2021年8月2日月曜日

【No.1180】事業所一覧の紙を渡されても

知事のお仕事は気楽なものです。
「お盆期間の帰省の自粛を求めます」とアナウンスすれば、お仕事したになるのですから。
普通、帰省の自粛をお願いするのではなく、みんなが安心して帰省ができるように仕事をするのが行政の仕事ですよね。
たとえ発症しても、安心して医療が受けられる体制作り、準備を行うのが行政の仕事ですよね。
補償はしないけれども、お願いはする。
挙句の果てに、「国民の中で危機感が共有できていないことが問題」だと、なんだか我々のほうが悪いみたいな言い方をしている。


「孫の顔がみたいから」といって、せっせと治験中のワクチンを打ったジジババも少なくないはずです。
あれだけ「ワクチンを打てば、日常生活が戻せる」と言っていたお医者様たち、専門家の皆様たちは、心が痛まないのでしょうか。
これこそ、デマ太郎が注意すべき発言だと思います。
このように言いっぱなしで責任を取らないのが専門家。
行政も、自分たちは汗をかかず、ただアナウンスするだけで、「あとは国民の責任」と投げてしまうのが本質です。


似たようなことは発達支援における行政の姿にもみられます。
なにか支援を受けようとするとき、行政で渡されるのはその地域で利用できる施設の一覧です。
たとえば児童デイなら、〇〇市の児童デイ一覧がまとめられたものが手渡され、「あとはご家族で決めてください」と言われます。
でも、だいたい初めてそういったサービスを受ける親御さんですので、いきなり一覧を渡されても、どこが良いとか悪いとかわかりませんよね。
その地域に1つか、2つかしか施設がなければ、そこまで迷うことはありませんが、今は雨後の筍状態で乱立しているところが多いので、困ってしまうと思います。
だけれども、だれもそれぞれの施設の違いは教えてくれない。
行政は責任を負いたくないので、あとからメンドクサイことに巻き込まれたくないので、意見や説明を求められても、頑なに「ご自身の目で」と言い続ける。


これって、本当に不親切なことだと思うんです。
現実的な問題として、すべての施設を見学に行くことはできません。
たとえ見学に行ったとしても、表面的なことしかわからないと思います。
本来、我が子の課題、今後伸ばすべき点がわかって初めて、選ぶ基準が生まれるのですから。
選ぶ基準が曖昧ですと、「家から近い」ですとか、「利用時間が長い」「なんとなく施設がきれい」などという視点で決めてしまいがちになります。
そうなると、親御さんは良いか悪いか分からないまま、どんな効果があるかがわからないまま、施設が説明することをそのまま受け入れて利用してしまう。
そして実際に利用し、ときが立ったのちに、「ここは違うかも」と思えてくる。
ここでの問題は、費やした時間が戻ってこないことです。
訳も分からず利用していた発達支援が、発達に繋がっていなかったとしたら、その貴重な子ども時代の時間を無駄にしてしまったことにもなります。


一覧表の紙切れ一枚を渡して、お仕事になるのなら、気楽な仕事だと思います。
ですが、それではいけないと、国のほうも見直しが始まっています。
児童デイのあり方について、その専門性、質の担保について検討が行われ、この秋にも公表されることになっています。
どう考えても、今のように申請書の不備がなければ、だいたいOKというあり方はいけないと思います。
どの発達支援も、その原資は税金になりますので、税金の使い方として質の担保なしに認めるのはまずいでしょう。
だから、今日も一日DVDとか、公園に連れていってあとは自由とか、鍵のかかった何もない部屋で過ごすだけ、というような施設が出てくるのです。


児童デイに関しては、レスパイトと発達支援を明確に分けるべきだと思います。
今は発達支援という名のレスパイトが多すぎです。
確かに、レスパイトなら、子どもさんが一日怪我なく過ごしてくれさえすればよくて、募集要項にある「未経験者も大歓迎」という人達でも可能です。
なので、レスパイトならレスパイトとしての役割を明確に打ち出し、親御さんも納得の上で利用できるようのしたほうが良いと思います。


あと、発達に力を入れていると謳っているところは、「うちは発達支援事業所です」と打ちだし、きちんと質の評価をされるべきだと思います。
今どき、スケジュールカードを使っているから発達支援している、とは言えないでしょうし、そんなレベルでは恥ずかしくて外に言えないはずです。
少なからず、神経発達症ですし、発達が盛んな子ども時代なのですから、上辺の対処法ではなく、根本的な発達に寄与するものが行わなければ、税金を使って行う必要はありません。
だったら、学童や放課後クラブ、公文やスポーツクラブなどのほうがよっぽど発達に繋がります。


つまり、税金を使うのなら、もっといえば、ほとんどの国民は利用していないサービスを一部の人たちが独占的に利用するのですから、結果が問われなければならないのです。
今みたいに、「今日の利用者は5名です」で、5名分のお金が貰えるというのはダメだと思います。
ただDVDを観せていても5万円。
一生懸命、発達に繋がるアプローチを行っても5万円。
だったら、みんな前者のほうに流れるよねって、現在問題になり、ようやく見直しのための検討が行われているのです。


コロナ騒動後、福祉予算が削られるのは目に見えています。
当然、表向きは「支援の質の担保」ではありますが、実際は予算削減のための事業者同士の淘汰を目指したものになると思います。
すると、今後は事業者として選ばれるサービスができるかどうか、そしてそれをアピールできるかどうか、がポイントになっていくはずです。
そういった近未来を考えると、事業所ごとの特色が重要になっていきますし、そこで私のほうも商売になるかな、と思っています。
特色をつけるために一番簡単なのは、特色のある人間を入れる。
「〇〇氏の定期コンサルを受けています」とか、「欧米で認められている〇〇療法の認定者がスタッフにいます」とか、がインスタントにできる方法です。
どう考えても、いちから人を育てるのは大変ですし、そもそもがこの児童デイで生涯やっていこう、と思っているスタッフがどれほどいるか。
ですから、児童デイの質が問われるようになると、私たちのような個人でやっている支援者同士の質が問われるようになってくるだろう、とふんでいます。


「帰省しないでください」「県境を跨がないでください」
というのは、やっている感だけ。
やはりそこには実際の行動と責任がなければ、責務を果たしたとはいえないと思います。
どう頑張っても、「行動の自由」の上に知事は存在しない。
同じように、ペラッと一覧表を渡すだけの福祉行政もダメ。
ちゃんと行政の責任で、事業者を指定し、そして質の担保を目指すためのチェックは行わなきゃ。
行政的な手続きはわかるけれども、行政の中にそれぞれの事業所、支援サービスの内容の説明ができる人をつくらなければならないと私は思います。




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2021年7月20日火曜日

【No.1179 】「雰囲気を読む」のアセスメント

マラソン世界記録保持者、ケニアのエリウド・キプチョゲ選手が出るということから、テレビをつけましたが、タモリさんの横に座っていた某ノーベル賞教授の顔の変貌ぶりに驚いてしました。
昨年、ジョギングも感染リスクがあると発信し、マスク着用を推奨していたのにも関わらず、いつの間にかその動画は削除され、何もなかったかのようにオリンピックの特集番組に登場している。
そういった単なる後ろめたさが顔に出ているのではなく、もっと深い何かが顔や表情、佇まいに表れていたと私は感じました。
医師の中には、「魂を売った」と言っている人たちがいますが、ヒトは道を外した行為をしたとき、それが周囲にバレていたなかったとしても、自分自身を騙し続けることはできないのだと思います。
そういえば、分科会会長も、ずっと悲しい顔をしていますね。
たぶん、自分が行っていることの中に、自分で気づいている嘘が混じっていることに悲しみを覚えているのでしょう。


乳幼児の子どもは、周囲にいる子どもが泣くと、自分の状況や感情に関わらず、泣き始めます。
保育園の小さな子のクラスに行くと、時折、涙の大合唱がみられます。
それはまだ自分という存在、自分という身体と他人との身体との違いが明確に理解できる発達段階ではないからです。
一人で歩けるようになり、一人で遊べるようになる。
でも、まだ自分と隣の子は繋がっているのです。
だから、隣の子が笑えば、自分も笑い、教室のあの子が泣けば、自分も泣いてしまいます。
この発達段階は、身体や感覚の未発達ゆえの共同体といった感じです。


一方で、0歳代の子ども達も、同じように近くにいた赤ちゃんが泣けば、つられるようにして泣き出しますが、1歳児以降、自分で自由に移動できるようになった子ども達と事情が異なります。
意味を解釈するのなら、生存本能としての反応です。
自分の耳に誰かの泣き声が聴こえてくる。
ということは、自分の周囲に危険が迫ってきているかもしれない。
だから、自分の親を呼ぶために泣き始めるのです。
それは笑い声が聴こえてきても笑わず、鳴き声のときだけ同調することで上記との違いがわかります。


で、さらに胎児期となりますと、同調に違いがあります。
それは母親だけに特定した同調になります。
母親の感情がそのまま胎児の感情。
へその緒でつながっていますし、胎児から見れば環境=母胎、母親ですから。
母親が感じたままに、それが胎児の感じたことになるため、母親と感情がシンクロするのです。


つまり、何を言いたいかと申しますと、子どもさんの感情の変化について、こういった発達段階を踏まえてアセスメントしていく必要があるということです。
単に感情が幼い、怖がりの性格、知的に遅れているから、発達障害だから、というのではなく、どのように感情が推移するかを確認する必要があります。
大事なのは、自分という子が確立し、状況に合った感情表出ができるようになることであり、ひとまず目指すべき姿です。


子どもさんによっては、終始泣いていたり、突然感情が爆発したり、脈絡もない感情の表出が一日中生じることがあります。
それは上記で挙げた「母子一体」「生存のための反応」「未発達ゆえの共同体」からも外れた段階に課題があるといえます。
周囲の雰囲気に気づく、同調する以前に、自分の内的な感覚、刺激に感情が振り回されている状態です。
ですから、ここは発達の段階というよりも、神経発達、もっといえば、神経同士の繋がり、ネットワークに課題があると考えられるのです。


発達相談において、お母さんが緊張していると子どもさんも緊張していて、お母さんがリラックスできていると、子どもさんも伸びやかに遊び始める姿をよく見かけます。
確かに、発達段階的に言えば、母子一体の段階ですので、胎児期の発達段階です。
でも、それが悪いわけではなく、じゃあ、そこから周囲の雰囲気に反応できる段階まで育てよう、という目標が生まれるきっかけになるのです。
同じように、園で他の子が泣けば一緒に泣いてしまう段階なら、次は自己の確立を目指し、未発達の感覚、身体を育てていこうという話になります。


これだけ全国的に猛暑で、「熱中症に気を付けて!」「昨年は子どもを含む、100名くらいが熱中症で亡くなっています」とアナウンスがあっても、かたくなにマスクを外そうとしない、また子どもに強要する人達がいるのは、マスクをすること自体が目的化してしまっているからです。
発達検査が半年待ち、就学先を決めるために検査を受けてきてください、というのは、まさにこのマスクと同じ。
「子どもさんをよく見る」ということは丁寧な確認作業を行っていくことであり、それはなぜ行うかといえば、よりよく子育て、発達援助を行うためです。
アセスメントというのは、必ず具体的な子育て、発達援助と繋がっていなければなりませんね。




2021年7月14日水曜日

【No.1178】問題の根本を知ることから始めましょう

アメリカ大リーグのオールスターは、まさにお祭り騒ぎといった感じで、超満員のスタジアムでみな、歌うし、飲むし、抱き合うし、大声を出して歓声を送っていました。
一方で、日本のプロ野球は1万人の観客で、マスク姿にパチパチと手を叩くのみ。
しかも、神宮球場からちょっと歩けば、国立競技場。
で、どういったわけか、オリンピックは無観客。
新コロちゃんはちゃんと意思があるようで、国内のイベントとオリンピックの違いがわかるのでしょう。
国立競技場は材木をふんだんに使っているので、新コロちゃんたちが集まりやすいのかもしれません、エビデンスは無いけど。
横浜球場でベイスターズの試合は有観客だったけれども、オリンピックの野球の試合は無観客という謎理論。


結局、ウィルスの問題じゃなくて、制度の問題、政治と医師会の問題でしょ。
今までのコロナウィルスのように、体調の悪い人が近所の医療機関を利用できればここまでバカ騒ぎする必要はありません。
「発熱者お断り」なんていうのを病院の扉に貼るのが諸悪の根源。
医師が病人を診なくて、何を見るのでしょう。
元気なお年寄りですか(笑)
慢性疾患を抱えた元気なお年寄りが一番おいしい商売だから、医師を志したときの「病気を治す」という想いを忘れてしまったのかもしれません。


昨日の続きですが、就学相談でも「無理して普通級(支援級)に行けば(支援学校を勧めている)、二次障害になる場合も」なんていう輩が出てきたそうです。
それは就学後とかにとっておく手だったでしょ。
就学相談でその手を使うようになったなら、よっぽど苦しくなっているのでしょう、今の親御さん達に対するのは。
ひと昔前の親御さん達は、「はい、わかりました」が多かったけれども、今はスマホですぐに情報共有ができますからね。


なにかにつけて、「二次障害になる」という言葉を使います。
「もし何も感染対策をしなければ、42万人死ぬ」みたいな西浦理論ですね。
だって、何もしないわけはないし、まったく1ミリも成長しないわけはないですもん。
で、二次障害にならなくても、決してそういった人達は謝らない。
「私が大袈裟に言っておいたから、42万人も死ななくて良かったでしょ」と同じです。
就学相談でも、その他の学校や支援機関でも、言いっぱなし、やりっぱなし。
その子がどんな将来を歩もうとも知ったこっちゃない。


もちろん、42万人じゃないけれども、死ぬ人もいれば、二次障害になる子もいるでしょう。
でも、それは少数派です。
もし発達障害の人の大部分が二次障害になるのなら、それは発達の障害ではなく、精神障害になるはずです。
そうじゃなくて、発達の障害というか、発達の遅れ、不具合な状態なのですから、二次障害がレア事例です。
そのレア事例を持ちだして、他人の家に土足でどかどか入ってくるのは失礼にもほどがある。
子育ての問題、家庭の問題なのに、どうして他人がとやかくいえるのでしょうか。


「"二次障害になる"と言われました」と相談される親御さんに対して、「だったら、二次障害になっても治してみせます」と言ってみたらどうですか、と助言したことがあります。
二次障害になるのは親御さんの問題なのでしょうか。
親御さんが支援学校ではなく、支援級または普通級を選択したことが原因なのでしょうか。
そこんとこをよく考えた方が良いと思います。
親が子どもの成長を願い、可能性を信じるのは当たり前。
できるだけ将来の選択肢を狭めないような道を選ぶのは自然なことでしょう。
で、もし学校に通っている間に、二次障害になるのなら、それは学校の問題もあるでしょ。
100%親の問題、家庭の問題とはいえないはずです。


そして私がもっとも言いたいのは、医療、支援者、あんた達です。
そもそもといえば、医療が二次障害を治せないのが問題なのです。
二次障害には投薬??
それって症状を抑え込んでいるだけで、対症療法でしかありません。
どうして二次障害、精神的な不調をきたしているのか、そこの原因、根っこから解決しないと治らないのです。
そういう意味で、二次障害になっても治せる医師が(ほとんど)いない、から縮小生産の方向へ進むのです。


二次障害になっても治せる医師がいない。
だから、二次障害にならないようにする。
そのために、頑張らせない、無理させない。1ランク下げた選択肢を選ぶ。
子どもの成長のために、支援級、支援学校なら良いのですが、二次障害にならないために支援級、支援学校はとても危険な発想です。
それがどこに行き着くかと言えば、何もしない、施設の中でただ時間が流れていくのを待つだけになって、昔の福祉に逆戻りです。
せっかく特別支援ができて、これだけ認知が進み、親御さんが利用できるサービスと知識が増えたのにもかかわらず、結局、福祉施設で一生涯面倒を見てもらえばいいや、というのは非常にまずいのです。


精神科病棟には何十年も入院し続けている人たちがいます。
福祉施設には何十年も入所し続けている人たちがいます。
コロナ後の世界は、中小企業がボロボロになり、そのまま再建できず潰れていくか、一部の大企業、投資家に買いたたかれていくでしょう。
効率効率の流れの中に、日本の社会、そして教育も飲みこまれていく。
そうなったとき、人を育てる、子が育つという一番効率から離れた場所にある大切なものが渦の中に飲みこまれる可能性は小さくありません。


既にリモート授業が行われ、これだったら優秀な一部の先生が全国の小学生、中学生に同時進行で授業を行えばよいではないか、という話も出てきそうです。
で、もちろん、それは特別支援教育を受ける子ども達にも当てはまり、むしろ普通級の子ども達よりも先に効率化の流れに飲みこまれる可能性だってあります。
何故なら、ずっと、私が学生時代から20年以上も、「どうせ、卒業後は福祉だろ」と言われているから。


どうせ、二次障害は治せないから、支援学校に行く。
どうせ、支援学校に行ったら、自立しない、一生福祉だから、一生懸命教育しない、できるだけ平穏無事に学校の時間が終わればいい。
というか、自分が担任の間だけ、問題が起きなければいい。
親御さんも、どうせ自立できないなら、支援学校でのんびり過ごしてもらえばいい。
楽しく学校に通ってくれさえすればいい。
二次障害にならないように、無理させないでほしい。
どうせなら放課後の迎えは移動支援を使い、そのまま児童デイで過ごしてほしい。
オーバーに書いてるように見えるかもしれませんが、私が約20年間で見てきた現実です。
それがコロナ騒動で加速する気配がするので、危機感を持っているのです。


病院が診てくれないから、コロナに罹りたくない。
だから、どんなに暑くてもマスクをするし、過剰な自粛と感染対策を行う。
そうじゃなくて、最初からコロナは医療が治せないし、治すのは一人ひとりの自然治癒力だと認識することです。
同じように、医療は二次障害を一時的に抑えることはできるけれども、根本から治すことはできない。
だから「二次障害になりますよ」と脅されても、結局、二次障害になろうがならまいが、自分自身で頑張るしかないし、家庭がより良い子育てを目指して行っていくしかない。
発達障害の分野において医療ができることは診断と投薬のみ。
やることは一緒なら、最初からいつでも行ける道を選ぶのではなく、チャレンジできる道を選んだ方が良いと思いますよ。
結局最後は親御さんの覚悟です。




2021年7月13日火曜日

【No.1177】丸腰で就学相談に行ってはならない

予想はついていたんですけど、やっぱりな、という感じです。
オリンピックの無観客の話ではないですよ。
支援級、就学相談の話です。


昨年とは異なり、例年通りこの時期から活発に就学相談が行われています。
で、なにが"やっぱりな"かと申しますと、支援級の普通学級化です。
以前ですと、当然、支援級になるよな、という子ども達が、「支援級は難しい」「支援学校が妥当だ」と就学相談で言われることが増加しています。
で、支援級が妥当と言われる子ども達は、どう考えても普通級で学べるでしょ、という子ばかり。
様々な方面から話を聞く限り、どうしたら普通級に在籍になるのか、よっぽど従順な子ども以外は普通級にならないでしょ、という感じです。


