそうです。 まあ、今から考えれば、宗教に近い、いや、伝説のような「自閉症=視覚優位・支援」という時代があったわけです。 最初に視覚支援云々と言われたのが、1970年代です。 そこから半世紀が経ちました。 未だに「自閉症=視覚優位・支援」と言っていたら、笑われてしまいます。 2020年を生きる私達は、視覚優位に見えていたのは、聴覚の発達の遅れの裏返しであり、その聴覚の遅れは三半規管の未発達と繋がっていることもわかっ

【No.1095】生き抜くための自立、社会の中で生きるための自立

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当事者会や親の会に、居場所や情報を求めて来ている人たちが大部分だといえます。 しかし中には、役割を求めて来ている人たちもいるように感じます。 できるかできないかは別として、代表や広報、会計などを引き受けた人というのは、なんだか活き活きとしている。 そんな姿を見て、これも代償行動であり、自己治療なんだと思います。 今はほとんど依頼はありませんが、ひきこもりの人達の相談を受けていた時期があります。 家庭に伺うと、みなさん、必ずこう言います。 「衣食住、すべて息子(娘)のためにやってあげている。本人の生活は満たされているはずなのに…」 この認識が大きな間違いと言うか、本人とのズレなんですね。 物理的な生活を満たすことは、親御さんにとって大事な役割でもあります。 でも、それは子ども時代という期間限定の話。 そこだけ満たされていたら「私、満足」というのは、幼い子であって、幼稚園や保育園に入る頃には、頼まれたことを行う、自分以外の人のために何かを行う、お母さんの真似をして家のことをやってみる、といった行動を通して内面的な満足を得ようとするものです。 そういった体験の積み重ねが、家族の中の自分、幼稚園の中での自分、学校の中、地域の中、そして社会の中の自分という実感を育てていきます。 子ども時代のお手伝いは、社会に出る準備なんですね。 ひきこもりの人とお話をすると、発達の偏りを持っていると感じることも多くあります。 でも、そこが根っこではありません。 彼らからひしひしと伝わってくるのは、「生きている実感がない」という訴えです。 「確かに親から援助を受け、不自由なく生活できているけれども、生きづらい」 その"生きづらい"という彼らの言葉に、どうしても発達障害という言葉をくっつけたくなる。 しかし、彼らは発達障害である以前に、ヒトです。 それも社会的な動物としてのヒト。 親御さんの中には、「親意外に話す人がいないのが良くないのかも」「友達がいないのが…」などと言われる人もいますが、それもまた根っこではありません。 親御さんは知らなくても、彼らにはSNSの世界でつながっている人たちがいるからです。 生きている実感の根っこは、前庭覚であり、固有受容覚。 つまり、重力との付き合い方ができることが、生きている実感の始まりになるのです。 その一方で、社会的な役割という部分も、

【No.1094】自らを助ける会

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この前、ある人と話をしていて、どうして全国どこでも親の会や当事者会があるのだろう、という話題になりました。 まあ、一言で言えば、標準治療が治せないから(笑) 治せたら、そこで問題が解決したら、わざわざ自分たちで集まる必要はないでしょ。 それこそ、自助会なんて言われるくらいですから、いろんな会は「自分を救えるものは、自分しかいない」という決意表明のようなものです。 時々、親の会や当事者会の代表やアドバイザーに、専門家、支援者の名前があることがあります。 これは、どういうことだろうか、といつも疑問に思うのです。 本業である本人の課題を解決するがままならないから、当事者の人達は当事者の会を起ち上げる。 でも、当事者同士だとトラブルが起きる、その解決が自分たちでは難しいことがある。 だから、地域の専門家、支援者をメンバーに入れる。 優しく言っても意味不明です。 100歩譲って専門家が入っているのなら、当事者会から卒業していく人が出なければなりません。 当事者会、親の会が居場所であり、共感し合える場所として機能しているのが本来の姿なのかもしれません。 しかし、それに対しても、私は悲しみを感じます。 同じ悩みを持った同士の集合体だからです。 悲しみの共感は、次の一歩、より良い未来への変化にはつながりません。 人は頑張ったこと、達成感のあることなどのポジティブな共感に対して、自らの原動力へと変え、変わるきっかにすることができるのです。 以前、いくつかの会のアドバイザーに、というお話をもらったことがありますが、陰の雰囲気が漂っていたので、いずれも断った経緯があります。 結局のところ、自分を助けるものは、自分しかいないのだと思います。 たとえ同じ診断名だったとしても、その原因は一人ひとり異なっています。 ですから、本当の意味での共感は得られないのです。 共感という名の幻想にすがっているのです。 じゃあ、何故、そういった幻想にすがるかと言えば、専門家、支援者が役に立たないから。 今なら1歳、2歳で診断名をつけるのに、一向に本人たちの課題解決、幸せ、将来の選択肢の広がりへと繋がっていきません。 それは入り口と出口が決まっているため。 日本の制度では、医療が入り口になっています。 そして診断名が付くのが、幼児期だろうが、就学後だろうが、成人した後だろうが、出口は支援を受けながらの自立(?)

