2021年5月12日水曜日

【No.1165】日本は未だに「脳の機能障害」笑笑

IOCの人たちからすれば、日本はオリンピックをしたくないのだろうか、と思うのではないでしょうか。
欧米では日本と2ケタ違う陽性者数で、死者数も圧倒的に多い。
というか、昨年の日本は欧米で見られる超過死亡がないばかりか、むしろ、例年よりも亡くなる人が1万人近く減っている状態です。
一生懸命ワクチンを打っている欧米よりも、まだ少ない陽性者数を推移しているニッポン。
誰がどう見ても、「さざ波」
小学校3年生から図表の読みとりの勉強が始まりますので、これがさざ波に見えない人は算数が苦手な人なのかもしれません。


その「さざ波」ツイートに盛り上がっていたマスコミも、マンボウ中川はスルーのようですね。
マンボウの期間中、発起人となり100人規模のパーティーを開催・参加したことが一番の問題ではなく、医師・専門家としての職責を果たさなかったことが大問題だと私は思います。
本来、「どうすれば、経済活動・私達の健康と感染対策が両立できるか」を専門的な立場から情報提供、提言するかが社会に果たす医療従事者の役目だといえます。
本当にエボラのような怖い感染症だとしたら、100人も集まってパーティーなんかしないはずです。
自分たちも分かっているのです、この新コロの危険性を。
それにも関わらず、一方で国民をバカにしたように上から目線で「自粛」を一年以上も言い続けている。
結局、政治団体であり、自分たちのギョーカイの利益のために動いているのが実態なのでしょう。
日本の医療の信頼を地に落とす決定打の一つになったと思います。


医療に限らず、専門家と言うのは、より良い未来と社会のために働かなければなりません。
年端もいかない子の親御さんに「一生治らない」「生涯、支援を受ける子」などというのは、専門家のすることなのでしょうか。
それこそ、マンボウ中川のように特定のギョーカイ団体の方だけを向いた言動ではないのでしょうか。
そういったどん底に落とすような発言をいまだに繰り返しながら、一方で「親の虐待が重大事件に繋がっている」という研究結果を出したり、子の発達よりも親の精神疾患予防が大事としたりしている。


親になって数年しか経っていない親御さんを突き落とし、手を指し伸ばした先が特別支援のベルトコンベヤーの上。
「どうしたらこの子の課題がクリアされるか?」
「どうしたらこの子がより良く育っていくか?」
それが知りたいのに、ギョーカイは明確な答えを教えてはくれない。
まるで「我慢の3連休」と同じ。
親子の自然な関わり、家族での思い出の時間は、つねに「自粛」と言い渡し、「支援を受けない親はとんでもない親だ。障害受容できていない親はとんでもない親だ」とメッセージを送り続ける。
それに同調する自粛警察のママ友が、そんなギョーカイに手を貸している。
「あそこに、児童デイ、退所した親がいるよ」
「あの子は、支援級から普通級に転籍したらしいよ」
と石を投げ、「どうせ、戻ってくるから」と感染するのを待ちわびるかのような発言をする。


日本という国は、権威と権力が分離している珍しい国です。
だから、「権力を失うと権威も失う」というものに慣れていない。
問題を起こし権力を失う人は知っているけれども、権威は別のところに存在している。
そのため、権威を感じれば、無条件に信じてしまうところがあると思います。
マンボウ中川がどんな人間か、ほとんどの人は知らず、その医師会会長という権威で無条件に正しいことを言っているように感じてしまう。
同じように、特別支援という世界を全く知らない親御さんが、初めて会う発達障害の専門家の前では、強い権威を感じ、無条件に信じてしまう傾向があると思います。
最初から特別支援の世界における専門家、医療の実態を知っていれば、何を言われようともどん底まで落ちないはずです。
多くの親御さん達は無条件で信じていたところに、「一生治らない」などと言われるもんだから、何倍も悲しい思いをするのだと感じます。


ですから事前に、「おや、うちの子、発達に遅れがあるかも」と思ったときに、幅広い情報を得ることが大事ですし、いろんな選択肢、方法、そして先を歩いている子ども達、親御さん達がいることを知ることが大事だと思います。
ギョーカイが流す情報は相変わらず、親子の子育ての自粛です。
その「自粛」の裏には、親と子の分離があり、そして目的は自分たちの支援を利用することになります。
もし、課題を解決する具体的な助言、より良く育つための援助があるのなら、こんなにも発達障害児の自粛は続かないはずです。


欧米では当たり前のように神経発達症が使われているのに、今もなお、「脳の機能障害」に固執し続けている日本のギョーカイ。
欧米からすれば、why?what's?
さざ波のような発達の遅れの状態、ヌケの状態なのに、あたかも大きな波が生じているかのように誇張し言い続けるギョーカイとメディア、そしてギョーカイ脳の人達。
「いやいや、このくらいの凸凹は育ててあげればいいじゃないですか」というのも、「障害特性だ」「治らないんだ」「生涯の支援が必要だ」と脅かし、自分たちの利益を確保しようとしている。
たまに外から「この程度は"未発達"。これで生涯支援、治らない、診断が外れないとかいうと笑笑」というと、ギョーカイ活動家とギョーカイ脳の人たちが騒ぎ出す。


昨晩も医療的ケア児の番組がやっていました。
発達障害は障害全体から見れば、限りなく健常寄りですし、軽度の障害です。
とっとと自粛は止めて、親子の子育て、関わり、家庭生活の中でヌケを育て直し、未発達は丁寧に育てていけばいいのです。
ギョーカイが恐れているのは、支援以外で育ち、自立していく人達の存在が公になること。
そうです、自分たちの不要不急の支援が切り捨てられることが一番怖い。
ワクチンのように、精神科薬で儲けたい人たちがいるのも事実。
ですから、やっぱり一人ひとりが考え、選択し、口先だけではなく実際に行動できることだと思います。
あとはテレビを消すこと、観ないこと。




2021年5月10日月曜日

【No.1164】特別支援の世界におけるインフォデミック

未だに新型コロナを「未知のウィルス」と表現している人がいて、それは「未知じゃなくて、無知だよね」と思います。
もう一年が経っているのですから、しかも世界同時多発的に生じた新型コロナですから、莫大な情報、知見が集積されているはずです。
でも、何故だか、感染経路について明確な情報提供がされていません。
日本国内においても、全国の保健所が聞き取り調査を行い、しかもクラスター班などという組織もあったわけです。
そろそろ感染経路が「飛沫」なのか、「接触」なのか、「空気」なのか、言ってほしいものですね。
もちろん、それぞれの確率がゼロではないと思いますが、2002年のSARSは飛沫と接触、特に排泄物からの感染が中心というところまで明らかにされたのですから、SARS-COV-2というくらい同じ系統の新コロなので、「この確率が高いですよ!」「ここからの感染が中心ですよ」と言ってくれれば、対策もできるわけです。
そうすれば、富岳も唾の計算ばかりさせられなくて済む(笑)


物事を本気で解決しようとすれば、その根っこを掴み、そこにアプローチしなければなりません。
「人流を止める」というのは、別の言い方をすれば、「飛沫か、接触か、空気か、わからないから全部止める」と言っているようなものです。
こんな乱暴な話ありますかね、これが専門家、首長、大臣のやることですかね。
原因分析は行わない、行っていたとしても言わない。
で、「わからない」と言えないから、カラオケ店も、美術館も、飲食店も、百貨店も、全部まとめて止めてしまう。
結局、自分たちの無能さを多くの国民に押しつけているわけです。


察しの良い方は、もうお分かりだと思いますが、これまたいつものように特別支援、ギョーカイの動きとリンクします。
2013年より世界は神経発達症になっているのに、いまだにギョーカイは「脳の機能障害」と言ってはばからない。
「脳の機能障害」は、「人流を止める」と同じですね。
結局、何が根本的な理由、障害となっているか、わかっていないのです。
いくら脳を調べても、共通する病因が見つからない。
だけれども、「脳で生じている問題だよね。たぶん、脳の不具合だよね」ということで、ひとまず「脳の機能障害」と言っている。


でも、世界は脳の不具合というざっくりしたものではなくて、多くの知見の集積から「神経発達の不具合である」というところまできているわけです。
だからこそ、身体に注目し、そこにアプローチしてきた人たちがどんどん良くなっているし、ギョーカイのできない自立ができるようになっているのは当然の結果なのです。
神経発達の不具合だったら、神経が育つようなアプローチを選択すれば良いわけです。
接触感染、それもトイレが危ないぞとわかれば、そこをおさえればうまくいきます。
一方で訳も分からず、「空気かもしれない」と雪が降る中、窓を開け、「飛沫かもしれない」と熱中症と脳障害という健康のリスクを無視して、顔にパンツをつけ続ける。
スーパーに入るときに、手にシュッシュ、スーパーから出るときにも、手にシュッシュ。
あんたの手は、どれだけ汚いのかと思ってしまいます。


あのアクリル板は、誰の発案なのでしょうか。
海外でやっているところがあるのでしょうか。
というか、あんなもんで感染症が減るなんて思うバカはいないし、そもそも何に対して防御しようとしているのでしょうか。
空気は関係ないし、飛沫だって大きな唾以外は空気中を舞うから意味ないし、接触感染でいえば、アクリル板にウィルスが留まるからリスクを高めているといえます。
結局、アクリル板でこの3つを防ごうとすれば、完全に囲んで密閉しなければなりません。
まるで、構造化の衝立のように、エスケープゾーンという牢のように。
たぶん、「なにか対策しています」風に見せるものなのでしょう。
まさに今の特別支援で行われている構造化も一緒。
支援やっています風の構造化。
ちなみにこういった衝立は、「視覚情報を制限する」という表向きの意味だけではなくて、裏の意味としては「あなたはここにいなさい」という場所の限定という意味もある。


特別支援教育、ギョーカイは、「脳の機能障害」と言っている限り、上辺だけの変化しか起こすことはできません。
発達障害の子ども達の根本的な課題、悩みには対処できないのです。
「脳の機能障害」は、脳に不具合が生じてる状態であり、原因ではないのですから。
象徴的なのは、「自閉症だから視覚支援」というやつです。
何も答えていないし、わかってもいない。
「ステイホーム」と同じです。
ただのパフォーマンス。


視覚優位だからというのなら、なぜ、視覚優位の状態になっているのか、その子その子の理由を明らかにする必要があります。
聴覚の未発達が視覚優位につながっているのか。
乳幼児期からの長時間のメディア視聴が視覚優位の脳へと歪ませているのか。
背骨が育っていないために、首から上で情報処理してしまっているのか。
運動発達のヌケが認知的な発達の遅れを生み、結果的に見て理解するしかできていないのか。
その「なぜ」を明らかにするのが専門家の役目であり、真のアセスメントというやつです。
今のギョーカイはアセスメントを行わないから、支援しています風の視覚的構造化に走る。
とにかくアクリル板立ててればイイみたいな。


尾身会長は「人流を止めるために魅力的なところを全部閉める」と言って、3回目の緊急事態宣言の説明をしていました。
もはや科学でも、専門家でもなく、個人的な思い込みです。
そして、どんな効果があったのかわからず、再び延長。
そもそも「人流」というのが科学的ではないので、検証のしようも無いのですが。
これまた「生まれつきの障害」と同じです。
生まれつきとは言うけれども、生まれたときに診断を受けた子はいない。
つまり、これも個人的な思い込み。
どちらかといえば、「そうであってほしい」という願望でしょうか。
ギョーカイのターゲット、お客さんは長期的に預けるという決定権を持っている親御さんなのですから。
支援者の多くは、「親を気持ちよくさせる」ことが支援だと思っている。
支援者がそういった本来の支援とは異なる方に進んでしまうのは、特別支援の世界が非科学的で、かつ権威主義だから。
「人流止めるってバカじゃね」と思っていても、医療従事者からの批判の声はほとんど聞こえてこない。


「原因が分からないから、人流止めちゃえ」という決定の裏に、失われたものが多くあります。
仕事はお金を得るだけではなく、それが生きがいだったり、自己実現だったり、居場所や心身の養生だったり、より良い社会を作るための行動であったり。
実際、どれほどの命、財産、喜び、人としての幸せが失われたことか。
同じように、ギョーカイの非科学的な思想、また自分たちの利益のために、親子の時間、家族の思い出、家庭での育ちが失われていることもあります。


原因がわからないときは、「わかりません」と正々堂々と言う。
もし過ちに気が付いたら、すぐに訂正し、謝罪する。
それが真摯に向き合うこと、専門家ならそれが職責を果たすということだと思います。
「脳の機能障害」も明確な根拠はありませんでした。
だから、「今のところ、"脳の機能障害"と言われています」が正しい表現の仕方だったと言えます。
それが「子育てじゃなくて(親のせいじゃなくて)、脳の問題だから」と強調したいばかりに、もっといえば、親に忖度し続けた結果、引くに引けなくなった。
それが2013年から世界が神経発達症に変わっても、日本のギョーカイだけ「脳の機能障害」から抜け出せない理由です。
煽り続けたマスコミ、専門家が今さら「インフルエンザよりも弱毒性だった」と言えないように。
「マスクも意味がありませんでした」「日本はニューヨークにも、ミラノにもなりませんでした」と前言撤回できないから、あとはインドで煽って、とにかくオリンピックを潰すしかなくなる、オリンピックを潰したあとの日本がどうなろうとも。
インフォデミックは、既に特別支援の世界で起きていましたね。




2021年5月7日金曜日

【No.1163】最後に残るのが、その子の根本的な課題

発達には順序がありますから、ある段階で発達のヌケが生じると、それ以降の発達全般に影響が出るものです。
なので、気持ちとしては「できるだけ始まりのヌケを育てたい」と思うのは当然でしょう。
私自身も、ある程度、発達の流れとどこにヌケがあるかがわかるようになってからは、「できるだけ根っこに近いものを掴み、アプローチしたい」と思ったものです。


しかし子どもさんの場合、こちらが育てたいところをあれこれ促したとしても、やってくれないことが多々あります。
それは自然なことです。
子どもに「やらせる」というのは、教示であり、訓練であり、発達ではありません。
発達とは、外からの促しによって行うものではなく、内側から突き動かされて思わず行ってしまうものだからです。
発達にヌケがある子ども達も、本能の赴くままに、自分がやり残してきた段階に戻っていく。
そこに定型発達の子ども達との違いはありません。
あるのは育て直すための退行を「発達」と見るか、「問題行動」「特性」と見るかの周りの目だけです。


私の支援者としてのスタンスは、「本人の発達を邪魔しない」
ですから、なるべく介入を減らし、本人が育てたいところをそっと後押しする、そんな感じです。
そうやって本人の内側にある発達する力に委ねるような支援をしていたら、この頃、気がついたことがありました。
最後に残るのが、その子の根本的な発達課題。


最初にお会いたときは、あれもこれも発達のヌケがあったお子さんが、時間が経って再びお会いすると、いくつもあった発達のヌケが育ちきっていることがあります。
親御さんはその時々の本人が育てたいところを育ちきれる環境を用意し、発達の後押しを続けていった。
その先に行き着くのが根本的な発達課題。
イメージで言えば、枝葉だった発達のヌケが育ち、幹の部分につきあたる感じです。
ですから、発達援助がうまくいったご家庭は、「あとは〇〇だけになりましたね」ということが多いです。


運動発達のヌケを1つずつ育てていくと、最後に愛着形成の課題が残ることがあります。
その子の場合、生きづらさの根っこが愛着の部分だったわけです。
他のお子さんでは、片足立ち、ハイハイ、寝返りを育て直したあと、背骨の課題が明確になり、そこを最後に育てようとしていました。
また運動や感覚面の発達のヌケを育てきると、家にあった玩具やテレビなどの興味を失い、外で砂遊びを始めた子もいます。
たぶん、このお子さんの本質的な課題は自然の中で遊べなかったことなのでしょう。
それぞれの子どもに、それぞれの根本的な課題がある。
別の言い方をすれば、そこに辿りつけない不完全燃焼さが今の生きづらさとなって表れている。


子どもの発達を見ていると、それぞれの子にはそれぞれのテーマがあるのがわかります。
数ある発達のヌケも、どこから育てるかは一人ひとり異なります。
そしてどこを育てたら、ドカンという全体的な発達が生じるかも、一人ひとりで異なります。
ですから、この発達援助という仕事にはマニュアルを作ることができません。
あるのは、「育てやすいところから育てる」という方針であり、その育てやすいところは、往々にして本人が今、育てようとしているところになります。


この春より普通級に進学した親御さん達は、おもしろいように同じことをおっしゃっていました。
「その都度、子どもが育てたいところを後押ししてきたら、自然と治っていた。最後に残った課題は小学生のうちに育つと思います」
枝葉の発達のヌケと比べて、幹の部分、本人のテーマである発達のヌケ・課題は育ちきるまで時間がかかるように感じます。
今までにも、その課題を持ったまま、小学校に入学していった子ども達がいましたが、みなさん、時間をかけて課題と向き合い、クリアしていきました。
成人した人たちが、最後の課題を社会の中で治していったように、子ども達も学校生活という時間の中で最後の課題をクリアしていけば良いはずです。
普通級の中にも、いろんな課題を持って過ごしている子ども達が大勢いますから。
課題をきれいさっぱりなくしてあげることよりも、自らで向き合い、クリアしていける土台を育てる方が大事かもしれませんね。




福岡出張(5/14~16)は、すべての日程が決まりました。どうもありがとうございました。
沖縄出張(6/18~21)は19日のみ空いておりますので、引き続き、発達相談の受付を行っております。どうぞよろしくお願い致します。


2021年4月28日水曜日

【No.1162】子ども達を守れるのは親御さんしかいない

先週末は出張で東京に行っていましたが、いずれも良い天気で、着ていった長袖が暑いくらいでした。
あんな暑い中、そして気持ちよい日差しの中、マスクするなんてもったいないですね(今回もマスク警察には会いませんでした)。
どこもかしこも人は多く、ジム用のウェアを買いに行った新宿のデパートでは、店員さんが激おこで「明日から休業ですよ、百合子様のせいで(怒)」と言っていて、私がうんうんと頷きながら時々「デパートでクラスター起きてないんだから、無視すればいいんですよ」と慰める始末。
ツンデレ百合子はストレートにモノが言えないもんだから、ちゃんと東京に行き、あちこちを移動して仕事をしながら、いろいろ買い物や食事をしてお金を使ってきましたよ。