数年前からこの流れはありました。
どんどん支援級に入るのが難しくなっている。
で、支援学校ばかり勧められる。
もっといえば、実力から上、同等ではなく、一つ下の学校が勧められる。
頑張れば普通級で学べる子が支援級へ行き、支援級で学べる子が支援学校に行く。
それがコロナ騒動で、加速した印象を受けます。


ここからは公務員ディスりなのですが(笑)、同じ給料ならできるだけラクな方向へ流れるのが大部分の公務員の特性だと思います。
特に学校の先生は、売り上げなどの成果が目に見える形にはなりません。
しかも、コロナ騒動で、いろいろとめんどくさいことになっている。
だったら、平時でもラクしてお金を得たいな~と思いがちの人達なのですから、少しでも楽になりたい、じゃあ、クラスの人数は減らしたい、と思うのは自然な感情でしょう。


普通級の担任は、できれば一人でも児童が減ってほしい。
で、ちょっと従順ではない子がいれば、「支援級へ」となる。
常套手段は、「苦手な算数だけ個別指導を受けてみては」と、表面的には子どものことを想っての提案を行い、慣れてきたところで、「やっぱり個別指導だと、よく理解できますよ。だから、支援級へ転籍しては」ともっていく。
このパターンは、全国共通で、古典的な方法です。


支援級もそうですし、支援学校もですが、児童に対して先生の数が決められています。
財源に余裕がある市町村は別ですが、だいたい3対1で、肢体不自由の学校などは2対1、または1対1の配置になる。
ということは、普通級とは異なり、児童が一人増える、減るは大きな意味を持ちます。
普通級はよっぽど児童が増えない限り、ふたクラスに分かれることなく、大きな増減はありません。
でも、支援級&支援学校は1人増えると、先生を1人増やすことができる可能性がある。
とすれば、先生が増えれば、それだけ学校内の分掌、仕事が分担できるわけです。
全体から見れば、仕事がラクになる。
北海道なんかは組合が強いから、先生を増やして組合員を増やそうという流れもあるのです。
そこんとこでいえば、支援級、支援学校は、普通学級よりも先生が増やしやすいわけです。


就学相談で、頑張るよりも、頑張らない選択を迫られることは日常茶飯事です。
「あなたの子は、支援学校に行った方がいい」
なんていうのを、なぜ、年長の夏、秋に言い切ることができるのでしょうか。
「この2週間を頑張れば、元の生活に戻る」くらい、根拠のない言葉です。
発達途中の6歳の子どもを目の前にして、どうして小学校6年間がわかるのか。
そんなことを言うと、「今までの経験から、そういえるのです」と就学相談の先生や医師は言うけれども、それが当たらないから、みんな自立しなくて困っているんだろ、ってツッコミを入れたくなります。
こういう自分の経験、つまり、専門家というのを盾にしてモノを言う奴らは、どうせ、子どものことなんか見ていなくて、診断名くらい、検査の数値くらいしか見ていないものです。
だから、キーボードを叩いて「42万人で出マチター♪」とそのまま、〇〇丸出しで公言してしまう。
「もし感染対策を何もしなかったら、〇〇になる」で良いなら、なんとでもいえる。
「もし支援をまったく受けなければ、二次障害になる」
バカやろう、ギョーカイの支援を受けないからと言って、親が何もしないわけじゃないだろ。
感染症の専門家が個人の免疫を無視したように、子ども達の発達する力、成長する力、そして親御さんの子育ての力を無視するな、バカにするなよ。


ということで、やっぱりコロナ騒動を絡めてしまいましたが、今日言いたかったことは、全国的に実力以下の選択を迫られるケースが増えているということです。
知的に問題なく、とくに問題行動もないけれども、就学前に診断を受けていたから、療育・支援を受けていたから、というそれだけで、普通級ではなく、支援学級が勧められることもありました。
そうなると、支援学級が勉強ができて、席に座って授業が受けられて、でも、幼少期診断や支援を受けた子になる。
つまり、普通級で学び成長していた子ども達が、支援級の多数派になっていくのです。
そうなると、教科学習をする力はあるけれども、コミュニケーションの部分で、社会性の部分で、ちょっとこだわりなどの特性があって、という子ども達がどんどん支援学校へ送られていく。


これって、本当に子ども達のためになるのでしょうか。
年長の夏に、小学校6年間が決められてしまうのです。
しかも、頑張るではなく、頑張らない方に。
その根拠は、某会長が「人流」「飲食店」とオウム返ししているように、専門家としての勘です。
直感と当てずっぽは違います。
特に、そんなちょっと会ったばかりの就学相談の人たちに、子どもの6年間が見えるわけないのです。
彼らは教育"行政"を担う人なので、どのような配置をしたら人事がうまくいくか、いや、よく言い過ぎましたね、ただ来年度の児童数、生徒数を見て、振り分けているだけ。
この振り分けは早くしないと、夏は教員採用試験がありますし、秋ぐらいから異動の調整が始まりますから。
単に一年間のスケジュール通り、右から左に流しているだけ。
だって、これが滞ると、教育行政としての仕事が増えるでしょ。
どうせ、同じ給料ならラクがしたいのは、現場だけではないでしょう。


テレビばかり観て、流れてくる情報をただ受け取っている人達は、このクソ暑い日にもマスクを付け、衝立の中で飯を喰い、言われた通りに行動している。
まるで畜牛のようです。
政府や行政、会社の経営者などは、管理しやすい方向へと持っていきたいものです。
何も言わず、従順に指示に従ってくれさえすれば良い。
それが大人の社会から大学生へ、大学生から高校生、中学生、小学生、そして幼児教育に間で侵食しています。
それがコロナ騒動から見えることですし、現場の学校の先生も「できるだけ従順な子」を育てたいし、求めたくなっている。
ですから、情報を自らとりに行かない人間は家畜のように、他人に支配された人生を送るのです。
丸腰で、就学相談に行ってはいけません。
就学相談員、医師、専門家がそういったから、そうしますは最悪です。
すると、どんどん管理がしやすい方向へ持っていかれていまいます。
特別支援の世界における「管理がしやすい」は、支援者に従順な人間、つまり、福祉適応する人間になるということです。
コロナ騒動で、この流れは強くなった気がします。
皆様、情報は受け取るものではなく、取りに行くものです!




2021年7月6日火曜日

【No.1176】無駄という余白に発達が生じる

ある人は祭りについて、「人間の愚かさの解放」だと言い、またある人は「定期的に密になることで、集団免疫をつけるため」だと言っていました。
明日は七夕で、函館市内の子ども達は各家を回ってロウソク、お菓子を貰うという行事がありますが、昨年に続き、自粛のお達しがでています。
お祭り、行事、文化というのは、一度途絶えると再興するのが難しいと言われています。
文化というものの本質が、ヒトからヒトへの受け継ぎによるものだからでしょう。


目に見えるモノ、確認することができるモノしか認めないような、価値がないような、そんなことを言っているから人間として進歩し、ヒトとして退化しているのだと思います。
心身の健康には動物としてのヒトに戻る機会が必要で、それが一見するとやってもやらなくても困らないように見える祭りという空間に存在していたはずです。
日常と非日常は、人間とヒトに言い換えられます。


教育や保育、家庭での子育てを拝見させていただく機会が多い私ですが、人間を育てようとする大人が大多数だと感じます。
とくに発達に遅れのある子ども達に対する教育、支援の場合、「なるべく早く人間に育てよう」「少しでも人間らしくなるように教えよう」という雰囲気が伝わってきます。
人間として困っているのか、ヒトとして困っているのか。
そういった視点が乏しいのが気になります。


人間として困っている部分は、社会という環境の中で折り合いがついていないということですから、環境に対するアプローチが中心になります。
しかし、環境側も生きていますので、常に良い具合に折り合いが付くわけでも、折り合いが必ず付くわけでもありません。
理解を求めても、理解したくない人もいる。
環境調整をしても、別の場所には持っていけないこともある。
ですから、発達障害を人間として困っていると捉え、環境側との折り合いをつけようとしている限り、本人に進歩はありません。
日本の特別支援の誤りは、ここにあると考えています。


発達障害は「生まれつきの障害」というような誤解が生まれるくらいですから、胎児期を含め、発達の初期に生じている不具合だとわかります。
この発達の初期とは、ヒトの部分ではないでしょうか。
ヒトとしての部分、動物としての部分に不具合があるのなら、そこを育てようとするのが道理です。
でも、特別支援はヒトとしての育ちを無視し、あくまで人間の部分に、そして環境に適応することを目指してしまっている。
だから、障害者として生きる環境、つまり、福祉適応を主眼として学校教育が行われ、その福祉のような学校教育に合わせて幼児教育や療育が行われてしまっているのです。


今の子ども達を見ていると、ネットの世界に非日常、祭りを求めているような気がします。
大人の目の届かない場所がどんどん減ってしまったからでしょう。
目に見える成果ばかりが求められ、子ども達から無駄が取り上げられてしまったこともあるでしょう。
大人の目の届かない場所は非日常的な空間であり、無駄な時間はヒトとしての育ちに戻る機会だといえます。


特別支援の世界では長らく、クルクル回るとすぐに止められ、ハイハイをすると「ちゃんと歩いて」と言われ、洋服の首元をかじると「それでは福祉施設で嫌われる」と言われてきました。
でも、それはすべてヒトとしての育ちで必要な行動。
発達障害の子ども達も同じように、無駄が撮り上げられてしまった結果、歪みが大きくなっているのだといえます。
年々問題が大きくなる子どもというのは、行き場を失ったヒトとして育ちたい欲求が膨らみ続けている結果のように感じます。


赤ちゃんは成果などが求められ、発達成長しているわけではありません。
また人間としての作法を教え込まれることで、発達成長しているわけでもありません。
無駄に動き、無駄に触り、無駄に遊ぶことで、ヒトとしての土台を培っていく。
ですから、早期療育なんて百害あって一利なし。
彼らは徹底的に無駄を無くし、家ではできない、ここでしか、私達専門家しかできない支援をやろうと動いているのですから。
そうしなきゃ、お金(税金)は貰えませんので。


発達が遅れているから、あれもしよう、これもしよう、は逆効果です。
むしろ、発達が遅れているからこそ、赤ちゃん時代のような環境、時間にとらわれない自由で無駄な時間が必要なのです。
なので、成果が先にある夏休みの計画は大概失敗します(笑)
「感覚に遅れがあってそこを育てたいから、キャンプをしよう」は、家族がイライラする元です。
あそこのキャンプに行ったら楽しそう、だから行く。
行ってみたら、たくさん遊べて良かった。
で、帰って来たら、こんな変化があった。
これが自然なヒトが育つ姿です。


祭りを楽しむのは、人それぞれ。
だけれども、祭り自体が開催されなければ、ヒトに戻る機会、ヒトとして育つ機会が失われる。
だから、大人は祭りを開催するための準備と、子ども達が思いっきり楽しめる環境を用意する。
私は祭りのような非日常的な時間、成果から解き放たれた無駄な時間にこそ、ヒトとしての発達が起きる可能性があるのだと考えています。
発達のヌケは育てようと思って育てるのではなく、自由に育てられる環境の中で過ごしていたら自然と育っていた、というものだと思うのです。




2021年6月30日水曜日

【No.1175】人間の脳は強い不安と出くわすと、考えることができなくなる

河野大臣はブログ内で、ワクチンデマを流す目的を4つ挙げていましたね。
①ワクチンを批判して、自分の出版物やオリジナル商品に注目を引きよせて、お金を稼ぐ
②科学よりも自分の信奉するイデオロギーに基づいて主張する
③過去に誤ったことを発言したために抜け出せなくなっている
④自分に注目を集めたい
簡単に言えば、「お金」「主義主張」「保身」「愛着障害」のために、ということになるでしょう。


私はこのブログ、そして前後で行われたメディアでの発言を見て思ったのは、相当困っているんだな、危機感を感じているのだな、ということです。
大規模な集団接種会場を作ったのに接種する人が少ない。
また高齢者の接種が思うように進んでいかない。
若い世代の中には、接種するメリットがほとんどなく、リスクのほうが大きいことに気づいている人たちが少なくない。
つまり、それはワクチン接種における大臣の責任問題につながる。
①のお金を政治家生命、またゆくゆくは総理大臣に、という言葉で置き換えると、そのまま4つともご自身に当てはまってしまうわけです。


「イデオロギー」「主義主張」で発言することは何ら問題はありませんし、ある程度、大人になって、社会人としての年数が経って、なんの主義主張もないほうが問題です。
よって、人が何かを発信しているときは、上記の4つに分類しようと思えばすることができる。
ということは、この発言において私達が注視しなければならないのは、「デマ」といったところだと思います。
「デマ」というのはレッテル貼りで、それ以上、議論しないし、考えないという意思表明でもあります。
本格的な接種が始まって1年も経っていないのですから、常識的に考えれば中長期的な影響は「わからない」というのが正しい。
大臣も、取り巻きの医師も神様ではないので、「わからない」というのがわからないわけではないのですから、彼らなりのイデオロギーがあり、お金と愛着障害、保身のためにそうさせているのでしょう。


特別支援の世界に「標準療法」というものがあると仮定しますと、それ以外のアプローチはすべて標準から外れた方法になります。
しかし、どの世界にもそれまで標準であり、それが有効だと考えられていたものが、新たな発見によってひっくり返ってしまうことは珍しくはありません。
むしろ、科学の発展、人間の知恵の進歩のためには、それまで常識を疑うこと、否定することからしか始まりません。
それまでの標準とは違ったものが生まれたとき、生まれようとしたとき、そこに興味を示し、またその可能性を信じ、掘り下げていこうとする者が発展の力になるのです。


だけれども、そういった人達に対して、「トンデモ」「エビデンスがない」「デマ」という言葉を掛けてくる人間がある一定数います。
それは先ほど述べた通り、レッテル貼りであり、「もう考えたくない」という意思表明であります。
じゃあ、なぜ、「考えたくない」というのでしょうか?
もしかしたら、別の可能性があるかもしれないのに、もしかしたら、現状の不満足を解決してくれるかもしれないのに。
特別支援で言えば、どうせ自立しない支援なのですから、ゼロと一緒、何もしていないのと一緒、いや、むしろマイナスでもあるのに。


私達人間は、大脳皮質で考えます。
現状と比べたり、未来を想像したり、情報を分析したり。
一方でレッテル貼りをする人間というのは、大脳皮質に情報が伝わっていないのです。
どういうことかと言いますと、古い脳、大脳辺縁系を中心に感情で処理してしまっているということです。
動物は強い不安や緊張、身に及ぶであろう危機感と直面すると、通常とは異なる情報処理の仕方を行うことがわかっています。
現代とは異なり、自然の中で生きてきた私達の祖先は、天敵の動物と出くわしたとき、いちいち考えて行動していてはすぐに食べられてしまいます。
だから、考えることを敢えてせず、感情や原始的な反射で対応していたのです。
その名残が我々の中にも当然残っていて、サバンナでの肉食動物が、現代の社会的な危機に替わり、ある意味、サバイバルしているのだといえます。


函館も連日20℃を超え、顎マスクの人たちが増えてきました。
私は潔癖症ではありませんが、あの汗ばんだ顎マスクをまた口に持っていくかと思うと、それだけでゾッとします。
しかし、彼らからすれば、最初に怖いものとして反応してしまったコロナ、また多数派から外れることで感じる危機感に対して、原始的な脳で処理してしまっているのだと思います。
ですから、夏は熱中症のリスクがある、コロナは日本人の0.04%しか陽性になっていないし、その8割が軽症または無症状者、20歳以下は誰も死んでいない、といっても、聴く耳を持たないのです。
そもそもが大脳皮質に伝わっていないのですから。


サバンナの大地で生活していた私達の祖先は、集団になることが獲物を得る手段であり、肉食動物からのリスクを分散する方法だったのだと思います。
そのように考えると、治験の終わっていないワクチンを勧める人達、副反応で亡くなる確率は云々と言っている人達は、ワクチン接種という集団を形成し、リスク分散、自身の生き延びる確率を上げようとしている人たちなのかもしれません。
同じように標準療法(?)を辞めよう、特別支援ではなく普通の園、学校を目指そうとする人達は、彼らにとっては集団から出ていく人間であり、自分たちのリスクを高める要因になります。
万が一でも、出ていった人間が自分たちの知らない豊富な食べ物、安全な土地を見つけたりすれば…。
特別支援の世界から出ていった人たちが課題をクリアし、より良く成長し、自立していったら、身の危険が及ぶのは集団に残った人たちになります。


限られた食べ物を集団で分け合いながら細々と生きていく集団は、やがて小さくなり、消滅していきます。
一方で集団を飛びだし、新たな環境を手に入れた集団は生き延び、また次の世代を残すことができる。
特別支援の世界を出ていった親御さん達が、集団から指を指されていたように、集団から離れていったご先祖様も、後ろ指を指されていたかもしれません。
しかし、その一歩がなければ、現状を変えることはできないのです。


特別支援の結果は、もう十分すぎる程出たでしょう。
小学校から高校までだとして12年間、早期診断・療育をつかったとしたら、15年以上。
そんだけ税金と時間、家族のかけがえのない時間を使って、「やっぱり卒後は福祉でしたね、テヘッ」でどうするんです。
その場所にそれ以上いても、得られる食べ物はありません。
むしろ、誤診連発で、じゃんじゃん「発達障害」というレッテル貼りが行われている結果、食べ物が喰い尽くされた場所に、どんどん新しい人たちが入ってきているのです。


コロナ騒動で経済はボロボロ。
子どもの数は減る一方でしょう。
でも、特別支援という集団には、次々と人がやってきている。
そんなんで限られた資源、支援が、全員の手に渡るとお思いでしょうか。
考えれば、0.5秒くらいでわかることです。
しかし考えられない人がいて、考えようとしない人がいる。
その人達は大脳皮質ではなく、感情で反応している人達。
たった一度の出来事でも、強烈な不安とぶつかると、ヒトは考えることができなくなってしまうのです。


ですから私は特別支援に入る前、診断を受けに行く前が勝負だと考えています。
一度足を踏み入れてしまえば、霊感療法と同じで、ネガティブな情報ばかりです。
「もしかしたら、うちの子、発達が遅れているかも」
そんなときにポジティブな情報、アイディアを提供していきたいと考えています。
そのときなら、ヒトはまだ冷静に考えることができますので。
考えた上で、特別支援の世界に入るのは自由。
だけれども、考える間もなく入ってしまうのは、親御さんにとっても、子どもさんにとっても、マイナスなことが多いと思っています。




