2021年10月11日月曜日

【No.1196】本に込めた想い

今朝、ジムで上半身をイジメてきたあと、家に着くタイミングで佐川のお兄さんが大きな段ボールを抱えてやってきました。
お兄さんが軽やかに段ボールを持つ上着の袖から出たその上腕は素晴らしい張りをしていて、羨望の眼差しで見ていると、送り主のところに「花風社」の文字が書かれているのに気がつきました。
今回、新刊の制作に携わらせていただいたため、お世話になった方達にお贈りしようと思い、まとまった数をお願いしていたのです。


午前中は、まだ私が何者でもなかった頃、そしてほとんどの人が起業することを、起業したことを鼻で笑っていた時期に応援してくださった方たちへ感謝の気持ちを込めて、新刊の発送を行っていました。
午前に郵便局から郵送しましたので、明日、明後日にはお手元に届くと思います。
もし水曜日頃までに届かず、「私も散々世話したのに!」という方がいらっしゃいましたらご連絡ください(笑)
即、郵送いたします。


今回、初めて本の制作に携わらせていただいたのですが、1冊の本ができるまでに、これほど多くの方達の力と専門性が注がれているのだと実感することができました。
本をめくりながら、携わってくださった皆さまの顔が思い浮かびます。
本は好きで、子ども時代からたくさん本を読んできた私ですが、何気なく手に取り、読んできた本一つ一つに多くの人が携わり、たくさんの想いが詰まっていることに改めて気づくことができました。
いろんな人が携わり、いろいろな考えや体験を元に出来上がった本ですので、全面的に同意していただく必要はなく、「ここはそう思う」「いや、ここは違う意見だ」「これってどういうことだろう」など、読んでくださる皆さまが主体的に考え、そしてより良い明日に繋がるようなきっかけになれば、と思っております。
本を読んでくださった前と後で、何かが変わるのでしたら、それがその人の幸せに近づけるのなら、私は心から嬉しく思います。


そんなこんなで、新刊の発売と同時に、いろいろなことが動き始めて、急にバタバタと忙しい日々を過ごしていました。
そしてやっとのことで、先週の金曜日の「おかえりモネ」を録画で観ました。
鈴木京香さん、お母さんが家族が集まる中、震災当時の出来事を語る場面は良かったですね。
あれこそ、まさに心の傷を癒していく自然な人間の姿だといえます。


震災当時、いろいろな葛藤や悲しみ、心の傷を負った人は多いと想像します。
そこで政府はカウンセラーの派遣を早々に決め、東北各地に派遣していました。
しかし、これまた今と同じで「やっている感」だけなんです。
想像すればわかります。
震災から間もないときに、目の前にカウンセラーが現れる意味、そしてその人がどのように感じるのか。
ショックがまだ生々しいとき、カウンセラーの一言一言がその瞬間を思い出させてしまうことを。
かさぶたさえできていないのに、その傷に触れようとする感じです。
カウンセリングは追体験の要素があるので、逆効果だと私は考えています。


その人が抱えた心の苦しみ、心の傷を癒していくには、その人が自分自身で向き合えるための時間が必要なのです。
それがモネのお母さんは6年かかった、いや、6年という月日が必要だったわけです。
ああやって自ら家族に打ち明けることができるまできたことが大事であり、それを他人が「早く楽になれ」というのは間違いなのです。
あの場面にいたのは、カウンセラーではなく、家族でした。
あの場にいた家族は、お母さんの内側に合った自らで傷を癒そうとする力を後押しする雰囲気を作っていたのだと思います。
お母さんの中での時間の経過と家族の雰囲気が協応したとき、傷を癒し、また前に進むための一歩を踏み出せることになります。


良い思い出も、悪い出来事も、いろんなものを抱えて生きるのが人間という生き物だといえます。
他の動物なら、悪い出来事は反射で対処し、決して抱えて生きようとはしないものです。
辛い出来事に対しても、それが自分の人生の中に起きた意味を見出そうとし、また前に進むための力に変えることができるのが人間らしさとも言えるのではないでしょうか。
そしてそのような人達が最後のお父さんのセリフのように、「子どもの笑う顔ってのはぁ、やっぱりいい、いいもんだな~」と、次の世代に対する愛へとつながっていく。
10分間、我が子を想ったお母さんと、島の子ども達の笑顔のための塾を作ろうと言ったお父さん。
まさに人間が人間として成長、成熟していく姿、前を向いて生きていく姿が表現されていたと感じました。


今回、新刊の制作に携わった皆さんは、次の世代への愛をもった方達だと私は思っています。
我が子だけ、自分の親族だけ、大切にしている人だけ、ではなく、次の世代、特に今の子ども達、これから生まれてくる子ども達のために、自分たちの持っている力を注ぎたいという方達です。
ですから、今の子ども達の仕打ち、保身まみれの大人たちからの理不尽な対応に、心から怒ることができているのだと思いますし、私もその一人だと思っています。


より良い社会とは、子ども達がよりよく生きることができる社会のことをいうのだと思います。
私が20年間、発達の世界で見てきたこと、感じてきたこと、そして得た知識や情報が、今の子ども達と未来の子ども達のために1つでも役立てる点があるのなら、今回本の制作に携われたことを心から嬉しく思います。
ぜひ、我が子のより良い未来のため、そしてこれから生まれてくる子ども達の明るい未来のために行動できる大人たちを増やしていきましょう。
私も今までと変わらず、コツコツと自分にできることを行っていきます。


まるでその場にいたかのように、私がお伝えした発達相談の場面を描いてくださった小暮画伯さん。
一度見たら忘れないようなイラスト、ロゴを制作してくださった廣木さん。
私と浅見さんがもっとも伝えたかった「親心に自信を持とう!」というメッセージをそのイメージ通りのイラストで表現してくださったおーちゃんさん。
今の実力よりも、未来へのバトンとして私を著者に選び、私が得てきたものを1つの形にして世の中に送りだしてくださった浅見さん。
貴重な知見を教えてくださった花風社の著者の皆さま、全国にいる実践家の皆さま。
本を構成し、印刷し、全国の書店へ流通、送り届けてくださっている皆さま。
そして実際に本を注文し、購入してくださった皆さまに感謝申し上げます。
誠にありがとうございました。
一緒に仕事ができて嬉しかったです。




花風社さんの新刊【医者が教えてくれない発達障害の治り方 1 親心に自信を持とう】の詳細のご確認・ご注文はこちらからできます→ http://kafusha.com/products/detail/55
一般書店では15~18日頃より購入できる予定です。


10月24日(日)13:30~15:00 函館蔦屋書店2階イベントスペースにて出版記念講演会を開催いたします。ご予約不要で入場は無料ですが、先着30名になっております。詳細は函館蔦屋書店HPよりご確認いただけます。


11月6日(土)午後1時よりzoom講演会『コロナ禍のヌケも育て直せる!』で講師を務めさせていただきます。主催は花風社さんです。講演内容やお申し込み方法はこちらをご覧ください。当日リアルタイムで参加できない方は、後日配信も行っております。


2021年10月9日土曜日

『医者が教えてくれない発達障害の治り方 1 親心に自信を持とう!』出版に伴うご案内

【本の出版のご案内】

既に昨日より花風社さんに直接お申し込みいただいた方には本が届いております。
一般書店では10月15日から18日くらいに購入できる予定です。
この本は花風社さんの25周年記念事業の第一弾として出版されました。
本の「まえがき」「あとがき」「目次」はこちらからご覧いただけます。



【出版記念イベントのご案内】

10月24日(日)13:30~15:00 函館蔦屋書店にて出版記念講演会を開催させていただけることになりました。
事前のお申し込み、参加費は必要ありませんが、会場の都合上、先着30名になっております。
1時間ほど、実際のエピソードを交えながら本の紹介をさせて頂き、30分ほど質疑応答の時間をとりたいと考えております。
詳細は函館蔦屋書店さんのHPでもご確認いただけます。



【zoom講演会のご案内】

11月6日(土)13:00より『コロナ禍のヌケも育て直せる!』という講演をさせて頂きます。
主催は花風社さんです。
当日リアルタイムで参加できない方には、後日録画を視聴することも可能です。
お申し込み方法、講演の内容はこちらをご覧ください。
コロナ禍において子ども達の発達には既に影響が出てきているといえますが、本格的な影響が出るのはコロナ後になると感じています。
この1年半の発達相談において気づいたことと、それに対する発達援助のアイディアをご紹介したいと考えております。


2021年10月5日火曜日

【No.1195】ひっくり返して考えてみる

緊急事態宣言が終わり、市内での陽性者もZEROが続いているのに、自主的にマスクをつけている人達がいます。
もちろん、私がマスクをつけない自由があるように、その方達にもマスクをつける自由があるわけです。
だけれども、どうしてマスクをつけようとするのか、どうなったらあの人達はマスクを外すようになるのだろうか、と疑問に思います。
戦時中のように「欲しがりません、勝つまでは」「外しません、ゼロコロナまでは」という具合に必死にコロナが全国からいなくなるまで、はたまた岸田首相が「みなさん、マスクを外しましょう」と言ってくれるまでつけ続けるのかもしれません。


「マスクをつける」という行為は、他者である私から見れば、みなさん、同じように見えます。
そんな人たちと指さして「おかしい奴」とレッテル貼りをするのは、脳みその省エネで、考えることを放棄したのと一緒です。
ですから、「マスクをつける」という行為、つまり結果をひっくり返して考えてみます。


マスク→同調圧力→主体性の未確立(他人軸)→愛着障害
マスク→同調圧力→集団の和から離れることの不安→その人にとっての適応の形態(学校適応、会社適応、社会適応)
マスク→思考停止→心身に余裕がない→生活の苦しさ
マスク→思考停止→心身に余裕がない→考えることの放棄(マスクをつけないことの説明がメンドクサイ、説明を省くため)
マスク→思考停止→本能的な恐怖→感情的なショック(有名人の死、身近な人または自分の体験、テレビからの視覚情報)
マスク→思考停止→自ら考えるという習慣のなさ・とくに自分の考えはない
マスク→お守り→自分自身の健康不安
マスク→飛沫の防止→身近な人の健康不安
マスク→不快を感じない→長年の身体不調に対する慣れ
マスク→経済的な理由→雇用主から求められている
マスク→義務感・正義感→不安のひっくり返し
マスク→ポジティブな感情→小顔に見える、化粧しなくて良い、綺麗に見える


このように他人から見れば、みんな同じようにマスクをつけている人にしか見えませんが、そこに至るまでの過程は様々、背景も様々だということです。


では「マスク」を「感覚過敏」に変えてみましょう。
感覚過敏といっても、どの部位にどのくらいの強さ、または弱さ、まったく感じない、そしていつ頃から顕著になったか、その波は?という具合に、様々な症状の表れ方があります。
当然、その表れ方一つ一つに個人としての理由や生物学的、神経学的な理由も、環境的な理由もあるわけです。
で、しかも「2重マスク」「店内に入るたびに消毒液」「鼻マスク舌打ち」となれば、コロナ脳という診断がつくように(笑)、発達障害の診断は「感覚過敏」「こだわり」「言葉の遅れ」など、どういった症状が目に見えて確認できたか、によって決められていきます。
ですから、同じ診断名になっても、一人ひとりが全然違うというわけです。


一つひとつの症状にバリエーションと複雑な背景がある。
しかも、その症状の背景は問わず、確認できた症状の数で診断が決まる。
そして大問題なのは、その診断名によって「〇〇療法だ」などとアプローチの仕方を決めてしまう支援者、支援機関が多いということです。
「自閉症」→「構造化」、「学習障害」→「タブレット学習」、「多動」→「栄養療法」という具合です。
でも、本来、どういった療法、アプローチが必要か、は結果である診断名からは決められないのです。


診断名というのは、そもそも専門家同士のコミュニケーションのために作られた共通言語であり、利用者からすれば、福祉や教育的なサービスを受けるためのチケットです。
そういった場面においては、「こだわりが頻繁に見られ、言葉が単語で数個レベルで、聴覚過敏があり、知能的には1歳遅れくらいで、ハイハイを飛ばした〇〇くんです」と細かく説明するのは適切ではありません。
しかし、我が子の子育てにおいて、また教育においては、このような細かい症状が必要であり、それぞれの症状の背景を確認していく必要があります。
それができていないのに、子育ても、支援も、療育も、教育もできっこないからです。


たとえば、「口に過敏がある」というのでしたら…
哺乳時の様子はどうだったか?
嚥下や滑舌、舌の動かし方は?
脳幹の育ち全般に遅れがないか?
手の感覚は?指の動かし方は?
皮膚の張り、色はどうか?
水は飲めている?
おしっこの感覚は?量は?
毎日、うんちが出ている?
汗はちゃんとかけているかな?
ずりばいやハイハイ、ちゃんとやり切ったかな?
手づかみ食べは?
表情のバリエーションは?