【No.1093】生きている実感を得るために、自らを育てようともがいている

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まずは業務連絡から。 先週末、九州でお会いした皆様。 今朝、郵便局より報告書を郵送いたしました。 コロナの影響で、通常よりも3~4日、遅れるとのことです。 もうしばらくお待ちくださいませ。 ということで、先週末は九州に出張していました。 九州の匂いというのでしょうか。 外を歩くと、北海道とは異なる植物、田んぼ、花や木々の匂いが、子ども時代、私が確実に「ここにいた」という実感を持たせてくれます。 そしてまた、自分の意思と決断、選択により、こうやって自由に行きたいところに行き、やりたい仕事を行うことができている。 これも私の中で「今、私は生きている」という実感を得ることに繋がっているのだと思います。 発達相談において、この実感も、大事なアセスメントの視点になります。 常時動きまわっている子、ピョンピョン跳ねている子、クルクル回っている子、大きな声を出している子、唸っている子、他人にとにかくぶつかっていこうとする子。 こういったお子さん達を見て、専門家は「それがADHDだから」「それがASDだから」というかもしれません。 しかし、それは表面的な話であって、子ども達の内面を捉えたものではありません。 子ども達の行動には、必ず目的、意図があるものです。 こういった行動の背景には、子ども達自ら発達させよう、育てようとする目的を感じます。 そしてその目的へと向かわせる内なるエネルギーとは、「今、私はここにいる」という実感を得るためなんだと思うのです。 発達のヌケが埋まり、感覚や身体が育ってくると、「自分がいることがわかった気がします」というようなことを言う人たちがいます。 彼らは学生だったり、社会人だったりするのですが、そんな彼らでも自分という実感が乏しかったことが分かります。 前庭感覚や固有受容覚が育っていなければ、動くことで感じる自分がわかりません。 身体の軸が育っていなければ、自分が空間のどこにいて、何が好きで嫌いかがわかりません。 自分という存在がはっきりして初めて、目の前にいるあなたのことも、実感を持って感じることができる。 自分という存在がはっきりして初めて、実社会の中に出ていくことができる。 ですから、神経発達症を持つ人達の中には、他人との関係を築くことが難しかったり、外部との関係を持とうとしなかったり、はたまた一部の人や情報、環境に大きく影響を受けたりするのだとい

9月13日(日)『医者が教えてくれない育ちのアセスメント』zoom講座

昨日、このブログでも紹介した『医者が教えてくれない育ちのアセスメント』zoom講座の参加申し込みが開始しました。 お申し込み先、また講座の詳細につきましては、企画・主催をしてくださる花風社の浅見さんのブログをご覧ください。 zoom講座「医者が教えてくれない育ちのアセスメント」参加募集中です! 今回、私が対談させていただくお相手は、6月に函館で開催する予定でしたコンディショニング講座での講師をお願いしていました『からだ指導室 あんじん』主宰の栗本啓司さんです。 6月の特別講座のご案内でも紹介させていただいた通り、全国各地を飛び回り、老若男女、障害の有無を問わず、一人ひとりの身体に合わせたコンディショニングの指導をされている方です。 現在、日本にいる治せる実践家のお一人です。 そして栗本さんと私の対談をより分かりやすく、また深めていただくのが、編集者さんであり、花風社を設立し、長年、発達障害の人たちとその人たちと関わる専門家と共に仕事をされてきた浅見淳子さんです。 通称赤本『自閉っ子、こういう風にできています!』(2004年)は、多くのご家庭の本棚にあると思います。 赤本から一貫して自閉っ子達がラクになる方法を探し、また彼らが社会の中で自由に、そして資質を活かしながら生きていけることを願いながら、多くの書籍を世の中に送りだしてくださいました。 正直、私もまだ明確に言語化できていない部分もありますので、その辺りも含めて、言葉のプロフェッショナルである浅見さんに対談をより良いものへと導いていただきたいと思っております。 講座の形式がzoomを使用したものになっていますが、スマホでも簡単に観ることができます。 また主催者さんの工夫により、当日、参加できない人向けに、後日録画を観る方法も用意されています。 ご興味ある方は、是非、お申し込みくださいませ。 どうぞよろしくお願い致します!