1400万人都市の東京で、重症者数が50人前後。
で、どうして医療崩壊するのかがわかりませんが、それにしても大阪の重症者数が多い気がします。
でも、よく考えると、この重症者という定義って東京と大阪は同じなのでしょうか。
調べてみると、①ICUで治療 ②人工呼吸器を使用 ③エクモを使用 のいずれかに該当する場合が厚労省が定めた重症者の定義になっていました。
これをみて思ったのですが、病状が重症度を決めるわけではないんですね。
ということは、新コロの症状が重いからではなく、「高齢者だから」「基礎疾患を持っているから」「まだ空いているから(?)」という現場の判断で、たとえ危険な状態ではなかったとしても、人工呼吸器がつけられていたら重症者にカウントされる場合があるということではないでしょうか。
重症者ベッドは「より多くの加算が税金からつけられている」ということは、今までの日本の医療の流れから言えば、できるだけ埋めたくなる、常に満床にしておきたいような気がします。


「重症者により多くの加算が付く」というのは障害者福祉でも同じです。
国としても、より重く、介護等のニーズが大きい方達を積極的にケアしてほしい、と願うのは当然です。
だから、重い症状、重い介護度の人に、お金の重みをつける。
一方で現場としては、馬鹿正直に重い人ばかりをみるわけではありません。
人権と労働基準法がない福祉の現場で、働く人を集めるのは大変です。
たとえ見つけたとしても、すぐに辞めていくような職場です。
そんな職場で、儲かるからと言って重度の人ばかり受け入れられるわけはないのです。
専門性も、人も、足りないのですから。
だけれども、経営としては「重度の人」が欲しい。
そこでペン先を嘗めるのです。
本当は軽度の人を重度にする。
軽度だけれども、問題行動があればそれをオーバーに表現する。
「二次障害」というワードは、現場の支援者にとっても使い勝手が良いわけです。
施設利用者は、あたかも施設内で問題が大きいような報告をする。
それを親御さんが、または支援者が直接、医師や心理士に伝える。
で、軽度の人が重度に早変わり。


ギョーカイがなぜ、「二次障害」という概念を広めようとするのか。
それは予防的な意味合いから、早い段階で支援に繋げようとする意図と、軽度やそもそも発達が遅れているだけで問題のないような子を、重度や支援対象に移行する可能性を示すことで、いつでも囲い込めるようにしておくためです。
誰にでもくる思春期の揺れを、誰にでもある学校や職場、人間関係での悩みを、二次障害という言葉に置き換えることができる。
その可能性が一つあるだけで、いつでも彼らを「支援対象」にすることもできるし、「重度」にすることもできる。
だからこそ、「二次障害」という言葉を多用し、啓発するのです。
だって、「二次障害」という概念、言葉があっても、当事者の人たちにとってはプラスにはならないでしょ。
当事者の人たちが少しでもラクになる、生活が豊かになる、自立度が上がるための言葉でなければ、それは当事者以外の人が利を得るためのものでしかないのです。


「高齢者だから、(今は必要ないけれども)予防的に人工呼吸器をつけよう」は、「発達に遅れがあるから、(今は必要ないけれども)予防的に療育を受けさせよう」と同じ匂いがします。
仕事でお会いする相談者の年齢が低くなればなるほど、必要性のない療育、支援が横行している気がします。
私から見れば、「ただの遅れでしょ」「いま、ゆっくり育っているだけでしょ」という子ども達が、訳も分からず療育に繋げられ、通わされている。
その療育に通う意図は?と尋ねても、明確な答えが返ってこない。
百歩譲って療育を受けることは良いとしても、ギョーカイの狙いはそこじゃないことを承知しておく必要があると思います。
子ども達が子ども時代、療育を受ける→それが儲けになる、だけではありません。
本当の狙いは、生涯支援が必要な人になること、金の卵を産み続けるメンドリになることです。


一度、診断名をつければ、かたくなに外そうとしないのもそれです。
一度つけれさえすれば、いくら安定していても、もう支援が必要ではない状態に育ったとしても、「思春期」「二次障害」という概念がある限り、いつからでも「支援が必要な人」「重度の症状を持つ人」に変えることができる。
だからこそ、欧米では子ども時代の診断名は(仮)であり、外れる可能性があるといっているのにも関わらず、いまだに日本だけは、というか日本のギョーカイだけは「一度付いた診断名は外れない」としている。
それは当事者のためではなく、自分たちの都合のため。
当事者の人たちにとって、また親御さんたちにとって、「外れる」ことがあるというのは希望になり、発達・成長、子育ての希望と力になります。
だけれども、ギョーカイは必死に否定する。


「人工呼吸器を付けている人が重症者」というのも、「療育や支援を受けている人が障害者」というのに似ていると思います。
必要のない、意図が明確ではない療育、支援を受けている子ども達は山ほどいます。
だけれども、傍から見れば、療育や支援を受けているのだから、障害を持っているのだろう、ということになります。
我が子の発達の遅れがわかった親御さんは、勧められるがままに療育、支援を受ける。
そのときの心境としては、「療育を受ければ症状が良くなる」「自立できる子になる」でしょう。
だけれども、療育の効果がないことに気づくのは、ある程度、受け続けたあとになります。
しかし療育を受けた事実は、診断名が付いた事実は、障害者として認めたという意味になる。
だから就学相談の手紙が届くのです。
そして地域によっては、療育と診断が既成事実になり、特別支援の道へ入れられてしまうことがある。


ギョーカイも「発達障害も発達する」は認めています。
これを認めないと、療育や支援を受ける意味がなくなってしまうからです。
だけれども、一方で「一度付いた診断は外れない」「IQは下がることはあっても上がらない」「治ったのではなく寛解」と真逆なことを言っています。
これはどういうことかといえば、状態が変わることを知ってほしくない、自分たち以外は。
本当にその人が人工呼吸器が必要なのか、コロナの影響で、コロナの症状が重いから人工呼吸器が必要なのか、が一般の人が判断できるようになれば、都合の悪いこともあるでしょう。
同じように症状が変わることが分かれば、症状を良くできない自分たちは責められますし、日常茶飯事に行われている症状の重さの書き換え、ペン先舐めて「今すぐにでも支援が必要な状態」と表現すること、ただの未発達を「自閉症」「発達障害」という診断名にしてしまうことができなくなってしまいます。
その妥当性を突っ込める人がいないから、ギョーカイは自由にやりたい放題ができるのです。
だから診断の権限は渡さないし、症状の重さ、支援の必要性の判定は内輪でやってしまう。


マスメディアは視聴率、購入部数を増やすことが目的です。
真のジャーナリズムとは、こういった一般の人が知らないこと、見えていないことを調べ、報道することだと思います。
本当に重症者病棟の使用率は100%を超えているのか。
どういった人たちが重症者として利用しているのか。
この重症者の定義、運用は適切に行われているのか。
個人が調べるには限界があるので、ジャーナリストが必要なんだと思います。
ジャーナリストが調べた事実をもとに、一人ひとりが考え、行動するのが健全な社会というもの。
いま、ギョーカイ内の歪んだ状態を述べる人は限られているので、また多くの親御さん達が知らずにギョーカイの手の内に入っていってしまっているので、私は見てきた真実を発信し続けていきたいと思います。
子ども達を守れるのは親御さんしかいないので。




2021年4月21日水曜日

【No.1161】一次情報を二次情報へ

私の子ども時代は、毎日アニメ番組がやっていたし、「かとちゃんけんちゃん」や「ものまね王座歌合戦」「スターどっきりマル秘王国」などのバラエティ番組が面白かった。
私と弟がそんなテレビを観て馬鹿笑いしていると、決まって親が「こんなくだらないテレビばっかり観てから」と小言を言っていた。
だから今、実家に帰ると、私は「こんなくだらないテレビばかり観てから」と叱っています(笑)


私があれこれコロナについて指摘すると、「私だって、いろいろ調べて勉強している」と反撃をしてきます。
だけれども、「何で勉強しているの?」と尋ねると、テレビに出てくる専門家の解説を聴いて勉強しているという…。
だから私は決まって「スイッチ押したらタダで見れるもんで、勉強なんかできるもんか」と突っ込むのです。
どうして昭和の大人たちは、テレビがためになる情報をタダで教えてくれると思うのでしょうか。
どうして昭和の大人たちは、NHKはいつも正しいと信じているのでしょうか。
どうして昭和の大人たちは、最後には「みんなも言っている」といい、その内訳は仲の良いお茶友の3人くらいなのでしょうか。
「だって、〇〇さんも、お医者さんがそういっていたって言っていたもん」というけれども、その〇〇さんも同じ朝のワイドショー観てるんだから、結局一緒でしょうよ。


現代社会は無料の情報で溢れています。
そういう私のこのブログも、ラジオ配信も、すべて無料です。
だからテレビと同じように、勉強するものではないと思っています。
あくまで、読んだり、聴いたりしてくださる方たちにとっては考えるきっかけにすぎないのです。
もちろん、私が記す内容は、素晴らしい実践家の方たちから教わったことや文献等から学んだものもあります。
しかし、基本は私の実践と経験です。
できるだけ私の偏見が入らないように、生のまま、感じたままをお伝えしようとは思っていますが、どうしても私の思考が影響を与えてしまいます。


そういった私の思考がにじんでいる情報を、どのように捉え、どこに注目し、なにを活かすか、は受け手の皆さんにかかっています。
同じものを見て、同じように感じられないのが、人間なのです。
だからこそ、受け取った情報を自分の頭で精査し、考えるプロセスが重要になります。
よく「あの子がうまくいったから、うちの子も」という親御さんがいますが、それはとても危険なことです。
あの子とうちの子は、まったく別の人間。
あの子でうまくいったことが、うちの子にとっては毒になることもあるのです。
ですから、「どうしてあの子は、その方法がポジティブに働いたのだろう」と、一呼吸おいて自ら考えることが重要になります。
試行錯誤が上手な親御さんは、発想が豊かな面もありますが、実はちゃんと他人の様子を見て、どこが良いのか、悪いのか、うちの子との共通点は、活かせるところは、という視点で考えている方が多いと感じます。


「我が子のことをちゃんと見ましょう」と訴える支援者は多いし、私もその一人です。
だけれども、それは「我が子だけを見る(他人は見ない)」ではなく、我が子始まりで子育てをしていく、という意味です。
「あの子がうまくいったから、うちの子も」は、他人が始まりになっています。
一方で、「あの子がうまくいったのは、こういった点、理由においてで、それだったらうちの子にもうまくいきそう」と考えるのが、我が子始まりです。
書籍からの情報や専門家の言葉を聴いて、同時に「うちの子は…」と思い浮かんでいるのも、そうです。
常に「我が子」という軸があるからこそ、もっといえば、「私がこの子を育てるんだ」という親御さんの軸がしっかりしているからこそ、冷静に周りのことを見つつ、我が子のことをしっかり見れているのだと思います。


子育てに苦手意識を持つ親御さんが多いのもよくわかります。
だって、与えられた情報をそのまま読み、求められる答えを導き出すのは得意だけれども、一次情報から真実を見つけ、自分の考えや意見を導き出すのは苦手としているから。
なんだか「間違ってはいけない」と考えている人が多い気がします。
その「間違ってはいけない」も、科学的な真実よりも、多数派と違う方向に進んではならない、みたいな。
だから少しでも評判の、ある意味、多数派の療育、支援者に流れていく。
この世の中の多数派は、怖がりで、自分の頭で考えるのが苦手な人達ということは押さえておく必要があります。
「人気の療育機関に通えているから」は、「マスクをしているから大丈夫」というように、まったくもって科学的ではないのです。
「先進地域」「有名支援者」「早期療育」そのすべてを持っていたとしても、みなさん、自立できていないという結果が出ています。


東大の研究グループが行った実験も、密閉された水槽の中にマネキンが向かい合わせに置かれ、20分間も飛沫(コロナ入り)を浴びさせ続けて、「マスクがどのくらい防いだか」を調べています。
そんな話を親にしたら、びっくりしていました。
マスコミは都合の良い部分だけを切り取って流す。
実際、水槽のような密閉空間で、口を開けて向かい合うことがあるだろうか。
フツー、咳しそうになったら、相手の顔とは別の方向を向くだろう。
そのまま、咳を目の前にいる人に浴びせ続けないでしょ、人は。
「そんなことテレビで言っていなかった」というが、言わないのがテレビです。
「東大」「研究」「富岳」と3つのワードでイチコロだから、テレビは自らの姿勢を改めていかないのだと思います。
こんなインチキが、今も続く飲食店いじめにつながっているかと思うと、怒りを通り越して哀しくなります。


コロナ騒動のおかげで、ウィルスについて勉強することにもなりましたし、何よりも情報との向き合い方、日本人の現状、論理的な思考とは、を考えるきっかけになりました。
日本人にとって『不安』とは、科学的な真実を超える。
ということは、より良い子育て、発達援助の条件は、大人が不安に対処できている状態、不安をコントロールできている状態だといえます。
ですから私の仕事では、ギョーカイが不安を煽ることで商売をしているのと正反対の、子どもの可能性や前向きな未来を感じられるような視点とアイディアで頑張っていきたいと思います。
親御さん達も、不安を煽るような情報とは距離を置き、また手にした一次情報から自分の頭で考え活かす二次情報への作り替えを目指していただければ、と思います。
子ども達の未来が少しでも明るいものとなるように。
さあ、子ども達、若者たちは、たくさん空気を吸い、たくさん遊び、たくさん学んでください。
その環境を用意するのが、大人たちの役目です。




2021年4月20日火曜日

【No.1160】自由を守るための発達援助

大阪知事の顔を見たら、急に施設時代を思いだした。
あの目は、24時間寝ないで勤務している人間の目である。
見ているようで見ていない。
現実にいるようで、非現実の世界にいる。
そんな感じがする。
きっと眠れない日が続き、心身が限界に達しているのだろう。
そういった人間は、短期的な判断しかできず、だから今までの方針をガラッと変えたのだ、つい1ヶ月、2ヶ月前はいち早く緊急事態宣言を解除し、誇らしげな顔をしていたのに。
維新というのは、子育て世代と次世代をみた政策が方針だったと思うが、それをぶん投げ、いち早く子ども達から部活動と学校で学び合う権利を奪った。
これはコロナ騒動が終わったあとを考えると、維新の存在意義、政治家生命までをもぶっ壊す判断だったと思う。


スウェーデンは、国民の「移動の自由」「営業の自由」、そして何よりも子ども達の「教育を受ける権利」を守るために、緩和政策をとった国である。
当然、日本とは人口も、経済も、大きな違いがある国で、そのまま比べるわけにはいかないが、他国からとやかく言われようとも、ブレない方針には敬意を表する。
実際、強い強制力を働いた国と比べても、陽性者数は変わらないし、むしろ、少なく収まっているくらいである。
しかも医療崩壊すら起きていない。


こういったスウェーデンの背景には、死生観が強く影響しているといえる。
スウェーデンでは積極的な延命治療は行わない。
だから寝たきりの高齢者もほとんどいない。
自然のまま、それまでの生活、幸せを維持しながら静かに人生の幕を閉じていく。
彼らに言わせれば、管を何本もつなぎ、胃ろうまでして呼吸のみを維持させようとする状態は、虐待に見えるらしい。


今年、青いお祭りは開催されたのだろうか。
今の世の中、自閉症の"じ"の字も出てこない。
真っ先に子ども達の権利や学び、遊びが切り捨てられる日本において、さらにマイノリティーの特別支援の世界はほとんどの人が意識にすら上がってこない。
いま、「自閉症の理解を」と言って、誰が振り向いてくれるだろうか。
結局、この問題は身内が身内のために行っていたのである。
テレビなどのメディアで取り上げられたりすると、「社会全体が考えてくれている」と勝手に勘違いしていただけ。
あくまで一般の人たちからすれば、特別支援に関する問題は、「そうやってマイノリティ、弱者のことも考えられる自分」というファッションの一つなのだ。
飲食業を中心に中小企業をいじめ、自らの不安解消のために、他人の権利や自由を差し出す自分のことしか考えられない大人たちが多数なのだから。


スウェーデンのことを調べていると、先に挙げた管でつながれた高齢者のように、福祉施設そのものが虐待に見えるのではないか、と思う。
欧米と比べれば、さざ波程度の陽性者数で、厳しい面会禁止が行われ、一年以上も家族と会えない期間を過ごしている。
子どもの一年が尊いのと同じように、高齢者の一年も尊い。
「とにかくコロナだけでは死なせてはならない。他の病気ならいいけど」
そんな対応にも私にはみえる。
ご高齢の方たちにとって子どもや孫、友人と過ごすことはどれほど尊く、それ自体が豊かな時間になるのに。
高齢者の幸せと残り少なくなった時間は、名もなき施設職員によっていとも簡単に奪われる。


同じことは障害者施設でもいえるのではないだろうか。
いま、全国にある施設の中で、どれほどの施設が、利用者たちが「移動の自由」「営業の自由」「学ぶ自由」が守られているのだろう。
というか、これはコロナ騒動の前から指摘されていたことである。
彼らは自由に買い物や遊びに出かけることはできない。
移動介護を担当する職員の都合によって決められる。
特別支援学校を卒業した子は、それだけで就職の幅が狭くなる。
ましてや、就労支援を利用しようもんなら、福祉の枠から飛びだすことは難しくなる。
特別支援学級も、支援学校も、教科書すら配られないこともある。
小学校6年間、ずっとひらがなの練習なんてこともざらであり、中学、高校と進めば、「就労のために」といって教科学習の時間は減らされ、作業学習中心になっていく。


そう考えると、特別支援の世界は、ずっと非常事態なのかもしれない。
誰一人、彼らの権利や自由が奪われていることを訴えない。
しかも、保護者すらそれを望んでいるように、また自ら我が子の権利や自由を差し出しているようにも私には見える。
本当は彼らの学ぶ権利を主張すべきなのに、「社会に理解してほしい」、問題があれば「社会の理解」「支援者、先生の力が足りない」と外にのみ原因を見ようとする。
常に悪いのは自分以外の誰か。
まるで「気の弛み」と非科学的な感染理由を主張しているバカなコメンテーターと専門家のよう。
マスク警察は、「あのうちの子、療育やめたんだって」「普通級に転籍したんだって」「どうせ崩れて戻ってくる」と後ろ指さすママ友か。
衝立のみは、先取りアクリル板で良かったかも。


私は依頼があれば、全国どこへでも自由に移動し、仕事をしている。
子ども時代の、とくに神経発達が盛んな時期の時間はとても貴重である。
その時間をより良いものにするために、彼らの発達を守るためにできることを続けていこうと思う。
もし私が雇われの身なら、もし私自身が怖がりだったのなら、役割を果たすことができなかっただろう。
そして何よりも、今のように仕事の依頼は来なかったはずである。
この保身の国で商売をするには、「怖がりではない」ことが優位に働く。
この「怖がりではない」というのは、愛着の土台とリスクを判断できる感覚、そして選択と行動の主体である身体が育っていることが重要である。
これはそのまま発達援助の基本であり、発達障害の人たちがクリアすべき課題でもある。
まさに発達援助は子育てで、子育ては発達援助。