など、「発達障害」←「感覚過敏」←「口の過敏」ではなく、「口の過敏」→「嚥下の問題」→「首の未発達」→「ハイハイのヌケ」→「脳幹の課題?」という流れになります。


「マスク」の例もそうですし、「口の過敏」の例もそうですが、物事は単純に1対1にはなっていませんし、いろんな理由・背景が複雑に絡み合ってその人の行動として表れているわけです。
なので、私がアセスメントをするときも、「正しく理解することは、捉えることはできない」という意識を持って行っています。
そもそも人間の行動の背景をシンプルに表そうなんて無理な話です。
よって、自分の中のルールとして1つの症状だったとしても、必ず複数のベクトルで確認していく、聴覚過敏だからといってすぐに前庭神経の課題と決めるのではなく、他の可能性、本当に前庭神経に未発達があるのかを別の行動から確認するようにしています。


ただし、単なるアセスメントなら上記のようにクドクドと全部確認し、すべての可能性を書き記せばよいのですが、私が行っているのは発達援助であり、家庭支援サービスです。
つまり、お客様であるご家族やご本人が利用できなければ、意味がない。
いろんな機関で行われたアセスメントシートを拝見させていただくことがありますが、執筆者の自己陶酔のような、読んでいて「で、だから、どうやって育てたら良いの?」という答えがないものが少なくないですよね。
だから、様々な背景の中からより根っこに近いものを、そこから育てれば芋づる式に全体的な発達に繋がっている部分を強調してお伝えしています。
やる気の出ないアセスメントは、報告書はただの紙切れっていう想いです。
是非、皆さまも、我が子を見るとき、担当している子を見るとき、症状からアプローチの仕方を考えるのではなく、症状から背景の向きに考えを巡らせてからアプローチを選択していってほしいと思います。
目に見える症状からは、対処法しか出てきませんので。
対処は育てていることにはなりませんね。


花風社さんの新刊【医者が教えてくれない発達障害の治り方 1 親心に自信を持とう】の詳細・ご予約はこちらからできます→ http://kafusha.com/products/detail/55


11月6日(土)午後1時よりzoom講演会『コロナ禍のヌケも育て直せる!』で講師を務めさせていただきます。主催は花風社さんです。講演内容やお申し込み方法はこちらをご覧ください。当日リアルタイムで参加できない方は、後日配信も行っております。




2021年10月1日金曜日

【No.1194】コロナ禍のヌケも育て直せる!

本日より下半期が始まると同時に、2021年もあと3ヶ月となりました。
函館は今日も20度越えで、明日以降も25度前後になる予想。
例年9月はあちこちで運動会が行われるのに、市内で25万分の10人/1日前後という奇病にもかかわらず、全部運動会は10月に延期。
明日から土日は、延期していた分の運動会が行われるので、お天道様はせめてもと子ども達に温かい空気を届けてくれているようです。
私も明日、朝一で道内日帰り出張で、日曜日は下の子の運動会でライン引きと準備片づけがあるので、一緒に汗をかいてきたいと思っています。


私にとっての緊急事態宣言は、出張先のラストオーダー19:30までに店内に入れるかどうかの影響のみで、この1年半ほとんど生活は変わっていません。
皆さまがご遠慮されている分、私は遠慮なく酸素を頂戴していますし(笑)、行きたいところに行き、ご依頼があれば全国どこにでも伺ってきます。
これだけ普通に生活しているのなら、何度もコロちゃんに暴露しているに決まっています。
しかし、今まで体調が悪くなったことはないですし、ちょっと喉が、咳が、熱っぽいな、となってもだいたいその日のうちか、一晩寝れば治っていますから、まだまだ私の自然免疫のほうがコロちゃんより強いということでしょう。
なので、わざわざお注射をする必要性を感じません、副反応で仕事の依頼に応えられない方が嫌なので、私の接種券は既に回収され、灰になりました(笑)


だからといって、他人がマスクを付けていようとも、接種しようとも、特になんとも思いませんし、自分の考えをもって感染対策や接種をされた方はそれで良いのだと思います。
でもまずいのは、「みんながしているから」「職場の同調圧力が」「医者が言うから」とか言っている人間です。
集団免疫仮説が否定された現在、対策も、接種も、また接種しないという選択も、自分の命を守るために行うものです。
でも、自分の体内こそ、最大のプライベートゾーンなのに、その判断を自分以外に委ねているということは、私から見れば命をないがしろにしている感じがします。
TVやネットに出てくる専門家は、あなたの命や健康の選択を委ねて良い人間なのでしょうか。
そこまで信じて良い人間なのでしょうか。
彼らにとっては、あなたは見ず知らずの他人。
なにがあっても、それは「1」という数字でしか認識できないのです。
まさに、これは発達の世界で見てきた状況。
専門家、医師、支援者にとって、あなたの子はたくさん関わってきた発達障害児の「1」にすぎないのです。


今日の午前、市内を移動していると、校外学習に出かけている子ども達の集団を多く見ました(これも9月分の延期??)。
緊急事態でも、まん延状態でもないフツーの10月1日金曜日の午前です。
その中でマスクを付けている子と、つけていな子がいました。
つけている子はどうしたら外すのでしょうか。
先生に言われたら外す。
先生は校長や教頭に言われたら外す。
校長は教育委員会から言われたら外す。
教育委員会は市長から言われたら外す。
市長は知事から、知事は国から…。
岸田新首相が「さあ、みなさん、マスクを外していいですよ」といえば、みんな外すのですか、御上から言われないと自分から外すという選択ができないのですか。
日本人は自分の頭で考えられないバカばっかりになってしまったのでしょうか。
常時マスクをしていて苦しさを感じなければ、不快感を感じなければ、それは既に問題が進行している証拠です。
子どもがそんな状態なら、既に心身の発達に影響が出ていると言えるでしょう。


とはいえ、私は個人事業主で、雇われの身ではない自由な立場なので、これだけ好き勝手言い、行動できているとも思っています。
ですから、このコロナ騒動があった1年半も変わらず動きまわり、あちこちを見てこれた私なので、そこで見聞き、感じた体験や情報を志を共にする皆さまと共有することは大事な役目だと考えています。
そして今回、情報共有する場を花風社さんの浅見さんに作って頂きました。
11月6日(土)zoomを使っての講演会を行います。


コロナというわけではなく、コロナ騒動という保身まみれで、自分の頭で考えることを放棄した大人たちによって作られた人災が、子ども達の発達に影響を与えたのは事実だといえます。
そしてその影響は、その子がどの発達段階、どの年齢で味わったかによって影響の大きさが変わってくると思いますし、本格的な影響はこれから先の5年、10年後だと思っています。
主催してくださる浅見さんに講演のレジュメをお送りしましたが、私の頭の中はグルグルと考えがまとまらない状態になっています(笑)
11月5日の当日まで情報や考えを更新しながらそのときベストなものをご紹介したいと考えています。


先ほど述べた通り、コロナ騒動は人災であり、一番の被害者は子ども達です。
ですから、被害を与えてしまった私達大人が彼らの育ちをフォローしていくのが当然の義務になります。
私が見聞きしてきたこと、全国にいらっしゃる素晴らしい実践家の方たちから教えていただいたことをベースにお話しできればと思っておりますし、このコロナ騒動の中でも、むしろ普段以上によりよく育ったと感じる子ども達の姿も紹介できればと思います。
みなさま、ご興味ある方は今後のご案内をお待ちください。
どうぞよろしくお願い致します。


花風社さんの新刊【医者が教えてくれない発達障害の治り方 1 親心に自信を持とう】の詳細・ご予約はこちらからできます→ http://kafusha.com/products/detail/55


10月も急遽関東に出張することが決まりました。10月15日(金)の午後でしたら、ひと家族お受けすることが可能です。詳細・お問い合わせはこちら。もしご希望がなければ、久しぶりに寄席に行こうかと思っています(笑)。スワローズのチケットがとれなかったので(涙)




2021年9月17日金曜日

【No.1193】場所が変わってもできるくらいまで育てるのが発達援助

この時期、年長さん達が一通り就学相談を終える時期であり、支援学校の高等部3年生たちが就職実習や卒後の入所施設への体験を終える時期でもあります。
実習のあとは、受け入れ側の支援員さんと学校の先生たち、そして親御さんを交えての反省会があり、そこで決まって言われるのは「〇〇を行う際、指示や手助けが必要だった。入所するためには、〇〇ができないといけない」という指摘になります。


その〇〇というのは、歯磨きや着替え、入浴などの身の回りのことであったり、仕事に関する態度であったりします。
しかし必ずと言っていいほど、「家ではできているんだけれども」「学校ではできているんだけれども」となる。
そしてその原因は、施設側の関わり方、支援の仕方に始まり、最後は特性として「場所が変わるとできなくなる」で結論付けられます。
でも、果たしてそうでしょうか。


ずっと昔から、私が学生時代からずーーーと「場所が変わってできなくなるのは、障害特性だ」と言われてきました。
しかし、場所がかわってもできることはあるわけです。
たとえば、認知症の方のように家から施設に変わった瞬間、全部、なにもかもできなくなったというのならわかりますが、余暇だったり、コミュニケーションの仕方だったり、身の回りのことでもすべてができなくなるわけではないんですね。
ということは、単純に「できる」と評価されていたことが本当はできていなかった、身についていなかっただけでしょ、と思うのです。


今までの経験から、「場所が変わるとできなくなる」は特性でもなんでもなく、支援者側にとって都合の良い落としどころだったんだと私は考えています。
そういった子ども達、大人たちと関わってきて感じるのは、そうやって場所が変わっただけでできなくなる場合のほとんどが、「パターン学習だった」ということ。
なぜ、その行為を行うか、どうなったら適切か、終了かという認識がなく、ただ型だけを覚え、大脳皮質を通すことなく、一連の活動を行っていただけ。
だから、場所が変われば、その「一連」に変化が生じるので、何をすべきかを見失ってしまうのだと思います。


ではなぜ、どこでもここでも、「場所が変わるとできなくなる」と言われ、そういった状況が生まれるのか。
もちろん、その子本人の認知的な面とも関係していて、重い知的障害を持つような子ども達は、大脳皮質の育ち、働きがうまくいかず、結果的にパターン学習が主になってしまう場合もあります。
しかし、大部分の子ども達、発達障害の子ども達は、発達がゆっくりだったり、ヌケがあったりするだけで、大脳皮質がどうとかいう話ではありません。
となると、やはり周囲の教え方の問題で、もっといえば、アセスメントを間違えているからだと思います。