【No.1092】治り方の選択の時代に生まれた新たなニーズ

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世の中には、治せる実践家の人がいます。 その場でトラウマを処理することができたり、発達のヌケを見抜いて、そこを育て直す施術をすることができたり、短い時間でのセッションによって参加者の表情・身体をガラッと変えることができたり…。 そういった治せる実践家の人たちの姿を見るたびに、私も同じように、そのとき、その場で治せるようなスキルを身に付けたいと思っていました。 しかしあるとき、ふと思ったのです。 幸運にも、同じ時代に治せる実践家の人たちがいる。 だったら、そこはその実践家の人たちにお任せして、私自身は違う道で神経発達症の子ども達が治るお手伝いをするべきではないか、と。 そもそもが選択肢を作ることを目的とした起業でもありました。 発達に遅れがみられれば、どの子も同じ病院に行き、同じような診断名を受け、同じような療育を受ける。 療育を受けたからといって何かが劇的に変わることはなく、みんな揃って特別支援教育の世界に入り、12年後にもみんな揃って福祉の世界に入っていく。 無料で食事はできるけれども、いつものり弁。 たまに、漬物がついたり、タマゴがついたり、昆布がのったりするけれども、のり弁はのり弁。 「無料だから、いいだろう」なんて言って、のり弁を配る支援者に文句も言えず、他のメニューがあることも知らずに、黙々と食べ続ける姿。 私が当地で見てきた障害を持った子ども達を取り巻く環境は、このようなイメージでした。 誰一人満足はしていないけれども、冷え切ったのり弁を食べているような感じ。 だからこそ、自分には何ができるかはわかりませんでしたが、「のり弁以外もあるよ」「カレーも食べれますよ」と、選択肢の一つになることを目標にしました。 お蔭さまで全国各地に呼んでいただけることが増えましたが、まだまだ各地域には選択肢がない状態が続いています。 のり弁が好きで食べているのなら、何も言うことはありません。 でも、のり弁しか知らず、それを食べているのだったら、残念なことです。 「脳の機能障害」「生まれつきの障害」「治らない」 これは一つの見解であり、過去に信じられていたものです。 今は脳ではなく、神経の問題、それも神経同士の繋がりの問題が常識になっています。 神経の問題なら、刺激や環境、運動によって神経ネットワークが変化します。 ですから、「治らない→支援と療育」ではなく、「治る→身体アプロ

【No.1091】「感覚が育っていない」とは?

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親御さんからのご質問の中に、「感覚が育っていないという、その"育っていない"の意味が分からないんです」というものがあります。 例えば、目が見えないのでしたら、視覚情報が入ってきませんので、「目が育っていない」というのはイメージできると思います。 しかし、神経発達症の子ども達は、機能としての感覚器は正常に働いています。 音が鳴れば、そちらを向くことがあるし、好きなワードが聞こえたら、すぐに反応する。 だから、まったく音が聞こえていないわけではないけれども、呼びかけてもこちらを向かない、言葉の理解が積み上がっていかない。 テレビは集中して見ていて、登場するキャラクターの名前を知っている。 だから対象の違いはわかるはずなんだけれども、周囲の人の区別ができない、相手の目を見ることがない。 このような姿は、発達障害に関する書籍やネットの情報などに、よく登場します。 感覚器は機能しているのに、それが認知できていない。 それこそ10年以上前は、『脳の機能障害』と言われていましたので、感覚器で受け取った刺激を脳で処理することができない、つまり、脳の機能的な問題であり、問題が脳なのだから、どうしようもない、という結論で支援が展開されていました。 だからどの子も、音や視覚刺激が統制された環境の中へと誘導されて行きました。 しかし今は違います。 脳の機能の問題ではなく、神経発達の問題、もっといえば、神経同士の繋がりの問題だということがわかったのです。 感覚器も、脳も問題がない。 課題があるとすれば、感覚器と脳をつなぐ神経ネットワーク。 そういった視点で子ども達の姿を見れば、彼らに必要なのは、身体で受け取った刺激をちゃんと脳まで届けることであり、脳からの指令を身体へと送る作業だといえます。 胎児期からすでに、視覚や聴覚、触覚、嗅覚、味覚、固有受容覚、前庭覚が機能しています。 誕生後すぐの赤ちゃんでも音や匂い、口や手にモノが触れた感覚がわかっています。 でも、赤ちゃんには、その刺激が何かという認知はできていませんし、刺激に対し、自分の意思で適切に身体を動かすことはできません。 じゃあ、どうやって感覚器と脳を繋げていくのか、神経ネットワークを築いていくのかと言えば、遊びです。 子どもの遊びには、快の感情が伴うものです。 「楽しい」「ワクワクする」 そういった感情は、子どもの

