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【No.1215】2021年暮れのご挨拶

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大晦日の函館は、最高気温がマイナス7℃という素敵な数字を叩き出しました。 ジムに行くのも寒いし、帰ってくるのも寒い。 お礼参りも激さむでした そんな中で今、やっと雪かきが終わり、パソコンの前に座っております。 2021年を振り返ると、まさか呼んでくださるとは思わなかった沖縄のご家族からの出張の依頼がありました。 何度も「よろしいんですか?」「私は北海道ですよ」「2000キロくらい離れていますよ」「台湾、中国のほうが近いですよ(笑)」「函館からはロシアのほうが近いですよ(笑)」とお尋ねし、「それでも」というお話でしたので伺いました。 親御さんの想いは、南国の陽射しよりも熱かったですね。 他にも、福岡、広島、関東はほぼ毎月でちょくちょく、今年は道内も結構回りました。 たまたまではありますが、札幌出張とオリンピック競歩の日が重なり、目の前でオリンピアンの競技する姿を見られたことはよい思い出になりました。 18歳のとき、初めて手にした障害系の本が花風社さんの『自閉っ子、こういう風にできています!』でした。 それから20年ほど経ち、花風社さんの25周年記念事業の『医者が教えてくれない発達障害の治り方』の出版に携わらせていただきました。 共同著者としてこの世に本が出たことは私にとって嬉しいことではありましたが、私以上に周りの人達が喜んでいることにびっくりしました。 妻、息子たち、両親はもちろんのこと、てらっこ塾を始めたときに応援してくださった方たち、利用したことがある親御さん達、今利用している親御さん達、そして自分自身で治していき、自分の人生を歩まれている若者たち、お子さん達。 函館蔦屋書店で開催させていただいた出版記念イベントにも、懐かしい方たちも来てくださり、さらに大きく成長した姿を見せてくれました。 また「本、買ったよ!」と連絡をくれた方たちもいました。 出張の依頼と同じように、出版というお仕事も社会に求められた結果だと思っています。 私自身、まだまだ反省ばかりで、もっとアセスメントの力を磨かねば、もっと親御さんが前向きになるような後押しを、もっといろんなアイディアが浮かんでくるようなヒントを、もっと子育てが楽しいと思ってくれるような話を、と思い続ける日々です。 ただ今回、出版のお声がけがあったのは、私のように全国各地に出向き、しかも家庭の中に入っての発達相談をやっている

【No.1214】『発達障害の壁』

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養老孟司氏の新刊『ヒトの壁』が出たので読もうと思っているものの、なかなかたどり着けないくらい未読の本が積み重なっています。 『バカの壁』から始まり、『死の壁』『超バカの壁』『「自分」の壁』と壁シリーズが続いているのを見て、ふと『発達障害の壁』というものを連想しましたので、その辺りの話をしたいと思います。 のちに強度行動障害と呼ばれる人達、症状や認知の面で重度と言われる人達は、出生後すぐの時点で、その不具合が生じているようです。 共通しているのが、睡眠と情動の乱れ。 赤ちゃんは一日のほとんどの時間を眠るものですが、なかなか寝られない、ちょっとした物音、衝撃ですぐに覚醒してしまう、ということがあります。 これは眠れないから情動が乱れるのか、情動が過敏だから眠れないのか、そのどちらかはわかりませんが、とにかく一日中泣いていた、ぐずってばかりいた、という話もよく聞きます。 赤ちゃんにしては珍しいくらい激しく泣くという話もちょくちょく伺いますので、出生した時点で、既に何らかの神経発達的な不具合が生じていると推測されます。 眠るという動物としての本能行動に困難がある。 これが『新生児の壁』 次に訪れる壁は、『運動発達の壁』です。 腰坐りが遅かった、立位までが遅かった、という"遅れ”と、ハイハイを飛ばした、すぐに立ってしまった、という"ヌケ"があります。 そしてもう一つ留意しなければならないのが、非定型の運動パターンで、寝返りの方向が片方のみ、肩膝立ちのずりばい、後ろにしか進まないハイハイなど、特徴的な動きをする場合もあります。 こういった特徴的な動きは、代々続くことが多く、「お父さんもそうだった」「おばあちゃんも」「従兄弟も」など、引き継いだ運動パターンだといえます。 もちろん、そういった遺伝的な話ではなく、原因があって、そういった偏った動きしかできないからやっちゃう、という場合も多いです。 その原因に関しては、新刊『ポストコロナの発達援助論』に詳しく書きましたので、お読みください(宣伝w)。 こういった運動発達の壁は、現れた時点で定型の動きに戻してあげることが重要で、そのままスルーしてしまうと、あとから育て直しが必要になりますし、時間も倍以上かかることになります。 私の感覚では、動きの偏りは神経発達の偏りとなり、「ああ、言葉が出ないな」と気づいた

【No.1213】発達障害を子育ての領域に取り戻す

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実質、濃厚接触者になった受験生の試験不可が取り消されました。 これは最初から織り込み済みで、「試験不可の通知→世論からの反発→首相の指示で撤回」が一つのストーリーになっていたと推測されます。 日本は共産主義の独裁国家ではありませんので、憲法、法律を超えて、このようなことなどできるわけがありません。 それに大学共通テストまで約三週間前のタイミング、年末で公官庁が休みに入るタイミングで、「じゃあ、そのように試験体制を準備しなきゃ」なんて物理的にもできるわけがありませんね。 ですから、このストーリーで何を得ようとしていたのか、裏の意図を想像することが大切です。 南アフリカはワクチン接種率も26.6%で、すでにピークアウト。 現地の専門機関からの報告では、重症者も、死者もほぼいない。 一方で日本はブースター接種が始まりますが、秋くらいからずっと地を這うような陽性者数。 全国の重症者が38人で(一つの県に一人もいない計算!)、医療崩壊の心配はない状況。 ちなみにイギリスがこの頃、毎日10万人(日本の人口で考えたら20万人)を超えていますが、医療崩壊していませんね。 つまり、濃厚接触者の試験不可の茶番劇は、ターゲットが若者、受験生と家族。 どうして、ここまで接種の流れを作るのかの背景は分かりませんが、デルタよりも症状が軽いものに変異したので喜ばしいことだと思います。 ほとんどの人が無症状で、亡くなる人がいないのなら良いのでは?? そういえば、去年の分までインフルエンザが大流行する設定だったのでは?? 信頼し合える人間同士なら考える必要はないと思いますが、たいていの場合は表の意図と裏の意図があるものです。 ですから、この仕事をしていて医師や専門家、支援者、学校の先生などの話をそのまま受け取ってしまう親御さんが多いことに対して、私は驚くばかりです。 どうしてその日、初めて会った医師の言葉を無条件に信じることができるのでしょうか。 ましてや、他の疾病とは異なり、発達障害の生物的なマーカーは存在していません。 どう頑張っても、その医師の主観が入りますし、人間ですから当然間違うこともあります。 さらに、その日の子どもさんの状態だって、いろんな条件によって変化するものです。 診察室で見える姿は、その子の一部分でしかありませんね。 「生まれつきの障害」と支援者たちが好んで使うのは、そういうと