いくら高校生とはいえ、発達年齢で言えば、5歳、6歳の若者に対して、「上手に歯を磨いて歯垢をとろう」とか、「もう少し計画を立てて宿題をやれ」とか、「友達と協力して作業を行うときには、助け合いがどう」とか、言っても無理。
たとえ、教わったことを、言われた言葉を理解できたとしても、その背景にある理由がわからなかったり、実感として掴めるだけの身体、感覚、脳機能が育っていなかったりすれば、どう頑張って言われた通りそのままパターンで動くしかなくなります。
実習後、相手先からダメ出しされた先生が、「よーし、もっと教え方を工夫しよう」と意気込む様子がありますが、そんなことしてもただのパターンが増えていくだけ。
つまり、教え方を変えるんではなく、その行為ができるだけの発達段階まで育てなければ永遠に解決しないのです。


「学校ではちゃんとできています」という先生は、ある意味、指導がうまいんだと思います。
学校内で適応しちゃうだけのパターンをいくつも教え込むことができているから。
しかし、そういう子は本当の意味での理解、習得ができていないため、卒業後苦労するのです。
卒業後、施設等で、「学校からの資料では"できる"になっているけれども、全然できないんじゃん」と言われる若者を多く見てきました。
そうすると、私は結局、先生の自己満足じゃんとも思うのです。


先生と言う職業は教えるのが仕事ですから、どうしても教え方にこだわる傾向が強くあります。
問題行動があれば、正しい行動を教えようとし、対人面で幼ければ、どうやって他人と関わっていけば良いかを教えようとする。
問題行動の解決も、コミュニケーションも、社会性も、自立に向けた身の回りのことも、すべてちゃんと教えればできるようになる、と思っているふしがある。
でも、発達援助ってそういうことではありませんね。


私はアセスメントする際、目の前にいる人が実際の発達年齢の姿で見えることがあります。
たとえば、目の前に小学校1年生の男の子がいるんだけれども、よちよち歩きをしているくらいの1歳半の子に見えます。
ちなみに親御さんで発達や愛着でヌケを抱えている人は、「お母さん、8歳くらいの女の子に見えますね」ということもあります。
まあ、オカルト的な話というよりも、私は定型発達を基準にアセスメントをしているという紹介です。
アセスメントするときは常に「認知の面では年少さんくらいで、コミュニケーションは2歳くらい、社会性は3歳くらいで、愛着は年相応」といった具合に、それぞれ定型発達で言えば、どのくらいの子と同じか、といった視点で行っています。
ですから、発達年齢に応じた教え方が分かり、一方で「それを現段階で求めては無理」というのも分かります。


そうやって発達年齢に応じた教え方ができれば、パターン学習は生じないですし、そもそもが発達年齢を実年齢に近づけていくにはどういった刺激、子育てが必要かというのが発達援助になります。
発達援助というのは、スペシャルな教え方でも、身体からアプローチするという意味でもありません。
発達援助とは、特に凸凹がある発達障害の子ども達に対して、どうすれば凹の部分の発達を後押しできるかと考え、後押しすることであります。
教え方を工夫するよりも、自らの身体、感覚、脳で自然と理解できる状態、感覚的に掴める状態まで発達を後押ししようという感じです。
箸の持ち方を工夫して教えるよりも、箸が自然と持てる指を育てよう、みたいな。
自然と箸が持てるようになる指が育てば、割り箸だろうが、プラスチックの箸だろうが、場所が変わろうとも関係ないですもんね。


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2021年9月15日水曜日

【No.1192】表現活動と神経発達

花風社さんの浅見さんが「表現活動によって資質が開花していく」ことについてお話ししてくださっています。
言葉のプロフェッショナルである浅見さんの文章を拝読すると、私も改めて気づかされ、考えることがありましたので、みなさんと共有したいと思います。


自閉っ子の表現活動に注目したのは、私が学生時代です。
支援学校にいたある子が、「素晴らしい絵を描く」と評判だったことがありました。
私も拝見しましたが、確かに上手な絵を描く子でした。
ちょうどその頃は高機能ブームがあり、ギフテッドなどが支援者間、一部の親御さんの間で盛り上がっていた時期でもあります。
ですから、教員も、支援者も、「将来は絵を仕事に」などといって、学校の行事や地域の催しもの、刊行物の挿絵などに絵を発表し続けていました。
親御さんも、小さいときから絵が好きで描いてきた我が子が、その絵をみんなから認められて嬉しかったようです。


しかし、本人はどうだったでしょうか。
もちろん、本人の心情は本人しかわからないので、客観的な事実を述べます。
その若者は、学校を卒業後、一切絵を描かなくなりましたし、絵に関係する仕事にも就いていません。


私はこの子の絵を拝見したとき、現実の世界を描いているようで空想の世界を描いているのがわかりました。
その空想の源流は本人の頭の中にあり、そこには誰も邪魔されない「自由」があったんだと思います。
この子は現実世界で感じていた不自由、そして自分のイメージと実際にできることのギャップに苦しんでいるような感じがありましたので、絵というツールを通して自由になっていたのでしょう。
それが周囲から「あれ描け」「これ描け」「次の〇〇に載せるから」と求められるようになり、本人にとって絵が自由から不自由なものへ、心地良さが感じられないものへと変わっていったんだと思います。


では、ヒトはいつから表現活動をするのでしょうか。
二足歩行が完成したのち、つまり、手が自由になったあと、だいたい1歳半くらいからクレヨンなどを持つと、手を動かし、何かを描こうとします。
もちろん、最初は点だったり、線だったり、何か形を描くことはありませんが、それでも自分の手が生みだしたものを見て喜び、何度も繰り返します。
これは学習や文化というよりも、本能的な活動だといえます。
ヒトは何かを生みだし、自分の内側を表現したい動物なんだと思います。


表現活動が本能だとしたら、それもまた人間脳より深い部分であり、2歳以前の発達だと言えます。
ですから、私は特にノンバーバルな子、言葉で表現するのが十分ではない子に対して、表現活動を提案することが多くあります。
それは絵や工作だけではなく、音楽でも、ダンスでも、作文でも、良いのです。
ただその提案をする際、本人の資質とご両親、また祖父母の資質を参考にしています。
音楽が好きな親御さんの子は、音楽系が良いでしょう。
親御さんが楽しめるということは一緒に楽しむことができ、続けられるし、資質として引き継いだ可能性がある。
さらに、その子を見て、手を動かしたい子なら打楽器系を、全身を動かしたい子はダンス系を、聴くのが好きな子なら自分の好きな曲をアレンジしたり、好きな曲を選び、オリジナルのアルバムを作ったり、批評したりすることを提案していきます。
ちなみに私は母方が代々ずっと海のそばで生活してきた人で、父方が代々山の中で農家を行ってきた人。
ですから、土をいじり形を生みだすことが好きで、そこに必ず水を引いていたのは、何らかの資質か、受け継いだ心地良さがあったのでしょう。
そういえば、母は若いときからずっと陶芸を趣味で行っていましたね。


つまり、表現活動という本能に資質がにじんでいく感じです。
本能というのは快の感情に直結した活動だといえます。
快とは心地良さに言い換えられ、その心地良さを感じているとき、私達はドーパミンが放出されます。
で、そのドーパミンが放出される前に行っている活動の神経回路が強化される。


単に表現活動を行うだけではなく、そこにその人の資質が入っているとき、ようするに自分の資質に合った表現活動をしているとき、豊かな神経発達が生じるのだと思います。
ですから、音楽好きのご家族が一緒に演奏をするようになったあと、お子さんの学力が伸びたり、身体を動かすのが好きなご家族が一緒に運動をするようになったあと、お子さんのコミュニケーションが発達したり、食べるのが好きなご家族が一緒に料理をするようになったあと、社会性の面でググッと伸びたりしたのでしょう。
あるご家庭は、おじいちゃんが陶芸が趣味で、お子さんも一緒に陶芸遊びをしたら、集中力が付いたということもありました。
あと、運動は表現活動に思えないかもしれませんが、自分の身体を使って「動き」という表現をしているように見えることがありますね。


ノンバーバルな子、言葉に遅れがある子、場面緘黙がある子にとって表現活動は、心の解放に繋がるので、心身の安定に重要だと思います。
そして発達障害の子どもだけではなく、すべての子ども達にとって、いや大人たちにとっても、資質に合った表現活動、創作活動は、本能+資質で心地良さと繋がり(ドーパミンの放出)、神経発達を促すことになるのだと私は考えています。
「よく遊ぶ子は、よく育つ子」と言われるのは、子どもの遊びの中にその子にとっての表現活動が入っているからでしょう。
また子どもの「名もなき遊び」の中にも、同様の『本能+資質=心地良さ→神経発達』という流れが生じていると私は連想するのです。


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2021年9月9日木曜日

【No.1191】不安で促す専門家ではなく、希望で行動を後押しする発達援助者でありたい

下の子が通う保育園は、昨年から一度たりとも子どものマスク着用は求められていません(しかも子どもは誰一人していません)。
今朝も送りに行くと、秋晴れの中、園庭で遊ぶ子ども達は元気よく声を出し走り回っています。
子どもが風邪などの病気になるのは当たり前。
何よりも遊びと食事で生きていくための土台を築いていく方が大事。
そんな考えのもと、園の先生たちは素晴らしい保育をされています。


一方で上の子は公立に通う小学生。
定期的に「子どもを感染から守るため」「子どもの命を守るため」というもっともらしいことを言いながら保身まみれのプリント、要望をしてきます。
子どもの命を守るというのなら、下の子が通う保育園のように自然に免疫訓練をし、また貴重な子ども同士の学び合い、遊びを尊重してたくましい人間を育てていく方がよっぽど子どもの命、100年時代を生きる子ども達の健康と人生を大切にしていると思います。
現在の日本の状況は保身まみれの政治家、専門家と、それに従う自らの頭で考えられない大人たちが招いている人災です。
その本質がわからず、また子ども達に考えることを放棄させるような学校教育がなされいるのです。
我が子には自分の頭で考え、判断することが大事だと伝えていますので、決して「先生がいったから」「お父さんが言ったから」というだけでは行動してはならないと言っていますので、適宜マスク等を外し今の生活を送っているようです。
とにかく北海道の子ども達の学力が低い理由がよくわかります。
保身まみれのバカ教育委員会、学校ばかりなのですから。


近頃では相談メール、発達相談の依頼の際、「新刊、注文しました」とおっしゃってくれる人が多くなりました(誠にありがとうございます!)。
このような親御さん達は新刊を読んでくださったあと、実際の発達相談を受けられる流れになりますので、私が伝えたいこと、また発達援助、子どもの発達状態を見抜く視点をより深く理解できると思います。
もちろん、過去に私の発達相談を受けた方にとっては、発達相談+報告書+新刊となりますので、我が子の発達・成長の意味を理解し、更なるアイディアに繋がるきっかけになると思います。


浅見さんとの対談、新刊制作の過程の中でお話しさせていただいたことでもありますが、この仕事の始まりは、学生時代にふと思った疑問です。
どうして同じ子を育てる親なのに、障害を持っている子の親はこんなにも子育てを楽しめないのだろうか、自由に子育てを行えないのだろうか、普通の子育ては否定されないといけないのだろうか、という疑問です。
それからキャリアを重ねていく中で見えてきたのは、専門家、支援者という人達が親御さんに対して不安を使ったコントロールをしている姿になります。


目に見える障害ではない発達障害です。
ですから、単なる個性、発達途上と思える分、発達の遅れや障害を指摘されたときの親御さんの心境を大きく揺れ動くのだと思います。
そういった状況の中、年端もいかない子どもと、親になって数年しか経っていない親御さんを前に、「風邪のようには治らない」「一生支援が必要な子」「すぐに療育を始めないと、後々大変になる」など、さらに不安を煽るような言葉を投げつける専門家。
どうして支援を使いながらうまく育っていく子、発達障害かと思ったけれども、診断が外れるくらい発達成長し普通に育っている子の話はしないのでしょうか。
専門家というのは、親御さんに考えてもらう情報を提供するまでが仕事だと思うのです。
どちらか一方の意見や情報だけを用いて誘導するのは、しかも不安を煽って誘導するのは、専門家とはいえません。
できるだけポジティブな方向へと向かうような手立てを行うのが専門家の役割で、みなを不幸にするのは違います。