スウェーデンの死生観は、裏を返せば、よりよく主体的に自分の人生を歩むことの決意だといえる。
そのような決意がないから、その場しのぎに明け暮れる。
だから、一つの県が緊急事態宣言を要請すれば、「うちのところも」と自分のところの状況判断をすっ飛ばし他県が追随する。
特別支援も同じように、その場しのぎをしているから、問題の根っこが解決せず、時間と場所が変わってぶり返す。
結局、「今、落ち着くこと」「私が担当している間、問題が起きないこと」それがメインで進んでいるからだろう。


誰も、この子の将来の幸せについて語らない。
堂々と語られるのは悲観的な未来の姿である。
専門家と称される人たちも、こぞって「2週間後の日本はN.Y。3週間後はミラノ」「来月には目を覆うようなことになる」と言うように、「思春期になれば崩れ、二次障害を起こし、生涯支援を必要する」と不安を煽る。
なぜ、視覚支援しているのか、賞罰で行動を変容させているのか、絵に描いた餅で社会性を教えようとしているのか、誰も答えることができない。
だって、一方では自分たちで不安を煽っているから。


発達障害を治すのは目的ではない、治すのは子ども達に主体的に、より良い人生を歩んでほしいからだ。
平気で他人の自由と権利を奪う社会、大人から自分の人生を守るために。




2021年4月16日金曜日

【No.1159】改めて『原始反射』について

2年前くらいからだったと思いますが、産婦人科、小児科、乳幼児健診に関わる本や情報を集め、勉強していました。
たぶん、その勉強の量が一定に達したのでしょう。
今年に入ってからは未診断の子ども達だけではなく、1歳代の子ども達の発達相談が続けてくるようになりました。
個人事業ながらも、事業を起こしてから経営や経営者その人に注目し学び始めると、「適当な人のところに仕事はやってくる」というように感じます。
先ほども、1歳代のお子さんのご家族から依頼がありましたので、これからも当分、続きそうです。


この頃、続いていることと言えば、「原始反射」に関する相談が増えています。
栄養療法が落ちついたように感じていたので、また原始反射のブームがやってきたか、それに関する支援者・療法が生まれたのか、などと思うのでした。


「我が子に原始反射がある、ゆえに原始反射を統合するエクササイズをすれば、今の課題が解決できる」と思うのは自由ですが、あまりにも浅はかな考えだと思います。
それは「自閉症は視覚優位だから視覚支援していればOK」と同質です。
問題の本質が見えていないと言えるでしょう。
もっとも大事なのは、「なぜ、原始反射が残っているか?」です。


原始反射は胎児期から生後1年くらいに出現し、消失するものです。
じゃあ、なぜ、ヒトは原始反射が必要なのかといえば、未成熟で生まれてくる胎児、乳児が生き延びるため。
そもそも大脳、中枢神経が育つまでの、端的に言えば意識して運動ができるようになるまでの反射なのです。
(大脳を介さず)脊髄や脳幹に伝わり、無意識に筋肉などが動きます。


ということは、単にその動きだけに注目し、アプローチしてもダメ。
もちろん、ある程度、大きくなってからは、その動きだけを取り上げ、繰り返し、統合を目指すことは有効だといえますが、特に就学前の子ども達でいえば、そこじゃないし、そもそもその年代の子ども達にエクササイズをさせようというのが、(定型・ヒトの)発達を理解していない証拠。


結局、認知の部分、人間脳の部分が育っていないから、原始反射が残っているのです。
あとは、中枢神経の繋がりが悪くて、認知と運動が途切れてしまっているから別々に運動しちゃっている。
つまり、原始反射のみに注目していても課題は解決できず、やはり全体的な発達を目指すことが中心なのです。
「発達のヌケを育て直す」
「発達の遅れ、未発達を育てる」
発達のヌケが埋まり、人間脳、認知の部分まで育っていけば、意識して身体を動かせるようになるのです。
認知の部分が育っていない子に、いくら統合のエクササイズをしても、それは特定の運動のパターン学習にしかなりません。


「口周辺に何かが当たると、自然とそちらの方を向いてしまう」というのは、そのものが何であるか、を認識できるだけの感覚、脳が育っていないのです。
突然の刺激に身体が勝手にびっくりするのも、予測、周囲の状況判断、適切な刺激の受け取り方が育っていないから。
刺激によって身体がクネクネしちゃうのは、運動発達のヌケ、背骨&背面の未発達。


このように背景にはいろいろなヌケと未発達がありますので、やはり全体的な発達を目指していくことが大事です。
どうしても「〇〇エクササイズ」みたいなのには魅力がありますが、発達って1対1対応にはなっていません。
親御さんはよく「気が付いたら育っていた」「治っていた」「解決していた」とおっしゃいますが、それが自然な発達の姿です。
神経ネットワークというように神経は無数につながっていますので、ある特定の機能、神経をとりだして育てようとするのは無理な話。
特に原始反射を卒業するには、意識のレベルを育てる必要があり、そこに到達するためには原始的な脳の部分、つまり土台から育てていかなければなりませんね。




2021年4月14日水曜日

【No.1158】保身列島ニッポン

道内でもワクチン(?)、新薬(?)の摂取が始まり、高齢者施設での様子が伝えられていました。
摂取したご高齢の方が「これで安心しました」と言っていましたが、その"安心"とは何をもっておっしゃっているのか。
たぶん、2019年まで長い間、mRNAワクチンが認可されなかったという事実も、長期的な効果と副反応についてはまだ明らかになっていないということも知っているわけではなく、ただ施設職員や病院関係者、またマイクを向けてきた人たちから「ああ、よかったね、安心だね、おばあちゃん」と言われたのを素直に受け取り、純粋に「これで安心しました」とコメントしていたのでしょう。


たまたまテレビをつけると、「ワクチンが足りない」と叫んでいるコメンテーターが出ていました。
いつから日本は、「自分さえ良ければそれでいい」というような人間を生むようになったのでしょうか。
どう考えても、欧米に比べればさざ波程度、誤差程度でしかない波と陽性者数なのですから、他国で作ったものを優先して持ってくる必要はないでしょう。
欧米からすれば、また途上国からすれば、「日本よりも我々だろう」と思うはず。
私がこの国の指導者なら、「どうぞお先に使ってください」とワクチンを本当に必要な国に渡します。
それこそ、ワクチン外交ってやつです。


国内の利権争いで勝手に自分たちで医療崩壊を起こそうとしていて、その一方で他国よりも先にとワクチンをもってこようとする。
しかも、その利権争いの中心が、「発熱者はお断り」などと病院の扉に貼る始末。
病気で苦しんでいる人がいるのに、自分がかかったら困るからと患者さんを診ない、なんてことはあり得るのでしょうか。
そんなんだったら「医者を辞めてしまえ」と思うのです。
たとえ自分が病気にかかる危険性があったとしても、患者さんを救おうとするのが医学を志した人間の務めだと思うのです。


学校の一番の目的は、子ども達の学びと成長をサポートすることだと思います。
それがいつの間にか、「子どもの命が大事」とそれらしいことを言い、マスクを強要しているのです。
19歳以下で一人も死者が出ていない病気で、全国2100万人くらいの子ども達、若者たちがもう1年以上も脳神経に悪影響を及ぼす酸欠状態で日に何時間も過ごしている。
神経発達に問題が生じる子ども達は2020年を機に、また増加の一途を辿るでしょう。
それも子ども達の成長を保障すべき学校が後押ししているのです。
「マスクを任意にすると、する子としない子がいて…」が学校の常套句になっています。
これは学校が平等の意味をはき違えている証拠。
平等とは皆が同じ条件、状態になることではなく、それぞれに合った方法を取捨選択できる自由を保障することです。
ただ管理しやすいように、ただクレーマー対策のために、もっといえば、保身のために「一律〇〇」としているだけを「平等」と言ってほしくない。
コロナ騒動を経験し、日本に特別支援教育の理念は根付かないし、実現は不可能だと私は悟りました。


学校同様、子どもの発達を守るべき存在である小児科の医師からぜんぜん声が上がってこないのはどうしてでしょうか。
何度か小児科の組織から声明が出されましたが、そば屋の出前状態で、一向に実物のそばがやってこない。
ただ声明を出すだけではなく、周知徹底できるように啓発しないんでどうするんです。
結局、あんたたちも保身で仕事をやっているのか、と思ってしまいます。


そして日頃、発達障害を専門にしている医師、支援者たち。
この一年間で何をしていたのか。
まったくもって存在感がありませんでした。
やったことといえば、あいも変わらず、決まり切った支援方法のレクチャーと、惰性でやっている青いお祭りくらい。
専門にしているのが「神経発達症」の子ども達なのですから、神経発達の観点からコロナ騒動が及ぼす発達の影響を訴えることができたのに、と思う一方で、やっぱり「神経発達症」と捉えていないから、「自分たちには関係がない」というスタンスなんだと感じます。
手の洗い方の手順書??
家での過ごし方の構造化??
神経発達に注目できない専門家たちに、そもそもが神経発達症の子ども達の課題を解決するアイディアも、知見もなく、期待するだけ無駄だということです。


国民に安心を与えるべきトップが、一年中、不安を煽っています。
専門家は客観的なデータよりも、自己顕示欲にまみれた個人的な意見を述べ、医師は患者を診ることを拒否し、マスコミは切り貼りした情報を垂れ流す。
この日本に、自らの職責を果たそうとする人間、たとえ批判にさらされたとしても真実を伝えようとする人間、我が身よりも世の中全体の幸福のために行動できる人間はいなくなってしまったのでしょうか。


外でマスクをして歩いている高齢者に、「すれ違っただけでうつることはない」というのを伝えてあげる人はいないのか。
あんなペラペラのマスク一枚で得られる安心とはなんだろうか。
そんなものにすがることでしか生きられないほど、この社会の大人たちはだらしないのか、考える力がないのか、と改めて思うのです。


ヒトはいずれ死にます。
長く生きてもたかだか100年くらいなものです。
そうやって700万年の間、ヒトは生まれ死んでいった。
だからこそ、次の世代に何を残すか、少しでもより良いものを渡していけるか、が重要になってくるのだと思います。
自分の仕事を全うするということは、まさに次の世代により良いものを残すための務め。
子ども達はその未来そのものなのですから、発達・成長・命を守るために闘える大人たちがもっと増えなければならないと思います。
そのためには、まず大人たちが学び、考え、行動できるようになる必要がある。
ですから、これからもこの仕事を続けている限り、子ども達のポジティブな変化のための後押しと、特に親御さん一人ひとりが闘っていけるための情報提供を続けていきたいと考えています。




2021年4月6日火曜日

沖縄出張について(6月18日~21日)

6月18日(金)から3泊4日の予定で沖縄に伺うことになりました。

【予定】
6月18日(金)移動日
6月19日(土)9:00~12:00 / 14:00~17:00
6月20日(日)訪問宅決定! / 訪問宅決定!


他県とは異なり沖縄県内のみの募集になるため、ひと家族になる可能性が高い中、「それでも」と出張の依頼をしてくださいました。
出張では初めて伺う沖縄であり、他のご家族の希望があるかどうかはわかりませんが、もし発達相談にご興味ある方が沖縄県内にいらっしゃいましたら、お問い合わせください。
どうぞよろしくお願い致します。


詳細を確認したい方は【出張相談問い合わせ】と件名に書き、お問い合わせいただければ、ご説明いたします。
出張相談についての内容は、てらっこ塾ホームページをご覧ください。
ご依頼&お問い合わせ先:メールアドレス


*4月7日13:00現在、20日(日)の発達相談の予定はすべて決まりました。


2021年4月4日日曜日

福岡出張について(5月14日~16日)

*すべての訪問予定が決定しました。どうもありがとうございました。

5月14日から3泊4日で福岡に伺うことになりました。


【予定】
5月14日(金)訪問宅決定!
5月15日(土)訪問宅決定! / 訪問宅決定!
5月16日(日)訪問宅決定! / 訪問宅決定!


既にひと家族のお申し込みがありましたので、残りは最大で4家族です。
もしこの機会に発達相談を受けたい方がいらっしゃいましたら、お申し込みください。
先着順で4家族が決まり次第、募集は締め切らせていただきます。
*4月5日15:30現在、3家族の訪問が決定しました。
*4月7日15:00現在、4家族の訪問が決定しました。残りひと家族です。


詳細を確認したい方は【出張相談問い合わせ】と件名に書き、お問い合わせいただければ、ご説明いたします。
出張相談についての内容は、てらっこ塾ホームページをご覧ください。
ご依頼&お問い合わせ先:メールアドレス


どうぞよろしくお願い致します!


2021年4月2日金曜日

【No.1157】開業9年目を迎えて

昨日で丸8年が経ち、今日からは開業9年目に突入します。
開業当初は学生時代、施設職員時代に繋がりがあった方達の依頼が中心で、そこから不登校やひきこもり、大学内での相談など、既存の支援の枠に当てはまらない方達の依頼へと変わりました。
それから4年目を過ぎたあたりから、どんどん低年齢化が進み、幼児さんから小学生の子の相談がググッと増えてきました。
そして今は未診断の子どもさんからの依頼が増えてきています。
たった8年間ではありましたが、このような変化がありました。
この変化は社会のニーズの変化だと思います。


ですから9年目のテーマは、「家庭の子育ての中に、発達援助の視点を!」に決定しました。
診断を受ける前に、「あ、ちょっと発達が遅れてきたかも、遅れてるかも」と親御さんが気づいたときに、力になれるような存在になりたいと思います。
子どもさんが小さいということは、親御さんも親になってまだ数年しか経っていないわけです。
そのような親御さん達に発達援助の視点をお伝えすることで、子育てと子どもの発達・成長をより楽しめるように、そして親御さん自身がその家族の子育てのスタイルを確立していけるように、お手伝いしていきたいと考えています。


ありがたいことに、既に遠方のご家族からも出張相談のご依頼をいただいております。
ただ私もまだ小さい子達がいて共働き世帯なので、新年度の日程を調整している最中です。
日程の調整ができ次第、既に正式な依頼をいただいているご家族には連絡差し上げます。
その後、「〇月〇日から、〇〇地方へ出張します」と皆さまにもブログ等でアナウンスをする予定です。
ちなみに「たとえ私達ひと家族の依頼になったとしてもお願いしたい」とおっしゃってくださっているご家族は、福岡と東京にお住まいの方ですので、こちらには出張するつもりでいます。


先ほど、ラジオ配信のほうでも9年目のテーマと皆さまへの感謝の気持ちを述べさせていただきました。
よろしければ、こちらも聴いてみてください。
ラジオ配信『てらっこ塾 大久保の【発達援助のこころ】』ではお便りも募集しています。
改めまして9年目も、どうぞよろしくお願い申し上げます!


2021年4月2日 てらっこ塾 大久保悠




2021年3月31日水曜日

【No.1156】発達援助の浸透と、見えてきた課題

先日、書いたブログ(【No.1153】定型発達の子ども達は教える前に自然とできている)について、ご質問やご感想を多数いただきました。
「どうして身体の発達が道具の操作に繋がるのか?」
「やっぱり道具の中には、教えたり、練習しないと使えるようにならないものがあるのでは?」
「補助箸って、どうなんですか?」
など、身体と道具の繋がりについての疑問や感想が多かったです。
ご指摘の通り、練習しないと使えない道具というものがあります。
しかし、ここでいう幼児期に使う道具は、身体が育てば自然と操作できるようになるものばかりです。
何故なら、スプーンも、箸も、はさみも、クレヨンも、すべて『手の延長』だからです。
「手があって道具」ではなく、「指の先に道具が繋がっているイメージ」になります。


ヒトは二足歩行ができるようになり、手での操作が可能になりました。
その手が自由自在に使えるようになるためには、まず体幹の育ちがあり、肩→肘→手首→指(小指から親指へ)の育ちが必要です。
二足歩行が可能になったあとから、手での遊びが始まります。
手でいろんなものを触り、掴み、つまみ、肩から指先に向けた育ちを行うのですが、この育ちのプロセスの中で触れるものは、子どもにとってはすべて遊び道具になります、おもちゃも、リモコンも、オムツも、タオルも。
その遊び道具の中にあるのがスプーンであり、箸であり、ハサミであり、クレヨンなのです。


ですから、肩から指先を育てている段階で操作するものは手遊びの延長であり、手を育てる延長、つまり手の延長として道具があるのです。
小学生くらいになれば、指先までの発達は完成するため、以降使用する道具はまさに私達がイメージする道具になり、手と道具の関係になります。
よって道具の形状や複雑さというよりも、子どもの目線に立ったとき、それは指先まで育てるプロセスで使う手の延長としての道具なのか、手が完成した後の「手と道具」の関係なのか、そっちのほうが理解しやすいと思います。
ちなみに補助箸は、「補助がないと使えない手の発達段階」なので、補助箸が使えるようになったからといって一般的な箸が使えるようにはならないですね。
ただ定型発達の子ども達は補助箸を使っている間に、自然と遊びを通して指が育ちますので、結果的に箸が使えるようになります。
「補助箸を使ったから箸が使えるようになった」という大人の自己満足のためには良いかもしれませんね。


また絵に関して、「うちの子、絵を描きたがらない」というご相談もありました。
単純に「絵を描く」といっても、そこにはいろいろな発達状態、心身の状態が関わってきますので、子どもさんの状態を確認しなければ「なぜ、描こうとしないのか」がわかりません。
だけれども、案外、盲点というか、これも大事な発達ではあるのですが、子どもさんに「絵を描かせていないか?」ということがあります。
画用紙とクレヨンを用意し、その前に子どもを座らせたあと、「さあ、描いて」みたいな(笑)
描けって言われて絵を描くのは、年長さんか、小学生です。
つまり、幼児さんは描けと言われても描かないのが普通です。


1歳代の子は、遊び道具としてのペンを持つと、どこでもここでも楽しそうに腕を動かし、なぐり描きをします。
それは目で見て変化を楽しんでいるのです。
自分の意思で変化を生じさせることのできる喜びと楽しさ。
ですから、この発達段階で絵を楽しめないというのは、変化に気づくだけの感覚や認知の面での発達が進んでいないか、周りから「描け」と言われ続けて絵自体が嫌になったか。


そして次の段階、2歳前後の子は、対話としての絵を描きます。
グルグルや点々を描き、お母さんを見る。
お母さんは笑顔になったり、「これは"おにぎり"かな」などとリアクションをする。
そうやって対話、コミュニケーションとしての絵を描くのです。
なので、言葉の遅れ、特にやりとりの段階まで発達が進んでいない子は、上記の「なぐり描き」の段階以前に留まっているので、なかなか絵を描くモチベーションが高まらないのです。