2021年6月24日木曜日

【No.1174】海と愛着障害

沖縄は高校2年の修学旅行以来、約20年ぶりでした。
そのときは「平和学習」がメインでしたので、南部を中心に関連する施設やガマなどを見学し、観光地らしい場所や海にはほぼ行かずじまい。
ですから今回の出張では、とにかく海を見ようと、那覇空港に着いてすぐに海に向かい、また仕事以外の時間も海に向かいました。
到着した日は金曜日で、まだ沖縄県の小中学校は休校期間中。
海には子ども達が元気に泳ぐ姿が見られましたし、よちよち歩きの小さな子どもさん達が親子で、またおじい、おばあと浜辺で遊んでいる姿を多く見かけました。
その土地土地の発達援助があり、名もなき遊びの環境がある。
まさに沖縄は海とともに育ち、治っていく場所だと思いました。


青い海を眺めていると、そうだ、帰ってからこのことをブログに書こうと思うことが浮かんできました。
それは海と愛着障害というテーマです。


以前から私は海が近くにある環境に住まれているご家族には、海での発達援助を提案しています。
循環器系、泌尿器系に未発達がある子ども達は、海の塩水自体がよいでしょうし、運動発達のヌケがある子は魚類と両生類の動きを行うことができる。
さらに五感(+前庭感覚&固有受容覚)への刺激は豊かですし、名もなき遊び&概念学習の宝庫です。
ですから実際、海遊びを続けることで、多くの発達課題がクリアされていく子ども達がいます。


でも実はこれは当たり前の話で、私が注目しているのは親御さんに生じる効果です。
あるとき、気がついたのですが、「この夏はおもいっきり海で遊びました!」とおっしゃる親御さんで愛着の課題がクリアされていた方がいらっしゃったのです。
相談時は、ご自身も認めるような愛着の課題をもっていたのに、いつの間にかその課題がクリアされている。
子どもさんが海でググッと育ったように、親御さんも海で愛着の課題を育てたような気がしました。
「とにかく私も海で過ごすのが心地良かったんです」


海は胎内、羊水を連想させるのでしょう。
そしてヒトは雄大な自然に身を任せられるようになると、とくに胎児期の愛着障害は弛んでいく。
また浜辺での遊びは、幼少期の家族の記憶を思いださせ、我が子と遊ぶことで、自分の幼き頃に退行できるような気もします。
ある親御さんがガラッと変わったのを境に、子どもさんの発達だけではなく、親御さんの変化にも注目すると、同じように愛着障害が治っていく方が他にもいらっしゃいました。


函館にも海がありますので、ある若者に海の散歩を勧めたことがあります。
その方は海の波の音を聴くと元気になるとおっしゃっていて、拾った貝殻を部屋に飾っていました。
私達生き物は海から陸へ上がってきましたので、癒しや発達、そして愛着に大きくかかわるのだと思います。
お腹の中に作った海が羊水なので、近頃は胎児期の愛着障害を抱えて子どもさん、親御さんには海遊びを提案することが増えました。
海はお金がかかりませんし、副作用もないですから。


沖縄でいつかのビーチ、また地元の人しかいかないようなビーチに行き、一時の時間を過ごしましたが、そこで遊んでいる子ども達、親子、おじい&おばあの姿からは愛着障害を感じませんでした。
今回、訪問させていただいたご家族の皆さんも、愛情あふれる方達で、子どもさん自身が「ぼく、わたしは、愛されています。いつも愛情たっぷり貰っています」と感じていて、また私にもそれが伝わってくるのが印象的でした。
親御さんの愛情のかけ方以前に、発達障害を持つ子は愛着形成に課題が出やすいので、正直珍しいと思いました。
沖縄自体が海に囲まれているので、そういった環境の影響もあるのかもしれません。
今回の出張は、発達の場としての「海」を改めて考える機会になりました。
呼んでくださった皆様、誠にありがとうございました。
報告書完成しましたので、郵送しています。




2021年6月10日木曜日

【No.1173】笑顔のアセスメント

ラジオでのお便りに返事をしている際、パッと出てきた言葉ですが、「笑顔のアセスメント」は大事だと思います。
子どもが笑っていると、その遊び、活動は心地良いもの、と私達は無意識に判断していますが、実際はそうではないこともありますね。
「ソファーでピョンピョン跳んでいるとき、いつも笑顔なんです」という親御さんがいましたが、実際その様子を見ていると、顔は笑っているけれども、心地良いような感じがしませんでした。
むしろ、「やらざるを得ない」感がプンプンしていて、辛ささえ伝わってくるのでした。


「笑っているから、楽しい」わけではないことを学んだのは、施設職員時代です。
笑顔で自傷している人もいましたし、怒りながら涙を出しテレビゲームをしたり、おやつを食べたりしている人もいましたので、必ずしも表情と感情が一致しているわけではないのだと感じました。
あとスキンシップ遊びを求めてくる子に応じていたら、最初笑っていて途中からパニックになる子も。
特に知的障害の重い人達は、表情のバリエーションが乏しく、泣くか笑うかで、中間の表情がない感じがします。
確かに生まれたばかりの赤ちゃんは笑いませんし、認知症が進んできたご高齢の方は表情が失われていきます。
認知機能と表情は連動していますので、表情の豊かさが認知機能の豊かさであり、表情が感情のすべてを表しているのではない、ということを知りました。


我が子の遊び、活動、動作を、そのままやらせておいて良いか、止めるべきか、で悩まれる親御さんは少なくないと思います。
子どもの表情、笑顔は大事な判断基準になるのですが、「笑顔=快・発達に繋がる活動」というのは言い切れません。
ですから私がどうしているかと申しますと、常日頃の表情の確認、アセスメントも行うのです。


「遊んでいるときの表情はどうか?」
「おやつなどを食べたときの表情はどうか?」
「関わり遊び(くすぐりやスキンシップ)をしたときの表情はどうか?」
「何もしていないときの表情はどうか?」
「不快や拒否のときの表情はどうか?」
「リアクションに対して、表情が出るまでの時間はどうか?」
あとは成育歴の中で表情のバリエーションの変化と認知機能の状態を確認します。
このようにしてその子の表情を多面的に評価したうえで、笑顔=快なのかを判断していきます。


笑顔と心地良さが一致している場合は、家庭生活の中でたくさん笑顔になれることを増やしていくことが、そのまま発達に繋がります。
一方で笑顔が必ずしも本人の心地良さと繋がっていない場合は、別の判断基準を見つける必要があります。
身体を観るプロフェッショナルな方達が仰っているように、「呼吸が深くなる」「身体が弛む」などもありますし、「表情が自然になる」「声の大きさが一定になる」「動作がスムーズ」「テンションの波が小さくなる」「立ち方・歩き方」「口の開き具合」「食欲」といった変化でも確認することができます。
もちろん、一人ひとり違いますので、何がその子の心地良さの表れか、を確認していく必要があるのです。


ちなみに表情を作る顔面神経の出発地点は脳幹の橋からであり、そこでは舌の味覚(舌前方2/3)と唾液腺・涙腺の分泌も司っていますので、味覚を育てること、つまり、いろんな味を覚えることが表情のバリエーションを育て、結果的に認知機能の発達にもつながっていると思っています。
そう考えると、赤ちゃんはお腹が空くと涙を流して泣き、同時に唾液も口の中に広がる。
で、おっぱいを貰って、穏やかな表情になり、いろんなものを何でも口の中に入れて舐めるようになったくらいから表情の変化が見られるようになる。
そして離乳食から幼児食と移行し、複雑な味を感じ、味覚が広がっていく中で表情と認知機能が豊かに育っていく。


つまり何を申し上げたいかと言いますと、「笑っているから良いんだ」と言えるには、関連するその他の発達も確認する必要がある、ということです。
この表情を一つとっても、日常生活の中での表情が出る場面の確認と、味覚は育っているかな、学習面での発達はどうかな、と多面的に確認しなければなりません。


療育施設や支援級の連絡帳に、「今日も笑顔がたくさん見られました♪」みたいなことがかわいい文字で書かれているのをよく見かけますが、そのたびに「こんな友達メールみたいなことばかり書いているから、勘違いしてしまう親御さんが出てきてしまうんだよ」とツッコミを入れています。
まあ、特別支援の教科書には、こんなアセスメントの仕方は書いてなくて、特徴的な言動しか載っていませんので、特異性を見つける=アセスメントとなっているのでしょう。
それこそ、異常を見つける医療モデルのアセスメントですから。
それではいつまで経っても、子ども達の発達に繋がるアセスメントはできませんね。
間違い探し、ダメ出しでは、発達援助はできません。





2021年6月9日水曜日

【No.1172】マスク出産に「酸素は足りている」と平気で言えちゃう医療だから、発達障害は治せない

妻に出産時のマスク着用について尋ねたら、「ただでも苦しいのに、マスクなんてつけたら死ぬ」と言っていました。
今のように出産が病院でとなったのは、昭和30年代なので、今の子育て世代から見れば、祖父母の代。
それまではずっと自宅での出産で、まさに命がけで出産していたわけです。
だからこそ、その命の危険から母子を守るために、医師がいて病院がある。


マスク出産に対して、「それでも酸素は足りている」と発言していた医師がいました。
確かに命を維持できるだけの酸素量は保たれるのかもしれません。
でも、それは医学的に決められた範囲であり、酸素の値です。
決して個別の条件は考慮されていませんし、何よりも「苦しい」などの主観は無視されています。
胎児期の発達等の勉強のため、いくつか医学書を読みましたが、そこにも「苦しい」などの本人の内面的な表現はかかれておらず、すべて酸素量がとか、顔の赤みだとか、客観的に見て取れるものだけを判断基準として書かれていました。


ですから「苦しい」と訴える妊婦さんを前に、「(酸素の値は正常の範囲だから)酸素は足りている」と言うのだと思います。
まさに西洋医学を体現している。
酸素量が足りなくなれば、呼吸器を付け、熱が出れば解熱剤で、咳が出れば咳止め。
不安が強くなれば、精神科薬を出し、寝れなくなれば睡眠薬、そして副作用で便秘になれば整腸剤。
数値が判断基準のすべてで、主観を極力排除する。
症状と対処法が一対一なので、足し算の医療です。


発達障害が病気の一種だとしたら、「この症状にはこの対応」というような医療が成り立っていたかもしれません。
しかし、発達障害は病気ではありませんし、何よりも本人が困って初めて支援のニーズが出てきます。
近頃では1歳代くらいから医療に行く親御さんも少なくないですが、そのとき、子どもさん自身は困っていないわけです。
病気でもなければ、本人が困ってもいないものに、医療ができることはほとんどないといえるでしょう。


発達の遅れは病気ではありませんので、医療の対象外だといえます。
ただ日本のシステム上、行政的な支援を受けるためには、医師の診断が必要な場合が多いので、行っているだけです。
単に、医療が既得権益を離さないだけ。
「歯科医師には、接種させないぞ」と言っている医師会と一緒。
「医療が何とかしてくれる」と思うのは大いなる勘違いです。
だって、発達の遅れは治療ではなく、育てる部分だから。
つまり、そもそもが医療ではなく、子育ての話なのです。


神経発達を促す薬ができれば、発達障害は医療の対象になるでしょう。
しかし現時点ではそのような薬はありません。
ですから、できることは家庭生活の中でよりよく育てていくことのみ。
そしてそのとき重要になってくるのは、発達の主体である子どもさん自身の主観です。
よくハイハイを抜かした子にハイハイをさせているご家庭がありますが、そもそもが子どもさん自身、ハイハイを抜かしたことに困っているのか、今、そこを育て直したいのか、尋ねてみることが大事だと思います。
「ハイハイを抜かしたからハイハイをやる」というのは、「(数値は正常範囲だから)酸素は足りている」とかぶります。
大事なのは、酸素量が正常範囲に入っているかよりも、本人が苦しいかどうか。


ハイハイをやらなかったのは、病気ではなく、発達のヌケです。
発達課題をやらずに飛ばした状態を見ると、それ自体が悪いものであるかのように感じてしまうかもしれません。
そうなると、すぐにそれを取り除こうという思いが出てきてしまう。
で、親御さんは焦るわけです。
早くクリアしようと焦り、焦るからこそ、子ども自身の声、主観に気づけなくなる。
ハイハイを飛ばした子にハイハイをやり直しさせることは大事だけれども、それが今か、それを最優先に行いたいか、は一人ひとり違います。
そういった一人ひとりの違いに気づき、またじっくり耳を傾けられるのは家族しかいません。


「いま、あなたはそれを育てたいと思っているの?」
「それを育て直したいというニーズを持っているの?」
そういった問いかけを持ち続けていれば、発達援助の方向性は間違うことはないと思います。
発達のヌケや未発達は、排除すべき対象ではなく、その子がより良く育つための入り口ですね。
発達には、主観と酸素が大事!




2021年6月4日金曜日

【No.1171】直感と心地良さの科学

このブログは、だいたいジョギングやジムで運動しているときに思いついたものを文字にしています。
一方でラジオやメール相談、実際の発達相談での回答は、その瞬間、パッとひらめいたものを言葉にして伝えています。
言葉で表せば、文字のブログは「ひらめき」であり、発達相談は「直感」なのでしょう。
そんな話が、昨晩観た「ヒューマニエンス 40億年のたくらみ」という番組で紹介されていました。


京都の哲学の道が有名だったり、経営者などがマインドフルネスを取り入れたり。
そうやって敢えて考えないような時間、ボーとするような時間にも脳は活発に動いていて、創造やアイディアの着想に繋がる話は知っていました。
しかし、直感に関しては大脳基底核が関わっていたなんて知らず、そういったものが科学の力で明らかになったことに驚いています。
なんとなく、直感が働く人、直感が良い人というのは、今までの経験や情報の記憶から瞬時に引っ張りだすのがうまくて、かつそれがすぐに動きとして表せられる人なのかな、とは思っていました。
ですから、直感を磨くというのは、ある程度、情報の蓄積が必要で、あとは…という状態でした。


番組には将棋のプロ棋士の方がゲストとして出演されていましたが、その方の直感に対する表現が興味深いものでした。
将棋を指しているとき、直感が閃いたときは「美しい感覚がある」「芸術作品のような感じがする」そしてその手を打った瞬間、「心地良い気持ちになる」と仰っていました。
将棋は一見すると、指し手を読んでいき、「こうしたら、相手はこう動く」のような論理的、法則的、数学的な思考に思われがちですが、プロの棋士は芸術に近い感じで指していることがある。
昔読んだ羽生善治棋士の著書にも、「直感が7割」などと書かれていました。
たぶん、数え切れないくらい将棋を指し、学んできたプロ棋士の方達は、莫大な記憶の蓄積の中から瞬時に解答を導き出す力が長けているのだと思います。


勝ち筋を見つけた一手が直感的に見えたとき、「心地良い気持ちになる」と表現したことに対して、それは「大脳基底核が感情ともつながっているからだろう」と脳科学の研究者の方が見解を述べていました。
ということは、神田橋先生の「心地良いを大切にする」というのは、心地良いを指針とする=直感が働いている状態だと考えられます。


子育てや発達援助が上手な親御さんと言うのは、特別支援や療育、発達障害の知識が豊富な親御さんよりは、むしろ、あまりそういった知識や情報に振り回されていない親御さんだと感じます。
そしてそういった親御さんは、ご自身の直感をうまく活かしながら、「こうやったらいいかも」「こんな遊びが楽しいかも」という具合に、子育てをされ、子どもさんもそれに応えるようにしてどんどん発達成長されている印象を受けます。
我が子が治ったと喜んでいる親御さんというのは、「やっとの思いで」「苦労に苦労を重ねて」というよりも、ご自身も楽しみ、笑顔が多かった気がします。


つまり、親御さんが「心地良い」ことを実行されている。
「心地良い」は親御さんの直感が働いている状態であり、その直感の源はどこかといえば、今までの体験や記憶だと思います。
その豊富な記憶の中から、直感的に我が子の発達に良いアイディアを導き出している。
じゃあ、その記憶は何かと言えば、我が子と過ごしていた時間における出来事だけではなく、親御さん自身が生きてきた人生、そのものも含まれているのだと思います。
当然、我が子と親御さんは遺伝的に受け継いでいる部分がありますので、親御さんの人生の中での体験も、貴重な情報になると言えるのです。


ですから、我が子の子育て、発達援助をより良いものにしていくためには、我が子、親である自分、またその親である祖父母、3代の記憶と情報にアクセスすることが重要なんだと私は結論付けました。
勉強熱心で、いろんな資格を習得する親御さんほど、子どもの発達につながらないことを行っているように感じます。
これは療育や支援という表面的で乏しい情報にアクセスしているからではないでしょうか。
自閉症や発達障害、支援のプロになれたとしても、我が子の専門家になることはできないのでしょう。
我が子の専門家になるためには、親の代から受け継いだものの中に、そして親である自分の人生と、我が子が歩んできた時間の中に答えがあるのだと思います。


ラジオでの相談も、実際に家庭に伺っての発達相談も、一発勝負です。
だからこそ、感じるのですが、後から振り返ると、どうしてあのような発言、助言になったか、自分でも不思議に思うことが多々あります。
そして終わった頃には、「心地良かった」という余韻だけが残っている。
たぶん、私が今までに学んだこと、素晴らしい実践家の方たちから教えていただいたこと、実際に関わったご家庭、お子さん達から得たことに、アクセスできているのだと思います。
反対にイマイチだった発達相談には、綺麗事、教科書的な回答と引き換えに、心地良さがありません。
いくら感謝されても、申し訳なさが出てきてしまいます。
まだまだ私は知識が足りず、直感をコントロールすることができていないのでしょう。


大脳基底核は、古い脳、伝統脳の部分です。
つまり、親としての直感、私のような支援者としての直感を上手に働かせるには、やはり心身を整え、大脳皮質ではなく、感覚的な刺激を味わい、楽しむ機会が必要なんだと思います。
親御さんが緊張不安が強い→直感が発揮できない→大脳皮質で考える→答えを外に求める→子どもが見えない→発達が進んでいかない→緊張不安が増す→無限ループ。
親御さんの心身が整っている→直感が働く(心地良い)→3世代の知識、知恵、情報にアクセス→子どもに合った子育て→どんどん発達成長→親御さんが子育てを楽しむ→心身が整う→…。


子育て、発達援助の指針を「心地良さにする」というのは、非科学的に見えるかもしれませんが、こうやって後から研究が進み、明らかにされることがあります。
それこそ、エビデンスが出るのを待っていては、子ども達はあっという間に大人になってしまいます。
「エビデンスがある」というのは、現時点でわかっていることであり、未来永劫正しいわけでもありません。
反対に「エビデンスがない」ことだったとしても、まだ科学、研究のほうが検証するだけ追い付けていないということもあるのです。
エビデンスよりも、目の前の子どもがどうか、ですね。
エビデンスよりも、親御さんの直感のほうが3世代という歴史と情報の重みが違いますね。