診断で将来の不安、幼児期は就学洗濯の不安、就学後は思春期の不安、思春期は進路の不安、卒業後は親なき後の不安。
こうしてみると、ずっと不安を煽られて子育てをしなければならないのが親御さん達を取り巻く状況だといえます。
ですから、私はそんな親御さんの不安を少しでも解消できるような仕事がしたいと思い、今の仕事を行っています。
私の発達相談を受けたあとのお話として、「この子の発達障害がわかって、初めて前向きな気持ちになれました」とおっしゃる親御さんは少なくありません。


私は不安ばかり煽るギョーカイだからこそ、敢えてポジティブな話をしているつもりはありません。
ただ神経発達の知識とこれまでの経験の中から今の課題を見つけ、どうしたら発達を後押しできるか、どのような刺激が発達に繋がるかを客観的にお伝えしているだけです。
私の感覚で言えば、当たり前のことを当たり前に伝えているだけ。
なので、いまだにギョーカイはヒトの発達を知らずに「発達支援」と言っているのか、親御さんの不安に付け込み、支援の利用、継続を狙っているのか。


親御さんにとっては「やりようがある」というのが希望になると思います。
しかしギョーカイは「やりようがない」ゆえに「支援を受けましょう」という論理で誘導しています。
本当にやりようがないのか。
親が課題をクリアしようとするのは、我が子の発達を望むのは親御さんが障害受容していないからなのか。
それは一方からみた視点であり、意見です。


コロナに関する情報も、「これはデマだ」「あれはデマ本だ」「あいつはトンデモだ」などとあらゆる人達がレッテル貼りをしています。
でも、100年後の未来から見たら、今デマと言われていることが正しかったり、今正しいと言われていることが間違っていたりするのではないでしょうか。
少なからず科学と言うものは、そうやって正しいと考えられていたものが否定され発展してきたし、これからも発展していくと思います。
なので、一人ひとりが今、ベストだと思う選択を考え、行動していくことが大事。


そのためには、やはり不安で行動を促すよりも、希望で自らの意思で動くようにしていくことが良いと思います。
私の仕事は、親御さんが子育ての中で、自分たちでできることを伝えていくこと。
それが親御さんの希望になり、そして前向きな子育てのエネルギーとなれば、これ以上嬉しいことはありません。
そんな気持ちを込めて本づくりに携わってきましたので、新刊を楽しみにお待ちいただければと思います。
明日からは東海地方への不要不急の出張なので、新刊同様、お会いする皆さま、どうぞよろしくお願い致します。


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2021年9月6日月曜日

【No.1190】どっちに転んでも

例年、インフルエンザワクチンは流行期の前に、今年度流行すると思われる型を生産、秋から冬にかけて5,000万人ほど接種しています。
当然、流行する型が外れることもあり、ブレークスルー感染とは言われず、普通に罹る人がいます。
でもその場合、違った型をもう一度、接種してきたでしょうか。
A型を接種したけれども、B型が流行し、インフルエンザに罹った。
「だから、A型のワクチンを3回目打とう」とはしてこなかった。
いま、デルタ株が中心なのに、武漢株で作ったワクチンを3回打つ話が出ていて、イスラエルは既に3回目を接種してしまった。
そして新規感染者数が急激に増加している。
デルタ型のワクチン製造は始まっているようなので、在庫処分なんてことはないでしょうが…。


遺伝子ワクチンを接種した人も感染しています。
ですから「感染を防ぐ」とはいえないでしょう。
そうなれば、もう一つの理由、「重症化を防ぐ」はどうでしょうか。
確かにデルタ株が中心になって、重症化率は下がっています。
しかし、それはデルタ株自体の弱毒性の可能性も否定できません。
またワクチンを接種した高齢者が重症化しなくなったから、「重症化率が下がったんだ」ともいえますが、相変わらず重症者の中心は60代以上で、亡くなっている人も70代以降です。
ワクチンを接種し、無症状、軽症、中等症だった人は、ワクチンを接種したから重症にならなかったのか、そもそも罹っても中等症以下だったのかは、誰にも分かりません。
とにかく未接種の若者たち、20代以下は重症者ゼロ、死亡者ゼロ。
そして多くの人がワクチンを2回以上接種したイスラエルで死亡者が一定数出ていることからも、必ずしも「重症化を防ぐ」とは言い切れませんね。


ではいつものように、特別支援の世界に置き替えてみましょう。
私のところに来る親御さんの中には、早期から診断を受け、早期から療育に通っている方達が多くいらっしゃいます。
そして私に相談するのですから、結果が芳しくないわけです。
そうすると決まって親御さんはこう言います。
「専門家が言うように療育や支援を受けてきたのに、良くならないというのは、それだけ我が子が重いんだと思っていました」と。


そりゃそうです。
年端もいかない、そして親御さんだって親になって数年しか経っていない段階で、療育を受けようとするのは、専門家の言った「療育を受けると予後が良くなる」と話を信じたからです。
最初から良くならないものを受けようとはしません。
だから、一生懸命早期から療育を受け、やれることはやったのに我が子にポジティブな変化が起きなければ、「我が子は重いから」という考えになってしまいます。
しかし、本当にそうでしょうか。


「うちの子、重いんです」と言われる親御さんは少なくありません。
理由を尋ねれば、その地域で最も評判の良い専門施設で、専門家の人の指導のもとで何年も療育を受けてきたから、と言われます。
でも、神経発達が最も盛んな時期を過ごす幼児期の子ども達で、1年以上通って変化がなければ、その専門家、または施設が下手くそなだけです。
というか、「1年間も支援、療育していて、子どもさんの発達を促せない方が奇跡です」と私は言います(笑)
子どもの発達を止める、留めておけるなんて、なかなかできるもんじゃありません。


同じように小学生、中学生、高校年代くらいの若者の親御さんに対しても、「療育・支援を受けたから、この状態で収まっている」という誤解を与える支援者達がいます。
二次障害が起きなかった家庭に対しては、「早期から支援を受けていたから、荒れずに済んだ」と言い、二次障害や問題行動が生じた家庭に対しては「早期から支援を受けていたから、このくらいで済んでいる。もっとひどい子は他にいますよ」と言う。
ちょっとうまくいけば、成長が見られれば、「療育・支援のおかげ」
うまくいかなくても、「療育・支援のおかげで、この状態で収まっている」
そして、どうもこうも言えないくらい悪い状態だと、「お母さん、これだけ頑張ってきたんだから、この子は多くの困難を持っている子に違いない」と言う。
どう転んでも、「療育・支援は最高!」「受けるのは正しい」という結論は一緒なんですね。


ワクチンを接種して感染したら、「これくらいの症状で済んだのは、接種してたからだよ」となる。
感染しなかったら「ほら、接種したから」となり、重症化したら「そもそも基礎疾患が、本人の状態が」と本人のせいになる。
そしてワクチンを接種しない人は、感染せず健康に過ごしても「たまたま」「運が良かった」となって、感染すれば「ほら、みたことか」となる。
療育を受けずに治っていった家庭は、「たまたま」「そもそも軽かった」と言われ、少しでも状態が悪くなれば、「ほら、みたことか」となる。
全部、論法は一緒でしょ。


つまり、療育を受けるというのは、「みんなが打つから私も打つ」と同じ。
普通、子ども時代、こんなに発達成長が著しい時期に、何年間も同じ専門家、専門施設を頼ること自体、私には意味が分かりません。
療育というのは、子育ての何でも屋ではないでしょう。
それぞれ特長があり、得られる刺激は限られています。
得られる刺激が決まっているのだから、子どもの成長と共に求める刺激は変わり、それに応じて利用する場所も変わっていくはずです。
同じ刺激を受け続けても、それで成長する部分が完了すれば、あとは慣れとパターン化しか残っていません。


「二次障害ガー」「思春期ガー」というのは、20年以上前から言われていた古典的なキャッチコピーです。
そもそも子ども達は、一人ひとりの人生は、二次障害にならないことが目的ではないのです。
一人ひとりが自立に向けて、子ども時代をより良く発達、成長していけるように後押しするのが大人の役目であり、専門家と呼ばれる人間たちの役割です。
町医者が「発熱者お断り」と言うように、専門家も「二次障害お断り」と言っているだけ。
コロナは診たくない=問題行動がある子は見たくない。
PCRと注射はやりたい=軽度の子ども達は見たい。
楽して儲けたいのは、医者も、支援者も同じです。
本来なら、「たとえ、コロナに罹ったとしても私達が診て治すから、安心して生活を送ってください」というのが医者でしょ。
本来なら、「たとえ、二次障害、問題行動が起きたとしても私達が援助し治すから、安心して子育てを行ってください」というのが支援者でしょ。


私は、発達障害における特別支援、療育などは全部無くなった方が良いと考えています。
子ども達が伸びやかに遊び、主体的に自分に必要な発達刺激を求め、育っていく姿が自然だと思うのです。
私は子育ての中で、地域社会の中で、子ども達がそれぞれのペースで育ち、治っていくのが本来の姿で、目指していく形だと思っています。
支援というのは、あくまで本人に必要性が生まれたときに出ていくものです。
今のようにシステム化されてしまってはいけませんし、それぞれの家族、子どもの人生に侵略してはならないのです。


「接種しないのが非国民」
「療育を受けないのが理解のない親」
「ただの風邪はトンデモ」
「発達障害が治るのはトンデモ」
これは一方的な考え方であり、行き過ぎると洗脳になります。
それに立ち向かうには、一人ひとりが自分で感じ、選択して行動すること。
いくら身体アプローチをしても、いくら栄養療法を行っても、いくら素晴らしい専門家のところに行っても、自分自身で咀嚼し考えることができない人は治っていかない。
そして治っていかないのは、そういったアプローチや専門家がトンデモなのではなく、別のところに答えがあるわけではなく、受け身の姿勢に根本的な課題があるのです。
コロナ騒動は、世界中、平等に考える機会を与えてくれたと思っています。
コロナ後の世界は始まっている。


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2021年9月3日金曜日

【No.1189】「どんな遊び・運動?」から「どんな動きが必要か?」「どんな刺激が必要か?」へ

昨日のブログでもチラッと書きましたが、現代社会で求められる活動の多くは、狩猟生活をしていた頃に発達させた脳を代用しています。
数学脳があるわけでも、社会脳があるわけでも、プログラミング脳があるわけでもありません。
「身体があって文化が生まれる」です。
人類の歴史、700万年のほとんどは自然の中で狩猟生活をしながら生活していたわけで、狩猟生活で発達させ、使っていた脳を汎用させ、現在社会を生き抜いているのです。


発達相談において、「どのような遊び・運動をしたらよいですか?」というご質問が多くなった気がします。
これは様々な方達が、「発達障害は身体から治っていく」という姿を示してきた成果だと感じています。
私も先輩たちから学び、身体からのアプローチを中心にお伝えしていますので、こういったご質問を多くいただくのでしょう。
長らく「支援」の時代が続いていましたので、やっと「身体」がベースに、「身体」から始められるようになったことを嬉しく思っています。


しかし一方で、その先を目指さなければならないとも思います。
「どのような遊び・運動を?」というのは、まだ本質的な部分に気づかれていない状態だといえます。
確かに子どもさんのアセスメントを間違わなければ、発達に繋がる遊びや運動はあるものです。
ただまだそれだと「治る」「治っていく」までは進まない気がします。
身体からのアプローチは、特定の手段、療法ではないのですから。
栄養アプローチがうまくいっていないのは、「食べるからのアプローチ」という本質的な意味をはき違えているから、に似ていると思います。