で、次の段階は意味を持った絵を描く段階です。
グルグルっと丸を描いたあと、「これは"お父さん"」と言ったり、「次は"お母さん"を描く」といって丸を描いたりします。
この段階は、言葉の発達、概念の発達が必要になりますので、胎児期から言葉以前の段階までの発達がある程度完成している必要があり、かつそれ以降の認知の面での発達も必要になってきます。
ですから、子どもさんの発達を見る上で、何か形は描けなくても、こういった意味を持った絵を描くようになったかどうか、を大事なポイントとして私は確認するようにしています。


そして上記の発達段階は、だいたい1歳から2歳・3歳になりますが、この時期の子ども、内面の発達的にいうと、この時期特有の社会性の発達があります。
それは同じ目線の子ども、「遊び仲間」としての社会性が育つ時期です。
この時期の子どもは、同じくらいの子どもがいるとすぐにそばにいき、同じような行動をします。
公園に行けば、見ず知らずの子でも関わらず、どんどんそばにいき、その子が滑り台を滑れば自分も滑り、その子が石を拾いだしたら自分も石を拾う。
その子が「ママ」と自分の親のところに行けば、自分の親ではないその子の親のところに一緒に駆け寄っていく。
こういった同じ目線と同調する行動が強い喜び、行動の動機付けになる時期です。


なので、幼児期の子どもさんに「絵を描きなさい」はダメ。
「絵を描きなさい」ではなく、一緒に描く、または同じ目線で、同じ方を向き、共に絵を描く活動の中に身をおくことが必要です。
結構、発達相談でも「耳が痛いです」と言われるのですが、遊ばせている親御さん、遊んでいるのを見ている親御さんがいますね。
上記のように、幼児期のお子さん、特に3歳くらいまでの子ども達は一緒に遊ぶ、一緒に活動することが大事です。
それが彼らの発達段階なので。
しかも、発達障害のお子さんなら、やはり胎児期から2歳くらいまでの間に発達のヌケがありますので、たとえ5歳、6歳、小学生だったとしても、「共に遊ぶ」段階が必要な場合が多々あるのです。
ちょうど2歳、3歳の頃は、発達のヌケ、遅れが大きく、そうやって他人と共に遊ぶことができなかった、他人に興味すらなかった、というお子さんがいますね。
だったら、やっぱりその時期の発達のヌケ、その運動発達をやり直すだけではなく、その時期の子ども達が欲している「共に遊ぶ」もやらなきゃダメです。


「ハイハイ、どうやってますか?」と尋ねれば、「ここの廊下を使って、毎朝3往復させている」なんていうこたえが返ってきます。
でも、それって発達のヌケを"育て"ているのではなく、"トレーニング"になっていませんかね。
トレーニングでは発達のヌケは埋まっていかないと思いますよ。
親御さんから見れば、「発達のヌケを育てている」になるかもしれませんが、子どもさんからすれば、「早く日課のハイハイを終わらそう」というような意欲の伴わないただのルーティンワークになっているかもしれません。
神経発達には自主性と意欲が必須条件です。
拝見すると、「それって"廊下を四つん這いで移動する"練習にしかなっていないですよ」と言ってしまうことが少なくありません。
ハイハイを育て直したいなら、親御さんも一緒にハイハイしなきゃ。


明日から新年度が始まります。
改めて「発達のヌケを育てる」とはどういうことなのか、「神経発達を促す」にはどういうことなのか、を考えてみると良いかもしれません。
今年度も全国各地に訪問させていただきました。
「発達援助」は浸透したけれども、大事なところがヌケているようにも感じましたので、私も意識してその辺りを伝えていきたいと考えております。




2021年3月29日月曜日

【No.1155】だましだましやっている

もうすっかり雪が溶けましたので、7月の函館マラソンに向けて外ランを始めています。
冬の間はずっとジムだったので、久しぶりの外ランは気持ちがいいですね。
私の課題は筋力で走ってしまう癖があるので、今期は身体の重心を少し前目にして推進力をつかって走るフォームを目指しています。
そのため、冬のジムでは体幹トレーニングをみっちりやり、シックスパッド(仮)くらいまで腹筋が仕上がりました(笑)
あとは月間200㎞をノルマにし、できれば250㎞を目指して本番を迎えたいと思っています。


子どもさんの中には、今期私が目指している重心移動を使って走っている子がいて、「教えてください、師匠!」と思うことがあります。
しかし、この重心を移動させる走りには別の見方があって、「重心移動を使わなければ、走れない」という場合があるのです。
家庭訪問をすると、家の中を走って移動している子どもさんがいます。
一見すると、「元気がある子」「運動発達的には問題ない子」のように見えますが、しっかり確認すると、運動発達のヌケがあることがわかります。
走ってはいるけれども、「二足歩行ができる段階にない」といった感じです。


いま、ハイハイを抜かす子ども達が多くいます。
そういった子ども達はハイハイをせずに、すぐに立って歩いてしまっています。
で、走るようにもなる。
だけれども、上半身と下半身の連動が見られなかったり、腰がそのまま足だけで走っていたりと、「なんとなく走り方がおかしいよね」という場合があります。
「うちの子、走ることはできるんだけれども、なんか走り方がヘン」と相談される親御さんは少なくありません。
療育機関などに相談すると、「走れているから、問題ないですよ、お母さん」とか言われてしまう。


赤ちゃん時代からの運動発達の積み重ねが、走る姿に表れます。
ですから、その走る姿に違和感があるとしたら、それは運動発達のどこかにヌケがあるということです。
もちろん、それは走るだけに留まらず、認知やコミュニケーションの発達にも影響を及ぼします。
「ちゃんと走れない」というのはそれ自体が問題なのです。
単に「走れているからいい」「走り方は個性」ではありません。
先ほど紹介した重心を移動させて走っている子は、重心移動をしなければ走れない子だといえます。
つまり、「しっかり立つ」「しっかり歩く」が完成していないからこそ、できないからこそ、重心移動を使って走っている、というか移動しているのです。


私達支援者の仕事は、いわゆるこの「だましだまし」やっている行動を見抜くことでもあります。
「運動発達は、一通りちゃんとやっていました」と言われる親御さんもいますが、実際、子どもさんを見ますと、明らかに「ハイハイ、抜かしたよね」「寝がえり、やってないよね」という子がいます。
でも、親御さんが嘘をついているわけでもなく、子どもさんがやらなかったわけでもないのです。


一つひとつの運動発達には、定型のやり方と大事なポイントがあります。
そういった定型のやり方と違った場合が多いですが、勢いでやってしまったパターンも少なくないような気がします。
たとえば、寝返りは下半身主導で捻ることが大事なのですが、上半身の勢い、または足の反動を使ってくるっと回っていた。
またハイハイをするとき、「常に全力で移動していた」という子の中には、できない動きをカバーするために重心移動や勢いを使っていた子もいて、そういう子は動きのパターンが少ないという特徴があります。
早くハイハイをすることもあれば、ゆっくりハイハイをすること、途中で止まったり、方向転換をしたり。
そういった強弱、変化がない子、きちんと静止できない子は、ハイハイをしていたとしても、だましだましやっていたとも考えられるのです。


小学生の子どもさんもそうですが、ダダダッとやってしまう行動、活動は、案外、きちんとできず、苦手なことが多いものです。
反対に、ゆっくりできること、ゆっくりハイハイすることなどは、それだけハイハイに動員させる運動一つ一つがしっかり行えるということでもあります(つまり、バリエーションが大事!)。
昔から発達障害の分野においては、出生時の様子、また運動発達についてはしつこく確認されてきましたので、そこに意識や注目があったのがわかります。
でも時々、「運動発達の中で短いもの、抜かしたものがあったとしても問題ない」というような医師や支援者もいます。
その根拠に、「運動発達をやっていた子の中にも、発達障害の子ども達がいる」というものが挙げられます。


しかし、ここまで読んでくださった皆様はお分かりの通り、そのやり方が重要なのです。
表現が良いかどうかはわからないまま使ってきましたが、子ども達の運動、活動、遊びの中には、案外「だましだましやっている」ものが少なくありません。
私もこの仕事をするようになって、「赤ちゃん時代、ちゃんと運動発達をやった」という子の中に、運動発達のヌケがあることがわかりました。
そして乳幼児の発達を勉強していく中で、ヒトの運動発達にはそれぞれやり方とポイントがあり、それはその前段階や周辺の発達と繋がっていることがわかったのです。
寝返りをするのに勢いをつけなくてはならなかった理由が、足の親指、背骨、首の発達や背中や皮膚の感覚、原始反射の統合も影響するように。


親御さんが子どもさんの運動発達を確認する際のポイントとして、素早くできているような運動でも、「勢いや反動でやっていないか?」「その運動は、一本調子ではないか?特にゆっくり動くことができるか?」を確認してみると、より深く発達を捉えることができるかもしれません。
この前も、「赤ちゃんのとき、めちゃくちゃハイハイが早かったんですよ」といっていた小学生の子に、「おじさんと一緒にハイハイしてみよう」と言ったら、手足をどう動かしていいか分からず、立ち竦んでしまっていたことがありました。
当時のビデオを拝見すると、やっぱり勢いでダダダッとハイハイしていた感じでした。
普通級で学んでいるけれども、なんかうまくいかない、勉強がしんどい、というお子さんでしたので、もう一度、腹這いから膝つきばい、高這いと育てなおすことを提案してきました。
その子がどのように変わるか、また成長されるか楽しみです。




2021年3月26日金曜日

【No.1154】新年度の就学相談を迎えるにあたり

この時期は卒業や修了の時期でおめでたい雰囲気が漂っている一方で、4月から年長に上がる親御さん達にとっては急に「あと一年」が現実的になり、不安に思われている方もいらっしゃると思います。
新年度が始まれば、今までに診断や療育、支援を受けているお子さん達は、「就学相談」の案内があちこちでされるようになり、中には「受けなければならない必須のものだと思っていました」と仰る親御さんがいるくらい就学相談を受ける流れが作られてしまうようです。


就学を迎えるにあたって考えるべき中心になることと言えば、どこで学ぶか、「普通級」「支援級」「支援学校」の選択だと思います。
親御さんの中には就学先を選択するにあたり、「より手厚い支援」「より手厚い環境」を求められる方もいらっしゃいます。
もちろん、就学先の選択は家庭の話、それぞれの子育て、考え方の話になるので私がとやかくいうことではありませんが、「より手厚い支援」が子どもにとってプラスになることなのか、は落ち着いて考える必要があると思います。


ひと昔前は、普通級で学べるだけの力があるのに、支援級を選択されるご家族がいらっしゃいました。
本当は支援級でも十分にやっていけるだけの力を持っているのに、「いや、支援学校を」と選択されるご家族がいらっしゃいました。
中には、知的障害の支援学校よりも、盲・聾・肢体不自由の学校に希望を出し、入学するご家族もいらっしゃいました。
こういった選択の意味は、今の親御さんはわからないと思いますが、結局、教員の人数がより多いところ、生徒の人数がより少ないところを選んでいたわけです。
その理由は「より手厚い支援」です。


ここのところは勘違いしている人が多いと思うのですが、支援が手厚くなればなるほど、子どもが発達、成長するかといえば、それは違います。
よく「発達障害の子ども達は、定型の子どもと比べて、成長がゆっくりだし、その分、丁寧に時間をかけて教えていくことが大事だ」なんてことが言われます。
しかし、そんなエビデンスは無いし、結果がすでに出ています。
もし「手厚い支援」が有効なら、支援学校のほうが普通学校にいる子ども達よりも発達、成長し、卒業後は自立的な生活を送っているはずです。
でも、まったくもってそんなことはなく、むしろ「手厚い支援」を受けて育っていく子のほうが自立から遠ざかっています。
それは支援学校卒の子と、普通級または支援級で学び卒業した子の進路を見れば明らかです。


端的に言えば、教員の人数が多かろうとも、個別指導の時間が増えようとも、学習の時間が増えようとも、発達・成長には影響しない。
なぜ、言い切れるかといえば、そこが発達障害の子ども達の根本的な課題ではないから。
知的障害の子どもさんの場合、情報を処理する力や記憶しておく力、同時進行で行える作業量、未来を予測する力に弱さがあるので、それこそ丁寧に、時間をかけて学習を積み上げていく必要があるでしょう。
それこそ、スモールステップで積み上げていくことが重要です。
一方で発達障害の子ども達、もっといえば、胎児期から2歳前後、つまり言葉を獲得する前の発達段階に未発達やヌケがある子ども達に必要なのは、そこを育て直す機会ではないでしょうか。
単純に学習時間を倍に増やしたからといって、勉強ができるようにはなりません。
だって、その勉強ができる以前の段階に根本的な課題があるのですから。
別の言い方をすれば、勉強ができる準備、その土台となる発達が培われれば、授業を受けることができ、同世代の子達と同じように学んでいけるのです。


「この子は知的障害があるから、支援級だ、支援学校だ」というようなことを言われた、とおっしゃる親御さんは少なくありません。
でも、その「知的障害」は認知的な問題、脳の問題なのでしょうか。
それとも言葉以前の段階のヌケによる未発達ゆえの知的な遅れなのでしょうか。
この辺りがわからなければ、今までの私の話は理解できないと思います。


今までにも、発達のヌケを育てなおすことで、勉強ができる土台が培われ、支援級から普通級へ転籍した子ども達がいます。
IQだって、ググッと高くなった子もいます。
そういった話を聴いて、「IQが変わるなんてあり得ない」「生得的な能力だから」というようなエセ専門家もいますが、そもそも知能検査が発達のヌケを見抜けないのです。
ただ単に今、発達が遅れているだけ、発達のヌケがあって本来の能力が発揮できないだけの子も、「(生得的に)認知機能に遅れがある」と判断されてしまうのです。
そういった入り口、参考資料が誤っているのに、それをもとに就学相談が展開され、就学先の決定の理由の大きなウエイトをしめてしまうのが現状です。
だから、「遅れがある子は、手厚い支援を」という紋切り型の振り分け、根拠のない教育環境があてがわれてしまうのです。


学校は学ぶところです。
その中心はやっぱり教科学習。
だから、学校は発達のヌケを育てるところでも、治すところでもない。
発達のヌケや遅れは、就学前に、家族が後押しして育てておくべきところだと思います。
いくら手厚い支援が行われようとも、それは学習の面においてであり、胎児期から2歳前後のヌケを育てなおすわけではありません。
個別指導の時間が増えようとも、ゆっくり時間をかけて授業が行われようとしても、そこが発達障害の子ども達の課題の本質、勉強が積み重なっていかない根っこではないのですから。
そういったことを整理し、4月以降、就学相談を受けるご家族は考え、より良い選択をしていただきたいと思っています。




【No.1153】定型発達の子ども達は教える前に自然とできている

子どもさんが描く絵には、「そのときの発達の状態」と「どのように世の中を見ているか」がそのまま表れます。
といった話を方々でしていますので、発達相談において「絵を見てほしい」と見せられる親御さんも多くいらっしゃいます。
大まかに分けてヒトを描く前と描く後があり、ヒトを描く前は手や指の可動範囲、発達状態が表れ、ヒトを描き始めてからは身体、感覚の発達状態、そしてヒトの周りに何を描くかに、本人の視界の中に認識しているものは何なのかが表れます。
時々、「こうやってヒトは描くんだよ」「周りにはこんなものを描くんだよ」という指導がされて、その通り描く子もいますが、そういった場合はすぐに分かるものです。
どの絵を見ても、構図が一緒ですから。
つまり、「教わった通りの絵を再現する」というパターン学習ですね。
子どもが自由に描く絵の中に、その子のそのままが表れるのです。
ちなみに車や建物、数字や文字ばかりで、ヒトが描かれないお子さんは、周囲にいるヒトが認識されていない傾向が強くあります。
あと細かく言えば、「目」一つとっても、どのように描いているか、で状態が異なります(黒く塗っている。白目があるか。向きや大きさ、左右の目の違いなど)


子どもと関わる仕事をしている人で、また親御さんの中にも、勘違いされている、知られていないんだな、と思うことがあります。
それは道具の使用についてです。
もちろん、初めてその道具を触る子ども達にとっては、最初に"教える"という行為が必要ですが、「何度も練習してできるようになる」という考えは間違えだと言えます。
たとえば、箸ですが、「子どもは箸の練習をするから、箸が使えるようになる」と思っている人がいるかもしれません。
しかし、それは定型発達の考え方ではないのです。
一般的な子ども達というのは、箸を渡したらすぐにそれなりに正しく持つことができ、かつ食べ物をつまむことができます。
だいたい4歳前後で、そういったことが可能です。
ほとんどの子は、箸を渡した日に使えるようになるのです。


これはどういうことかといいますと、箸が操作できるだけの指、手、腕が育っている、その準備が整っているということです。
つまり、箸やスプーン、ハサミやクレヨンなど、子どもが操作できる単純な道具は、それを使用できる身体が整うと、自然と使えるようになるのです。
反対に言えば、何度も教えなければ操作できないとしたら、まだ未発達とヌケがあるため、使える段階にはないということです。


よく日本の保育、教育、療育では、「〇歳になったら、何々を使う。できる」というような捉え方をしています。
また「〇歳になったんだから、何々はやめさせなきゃ」というような考え方もあります。
もちろん、これは定型発達がベースになるのですが、それよりも大切なことがあって、それは発達の順序とその課題ができるようになるために何が育っていないといけないか、ということです。
特に療育現場においては、「〇歳になったら」よりも、発達の順序とその活動ができるための土台が分かっている必要がありますが、というかそれがわからないとお仕事にならないのですが、「5歳なのにスプーン使っている」「4歳でオムツはおかしい」などといって、無理やり訓練的にやらせたりする場合があります。
親御さんも指摘されれば、「じゃあ、もう家でもスプーン止めなきゃ」と無理やり箸を使わせようとする。
で、子どもさんは手の準備が整っていないもんだから、箸を置き、スプーンを使おうとし、で、親御さんは「ダメでしょ」とスプーンを隠し、そうなると手づかみが始まり…というような負のスパイラルが生じます。


定型発達の子なら4歳の誕生日を迎える頃に箸が手渡されると、自然と使って、その日のうちに食べられるようになります。
その背景には、指、手、腕の発達があり、その発達の準備は運動発達はもちろんのこと、水遊び、泥遊び、砂遊びがあり、また木や鉄棒などによじ登る、掴む、つまむといった遊びがあります。
スプーンを握っている子は、まだ箸が使える準備が整っていません。
絵で言えば、〇を描いている段階では無理で、□と△、ヒトが出てこないと箸が使える手ではありません。
スプーンを持った手よりも、反対の手が食べ物に向かうようでしたら、まだ手づかみ食べをする時期です。
絵で言えば、まだ〇が描けない時期ですね。
ハサミでしたら、親指が横になってしまう手の子はまだ無理で、親指が上を向く手に育ったあと、自然とはさみで切れるようになります。
ここは主にズリバイがやり切ったかどうか、が影響するところです。
この他にも私達がアセスメントで確認するところはありますが、基本的には6歳までの発達課題で「教えないとできない」「繰り返さないと身につかない」というのは、その前段階の準備が整っていないと考えます。