【No.1212】「親バカ」の意味

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『言葉がない子と、明日を探したところ』を読んでいる最中から湧き上がった連想を数日綴ってきましたが、今日のブログを書くための前振りでした。 就学前に治った子ども達と親御さん達がいます。 だからといって、その子が軽かったと一概に言えるわけではなく、親御さんにとっては心配で大変だった事実は変わらないわけです。 長い期間でなかったかもしれませんが、親御さんには重度に見えたり、将来に希望が見えないこともあったはず。 そういった親御さん、子どもさん達を見て、私は心から良かったと思います。 就学までに治らなかった子ども達と親御さん達がいます。 だからといって、その子が重かったと一概に言えるわけではなく、またその子の親御さんの子育て、発達援助のやり方に問題があったともいえません。 もちろん、親御さんにとっては心配な時期はできるだけ短いほうが良いと思いますが、就学時までに治っていないからと言って、その子本人が不幸だと感じているわけではないはずです。 中には、あとから本人が振り返って話してくれることがあるのですが、「僕のために、一生懸命やってくれていたのが分かって、そのとき、嬉しかった」と言う若者たちもいるのです。 こういった若者たちの言葉を聞けば、就学後も親子で治る道を歩むこと自体が、幸せな時間といえるかもしれないと思います。 就学前に治った親子よりも、濃密な親子の時間を過ごせている場合もあるのです。 ですから、他のご家庭で「治った」ということを見聞きしたら、是非、一緒に喜んでほしいと思います。 たとえ、その時点で我が子が治っていなかったとしても、社会に治った子が一人増えたのですから。 その子が治ったことで、他の誰かが支援を受けられるかもしれません。 その子が治ったことで、より良い未来、社会を作ってくれるかもしれません。 そして、その子の親御さんは治った喜びをより感じられるようになります。 治った子の親御さんは、将来、我が子が孫を連れてきたとき、子育ての経験を、治した体験を次の世代に伝えることができます。 それは次の世代をよりよく育てる力になり、次の世代の子ども達を治す後押しにもなります。 これは縦に繋がる「治る」です。 そして今、治ったと喜ぶことは、他の親御さんの希望になります。 子育て世代の親御さん達も、あと5年もすれば、立派な先輩になり、その背中を若い世代の親御さん達が見ること

【No.1211】「治る」よりも、自立に必要なことは

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昨日のブログに対する反響が多く、何名かの方からご感想のメールを頂戴しました。 たぶん、心に突き刺さるものがあったのだと思います。 まあ、このブログを読んでくださる方は、忖度を望み、いい子いい子してほしくてはやってきていないと思いますので、今日も連想の続きを綴っていきたいと思います(笑) 一言でいえば、よそのおうちの「重度」とか、「治ったとか」に心が乱されるようではいけませんね、ということ。 私から見れば、すべて脳みそ、エネルギーの無駄遣いです。 よそのおうちが治って、うちがまだ治っていないと、なぜ、落ち込むのでしょうか。 我が子とはまったくの別人です。 治る人数が決まっていて、椅子取りゲームをしているのなら、プレッシャーを感じても仕方がないですが、他人と関係なく、治る子は治るし、治らない子は治りませんね。 やることは変わらないわけです。 またご自身で「我が子は重度」と思い込み、勝手にいろいろなことを諦めては、お子さんが可哀想ですし、親が我が子の可能性を狭めてしまう危険性がありますね。 「勝手にぼくのこと、"重い"って決めないでね」 プレッシャーと言えば、「年が明ける」が親御さんにとって大きなプレッシャーになることが多いと感じます。 年長さんのご家庭は、就学先の最終リミットが1月末だったり、2月まで待ってもらったりしていて。 年中さんのご家庭は、来年度から始まる就学相談に、「いよいよか…」という気持ちになるのだと思います。 希望する就学先を考えたら、まだ治っていない、育っていない。 この世代のご家庭の発達相談を行うと、「あと半年あれば」「あと一年あれば」、普通級などの希望の就学先に行けるのになあ、と思うことばかりです。 この調子で発達が進んでいけば、就学の準備ができるのに、その前に就学の日が来てしまう、という感じ。 つまり、就学というリミットが先に決まっていて、子どもの発達とは別の時間軸があるということです。 よく「治る家庭と、治らない家庭の違いはなんですか?」と尋ねられます。 その答えはとてもシンプルで、「治るまで続けるかどうか」のほかにありませんね。 私が関わってきた働く若者たちは、中学まで支援級でそこから通信教育や私立に進学した方もいますし、支援学校卒の方もいます。 卒業後も、福祉的な支援を受けていましたが、そこから変わっていき、少しずつ自立

【No.1210】「重度」という言葉

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「重度」という言葉は、本人ではなく、周囲の人のための言葉です。 「重度だから」と使えば、諦める決心ができたり、「自分のせいじゃない」とその瞬間は、自分自身を傷つけなくて済みます。 「重度だったのに」と使えば、今に対する感謝の気持ちを、本人の成長を感じる喜びを、一方で自分自身をアゲルために、想定した誰かをサゲルために発せられることもあるでしょう。 ですから、「重度」という言葉の使い方は難しいと私は感じています。 ところでいろいろな人が使っている「重度」とは、どんな状態を指すのでしょうか。 知的障害が「重度」? 症状が「重度」? 問題行動が多いのが「重度」? ある程度、年齢が上がっても症状が変わらない人が「重度」? 生活面で介護を受けている人が「重度」? たぶん、その人その人で重度が意味していることは違うでしょうし、その重度は上記で言えば知能検査の値しか客観的なものはないので、かなり主観的なものだといえます。 しかも、その主観は発している人が実際に見聞きしてきた発達障害の人の範囲での話になりますので、同じ「重度」でも、ある人には軽度に見え、ある人にはかなり重度に見えることもあると思います。 親御さんがいう「重度」と、医師がいう「重度」と、学校の先生がいう「重度」と、施設職員がいう「重度」は、まったくもって異なるのは無理もないことです。 当然、子どもを中心に見ている人と、大人を中心に見ている人、学習面を中心に、生活面を中心に見ている人でも全然違うはずです。 そういう私も偏りがあるわけで、てらっこ塾を始めてから一度も重度と思うような方とは出会っていないのです。 キャリアの初めが、当然、家で過ごすことができず、それでいてその地域にある入所施設に入っても、そこで生活ができないくらいの人達が全国から集まってくる施設での生活支援でしたから。 知能検査は測定不能、こだわりなどの症状はコントロール不能レベルで、行動障害も強度と判定される入所者たち。 精神科薬の量は、それだけでおなか一杯になるのではないか、というくらいで全国各地からやってきていました。 確かに、このような方達は誰がどう見ても「重度」の人達でしょう。 しかし、この「重度」の人達も、多くは環境を整え、捻じれた糸をほどいていくと、徐々に落ち着き、安定した生活を歩めるようになっていきました。 つまり、こういった人達も、本当に「重