2021年6月3日木曜日

【No.1170】「一人の人間がいる」という視点

遺伝子ワクチンについては、20年前から研究、治験、動物や人への接種が行われていようですが、ご存じの通り、今までは認可されて大々的に接種されることはありませんでした。
SARSやMARSに対しても、遺伝子ワクチンの治験が進んでいたものの、ADE(抗体依存性感染増強)が確認されたため、実用化に至っていません。
ということは、これだけ世界中で多くの人が接種することは初めてなわけです。


既に他のウィルスで遺伝子ワクチンが用いられ、他のワクチン並みに安全性が担保されていれば、「リスクは少ない」「メリットのほうが大きい」と言うことができるでしょう。
しかし、誰も分からない。
特に1年後、5年後、10年後の長期的な影響は人類が体験したことがないので、「分かりません」としか言いようがないのです。
でも、専門家やSNSに現れる医療従事者は、口を揃えて安全性を強調し、副反応は微々たるものだ、と主張しています。


確かに理論上は、安全なのかもしれません。
今、接種後に表れている副反応の割合を見ても特異的な数字ではないかもしれない。
接種後に亡くなった人は、ワクチンとの因果関係がはっきりしていないのかもしれない。
しかし忘れてはいけないのは、非常時ゆえに認可されたものであり、今まさに「治験中」だということです。
ある程度、治験が終わり、長期的な経過が確かめられたうえで、副反応が〇%、死亡者が〇人というのならわかりますが、今は治験の最中ですので、一人ひとりの状態や予後を丁寧に確認する必要があるのではないでしょうか。
その一人ひとりから得られた情報を基に、ワクチンの有効性や安全性を主張するのが筋だと思うのです。


「治験中」ではありませんが、まだ発達障害の分野も発展途上であり、わからないことだらけの分野だと言えます。
一昔前までは、「脳の機能障害」とし、「生まれつきで治らないもの」とされ、できることは対処療法か、服薬、または周囲の理解や支援でした。
しかし、その時代は終わり、神経発達症となり、その神経にアプローチすることで改善や治癒を目指す方向へと進みだしたのです。


未だに「自閉症だから構造化」などのマニュアル対応がされています。
またIQの数値が高くなったり、支援級から普通級に行ったり、手帳を返上したりすると、「それはたまたま」「もともと軽かった」などと、診断が外れ、治らないと言われていた特性が治ることを認めようとしない人たちがいます。


彼らからすれば、たった数パーセントの稀な事例、誤差のレベルなのかもしれません。
でも、「生まれつきで脳の機能障害で治ることがない」というのは事実ではなく、仮説だったのです。
その仮説が崩れ、今はまた神経発達症という概念で捉え直し、当事者の人たちがよりよく変わっていけるためのアプローチを改めて探っていく時期だと言えます。
診断名が外れるくらい発達・成長するのは、切り捨てるべき数値ではなく、活かすべき、学ぶべき一人の人間の姿なのです。


ギョーカイの支援者たちは、診断名が外れたり、支援が必要なくなる人のことを異常値扱いし、その人個人と向き合うことをしてきませんでした。
ですから、誰が相談にこようがお構いなし。
個ではなく、診断名で支援や助言をしているのです。
まるで個人の差、人種の差、そして長期的なリスクを見ないワクチン推奨派の医療従事者のようです。
とにかくできるだけ多くの人が接種し、それで亡くなる人は「少ない確率に当たっただけ」「医学の進歩にはつきもの」と。
そこに「一人の人間がいる」という当たり前の視点が無視されている。


「42万人死ぬ」といった人は、「人々が何も対策をしなかったら」という前提で数値をはじきました。
まさに「一人の人間がいる」という視点が抜け落ちています。
数字しか見ていないから、計算を間違うし、それによる人々の反応を想像できていなかったのです。
感染症の専門家にとって、ウィルスをゼロにするというのは、彼らの目標であり、悲願なのかもしれません。
でも、そういった数だけを見ている人間も、社会の中には「一人の人間がいる」ということが見えていないのでしょう。
医師会は金という数字を見、与党は、首長は世論調査の数値だけを見ている。
同じように長い間、ギョーカイは診断基準に当てはまるかどうか、どれだけ長く支援を利用してくれるか、という数値しか見てこなかった。
だから、よくなった人、自立できた人、治った人は、異常値として切り捨ててきたのだと思います。


この一年間、「ウィルスに勝つ」「ワクチンで克服できる」「ゼロコロナ」など、大脳皮質でしか物事を考えられない人達の姿を目にしてきました。
大脳皮質は新しい脳であり、デジタルでしか捉えられない部位です。
日々の陽性者数に一喜一憂し、富岳の計算で驚き、あれだけ未知のウィルスだからと怖がっていたのにもかかわらず、人類初の未知のワクチンを我先にと接種しようとしている。
人間の劣化は、大脳皮質を肥大化させ過ぎたことかもしれません。
伝統脳を使い切れない人は、物事の本質を捉えることができず、表面でしか考えることができないのでしょう。


神経発達症の子ども達は、大脳皮質の問題ではなく、伝統脳の部分の発達のヌケと遅れの問題だと考えられます。
ですから、彼らの発達を後押しする大人たちも、伝統脳を使いこなせるような準備をしておく必要があると思います。
数値や文字、デジタルな情報では、目の前の我が子のことを理解することはできません。
できたように思ったとしても、それは自分が記憶している情報と我が子の共通点を照合しているだけです。
「ああ、うちの子にも聴覚過敏がある」
で、その先が見えてこないのは、そういうことです。
聴覚過敏にはイヤーマフ、環境調整というのは、ボタンを押したら出てくる自動販売機と一緒。
「なぜ?どうやって育てたらいいの?」には、デジタル化できない感覚を発動するしかありません。


そこに「一人の人間がいる」というのがわかるのは、大脳皮質ではなく、伝統脳の仕事。
人間が見えない人には、子育ても、発達援助もできないでしょう。
ギョーカイの言う支援とは、数値の上がり下がりであり、支援対象か否かの世界。
発達障害があるかどうかではなく、大事なのは目の前がより良く発達成長していける視点ですね。
それは動物としての本能と感覚、哺乳類としての愛着が能力を発揮する部分です。




2021年6月1日火曜日

【No.1169】専門バカは治せないけれども、親御さんは治せる

この事業を起ち上げたのは、2013年4月で、その前年度は支援学校で臨時の教員を行っていました。
施設職員を辞めたあと、すぐに事業を起ち上げようとも思ったのですが、どう考えても学校との関わりは出てきてしまうので、「実際に内部で働いてみることも必要」と大学で取得した教員免許を使ったのでした。
事業を行っていく上で、「施設職員→てらっこ塾」よりも、「施設職員→教員→てらっこ塾」のほうが何となく守備範囲が広い感じがしませんかね(笑)


一応、教育大でしたので、学生時代から授業の補助や教育実習、ボランティア活動などで学校、先生と関わる場面は多かったと思います(ちなみに児相での活動も4年間行っていました)。
で、一般社会から言えば、とても狭い世界だと思うのですが、大きな施設、福祉の世界でも働いた。
そういった中で見てきた教員、支援者、有名どころの教授・医師・支援者から感じたのは、意外に情報更新ができていない、ということです。
一見すると、新しい知識や情報を学び、取り入れているようですが、ベースの部分が変わっていないという感じです。


よく学校でも、偉そうな先生はいるものです。
40代中盤から55くらいの先生で、やけに自信がある。
で、その言っていること、教育法が最新の知見に基づいているかといえば、その先生が一番勉強した時期であり、充実していた時期の生徒さんをベースにしたことを言っている。
偉そうに「この子は、大変なお子さんです」なんて言うけれども、それはあんたが見てきた子の中で、「大変」って言っているだけでしょ、ということが多い。
この仕事をしてからも、学校主催の支援ミーティングに呼ばれて伺ったけれども、基準がその先生の過去の経験、特に自分が充実していた頃、担任だった生徒だから、話がかみ合わないわけです。
重い軽いはど~でもいい。
いま、話し合いの中心にいるお子さんがどうなのか、そこを話し合いたいのに。


これは学校の先生に限らず、支援者も、医師も、教授も、同じようなことがあります。
治せない医師ほど、診察室で数分観ただけで、診断名を下し、将来の予言までしてしまう。
親御さんの「なぜ?」「どんな点から?」という自然な疑問に対し、「私が言うからそうなんだ」と言う。
「親のあなたにはわからないことが、専門家の私には分かるんです」とムキになって言う医師、なんていう話を聞いたのは一度や二度ではありません。
支援者も同じで、自分が関わってきた人の中から、「この人は重い軽い」「自閉症にはこういった支援だ」みたいなことがありますし、専門家と呼ばれる人になればなるほど、自分が師匠から教わった療法にこだわり、そこを基準に人を見ようとする。
だから、「この人は合う・合わない」と、失礼なことを目の前で言ってしまうのです。
その合う合わないは、自分が専門とする療法に合う合わないでしょ。
自分の得意な領域に入らない人しか行えないのなら、それは単なる専門バカです。


施設職員時代は、子ども達が通う学校にムカつく先生が若干名いたので、よくぶつかっていました。
で、そいつらが20代の私に向かって、「私は教員生活〇十年だ」などと言ってきたのです。
ですから、「せいぜい一年間で担当するのは一人、二人、三人の生徒だろ。20年でも多くて60人しか関わっていないくせに、何でも知ったかぶりをするな」と言い返してやりました。
またやられたら倍返しですので、「学校の先生は、24時間関わったことがあるのか?休みの日、夜寝るとき、どうやって過ごしているのか知っているのか」と付け加えてあげました☆


でも、こういったやりとりや教員の実態、働く中で福祉の世界や有名支援者たちの実態を見聞きしてきたことは、今の仕事のベースになっているんですね。
まず何といっても、「関わってきた人数が大事」
教員生活38年といっても、担当してきた生徒の数は100人ちょっとなわけです。
そんなたった100人と関わったくらいで、自閉症、発達障害の子ども達のことなどわかりませんし(盲聾・肢体不自由など障害種も様々ですしね)、どうしても指導や視点が過去の生徒に引っ張られがちです。
良くも悪くも、教員は経験主義なところがありますので。
ですから、私は事業を起ち上げるとき、とにかく一人の人に長くかかわるのではなく、できるだけ短く、かつ多くの人と関われるような仕事にしたいと考えました。
最低でも1,000人くらい関われると、「過去の誰々さん」というヘンな基準ができなくなりますので。


あとは、「特定の療法にこだわらない」
施設職員時代は、それが最良だと思い、TEACCHを中心に学びましたが、それだとすべてTEACCHの考え方、基準で、子ども達を見てしまうことになります。
そうなると、先ほど紹介した通り、TEACCHに合う子合わない子、という失礼な見方が出てしまいますし、合わない子には何もできない、ということになってしまいます。
そんな支援者の実力、狭い了見によって、本来の主体である子どもが左右されてはならないのです。
なので、中心はTEACCHでしたが、良いと言われるものは別の療法も、別の分野のアイディアも勉強し、取り入れるようにしていました。


今、振り返ると、特別支援の世界に入って、よく喧嘩していたと思います。
でも、それが今に繋がっている。
私が若いときに感じていた矛盾や理不尽さ、特別支援の世界におけるおかしなところを反面教師とし、今はその逆を行っているのですから。
特別支援教育の民間版、福祉施設の地域版では、一瞬で潰れていたでしょう。
全額を払っても受けたいサービスが提供できなければ、民間はやっていけませんしー。


私は特定の子どもさんや療法など、ベースはもっていません。
そして、これは親御さんとも共通することだと言えますし、親御さんの長所でもあると思うのです。
初めて親になり、初めて発達障害を持つ子と関わることになる。
ですから、外付けの基準がないわけです。
でも、子育ては行っていかなければならない。
そうしたときに、必要になってくるのは「我が家の子育ての基準」になります。
子どもの笑顔でもいいし、子どもが没頭している状態でもいい。
親子が心地良くなるでもいいし、私が幸せでもいい。
とにかく親御さんの内側に基準を持つことだと思います。


子育てで悩まれている親御さんに共通することとして、この基準を外に求めようとする傾向があるように感じます。
入門書に出てきた自閉症という基準、同じ支援級のあの子、よく成長している先輩ママの子、SNSで繋がっている親御さんの子、専門家・支援者・教員の言葉…。
基準が外に行けば行くほど、我が子から遠ざかっていき、またそこに当てはまる当てはまらないで一喜一憂することにもなります。


もし比べるのなら、昨日の我が子と今日の我が子ではないでしょうか。
昨日との変化が分かりづらければ、1か月前の我が子、半年前の我が子、1年前の我が子、です。
そのような視点で見ていけば、必ず変化があるもので、良い変化は今後の子育ての指針にもなります。
親御さんの内側に「心地良い」「幸せ」「楽しい」などの羅針盤を持つ。
そして比べるのなら、過去の我が子と今の我が子。
この2つを確立することができれば、子育てという軸が定まってくると思います。
ちなみに私の内なる羅針盤は「良い雰囲気」と「家族みんなが幸せ」です。
で、基準はやはり過去の姿と今の子どもさんの姿。
でも、私は他人ですので、「ヒトの発達」を補助として基準にしています。
「専門バカは治せないけれども、親御さんは治せる」、その理由とそれができるためのアイディアの一つでした。






沖縄出張について(6月19・20日)

 6月18日(金)から3泊4日の予定で沖縄に伺うことになりました。

【予定】
6月18日(金)移動日
6月19日(土)9:00~12:00 / 14:00~17:00
6月20日(日)訪問宅決定! / 訪問宅決定!


他県とは異なり沖縄県内のみの募集になるため、ひと家族になる可能性が高い中、「それでも」と出張の依頼をしてくださいました。
出張では初めて伺う沖縄であり、他のご家族の希望があるかどうかはわかりませんが、もし発達相談にご興味ある方が沖縄県内にいらっしゃいましたら、お問い合わせください。
どうぞよろしくお願い致します。


詳細を確認したい方は【出張相談問い合わせ】と件名に書き、お問い合わせいただければ、ご説明いたします。
出張相談についての内容は、てらっこ塾ホームページをご覧ください。
ご依頼&お問い合わせ先:メールアドレス


2021年5月31日月曜日

【No.1168】「われ思うゆえに、そうである」という助言

都知事がまたおかしなことを言い始めました。
今度は、「20時までに仕事を終え、帰宅」の号令です。
なぜ、20時にこだわるのかわかりませんが、というかなぜ、20時で仕事を切り上げることが感染症対策になるのか、教えてほしいものです。
「安全だけれども、安心ではない」などの発言からも、科学的な思考をお持ちではないのでしょうから、単に焦っているだけなのでしょう。
要請に従わないお店は増える一方、外に出る人も増える一方。
グローバルダイニングの裁判でも、ボロが出まくり。
日本は法治国家であり、憲法がある国ですので、「われ思うゆえに、そうである」というのは感情のままにワガママを言っているだけです。
首長にしても、専門家にしても、根拠を示さない我がままっ子ばかり。


私が仕事をしている上でも、この「根拠を示す」ということは大事だと考えています。
しかし、扱っているのが目に見えない「発達」ですので、ここが一番苦労するところでもあります。
まあ、研究者ではないですし、民間企業ですので、結果が出ればすべてOkという想いもあるのですが(笑)
ただそれでもやはり根拠を説明できなければ、「大久保が分かる」=「大久保に頼めば良い」という感じになってしまい、それは宗教であり、ギョーカイがやっていることと同じになってしまいますので、科学的な根拠と合わせて、子どもさんのどういった様子が確認できるから、こうなんです、という説明はしていかないといけないと思っています。


いろいろなところで、医師や支援者からの診断、アセスメント、意見書の類を見せてもらうことがあります。
しかし、笑っちゃうぐらい全国どこでも同じようなことが書かれています。
児童デイのような自動でシートを作成してくれるアプリがあるのかもしれませんが、手書きのモノもあるので、そうではないようです。
全部、昔、私が学生時代に習ったような「見通しを持たせるために予定を事前に伝える」「コミュニケーションが苦手な子は、絵で伝える」「気が散りやすい子は、掲示物を減らす」「多動な子はトランポリン」。
だいたい、こういった決まり文句を接続詞だけ変えておけば、完成です。


こういったマニュアル的な決まり文句が令和になっても生き残っているのは、ギョーカイに知識の更新がないという表れです。
これはコロナ騒動で出てくる人達と同じで、ずっと「未知のウィルス」状態。
ですから、ずっと「脳の機能障害」状態ですね。
「未知のウィルス」ゆえに、緊急事態宣言、お店は時短、収容人数は50%。
同じように「脳の機能障害」ゆえに、生まれつき、治らない、生涯支援。
でも、もう「未知」ではないし、「脳の機能障害」でもない。


あと思うのが、「未知」も、「脳の機能障害」も、その一言だけで、なんも説明していないんですね。
よくあるのが、「どうして、うちの子、不器用なんでしょうか?」「多動なんでしょうか?」「不安が強いのでしょうか?」と親御さんが訪ねると、それは「脳の機能障害だから」「特性だから」「発達障害だから」と専門家、支援者、教員は返してきます。
でも、これはなにも答えていないのと一緒です。
不器用=脳の機能障害とはいえません。
不器用な理由は、体軸の課題かもしれないし、感覚の課題かもしれないし、運動発達のヌケからかもしれないし、栄養不足かもしれないし、経験不足かもしれない。
そこの原因、根っこを捕まえ、説明するのが専門家の仕事です。
「人流を止める」というのはバカでも言えます。
同じように、「脳の機能障害」というのも、バカでも言えます。
バカで言えないことを言うから、お金を頂いて仕事ができるのです。


学校の先生や現場の支援者からも、相談を受けることがあります。
医師の意見書やなんとかセンターの助言や指示などを受けることがあるけれども、言われた通りにやっても全然うまくいかない、と。
そりゃそうです。
だって、書いてあることが視覚支援とか、ご褒美とか、環境調整とか、だけなのですから。
どうして視覚支援が、この子に必要なのか、根拠の部分、もっといえば、「この子」の部分が抜けているのです。
これだったら、発達障害という診断を受けた子なら、誰でもいいよな、というものばかり。
どうして、この子が学校で不安を強く感じているのか、その子の特徴、背景と合わせて、理由が説明されていないので、うまくいくわけないのです。
常日頃、エラソーに言っている有名支援者、医師、大学教授たちも、「なんだ、こんなもんしか書けないのか」と思うことが多々ありますね。
名前だけ変えたコピペ診断書、意見書、アセスメントばっかりです。
この前、行動療法系の支援者が書いたものを見せてもらいましたが、主語を犬に変えても成り立っていて、苦笑いもできませんでしたね。