発達の準備が整っていないことを子どもさんにやらせようとすると、どうしても指導的、訓練的になりますし、結果的に身につくまで時間がかかりますので、両者の間に不穏な空気が流れます。
特に子どもの場合は、自ら主体的に行わないものは身につきづらく、「楽しい」「心地よい」が感じられないと神経発達が進んでいかないものです。
発達相談においても、親御さんが一生懸命になればなるほど、親子から指導者対子、支援者対子になり、関係が崩れてしまって負のスパイラルに入ってしまっているご家庭があります。
ほんとは、こういった負のスパイラルに入る前に、「それって教え方の問題、練習の量の問題ではなくて、前提&土台となる発達が抜けてますよ」と一言説明できる支援者がいればいいのですが…。


発達障害は病気でなければ、障害でもありません。
ただ【disorder】、不具合が生じている状態なだけです。
その不具合は何から外れた状態かと言えば、定型発達です。
なので、定型発達を知らない人は、発達援助はできません。
しかし、その「定型発達」とは、「〇歳で何ができる」だけではなく、発達の順序と、発達課題をクリアするための前提&土台となる発達を知っておく必要があります。
訓練的に、パターン的に身につけたことは、応用が利きません。
何度も練習して切った折り紙はハサミで切れるけれども、画用紙は切ることができない、なんてことは、その典型的な姿です。
また最たるものでは、「教えられた右利き」が結構多いと感じます。
何でも教えるときは右手を使わせることによる右手のパターン学習。
本当は利き手がはっきりしていない=まだ脳の未分化、同側の段階なのに右手を使うように訓練されて使うようになった形。
そういうお子さんは、ふとした瞬間に左手が、両手が出ますね。


倒立前転とか、漢字を書くとか、料理を作るなどといった高度な技能、乱暴な言い方で言えばヒトしかしない行動は教える&練習するという行為・学習が必要ですが、一般的な子どもが行う日常動作は教える、学習するというよりも、前提&土台となる発達が整えば自然とできるものです。
「何度教えてもダメなんです」というのは、教えなきゃできない段階=それ以前の発達にヌケがある、と考えるのが一般的です。
あとは「何歳でできる」よりも、それができるようになる前後の発達に注目すること。
「定型発達の子ども達は教える前に自然とできている」
このことを頭に入れておくと、子どもさんの見方、発達の捉え方がもう一段、深くなっていくと思います。




2021年3月24日水曜日

【No.1152】専門化すればするほど、切り捨てられるものが増えていく

2019年がピークで、徐々にブームが去った感じがする栄養療法。
発達相談の中でも話題になることが多かったのが、昨年までといった感じです。
だいたい皆さん、一通り栄養療法をやってみて、効果があったご家族もいれば、そうでもなかった感じのご家族もいますね。


この2年間で気になったこととしましては、特に幼児期のお子さんですが、親御さんが栄養療法に凝り過ぎて、数値が高くなってしまった子が少なからずいた、ということです。
もちろん、数値的な問題もありますが、何よりも内臓、消化機能も育てる時期でもありますので、そんな一粒で高栄養素のものを食べ続けていたら、そっちのほうに身体が適応してしまわないか、と心配になります。
人類というか、動物全般がそうだと思うのですが、何を食べ消化吸収するかによって身体の構造が変わり、神経発達が進んできたのです。
20万年前に誕生したホモサピエンスの子ども達は、硬い肉をカミカミし、硬い木の実をかじり、それに応じて口と内臓、消化器系が発達していったのでしょう。


またこんなお話も、よく伺いました。
「みなさん、栄養療法でかなり効果が出てきているみたいだけれども、うちの子は…」という内容です。
これはBSやCSとかでやっている健康食品のCMと同じです。
「たった1粒で、こんなに痩せました!」
たった1粒でも体内になにかを摂取して体重が痩せるなら、それは毒です(笑)
ふつう、食べたら増えますね、体重は。
だから、もちろん、実際にそのものを摂取するとは思うのですが、他にも食事の調整をしたり、運動をしたりしているんですね。
食事はそのサプリしか摂らない、あと運動もしない、ただ家で横になっているだけ、で痩せるのならスーパーフードかもしれませんが、そんなわけはありません。
それと同じで「栄養療法が効果あった!」というご家庭は、他にも運動したり、一緒に遊んだり、メディア視聴を制限したり、いろいろやっているんですね。
栄養素は発達の条件であって、ただ摂れば勝手に神経発達が始まるわけはありません。
しかも、食事で十分な栄養が摂れている子に、さらにプラスしてもその分、発達が加速することはないでしょう。
良いというアイディアにも範囲と限界があるものです。


範囲と限界で言えば、感覚統合や作業療法、運動療法というものにも当然ありますね。
まあ、私が勉強した範囲、私があちこちで伺った範囲でお話ししますと、どうも「触覚」「固有覚」「平衡感覚」に偏り過ぎている感じです。
たとえば、静かに椅子に座るのが難しいお子さんがいるとします。
こういった専門の先生から見れば、「感覚を欲しているのかな」「平衡感覚を刺激するような大きな動きを」と、トランポリンなどの運動を勧めたりするかもしれませんが、実際、ご家庭にトランポリンがあって、毎日跳んで刺激してお子さんがいますね。
でも、ほとんど変化がない。


で、私が訪問しお子さんの様子を拝見すれば、前庭感覚の未発達があるのはあるけれども、それだけが課題じゃないことがわかるんです。
身体の軸が育っていないために姿勢保持が難しい子。
胎児期の愛着障害のために、世の中に対する身体的な不安があり、ソワソワしてしまう子。
ハイハイのヌケにより、重力との付き合い方が身についていない子。
原始反射があって、過剰な防衛反応が発動してしまっている子。
右脳と左脳の未分化などによる勉強できる身体の準備が整っていない子。
身体に力が入るばかりで、弛めることができない子。
聴覚の未発達から言葉をキャッチできない子。
背骨の過敏さから背もたれが気になって仕方がない子。
足の指の未発達で定まらない子。
腰や腎臓、排泄系の未発達で、落ち着くことができない子。
トラウマ、フラッシュバックが生じている子。
単にその場がつまらない子、単に(年齢的に)幼いだけの子。
お腹が空いている子、出かける前に嫌なことがあった子。
快食、快眠、快便、そして基本的な生活習慣が確立できていない子。
パッと思いついただけで、これだけありますし、もちろん、単独の要因なんてことはなく、複数の要因が複雑に強弱をつけて絡み合い、そして表に現れているのです。


このような発達という複雑系のものを何か一つの専門、領域で解釈しようというのは無理があります。
ですから、専門化していけばいくほど、その守備範囲は狭くなり、その他の要因が切り捨てられる可能性が出ます。
特定の療法にこだわる親御さんが多いですが、単にその療法の限界だけではなく、他の可能性が排除されることのほうが、育っていかない、結局、いつまでも卒業できず何年も通い続けている姿に繋がっていると思うのです。


私の事業が家庭訪問を基本としているのは、私が専門家ではないからです。
何か特定の領域から見ているのではないので、どうしても実際に生活してる様子、遊んでいる様子を見て、いろんな要因を確認していく必要があるのです。
そしてその子の発達の物語を綴っていく。
でも、だからといって、すべての要因をお話はしていません。
要因が複雑に絡み合っているということは、一つ発達すればそれに引っ張られるようにして変化が生じていきます。
特に胎児期の発達に近いければ近いヌケから育てていくことが、全体的な発達に繋がります。


私の個人的な考えではありますが、「ゆっくりでも発達成長している子は、今やっている介入の効果はほとんどない」と思っています。
たとえば、Aという方法を行っていて、子どもが発達、成長している。
でも、それは時間の経過とともに発達、成長しているだけだと考えられます。
発達に必要なものの一番は時間だと思うからです。
極端なことを言えば、何も特別なことをしなくても、子どもは時間とともに発達、成長するものです。
ですから、私の仕事の評価としては、発達が加速したか、停滞していた発達が動き出したか。
ゆっくり発達、成長していた子が、私の発達相談後も同じペースで発達、成長しているとしたら、それは私の実力不足、仕事の質が悪かったのです。


まとめると、エラソーに言っている専門家よりも、家庭が重要。
だって、専門家が見ている範囲は狭いから。
家庭は胎児期から今までのすべてを見ている。
細分化すればするほど、捨てられる可能性が増えるということです。
そして、そんな細部のものをいじくったとしても、大きな変化は生じません。
むしろ、介入の効果というよりも、時間が経過したため、時間が解決した、ということのほうがずっと多いです。
だいたいの課題は、時間が解決すると思ったほうが良いと思います。
焦っていろいろやるのが、却って子どもの混乱、発達の妨げになることもあるからです。
何よりも、子ども自身が発達する主体ですから、本人が伸びやかに育つ環境を用意したほうが良いですね。
それには、どんと家族が構えること。
そして子どもが楽しい、笑顔になる時間を増やしていくこと。
子どもの遊び、特に名も無き遊びをしている時間こそ、自ら発達のヌケを育て直すときですから。




2021年3月23日火曜日

【No.1151】脳内隔離

全国いろいろなところにお邪魔すると、そのたびに思うのですが、本当に「発達障害」なんていうのは曖昧で、インチキくさい話だなと思います。
だって、「えっ、あなたが発達障害って診断されたの?」という子ばかりなんですから。
そうかと思えば、「うちの市では、みんな普通級で学びます」というところもあって、また幼稚園や保育園の先生のよっては、「こういうお子さん、前からいたから、大丈夫」というようなところもある。
つまり、たとえば、北海道で「もうずっと支援の子」「重度で勉強なんかとんでもない」というような子が、関東に行けば「普通の幼稚園で大丈夫」なんて言われたりもするし、実際に隣同士の市や区で「こっちは普通級で、こっちは支援級」という話もありました。
これまたよくあるのことなのですが、「どうやって自閉症の診断がついたんですか?」「っていうか、自閉症の診断基準、満たしてます?」というのは全国どこでもあるあるです。


どうして、こんな状況になっているか、現場での混乱が生じているか、といえば、「早期診断主義」という誤った考えの氾濫が大きいと言えます。
「とにかく早期に見つけるんだ」
「早期に見つけて、すぐに専門家、支援に繋げることが良いことだ」
というギョーカイの啓発が浸透してしまっていることが原因です。
もちろん、2000年より前のほとんどの発達障害児者が重度の知的障害を持っていた時代なら、それが有効だったかもしれませんが、そうやって見つけようとして見つかる子ども達って、微妙な子ばかりです。
ひと昔前なら、発達がゆっくりな子、遅れている子、凸凹している子は、「そういう子もいるよね」と一緒に学び、一緒に遊んでいました。
そうしているうちに、発達のヌケや遅れが埋まっていき、自然と社会の中に馴染んでいきました。
今は、「早期診断」という名で、隔離が進んでいます。
市内のあちこちの公園では、児童デイの車が停まり、指導員と利用している子どものみで、鬼ごっこなんかしている。
鬼ごっこなら、同級生とやればいいのに、税金を使わず。


まあ、「とにかくPCR検査を!」というように、少しでも咳をしようもんなら検査を促すみたいに、とにかく少しでも発達に遅れがあれば、すぐに専門家につなげようとします。
しかも、それがいいことだと思っているし、実際、いいこともある。
「もう一人、職員をつけることができるから、病院に行って診断を貰って来てくれませんか?」なんていうのは、あちこちの保育園、また学校でも見られることです。
診断された子がいれば、行政から補助が貰えるというのも、「遅れがある子を見つけよう」という動機付けの一つにもなっているでしょう。


しかし、「とにかくPCR検査を!」と同じで、陽性になったあと、できることは特にないんです。
できるとすれば、隔離だけ。
結局、コロナを治すのは医師ではなく、本人の自然治癒力、免疫細胞です。
同じように、発達の遅れを育てるのは、本人の成長する力と遊び、運動です。
見つけたのは良いけれども、そこを育てるアイディアがなければ、ただのダメ出し。
「早い段階で、発達に遅れがある子を見つけられた」と喜んでいるのは大人だけであって、受け取る方としてはただのダメ出しにしか聞こえない、なんてことは親御さんからよく聞く話です。


どうして保健師、保育士、幼稚園&学校の先生が、どう育てたら良いかわからないのか、といつも疑問に思うことです。
この人達は、ヒトの発達、成長に関わる職種でしょ。
というか、それを知らずして、どうして仕事ができるのでしょうか、子どもと関われるのでしょうか。
発達に遅れがある子がいるのがわかった。
だったら、どうやって工夫しようか、どこを後押しして育てたら良いか。
そういった発想が出る前に、「親御さんに診断を勧めなきゃ」「今度来る巡回の保健師に、特別支援コーディネーターに伝えなきゃ」というのは、私から言わせれば職場放棄です。
そんなことをする前に、担任だったら、何かアイディアの一つでも出てこないのか。
「私がこの子をよりよく育ててみせる」という気概はないものなのか。
いろんな土地で、いろんな親御さんからお話を聞くたびに、発達障害を差別し、隔離しているのは、「早期診断」と言っている大人たちではないか、と思うのです。


以前は、THE特別支援、自閉症支援みたいな療育が好まれていたような気がします。
でも、今の親御さん達は、作業療法や運動発達に力を入れた療育機関に通わせていることのほうが多いし、一般的になったと思います。
発達障害の子ども達の根っこの課題は、身体であり、運動発達である、と多くの親御さん達がわかっているという表れだと感じます。
だから、そういった療育機関で、そういった専門の支援者が身体の課題を解決すれば良いと思うのです。
なのに、そういった療育機関から巣立っていく子が少ない。
何年も利用し続けている。
つまり、根本から解決していないということ。
じゃあ、なんで親御さんが我が子の課題の根っこに気づき、またそういった専門の療育機関に行くのに、何年も通わなければならないのか。


これは上記の話ともつながります。
3月14日に開催された口の講座の中で、講師の栗本さんも仰っていましたが、基本の発達、ヒトの発達を知らない人が多すぎる。
保健師や保育士、幼稚園&学校の先生も学生時代、勉強したはずなのに、その知識が活かされていない、または活かそうとしていないのだと感じます。
結局、「発達障害」というバイアスがかかった瞬間、普通の子とは違う子、特別な子という頭に切り変わってしまうのだと思います。
だから、自分がどうにかしようと思う前に、「どうやって医療、支援、療育に繋げようか」という頭になってしまう。
これもまさに脳内隔離です。


発達障害の子ども達は、定型の子、同級生の子とは共に遊べないのでしょうか、共に学ぶことができないのでしょうか。
こんな問いを投げかければ、ほとんどの人が「いや、そんなことはない。障害のある子もない子も共に学び、共に生き…」と言うでしょう。
しかし実際は、2000年以降、それこそ発達障害啓発ブーム以降、どんどん隔離が進んでいます。
「ノーマライゼーション」と口では言いつつ、一方で少しでも発達に遅れがある子を見つければ、特別支援に繋げようとしています。


定型の子ども達でも、車を並べるし、オウム返しもするし、クレーンもするし、クルクル回ったりします。
1歳児は砂を食べるし、2歳児は他人を噛むし、3歳児はおしっこを漏らす。
いずれも、発達と途中で表れる行動であり、結局、未発達の子が共通して行うことです。
それを取り上げて、あたかも「自閉症だ」「発達障害だ」というのは、ヒトの発達を無視し過ぎです。
この前も、作業療法に通っている子なのに、首の発達の遅れを指摘されたことがない、と言っていました。
首の育ちが未完成で、いくら細かい作業をしても、できるようにはならんでしょ。
自分もやってみればいいんです、その子と同じ姿勢を、腕が動かしづらいよ。
どうして目の焦点を合わせるのが苦手な子は全員、ビジョントレーニングなのか意味不明。
それよりも前庭系の発達を確認するでしょ、遊びや運動の様子を見るでしょ、他にも確認すべき発達が複数ある。
どうも、運動や感覚などの発達の遅れは「それが障害特性だから」と触れられず、できない部分ばかりに注目し、そこをいじくろうとしているのが療育になっているような印象を受けます。
これもヒトの発達が分からないか、脳内隔離の仕業だと思います。


「PCRして隔離」は、その対象を広げていけば、「全員、自粛」になるのです。
同じように今、子ども達の環境は、どんどん検査対象が広がっている。
そして隔離が進んでいる。
このままいけば、教育のロックダウンは近い。
幼稚園も、保育園も、学校も、少しでも発達が遅れている子、凸凹している子と親御さんは、主体性を無くせば、すぐに学びの機会を失うことにつながりかねません。
発達の遅れを他人にどうにかしてもらおう、というのは無理な話です。
頼ろうとしている専門家たちは既に育てるよりも、隔離に舵を切っているのです。
発達に遅れのある子の発達を保障するのは、国でなければ、教育機関でもない。
そこは親御さんが子どもの発達を保障していかなければなりません。


時々、親御さんのほうが過剰な自粛、つまり特別支援に入れてしまっている気がします。
まさに子どもにマスクと一緒です。
親の怖がり、不安、世間体のために、子の発達が犠牲にされている感じです。
「この子に構造化はいらんだろ」「ABAのレベルじゃないだろ」というのが、マスクをする子ども達と被る。
神経発達の基本は栄養よりも前に酸素ですよ。
乳幼児期の子ども達にとっては、大人の口元を見ることが言葉の発達、摂食の発達に重要ですよ。
その子に必要なのは療育ですか?
発達の機会ですか?
同年代の子ども達と共に育つ場ですか?