【No.1209】『言葉のない子と、明日を探したころ』を読んで

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今から16年前の2005年の12月。 私が大学を出て、福祉施設で働き始めた年の暮れにあたります。 新卒一年目はその激務に慣れるだけで精いっぱいで、休日は泥のように眠り続けていました。 ですから、書店に行く回数も少なかったんだと思います。 そのときの私が、この本を読んでいれば、きっと当事者である英司さんが子ども時代を振り返り、コメントするところに意識が向いていたことでしょう。 お母さんからしたら、我が子の言動の意味がわからず、まさに暗中模索、四苦八苦して子育てをされてきた当時の意味を、成長された英司さんがそのときの心のうちを丁寧に解説されています。 たぶん、駆け出しの施設職員だった私は、「自閉症の人はこのように世界を捉えているんだ」という理解を深めるための一冊になっていたと思います。 しかし今は2021年。 しかも、もとになった手記は、1982年に出版されたものです(1982年は私が生まれた年!)。 そのときは既に養護学校の高等部生になっていた英司さん。 ですから実際の子ども時代、行動が落ち着かず大変だった頃はさらに10年以上前になりますので、物語の舞台は1970年代です。 今から50年ほど前に、当然、今のような理解も、知識も、資源もない中、重度の自閉症の子の子育てを懸命に行い、そして働く大人として社会に送り出した親御さんの姿に、私の意識は向けられました。 この本には、お母様の姿勢には「子どもをよく見る」ということがどういうことなのか、気づかせてもらえると思います。 2000年を過ぎた頃より、自閉症、発達障害に関する理解啓発活動が盛んになりましたが、そういったことのほとんどが薄っぺらく、表面的な理解に終始しているのがわかります。 自閉症の特性、三つ組がどうだとか、視覚優位だとか、こだわりがどうだとか、そんなものは理解したことになりません。 英司さんのお母様は、英司さんの内面、内側の世界を知ろうとされていた。 そしてそこに気がついたとき、「じゃあ、そのままやらせてみよう」「別の代替手段を試してみよう」「ここに注目できるのなら、こんな活動をすれば、成長に繋がるのではないか」という子育てのアイディアを生み、実際に行動されました。 確かに自閉症の子のことが書かれているのに、自閉症の特性などの記述は出てきません。 つまり、お母様が自閉症児ではなく、英司さんという我が子として見て

【No.1208】他人に期待しない、自分に期待する

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昨日、学校評価を提出したところで、どんなお返事、ご回答がいただけるか楽しみにしているところです。 再三、「子ども達の命を守るため」「大切な人を守るため」という具合に、根拠のない精神論で子ども達に選択の機会、考える機会を封じ込めようとしているため、客観的なデータをお付けしました(笑) 重症化を予防するといわれているワクチン接種が、高齢者&基礎疾患のある人でほぼ完了した現在。 しかも、市内の入院患者、自宅待機者はゼロ。 当然、陽性者は何週間もゼロ。 緊急事態宣言も出ていなければ、マスク等の感染対策の命令などの法的根拠もゼロ。 ゼロゼロづくしなのに、どうしていつも学校は偉そうなのか、どうしていつも子どもたち自身に考えさせようとしないのか、はなはだ疑問です。 私が小学生の頃は、学校からあまりうるさく言われた記憶がありません。 記憶がないというか、私自身が守っていなかったのかもしれませんが、うちの子が学校から持ってくるプリントを見ると、いつも驚かされます。 百歩譲って学校内、授業中のルール、お願いなら分かりますが、いついつから自転車の乗って良い&悪い、放課後遊んで良い公園、行って良い範囲はここからここまで、公園に持っていっていい物、悪い物、友達の家では〇〇は良いけれども、〇〇はダメ…。 親である私が見てもうんざりする内容です。 結局、このようなルールの一つ一つは、学校側の責任回避のためでしかありません。 たぶん、過去に問題になったものを明文化していったのでしょう。 だから、とにかく細かい事例、特殊な事例が加わっています。 人間、保身になると、やることは一緒で、「県境またぐな」と同じように、「校区外に行くな」は、何か問題が起きたとき、どこの児童生徒かすぐにわかるように、また他校の子ども同士のトラブルは双方の学校が出ていかないといけなくなるので大変ということだと思います。 放課後は、子ども達が生きるための土台を作り、生き抜く力を地域、社会の中で育む時間です。 私なんか、友達と何駅も先の公園まで遊びに行っていましたし、夕焼け小焼けのメロディーと共に「良い子は帰りましょう」というアナウンスを聞いてからが遊びの本番という感じで、「俺たち、良い子じゃないからね」と真っ暗になるまで遊んでいたものです。 GHQが戦後、今後絶対に歯向かうことがないように、ということで手を付けたものの一つに学校