でも、こういう私も、すべての根拠が説明できているわけではありません。
そしてこの発達という分野は、1対1で原因と結果が成り立っているわけではありません。
一言で、「言葉の遅れ」といっても、その背景は複雑です。
なので、できるだけ多く考えられる理由、背景を挙げていき、その中でも課題の改善に有効だと考えられるものを絞って伝えていく。
その有効性の基準は、「その子が育てようとしているところから育てる」「育てやすいところから育てる」「根っこ(胎児期に近い方)から育てる」です。
私の場合は、この並びで優先順位を付け、助言するようにしています。


さあ、みなさん、お手元にある専門家からもらった資料を見返してみましょう。
その文章の中に、根拠や理由、背景が記され、説明されていますか。
その文章の中に、我が子の姿を感じますか。
その助言、あなたの息子さん、娘さんだけに当てはまりますか。
よく入門書のようなものを読んで、「ああ、うちの子のことが書かれている」と思われる親御さんがいらっしゃいますが、その感覚のまま、専門家・支援者と対峙してはなりませんね。
似ているのは表面に現れる特性であり、その特性からは具体的なアプローチの仕方は組み立てられないのですから。
その子をしっかり見て、いろいろなところを確認して初めて具体的なアプローチが見えてきます。
年齢や環境、成育歴、資質、体験したもの、受け継いだもの…。
そういった個が表れる助言を貰っていますか??
「われ思うゆえに、そうである」という助言は最悪です。




2021年5月26日水曜日

【No.1167】大人の余裕が子の発達を保障する

昨年1年間で妊娠届があった件数が87万2227件で、これは前年比で4.8%減ということがわかりました。
計算すると、約4.4万人の命がこの世に生まれることができなかったといえます。
コロナは、長年、ガンで闘病していたとしても、家の中で倒れていたとしても、PCRでコロナウィルスが検出されれば、みんな、「コロナ死」になります。
で、そのコロナ死が1年間で4379人(2020/1/16~2021/1/15)。
天寿を全うできた人と、その機会すら与えられなかった人。
10倍以上違うこの差には、さらに多くの人数が隠されているのです。
生まれてきた子が親になると、また次の世代が生まれ、その次の世代が成長すると…、そのような想像ができると、4.4万人の新しい命の先にも、数え切れないくらいの命と未来があったわけです。


小学校生活が6年間あるのは、その6年間という時間の中でじっくり成長を促していこうという考えの表れだと思います。
「入学式のときは、大変でどうしようかと思ったのに、卒業式ではこんなに立派になって」
そんな言葉を見聞きしたことは一度や二度ではなかったはずです。
振り返れば、同級生の中にも、今なら診断がつく子がいたでしょう。
でも、そういう子も一緒に6年間学ぶ中で、いろいろな力を身につけ、それこそ発達のヌケや凸凹を育てていたのです。
教室から飛びだす子やすぐに手や足、口が出る子、勉強についていけない子もいましたが、先生はその都度、呼び戻してきて、勉強がわからない子にはフォローしていた姿が思いだされます。


それが近頃どうでしょうか。
こういった「自分が担任のときは、子ども達のために頑張る」「6年間でしっかり育ててみせる」という気概を持った先生はいなくなったのでしょうか。
以前は、課題がある子がいても、だいたい1学期の終わりや3学期の終わりなどに学校からの面談の申し込みがあったのに、今じゃあ、4月・5月の時点で、すぐに「専門家へ」「お薬は?」「支援級もありますよ」なんてことを言っています。
学校が率先して発達障害がある子ども達を区別し、分断しようとしているのがわかります。
年々、さじを投げるのが早くなりました。
「こういう取り組みや工夫をしたけれども、ダメだった」という話がなく、一方的に子どものできないことをあげつらうのは、教育ではなく、ただのダメ出しです。
ただのダメ出しが増えたのも、裏を返せば、「私達のせいではない」という保身と、婉曲的な「支援の世界へ」という促しだといえます。


人を育てるということは、時間がかかるということだと私は考えています。
特に発達に遅れやヌケがある子どもさん達は、就学のタイミングとその遅れやヌケが埋まるタイミングが合わないことが多々あります。
でも、それは当然で、小学校低学年くらいまでは神経発達が盛んな時期なのですから、まだまだ未熟なのが自然です。
未熟な年代の子ども達が入学する小学校で、育つ時間が待てないというのはどういうことかと思います。
教師が管理しやすい子だけを選び、教育するようになったら、日本の学校教育というか日本という国は終わりの始まりではないでしょうか。


小学校の就学に限らず、発達の遅れやヌケを育て直すには時間がかかりますので、タイミングのズレ、もっといえば、その時間を確保するための時間稼ぎが必要なわけです。
そういったときに必要なのが、その場しのぎの対処法です。
たとえば、見通しが持てるようになるまで、絵で描いたスケジュールを使ったり、言葉での注意では記憶に残らなければ、文字で気を付けることを箇条書きにしたり。
どうしても授業中、落ち着いて座ることができない子がいれば、休み時間の間に心拍数が上がる運動をしたり、補助の先生をお願いするのも良いと思います。
こうやって支援や補助を受けながら、根本的な課題である発達の遅れとヌケを育てていく。


しかし、どうでしょうか。
根本的な育ちがない支援や補助が溢れていませんか。
いつまで補助の先生をお願いするの?
いつまでご褒美シールを使い続けるの?
いつまで薬は飲み続けるの?
で、そのあからさまな姿が、学校側から提案される「専門家」「服薬」「支援級」だと思います。
普通級の先生からしたら、扱いにくい子を支援の世界へ送っているだけでしょ。
教え育てるというのが教育なのに、少しでも課題が見つかれば、「特別支援」という美名のもとに、教えもしないし、育てもしなくなる。


文部科学省は、社会のプレッシャーに押され、いろんな要素を学校教育の中に盛り込んできました。
それが現場の先生の余裕をうばい、結果的にじっくり育てるよりも、支援級へ、専門家へ丸投げという事態を招いているのだと思います。
ギョーカイのほうも、長年、親だけではなく、学校の先生も下に見る傾向が強かったので、ヘタに指導するくらいなら、専門家に任せろ、というメッセージを送り続けていました。
ですから、長期的な視点ではなく、「今日、うまくいくかいかないか?」で判断されてしまっている。
そうなると、6年間かけてじっくり成長していけば、ちゃんと育っていく子ども達も、排除分断の対象となってしまう。


昨年、花風社さんの主催で、栗本さんと対談、ご一緒させていただく機会がありました。
その際、栗本さんが「僕は、3代見て指導している」とおっしゃっていました。
子どもだけではなく、その子どもの子、そしてその次の代の子。
3代が元気で、やりたいことができる身体になって、初めてちゃんと指導ができたということになる、というお考えを伺いました。
私はその時、感動し、また自分の援助も、100年先を見据えたものに高めていかなければならないと思ったのでした。


子どもを育てるというのは、100年までは見なくても、年単位、5年、10年という長いスパンで見ていなかければならないと思います。
しかし、日本全体として、くだらない陽性者数の上がり下がりに一喜一憂するくらいの人間が多くなってしまったので、あらゆることに短期的な視点でしか捉えられなくなってしまっています。
まだ5月の段階で、どうしてもう普通級で学んでいくのが無理ってなっているの?
残りの5年10か月で、どれだけの多くの学びと成長があるのでしょう。
それを今、本人ではなく、担任又は学校が「無理」と感じ、その未来を切り捨てて良いのでしょうか。
支援級に行っても、同じだけの教育、機会が保障されているのなら良いですが、そこは考えていないと思います。


長年、発達の遅れ、ヌケがあった状態だったのですから、パッと1,2週間、取り組みを行ったからといって、ガラッと変わるわけはありません。
変わったとしても、それは表面的な変化です。
根っこから育てるというのは、それなりに時間がかかりますし、本当に育ったかどうかは、5年、10年とフォローして見続けないとわからないのです。
「治った」と思い、同年代と同じ生活の中に入っていった子も、思春期や親元を離れるタイミング、社会に出てから、実はまだ治っていなかったね、ということも少なくありません。
それこそ、私がお会いする親御さん達の中には、子どもさんの発達相談の機会に、ご自身の長年のヌケ、課題を知ることもあるのです。
自分しか自分の身体、感覚がわかりませんので、結婚して子ができて初めて気づく、自分の生きづらさ、不具合もある。


ですから、栗本さんがお話ししてくださった「三代を見る指導」は、その通りだと思います。
余裕がないと、短期的な視点、結果を求めてしまいがちなのは、人間の特性です。
ということは、子育てには余裕が必要で、その余裕は時間や環境などの物理的な面だけではなく、親御さん自身の身体、心を整えていくことでも、作られていくのだと思います。
現在の学校は余裕がありません。
余裕がないところに、余裕がない親御さんがぶつかると、短絡的な方向へと進んでしまいます。
なので、子が育つ時間を待てるようになるために、大人が心身を整える。
余裕があれば、余裕の無い学校からの言動に、しなやかに対処することができますので。




2021年5月20日木曜日

【No.1166】「やることがない」といえない人達

「二週間後はインドになる」と言われていた、まさにその二週間後が福岡出張の予定日でした。
ですから、ずっと二週間、心配しながら福岡に飛び立ちましたが、福岡はインドになっていませんでした(笑)
ラーメン屋でカレーは出てきませんでしたし、博多駅はインド人で溢れかえっていませんでした。
大好物の『誉れの陣太鼓』の新商品は、カレー味じゃなくて、抹茶味で一安心。
デパート、飲食店、人が大勢。
金土日と博多駅に行ったのですが、結婚式帰りと思われる団体さんがいたり、部活帰りの高校生がいたり、旅行バックを抱えた家族がいたり…。
今回もマスク警察とやらにはお会いできず残念!
反対に道を尋ねられることがありました。
やはり顔が見えるのは、信頼の一歩だと思いますね。


既に梅雨入りをしている九州ですから、鼻マスク、顎マスク率が高くなっていました。
当然ですよね、これからの時期はコロナよりも、熱中症のほうが危険ですから。
というか、みんな、わかっているんです、このバカバカしさに。
だけれども、メディアや保身まみれの首長達が煽るもんだから、みんな外すに外せない状態なんだと思います。


博多駅にあった電子広告は緊急事態宣言と感染症対策を訴える案内が流れていました。
でも、当然、誰もそんなところに立ち止まらないし、見てもいない。
ただ電子広告がむなしく、「感染対策をお願いします」と言い続けているだけ。
まったくもって税金の無駄だし、そもそも人の注意を惹きつけるような科学的な要素は何もない。
そんな電子広告を見ていて、ふと思ったのですが、どうして政府や知事たちは一年間、無駄なことを続けているのだろうか、と思ったのです。


たぶん、私が考えるに、シンプルに言えば「やることがない」んだと思います。
私達が対峙しているのはウィルスです。
そのウィルス、つまり、自然界にあるものに対して、具体的に何かできるようなものではありません。
人流を止めようが、お酒を禁止しようが、飲食店を20時で閉めようが、緊急事態宣言を発令しようが、ウィルスはいなくなりません。
一時的に息をひそめたように見えるだけで、私達の周りには、もちろん、体内にも数え切れないほどのウィルスは存在しています。
結局、人間ができることは限られていますし、根本解決はないのですから、ある程度の人間が罹って抗体を作り、共生していくしかないんですね。
つまり、唯一の解決方法は「時間」だといえます。


私は同じことを発達障害の子ども達と関わることで感じています。
「子どもの発達に、何が一番必要ですか?」と尋ねられれば、真っ先に私は「時間」と答えるでしょう。
もちろん、酸素も重要ですが、やはりそれでも時間が解決することが多いと思うのです。
いま、発達障害と言われている子ども達の多くは、脳にダメージがあるわけでも、生まれつきで変わらない特徴を持っているのでもなく、単に未発達な状態の子ども達です。
未発達は障害でも、問題でもありません。
ただまだ育っていない状態なのです。
そういった子ども達に必要なのは、まだ育っていない部分を育てる時間になります。


定型発達にこだわり過ぎると、「同じ時間に同じことができる」が正しいように錯覚してしまいます。
従順な保健師や保育士、幼稚園の先生たちがどんどん幼児さん達をピックアップしていきます。
たぶん、この人達は真面目に、上から言われたことを守っているだけ。
根拠なく、会社や上司がそういうから、といってマスク通勤をしている人達と同じです。
別に何か考えやモットーがあって、やっているわけではなく、仕事として行っているのです。
だから、「もう少し時間があれば、ちゃんと育つよね」という普通の感覚を持ちづらくなります。
で、未発達の子ども達が特別支援の世界に入っていき、そこで診断がつけられ、気が付けば療育を受け、それが過去の事実となり、いつの間にか障害児となるのが今の日本の状態です。


では、なぜ、いち早くピックアップしようとするか、その方向へどんどん進んでいくかといえば、やることがないからです。
とっくの昔に早期療育の有効性は否定されました。
むしろ、そういったものを早期から利用しない子の方が自立している。
つまり、科学的な根拠も、子どもにとってはメリットもない。
じゃあ、なんでそんなことを税金使って行うのかといえば、それくらいしかできることがないからだと思います。
PCR検査と一緒です。
早く見つけて、それを本人に伝え、自己隔離をしてもらう。
でも、結局、ウィルスから回復するには、その人の自己免疫が働き、対処するしかないのです。


政府は本来、「コロナウィルスに対して、私達が直接できることはありません。国民一人ひとりで自己免疫を高めてください」としか言えないはずです。
だけれども、そんなことを言うと、批判を浴びるから、やってます風にしているだけ。
都知事なんかまさにその典型。
レインボーブリッジを赤くし、フリップ芸を行い、繁華街の電気を消し、見回り隊を結成し、公園の遊具をグルグル巻きにする。
国や自治体は予算をスッカラカンにして、無駄なことをやり続けている。
でも、直接、ウィルスには関係ないし、そんなんで治るわけでもない。
同じように、ギョーカイはずっと「治らない」「生涯変わらない」「生まれつき」「脳の機能障害」と言い続けているのだから、やれることはないと言っているのと一緒ではないでしょうか。


生涯変わることのない生まれつきで脳の機能障害だとしたら、特別支援、医師会のような利益団体のギョーカイなんていらないでしょ。
ギョーカイは治らないと言ってるし、治す意志も能力もないのですから。
だから、レインボーブリッジではなく、東京タワーを青くするのです。
直接、子ども達の生きづらさや課題を解決することはできない。
だけれども、それじゃあ、「何もやっていないじゃないか!」と批判を浴びるから、理解だ、啓発だ、対処療法だ、と言っているだけです。
はっきりいって、これだけ発達障害が身近になった現代に、ギョーカイは必要ありません。
冷蔵庫マザーの時代で、既に役割は終えているのです。
棚ぼた、おこぼれで、高機能ブームに乗じて、息をつないでいるだけ。


冷静に、そして客観的に見て、療育を受けたから、支援を受けたから、良くなった、成長したというのは限りなく怪しいと私は思います。
緊急事態宣言が出る前に、GOTOを止める前に、ピークアウトしていたのと似ています。
つまり、療育を受けようが受けまいが、発達する子は発達する、成長する子は成長します。
特に未発達な状態の子ども達は、その未発達を育てる時間が他の子よりもかかるというだけです。
だから、昨年の4~6月の自粛期間中、全国どこでも、子ども達がググッと伸びた。
この期間、療育や支援、園や学校にも行っていなかったのですから、時間が彼らを育てたのだと思います。


個人がコロナを発症しないためにも、発症してから治癒するためにも、他人ができることはほとんどありません。
同じように、発達の主体は子どもさん本人ですから、他人ができることは限られているのです。
私達周囲の人間ができることは、彼らが発達のヌケ、未発達を育てようとするとき、そのやりきれる時間を保障してあげること、やりきれる環境を整えること。


「我慢の3連休」は、「問題行動は無視」
「新しい生活スタイル」は、「構造化された環境」
「気のゆるみが」は、「周囲の無理解が二次障害」


医師会も、ギョーカイも、専門家というわりには、エビデンスを重視せず、出てくるのは周囲の我慢と精神論のみ。
言うことがないなら出てこなければいいのに、と思うのですが、緊急事態宣言中の札幌から緊急事態宣言中の東京に理由は、彼女と美味しいお寿司を食べるため。
どっちかといえば、彼女に札幌すすきのに来てもらった方が、新鮮なネタが食べられると思うのですが。
やはり銀座が良いのでしょうね、シャンパーニュも飲めるし。


理解という割には、神経発達症という理解は無い。
「強度行動障害への支援」を講義しながら、実際目の前にすると、逃げて隠れてしまう。
一緒に生活したことがないのに、家庭の子育てにダメ出し。


今回も中川会長のおかげで、特別支援、ギョーカイをさらに理解することができました。
あざーす!
ちなみに私はお寿司ではなく、水炊きをいただきましたよ♪




2021年5月12日水曜日

【No.1165】日本は未だに「脳の機能障害」笑笑

IOCの人たちからすれば、日本はオリンピックをしたくないのだろうか、と思うのではないでしょうか。
欧米では日本と2ケタ違う陽性者数で、死者数も圧倒的に多い。
というか、昨年の日本は欧米で見られる超過死亡がないばかりか、むしろ、例年よりも亡くなる人が1万人近く減っている状態です。
一生懸命ワクチンを打っている欧米よりも、まだ少ない陽性者数を推移しているニッポン。
誰がどう見ても、「さざ波」
小学校3年生から図表の読みとりの勉強が始まりますので、これがさざ波に見えない人は算数が苦手な人なのかもしれません。


その「さざ波」ツイートに盛り上がっていたマスコミも、マンボウ中川はスルーのようですね。
マンボウの期間中、発起人となり100人規模のパーティーを開催・参加したことが一番の問題ではなく、医師・専門家としての職責を果たさなかったことが大問題だと私は思います。
本来、「どうすれば、経済活動・私達の健康と感染対策が両立できるか」を専門的な立場から情報提供、提言するかが社会に果たす医療従事者の役目だといえます。
本当にエボラのような怖い感染症だとしたら、100人も集まってパーティーなんかしないはずです。
自分たちも分かっているのです、この新コロの危険性を。
それにも関わらず、一方で国民をバカにしたように上から目線で「自粛」を一年以上も言い続けている。
結局、政治団体であり、自分たちのギョーカイの利益のために動いているのが実態なのでしょう。
日本の医療の信頼を地に落とす決定打の一つになったと思います。


医療に限らず、専門家と言うのは、より良い未来と社会のために働かなければなりません。
年端もいかない子の親御さんに「一生治らない」「生涯、支援を受ける子」などというのは、専門家のすることなのでしょうか。
それこそ、マンボウ中川のように特定のギョーカイ団体の方だけを向いた言動ではないのでしょうか。
そういったどん底に落とすような発言をいまだに繰り返しながら、一方で「親の虐待が重大事件に繋がっている」という研究結果を出したり、子の発達よりも親の精神疾患予防が大事としたりしている。