2021年3月19日金曜日

【No.1150】「函館をノースカロライナに!」

北海道の知事が盛んに「新北海道スタイル」なんてことを言っています。
お店に行けば、同じような標語の紙が貼られており、内容を見れば、「ただの感染予防の告知かよ」と思うものばかりです。
新北海道"スタイル"なんですから、「スキーを履いて通学、通勤!」とか、「週に1回はジンギスカンを食べよう」とか、「車での移動距離は、1時間80㎞と計算すること」とか、「黄色信号では止まらないで加速!」とかでしょ。
なぜ、感染予防ではなくて、新北海道スタイルなんだか。
国の誰かも「ニューノーマル」なんて言っていましたが、ほとんどの国民は無視。
無駄に英語を使い、何故だか生活自体を変えようとしますね。


かつて当地では、「函館をノースカロライナにしよう」ということを言っている人たちがいました。
「お店のメニューや説明などには、絵や写真をつけるようにしよう」
「自閉症の人が働くときは、ジョブコーチも一緒に雇うようにしよう」
「自閉症の人が安心して利用できるようにBGMや照明を禁止にしよう」
そんな計画(?)、夢(?)、妄想(?)を支援者と当事者、家族でしていたのです。
まさに健常者の権利や楽しみ、自由が排除された視点ですね。


当時から疑問に思っていたのですが、支援者の中には、実際にノースカロライナにいった人たちもいたんですよ、なのにそんな無責任で非現実的なことを言っている。
今思えば、支援者たちも本気でそんなことを目指していたわけではなくて、ある種の忖度だったんだな、と思います。
20年前、講演会や書籍の中では、あれだけ理想郷のように語られていたノースカロライナも、そうやった視覚支援や配慮が行われているのは関係者の内輪だけだし、当然、州全体ではなくある地域、場所に限定されていました。
当時は州の公費ですべての支援が受けれたので、それを拡大解釈して、「州全体で自閉症支援をやっている。どのお店に行っても配慮がされている」なんて勘違いしていたと思うのですが、結構信じていた当事者、親御さんは多かったです。
だけど、実際に行ったんだから、「それは違うよ」「勘違いだよ」と一言言ってもいいと思うんです。
でも、誰もそれを言わなかった。
挙句の果てに、そういった動きを応援するような(ずばり誤学習!)支援者たちもいたくらいです。


私は福祉の大学を出たわけではないのでわからないのですが、「障害者が住みやすい社会は、どの人も住みやすい社会」ってなんなんですかね。
それって誰が言って、実際にそうかって検証したんでしょうか?
たぶん、想像するにバリアフリーの話で、電車のホームとかにエレベーターがあれば、助かる人がいるよね、スロープがあれば健常の人もラクだよね、ってことだと思います。
それがどうして「照明を落とした暗い店内」「BGMがない店内」「絵や写真のメニュー」になるのでしょうか。


自閉症の人が求める社会とは、視覚優位と感覚過敏に配慮した社会を指しているんだと思います。
だけれども、今となっては視覚優位は内耳の未発達(聴覚&平衡感覚)だし、その他の感覚過敏も感覚や運動、呼吸などの未発達。
未発達だから育てればいいんです。
じゃあ、社会を変えるにはどれほどのことがかかるのか。


あのノースカロライナの公費を勝ち取るまでには、相当な年月と労力が必要でした。
親や支援者で同調する人たちを増やしていくと同時に、政治家に近づきロビー活動。
同時に大学などで視覚支援の有効性を研究し、やっとのことで州の公費ですべての支援サービスが利用できるようになった。
でも、州知事が民主党から共和党に変わった途端、100%公費は終了し、今は利用者も負担することになっています。
もちろん、全州でどこに行っても視覚支援、自閉症の理解がある、なんてことも達成されていません。
ちなみにティーチが認定制度になったのも、100%公費が終わったあとで、ウン十万の受講料や「認定資格維持には2年おきの受講が必要」などの参勤交代システムが導入されました。
つまり、ノースカロライナに住む自閉症者のために、日本のお金、しかも多くは福祉法人と学校の出張研修費=税金ですね。
私は「日本の税金で、アメリカの自閉症支援を行う」と揶揄していました。


元ギョーカイ人の私がこれくらいのことを知っているんですから、ズブズブのギョーカイ人が知らなかったわけはありません。
少なくとも、函館がノースカロライナになることはない。
「公費でABAを!」と叫んでいる集団がいるそうですが、それと同じで結局、本人、家族のためではなく、自分たちの売り込みと宣伝なんですよ。
さらに悪いことに、こういった社会活動には支援者ではなく、当事者の声が必要だから、だいぶ利用された人たちがいた。
しかも先着一名様のため、今もそれを信じ、「函館をノースカロライナに!」と言っている成人、家族がいるもんだから目も当てられません(同じように「治らない」「脳の機能障害」「生まれつき」も信じている人がいる)。
自閉症啓発ブームと同じように、利用されるだけされて、今もギョーカイのメンドリになっている成人って少なくないですね。


新北海道スタイルなんて、定着するわけはありませんし、知事や行政の人たちも、コロナが終わったあとも、道民がマスクしてジンギスカン食べたり(ベトベトしてイヤw)、テレワークしたり(漁師さんや農家さん、酪農の人たちが多い北海道ですよw)する社会を想像しているわけはないでしょう。
ただ「感染予防」といってポスターを張ると、反発が来そうだし、お願いベースだからお茶を濁すように、「新北海道スタイル」なんてことを言っているだけ。
だいたい行政が横文字を入れてくるときは、やましいことがあるときです(笑)
横文字はボヤッとしていて曖昧だし、英語に堪能な日本人は少ないので、なんとなく発信でき、なんとなく受け入れてしまう効果がある。


「函館をノースカロライナに」もそうでしょ。
ノースカロライナの何を目指しているのか、はっきり言っているわけではない。
当事者、家族の中で実際にノースカロライナに行った人はいない。
あそこは軍と結びつきが強いところで、軍需産業で保っている土地でもある。
当然、日本人が考えられない差別もありますよ。
だけれども、函館を軍需産業でも受けさせようとも、差別を了承しようとも思っていないのです。
ただ支援者から言われるがままに、ギョーカイのプロパガンダを信じ、理想郷のように捉えているだけ。
そして勝手に10年、20年の時間が過ぎていっている。


行政なんかを信じてはいけません。
専門家だってそうです。
我が身がかわいいのは誰も一緒で、社会なんて時代の変化とともに変わっていくのです。
それこそ、今の福祉サービスが今後とも同じように続くわけはありません。
今まで散々行政に振り回され、支援者のいいように使われた当事者、家族を見てきました。
だからこそ、私は社会が変わろうとも、専門家が手の平返しをしようとも、大丈夫なものを目指しているのです。
社会を変えるには長い年月と労力が必要です。
でも、神経発達のヌケ、未発達は今日、今すぐに育て始めることができるのです。
福祉制度が変わろうとも、トンチンカンナ支援者しかいなくても、家で子ども自ら、家族とともに育てることができる。
そして一度、埋まったヌケ、発達した部分は後戻りしないし、誰も奪うことができない。


コロナ騒動後の社会、世界がどうなっているかはわかりません。
しかし、発達は裏切らない。
身に付けた学力、生活力も裏切らない。
裏切るのは社会の制度とギョーカイ人だけ(笑)
600万年前のご先祖様たちも、暖かくなれば気持ちが晴れやかになり、花を見れば嬉しくなったはず。
さあ、サクラの季節です。
桜の花を愛で、そして新たな旅立ちをする子ども達を共に祝福し、応援しましょう。
ヒトの生き方は、そんなに簡単に変わりませんね。




2021年3月16日火曜日

【No.1149】自己肯定感と愛着

以前は「自己肯定感」と「愛着(障害)」を分けて捉えていました。
でも、気がついたんです、自己肯定感の土台が愛着だと。


自己肯定感の高い愛着障害の人には会ったことがありません。
厳密に言えば、会ったには会ったんですけれども、自分を守るための偽装した自己肯定感が高かった人はいます。
自分が愛されていなかった現実から目を背けるために、「自分は価値のある人間だ」と自らに言い聞かせている感じです。
しかしこういったのは、真の自己肯定感ではないですし、自己肯定感が"高い"とはいえないですよね。


話を戻しますと、「自己肯定感が低い」と悩んでいる人の多くに、愛着障害を見ることができます。
ただ良く考えれば、そうですよね。
自己肯定感とは、自分という存在をそのまま受け入れられること。
その原始体験は、どう考えても赤ちゃん時代ですし、始まりは胎児期だといえます。
よく「無償の愛を与える」なんてことが言われますが、それは親を喜ばせるための商業的な話であって、赤ちゃんの視点に立てば、まずは身体を通した安心感、身体が「ああ、自分は守られているんだ」と感じることが自己を肯定する始まりだといえます。


子どもさんもそうですし、若者、大人の人でもいますが、言葉にならない不安感を持っている人達がいます。
ある程度、大きくなれば、言葉で「〇〇が怖い」などと言いますが、一貫性がなく、「本当にそう思っているのかな」と感じるような人もいます。
そういった人の場合、言葉は二次的な話であって、その根っこには言葉にならない不安感がある。
なんだか安心できない。
なんだか世の中が怖く感じる。
そういった言語化されない不安感、恐怖感は、言葉を獲得する前の発達段階で生じた愛着障害だと考えられます。
時々ですが、「お母さんのお腹から出るのが怖かった」という子もいるくらいです。


母胎にいるときは、母子が繋がっています。
その母親が感じることは、子も感じます。
ということは、母親が感じている不安感や恐怖感はそのまま胎児に伝わり、胎児は外の世界が怖いところだと身体が感じるのです。
そういった身体を通した記憶を持った子ども達が、社会の中でなんとなく不安感や恐怖感を感じ、同年齢と同じような体験、チャレンジをしても、その受け取り方が変わってしまう。
同じ失敗をしても、再び立ち上がろうとする子もいれば、そのまま起き上がれなくなる子もいる。
目の前に高い壁があれば、「よし登ってやろう」とする子もいれば、その場に立ち尽くす子もいて、その場から立ち去ってしまう子もいる。
私はそういった子ども達の違いを見るたびに、身体の記憶が背中を押すこともあれば、足を引っ張ることもある、と感じます。


何かを達成したとき、自己肯定感は高まると考えられています。
「算数のテストが100点だった」
「逆上がりができるようになった」
「一番に給食を食べ終わった」
だから、特別支援の世界では、やたらと簡単な課題をさせ、スモールステップという名のお子様扱いをし、一方で失敗や叱るということを避けようとします。
だけれども、こういったのはすべて小手先の戯れで、自己肯定感の表面的な解釈でしかないと思うのです。


どんなに後天的に周囲が頑張っても、環境を準備し調整したとしても、愛着形成という土台が培われていないと、自己肯定感は高まるはずはありません。
原始的な身体の記憶がネガティブなものである限り、常にチャレンジに怯え、いや、世の中そのものに怯え続けている。
反対に、そういった原始的な記憶がとても心地良く、安心感に満ちていれば、目の前に現れた試練も、壁も、遊びになる。
愛着という発達は、子どもの遊ぶ姿に一番表れるからです。


伸びやかに遊びまわっている子には、「自分は愛されている存在だ」「守られている存在だ」という感覚、身体の記憶があります。
一方で、同じ場所から動けない子、母親の存在感を視覚と触覚、嗅覚で何度も確かめる子、まったく離れることができない子もいて、やはり母親から少しでも離れた世界が怖いものであると身体が訴えているようにみえます。
人間の最初のチャレンジは遊びの中にあり、純粋に遊びと感じるか、自分に対する試練と感じるかは、身体の記憶によるところが大きい。


自己肯定感という言葉には、「自己」という言葉が付いています。
その「自己」とは本人のことであり、その本人が感じるのは身体を通してです。
ですから「自分はかけがえのない存在である」と感じるのは、本人の身体。
その身体からのメッセージが肯定的なものでない限り、後付けで褒めようとも、ご褒美を与えようとも、自らを肯定することができません。
そういった意味で、自己肯定感の土台は愛着形成なのです。
自己肯定感だけを取り上げて、別個に対処しようとしても無理。
自己肯定感は課題の調整、環境の調整、褒め方の工夫ではどうしようもなくて、つまるところ、愛着という発達をどうするか、そのヌケをどう育てていくか、の話なんだと思います。


愛情をたっぷり受け取った身体記憶のある人は、世の中に対する安心感が違います。
まるで小さい子が外を駆け回って遊んでいるかのように、学校や職場、社会の中で伸びやかに生きています。
試練は遊びで、立ちはだかる壁は突破することに快感を覚える。
嫌な出来事に出会っても、揺るがない強さを持っている。
だって、この社会は安心できるところだから。
自分の身体が安心感を記憶しているから。
身体の記憶、原始的な記憶は、言葉では塗り替えることができませんね。




2021年3月15日月曜日

【No.1148】親バカの言語化

「親バカ」に説明を加えるとしたら、「根拠のない自信」だと思います。
「今、言葉はしゃべらなくても、こちらの言葉は理解している」
「この調子で発達の遅れを丁寧に育て直していけば、就学の頃には勉強できる子に育っている」
「この子は"生涯、支援の子"と言われたけれども、きっと自立できると思う」
そのような発言をする親御さんは少なくなく、実際、親御さんの言う通りに育つ子も少なくありません。
専門家に見えなかったものが見えていたわけです。


「根拠のない自信」と記すと、当てずっぽや直感などと言われそうですが、そうではありません。
親御さんは確かに何かを感じ、捉えているのです。
つまり、根拠のないというのは、言語化できない情報を得ているという意味になります。
学校から帰ってきた靴の脱ぎ方で、今日の学校での出来事がわかる。
寝る前の「おやすみ」の一言で、ぐっすり寝れるかどうかがわかる。
そういったことは、共に過ごしている家族ならわかるものです。
ただ根拠と言えるようなものはない。


ヒトという動物も、感覚系をフル活用し、常に情報を受け取り、処理して生きています。
「なんか、雰囲気が違うな」
そんな感覚的な何かを掴むとき、言葉を介さないで捉えているのでしょう。
我々が「捉えた」「理解した」というのはごく僅かであり、大部分は言葉を介さない情報の部分だと私は考えています。


敢えて長所という言葉を使いますが、親御さんの長所とはこの感覚的な情報の多さ、豊かさだといえます。
それこそ、胎児期から共に生き、互いの鼓動を感じながら生活しているのですから、圧倒的な情報を持っているのです。
ゆえに、他人がわからない未来を見ることができる、過去から現在、そして未来への流れの中で。


典型的なのは診断ですが、支援者が行うアセスメントも、見えたとこ勝負、言語化できたもの勝負になります。
よくあるのが診断やアセスメントの場面で、「この子は〇〇ですね」といった断定的な表現で言われると、親御さんの中にモヤッとしたものが生まれることがある。
このモヤッとしたものは、それまでの圧倒的な情報の中で、「そうじゃないよ」とメッセージが発せられているのでしょう。


「この子は分かってないね、お母さん」と言われても、心の中では「いや、ちゃんと理解しているはずだ」と親御さんは導き出している。
ただどうして私がそう思うのか、言語化できないから、その場で終わって帰ってしまっているのが往々にしてあることだと思います。
親御さんの中には言語化できない状態を、「ただの親の直感だ」「私は素人だし」と言語化し収めようとしている人もいますが、もともと言語化されるものなんて微々たるものなのです。
たった1時間、2時間の検査で、どうしてその子の未来が予想できるでしょうか。


診断も、アセスメントも、すべてその場で確認できるもの、言語化できるもので判断されています。
発達が遅れている状態はわかるけれども、なぜ、遅れているのか?
この遅れは病的なものなのか、何が背景なのか?
この状態は今後も続くものなのか、いつ育つものなのか?
そんなもの、専門家も、支援者も分かるわけがないのです。
今の状態をある基準と比べてどうか、と言っているだけであり、それが専門家の限界だから。
なので、発達の遅れの理由、背景を尋ねても、「脳の機能障害だから」「生まれつきの障害だから」としか返ってこないでしょ。
我が子の将来のことを尋ねても、「将来を考えるよりも、今を大切に」とか意味不明な講釈を垂れるでしょ。


ひと昔前は、「自閉症の人は、場所が変わるとできなくなる」とそれがあたかも特性かのごとく言われている時代がありました。
しかし、今考えてみれば、それは情報の取り方の狭さと典型的なパターン学習のマリアージュでした。
そしてその背景には、支援者側の情報の狭さもあったのでしょう。
生活の中心、受精から続く人生の流れは、家庭の中にあり、それを捉えているのは親御さん。
そこを断ち切り、学校は学校のアセスメント、施設は施設のアセスメントとやって、それぞれで支援を組み立てていくから、その場対応のパターン学習が成り立っていくのだと思います。


24時間、寝食を共にするという施設職員という仕事を通して、自閉症や障害を持った人のことを「私は何も知らなかった」と数え切れないくらい感じました。
それまで大学や研修、専門書で学んできたことは、ごく一部であり、ある側面を部分的に照らしただけの情報でしかないことがわかりました。
一方で、胎児期から共に生きている家族、親御さんには敵わないと思いましたし、その親御さん達の力を活かさないのはもったいないと考えました。
それが現在の家庭支援という形に繋がっています。


本来、アセスメントの主は、親御さんだと思います。
どう考えても、圧倒的な情報を持っているのは親御さんなのですから、それを無視するのも、活かさないのも間違えです。
親御さんの捉えている言語化できない子どもさんの「状態」「症状」「行動」「発達」「感覚」などを言語化するのが専門家の役割ではないでしょうか。
親御さんが気づいていない何かをズバッと見抜いて指摘するのが専門家というイメージがあるかもしれませんが、それは違っていて、親御さんが気づいていないもの、感覚的に捉えてきれていないものが他人にわかるわけはないのです。


私達ができるのは、親御さんの「親バカ」をより強い親バカにしていくことだと思います。
つまり、根拠のない自信の"根拠"の部分を言語化することです。
見えないものを見るというよりも、親御さんが見ているけれども言語化できないものを言葉にするお手伝い。
感覚と言葉を結びつけることで、理解が深まり、また次の行動、より良いアイディア、選択へと向かうことができます。
専門家・支援者と親御さんとでは、圧倒的な情報量の差がありますので、日々の生活の中で感じる「おやっ」「あれっ」「もやっ」を大切にしていただきたいと思います。
きっとそこには、共に生きてきた家族だからこそ、感じ、捉えられている感覚的な情報、非言語的な情報があるはずです。
そしてそこが発達援助の入り口になることが多いのですから。




2021年3月12日金曜日

【No.1147】8歳まではみんな、未発達

発達障害とは、発達に関する【disorder】なので、なんらかの不具合が生じている状態だといえます。
そう考えると、発達に遅れが出ている状態は「障害」と言えるのだろうか、いつからどこからが障害で、障害ではないのか、そういった疑問が湧いてきます。
発達に遅れが出ている状態は、問題なのでしょうか、障害なのでしょうか。


子どもの発達で言えば、どの子も未成熟で、未発達の状態です。
生後4年間はシナプスの密度が濃くなっていき、4歳から8歳で急激な刈り込み作業が行われます。
つまり、脳の発達から言っても、この間はどの子も発達の途中であり、昨日と今日、今日と明日は異なっているのです。
ですから、その子の発達が遅れているように見えても、それは本当に遅れているのか、それがその子の発達の仕方、途中経過なのかわかりません。
そういった意味で、0歳から8歳までの子についた「発達障害」という診断名には、とくに意味がないと思うのです。
そのような意味のないもので、親御さんが落ち込み、養育力を低下させるような結果となるのなら、診断なんか止めてしまえ、と思います。


しかし現実問題として、0歳から8歳までの子に診断がつけられます。
まあ、診断がつけられるというよりも、「発達が遅れている」という指摘がされるのです。
でも、先ほど述べたように、その「発達が遅れている」状態は異常なのかどうか、曖昧だといえます。
発達が遅れていても、家庭生活や園での生活に本人が不便さを感じていなければ、その遅れは問題とはいえないでしょう。
発達が遅れていても、一応、8歳を迎えるくらいまでにその遅れが取り戻せていたら、問題なし!