【No.1207】予防と根本治癒

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平日の午前中、仕事の合間に本を読んでいる自分に気がつく。 もし私が「会社勤めをしていたら」「あのまま施設職員として生きていたら」、こんな日々は送っていないと思います。 私は起業前から「自分が好きな仕事を作る!」「心からしたい仕事のみを行う!」という決意をもって始めていますので、直接お会いする発達相談もそうですし、日々の研鑽のために読む本や研修も仕事という雰囲気がなく、愉しいという心持ちです。 ですから、他の人達が思いっきりできない分、私が勉強に励み、それを親御さん達や社会に還元していくことが役割だと捉えているわけです。 今度、出版される書籍『ポストコロナの発達援助論』の原稿の中に、今まで蓄積してきた情報を出しきったという感覚があります。 ですから、原稿提出が終わってからは無性に今までとは異なる情報を自分の中に入れたくて、本をむさぼるように読み続けています。 書店に行くたびに、本を購入し、せっかく年末で片づけた部屋の床の上にタワーができてしまうくらいです。 今は農業についての勉強をしています。 次の職探しの意味もありますが(笑)、ある農家さんの話が衝撃だったことがきっかけです。 日本の農業はかつて人や動物が出した糞尿を土に撒き、肥料として使っていました。 しかし、今はそれができなくなったそうです。 何故なら、ある地域で行政が家庭のトイレからの排泄物を集め、農家さんに売り、土に撒くということを推進していたところ、撒いた土地では農作物が育たなくなったのです。 その理由を調べたところ、大量の化学物質が検出され、土の菌や微生物などが死滅していたことがわかりました。 つまり、そういったものが人から排出されたということは、それだけ危険なものを私達は日頃食べ続けているという意味でもあります。 有機栽培とは異なり、まったく肥料も、農薬も使っていない農作物を作っている農家さんがいるので、早速、注文してみました。 届いたミカンは、緑色のまだら模様があり、大きさも、皮の固さもバラバラでした。 そして食べてみると、懐かしい酸っぱさが口の中に広がりました。 今は甘いミカンに慣れてしまっているけれども、子どもの頃のミカンはこんな感じだったな、なんて記憶が蘇る。 色がきれいで、形も一緒。 食べれば、どれも美味しい果物たち、そして年中食べられる野菜たち。 私達消費者のニーズが、「自分たちが食べる分と

【書籍出版のお知らせ】『ポストコロナの発達援助論~発達の機会を奪われた子ども達に今からできること~』

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最近になってやっとこの異常な社会が子ども達の心身の健康と発達に与えた影響について、ちらほらと発信されてきたように感じます。 これは陽性者の状況が落ち着いている状況が続いているのと、2年という長い月日の中で蓄積されてきた問題が表に出だしたというのがあるのだと思います。 子どもの2年って、大人の2年とはぜんぜん違いますよね。 とうとう目に見えるくらいになってきてしまいました。 発達障害もそうですし、問題行動もそうですが、周囲から見て確認できるようになる前には、その子の内側ではじわりじわりと課題が進んできた過程があるのです。 健診で「発達に遅れがあるかも」と指摘されたのが1歳半でも、1年前、2年前、胎児期から既に発達の遅れが生じていたといえます。 このたび、緊急出版という形で一冊の本を書かせていただきました。 花風社の浅見さんから原稿づくりのお話をいただいたのは11月6日で、11月30日には提出した原稿の直しが終わり、表紙や目次等が決まっていました。 『医者が教えてくれない発達障害の治り方②』の出版準備が進んでいる中での作業です。 それだけ浅見さんの中でも強い想いがあり、私と同じように強い危機感とこういった状況に子ども達をしてしまった大人たちに対する怒りがあるのだと感じました。 ですから、このような「緊急」出版になったのだと思います。 しかしいくら想いがあっても、ボランティアや無料のブログとは異なります。 本を一冊作るためにも、多くの人達、多くのプロフェッショナルが関わっています。 商業目的の出版ですので、読みたいと思い、買っていただく方がいなければなりません。 そのように考えると、とんとん拍子で本が出来上がり、世に出していただける機会をいただいたのは、社会のニーズや流れと共鳴したからだと解釈しています。 親御さんを中心に気づいた人が多くなってきたのではないでしょうか。 子ども達の心身の健康に、発達に、取り返しのつかないことが生じてしまったのではないか、と。 『医者が教えてくれない発達障害の治り方①』では怒りが原動力の中心でした。 でも今回は、怒り以上に、申し訳なさの想いが中心になっています。 こういった状況を作ってしまった大人の一人として、心から申し訳なく思っています。 どう頑張っても、彼らの代わりに発達をやってあげることはできません。 どう謝っても、この2年間の時間を

【No.1206】緊急出版が決定しました!

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日本では流行しなかったし、子どもも、若者も、もっといえば健康な大人たちをも殺さない弱毒のウィルスだということがわかったので、コロナ騒動も2021年で終わりだろうと思っていたのが一年前の暮れ。 それが2021年も残り1ヶ月になったのに、まだ「オミクロン」などといってバカ騒ぎをしている。 慌てて入国禁止などをしたって、ウィルスは日本中に、この空気中だっているわけで、南アフリカで見つかった変異と同じような変異が日本のどこかで起っていても不思議ではありませんね。 というか、いまだにウィルスが海外から飛行機に乗ってやってくると思っているおめでたい人なんているのかいな、と思うのが正直なところ。 強毒性で感染した人が動けなくなるくらいのウィルスだったとしたら、「その人を入国させない!」水際対策でどうにかなるかもしれませんが、ほとんどが軽症、無症状のウィルスなんて抑えようがないでしょ、これだけ往来しているのですから。 オミクロンよりも、幽霊病棟で不適切なお金を得ていた、そしてこの日本の経済と人々の人生をハチャメチャにした尾身黒んのほうが大問題です。 というわけで、ここ数か月、下げ止まり状態の陽性者数でも、一向に余計な感染対策を止める気配のないジャパン。 どこまで子ども達を苦しめるんだ、と思いますね。 この2年間でよくわかったのは、この国は子ども達のことを考える人が少ない、子ども達の優先順位は低いということです。 子ども達の発達、成長、学びや青春など、ほとんどの大人たちにとってはどうでもよいのでしょう。 せめて小児科の医師や発達専門医、学校の先生や幼稚園&保育園の先生たちから大きな声が挙がるだろうと思っていたのですが、単発で発信したかと思えば、すぐにダンマリです。 これは、こういった子どもと関わる仕事をしている人達までもが死んだふり&保身まみれなのか、そもそも他の大多数のように子どもの発達に興味がないのか。 3.11の子ども達のように、ある程度、大きくなってから問題が表出することもあるでしょうし、そもそも誰にも気づかれない生きづらさを抱えてここまでやってきてしまっているのです。 早めに気づき、そこの課題をクリアしておけば、もっと違う幼児期があり、小学校生活があったと思います。 この国の大人たちは、そして日頃、子ども達と関わっている人間ですら、子ども達の内なる生きづらさ、発達の不具合に

【No.1205】普通級に入ることは、治った"結果"