神経発達に遅れがある子ども達、といいますか、神経発達が盛んなどの子ども達も食事は大事です。
でもだからといって、どの子もサプリを飲めばよいのか、そもそも栄養とは栄養素のことだけなのか、を考える必要があると感じています。
食事とは単なる栄養素を吸収するための行為ではありません。
特に子ども達にとっては、噛む力、飲みこむ力、舌の動き、嗅覚・味覚、消化吸収の内臓機能、手の動き、目と手の協応を育てるのも、食事において行っています。
また食べ物を取りこむ行為を通して、唾液を分泌させ、認識力や防御システムを育ててもいるのです。


当然、噛む、飲みこむ、消化吸収する、も運動です。
ですから身体からのアプローチでは、こういった運動にも注目し、発達機会の保障と発達の後押しが必要です。
時折、栄養療法と身体アプローチという具合に区別して捉えているのでは、と思う親御さん、支援者とお会いします。
でも、本来、栄養も、運動も、身体からのアプローチの一つで別々に存在しているものではありません。
身体からのアプローチなのですから、食事も、排泄も、遊びも、運動も、すべてが入ります。


子どもの神経、脳はまだ未分化な状態なのですから、大人とは違い部分的な発達は適さないのです。
イメージで言えば、噛むことを一生懸命行ったら、感覚が育ち、認知が育ち、運動機能が育ち、手のコントロールがうまくいき、目の合わられるようになり、排便が整い、よく寝られるようになる、感じです。
つまり、発達はあらゆるところと繋がっていますし、あらゆる神経と繋げようとする時期が子ども時代なのですから、まさに芋づる式で発達し、治っていくのです。
よって、〇〇療法というように細分化が進んでいくと、子どもの神経発達の特徴とはズレが生じ、結果的に発達ではなく、パターン学習になってしまうのです。


私が身体アプローチを中心に学び、発達援助の核にしているのは、ヒトの発達に即した考え方だからです。
画期的な療法と言われたTEACCHプログラムだって、高々誕生して50年くらいなものです。
特別支援教育だって20年くらい。
それと比べて、ヒトの進化は700万年。
発達を知るということは、どうやってヒトは進化してきたか、脳や神経系を発達させてきたのかを知ることだといえます。


700万年かけて進化してきた過程には、ヒトの発達の原理原則があります。
文化的な活動はすべて狩猟生活で培った脳を汎用させて行っている。
私が子どもさんの遊んでいる姿に注目するのは、その中に子どもさんの資質、遺伝的に受け継いだもの、そして社会的な活動を行うための土台があるからです。
子どもは最初に【感覚】で世界と繋がります。
【身体を遊び道具】にしたあと、【自由自在に動かせる身体】を育てます。
自由自在に動かせるように身体を使い、【自然と繋がっていく】。
自然で生きていくには単に運動ができるだけではなく、【狩猟採集】、そして自然を【道具として扱う】段階まで育つ必要があります。
現代風に言えば、ジャングルジムなどによじ登る、虫や花、木の実を採取できる。
その状態になって初めて、就学後の教科学習ができる準備が整うのだといえます。


○○式の勉強法などの選択は、こういった身体が育ったあとの選択になるのです。
身体が育っていないのに、いくら勉強法を探してもできるようにはなりません。
同じように○○療法などというのも、本来は身体という土台が育ったあとの選択になるのですが、現状はそうなっていません。
身体が育っていないのに、細分化された療法を行ったり、行わせようとしたりする。
背面が育っていない人に、SSTで他人との距離感を教えようとしても、不可能なのです。
嗅覚が育っていない人に、他人との上手な付き合い方は無理です。
ですから今の療法の多くは、ほとんどがその場だけ、その時間だけ、その人だけ。
つまり、パターン学習を一生懸命させているのみ。


発達障害の子ども達の身体に注目することが標準になったのは喜ばしいことです。
だけれども、もう一歩先に進む必要があると思います。
なぜ、身体からアプローチすることが発達に繋がるのか。
社会生活を送る上で、より良い発達成長へと繋がるのか。
その辺りは私も丁寧に説明し、お伝えしていく必要があると感じています。
もうここ1、2年は、1歳代、2歳代、3歳代の子ども達からの相談が増える一方です。
ということは、親御さんの捉え方、ニーズもどんどん変化しているということです。
親になって数年しか経っていない親御さん達が増えていて、身体が標準になっているからこそ、決して身体療法ではないことをお伝えしなければならないと思っています。
身体療法が効果があるから良いのではなく、ヒトの発達からいえば、身体が育たなければ、社会生活、学習、自立がならない、というお話を。
「どんな遊び・運動?」から「どんな動きが必要か?」「どんな刺激が必要か?」というようになれば、アセスメントとアプローチが一致しますね。


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2021年9月2日木曜日

【No.1188】誰でも言えること、言えないこと

日曜日、羽田空港を歩いていると、不快な音声が聞こえてきました。
「公共機関ではマスクをつけましょう」
「4人以下の会食を」
7月の羽田空港では流れていなかったはずなのに、8月お盆くらいからが流れ始めたのかもしれないと思いました。
まあ、見事に誰も聞いていないし、私の他にもノーマスクの人もチラホラ(笑)
飛行機で各地に飛ぶ人達は、空港内にいても、せいぜい2時間くらいなもの。
だから、空港内で働くスタッフが毎日、何時間も会長の声を聴き続け、「私達はどこにも行っていないのに、こんなに利用客がいて」と、ただ分断とストレスを与えているだけで効果は無い、というか、最初から効果なんて狙っていないんだと思います。


夏休みやお正月休み、お盆や連休の前に、「人流を抑える」「ステイホーム」と言うのは、専門家の仕事でしょうか。
言ってくれれば、私が代わりに言ってあげます(笑)
つまり、誰でも言えることを、誰でもできることを行うのは、専門家の仕事、プロの仕事ではないんですね。
また見事に連敗記録を更新した京大の教授は、「みんなに嫌われても、オリンピックを止めるために動けば良かった」とご発言されていました。
「みんなに嫌われても」の部分はご心配なく。
あと、終わったあとなら何とでも言えます。
事前に法則性を見つけ、対策を提言するのが専門家の役目。
オリンピックは都とIOCの契約であり、一般の人がどんなに嫌われようとも、止めることはできない次元の話です。
ということは、結局、8月末の予想(予言)も大幅に外したエクスキューズであり、人々の関心を逸らすためのいつものパターン。


もし会長が本物のプロフェッショナルなら、どうやったら人流を止めずに、以前に近い生活が送れるか、具体的な方法を提示するはずです。
もし数理モデルのプロフェッショナルなら、オリンピックをどうしたらより安全に行えるのか、安心して帰省や旅行、子ども達が夏休みを過ごせるのかを予測を元に提示するはずです。
一言で言えば、「どうすればみんながより幸せになるか」というポジティブな未来を提示するのが専門家の仕事だと思うんです。
しかし、この1年半、出てきた専門家は、主に人々を脅すだけ。
しかも、言いっぱなしで検証も、反省もしない。


あれだけ散々、「二週間後には欧米に」と言っていたんだから、規制を完全撤廃したイギリスや独自の路線を進んだスウェーデンなど、今こそ「二週間後は、東京もロンドンに」と言えばいいのに。
ぼったくり男爵を批判した人も、ぼったくり男爵(いや、お殿様?)だったなんて笑えませんね。
ベッドは確保したけれども、医師や看護師が確保できず、でも補助金は頂戴する。
自分の病院をマネージメントできない人が、1億2千万人の行動をマネージメントなんてできないと思いますよ。


なぜ、今日は長々とプロについて綴ってきたかと申しますと、この頃、出張が終わるたびに思うことがあるからです。
私の事業としては、離れた場所からでもご依頼や仕事をいただけることはありがたく、嬉しいことです。
しかし一方で、それぞれの地域にいる支援者は何しているんだという気持ちもあるのです。
親御さんからしたら、自分の住んでいる地域に頼れる専門家がいれば、そちらのほうが良いに決まっています。
発達相談が終わるたびに、私は「ああすればよかった」「もっとこういう言い方、具体的な方法を伝えればよかった」などといつも反省しっぱなしです。
全国には私がいつも学ばせていただいている実践家、プロフェッショナルの人達がいらっしゃいますし、そのような方々を見れば、私はまだまだ遠く及ばないと思っています。
そんな私なのに、「地元の支援者よりは良い」というのでは困ることなんです。
税金の使い方としてダメでしょ。


国語や算数などの勉強ができない子に、「こんなドリルをやってみては」「塾や家庭教師はどうですか」などの誰でもできるアドバイスや、「この子は無理ですよ」「それより支援学校に」という脅しは、プロとしてどうなんだろうと思います。
それこそ、やっている感だけですよね。
小学校低学年レベルの勉強ができないのは、内容が難しいからではなく、身体が育っていないから。
もっといえば、幼児期の遊び、運動発達をやり切っていないと、勉強ができる準備が整わないし、そんな状態でいくら教え方や環境を工夫してもできるようになるわけはありません。
せいぜい暗記はできるけれども、そのものの意味の理解まではできない。
だから概念学習が出てくる小学校3年生が一番の壁であり、普通級から支援級への転籍が多いのです。


さらに原理原則がわからないと、助言はできないものです。
ヒトは国語の脳、算数の脳があり、そこを刺激し、育てることで書字や計算、読解などができるわけではありません。
ヒトの進化の過程をみれば、動物的な生活を送っていたときに発達させ、使っていた脳の部位を転用して、現代の国語や算数ができるようになっているのです。
眼球運動と計算は脳活動が似ていますし、「道具を使う」が転用して「言葉を使う」になっているのも有名な話です。
また筆を動かす(つまり、書字・描画)と移動の動きはリンクしていて、概念の理解は数唱と繋がっていて、数は指と繋がっている。
現代社会から見れば、知的な活動はそれ相応の脳が進化したから、大脳皮質が大きくなったからと思いがちでしょうが、結局、ホモサピエンス時代で培った脳を現代風に代用しているだけなんです。
ここがわからないと、身体アプローチの意味を単なる療法の一つと勘違いしてしまいます。


アマゾンでは10月8日出版予定で予約が始まっております。
浅見さんから出版のお話を伺ったとき、そして今もですが、自分の仕事がなくなるのが理想です。
これは起業当初から目指しているところで、本来ならこういったサービスはない方が良いに決まっています。
理想は各家庭で、子育てを通して育っていく、治っていくこと。
その次は補助として地域の支援者、専門家がいて、また学校の先生や保育士さんなどが子ども時代は中心に助言したり、親御さんの背中を押してあげ、子ども達が自立していくこと。


発達援助という仕事を考えたとき、目指すは子どもの自立だけではなく、親御さんの自立も後押しできることだと思います。
そして利用したあとは、ポジティブな変化が生じること。
役目を終えたら、きちんと消えてなくなることが理想的な最後の姿です。
このたび、浅見さんと一緒に出版させていただく新刊を読んでくださった方が、「大久保に依頼しようと思っていたけれども、自分でやってみよう」と思い留まり(笑)、行動して頂けることが私にとっても嬉しいことです。
出版がてらっこ塾としての寿命を短くするものになれば、本望です。
やっぱり親子の子育ての中で、自然と治っていく、自立した人生を歩みだしている、社会に飛び立った、というのが一番ですよね!
ちなみに次は、発達障害とは全然関係のない仕事をしたいなと思っております。