大阪出張のご案内(9月21~23日)

  すべての訪問予定が決まりました!受付を終了いたします。 昨日、大阪にお住まいのご家族から正式な依頼を受けました。 いつもでしたら3泊4日で出張するのですが、今回は2泊3日になります。 9月21日(月・祝)と22日(火・祝)の午前中は予定が決まっておりまして、22日の午後でしたら、ひと家族、予定を入れることができます。 もし9月22日(火・祝)の午後、発達相談を希望されるご家族がいらっしゃいましたら、お問い合わせください。 2020年の関西出張は今回で3回目になりますし、7月に行ったばかりですので、ニーズはないような気もしますが…、ご依頼をお待ちしております! お問い合わせ先→ てらっこ塾HP 現在の空き情報:9月22日(火・祝)の午後→予定が決まりました(8/24 9:00)

【No.1090】理由を問わない診断

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先日、伺ったご家庭では、親御さんが「うちの子、目が合わないんです」と心配されていました。 実際に確認しますと、確かに目が合わない。 まあ、目が合わないというよりも、私の目を見ているようなんだけど、見ていない感じってところでしょうか。 他の親御さんと同じように、スマホの検索画面に「目が合わない 幼児」と打ち込んだそうで、するとすぐに「自閉症」「発達障害」という結果が表れます。 今はご丁寧に、広告料を払っている療育機関なども一緒に表示されます。 すると、親御さんはビックリするわけです。 「うちの子は自閉症かもしれない」 そうなると、次からは「自閉症の特徴」「自閉症の育て方」「自閉症の進路」「自閉症の将来」など、自閉症についての検索が始まるのです。 「ああ、これはうちの子にも当てはまるかもしれない」 「じゃあ、普通の学校は難しいかもしれない」 「早く診断を受けて、早く療育とやらを受けなきゃならない」 そうやって知らず知らずのうちに、特別支援の世界に迷い込んでしまう。 自閉症のお子さんで目が合わない子がいます。 しかし、「目が合わないから自閉症」ではありません。 目が合わない理由は、たくさんあるのです。 ハイハイを飛ばしたり、肩甲骨の動きが育っていなかったりすると、立体視が育たず、結果的に目が合いづらくなります。 ヒトも動物なので、奥行きのある自然の中で目そのものを育てていくのですが、今のように家ばかりにいると、目を育てる機会が乏しくなり、焦点が合いづらくなる場合もあります。 同じように、幼少期からメディア視聴の時間が長くなると、狭い範囲でしか目を動かさず、また二次元ばかり見ていることになるので、見る力が育ちません。 身体の軸が育っていなくて目を寄せることができなかったり、身体の大きな動きが育っていないことで、目の動きという小さな動きの育ちが滞っている場合もあります。 あとは、目の育ちと言うよりも、周囲の人に気がついていない=自己の未確立もあり、その背景には感覚系の遅れも考えられます。 このように「目が合わない」という姿には、多くの理由が考えられるのです。 さらに「目が合わない」というのが今だけのことなのか、それとも今後も長く続くことなのか、で意味が大きく異なります。 以前、1歳代のお子さんで「目が合わない」と心配されていた親御さんがいらっしゃいましたが、私との発達相談が終