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「気づかれないまま、大人になった発達障害の人達」と言われることがあって、だからこそ、「大人の発達障害を診れる専門医を増やそう」という結論で結ばれることがあります。 しかし、気づかれないまま大人になった人達を精神科医は救うことができるのでしょうか。 別に医師オンリーのディスりではなく、私だってそういった大人の人達に何ができるのか、できることは限られているな、もっといえば、ほとんど無力だなと思いながら仕事をしているわけです。 世の中にヘンな人はたくさんいて、だけれども、ほとんどの人がそれなりに生活し、自分の人生を歩んでいます。 こういった人が発達障害なのか、そうではないのかはどうでもいい話で、結局、発達障害があるかどうかではなく、自活できているかどうか、になります。 めちゃくちゃヘンな人で、持っているのがとても共感できるような趣味でなかったとしても、誰に迷惑かけることなく、社会の一員として生活できていれば、決められた時間に出勤し、求められる仕事を行い、給料を貰って、今日眠りにつくことができれば、何も言われないのが今のニッポン。 そう考えると、「治る」という意味を厳密に捉える必要はないのだと思います。 職場では上司と円滑なコミュニケーションがとれ、同僚とは協力しながら、一つのプロジェクトを完成させていく。 プライベートでは友人や恋人と一緒に楽しい時間を過ごす。 学歴で言えば、できれば大卒かな。 それが治った姿だと思うのなら、100%子育て、発達援助は間違った方向へ進むでしょう。 といいますか、こんな理想を掲げた子育てをしようもんなら、どんな子も潰れてしまいます。 親の理想はあくまで親が生きてきた人生の中で作られた価値観によるもの。 令和の子ども達が、昭和から平成を生きた私達と同じような価値観で歩むわけはないでしょ。 よく言う「快食快眠快便」は、発達がググッと進んでいく土台であり、条件の一つになりますが、大人になっても、ここができていない人は働けないし、自立した生活も難しくなります。 どんなに優れた医師や支援者がいたとしても、本人の代わりに良質な睡眠をとってあげることはできませんし、代わりによいウンチをしてあげることもできません。 つまり、本人という環境、身体を整えるということは、そのまま自立した人生へと繋がっていくのです。 どうも身体アプローチというと、神経発達の側面だけ

【No.1204】治ったら終わりではなく、治ってから始まる次の発達援助

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アメリカに移住した小室夫妻の動向をいまだに追いかけているメディアがいるみたいで、ビックリしました。 皇室を離れ、一般人として歩んでいく選択をしたのですから、もういいでしょう。 それを楽しんでみている読者、国民がいることも、私には理解できませんね。 みんな暇なのか、それだけ自分の生活が満たされていないのか。 男系男子のままで行くのか、それとも女系天皇の道を探っていくのか、その辺りに関心があるならまだしも。 日本の優れているところの一つに権威と権力の分離が挙げられると思います。 天皇は権威を持つけれども、権力は持っていない。 戦国時代の信長も、武力を持たない天皇の元に行き、頭を下げていた。 ほとんどの世界の国が権威と権力を同一にしているため、トップが倒されるとすべてがひっくり返ってしまうことが生じ、その都度、滅び、滅ぼされの道を歩んできましたが、日本は2000年以上続き、そのほとんどを平和に過ごしてきました。 ですから将来、愛子内親王が天皇として歩まれていく道を目指していくのは良いと思いますが、権威のもとになっている天照大神の子、つまり、男系男子が繋いできたY染色体の部分はどうするのかといった課題があるといえます。 ちなみにミトコンドリアDNAは母から子へ継承されますね。 昨年は通院や検査を控える人が多かったため、一時的に減りましたが、それでも戦後ずっと医療費は上がり続け、40兆円を超えています。 また「医師不足」と言われているものの、医師の人数もずっと右肩上がりで増え続けています。 医療費と医師の数は増えているけれども、患者さんは減る気配がありませんし、むしろ同じように増え続けている。 一般的にお医者さんの数が増えれば、健康な人が増え、患者さんは減るはずなのに、40代から80代の死因のトップは悪性新生物(ガン)のままです。 ここから考えられるのは、日本の医療は病気への対処が中心ということです。 病気にならないように、また再発などが生じないように、根本から治すということはメインではないのだと思います。 ですから、いろんなところで聞かれる「医師を増やせば、病気がなくなる」というのは成り立たないはずです。 むしろ治せる医師がいるのなら患者さんは減っていくはずで、医師が増えるというのは治せる医師よりも治せない医師が増えているということにもなります。 それはハッタツの世界だって

【No.1203】エクササイズをマジメに行えば治っていくと思う段階からもう一つ先へ

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今年の函館の初雪は遅く、もう11月も終わろうかというのに、さらっと降った雪がすぐに溶けてしまいました。 最高気温が1ケタ台になりましたので、寒いのは寒いのですが、着替える時間がもったいないので、半袖&半ズボンのトレーニングウエアのまま、車に乗り込み、ジムへ直行。 マイルールは「積雪したら上着を着ていく」(笑) どう考えても乾燥していてウィルスさん達が活発な時期、ヒトの免疫が下がる時期に入ったのに、北海道、もちろん、東北も一向に陽性者が増えていきません。 あれだけ「寒くなったら第6波」と言っていたのに、どうしたことでしょう。 考えられることとしては、デルタ株のような大きな変異が起きていないことと、ある程度、みんながデルタ株に暴露して集団免疫が成立したことが挙げられます。 ワクチン頼みの欧米は相変わらず収まる気配はなく、接種が進んだ韓国でも爆上がり状態。 「それは感染対策が素晴らしい日本だから」という声も聞こえてきますが、RSウィルスや手足口病は例年以上に増えているわけで、「コロナウィルスに対する感染症対策だけがバッチリ」とは言えないでしょう。 結局、第一波前にすでにある程度の日本人はコロナに感染していて、変異が起きるたびに自然免疫+獲得免疫で対処、集団免疫の成立となっていたのだと思います。 そう考えると、コロナ禍でもまったく関係なく、全国を移動し暴露し続けた私が風邪の症状一つ出なかったのも納得できます。 1400万人都市の東京で昨日の陽性者が5人。 神奈川、埼玉、千葉などから毎日300万人くらいが往来する東京。 どうして陽性者が減ったままなのか、それを分析するのが専門家のはずですがどうしたことなのでしょう。 増えることや苦しむことには興味があるけれども、減ること、みんながよくなることには興味がない。 または陽性者の増減はウィルス次第の自然現象のため、人為的にできることはないことがバレないようにダンマリなのでしょうか。 日本人の2人に1人はガンになると言われています。 しかしなぜ、人間はガンになるのでしょうか。 どうして日本人だけガンの患者さんが減っていかないのでしょうか。 既にアメリカではガンになる人、ガンで亡くなる人が減少傾向になっています。 日本人は長生きだから、ガンは遺伝だから、と言われますが、本当にそうなのか疑問です。 小児ガンの子どもは? 遺伝なら、どうして