親になって数年しか経っていない親御さんを突き落とし、手を指し伸ばした先が特別支援のベルトコンベヤーの上。
「どうしたらこの子の課題がクリアされるか?」
「どうしたらこの子がより良く育っていくか?」
それが知りたいのに、ギョーカイは明確な答えを教えてはくれない。
まるで「我慢の3連休」と同じ。
親子の自然な関わり、家族での思い出の時間は、つねに「自粛」と言い渡し、「支援を受けない親はとんでもない親だ。障害受容できていない親はとんでもない親だ」とメッセージを送り続ける。
それに同調する自粛警察のママ友が、そんなギョーカイに手を貸している。
「あそこに、児童デイ、退所した親がいるよ」
「あの子は、支援級から普通級に転籍したらしいよ」
と石を投げ、「どうせ、戻ってくるから」と感染するのを待ちわびるかのような発言をする。


日本という国は、権威と権力が分離している珍しい国です。
だから、「権力を失うと権威も失う」というものに慣れていない。
問題を起こし権力を失う人は知っているけれども、権威は別のところに存在している。
そのため、権威を感じれば、無条件に信じてしまうところがあると思います。
マンボウ中川がどんな人間か、ほとんどの人は知らず、その医師会会長という権威で無条件に正しいことを言っているように感じてしまう。
同じように、特別支援という世界を全く知らない親御さんが、初めて会う発達障害の専門家の前では、強い権威を感じ、無条件に信じてしまう傾向があると思います。
最初から特別支援の世界における専門家、医療の実態を知っていれば、何を言われようともどん底まで落ちないはずです。
多くの親御さん達は無条件で信じていたところに、「一生治らない」などと言われるもんだから、何倍も悲しい思いをするのだと感じます。


ですから事前に、「おや、うちの子、発達に遅れがあるかも」と思ったときに、幅広い情報を得ることが大事ですし、いろんな選択肢、方法、そして先を歩いている子ども達、親御さん達がいることを知ることが大事だと思います。
ギョーカイが流す情報は相変わらず、親子の子育ての自粛です。
その「自粛」の裏には、親と子の分離があり、そして目的は自分たちの支援を利用することになります。
もし、課題を解決する具体的な助言、より良く育つための援助があるのなら、こんなにも発達障害児の自粛は続かないはずです。


欧米では当たり前のように神経発達症が使われているのに、今もなお、「脳の機能障害」に固執し続けている日本のギョーカイ。
欧米からすれば、why?what's?
さざ波のような発達の遅れの状態、ヌケの状態なのに、あたかも大きな波が生じているかのように誇張し言い続けるギョーカイとメディア、そしてギョーカイ脳の人達。
「いやいや、このくらいの凸凹は育ててあげればいいじゃないですか」というのも、「障害特性だ」「治らないんだ」「生涯の支援が必要だ」と脅かし、自分たちの利益を確保しようとしている。
たまに外から「この程度は"未発達"。これで生涯支援、治らない、診断が外れないとかいうと笑笑」というと、ギョーカイ活動家とギョーカイ脳の人たちが騒ぎ出す。


昨晩も医療的ケア児の番組がやっていました。
発達障害は障害全体から見れば、限りなく健常寄りですし、軽度の障害です。
とっとと自粛は止めて、親子の子育て、関わり、家庭生活の中でヌケを育て直し、未発達は丁寧に育てていけばいいのです。
ギョーカイが恐れているのは、支援以外で育ち、自立していく人達の存在が公になること。
そうです、自分たちの不要不急の支援が切り捨てられることが一番怖い。
ワクチンのように、精神科薬で儲けたい人たちがいるのも事実。
ですから、やっぱり一人ひとりが考え、選択し、口先だけではなく実際に行動できることだと思います。
あとはテレビを消すこと、観ないこと。




2021年5月10日月曜日

【No.1164】特別支援の世界におけるインフォデミック

未だに新型コロナを「未知のウィルス」と表現している人がいて、それは「未知じゃなくて、無知だよね」と思います。
もう一年が経っているのですから、しかも世界同時多発的に生じた新型コロナですから、莫大な情報、知見が集積されているはずです。
でも、何故だか、感染経路について明確な情報提供がされていません。
日本国内においても、全国の保健所が聞き取り調査を行い、しかもクラスター班などという組織もあったわけです。
そろそろ感染経路が「飛沫」なのか、「接触」なのか、「空気」なのか、言ってほしいものですね。
もちろん、それぞれの確率がゼロではないと思いますが、2002年のSARSは飛沫と接触、特に排泄物からの感染が中心というところまで明らかにされたのですから、SARS-COV-2というくらい同じ系統の新コロなので、「この確率が高いですよ!」「ここからの感染が中心ですよ」と言ってくれれば、対策もできるわけです。
そうすれば、富岳も唾の計算ばかりさせられなくて済む(笑)


物事を本気で解決しようとすれば、その根っこを掴み、そこにアプローチしなければなりません。
「人流を止める」というのは、別の言い方をすれば、「飛沫か、接触か、空気か、わからないから全部止める」と言っているようなものです。
こんな乱暴な話ありますかね、これが専門家、首長、大臣のやることですかね。
原因分析は行わない、行っていたとしても言わない。
で、「わからない」と言えないから、カラオケ店も、美術館も、飲食店も、百貨店も、全部まとめて止めてしまう。
結局、自分たちの無能さを多くの国民に押しつけているわけです。


察しの良い方は、もうお分かりだと思いますが、これまたいつものように特別支援、ギョーカイの動きとリンクします。
2013年より世界は神経発達症になっているのに、いまだにギョーカイは「脳の機能障害」と言ってはばからない。
「脳の機能障害」は、「人流を止める」と同じですね。
結局、何が根本的な理由、障害となっているか、わかっていないのです。
いくら脳を調べても、共通する病因が見つからない。
だけれども、「脳で生じている問題だよね。たぶん、脳の不具合だよね」ということで、ひとまず「脳の機能障害」と言っている。


でも、世界は脳の不具合というざっくりしたものではなくて、多くの知見の集積から「神経発達の不具合である」というところまできているわけです。
だからこそ、身体に注目し、そこにアプローチしてきた人たちがどんどん良くなっているし、ギョーカイのできない自立ができるようになっているのは当然の結果なのです。
神経発達の不具合だったら、神経が育つようなアプローチを選択すれば良いわけです。
接触感染、それもトイレが危ないぞとわかれば、そこをおさえればうまくいきます。
一方で訳も分からず、「空気かもしれない」と雪が降る中、窓を開け、「飛沫かもしれない」と熱中症と脳障害という健康のリスクを無視して、顔にパンツをつけ続ける。
スーパーに入るときに、手にシュッシュ、スーパーから出るときにも、手にシュッシュ。
あんたの手は、どれだけ汚いのかと思ってしまいます。


あのアクリル板は、誰の発案なのでしょうか。
海外でやっているところがあるのでしょうか。
というか、あんなもんで感染症が減るなんて思うバカはいないし、そもそも何に対して防御しようとしているのでしょうか。
空気は関係ないし、飛沫だって大きな唾以外は空気中を舞うから意味ないし、接触感染でいえば、アクリル板にウィルスが留まるからリスクを高めているといえます。
結局、アクリル板でこの3つを防ごうとすれば、完全に囲んで密閉しなければなりません。
まるで、構造化の衝立のように、エスケープゾーンという牢のように。
たぶん、「なにか対策しています」風に見せるものなのでしょう。
まさに今の特別支援で行われている構造化も一緒。
支援やっています風の構造化。
ちなみにこういった衝立は、「視覚情報を制限する」という表向きの意味だけではなくて、裏の意味としては「あなたはここにいなさい」という場所の限定という意味もある。


特別支援教育、ギョーカイは、「脳の機能障害」と言っている限り、上辺だけの変化しか起こすことはできません。
発達障害の子ども達の根本的な課題、悩みには対処できないのです。
「脳の機能障害」は、脳に不具合が生じてる状態であり、原因ではないのですから。
象徴的なのは、「自閉症だから視覚支援」というやつです。
何も答えていないし、わかってもいない。
「ステイホーム」と同じです。
ただのパフォーマンス。


視覚優位だからというのなら、なぜ、視覚優位の状態になっているのか、その子その子の理由を明らかにする必要があります。
聴覚の未発達が視覚優位につながっているのか。
乳幼児期からの長時間のメディア視聴が視覚優位の脳へと歪ませているのか。
背骨が育っていないために、首から上で情報処理してしまっているのか。
運動発達のヌケが認知的な発達の遅れを生み、結果的に見て理解するしかできていないのか。
その「なぜ」を明らかにするのが専門家の役目であり、真のアセスメントというやつです。
今のギョーカイはアセスメントを行わないから、支援しています風の視覚的構造化に走る。
とにかくアクリル板立ててればイイみたいな。


尾身会長は「人流を止めるために魅力的なところを全部閉める」と言って、3回目の緊急事態宣言の説明をしていました。
もはや科学でも、専門家でもなく、個人的な思い込みです。
そして、どんな効果があったのかわからず、再び延長。
そもそも「人流」というのが科学的ではないので、検証のしようも無いのですが。
これまた「生まれつきの障害」と同じです。
生まれつきとは言うけれども、生まれたときに診断を受けた子はいない。
つまり、これも個人的な思い込み。
どちらかといえば、「そうであってほしい」という願望でしょうか。
ギョーカイのターゲット、お客さんは長期的に預けるという決定権を持っている親御さんなのですから。
支援者の多くは、「親を気持ちよくさせる」ことが支援だと思っている。
支援者がそういった本来の支援とは異なる方に進んでしまうのは、特別支援の世界が非科学的で、かつ権威主義だから。
「人流止めるってバカじゃね」と思っていても、医療従事者からの批判の声はほとんど聞こえてこない。


「原因が分からないから、人流止めちゃえ」という決定の裏に、失われたものが多くあります。
仕事はお金を得るだけではなく、それが生きがいだったり、自己実現だったり、居場所や心身の養生だったり、より良い社会を作るための行動であったり。
実際、どれほどの命、財産、喜び、人としての幸せが失われたことか。
同じように、ギョーカイの非科学的な思想、また自分たちの利益のために、親子の時間、家族の思い出、家庭での育ちが失われていることもあります。


原因がわからないときは、「わかりません」と正々堂々と言う。
もし過ちに気が付いたら、すぐに訂正し、謝罪する。
それが真摯に向き合うこと、専門家ならそれが職責を果たすということだと思います。
「脳の機能障害」も明確な根拠はありませんでした。
だから、「今のところ、"脳の機能障害"と言われています」が正しい表現の仕方だったと言えます。
それが「子育てじゃなくて(親のせいじゃなくて)、脳の問題だから」と強調したいばかりに、もっといえば、親に忖度し続けた結果、引くに引けなくなった。
それが2013年から世界が神経発達症に変わっても、日本のギョーカイだけ「脳の機能障害」から抜け出せない理由です。
煽り続けたマスコミ、専門家が今さら「インフルエンザよりも弱毒性だった」と言えないように。
「マスクも意味がありませんでした」「日本はニューヨークにも、ミラノにもなりませんでした」と前言撤回できないから、あとはインドで煽って、とにかくオリンピックを潰すしかなくなる、オリンピックを潰したあとの日本がどうなろうとも。
インフォデミックは、既に特別支援の世界で起きていましたね。




2021年5月7日金曜日

【No.1163】最後に残るのが、その子の根本的な課題

発達には順序がありますから、ある段階で発達のヌケが生じると、それ以降の発達全般に影響が出るものです。
なので、気持ちとしては「できるだけ始まりのヌケを育てたい」と思うのは当然でしょう。
私自身も、ある程度、発達の流れとどこにヌケがあるかがわかるようになってからは、「できるだけ根っこに近いものを掴み、アプローチしたい」と思ったものです。


しかし子どもさんの場合、こちらが育てたいところをあれこれ促したとしても、やってくれないことが多々あります。
それは自然なことです。
子どもに「やらせる」というのは、教示であり、訓練であり、発達ではありません。
発達とは、外からの促しによって行うものではなく、内側から突き動かされて思わず行ってしまうものだからです。
発達にヌケがある子ども達も、本能の赴くままに、自分がやり残してきた段階に戻っていく。
そこに定型発達の子ども達との違いはありません。
あるのは育て直すための退行を「発達」と見るか、「問題行動」「特性」と見るかの周りの目だけです。


私の支援者としてのスタンスは、「本人の発達を邪魔しない」
ですから、なるべく介入を減らし、本人が育てたいところをそっと後押しする、そんな感じです。
そうやって本人の内側にある発達する力に委ねるような支援をしていたら、この頃、気がついたことがありました。
最後に残るのが、その子の根本的な発達課題。


最初にお会いたときは、あれもこれも発達のヌケがあったお子さんが、時間が経って再びお会いすると、いくつもあった発達のヌケが育ちきっていることがあります。
親御さんはその時々の本人が育てたいところを育ちきれる環境を用意し、発達の後押しを続けていった。
その先に行き着くのが根本的な発達課題。
イメージで言えば、枝葉だった発達のヌケが育ち、幹の部分につきあたる感じです。
ですから、発達援助がうまくいったご家庭は、「あとは〇〇だけになりましたね」ということが多いです。


運動発達のヌケを1つずつ育てていくと、最後に愛着形成の課題が残ることがあります。
その子の場合、生きづらさの根っこが愛着の部分だったわけです。
他のお子さんでは、片足立ち、ハイハイ、寝返りを育て直したあと、背骨の課題が明確になり、そこを最後に育てようとしていました。
また運動や感覚面の発達のヌケを育てきると、家にあった玩具やテレビなどの興味を失い、外で砂遊びを始めた子もいます。
たぶん、このお子さんの本質的な課題は自然の中で遊べなかったことなのでしょう。
それぞれの子どもに、それぞれの根本的な課題がある。
別の言い方をすれば、そこに辿りつけない不完全燃焼さが今の生きづらさとなって表れている。


子どもの発達を見ていると、それぞれの子にはそれぞれのテーマがあるのがわかります。
数ある発達のヌケも、どこから育てるかは一人ひとり異なります。
そしてどこを育てたら、ドカンという全体的な発達が生じるかも、一人ひとりで異なります。
ですから、この発達援助という仕事にはマニュアルを作ることができません。
あるのは、「育てやすいところから育てる」という方針であり、その育てやすいところは、往々にして本人が今、育てようとしているところになります。


この春より普通級に進学した親御さん達は、おもしろいように同じことをおっしゃっていました。
「その都度、子どもが育てたいところを後押ししてきたら、自然と治っていた。最後に残った課題は小学生のうちに育つと思います」
枝葉の発達のヌケと比べて、幹の部分、本人のテーマである発達のヌケ・課題は育ちきるまで時間がかかるように感じます。
今までにも、その課題を持ったまま、小学校に入学していった子ども達がいましたが、みなさん、時間をかけて課題と向き合い、クリアしていきました。
成人した人たちが、最後の課題を社会の中で治していったように、子ども達も学校生活という時間の中で最後の課題をクリアしていけば良いはずです。
普通級の中にも、いろんな課題を持って過ごしている子ども達が大勢いますから。
課題をきれいさっぱりなくしてあげることよりも、自らで向き合い、クリアしていける土台を育てる方が大事かもしれませんね。




福岡出張(5/14~16)は、すべての日程が決まりました。どうもありがとうございました。
沖縄出張(6/18~21)は19日のみ空いておりますので、引き続き、発達相談の受付を行っております。どうぞよろしくお願い致します。


2021年4月28日水曜日

【No.1162】子ども達を守れるのは親御さんしかいない

先週末は出張で東京に行っていましたが、いずれも良い天気で、着ていった長袖が暑いくらいでした。
あんな暑い中、そして気持ちよい日差しの中、マスクするなんてもったいないですね(今回もマスク警察には会いませんでした)。
どこもかしこも人は多く、ジム用のウェアを買いに行った新宿のデパートでは、店員さんが激おこで「明日から休業ですよ、百合子様のせいで(怒)」と言っていて、私がうんうんと頷きながら時々「デパートでクラスター起きてないんだから、無視すればいいんですよ」と慰める始末。
ツンデレ百合子はストレートにモノが言えないもんだから、ちゃんと東京に行き、あちこちを移動して仕事をしながら、いろいろ買い物や食事をしてお金を使ってきましたよ。


1400万人都市の東京で、重症者数が50人前後。
で、どうして医療崩壊するのかがわかりませんが、それにしても大阪の重症者数が多い気がします。
でも、よく考えると、この重症者という定義って東京と大阪は同じなのでしょうか。
調べてみると、①ICUで治療 ②人工呼吸器を使用 ③エクモを使用 のいずれかに該当する場合が厚労省が定めた重症者の定義になっていました。
これをみて思ったのですが、病状が重症度を決めるわけではないんですね。
ということは、新コロの症状が重いからではなく、「高齢者だから」「基礎疾患を持っているから」「まだ空いているから(?)」という現場の判断で、たとえ危険な状態ではなかったとしても、人工呼吸器がつけられていたら重症者にカウントされる場合があるということではないでしょうか。
重症者ベッドは「より多くの加算が税金からつけられている」ということは、今までの日本の医療の流れから言えば、できるだけ埋めたくなる、常に満床にしておきたいような気がします。


「重症者により多くの加算が付く」というのは障害者福祉でも同じです。
国としても、より重く、介護等のニーズが大きい方達を積極的にケアしてほしい、と願うのは当然です。
だから、重い症状、重い介護度の人に、お金の重みをつける。
一方で現場としては、馬鹿正直に重い人ばかりをみるわけではありません。
人権と労働基準法がない福祉の現場で、働く人を集めるのは大変です。
たとえ見つけたとしても、すぐに辞めていくような職場です。
そんな職場で、儲かるからと言って重度の人ばかり受け入れられるわけはないのです。
専門性も、人も、足りないのですから。
だけれども、経営としては「重度の人」が欲しい。
そこでペン先を嘗めるのです。
本当は軽度の人を重度にする。
軽度だけれども、問題行動があればそれをオーバーに表現する。
「二次障害」というワードは、現場の支援者にとっても使い勝手が良いわけです。
施設利用者は、あたかも施設内で問題が大きいような報告をする。
それを親御さんが、または支援者が直接、医師や心理士に伝える。
で、軽度の人が重度に早変わり。


ギョーカイがなぜ、「二次障害」という概念を広めようとするのか。
それは予防的な意味合いから、早い段階で支援に繋げようとする意図と、軽度やそもそも発達が遅れているだけで問題のないような子を、重度や支援対象に移行する可能性を示すことで、いつでも囲い込めるようにしておくためです。
誰にでもくる思春期の揺れを、誰にでもある学校や職場、人間関係での悩みを、二次障害という言葉に置き換えることができる。
その可能性が一つあるだけで、いつでも彼らを「支援対象」にすることもできるし、「重度」にすることもできる。
だからこそ、「二次障害」という言葉を多用し、啓発するのです。
だって、「二次障害」という概念、言葉があっても、当事者の人たちにとってはプラスにはならないでしょ。
当事者の人たちが少しでもラクになる、生活が豊かになる、自立度が上がるための言葉でなければ、それは当事者以外の人が利を得るためのものでしかないのです。