私に依頼のある発達相談の子ども達の年齢は、ほとんどが8歳以下の子ども達です。
その子ども達は、診断を受けている子もいれば、受けていない子もいます。
遅れている発達も、集団の中、生活の中で問題になっている状態から、「本人は困っていないけれども…」という状態です。
ここで私が意識しているのは、その遅れが8歳以降も続くものかどうか、の見極めになります。


8歳までに発達の遅れを取り戻し、同年齢との集団生活、学校生活に支障がなければ、それは普通のお子さんです。
ただ何らかの原因やヌケがあり、一時的に発達が遅れていたように見えていただけ。
発達障害というよりも、単に育っていなかっただけ、他の子とは異なる発達の仕方だっただけです。
そういう子ども達に診断をつける、つけようとするのは、ギョーカイによる青田買い。
青田買い=誤診そのものですし、何よりも「治らない」「障害児」という前提で事を運びますので、教育の機会と同年齢が味わう経験からの隔離が行われてしまい、結果的に模範的な障害者が作られてしまいます。


言葉が出ていない子を見て、「発達が遅れている」というのは誰でもできます。
大事なのは、その言葉の遅れにしろ、運動発達の遅れにしろ、それが8歳以降も続くような遅れなのか、取り戻すには時間がかかることなのか、の見極めです。
これができないから、現在の診断はメリットよりもリスクがあるのです。
幼稚園でも、保育園でも、少しでも友達とトラブルがあれば、保育がしにくい子がいたら、活動にのれない子がいたら、すぐに「発達障害では」と疑います。
百歩譲って疑うのは良いのにしても、「ああ、このくらいの遅れの子は、今までにもいたわ」「これくらいの遅れなら、卒園する頃には育っているわ」という視点がないのが大問題です。
ギョーカイの宣伝活動によって、「早く見つけることが良いこと」という錯覚に陥り、一時的に遅れている状態の子を障害児のように扱ってしまう。


8歳が最初の分岐点になるのは、脳神経の発達から言っても、実際に関わったお子さん達を見ていても、感じます。
子どもさんですから、大人と比べて発達成長のスピードは速いですが、それでもやはり少しずつゆっくりになるのが自然な姿です。
また8歳以降になると、発達の遅れやヌケの状態での情報処理と環境適応が脳や神経、身体を形作り始めますので、感覚的な言い方で言えば「固く」なっていきます。
この「固く」なるプロセスで、いわゆる「自閉脳」や「障害特性」というのが表面化し、固定化されていくように思えます。
「自閉脳」は、偏った情報処理と、それに伴う脳の環境適応が作りだすものであり、「障害特性」は、未発達やヌケを保存し続けた結果といった感じです。
よって、8歳以降がまったく育たないというわけではなく、折り合いをつけていく部分が出るのだといえます。


「じゃあ、おまえは8歳以降の見極めができるのか?」と言われれば、言語化するのは難しいけれども、感覚的に掴めていると思います。
たとえば、乳児幼児期の激しい睡眠の乱れ、激しい感情の乱れがあった子どもさん達は、その乱れが整うまで時間がかかりますし、何よりも発達の第一条件となる「快食・快眠・快便」のうちの快眠が乱れるということは、全体的に発達が進んでいかないことになりますので、8歳をまたぐことが往々にしてあります。
また「自分が今ここに存在している感じ」がない子どもさん達もそうでしょうか。
ただこういったお子さん達は少数派で、ほとんどのお子さんは発達のヌケを育て直し、未発達の部分を促し、発達を阻んでいる環境を見直せば、8歳までに【disorder】の状態から抜け出せます。


しかし、脳神経の発達からいえば、8歳がポイントなのですが、就学はそれよりも早く来てしまいます。
しかも、年長、6歳になる年の春から夏にかけて就学相談が始まるのです。
当然、資料として提出する発達検査も、6歳ないし5歳の時点での状態で、そのときの遅れの状態が"就学時も続く"という前提で話が進んでいくのです。
よくある話は、「検査時、できなかったけれど、今はできるようになった」と言っても、「いや、検査結果がこうだから」と聴く耳を持たれなかった。
5歳の発達検査では席に座ってられなかったとあり、「それじゃあ、普通級は難しいですね」と言われたが、一般的な5歳児はそんなに長く座れないよな、それって「発達障害」というバイアスで見ているよな、ということがある。
園での環境、先生の保育力などは加味されず、「園で大変」という話だけで、支援級が勧められるということも。
あとは「診断を受けた」「療育・支援を受けている」という事実から、そのまま支援対象と流れ作業のように決まってしまうという話もありました。


以前から主張しているように、8歳までは『障害名(仮)』としなければなりません。
幼稚園も、保育園も、学校も、もっと子どもの伸びる力、発達する力を信じた方が良いと思います。
年々、言葉は悪いかもしれませんが、各場所で、各年代でピックアップされるお子さんが増え、かつ低年齢化しており、神経発達が最も盛んな時期の2年間が切り取られてしまっている印象を受けます。
だからこそ、その子ども達が大きく変化する大事な2年間を守るためにも、専門家がその子の遅れが8歳をまたぐものかどうかを見極められなければならないのです。


ある地域は、「低学年のうちは、なるべく支援級ではなく、普通級でどの子も学ぶ」という方針で教育行政が進められていました。
この方針の背景まではわかりませんでしたが、これが子どもの発達に沿った教育の姿だと思います。
しかし、全国的に見ても、このような地域は圧倒的に少ないのが現状です。
なので、やはりここは親御さんが知識と情報を持ち、しっかり考え、選択していくことが大事だと思います。
現状を嘆いていても始まりませんし、子どもの大事な時間は減っていくばかりです。
学校が支援級や支援学校だったとしても、放課後の過ごし方は各家庭で決めることができます。
幼稚園や保育園で補助の人が付いていたとしても、療育園のような通園施設に通っていたとしても、幼児期は子育てがメイン、家庭がメインですから。




2021年3月9日火曜日

【No.1146】同じ意見しか出ないとき、その裏には真実が隠されている

「自分は言いなりじゃないぞ!」
「はっきりものを言ってやったぜ♪」
そうやって他人の悪事を表ざたにし、自らをアピールしたつもりが、「結局、騙されてんじゃん」「"こだわりがない"なら黙ってろよ」と評価を下げる。
しかも、メインじゃないところで、埼玉と千葉がただ追随しているだけの存在だとばらし、4人まとめて評価ガタ落ち。
まさに「無能」のワンボイス。
これが家庭劇なら大爆笑間違いなし。
万太郎一座にも勝てるはず。
民が頑張っているとき、何をのんきなことをしているんだと思います。
御上を信じないのが、最大の感染症対策なのかもしれませんね。


かつて発達障害啓発ブームだったとき
「あなた達が悪いんではなく、社会の理解がないのが悪いんです」
「あなたの努力が足りないのではなく、自閉症という脳の問題だったのです」
「自閉症の人の中には、素晴らしい才能があって、それを活かして生きていけばいいんです」
と講演会でも、ギョーカイ雑誌でも、メディア内でも、盛んに言われていました。
今、文字に起こしてみると、悪徳宗教のようですね。
でも、こういったメッセージをそのまま受け取った当事者の人達とその親御さん達がいたのも事実です。


当時の有名支援者たちが「自閉症の理解」に乏しかったのがよく分かります。
あれだけ自分たちで、「自閉症の人達は"字義通り"に受け取る」と言っていたのにも関わらず、こういった一側面的な意見、個人的な意見を振りまいていたのです。
ただでも人間の習性として、「最初に聞いた情報を信じやすい」というのがあるのですから、情報提供の仕方には工夫が必要です。
当時の支援者たちも、神奈川県知事と同じだったかはわかりませんが、意図せず混乱を招いたのは事実だといえます。


あの時代、真顔で「絵描きになる」「小説家になる」「ゲームソフトを開発する」「啓発活動で食べていく」と言っていた当事者の人が大勢いました。
起業当初は、こういった当事者の人達からの相談もあり、「どうしたら漫画家になれるのか」などというのもありました。
「漫画の勉強や学校に行ったことあるの?」と尋ねれば、「行ったことはない」と言い、就きたい理由を尋ねれば、「漫画が好きだから」「〇千冊くらいマンガを読んでいるから」という答えばかりでした。


また卑屈系の当事者の人からの相談も多く、自分が就職できないのは、ひきこもりなのは、学校でいじめられるのは、「周りの理解がないからだ」と言っていました。
「じゃあ、周りに理解してもらうにはどうするの?」と尋ねれば、「自分の説明書を書いて配る」「講演会を開いて、自閉症の理解を広げる」といった現実的ではないアイディアばかりでした。
ですから、何時間も説明し、理解の問題ではない、理解するかどうかはあなたが決められるものではない、という話をしたのを思い出します。


今思い返すと、支援者たちが黒岩っていたのがわかります。
何か注目を浴びて、何かを示したかったのでしょう。
しかし、彼らに足りなかったのは、それを伝えたい人がどのように受け取るか、という視点です。
彼らの多くは、それまで原因がわからず、ずっと不遇な人生を送ってきた人ばかりです。
そんなとき、「それは自分の問題ではないんだ」「脳の問題だ」「社会、周りの問題だ」と言われれば、飛びついてしまうのも無理はありません。
たぶん、当事者の人たちからすれば、一発逆転という想いもあったんだと思います。
もちろん、彼らの捉え方の特徴という話もありますが、やはり「これで人生が変えられる」という気持ちが強かったと感じました。
皆さん、必死でしたし、何の疑いもなく信じていましたし、何よりも当事者の人だけではなく、その親御さんまでもが信じ切っていましたので。


では、当時湧き上がった当事者の人たちが今、どうしているか。
いろいろなところから話を聞きますと、哀しくなります。
服薬の量が増え続け、家から出られなくなった人。
定期的な相談支援で、ひたすら愚痴だけを言い続けて過ごしている人。
大学を卒業しても、福祉的就労を利用し続けている人。
漫画家やソフトの開発者を目指して勉強や進学を始めたものの、続かず、更なる挫折を味わった人。
ひきこもりの年数だけが増えていった人。
「脳の機能障害」が「神経発達症」に変わり、精神的な不調をきたした人もいました。


結局、彼らは一時的に支援者によって持ち上げられ、また叩き落とされてしまったのです。
当時、啓発にいそしんでいた有名支援者達の多くは去っていき、残された当事者の人達は苦しんでいます。
字義通り、具体的に物事を捉える傾向のある彼らには就職や自立につながる具体的な助言が必要だった。
そして啓発活動は、パフォーマンスの側面もあること、物事の多面性を伝える人が必要だった。
起業時当初、こういった当事者、家族からの相談が多く、大変だったという想いがありますが、決してこのような対応はしてはならない、彼らに必要な支援はこういうことだ、というものが肌身で分かったので、今に生きているともいえます。
しかし一方で、一人ひとりの人生をみれば、あまりにも犠牲が大きかったのでは、という想いもあります。


日曜日、津波から非難した人達の行動に関する番組が放送されていました。
「逃げよう」と最初に声を上げた人の行動が連鎖し、多くの人たちを救ったという話もありました。
今のコロナ騒動もそうですが、大部分は自分で考えるよりも周囲に合わせてしまいます。
ですからいち早く情報を受け取り、更新し、発信していく人の存在が必要なんだと思います。
特にある側面からの情報提供しかない、どこを見ても同じ意見で反対意見がない。
メディアで言えば、どのテレビ局、新聞、書物、ネット記事でも同じ意見ばかりだ、というときには気を付けなければなりません。
ギョーカイが一斉に良いと言っていること、良いとしてきたこと、大前提としていることにこそ、疑いの目で見ていく必要があると思います。


「支援を受けることこそが、子ども達の幸せ」
そういった言葉に対して、「逃げよう」と言える存在でありたいですね。
そのためには自らの行動と実績が必要だと考えています。




2021年3月6日土曜日

【No.1145】治す道は独立独歩

高機能の子ども達が支援対象に組み込まれようとしていたその時、有名支援者はこういって全国を駆け回っていました。
「あなた達の子ども達は、犯罪者になる可能性が高いんですよ。だから家庭でもしっかり支援しなさい」
それまでの「支援」のイメージから、うちの子は支援というよりも教育だな、と二の足を踏んでいた親御さん達に、この言葉は大きな影響を与えました。


学生時代、あちこちで「うちの子、"犯罪者予備軍"と言われた」「あなた、お子さんを犯罪者にしていいんですか、と言われた」という話を耳にしました。
これは有名支援者からというよりも、有名支援者からコンサルテーションを受けた支援者たちが各家庭の親御さんに言っていた言葉でした。
当然、親御さん達からすれば、ショッキングな言葉であり、強い反発を生むことがありました。


しかしこの話は複雑です。
まず最初にそういって全国で講演やコンサルをしていた有名支援者は、ありのまま系の「自閉っ子は天使」「自閉症と犯罪は関係ない」「犯罪に繋がるのは、すべて周囲の理解が足りなかったからだ。誤った関わり方をしたからだ」と主張するグループと距離を置き、対立している人でした。
ですから、従来からの単なる理解の啓発と視覚支援に異を唱える形で、特に高機能の人たちを念頭に支援というよりも、教育の重要性を主張していたのです。
この有名支援者のコンサルや講演などを聴いていても、自閉症者に対して結構ドライでしたし、欧米重視の人だったので、自閉症者の犯罪リスクについて十分な認識はあったと思います。


私はもう施設職員として働き始めていた時期でしたが、こんな話を聴いて驚いたことがあります。
自閉症の子を持つ親同士で僻みあっている、と。
知的障害を持つ子の親御さん達は「うちの子達は、生活全般に支援が必要で大変なんだ」と言い、高機能の子の親御さん達は「うちの子達は、犯罪を犯す危険があるんだ」と言う。
お互いが自分たちの方が大変だと言い、一方を「(あなたの子、あなたの子育ては)ラクでいいわね」と言っている。
同じ自閉症の子を持つ親同士で、どうしてこんなことを言い合うようになったのか、とそれぞれの親御さん達から話を聞くたびに思ったのでした。


もちろん、親御さん達の捉え方はそれぞれで、「犯罪者になる危険性がある子よりも、生活全般の手助けが大変だけど、うちの子のほうがいい」という親御さんもいましたし、「犯罪者になる」という言葉が受け入れられなくて反発したり、ショックで精神状態を崩したり、「だったらせめて犯罪者だけにはしたくない」と子育てを頑張る力に変えたりした親御さんもいました。


客観的な事実として、犯罪を犯した人があとからASDの診断がつけられることがあります。
そして裁判の流れの中で、弁護士や裁判官がASDという特性の影響を指摘することがあります。
つまり、支援者以外の人は「ASDと犯罪」についての認識があるということです。
私は自閉脳があるとは考えていませんが、それでも長年の発達のヌケや遅れ、感覚系の未発達が情報選択と処理に影響を与え、誤った価値観や行動を形成していくのだと考えています。
そういった長年の歪みが、社会や他人に対する歪みを生み、結果的に犯罪に繋がっている、繋がる危険性が高い、というのが私の認識です。
実際、この仕事をしていて、またネット上での振る舞いを見ていて、犯罪の芽を当事者たちの中に感じることは多々あります。
ですから、有名支援者が「この子達は犯罪者になる可能性がある」と言って回っていたのは間違えではないと思っています。


しかし、この有名支援者にも過ちがあったと思います。
それはコンサルテーションや指導していた支援者たちがその意味を深く理解することなく、表面的な理解でこの言葉を使っていたことです。
親御さんの中には、視覚支援や早期療育よりも、子育ての中でより良く育てていきたい、と考えていた人たちがいました。
そうやってなかなか支援の世界に入ってこない、支援者のいう支援に乗ってこない親御さん達に対して、脅すようにして「あなたの子は、犯罪者になる可能性がある」という言葉を使ってしまった。
また自分たちの腕やアイディアのなさを隠すようにして、「この子達は犯罪者になる可能性があるのだから」と言い訳としてこの言葉を使ってしまった。
そして家庭での支援がなかなかうまくいかず、家や学校で問題を起こしてしまっている家庭に対して、「親がしっかりしないから、犯罪者予備軍になるんです」と親御さんを責める言葉として使ってしまった。


ですから本質が伝わる前に、親御さん達はそのように言ってくる支援者と支援に対して反発を覚え、ある人はショックで精神状態を崩し、ある人は自分が関わるのはよそうと子育てを投げてしまった。
一方でギョーカイは「自閉っ子は天使」と主張する医師、支援者が主流派だったので、親御さんのほうもそちらのほうを信じ、心の支えにしていた人たちが多かったといえます。
そういった親御さん達にとっては、「犯罪者」「犯罪予備軍」なんていう言葉が出ること自体、激しい拒絶反応が出るのです。
この有名支援者、この有名支援者から影響を受けた支援者たちが、すこぶる評判が悪かったのは、ギョーカイが主張する内容と正反対だったから、という点もあったと思います。


こういった時代を振り返り、そして今、発達相談という仕事をやっている中で感じるのは、発達のヌケや遅れ、未発達をそのままにしておくのはリスクでしかない、ということです。
限られた情報しか受け取れず、また情報の切り取り方が独特である状態が続くと、そういった歪んだ情報と世の中の切り取り方で、脳や身体が形成されていってしまいます。
ヒトは、周囲の環境に適応しやすいように生まれ、よりよく適応することで生き抜く動物です。
その周囲の環境を誤って捉えたら、環境の一部しか捉えられなかったら、思考や行動に歪みが生じるのは自然なことです。
それが結果的に、周囲とのズレを生じさせ、ネガティブな体験として刻まれていく。
ASDと呼ばれる人達の犯罪についての書物を読むと、ネガティブな体験がフラッシュバックやトラウマを生み、その上に歪んだ思考と行動が合わさって過ちへと繋がっていくように感じます。
当然、初期の対人関係、愛着形成の躓きの影響も大きいといえます(対人トラブルの根っこの一つ)。