【No.1202】発達援助の前に、悪影響を及ぼしている要因を減らしていく

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このウィルスは年代によるリスクが大きく異なっています。 別の言い方をすれば、どの人にとっても等しく脅威になるウィルスではないということ。 世界的に見ても、どの国の子ども達も重症化する人数は少なく、日本に至っては重症化もしなければ、死亡もしない。 ですから、高齢者や基礎疾患のある人、健康上不安のある人のリスクを下げられるような体制づくりができていれば良いわけで、しかもその人達のワクチン接種がほぼ完了している日本ですので、いつまで子ども達を苦しめれば気が済むのだろうと思います。 結局、目に見えない子どもの「発達」を、そしてその子達の未来に与えるネガティブな影響を、想像して行動できる大人がいなくなったのでしょう。 そんな社会に新しい命が生まれてこようとしないのは、当然だと思います。 未だに児童デイや発達相談、療育を行っている施設で、子ども達にマスクをつけさせているところがあるそうですね。 「子ども達の発達を」と謳っているところが、マスクの弊害に気がついていないのか、気がついていても自分たちの保身のために発達を犠牲にしているのかわかりませんが、とにかくそういったところはしっかり覚えておいた方が良いですよ、みなさん。 この二年間で、公教育のひどさはよくわかったと思いますが、こういった日頃、専門性を謳っているところが、マスクや過剰な感染対策によって、子ども達の心身の発達にどういった悪影響を及ぼしているかがわかっていないのです。 マスクをした状態でサーキット運動。 マスク越しの言語指導。 子ども同士、大人と子どもの触れ合いがない環境での社会性の指導。 すべて「型」をこなしているのでしょう。 結局、彼らの言っていた発達とは、型を覚えることであり、パターン学習であり、大脳皮質に向けたアプローチなのです。 発達って大脳皮質だけのことを言うのではありません。 むしろ、発達障害と言われる子ども達は、胎児期から言語を獲得する2歳前後に生じた発達のヌケによって、それ以降の発達がうまく進まない、凸凹してしまうというのが課題の本質だといえます。 ですから、アプローチするにしても、大脳皮質以下の部分であり、それだったら彼らはそもそもが発達を表面的にしか捉えていなかったと見えるのです。 そう考えると、マスクの弊害とか、酸素と神経発達の関係とか、完全に無視というのがよくわかります。 最近、「三つ子の魂百

【No.1201】専門家が専門化して視野狭窄

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遺伝子解析を行った結果、2019年の夏頃には中国の国内で新コロが存在していたそうですね。 2020年の3月までは中国人が日本の全国各地を移動し、食べ、遊び、買い物し、どんちゃん騒ぎしていたわけですから、日本国内でも新コロが現れてもう丸二年になります。 2年が経ちましたが、いまだに日本国内で流行する気配はなく、累計で人口の1%しか陽性にならない。 毎年のインフルエンザは、人口の10~20%くらいが"発症"しますので、あと20年くらいですかね、インフルエンザ様と肩を並べるまでは(笑) しかも無症状と軽症者が中心ですので、日本人にとっては弱毒のウィルスだったわけです。 毎年130万人が亡くなる日本なので、基礎疾患のある人、高齢者の人にとっては、リスク要因が一つ増えたに違いないと思います。 インフルエンザは毎年、子ども達の命を奪いますが、新コロはそんなことをしませんでした。 子どもに優しいウィルス、新コロ。 子どもにとっては単なる風邪の一種にすぎません。 ですから、接種しても感染し、排出するウィルス量は変わらなくて他人にうつす、強いていえば、回復までの日数が若干早まるくらいのワクチンなど打つ必要がありませんね。 もちろん、基礎疾患やその他の病気で自然感染もまずいというお子さんは打つ理由があるかもしれませんが、健康な子どもには必要が無いのです。 命の問題を言うのならリスクがある人だけ接種すればいい。 病床数がというのなら、それは政府と厚労省と医療側の話であって、子ども達の話ではありません。 そもそも大人の病床と子どもの病床って違うでしょ。 重症になったのが19歳以下で1人ですから、小児病棟が足りなくなるわけでも、もっといえばコロナ専門病棟に子どもさんが入院することになったとしても、重症症のベッドに影響は及ぼさないはずです。 こんなことは、誰にでもわかることです。 でも、子どもの接種を勧める医師や専門家がいます。 そういった医師などに対して、「F社から多額のお金を貰っているからだ」などという人達もいますし、陰謀論のようなことを言う人もいます。 そうでもいわなければ、辻褄が合わないからでしょう、子どもに接種させる意味が。 しかし私は、このハッタツの世界に身を置き、20年ほど経ってわかることが、ワクチン接種を勧める医師や専門家たちは、統計が分からないわけでも、副

【No.1200】「共同作業ができるできない」は、勝手に決められたチェックリストの一つにすぎない

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うちの子ども達がお世話になっていた、なっている保育園は、基本的に自由です。 発達段階上、クラス単位で行動する場面はありますが、ほとんどの時間は遊びたい場所で、遊びたいことをそれぞれの選択によって行っています。 新しく入園した子や兄弟児などがいると、年上の子ども達がお世話をしたり、一緒に遊んであげたり、また年齢も関係なく、遊びたい相手と遊ぶという感じで、異年齢同士でもよく遊んでいます。 当然、一人で遊びたい子はそれでOKで、周りで鬼ごっこしている中で、絵を描いたり、虫を観察したりしてる子もいます。 今回の新刊の中には、この保育園、また保育士さん、そして自由に伸びやかに遊ぶ子ども達の姿から教わり、着想を得た部分もたくさんあります。 大型恐竜が跋扈していた時代、私達のご先祖様は小さなネズミのような生き物でした。 そのご先祖様は、卵で子どもを産んでいましたが、途中からウィルスの力を借り、胎盤を形成し、現在のような出産に変化しました。 それは新しい命を守る戦略だったとも言われています。 そして人類700万年、生まれた赤ちゃんを集団で守りながら、命のバトンをつないできたわけです。 今でも原始的な生活をしている部族、また先進国以外の国では、集団での子育て、保育が行われています。 ヒトも動物の一種ではありますが、他の動物は生殖能力を失う=死・寿命になることがほとんどです。 しかし、ヒトの場合、そうではありません。 ヒトは生殖能力を失っても、生きる意味があるのだと思います。 それはまさに次の世代を育てるために必要だということ。 ヒトの特徴は、その大きな脳です。 単純に幼い命を守るために祖父母の代がいるというよりも、よりよく子どもを育てるために、高齢者がいるのだと思います。 コロナ禍で学校や園が休校の中、「毎日、地域の子ども達と遊んでいました」というご家庭が多くありました。 ある団地では、高校生、中学生が中心になり、そこに住む小学生や幼児さんを集めて一緒に遊ぶというところがありました。 ある地域では、家の扉がオープンになっており、いろんな年代の子ども達がそれぞれの家に行ったり、庭で遊んだりして過ごしていたところがありました。 昨年の段階では、親子の濃密な時間、一対一の関係性の中で大きく育ったと思っていましたが、このように異年齢間での集団が存在している地域の子ども達の姿を見ていますと、こ