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2021年8月26日木曜日

【No.1187】勉強で観ているのは、脳・神経の「どことどこが繋がっているかな?」

将来、自立した生活が送れるための一つのポイントが、「小学校4年生の学力がついていること」になります。
小学校4年生くらいになりますと、物事の概念や社会の仕組み、ある程度の社会性&経験がなければ、理解が難しく、別の言い方をすれば、この小学校4年生の教科書レベル、テストで8割以上取れていれば、社会で生きていくための基本的な学びを身に付けている、ということでもあります。
ですから、たとえ時間がかかったとしても、小学校4年生レベルの学力を身に付けることは重要であり、そういった意味で、教科学習を投げているような特別支援教育の実態に憤りを覚えるのです。


といった話を方々でしていますと、教科学習に関するご相談や実際の発達相談においてテストやノートなどを見せてくださるご家庭が多くあります。
テストの点数はダイレクトに理解度がわかりますし、ノートの具合からどのような姿で授業を受けているのかがわかります。
なぜ、間違ったのか、どこの過程で間違ったのか。
それを確認し、教え方の工夫、学習の仕方の工夫を助言することも大事だと思っています。


しかし、それははっきりいって発達援助ではないと考えています。
そういった工夫を導き出すのは、教職に関わる人達が専門で、得意とする分野です。
発達に遅れがあり、テストの点数がとれない、ゆえに教授方法、学習方法の工夫。
そうではなく、私の仕事は、発達援助の仕事は、発達の遅れに対するアプローチです。
大雑把な言い方をしてしまえば、発達の遅れという根っこが解決すれば、そこが改善すれば、自然と学習する力は上がって行くだろう、小学校の授業レベルはわかるようになるだろう、ということです。


では、具体的にどのようなアセスメント、アプローチをしていくかと言えば、筆圧や字のバランス、音読の声の出し方、言葉のスムーズさ、音の強弱や文章理解、概念の理解、作業の継続時間、間違ったことに対する修正能力、姿勢や目の動き、自制心、目標が立てられるか、それに向けて実行できるかなどです。
そしてよく勘違いされている方が多く、もっとも重要な部分が発達援助的な見方をすれば、「学習するということは神経を繋げる作業である」ということになります。


たとえば、漢字練習をしているとします。
何でもよいのですが、「大」という字をノートに書いて練習しているとしますと、私からすれば、「大」という字が書けるとか、書けないとか、そこには注目していないんです。
それよりも「大」という字を書くことを通して、目と手の神経同士が繋がること、順序性がある作業(書き順)を理解するための脳を刺激すること、右脳と左脳を連動させながら全体(字のバランス)と細部(書き順)を意識した作業ができること、見本と自分の字を見比べて、つまりイメージを頭の中に保持しながら再現すること、間違いを指摘されたとき、その間違いの意味を理解できることと修正&再現できることなどが大事ですし、そういったことを通して神経発達を促していく方が重要だと考えています。
そう考えると、「ノートに鉛筆で字を書く」というスタイルにこだわる必要はありませんし、同じように目と手の協応を育てるのなら漢字練習にこだわる必要はないのです。


テストで50点しか取れていない、と悩まれている親御さんもいらっしゃいます。
しかし、脳神経の繋がりが進んでいけば、テストの点数は自然と上がっていくものです。
特に専門的な学問、高度な内容ではない公立の学校の、公立の教科書レベルなら。
冒頭で上げた「小学校4年生の学力」も、そういったレベルで、となります。
なので、「どうして30点しか取れないの!?」「なんで、何回やっても間違うの!?」というのは、子どもが悪いのではなく、親御さんのほうが勘違いしているだけなのです。
漢字練習は漢字を覚えることが大事なのではありません。
計算ドリルは計算が早くなることが大事なのではありません。
漢字練習や算数ドリルを通して、どことどこの脳神経が繋がっているか、刺激され発達しているか、に注目すべきなのです。


脳の準備、発達の準備が整っていないから、テストで30点をとる、宿題ができない、という風に観るのが発達的な視点になります。
もしその状態が長く続くようでしたら、脳や発達のほうに課題があると考えます。
ですから、「算数ができなくて」という親御さんに対して、「こういった遊びをすると、できるようになりますよ」と提案するのです。
算数ができないから、算数ドリルをたくさん買って、たくさんやらせてもできないでしょう。
それでできるのなら、そもそも特別支援などいらないのです。


発達が順調に育っていて、テストが30点なら何も心配はありません。
脳や発達の準備が整っていくと、その成果がテストや学習に表れるからです。
昨年の夏、自然の中で毎日遊んだ子が、2学期からテストで100点をとれるようになったお話は、以前紹介した通りです。
一学期、親子で涙を流しながら行った家庭学習は一切せずに、とにかく海や山など自然の中で遊んだ。
「2学期からは支援学級へ」という話はなくなったそうです。
私達が見ているのは、脳の、神経の「どことどこが繋がっているかな?」


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2021年8月24日火曜日

【No.1186】私がお伝えしたいのは「How to」ではない

このたび、花風社さんから出版される新刊を楽しみにしてくださっている方達が多くいらっしゃることを知って私は嬉しく思っています。
花風社さんのサイトからのご注文の方には9月中に届く予定とのことでした。
さて、皆さまのお手元に届く前に、ご説明しておいた方が良いと思うことがありましたので、今日のブログの内容とさせていただきます。


私のセッションや発達相談をお受けになったご家庭はわかると思いますが、いわゆる標準療法というか、「THE支援・療育」みたいなことを提案して終わり、ということはございません。
現在の中心は、家庭の中で、親子でどのような遊びをしていけば、より良い発達に繋がるのか、どういった運動や生活を行えば、神経発達が促されていくか、という視点で助言させていただいています。
もちろん、このブログやラジオチャンネルでも、同様の発信を続けています。
ですから、特にここ2,3年で私のことを知ってくださった方達は、身体アプローチという方法で、発達障害を治していく人(?)という印象を持たれているかもしれません。


しかし新刊の中での浅見さんとの対談でもお話ししていますが、私はバリバリのギョーカイ人でした。
大学在学中よりTEACCHやABA、感覚統合などを勉強し、社会人向けの研修にももぐりこんで受講していましたし、ある意味、その技術、知識を磨くために、第二種自閉症児施設という日本に3つしかなかった専門施設に就職し、働きながら学びを続けていました。
こうやって独立したあとも、最初の数年間は、と言いますか、栗本啓司先生の書籍を読むまでは相変わらずギョーカイの手法をベースに行っていたのです。
花風社さんの書籍のラインナップでいえば、赤本以降、継続して書店で見つけるたびに購入していましたが、施設職員時代はほとんど休みなく働いており、しかも職場は山の中でほぼネットが繋がらなかったので、改めて過去に戻り、購入していなかった本を買い足していったのは、やはり栗本先生の黄色本が出版される前後でした。
黄色本(『自閉っ子の心身をラクにしよう!』)は2014年8月の出版でしたので、身体に注目したアプローチを学び始めたのは、7年くらいなものです。


で、詳しくは新刊の中でお話しさせていただいておりますが、この流れをご存じない方が私の言動を見ますと、いつも療育や支援を引き合いに出して主張していますので、方法VS方法の話かと思われるかもしれません。
もっと具体的に言えば、「今、ギョーカイがやっている療育や支援よりも、身体アプローチが優れているんだ」という主張です。
しかし私の考えから言えば、方法論の優劣で主張しているわけでも、闘っているわけでもないんです。
重度の知的障害を持つ人や行動障害など、すぐに対処しなければならない場合は、視覚支援や行動変容、服薬や環境調整も有効だと思いますし、実際、そのような助言をさせて頂くこともあります。


ただそういった対処療法では根本解決に至らないし、育てるという視点がなければ、いつまで経っても、課題は残り、本人は生きづらいまま。
ですから、身体からのアプローチを学び、そういった視点から対処だけではなく、根本からの育ちを目指していきましょう、というのが私の考えです。
「身体アプローチ」という特定の決まった療法があるわけではないことを改めて知っていただければと思います。


そして何よりも、私はギョーカイの中にいて、いろいろな世界を見てきて、その中で今のギョーカイ、特別支援に対して大いなる疑問と憤りを持ったのです。
自立支援と言いながら、自立を目指さない支援、教育。
早期診断早期療育と言いながら、無症状者狩りのような診断とそれに続くベルトコンベヤー方式。
「専門的な支援を」という建前で、親御さんの養育力を奪い、子育てを奪っていく専門家たちの言動。
軽度の子を重いように仕立て、実際に重い子はお断り、という支援者都合のトリアージ。
こういった現実に疑問を持たず、また意欲を失っていく保護者の姿。
私が闘っているといえば、この理不尽な現状についてです。


ですから、本人の発達成長、課題の解決、ラクになる日々の生活が達成できれば、どんなアプローチ、方法だってよいと思います。
ただ現状では、身体からのアプローチのほうが、根本解決に繋がりますし、そもそもが単に未発達な状態の子ども達が中心なので、そちらを中心に援助しているまでです。
今後もっと素晴らしい方法があれば、学び、どんどん取り入れたいと思いますし、そういった実践家の人は時代とともに必ず現れるものなので教えていただきたいと思っています。
子どもが一人ひとり違うように、発達の仕方はひとそれぞれ。
だったら、そのときそのときで良いとこどりをすれば良いのです。


私はギョーカイの中にいて、子ども達の学ぶ権利、発達する機会が十分に保障されていないと思いましたし、実際今も奪われ続けていると考えています。
どうも私には、将来支援しやすい子、扱いやすい子に矯正しているようにしか見えません。
なので、私は「療育を選ぶか?」「身体アプローチを選ぶか?」「支援を選ぶか?」「治るを選ぶか?」という面で闘っているつもりはありません。
あくまで、どの子も当たり前に持っている発達する権利に対する闘いです。
一旦、「発達障害」というレッテルが貼られると、その当たり前の権利が奪われる現状を変えていきたいのです。
そういった視点で、今度の新刊を読んでくださると、またこれからのてらっこ塾としての発達相談を受けていただくと、大久保から「How to を教わるわけではない」ことが再認識できると思います。
発達相談において、具体的なアプローチの仕方を身体を使ってお伝えしているのは、より良い子育てを考えていただけるための練習であり、きっかけ、入り口というつもりでした。


そもそもが一人ひとりが異なる人間で、すべての子に共通した「How to」など存在するわけがないのです。
もしそれがあるとすれば、商売としてのパッケージングです。
700万年もの人類の歴史で、共通した子育ての方法など生まれていません。
あるのは、目の前の子に応じた子育てだけ。
より良い子育てを目指していく上での試行錯誤の機会として、新刊やブログ等の発信、私の発達相談、援助を捉えて頂ければ、幸いです。


花風社さんの新刊【医者が教えてくれない発達障害の治り方 1 親心に自信を持とう】の詳細・ご予約はこちらからできます→ http://kafusha.com/products/detail/55




2021年8月23日月曜日

【No.1185】無症状者の入院治療は何をしているのだろうか?