「高齢者だから、(今は必要ないけれども)予防的に人工呼吸器をつけよう」は、「発達に遅れがあるから、(今は必要ないけれども)予防的に療育を受けさせよう」と同じ匂いがします。
仕事でお会いする相談者の年齢が低くなればなるほど、必要性のない療育、支援が横行している気がします。
私から見れば、「ただの遅れでしょ」「いま、ゆっくり育っているだけでしょ」という子ども達が、訳も分からず療育に繋げられ、通わされている。
その療育に通う意図は?と尋ねても、明確な答えが返ってこない。
百歩譲って療育を受けることは良いとしても、ギョーカイの狙いはそこじゃないことを承知しておく必要があると思います。
子ども達が子ども時代、療育を受ける→それが儲けになる、だけではありません。
本当の狙いは、生涯支援が必要な人になること、金の卵を産み続けるメンドリになることです。


一度、診断名をつければ、かたくなに外そうとしないのもそれです。
一度つけれさえすれば、いくら安定していても、もう支援が必要ではない状態に育ったとしても、「思春期」「二次障害」という概念がある限り、いつからでも「支援が必要な人」「重度の症状を持つ人」に変えることができる。
だからこそ、欧米では子ども時代の診断名は(仮)であり、外れる可能性があるといっているのにも関わらず、いまだに日本だけは、というか日本のギョーカイだけは「一度付いた診断名は外れない」としている。
それは当事者のためではなく、自分たちの都合のため。
当事者の人たちにとって、また親御さんたちにとって、「外れる」ことがあるというのは希望になり、発達・成長、子育ての希望と力になります。
だけれども、ギョーカイは必死に否定する。


「人工呼吸器を付けている人が重症者」というのも、「療育や支援を受けている人が障害者」というのに似ていると思います。
必要のない、意図が明確ではない療育、支援を受けている子ども達は山ほどいます。
だけれども、傍から見れば、療育や支援を受けているのだから、障害を持っているのだろう、ということになります。
我が子の発達の遅れがわかった親御さんは、勧められるがままに療育、支援を受ける。
そのときの心境としては、「療育を受ければ症状が良くなる」「自立できる子になる」でしょう。
だけれども、療育の効果がないことに気づくのは、ある程度、受け続けたあとになります。
しかし療育を受けた事実は、診断名が付いた事実は、障害者として認めたという意味になる。
だから就学相談の手紙が届くのです。
そして地域によっては、療育と診断が既成事実になり、特別支援の道へ入れられてしまうことがある。


ギョーカイも「発達障害も発達する」は認めています。
これを認めないと、療育や支援を受ける意味がなくなってしまうからです。
だけれども、一方で「一度付いた診断は外れない」「IQは下がることはあっても上がらない」「治ったのではなく寛解」と真逆なことを言っています。
これはどういうことかといえば、状態が変わることを知ってほしくない、自分たち以外は。
本当にその人が人工呼吸器が必要なのか、コロナの影響で、コロナの症状が重いから人工呼吸器が必要なのか、が一般の人が判断できるようになれば、都合の悪いこともあるでしょう。
同じように症状が変わることが分かれば、症状を良くできない自分たちは責められますし、日常茶飯事に行われている症状の重さの書き換え、ペン先舐めて「今すぐにでも支援が必要な状態」と表現すること、ただの未発達を「自閉症」「発達障害」という診断名にしてしまうことができなくなってしまいます。
その妥当性を突っ込める人がいないから、ギョーカイは自由にやりたい放題ができるのです。
だから診断の権限は渡さないし、症状の重さ、支援の必要性の判定は内輪でやってしまう。


マスメディアは視聴率、購入部数を増やすことが目的です。
真のジャーナリズムとは、こういった一般の人が知らないこと、見えていないことを調べ、報道することだと思います。
本当に重症者病棟の使用率は100%を超えているのか。
どういった人たちが重症者として利用しているのか。
この重症者の定義、運用は適切に行われているのか。
個人が調べるには限界があるので、ジャーナリストが必要なんだと思います。
ジャーナリストが調べた事実をもとに、一人ひとりが考え、行動するのが健全な社会というもの。
いま、ギョーカイ内の歪んだ状態を述べる人は限られているので、また多くの親御さん達が知らずにギョーカイの手の内に入っていってしまっているので、私は見てきた真実を発信し続けていきたいと思います。
子ども達を守れるのは親御さんしかいないので。




2021年4月21日水曜日

【No.1161】一次情報を二次情報へ

私の子ども時代は、毎日アニメ番組がやっていたし、「かとちゃんけんちゃん」や「ものまね王座歌合戦」「スターどっきりマル秘王国」などのバラエティ番組が面白かった。
私と弟がそんなテレビを観て馬鹿笑いしていると、決まって親が「こんなくだらないテレビばっかり観てから」と小言を言っていた。
だから今、実家に帰ると、私は「こんなくだらないテレビばかり観てから」と叱っています(笑)


私があれこれコロナについて指摘すると、「私だって、いろいろ調べて勉強している」と反撃をしてきます。
だけれども、「何で勉強しているの?」と尋ねると、テレビに出てくる専門家の解説を聴いて勉強しているという…。
だから私は決まって「スイッチ押したらタダで見れるもんで、勉強なんかできるもんか」と突っ込むのです。
どうして昭和の大人たちは、テレビがためになる情報をタダで教えてくれると思うのでしょうか。
どうして昭和の大人たちは、NHKはいつも正しいと信じているのでしょうか。
どうして昭和の大人たちは、最後には「みんなも言っている」といい、その内訳は仲の良いお茶友の3人くらいなのでしょうか。
「だって、〇〇さんも、お医者さんがそういっていたって言っていたもん」というけれども、その〇〇さんも同じ朝のワイドショー観てるんだから、結局一緒でしょうよ。


現代社会は無料の情報で溢れています。
そういう私のこのブログも、ラジオ配信も、すべて無料です。
だからテレビと同じように、勉強するものではないと思っています。
あくまで、読んだり、聴いたりしてくださる方たちにとっては考えるきっかけにすぎないのです。
もちろん、私が記す内容は、素晴らしい実践家の方たちから教わったことや文献等から学んだものもあります。
しかし、基本は私の実践と経験です。
できるだけ私の偏見が入らないように、生のまま、感じたままをお伝えしようとは思っていますが、どうしても私の思考が影響を与えてしまいます。


そういった私の思考がにじんでいる情報を、どのように捉え、どこに注目し、なにを活かすか、は受け手の皆さんにかかっています。
同じものを見て、同じように感じられないのが、人間なのです。
だからこそ、受け取った情報を自分の頭で精査し、考えるプロセスが重要になります。
よく「あの子がうまくいったから、うちの子も」という親御さんがいますが、それはとても危険なことです。
あの子とうちの子は、まったく別の人間。
あの子でうまくいったことが、うちの子にとっては毒になることもあるのです。
ですから、「どうしてあの子は、その方法がポジティブに働いたのだろう」と、一呼吸おいて自ら考えることが重要になります。
試行錯誤が上手な親御さんは、発想が豊かな面もありますが、実はちゃんと他人の様子を見て、どこが良いのか、悪いのか、うちの子との共通点は、活かせるところは、という視点で考えている方が多いと感じます。


「我が子のことをちゃんと見ましょう」と訴える支援者は多いし、私もその一人です。
だけれども、それは「我が子だけを見る(他人は見ない)」ではなく、我が子始まりで子育てをしていく、という意味です。
「あの子がうまくいったから、うちの子も」は、他人が始まりになっています。
一方で、「あの子がうまくいったのは、こういった点、理由においてで、それだったらうちの子にもうまくいきそう」と考えるのが、我が子始まりです。
書籍からの情報や専門家の言葉を聴いて、同時に「うちの子は…」と思い浮かんでいるのも、そうです。
常に「我が子」という軸があるからこそ、もっといえば、「私がこの子を育てるんだ」という親御さんの軸がしっかりしているからこそ、冷静に周りのことを見つつ、我が子のことをしっかり見れているのだと思います。


子育てに苦手意識を持つ親御さんが多いのもよくわかります。
だって、与えられた情報をそのまま読み、求められる答えを導き出すのは得意だけれども、一次情報から真実を見つけ、自分の考えや意見を導き出すのは苦手としているから。
なんだか「間違ってはいけない」と考えている人が多い気がします。
その「間違ってはいけない」も、科学的な真実よりも、多数派と違う方向に進んではならない、みたいな。
だから少しでも評判の、ある意味、多数派の療育、支援者に流れていく。
この世の中の多数派は、怖がりで、自分の頭で考えるのが苦手な人達ということは押さえておく必要があります。
「人気の療育機関に通えているから」は、「マスクをしているから大丈夫」というように、まったくもって科学的ではないのです。
「先進地域」「有名支援者」「早期療育」そのすべてを持っていたとしても、みなさん、自立できていないという結果が出ています。


東大の研究グループが行った実験も、密閉された水槽の中にマネキンが向かい合わせに置かれ、20分間も飛沫(コロナ入り)を浴びさせ続けて、「マスクがどのくらい防いだか」を調べています。
そんな話を親にしたら、びっくりしていました。
マスコミは都合の良い部分だけを切り取って流す。
実際、水槽のような密閉空間で、口を開けて向かい合うことがあるだろうか。
フツー、咳しそうになったら、相手の顔とは別の方向を向くだろう。
そのまま、咳を目の前にいる人に浴びせ続けないでしょ、人は。
「そんなことテレビで言っていなかった」というが、言わないのがテレビです。
「東大」「研究」「富岳」と3つのワードでイチコロだから、テレビは自らの姿勢を改めていかないのだと思います。
こんなインチキが、今も続く飲食店いじめにつながっているかと思うと、怒りを通り越して哀しくなります。


コロナ騒動のおかげで、ウィルスについて勉強することにもなりましたし、何よりも情報との向き合い方、日本人の現状、論理的な思考とは、を考えるきっかけになりました。
日本人にとって『不安』とは、科学的な真実を超える。
ということは、より良い子育て、発達援助の条件は、大人が不安に対処できている状態、不安をコントロールできている状態だといえます。
ですから私の仕事では、ギョーカイが不安を煽ることで商売をしているのと正反対の、子どもの可能性や前向きな未来を感じられるような視点とアイディアで頑張っていきたいと思います。
親御さん達も、不安を煽るような情報とは距離を置き、また手にした一次情報から自分の頭で考え活かす二次情報への作り替えを目指していただければ、と思います。
子ども達の未来が少しでも明るいものとなるように。
さあ、子ども達、若者たちは、たくさん空気を吸い、たくさん遊び、たくさん学んでください。
その環境を用意するのが、大人たちの役目です。




2021年4月20日火曜日

【No.1160】自由を守るための発達援助

大阪知事の顔を見たら、急に施設時代を思いだした。
あの目は、24時間寝ないで勤務している人間の目である。
見ているようで見ていない。
現実にいるようで、非現実の世界にいる。
そんな感じがする。
きっと眠れない日が続き、心身が限界に達しているのだろう。
そういった人間は、短期的な判断しかできず、だから今までの方針をガラッと変えたのだ、つい1ヶ月、2ヶ月前はいち早く緊急事態宣言を解除し、誇らしげな顔をしていたのに。
維新というのは、子育て世代と次世代をみた政策が方針だったと思うが、それをぶん投げ、いち早く子ども達から部活動と学校で学び合う権利を奪った。
これはコロナ騒動が終わったあとを考えると、維新の存在意義、政治家生命までをもぶっ壊す判断だったと思う。


スウェーデンは、国民の「移動の自由」「営業の自由」、そして何よりも子ども達の「教育を受ける権利」を守るために、緩和政策をとった国である。
当然、日本とは人口も、経済も、大きな違いがある国で、そのまま比べるわけにはいかないが、他国からとやかく言われようとも、ブレない方針には敬意を表する。
実際、強い強制力を働いた国と比べても、陽性者数は変わらないし、むしろ、少なく収まっているくらいである。
しかも医療崩壊すら起きていない。


こういったスウェーデンの背景には、死生観が強く影響しているといえる。
スウェーデンでは積極的な延命治療は行わない。
だから寝たきりの高齢者もほとんどいない。
自然のまま、それまでの生活、幸せを維持しながら静かに人生の幕を閉じていく。
彼らに言わせれば、管を何本もつなぎ、胃ろうまでして呼吸のみを維持させようとする状態は、虐待に見えるらしい。


今年、青いお祭りは開催されたのだろうか。
今の世の中、自閉症の"じ"の字も出てこない。
真っ先に子ども達の権利や学び、遊びが切り捨てられる日本において、さらにマイノリティーの特別支援の世界はほとんどの人が意識にすら上がってこない。
いま、「自閉症の理解を」と言って、誰が振り向いてくれるだろうか。
結局、この問題は身内が身内のために行っていたのである。
テレビなどのメディアで取り上げられたりすると、「社会全体が考えてくれている」と勝手に勘違いしていただけ。
あくまで一般の人たちからすれば、特別支援に関する問題は、「そうやってマイノリティ、弱者のことも考えられる自分」というファッションの一つなのだ。
飲食業を中心に中小企業をいじめ、自らの不安解消のために、他人の権利や自由を差し出す自分のことしか考えられない大人たちが多数なのだから。


スウェーデンのことを調べていると、先に挙げた管でつながれた高齢者のように、福祉施設そのものが虐待に見えるのではないか、と思う。
欧米と比べれば、さざ波程度の陽性者数で、厳しい面会禁止が行われ、一年以上も家族と会えない期間を過ごしている。
子どもの一年が尊いのと同じように、高齢者の一年も尊い。
「とにかくコロナだけでは死なせてはならない。他の病気ならいいけど」
そんな対応にも私にはみえる。
ご高齢の方たちにとって子どもや孫、友人と過ごすことはどれほど尊く、それ自体が豊かな時間になるのに。
高齢者の幸せと残り少なくなった時間は、名もなき施設職員によっていとも簡単に奪われる。


同じことは障害者施設でもいえるのではないだろうか。
いま、全国にある施設の中で、どれほどの施設が、利用者たちが「移動の自由」「営業の自由」「学ぶ自由」が守られているのだろう。
というか、これはコロナ騒動の前から指摘されていたことである。
彼らは自由に買い物や遊びに出かけることはできない。
移動介護を担当する職員の都合によって決められる。
特別支援学校を卒業した子は、それだけで就職の幅が狭くなる。
ましてや、就労支援を利用しようもんなら、福祉の枠から飛びだすことは難しくなる。
特別支援学級も、支援学校も、教科書すら配られないこともある。
小学校6年間、ずっとひらがなの練習なんてこともざらであり、中学、高校と進めば、「就労のために」といって教科学習の時間は減らされ、作業学習中心になっていく。


そう考えると、特別支援の世界は、ずっと非常事態なのかもしれない。
誰一人、彼らの権利や自由が奪われていることを訴えない。
しかも、保護者すらそれを望んでいるように、また自ら我が子の権利や自由を差し出しているようにも私には見える。
本当は彼らの学ぶ権利を主張すべきなのに、「社会に理解してほしい」、問題があれば「社会の理解」「支援者、先生の力が足りない」と外にのみ原因を見ようとする。
常に悪いのは自分以外の誰か。
まるで「気の弛み」と非科学的な感染理由を主張しているバカなコメンテーターと専門家のよう。
マスク警察は、「あのうちの子、療育やめたんだって」「普通級に転籍したんだって」「どうせ崩れて戻ってくる」と後ろ指さすママ友か。
衝立のみは、先取りアクリル板で良かったかも。


私は依頼があれば、全国どこへでも自由に移動し、仕事をしている。
子ども時代の、とくに神経発達が盛んな時期の時間はとても貴重である。
その時間をより良いものにするために、彼らの発達を守るためにできることを続けていこうと思う。
もし私が雇われの身なら、もし私自身が怖がりだったのなら、役割を果たすことができなかっただろう。
そして何よりも、今のように仕事の依頼は来なかったはずである。
この保身の国で商売をするには、「怖がりではない」ことが優位に働く。
この「怖がりではない」というのは、愛着の土台とリスクを判断できる感覚、そして選択と行動の主体である身体が育っていることが重要である。
これはそのまま発達援助の基本であり、発達障害の人たちがクリアすべき課題でもある。
まさに発達援助は子育てで、子育ては発達援助。


スウェーデンの死生観は、裏を返せば、よりよく主体的に自分の人生を歩むことの決意だといえる。
そのような決意がないから、その場しのぎに明け暮れる。
だから、一つの県が緊急事態宣言を要請すれば、「うちのところも」と自分のところの状況判断をすっ飛ばし他県が追随する。
特別支援も同じように、その場しのぎをしているから、問題の根っこが解決せず、時間と場所が変わってぶり返す。
結局、「今、落ち着くこと」「私が担当している間、問題が起きないこと」それがメインで進んでいるからだろう。


誰も、この子の将来の幸せについて語らない。
堂々と語られるのは悲観的な未来の姿である。
専門家と称される人たちも、こぞって「2週間後の日本はN.Y。3週間後はミラノ」「来月には目を覆うようなことになる」と言うように、「思春期になれば崩れ、二次障害を起こし、生涯支援を必要する」と不安を煽る。
なぜ、視覚支援しているのか、賞罰で行動を変容させているのか、絵に描いた餅で社会性を教えようとしているのか、誰も答えることができない。
だって、一方では自分たちで不安を煽っているから。


発達障害を治すのは目的ではない、治すのは子ども達に主体的に、より良い人生を歩んでほしいからだ。
平気で他人の自由と権利を奪う社会、大人から自分の人生を守るために。




2021年4月16日金曜日

【No.1159】改めて『原始反射』について

2年前くらいからだったと思いますが、産婦人科、小児科、乳幼児健診に関わる本や情報を集め、勉強していました。
たぶん、その勉強の量が一定に達したのでしょう。
今年に入ってからは未診断の子ども達だけではなく、1歳代の子ども達の発達相談が続けてくるようになりました。
個人事業ながらも、事業を起こしてから経営や経営者その人に注目し学び始めると、「適当な人のところに仕事はやってくる」というように感じます。
先ほども、1歳代のお子さんのご家族から依頼がありましたので、これからも当分、続きそうです。


この頃、続いていることと言えば、「原始反射」に関する相談が増えています。
栄養療法が落ちついたように感じていたので、また原始反射のブームがやってきたか、それに関する支援者・療法が生まれたのか、などと思うのでした。


「我が子に原始反射がある、ゆえに原始反射を統合するエクササイズをすれば、今の課題が解決できる」と思うのは自由ですが、あまりにも浅はかな考えだと思います。
それは「自閉症は視覚優位だから視覚支援していればOK」と同質です。
問題の本質が見えていないと言えるでしょう。
もっとも大事なのは、「なぜ、原始反射が残っているか?」です。