つまり根っこは、私が今、発達相談で関わっている子ども達と変わりはないのです。
最初は発達のヌケや遅れ、未発達だった。
でも、その状態が長く続くことが、凸凹を大きくし、トラブルの機会を増やしていく。
そういった意味で、ギョーカイの主張する「自閉っ子は天使」「犯罪と自閉症は関係ない」というのは逆に犯罪のリスクを高め、過ちを犯してしまう人を増やすことに繋がっているのです。
つくづくもったいないのは、犯罪のリスクについて認識していた有名支援者の人望がなかったことと、ギョーカイの主流派ではなかったこと、そして弟子を育てる力がなかったことです。
この有名支援者は治せる支援者でしたが、そのあとが続かず、高機能ブームとともに去っていってしまいました。


まとめとしてはずれてしまいますが、腕の良い支援者、治せる支援者が同じように弟子を育てられるか、と言ったらそれは難しいことのほうが多いように感じます。
別の言い方をすれば、集団で群れていては腕は上がらない、組織での支援では治せない。
治す道は独立独歩なのかもしれませんね、親御さんも、支援者も。




2021年3月1日月曜日

【No.1144】不具合な状態が重いか軽いか

ジムのトレッドミル(ランニングマシーン)の前にはずらっとテレビが並んでいて、以前の私はそれを見ながら走っていました。
でも、どの画面を観ても、マスク姿や意味があるのかわからないような衝立が映るから、もう目にするのもうんざりになり、Bluetooth(おじさんも言いたいだけw)のイヤホンを買ってYouTubeを聴くようになりました。
そういえば、そのアクリル板、どうするんでしょうかね、コロナ騒動が終わったら。
全国に大量のアクリル板とかが捨てられ、ちょうど昨晩はプラスチックごみの特集がやっていたようですが、一方で「プラスチックごみガー」とやり、もう一方では大量のアクリル板を立てて番組をやっている。
飲食店は間隔をとるために席を開けて頑張っているのに、今朝の国会中継では危ないといわれている高齢者たちが席を詰めて座っている。
数年後、報道番組で「アクリル板の不法投棄」「大量に捨てられるコロナ対策で使われた物たち」なんてやったら張り倒しますよ、根拠なく煽りに煽ったメディアを。


話がそれましたが、YouTubeで落語とか、野球関係の番組とか、有識者の話を聴いて筋トレしたり、走ったりしています。
すると、ホーム画面にお勧め番組が出るのですが、時々、自閉症とか、発達障害関係の番組が上がってくるんです。
しかもビックリすることに、たぶん、親が作っているんでしょうけれども、子どもの顔が丸わかりの番組を上げている人がいる。
私は詳しくないのでわからないのですが、その番組を検索したわけでもない私のホーム画面に上がるということは、見ず知らずの人達、しかも世界中の人が目にする可能性があるってことですよね。
うちの子、小学生ですが、メディアリテラシーの授業があって、この前は「自分の本名をあげてはならない」「顔が映るなどの写真、動画を上げることは危険を伴う」と教わってきていましたよ。


お勧めに上がっていた何名かの動画をちょっと観ましたが、タイトルのわりに育てられる部分ばかり、それは自閉症の特性ではなくて発達の遅れ。
動画編集や配信している暇があるのなら育ててしまえば早いのにと思いますが、どうもその感覚がわかりません。
だって、未発達やヌケの部分を育ててしまえば、一般の人として育ち、社会の中で生きていくんですよ。
その子が大人になって、このYouTubeを観たとき、「僕も小さい頃はかわいかったな」なんて思いますかね。
個人情報だだ洩れで、しかも、さあ、一般の人として生きていこうとしているとき、これがネット上に残り続け、自分の意思とは関係ないところで告知が行われている。
進学や就職の際、「あなた、発達障害だったの」って、思いもよらない人から指摘されることって、それが結果に影響することって、ないとも限らない。
ということは、その動画を上げている人からしたら、映っている我が子はずっと自閉症のままだし、ずっと発達に遅れが出たまま、という認識なんだと思います。
まさにギョーカイの啓発がもたらした負の遺産です。


ついでに言うと、こちらはギョーカイの負の遺産というよりも、親御さん、支援者その人の問題なんでしょうが、とにかく「この子は重い」という人たちがいます。
親御さんとかともお話していて、「このお母さんは、我が子が重いほうが良いのだろうか」「できるだけ"重度"と私に言ってほしいのだろうか」と思うことがあります。
過去にも何度か記事にしましたが、「大変な我が子を育てている自分」を演出している場合もありますし、先に保険を掛けている場合もあります。
保険というのは、「重たいんだから、全部育てられなくても、治らなくても、責めないでね」という先回りの保険です。
あと自分の手柄の場合も。


発達障害の子ども達の中に「重い子」ってどれくらいいるのだろうか、と思います。
発達のヌケや遅れが大きい子がいて、それを「重い」という場合はあるでしょうが、それはその子が重いのではなくて状態が重いんですね。
発達は常に変化しますし、特に子どもの時期は1ヶ月後には課題がクリアされているなんてことは当たり前です。
発達障害は、発達に不具合が起きている"状態"を指しているので、重いとか軽いとか人にくっつけて言うこと自体不適切。


この発達障害児における「重い(または軽い)」というのは、昔からすこぶる評判が悪かったのを思い出します。
自閉症協会の中でも、高機能部と知的障害のある部ではお互い悪口を言っていましたし、他の障害種である肢体不自由の子の親御さん達からは発達障害全般に対して批判的な意見が出ていました。
「どこが重いんだ。重いって言うのは、私達の子みたいな子のことを言う」
そりゃそうです。
胃ろうや呼吸器が必要だったり、24時間たんの吸引、2時間おきの体位変換が必要だったり…。
今日一日、生きること自体が大変な子ども達の親からすれば、自分で移動や食事、排泄ができ、勉強や遊ぶことができる子のどこが「重度か」という気持ちもわかります。


どう考えても障害という括りの中で発達障害は限りなく軽い方に入ります。
というか、そもそも"障害"ではなくて、不具合な"状態"という意味です。
それは【disorder】を調べればわかります。
また私は肢体不自由、遺伝子の疾患、病弱児との関わりがありましたし、施設ではそれこそ「重い」と言ってしまうような人たちとの関わりがありました。
食べ物か食べ物ではないかの区別ができない。
自分を傷つけ続け、生命の危険が及ぼうとも、自分で制御することができない。
寝ることも、排泄することも、自らで行うことができない。
家や地域、他人と共に生活できない人が施設に来るわけで。


発達のヌケや遅れ、運動や感覚系の未発達はどのように育てたら良いかがわかる時代になりました。
だから、今の子ども達が大きくなったとき、一般の人として生きていく人も多いでしょうし、自分自身で発達障害者として生きるかどうかを決める日が来る人も多いと思います。
そんなとき、前世代の考えや、ギョーカイの啓発活動による負の遺産を引っ張った写真や動画が残っていたらどうでしょうか。
本人の意思に反して「発達障害者」「自閉症者」として生きなければならない子どもがいたのなら、私は悲しく思います。


そしてそのような子が出ないように、ちゃんと親御さん達に伝えていかなければならないと思っています。
発達障害を障害とか、特別支援とかの括りから出したいですね。
子育ての世界に戻したい。
それぞれの家族が想い想いの子育ての中で、よりよく子が育っていくのが理想ですし、自然な姿だと思います。
重いとか軽いとか、発達障害とか自閉症とか、そういった言葉が使われなくなったとき、やっと等身大の子どもを見ることができるようになるのでしょうし、子ども自身も自由に、伸びやかに子ども時代を過ごせるようになるでしょう。
目の前にいるのは大切な我が子ですし、未来ある子ども達。
あるのは発達が抜けたり、遅れたりする状態だけで、その状態は刻々と変化していきますね。




2021年2月26日金曜日

【No.1143】エビデンス足りてます

一番、科学から遠いのが精神医学であり、発達障害の分野だといえます。
「薬の処方があるじゃないか」と言われそうですが、症状のみに対して処方しているので、そこのどこが科学か、科学的な治療だろうかと思うのです。
だって、治療というのは病因があって初めて行われるもので、その症状がどんな病因からきているかが特定されずに「こんな症状にはこの薬」というのは科学というよりも主観の世界だと感じます。
未だに脳のどこに病因があるか、見つかっていない。
神経発達の問題だろうというのに、その問題の根っこがわからない。
そうだとしたら、原因、病因はわからないけれども、その症状を抑え込むために処方しています、というのが実態ではないでしょうか。


客観的に発達障害、自閉症を診断できる方法はありません。
ということは、診断も主観が入り、対処法にも主観が入る。
ですから、他の科と比べて、科学から遠いと思うのです。
では、発達障害、特別支援の分野に科学は存在するのでしょうか。
誰がどう見ても正しいと判断できるような"答え"が存在するのでしょうか。


結論から言えば、そんなものはありません。
時々、「エビデンスがある」というようなことを述べる療育者がいますが、根拠となる研究内容を見れば動物実験のレベルであったり、あると言われる効果も、純粋な効果か、単純に時間とともにその子が発達成長しただけなのか、よくわからないものばかりです。
効果だって、長期的な効果が見られるモノはほぼなし。
何故なら、子どもの発達、成長は目まぐるしく、しかもそれに繋がる刺激は環境の中に無数あるのです。
そうです、つまり、これは子育ての分野なのです。
偉そうに、なんとか療法、エビデンスのある専門的な、とか言っていますが、一人の子が育つプロセスであり、それぞれの家庭の子育てに違いないのです。


発達に遅れがあるのは、障害ではありません。
発達に遅れがあるままにしておくから、発達の凸凹が大きくなり、脳や能力の凸凹が大きくなり、実生活に支障をきたすのです。
確かに定型発達という指標はありますが、現代社会においてどんどん今までの人類とは育つ環境が異なっていますので、動物らしい標準的な発達から外れる子ども達が増えるのは仕方がないことです。
しかし基本はヒトの育ち、子どもの育ちなので、ヒトの発達に準じて育てていくのが当たり前なのです。
それを商業的に、発達障害という名を使い、カテゴリー化し、顧客を作り、儲けようとする組織があるから、おかしなことになっているのだといえます。
端から特別なことをやろうとするのではなく、各家庭の子育てをサポートするのが自然な形なのです。


特別支援の世界がいくらエビデンスのある方法を見つけようとしても、それが見つかることはないでしょう。
今まで発達障害に関わらず、子どもの子育て、教育に対していろいろな方法が出てきましたが、万人に良いものは、客観的なエビデンスがあるものは生まれてきませんでした。
子どもは一人ひとり違います。
これは特別支援に関わる人間も言ってきたことです。
それなのに、特定の療育を勧めてくる、「自閉症には視覚支援」などと言ってくるのなら、それは個を見ず、括りで、商売相手として見ているにすぎないのです。


発達のヌケ、遅れ、未発達に対して、医療はなにをするのでしょうか。
発達のヌケ、遅れ、未発達は病気なのでしょうか、治療する対象なのでしょうか。
同じように支援や療育機関だって、子が育つ中のアイディア、刺激、資源の一つでしかないのです。
「発達障害の人は、専門的な機関へ」というのは、「水のトラブルはこちらへ」と書かれたいつもらったかわからないマグネットと同じです。
発達の遅れというトラブルに対応してくれるでしょうが、そこが絶対なわけではない。
多数あるうちの一つ。
別に子どもの発達なのだから、その子の発達につながればなんだっていいのです。


「エビデンスがある=絶対」ではありませんし、エビデンスにはレベル(段階)があります。
「よくなった」というエピソードも、エビデンスのレベルで言えば低い方ですが認められているのです。
論文や発表の形にするというような規定がありますが、エピソードは症例報告になりますので、専門家の意見よりもエビデンスのランクで上位になります。
ということは、「社会が理解すれば生きやすくなる」という専門家の意見、「あなたは自閉症です」という専門家の意見、「脳機能障害です」「生まれつき」「治らない」という専門家の意見よりも、「治った」「良くなった」という症例、エピソードのほうが信頼性があるといえます。


私も仕事をしていると、「それはエピソードにすぎない」と言われることがあります。
いくら支援級から普通級へ転籍しても、IQが10も、20も上がっても、診断基準を満たさない状態まで発達したとしても、「なんのエビデンスも無い」「科学的ではない」と言われます。
しかし私は動じません。
だって、そのように言ってくる専門家は、良くなったエピソードすらないのですから(笑)
あるのは、エビデンスの信頼度で言えば、最下位の「専門家の意見」です。
専門家の意見って食べれるの?煮れば食えるの?って感じ。


「私は素人だから」というお母さんが多いですが、大丈夫です。
一人の子を育てている今は、その子の専門家は親御さん。
しかも、かっこ良く言えば、日々の成長の記録、エピソードは症例報告。
何か専門家が言って来たら、こう言いかえしましょう。
「それって専門家の意見だからエビデンスの信頼度の最下位ですよね。残念ながら、我が家にはたくさんのエピソードがありますから♪エビデンス足りてま~す☆」と。




2021年2月25日木曜日

【No.1142】18歳で福祉を目指すより、進学を目指したほうが入りやすい

この地域にも、「親が頑張らなければならない」と叱咤激励する先生がいました。
学校に任せっぱなしではいけない。
将来の福祉はどうなるかわからない。
だから、親が家でできることを行い、ちゃんと基本的な生活習慣などを身に付けさせていかなければならないんだ。
そうやって当たり前のことを当たり前に言う、保護者に対しても忖度しないような先生でした。
もちろん、もうこの地域にはいません。
共感する先生や保護者もいましたが、多くの同僚からは疎まれ、管理職からつるし上げられ、あらゆる支援者たちを敵に回し、結局、自ら職を辞し、この地を去っていったのです。
学生時代から目をかけてもらっていた先生だったので、それを知ったときには残念な気持ちと、「あの先生でもダメだったのか」という想いがしました。


当時(今も?)、多くの先生たちが「将来は施設のお世話になるし」と言っていました。
しかし、もう20年くらい前の親御さん達ではありますが、その当時から「この子達が大人になる頃には、施設利用の枠が残っていないはず」と話題になっていたのです。
だから、自分たちで施設を起ち上げよう、居場所づくりをしようと動いたグループがいましたし、とにかく自分たちでできることをしなきゃ、この子に教えなきゃとする親御さん達もいました。
しかし、実際に何をすれば良いかわからず…。
で学校や相談施設に相談すれども、具体的な答えは返ってこず…。
大部分の親御さん達が「たぶん、うちの子は大丈夫」「今まで通り学校が見つけてくれる」というような姿勢でしたが、そんな家庭と同じように、頑張ろうとした家庭の多くも、卒業後は週に1回でも通所できれば良い状態で、18歳から先の人生を歩んでいるのです。


特別支援教育を受ける子ども達の数が増加し続けているのは、みなさん、ご存じの通り。
しかしこれだけ人数が増加し続けているのに、医療崩壊ならず、学校崩壊になっていないのは、少子化の影響で子どもの数が減っているのが大きいと言えます。
もし子どもの数が増えていて、かつ特別支援教育を受ける子ども達も増え続けていたら、従来通りのシステムでは対応できないはずです。
特に義務教育は「待機」や「利用を断る」というのはできませんので。
新しい支援学校ができたり、支援級が増設されたりしているところもありますが、その多くは少子化によって統廃合して空いた学校を支援学校にしたり、学級数が減ったところにその分、新しく支援級を設けたり、です。
つまり、特別支援教育を受ける子ども達が増えたからといって、国の予算が特別増えたわけでもなく、従来の枠組みの中でやりくりをしているのです。


じゃあ、一方で福祉、特に障害者福祉の世界はどうでしょうか。
国の予算から見ても、教育関連の予算が4兆303億円、障害者福祉関連の予算が2兆1422億円(令和2年度)で2分の1。
で、障害者福祉の中には、発達障害だけではなく、精神障害や機能障害の方達に対する分もありますし、学齢期のみではなく、成人もひっくるめて、この予算になっています。
大きな経済成長が見込めない日本ですから、予算自体が大きく増えることはないでしょう。
となると、今、障害者福祉を利用している人がどかないと、新しい人、これから成人していく子ども達は利用できないのです。
今の利用数を維持するだけで、この予算の大部分が使われている。


福祉の現場を見れば、低賃金で重労働、もちろん、離職率の高い職場です。
支援の質、専門性(?)なんかは夢のまたの夢の話。
まずは今日一日の人手を確保するだけで目一杯なのですから。
現場だって維持するのが難しいのに、これから新しい人を、特にどんどん増え続ける特別支援教育を受けた子ども達を受け入れるだけの枠も、余力もありません。


福祉の枠が空くときは、その人が亡くなるときです。
福祉は一般的な自立を目指していないからです。
常に支援付きの自立ですので、いつまで経っても利用者が減ることはありません。
だから、亡くなるときしか、その枠が空かない。
となると、限られた枠をみんなで奪い合う状態が続きます。


子ども時代、希望すれば特別支援教育を受けることは可能です。
このまま、少子化は続くでしょうから、特別支援教育を受ける子どもが増えても大丈夫でしょう。
しかし、卒業後、成人後は、180度違う世界が待っているのです。
同様の支援を受けるには、福祉から選ばれる人間になっていなければなりません。
既に重度の人達は、なんだかんだ理由をつけて断られている事態が一般化しています。
そりゃそうです、余力のない福祉の現場は、問題がなくてラクな、それこそ、グレーの人たちを選びます。
ギョーカイは「ありのまま」を謳いますが、それはギョーカイの宣伝戦略であって、現場は知ったこっちゃないのです。
「ありのまま」の人を拒否するのが、福祉の現場。


ですから、問われるのは、子ども時代をどう過ごしてきたか。
何を学び、身に付けてきたか。
この地域にいた先生が言うように、親の頑張り、家庭の頑張りが問われるのです。
育てられるところは育て、課題があればクリアしておく。
国のほうも、肢体不自由の人や医療的ケア児のほうに予算の重きをつけるようになっていますので、発達障害児者の人達はできることを各々でしなければなりません。


大学が全入時代と言われています。
私立の小中高だって、子どもが少なくなり、児童生徒獲得が至上命令になっているくらいです。
その時代に、なぜ、診断を受けようとするのか、特別支援教育の世界に入ろうとするのか、私にはよくわからないのです。
18歳で福祉利用を目指すより、18歳で大学受験した方が、専門学校を目指した方が入りやすいし、その後の将来の選択肢も多いと思うのですが。
昔は、職業訓練校、より良い高等支援学校なんて言われてたけど、今なら育てられるところは育て、教科学習も頑張り、進学した方がよっぽど就職先があると思います。
福祉が丸抱え?自立生活のサポート?
それは昭和平成の人達の話であって、令和の子ども達が大人になる頃、そんなのは不可能に決まっていますよ。