函館に住んでもう20年以上になりますが、こんな田舎にも医師会というのがあるのだと初めて知りました。
しっかりお盆休みをとられたのでしょうか。
つやつやしたお顔の医師会長さんが函館、いや道南、いや渡島半島、唯一のデパート丸井さんで購入したのかはわかりませんが、素敵なスーツで会見を開いていました。
「この先も感染(←陽性)が続けば、病床がひっ迫する」
「このままでいけば、一般診療に滞りが生じる」
「ホテルや病床が埋まれば、軽症者は自宅療養になる」
医師会では使うべき論法が決まっているのかもしれませんね。
「~すれば」はすべて仮定であり、予測のお話です
そりゃあ、同じペースで陽性者が増えて、その人達をバンバン入院させていけば、病床が埋まってしまうのは小学生でもわかります。


函館は小さな町ですので、ご丁寧に日々の陽性者を一覧にして発表してくれます。
そこを見ると、軽症者、無症状者がほとんどで、しかもほぼ「入院」になっています。
100歩譲って軽症者はわかりますが、無症状者が入院して、どんな治療を受けるのでしょうか?
想像ではありますが、朝昼晩検温して、あとは病院食を食べて、院内をお散歩などは止められるでしょうから、何日間もベッドで過ごしているのでしょう。
それって免疫下がりませんかね。
暇という罰を与えて、ワクチン接種を促しているのでしょうかね。
2019年まで「症状はないけれども、治療してください」と病院に行っても、追い返されていたと思いますよ、やったことないけれども(笑)
無症状者の入院治療というのは、まさにコロナ騒動の謎の一つでしょう。


客観的な事実として、医療にはお金がかかりますし、それが商売になっています。
今、新コロでは患者さんの支払いはありませんが、その分、国が代わりに支払いを行っています。
というか、その国のお金は、我々が支払っている税金ですが。
コロナ専用病床を作ると、そこに多額の税金が支払われますが、「病床はあるけれども、人員がいない」ということで、コロナ患者を受け入れず、お金だけ頂戴している病院が多数あることがわかりましたね。
こんな事件(公金詐欺まがり)が起きるのを見ると、医師の中にはお金のためにその職業に就いた人が少なくないのかな、と思います。
そもそもテレビに出てくる医師たちが、脅し文句を使い続けていることに、私は不信感を持っています。
人の健康、命を守ったり、救ったりする人は、脅し文句で人を動かそうとはしないですもんね。


私はコロナ騒動が始まってから、「発達障害は無症状感染者」と言っています。
新コロも陽性者の8割は軽症、または無症状者と言われていますので、現在の発達障害も同じ感じだと思います。
確かに軽症者の中には、病状が悪化して中等症や重症になる人もいるでしょうが、それは稀な例であり、背景には持病や基礎疾患、過ごし方など、なんらかの理由があるものです。
同じようにただ発達がゆっくりなだけ、発達にヌケがあるだけの子どもさんがいて、中には誤った学習のさせ方や「発達の遅れ=障害」という誤解からの支援で、発達の凸凹が大きくなったり、知的障害が作られたりすることもあります。
でも、対応さえ間違わなければ、つまり、発達が遅れているのなら、そこを丁寧に育てていこうという普通の子育てがあれば、ほとんどが家庭で治っていくのです。


2000年代初頭くらいまでのギョーカイには、その活動の意義、果たしてきた役割が大きかったと思います。
それまでは、もちろん、重度の知的障害を併せ持つ発達障害の子ども達ばかりで、その子ども達には十分な教育がなされていませんでした。
それこそ、とにかく反復学習と働くための体力づくり。
その段階から環境調整や行動変容によって、人として生きてくための教育がなされ、また彼らの認知様式に合わせた必要な支援が行われるようになったからです。


しかし、いうならば、中等症、重症の人達だけに絞って入院や治療を行っていたのに、どんどんその範囲を広げ、軽症者や無症状者さえをも患者に仕立ててしまったのです。
で、ギョーカイはかなり大きくなりました。
PCR検査のように、次から次へと診断をつけていった。
そのウィルスが感染力がなかったとしても、「ウィルスがあった」というだけで、感染者扱いになってしまう。
同じように、「発達の遅れがあった」というだけで、障害児扱いになってしまう。
「えっ、今遅れているだけであって、今後も発達しない、よくならないという意味ではないのでは!?」と疑問を持ってもダメ。


さらにPCRはするけれども、発熱者お断りのクリニックのように、「発達の遅れがあります」と診断を付けたあとは、療育機関に丸投げ。
時々、「ワクチン接種はしますよ」というように、「精神科薬の処方はしますよ」という医師もいますが、基本は治療はしない、「このまま支援を受けなければ、二次障害になる」などの個人的な予測による脅しだけ。
それで療育機関に行くと、無症状者の入院のように、バイタルチェックのようなアセスメントが行われる。
「アセスメント」なんて横文字だからすごいことをやってそうな感じがするかもしれませんが、ちゃんとチェックシートがあって、検査者・支援者は、それに沿って確認しているだけです。
だから、北海道でも、東京でも、大阪でも、沖縄でも、みんな同じアセスメントの記述になるのです。
「ここを確認しなさい」と決まっているから。


2019年まで、無症状の人は患者とは言われなかった。
私達も知らず知らずのうちにウィルスを持っていて、誰かに感染させていたかもしれません。
多少の熱や咳があっても、昭和のサラリーマンは出社していたし、寮内でインフルエンザが蔓延していて職員にも症状が出ていても、「どうせ、みんな罹っているんだから勤務しろ」と管理職に言われていました。
今も思いだされますが、「検査をしなければ、インフルエンザじゃない」という上司の名言は忘れませんし、現在にも通じることがあります。


発達の遅れやヌケは、病気でなければ、障害でもありません。
ただの状態であり、未発達の子ども達が育っていく過程です。
服薬などのどうしても医療の力が必要なときは頼れば良いと思いますが、発達の遅れを促してくれる薬は処方してくれません。
結局、その子が持っている育つ力を頼り、その力を最大限引き出すために親御さんがいて、教員がいて、家庭があるのだと思います。
「発達障害」「療育」などと言われますが、一般的な言葉で言えば、発達がゆっくりな子どもに合わせた、もっといえば、目の前にいる我が子への丁寧な子育てでしょ。
子育てで病院に治療に行きますか?
子育てをするのに、診断名は必要ですか?
「無症状感染」という診断名をもらうために検査待ちをしますか?
無症状の子ども達に、無理やり療育をしようとするから、いびつになるのでは、と私は思っています。


北海道は既に二学期が始まっていますが、本州では「デルタ株ガー」と言って、バカ親たちが騒ぎ、夏休みの延長が決まったようですね。
こういった親たちは、将来のつけを払わなければなりません。
子ども達の発達の遅れ、健康被害、脳や身体へのダメージ…。
この騒動が終わったあと、目に見える形で影響が出てきた我が子を見て、こういうでしょう。
「あのとき、学校を休校にしたから」
「マスクをつけて授業をしていたからだ」
バカな大人は常に原因を外に見ようとするものです。


コロナ騒動もそうですが、発達障害の騒動も、気が付いた人から抜け出していくことができます。
そのためには大人である私達が疑問を持つこと。
「無症状の人の入院治療って具体的に何をしているのだろう?」
「児童デイに行って、スタッフと鬼ごっこをする必要はあるのだろうか?」
「アセスメントを受けたけれども、具体的にどうすればいいって書かれていないのは意味があるのだろうか?」
「あの先生が言っていたことは本当だろうか?」
テレビが「デルタ株」というから、デルタ株が怖い。
でも、RNAウィルスは変異しやすいのが特徴で、どこを指して「デルタ株」と言っているのだろうか、と考えてみる。
本当に国家的な危機なら、「街ブラロケしてないよな」、「重症化リスクが高い人達が座布団敷いて大喜利していないよな」と気づく必要があると思いますね。


花風社さんの新刊【医者が教えてくれない発達障害の治り方 1 親心に自信を持とう】の詳細・ご予約はこちらからできます→ http://kafusha.com/products/detail/55




2021年8月20日金曜日

【書籍発売のお知らせ】医者が教えてくれない発達障害の治り方 1 親心に自信を持とう!

もうご存じの方が多いかと思いますが、花風社さんの浅見淳子さんと共著で本が出版されます。
タイトルは【医者が教えてくれない発達障害の治り方 1 親心に自信を持とう!】です。


タイトルに『1』がついている理由は、今年の2月23日に創業25周年を迎えられた花風社さんの記念企画の一環で、今後もパート2、パート3の出版が予定されているからです。
そしてそのパート1を光栄にも浅見さんから対談、共著の御使命を賜った次第です。


学生時代、友人にたまたま誘われて行うことになった障害を持った子の余暇支援ボランティアで、たまたま担当になったのが自閉症の男の子でした。
18年の人生で初めて出会った自閉症と呼ばれる子のことが知りたくて、書店に行き、最初に手を取ったのが『自閉っ子、こういう風にでできています!』(ニキリンコ+藤家寛子●花風社)。
それから20年が経ち、ずっと読んできて、部屋の本棚にずらっと並んでいる花風社さんの書籍に私が携わる機会があるなんて夢にも思わない出来事がありました。


長年の愛読者としては、浅見さんと原稿のやりとりを行わせていただいている間、読者の中で最初に本を読むことができ、「ラッキー♪」という想いがしていました。
対談や原稿のやりとりを通して、浅見さんには私の内側にある多くの言葉を引き出していただいたように感じています。
また初めて書籍づくりに関わらせていただき、表紙をデザインして頂いた廣木道心さんのお仕事、そして特に今回、私が実践してきたことをイラストや漫画で表現して頂いた小暮画伯さんのお仕事を拝見できたことが勉強になり、またありがたく、そして嬉しく感じております。
私は文字でしかお伝えしていなかったのですが、小暮さんからはまるでその場にいて描かれているかのようなイラストが返ってきて、私は何度も驚かされました。
是非、小暮さんの優しさがにじみ出ているイラストや漫画を楽しみにしていただければ、と思います。


私は家庭支援がしたくて、親御さんの子育て、ご家族のより良い未来への応援がしたくて、今の仕事を起業しております。
その想いと今まで学んできたこと、経験してきたことを今回の書籍の中に込めました。
今、子育て中の親御さんへは、私も同じ子育て世代として共に頑張っていきましょう、という想いを感じていただければ、と思っております。
また今後将来、子どもを授かり、我が子の発達の遅れに気が付いたとき、悲しみの涙を流す前に手をとって頂ける書籍に、読んでくださる皆さまのお力で育てていただきたいと願っております。


元発達障害児の人たちがどのような子育て、プロセスで治っていったか。
発達障害が治っていく歩みの中には、親御さんが発達を後押しする力が重要だというのは、私も、浅見さんも同じ意見です。
私と浅見さんが20年以上かけて見てきた「発達障害の治り方」の世界へ、どうぞお越しください!


*花風社さんのサイトより書籍の予約販売の受けつけが始まりました。
お申し込みいただいた方には、特性のクリアファイルもいただけるそうです。




2021年8月18日水曜日

【No.1184】治すのは本人、治る場所は社会全部

久しぶりに更新したためか、一昨日・昨日の記事にアクセスが集中していました。
ブログを読んでくださった方からのメールもたくさん来ていて、個別にはすべて返信しましたが、もう少し説明した方が良いかなと思い、今日も綴っていきます。


まず食事の件ですが、添加物の影響について2つの話が混在していて分かりづらかったかもしれません。
子どもさんがインスタント食品やお菓子、飲料水、ファーストフードなどを食べるから「治らない」ということではありません。
確かに糖質や添加物を摂ると、衝動性や多動性、こだわりなどの症状が強くなる子がいます。
ですから、そういったものを減らしていくと、「落ち着いて見える」ということはあるでしょう。
実際、ADHDと言われていた子が食事を見直すと、落ち着いて勉強に臨めるようになったということがあります。
しかし、食事の見直しだけで改善するとしたら、それはただの誤診であり、生活の乱れや添加物に対する生体の反応として一時的な症状が出ていただけだといえます。


じゃあ、そういった一時的な症状を表している子ではない場合、何がまずいかと言えば、そういったインスタントな食品、添加物の多く入った食品を好んで食べている間は、神経発達が起きづらいだろうな、そもそも神経発達の準備が整っていない状態だよな、ということです。
私はアセスメントで、どんなものを食べているかは必ずチェックします。
そこでそういったものを好んで食べているようでしたら、もちろん、そんな貧しい食事では栄養の面で満たされた状態だとはいえませんし、嗅覚・味覚をはじめとした感覚、消化器系の働きの課題や未発達を疑います。
嗅覚や味覚は原始的な感覚の部分であり、発達の土台なので、そして消化器系も、ここが育っていないとしたら、その上に発達を積み上げていこうとしてもなかなかうまくいかないものです。
また食事の課題は愛着の課題とリンクしていることが多いので、ここも育ちにくさと繋がっていると考えます。