原始反射は胎児期から生後1年くらいに出現し、消失するものです。
じゃあ、なぜ、ヒトは原始反射が必要なのかといえば、未成熟で生まれてくる胎児、乳児が生き延びるため。
そもそも大脳、中枢神経が育つまでの、端的に言えば意識して運動ができるようになるまでの反射なのです。
(大脳を介さず)脊髄や脳幹に伝わり、無意識に筋肉などが動きます。


ということは、単にその動きだけに注目し、アプローチしてもダメ。
もちろん、ある程度、大きくなってからは、その動きだけを取り上げ、繰り返し、統合を目指すことは有効だといえますが、特に就学前の子ども達でいえば、そこじゃないし、そもそもその年代の子ども達にエクササイズをさせようというのが、(定型・ヒトの)発達を理解していない証拠。


結局、認知の部分、人間脳の部分が育っていないから、原始反射が残っているのです。
あとは、中枢神経の繋がりが悪くて、認知と運動が途切れてしまっているから別々に運動しちゃっている。
つまり、原始反射のみに注目していても課題は解決できず、やはり全体的な発達を目指すことが中心なのです。
「発達のヌケを育て直す」
「発達の遅れ、未発達を育てる」
発達のヌケが埋まり、人間脳、認知の部分まで育っていけば、意識して身体を動かせるようになるのです。
認知の部分が育っていない子に、いくら統合のエクササイズをしても、それは特定の運動のパターン学習にしかなりません。


「口周辺に何かが当たると、自然とそちらの方を向いてしまう」というのは、そのものが何であるか、を認識できるだけの感覚、脳が育っていないのです。
突然の刺激に身体が勝手にびっくりするのも、予測、周囲の状況判断、適切な刺激の受け取り方が育っていないから。
刺激によって身体がクネクネしちゃうのは、運動発達のヌケ、背骨&背面の未発達。


このように背景にはいろいろなヌケと未発達がありますので、やはり全体的な発達を目指していくことが大事です。
どうしても「〇〇エクササイズ」みたいなのには魅力がありますが、発達って1対1対応にはなっていません。
親御さんはよく「気が付いたら育っていた」「治っていた」「解決していた」とおっしゃいますが、それが自然な発達の姿です。
神経ネットワークというように神経は無数につながっていますので、ある特定の機能、神経をとりだして育てようとするのは無理な話。
特に原始反射を卒業するには、意識のレベルを育てる必要があり、そこに到達するためには原始的な脳の部分、つまり土台から育てていかなければなりませんね。




2021年4月14日水曜日

【No.1158】保身列島ニッポン

道内でもワクチン(?)、新薬(?)の摂取が始まり、高齢者施設での様子が伝えられていました。
摂取したご高齢の方が「これで安心しました」と言っていましたが、その"安心"とは何をもっておっしゃっているのか。
たぶん、2019年まで長い間、mRNAワクチンが認可されなかったという事実も、長期的な効果と副反応についてはまだ明らかになっていないということも知っているわけではなく、ただ施設職員や病院関係者、またマイクを向けてきた人たちから「ああ、よかったね、安心だね、おばあちゃん」と言われたのを素直に受け取り、純粋に「これで安心しました」とコメントしていたのでしょう。


たまたまテレビをつけると、「ワクチンが足りない」と叫んでいるコメンテーターが出ていました。
いつから日本は、「自分さえ良ければそれでいい」というような人間を生むようになったのでしょうか。
どう考えても、欧米に比べればさざ波程度、誤差程度でしかない波と陽性者数なのですから、他国で作ったものを優先して持ってくる必要はないでしょう。
欧米からすれば、また途上国からすれば、「日本よりも我々だろう」と思うはず。
私がこの国の指導者なら、「どうぞお先に使ってください」とワクチンを本当に必要な国に渡します。
それこそ、ワクチン外交ってやつです。


国内の利権争いで勝手に自分たちで医療崩壊を起こそうとしていて、その一方で他国よりも先にとワクチンをもってこようとする。
しかも、その利権争いの中心が、「発熱者はお断り」などと病院の扉に貼る始末。
病気で苦しんでいる人がいるのに、自分がかかったら困るからと患者さんを診ない、なんてことはあり得るのでしょうか。
そんなんだったら「医者を辞めてしまえ」と思うのです。
たとえ自分が病気にかかる危険性があったとしても、患者さんを救おうとするのが医学を志した人間の務めだと思うのです。


学校の一番の目的は、子ども達の学びと成長をサポートすることだと思います。
それがいつの間にか、「子どもの命が大事」とそれらしいことを言い、マスクを強要しているのです。
19歳以下で一人も死者が出ていない病気で、全国2100万人くらいの子ども達、若者たちがもう1年以上も脳神経に悪影響を及ぼす酸欠状態で日に何時間も過ごしている。
神経発達に問題が生じる子ども達は2020年を機に、また増加の一途を辿るでしょう。
それも子ども達の成長を保障すべき学校が後押ししているのです。
「マスクを任意にすると、する子としない子がいて…」が学校の常套句になっています。
これは学校が平等の意味をはき違えている証拠。
平等とは皆が同じ条件、状態になることではなく、それぞれに合った方法を取捨選択できる自由を保障することです。
ただ管理しやすいように、ただクレーマー対策のために、もっといえば、保身のために「一律〇〇」としているだけを「平等」と言ってほしくない。
コロナ騒動を経験し、日本に特別支援教育の理念は根付かないし、実現は不可能だと私は悟りました。


学校同様、子どもの発達を守るべき存在である小児科の医師からぜんぜん声が上がってこないのはどうしてでしょうか。
何度か小児科の組織から声明が出されましたが、そば屋の出前状態で、一向に実物のそばがやってこない。
ただ声明を出すだけではなく、周知徹底できるように啓発しないんでどうするんです。
結局、あんたたちも保身で仕事をやっているのか、と思ってしまいます。


そして日頃、発達障害を専門にしている医師、支援者たち。
この一年間で何をしていたのか。
まったくもって存在感がありませんでした。
やったことといえば、あいも変わらず、決まり切った支援方法のレクチャーと、惰性でやっている青いお祭りくらい。
専門にしているのが「神経発達症」の子ども達なのですから、神経発達の観点からコロナ騒動が及ぼす発達の影響を訴えることができたのに、と思う一方で、やっぱり「神経発達症」と捉えていないから、「自分たちには関係がない」というスタンスなんだと感じます。
手の洗い方の手順書??
家での過ごし方の構造化??
神経発達に注目できない専門家たちに、そもそもが神経発達症の子ども達の課題を解決するアイディアも、知見もなく、期待するだけ無駄だということです。


国民に安心を与えるべきトップが、一年中、不安を煽っています。
専門家は客観的なデータよりも、自己顕示欲にまみれた個人的な意見を述べ、医師は患者を診ることを拒否し、マスコミは切り貼りした情報を垂れ流す。
この日本に、自らの職責を果たそうとする人間、たとえ批判にさらされたとしても真実を伝えようとする人間、我が身よりも世の中全体の幸福のために行動できる人間はいなくなってしまったのでしょうか。


外でマスクをして歩いている高齢者に、「すれ違っただけでうつることはない」というのを伝えてあげる人はいないのか。
あんなペラペラのマスク一枚で得られる安心とはなんだろうか。
そんなものにすがることでしか生きられないほど、この社会の大人たちはだらしないのか、考える力がないのか、と改めて思うのです。


ヒトはいずれ死にます。
長く生きてもたかだか100年くらいなものです。
そうやって700万年の間、ヒトは生まれ死んでいった。
だからこそ、次の世代に何を残すか、少しでもより良いものを渡していけるか、が重要になってくるのだと思います。
自分の仕事を全うするということは、まさに次の世代により良いものを残すための務め。
子ども達はその未来そのものなのですから、発達・成長・命を守るために闘える大人たちがもっと増えなければならないと思います。
そのためには、まず大人たちが学び、考え、行動できるようになる必要がある。
ですから、これからもこの仕事を続けている限り、子ども達のポジティブな変化のための後押しと、特に親御さん一人ひとりが闘っていけるための情報提供を続けていきたいと考えています。




2021年4月4日日曜日

福岡出張について(5月14日~16日)

*すべての訪問予定が決定しました。どうもありがとうございました。

5月14日から3泊4日で福岡に伺うことになりました。


【予定】
5月14日(金)訪問宅決定!
5月15日(土)訪問宅決定! / 訪問宅決定!
5月16日(日)訪問宅決定! / 訪問宅決定!


既にひと家族のお申し込みがありましたので、残りは最大で4家族です。
もしこの機会に発達相談を受けたい方がいらっしゃいましたら、お申し込みください。
先着順で4家族が決まり次第、募集は締め切らせていただきます。
*4月5日15:30現在、3家族の訪問が決定しました。
*4月7日15:00現在、4家族の訪問が決定しました。残りひと家族です。


詳細を確認したい方は【出張相談問い合わせ】と件名に書き、お問い合わせいただければ、ご説明いたします。
出張相談についての内容は、てらっこ塾ホームページをご覧ください。
ご依頼&お問い合わせ先:メールアドレス


どうぞよろしくお願い致します!


2021年4月2日金曜日

【No.1157】開業9年目を迎えて

昨日で丸8年が経ち、今日からは開業9年目に突入します。
開業当初は学生時代、施設職員時代に繋がりがあった方達の依頼が中心で、そこから不登校やひきこもり、大学内での相談など、既存の支援の枠に当てはまらない方達の依頼へと変わりました。
それから4年目を過ぎたあたりから、どんどん低年齢化が進み、幼児さんから小学生の子の相談がググッと増えてきました。
そして今は未診断の子どもさんからの依頼が増えてきています。
たった8年間ではありましたが、このような変化がありました。
この変化は社会のニーズの変化だと思います。


ですから9年目のテーマは、「家庭の子育ての中に、発達援助の視点を!」に決定しました。
診断を受ける前に、「あ、ちょっと発達が遅れてきたかも、遅れてるかも」と親御さんが気づいたときに、力になれるような存在になりたいと思います。
子どもさんが小さいということは、親御さんも親になってまだ数年しか経っていないわけです。
そのような親御さん達に発達援助の視点をお伝えすることで、子育てと子どもの発達・成長をより楽しめるように、そして親御さん自身がその家族の子育てのスタイルを確立していけるように、お手伝いしていきたいと考えています。


ありがたいことに、既に遠方のご家族からも出張相談のご依頼をいただいております。
ただ私もまだ小さい子達がいて共働き世帯なので、新年度の日程を調整している最中です。
日程の調整ができ次第、既に正式な依頼をいただいているご家族には連絡差し上げます。
その後、「〇月〇日から、〇〇地方へ出張します」と皆さまにもブログ等でアナウンスをする予定です。
ちなみに「たとえ私達ひと家族の依頼になったとしてもお願いしたい」とおっしゃってくださっているご家族は、福岡と東京にお住まいの方ですので、こちらには出張するつもりでいます。


先ほど、ラジオ配信のほうでも9年目のテーマと皆さまへの感謝の気持ちを述べさせていただきました。
よろしければ、こちらも聴いてみてください。
ラジオ配信『てらっこ塾 大久保の【発達援助のこころ】』ではお便りも募集しています。
改めまして9年目も、どうぞよろしくお願い申し上げます!


2021年4月2日 てらっこ塾 大久保悠




2021年3月31日水曜日

【No.1156】発達援助の浸透と、見えてきた課題

先日、書いたブログ(【No.1153】定型発達の子ども達は教える前に自然とできている)について、ご質問やご感想を多数いただきました。
「どうして身体の発達が道具の操作に繋がるのか?」
「やっぱり道具の中には、教えたり、練習しないと使えるようにならないものがあるのでは?」
「補助箸って、どうなんですか?」
など、身体と道具の繋がりについての疑問や感想が多かったです。
ご指摘の通り、練習しないと使えない道具というものがあります。
しかし、ここでいう幼児期に使う道具は、身体が育てば自然と操作できるようになるものばかりです。
何故なら、スプーンも、箸も、はさみも、クレヨンも、すべて『手の延長』だからです。
「手があって道具」ではなく、「指の先に道具が繋がっているイメージ」になります。


ヒトは二足歩行ができるようになり、手での操作が可能になりました。
その手が自由自在に使えるようになるためには、まず体幹の育ちがあり、肩→肘→手首→指(小指から親指へ)の育ちが必要です。
二足歩行が可能になったあとから、手での遊びが始まります。
手でいろんなものを触り、掴み、つまみ、肩から指先に向けた育ちを行うのですが、この育ちのプロセスの中で触れるものは、子どもにとってはすべて遊び道具になります、おもちゃも、リモコンも、オムツも、タオルも。
その遊び道具の中にあるのがスプーンであり、箸であり、ハサミであり、クレヨンなのです。


ですから、肩から指先を育てている段階で操作するものは手遊びの延長であり、手を育てる延長、つまり手の延長として道具があるのです。
小学生くらいになれば、指先までの発達は完成するため、以降使用する道具はまさに私達がイメージする道具になり、手と道具の関係になります。
よって道具の形状や複雑さというよりも、子どもの目線に立ったとき、それは指先まで育てるプロセスで使う手の延長としての道具なのか、手が完成した後の「手と道具」の関係なのか、そっちのほうが理解しやすいと思います。
ちなみに補助箸は、「補助がないと使えない手の発達段階」なので、補助箸が使えるようになったからといって一般的な箸が使えるようにはならないですね。
ただ定型発達の子ども達は補助箸を使っている間に、自然と遊びを通して指が育ちますので、結果的に箸が使えるようになります。
「補助箸を使ったから箸が使えるようになった」という大人の自己満足のためには良いかもしれませんね。


また絵に関して、「うちの子、絵を描きたがらない」というご相談もありました。
単純に「絵を描く」といっても、そこにはいろいろな発達状態、心身の状態が関わってきますので、子どもさんの状態を確認しなければ「なぜ、描こうとしないのか」がわかりません。
だけれども、案外、盲点というか、これも大事な発達ではあるのですが、子どもさんに「絵を描かせていないか?」ということがあります。
画用紙とクレヨンを用意し、その前に子どもを座らせたあと、「さあ、描いて」みたいな(笑)
描けって言われて絵を描くのは、年長さんか、小学生です。
つまり、幼児さんは描けと言われても描かないのが普通です。


1歳代の子は、遊び道具としてのペンを持つと、どこでもここでも楽しそうに腕を動かし、なぐり描きをします。
それは目で見て変化を楽しんでいるのです。
自分の意思で変化を生じさせることのできる喜びと楽しさ。
ですから、この発達段階で絵を楽しめないというのは、変化に気づくだけの感覚や認知の面での発達が進んでいないか、周りから「描け」と言われ続けて絵自体が嫌になったか。


そして次の段階、2歳前後の子は、対話としての絵を描きます。
グルグルや点々を描き、お母さんを見る。
お母さんは笑顔になったり、「これは"おにぎり"かな」などとリアクションをする。
そうやって対話、コミュニケーションとしての絵を描くのです。
なので、言葉の遅れ、特にやりとりの段階まで発達が進んでいない子は、上記の「なぐり描き」の段階以前に留まっているので、なかなか絵を描くモチベーションが高まらないのです。


で、次の段階は意味を持った絵を描く段階です。
グルグルっと丸を描いたあと、「これは"お父さん"」と言ったり、「次は"お母さん"を描く」といって丸を描いたりします。
この段階は、言葉の発達、概念の発達が必要になりますので、胎児期から言葉以前の段階までの発達がある程度完成している必要があり、かつそれ以降の認知の面での発達も必要になってきます。
ですから、子どもさんの発達を見る上で、何か形は描けなくても、こういった意味を持った絵を描くようになったかどうか、を大事なポイントとして私は確認するようにしています。


そして上記の発達段階は、だいたい1歳から2歳・3歳になりますが、この時期の子ども、内面の発達的にいうと、この時期特有の社会性の発達があります。
それは同じ目線の子ども、「遊び仲間」としての社会性が育つ時期です。
この時期の子どもは、同じくらいの子どもがいるとすぐにそばにいき、同じような行動をします。
公園に行けば、見ず知らずの子でも関わらず、どんどんそばにいき、その子が滑り台を滑れば自分も滑り、その子が石を拾いだしたら自分も石を拾う。
その子が「ママ」と自分の親のところに行けば、自分の親ではないその子の親のところに一緒に駆け寄っていく。
こういった同じ目線と同調する行動が強い喜び、行動の動機付けになる時期です。


なので、幼児期の子どもさんに「絵を描きなさい」はダメ。
「絵を描きなさい」ではなく、一緒に描く、または同じ目線で、同じ方を向き、共に絵を描く活動の中に身をおくことが必要です。
結構、発達相談でも「耳が痛いです」と言われるのですが、遊ばせている親御さん、遊んでいるのを見ている親御さんがいますね。
上記のように、幼児期のお子さん、特に3歳くらいまでの子ども達は一緒に遊ぶ、一緒に活動することが大事です。
それが彼らの発達段階なので。
しかも、発達障害のお子さんなら、やはり胎児期から2歳くらいまでの間に発達のヌケがありますので、たとえ5歳、6歳、小学生だったとしても、「共に遊ぶ」段階が必要な場合が多々あるのです。
ちょうど2歳、3歳の頃は、発達のヌケ、遅れが大きく、そうやって他人と共に遊ぶことができなかった、他人に興味すらなかった、というお子さんがいますね。
だったら、やっぱりその時期の発達のヌケ、その運動発達をやり直すだけではなく、その時期の子ども達が欲している「共に遊ぶ」もやらなきゃダメです。


「ハイハイ、どうやってますか?」と尋ねれば、「ここの廊下を使って、毎朝3往復させている」なんていうこたえが返ってきます。
でも、それって発達のヌケを"育て"ているのではなく、"トレーニング"になっていませんかね。
トレーニングでは発達のヌケは埋まっていかないと思いますよ。
親御さんから見れば、「発達のヌケを育てている」になるかもしれませんが、子どもさんからすれば、「早く日課のハイハイを終わらそう」というような意欲の伴わないただのルーティンワークになっているかもしれません。
神経発達には自主性と意欲が必須条件です。
拝見すると、「それって"廊下を四つん這いで移動する"練習にしかなっていないですよ」と言ってしまうことが少なくありません。
ハイハイを育て直したいなら、親御さんも一緒にハイハイしなきゃ。


明日から新年度が始まります。
改めて「発達のヌケを育てる」とはどういうことなのか、「神経発達を促す」にはどういうことなのか、を考えてみると良いかもしれません。
今年度も全国各地に訪問させていただきました。
「発達援助」は浸透したけれども、大事なところがヌケているようにも感じましたので、私も意識してその辺りを伝えていきたいと考えております。