【No.1089】障害の程度、あるなしよりも、対処できるかどうか

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家族や本人から、いろんな困ったことを相談されます。 年齢も様々、課題も様々。 一人として同じ悩みはありません。 そんなこと、わざわざ文字にする必要もないくらい当たり前の事実なのですが、意外に勘違いされている人が多いように感じます。 悩みの数だけ対処法があるはずなのに、原因が一緒、アイディアが一緒。 何かトラブルが起きると、すぐに「自閉症だから」「発達障害があるから」と言いがちですし、思いがちです。 しかしトラブルの詳細を聞けば、なにも発達障害がある人だけに起きる問題ではないことがわかります。 それは発達障害ゆえに起きたトラブルではなく、同年代の子なら起きることがあるよね、一般的に出くわすトラブルだよね、っていう感じです。 自閉症の人ばかりに困難があり、一般の人には困難が少ない、というのは真実ではありません。 生きていれば、面白くないことも、辛いことも起きるものです。 じゃあ、なんで自閉症の人ばかり「生きづらい」と言い続けているのでしょうか、発達障害を持つ子の親御さんが「大変だ大変だ」と言っているのでしょうか。 それは「対処」の違いだと思います。 トラブルが起きたとき、困難な状況と出くわしたとき、「どうするか?」で違いが大きいのだと思います。 自閉症の人達は、情報が抜け落ちたり、情報を誤って捉えたりすることが多くあります。 そのため、次の対処の段階で失敗することが多い。 それが小さいときからずっと続くもんだから、失敗の上に失敗が積み重なっていき、最後には身動きがとれなくなる。 その「動くんだけれども、うまくいかない」「やってもやっても失敗する」が、本人たちの「生きづらい」という訴えの中に滲み出ているように感じるのです。 こんなことを言うと、「じゃあ、特別支援の世界で言われている『失敗させない子育て・支援』が正しいのではないか」と言われそうですが、それこそが彼らの「生きづらさ」を助長させている要因だといえます。 大事なことは失敗を回避することではなく、失敗に対処できることです。 失敗したあと、どのように振る舞えるか、行動できるかが大事なのは、社会で生きる者として、いや、生き物として皆、同じ。 特別支援の方向性は、本人のスキルアップと周囲の支援によって、トラブルと出くわす機会を減らそうというものです。 だからいつになっても、自立できる人たちが育っていかない。 自立とは、ト

【No.1088】特別支援によって救われた未来と、奪われた未来

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件数は少ないものの、「うちの子が発達障害ではないことを確認してくれませんか」というような依頼が来ることがあります。 「発達のヌケを確認してほしい」「今後の子育てについて助言がほしい」 そのような依頼をされる親御さんと比べて、「ないことを…」という依頼をされる親御さんに障害受容がないというわけではありません。 親御さんは本能的に気がついているのです。 「うちの子は違う。だけれども…」 「だけれども」に続く言葉は、親御さんにその言葉を連想させてしまうのは、保健師さんだったり、保育士さんだったり、幼稚園・学校の先生だったりします。 今は少しでも何かあると、「発達障害では」と言う人が多いと感じます。 それも年々増えている印象を受けます。 でも、実際はその人が思う"疑い"であって、単に発達がゆっくりな子、単にその人の指導力が足りないだけということも少なくないと思います。 他人に指摘されるまで、我が子の発達の遅れ、自閉的な特性にまったく気づかない親御さんは、どのくらいいるのでしょうか。 「家では問題なく生活できている」 「今まで我が子の発達で気になったことがない」 そういった親御さんが、他人からの指摘や促しにより、病院に行く。 ドクターに、「家では問題なく生活できているのですが、園の先生から『一度、発達専門の病院で診てもらってください』と言われまして…」と告げると、園でのトラブルについて根掘り葉掘り訊かれる。 そして、発達障害という診断名が付き、療育・支援のレールの上にポンと置かれる。 平成の時代の教科書には、「自閉症の子は、場面が変わると混乱する。普段できていたことができなくなることがある」と記されていたので。 私はいつも不思議に思うのです。 家で問題なく生活できている子、今までの発達の中で気になるところがなかった子は、本当に発達障害といえるだろうか、と。 こういった場合、まず疑うのは発達障害ではなく、崩れている場所の環境ではないでしょうか。 ビックリするような話ですが、小学校1・2年生は普通級で問題なく勉強できていた子が、3年生になり、集中力や学力の低下、離席等の行動が見られるようになる。 すると、担任から「発達障害ではないですか」「特別支援担当の先生に一度」「病院で診てもらっては」などと言われる。 でも、その前に他の要因も確認する必要があると思います。

福岡出張のご案内(8月21日~23日)

あと20日もありませんが、急遽、福岡県に出張することが決まりました。 8月21日(金)の夕方に着く便で福岡に移動します。 今回、お声掛けくださったご家族への訪問が、8月23日(日)の午前中になっております。 もし今回の機会に、発達相談を希望される方がいらっしゃいましたら、 てらっこ塾 までご連絡ください(お問い合わせ&ご質問も)。 お待ちしております。 21日(金)は、17時以降、ご希望があれば承ります。 22日(土)は、一日、空いています。 →午前、午後ともに訪問するご家庭が決定しました(8/11 13:00) 23日(日)は、午後、空いております。 →午前、午後ともに訪問するご家庭が決定しました(8/4 15:00)