【No.1199】出版記念講演会を終えて

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12時45分ごろ、会場につきますと、既に数名の方が待っていてくださいました。 その中には、半年に一回くらいのペースで訪問させていただいている方で、私もびっくりするくらい大きな成長を見せてくれるお子さんのママさんがいました。 若い世代のママさんで、素晴らしい行動力と何よりも深いお子さんに対する愛情を持った方。 皆さんにもご紹介したいくらいのステキなお子さんとママさんです。 やはり知っている方が来てくださるのは心強く、嬉しいものです。 他にも、以前、私が関わっていたご家族がお子さん達を連れて来てくださって、小学生の子も、成人した若者も、ご自身の人生を伸びやかに歩まれている姿を私に見せてくださいました。 援助者としてではなく、一人の大人として、先を生きる人間として、輝いている若者、子どもの姿を見ることは何よりも喜びです。 きっと私は、こういった姿、また親御さん達を見ることができるからこそ、今の仕事を信じて進んでいけるのだと思います。 空の上とジムの筋肉ゾーン以外、ほとんどノーマスクの私ですので、講演中のマスクで酸欠状態になりました。 途中、息が苦しくて、気を付けていた「早口」になってしまったり、一瞬ボーとしてしまうことがあり、聞き苦しいところがあったかもしれませんが、一番お伝えしたかった「発達を援助することの大切さ」に共感してくださった方が多くいらっしゃったようですので、良かったです。 イベント会場は蔦屋書店の2階でオープンスペース。 しかも、レンタルコーナーのすぐそばでしたので、一般のお客さんも大勢歩いていました。 ですから、刺激的な言葉は少なめで(当社比)、でも我慢できず、施設の給料と労働環境、尾身喰いとシャンパーニュは専門家に頼るとろくでもないという例えで使用させて頂きました(笑) 講演会後、昭和のお姉さまたちが列をなして私のところに来てくださり、「これが平成のお姉さん達なら」と一瞬よぎることもありましたが、みなさん、お孫さん、娘家族を心配されているおばあ様たちでした。 実は、おばあちゃん世代からのご相談も全国的に多くあります。 そしてほぼ共通しているのは、「私は普通の子、一般的な子に見えるのだけれども、"発達障害”と診断された」「娘は支援を受けなければならない、というのだけれども、本当にそれで良いのだろうか、と疑問に思う」というお悩みです。 祖父母の代の

【No.1198】親が親になることを妨げるハッタツの世界

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いよいよ今度の日曜日は函館蔦屋書店さんでの出版記念講演会です。 函館はホームといえばホームですが、現在は道外の仕事が多くなっていますし、どのような人がいらっしゃるかもわかりません。 例えると、五輪中、東京ドームで主催ゲームをしたスワローズみたいな感じでしょうか。 基本的に函館ではアウェーなのは変わっていませんので(笑)、そういった状況の中でどういった話ができるのか、どういった部分に共感を持ってもらえるか、が個人的な楽しみでもあります。 若いときから比較的、人前で話す機会があったのですが、どうも事前に原稿を作り込むとうまくいかないことが多い気がします。 本来、どんな場であろうとも、事前の準備は大切で一生懸命行う必要があると思うのですが、あらかじめしゃべることを決めておくと、途中で自分が飽きてしまい(ごめんなさい)グダグダになったり、決められた通りしゃべることに意識が向いて窮屈な感じがしてしまいます。 ですから、ある程度、大枠だけは決めておいて、あとは当日の雰囲気でしゃべるようにしています。 やっぱり誰かを前にして行うのですから、綺麗に話すよりも、ライブ感が重要な気がして、また当日ギリギリまで鮮度が良いもの、その瞬間連想したことのほうが面白いと思っています。 ということで、スライドは完成しているので、あとは当日の雰囲気でって感じです。 昨日の続きになりますが、「生まれつきの障害」という言葉が誰かの気持ちをラクにしたり、それ自体が救いになったりするのもわかります。 しかし、それが拡大解釈され、過剰になっていることの弊害が大きくなっていると私は感じています。 端的に言えば、「親の育て方、関わり方によって、予後が変わる」ということが禁句のような扱いになっている点に問題があると考えています。 昨年の第一回目の緊急事態宣言の際、親子で濃密な時間を過ごした家庭が大きな発達、成長が生じたというのは、発達援助の本質的な部分だといえます。 発達障害の子ども達は、既に誕生時、または乳幼児期の初期に発達のヌケや遅れが生じています。 再三申し上げますが、胎児期から2歳前後に生じる課題です。 とすれば、胎児期はそのまま母子の1対1関係ですし、0歳から2歳も中心は近しい人との1対1関係になります。 つまり、最初の対人関係である1対1関係で生じた課題は、やはり1対1関係の中で育つ部分が大きいというこ

【No.1197】発達障害の世界は差別だらけ

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新刊のタイトルであり、花風社さんの創業25周年記念出版の共通タイトルである『医者が教えてくれない発達障害の治り方』は、個人的にもとても気にいっています。 何故なら、タイトルというのは端的にコアな部分を伝えられるメッセージ性が重要で、そのままストレートに伝わってくる言葉になっているからです。 一目見ただけで、何を伝えたいか、どんな想いを持っているかなどの連想が浮かんできますね。 既にタイトル、表紙から本は始まっている感じがします。 タイトル通り、発達障害に関する医療従事者は「治り方」を教えてはくれません。 それは大前提として「生まれつきの障害」と「脳の機能障害」を引きずっているからです。 かつて「育て方の問題」と言われていた時代があり、そこを否定するために「生まれつきの障害」、つまり、「親の育て方で発達障害になるわけではない」という啓蒙を行っていました。 この国の発達障害をリードしてきた人達は医者であり、発達障害の子を持つ親でした。 30~40年前の当時の空気感を想像するに、医療従事者の中でも我が子が発達障害である人くらいしか、この領域に関心はなかったでしょうし、発達障害の子を持つ親御さんも、そういった医師でもあり、親でもある人を頼るしかなかったと思います。 有効な支援方法もなく、根本的な解決方法がなかった当時の親御さん達にとっては、唯一の救いが「生まれつきの障害」だったのかもしれません。 しかし、時代は進み、もう令和の時代です。 「生まれつきの障害」で良かった昭和の時代から平成の時代に移ったとき、平成は早期診断、早期療育、その他の支援サービスなどが整備され、同時に脳から神経発達の障害へ変わった時期でもあります。 ですから本来は、その環境整備と同時に、もう一度、子育ての中心であり、発達の基盤である家庭に意識が向けられるべきだったと思っています。 傍から見てきた感想ではありますが、あまりにも親御さんに遠慮し過ぎ、家庭での養育力を低く見過ぎ。 「生まれつきの障害」がいつしか、親御さんたいして否定的なことを言ってはならない、家庭に何かを求めてはならない、という空気感を作りだしていたように感じます。 「親御さんを否定してはならない。だって生まれつきの障害だから」 確かに重度の知的障害や症状、行動障害を持っている子ども達には専門的な支援が必要だと思います。 しかし、その一方で本

【No.1196】本に込めた想い

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今朝、ジムで上半身をイジメてきたあと、家に着くタイミングで佐川のお兄さんが大きな段ボールを抱えてやってきました。 お兄さんが軽やかに段ボールを持つ上着の袖から出たその上腕は素晴らしい張りをしていて、羨望の眼差しで見ていると、送り主のところに「花風社」の文字が書かれているのに気がつきました。 今回、新刊の制作に携わらせていただいたため、お世話になった方達にお贈りしようと思い、まとまった数をお願いしていたのです。 午前中は、まだ私が何者でもなかった頃、そしてほとんどの人が起業することを、起業したことを鼻で笑っていた時期に応援してくださった方たちへ感謝の気持ちを込めて、新刊の発送を行っていました。 午前に郵便局から郵送しましたので、明日、明後日にはお手元に届くと思います。 もし水曜日頃までに届かず、「私も散々世話したのに!」という方がいらっしゃいましたらご連絡ください(笑) 即、郵送いたします。 今回、初めて本の制作に携わらせていただいたのですが、1冊の本ができるまでに、これほど多くの方達の力と専門性が注がれているのだと実感することができました。 本をめくりながら、携わってくださった皆さまの顔が思い浮かびます。 本は好きで、子ども時代からたくさん本を読んできた私ですが、何気なく手に取り、読んできた本一つ一つに多くの人が携わり、たくさんの想いが詰まっていることに改めて気づくことができました。 いろんな人が携わり、いろいろな考えや体験を元に出来上がった本ですので、全面的に同意していただく必要はなく、「ここはそう思う」「いや、ここは違う意見だ」「これってどういうことだろう」など、読んでくださる皆さまが主体的に考え、そしてより良い明日に繋がるようなきっかけになれば、と思っております。 本を読んでくださった前と後で、何かが変わるのでしたら、それがその人の幸せに近づけるのなら、私は心から嬉しく思います。 そんなこんなで、新刊の発売と同時に、いろいろなことが動き始めて、急にバタバタと忙しい日々を過ごしていました。 そしてやっとのことで、先週の金曜日の「おかえりモネ」を録画で観ました。 鈴木京香さん、お母さんが家族が集まる中、震災当時の出来事を語る場面は良かったですね。 あれこそ、まさに心の傷を癒していく自然な人間の姿だといえます。 震災当時、いろいろな葛藤や悲しみ、心の傷を負った人は多

『医者が教えてくれない発達障害の治り方 1 親心に自信を持とう!』出版に伴うご案内

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【本の出版のご案内】 既に昨日より花風社さんに直接お申し込みいただいた方には本が届いております。 一般書店では10月15日から18日くらいに購入できる予定です。 この本は花風社さんの25周年記念事業の第一弾として出版されました。 本の「まえがき」「あとがき」「目次」は こちら からご覧いただけます。 【出版記念イベントのご案内】 10月24日(日)13:30~15:00 函館蔦屋書店にて出版記念講演会を開催させていただけることになりました。 事前のお申し込み、参加費は必要ありませんが、会場の都合上、先着30名になっております。 1時間ほど、実際のエピソードを交えながら本の紹介をさせて頂き、30分ほど質疑応答の時間をとりたいと考えております。 詳細は函館蔦屋書店さんの HP でもご確認いただけます。 【zoom講演会のご案内】 11月6日(土)13:00より『コロナ禍のヌケも育て直せる!』という講演をさせて頂きます。 主催は花風社さんです。 当日リアルタイムで参加できない方には、後日録画を視聴することも可能です。 お申し込み方法、講演の内容は こちら をご覧ください。 コロナ禍において子ども達の発達には既に影響が出てきているといえますが、本格的な影響が出るのはコロナ後になると感じています。 この1年半の発達相談において気づいたことと、それに対する発達援助のアイディアをご紹介したいと考えております。

【No.1195】ひっくり返して考えてみる

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緊急事態宣言が終わり、市内での陽性者もZEROが続いているのに、自主的にマスクをつけている人達がいます。 もちろん、私がマスクをつけない自由があるように、その方達にもマスクをつける自由があるわけです。 だけれども、どうしてマスクをつけようとするのか、どうなったらあの人達はマスクを外すようになるのだろうか、と疑問に思います。 戦時中のように「欲しがりません、勝つまでは」「外しません、ゼロコロナまでは」という具合に必死にコロナが全国からいなくなるまで、はたまた岸田首相が「みなさん、マスクを外しましょう」と言ってくれるまでつけ続けるのかもしれません。 「マスクをつける」という行為は、他者である私から見れば、みなさん、同じように見えます。 そんな人たちと指さして「おかしい奴」とレッテル貼りをするのは、脳みその省エネで、考えることを放棄したのと一緒です。 ですから、「マスクをつける」という行為、つまり結果をひっくり返して考えてみます。 マスク→同調圧力→主体性の未確立(他人軸)→愛着障害 マスク→同調圧力→集団の和から離れることの不安→その人にとっての適応の形態(学校適応、会社適応、社会適応) マスク→思考停止→心身に余裕がない→生活の苦しさ マスク→思考停止→心身に余裕がない→考えることの放棄(マスクをつけないことの説明がメンドクサイ、説明を省くため) マスク→思考停止→本能的な恐怖→感情的なショック(有名人の死、身近な人または自分の体験、テレビからの視覚情報) マスク→思考停止→自ら考えるという習慣のなさ・とくに自分の考えはない マスク→お守り→自分自身の健康不安 マスク→飛沫の防止→身近な人の健康不安 マスク→不快を感じない→長年の身体不調に対する慣れ マスク→経済的な理由→雇用主から求められている マスク→義務感・正義感→不安のひっくり返し マスク→ポジティブな感情→小顔に見える、化粧しなくて良い、綺麗に見える このように他人から見れば、みんな同じようにマスクをつけている人にしか見えませんが、そこに至るまでの過程は様々、背景も様々だということです。 では「マスク」を「感覚過敏」に変えてみましょう。 感覚過敏といっても、どの部位にどのくらいの強さ、または弱さ、まったく感じない、そしていつ頃から顕著になったか、その波は?という具合に、様々な症状の表れ方があります。 当然、