つまり、インスタント食品などを好んで食べている、それしか食べないというのは、まだ神経発達が育つだけの準備が整っていないということです。
なので、私は「生野菜食べられますか?」とよく尋ねます。
生野菜というのは複雑な味であり、同じ野菜でも微妙に化合物の量や種類に違いがあります。
その複雑な味や一つとして同じ味ではない野菜を生で食べられるというのは、嗅覚や味覚の育ちを見る基準となります。
もちろん、嗅覚・味覚に大きな発達の遅れがあり、ほとんど味を感じていない、ゆえになんでも食べられるものは食べる、という状態の子を見抜くことは大事ですが。
生野菜を食べられるようになった子が、ググッと発達するというのはよく見る姿です。


あと親の世代におけるインスタント食品、添加物、化学物質の影響ですが、これは神経発達症が障害全体で言えば軽度の障害に当たることを考えれば、大人たちが長年の生活の中で蓄積してきたものが次の世代に影響を及ぼし、神経の繋がりに軽微なエラーを起こしたと考えるのは妥当だと思います。
代々「ハイハイを抜かす家庭」というような遺伝的な運動発達のパターンゆえの【発達のヌケ】とは異なり、胎児期に繋がっておくべきところ同士が繋がっていない、ゆえの【発達の遅れ】がそれなのでしょう。
発達のヌケはバランスを崩した状態でのいびつさを感じ、発達の遅れは神経が伸びにくそうにしている息苦しさを感じます。
また親御さん自体の食事が乱れていると、当然、エネルギーが出ませんので、一緒に遊べなかったり、頭でっかちになったり、誰かの言ったことをそのままやってしまったり、試行錯誤ができなかったり…となって、それが結果的に子どもの子育てからの発達への影響という面もあると思います。


次に「治らない子」の話題についてですが、治らないまま、大人になり、自立して生活している若者を何人も知っています。
今の小さい子どもさんたちのように、未発達の子がそれぞれのタイミングで育ち、本来の姿に戻ったというのは、どこからどう見ても普通の子なので、周囲から見れば「治った」といえる状態でしょう。
私個人の意見としては、この子達は「治った」というよりも「育った」だと思いますが。
で、治らないまま、大人になった若者たちと言うのは、一般の20代、30代と比べれば、「ちょっと変わっているな」「できないことがあるな」という感じで、普通の人という基準で言えば、治ったとはいえないと思います。
しかし、社会全体から見れば、変わっていようが、多少できないことがあろうが、どうでもよい話で、任された仕事を行い、他人に危害や迷惑をかけるようなことがなく、身の回りのことを自分で行いながら生活できていればよいわけです。


そういった人達は幼児期、小学校低学年のときにドカンが来て、治っちゃった、ということはありません。
とにかく時間をかけて、コツコツとゆっくり丁寧に育ち、課題を克服していった人達だといえます。
未発達の子が本来の発達の流れに戻った状態だとすれば、この方達は不具合を一つ一つ作り変えて形作った状態とも見えます。
就学時に発語がなかった、重度の判定が出ていた、支援学校に通っていた。
だから、親御さんと話しても、「治る」とは思っていなかったし、そんなことを考えてもいなかったけれども、少しでも生きやすくなるように、自立的な生活ができるように、と10年、20年積み上げていった結果、気が付けば一般就労ができたということがあります。
重度から中度、中度から軽度と、時間をかけて変わっていく人たちがいます。


同世代と同じような普通の人になる、IQでいえば、90以上になる、という意味では「治らない人」がいるのも事実です。
私が出会ってきた治っていないけれども、社会人として謳歌している若者たちもそうです。
しかし、彼らが、また彼らの親御さん達が、「どうせ治らないから」と言って、発達の課題と向き合わず、またそこを育てることをして来なければ、子育てではなく支援だけをしていれば、学校卒業後働くことはできなかったと思います。


このような敢えて言えば、普通の人になるという意味の「治らない人」は、何よりも根気が必要です。
そして多くのご家庭は、小学校入学後、学年が上がって行くたびにフェードアウトしてしまう。
最初、「治したい」「治ってほしい」「将来は自立を」と言って頑張っていた親御さん達も、年数が経つと心が折れ、支援に預けてしまう姿を幾度となく私も見てきました。
ですから、これは無理もないことだと思います。
親も年を取りますし、介護や他の兄弟のことなど、状況は年々変化していくのですから。


治っていないけれども、働いている人、自立している人はいます。
変人枠で社会を謳歌している人も大勢います。
じゃあ、彼らはどうしてそれが叶っているかといえば、ゆっくりでも進み続けたから。
私が出会ってきた方達の中ですが、共通するのはみなさん、現状に満足しない人でありました。
「もっと私はできる!」「絶対にできるようになってみせる!」
そんな想いを言葉や態度で示していた姿が印象に残っています。
たとえ親が年を取って疲れちゃっても、学校がポンコツであっても、くだらない専門家が支援の世界へと手を指し伸ばしてきても、本人に変わりたい、課題を克服したいという意思があれば、発達の課題はクリアできることが多いと思います。
神経発達症は、神経が欠損している障害でも、神経発達が生じない障害でもないのですから。


親御さんも、学校の担任も、地元の支援者も、口を揃えて「普通の大学は無理だ」「親もと離れての生活は無理だ」と言った。
でも、自分の意思で大学進学を決め、在学中、トラブルがあったり、留年があったりしたけれども、なんとか卒業し、就職した若者もいました。
そういった姿を見るたびに、治すのは本人だと思うのです。
あくまで親御さんも、先生も、支援者も、本人の背中を押す存在でしかない。
そう考えると、ますますギョーカイも、私のような支援者もいらないし、こだわる必要は決してない。
ましてや、支援級や支援学校、放課後児童デイなどは可能性を狭める可能性すらある。
本人が変わりたいと思い、そのきっかけやアイディアを貰えるのなら、専門家、先生、支援者に限定する必要はないのだから。
治すのは本人、治る場所は社会全部です。




2021年8月17日火曜日

【No.1183】神経発達症と食についての連想

「ブレイクスルー感染」って、一言でいえば、「利いていない」ってことじゃないですかねww
当初、「感染予防のため」「大事な人を守るため」と言っていたはずなのに、イスラエル、イギリス、アメリカというワクチンをたくさん打った順番に再感染、再拡大が起っている。
そうすると、専門家の大先生たちはいつの間にか「重症化を防ぐために」とか言ってるし。
接種者も、非接種者も、体内から排出されるウィルス量は同じ。
でも、接種者は重症化を防ぐ???
ウィルス量が同じなら重症化率も同じでは。
というか、デルタ株が弱毒化したから重症者が減ったとも考えられますね。
というか、1年半、日本では死者も、重症者も少なかったんだから、ブレイクスルーするやつをわざわざ副反応ルーレットと引き換えに接種する必要はないと思います。


都合が悪くなると、横文字や専門用語を使うのは定石です。
私が学生時代、多くの偏食の子ども達と出会いました。
給食は食べられないから、ふりかけご飯を持参する。
家の食事は食べられないから、コンビニのおかずを買う。
食べられるものがほとんどないから、食事でポテチを食べる。
朝ご飯はいつも菓子パン。
これはあたかも障害特性の一つかのごとく、説明されることが多かったですが、当時から私は納得ができなかった。
もちろん、知識も経験もなかった私ですから、「そうですかそうですか」とうなずいていたけれども、心の中ではこれはおかしいと思っていました。
偏食と言うか、食事の問題では??


白いものを好むとか、特定の食感じゃなきゃダメというのは、感覚系の未発達や愛着の問題があるでしょう。
でも、特定のコンビニの●●しか食べないとか、朝は決まって●●製パンの菓子パンだとか、マックなら食べるとか、って障害特性ですかね、こだわりってやつですかね。
今思い返しても、確かに未発達などの感覚系の課題があった子ども達もいましたが、それがこだわりだから、障害特性を理解することだからと良いように解釈して手を抜いていた家庭も多かったと思います。


じゃあ、なんでそんなことが言えるのかといえば、施設での経験があるからです。
だいたいどの子も、入所してくるときの事前の資料には「偏食」が書いてありました。
実際、親御さんからも、「特定の●●しか食べません」「煮物、煮魚は食べたことがありません」「カレーは●●のレトルトカレーしか食べないのです」と言われることがあります。
しかし実際はどうでしょう。


入所直後は家庭から持ってきた食べ物があります。
「●●しか食べないので、置いていきます」といった食料も、数日経てばなくなるものです。
施設というのは、全員が同じものを食べます。
というか、同じものしか出てきません。
食べなければ、食べないまま、終了になります。
いくらわめいても、近くにコンビニはなく、マックもありません。
そうすると、最初は手をつけなかった子も、少しずつ食べるようになるのです。
もちろん、職員もその子が食べられそうなものを盛りつけ方などを工夫しながら提供するのですが、やっぱり一番は空腹です。
お腹が空けば、食べようとするのです。
空腹にこだわりが勝る子は見たことがありません。
だいたい入所から半年、1年経てば、どの子もモリモリ食べるようなりました。


偏食については、「こだわり」などとも言われることがありますが、お母さんの手料理にこだわる子はいません。
同じ感覚系の問題から来ているこだわりなら、手料理にだってこだわる子がいてもおかしくありません。
しかし、そういった子はいなくて、みんな、コンビニ、ファーストフード、機械で作られた食品ばかりにこだわるのです。
そこを指摘すると、ある支援者は「コンビニなどの食品は、いつも同じ味だから、それが自閉症の子にとっては安心するんだ」と言っていました。
そういうのはお勉強ができるバカの発言です。
「自閉症はこだわり、固執、同一性保持がある→同じ味を好む」という頭で発言しているのです。
そこに味覚の発達、ヒトの食事の発達の視点がなければ、「ただの経験不足では?」という違う角度からの疑問もない。
あるのは昔習った古典的な自閉症の姿だけ。
「強度行動障害には視覚支援が有効」と言っているのと同じで、視覚支援を提示した瞬間、ぶっ壊される、というか近づいた職員は噛みつかれる、というのを知らないから言えるのです。


ここからは最近、この仕事をしていて思うこと、感じること。
偏食がある子が好むものは、先ほど挙げた通り、インスタントなモノが多い気がします。
で、なぜ、インスタントなモノが多いのかと言えば、親御さんの食生活にインスタントなモノが馴染んでいるからだと感じることがあります。
もちろん、発達の遅れは感覚系にも表れ、味覚の発達の遅れもあるのでしょうが、それ以上にインスタント食品に対して抵抗感が少ない。
雰囲気的に伝わってくることですが、妊娠中と言うよりも、妊娠前、それこそ男も、女も、結構コンビニ飯食べていましたよね、インスタント食品好きですよね、という感じの方が多い気がします。
目の前で子どもさんがお菓子やインスタント食品を食べている姿を拝見することもあるのですが、食べ慣れているというか、口よりも胃が馴染んでいるような感じが伝わってきます。
1歳とか、2歳とか、3歳とかで「胃が馴染んでいる」というのは違和感があるので、やっぱり前の世代の影響が出ているのかな、と思います。


確かに農薬散布が多い地域の子ども達は神経発達に軽微な問題がある子が多いと思います。
また大陸からの影響で大気汚染が懸念される地域も同様です。
でも、最近思うのは、そういった環境、つまり外部から入ってくるものの影響よりも、内側、つまり食の影響が大きいと思うのです。
農薬を多く使用している国の順番で発達障害児が多くなっている(1位韓国、2位日本、3位米国)。
だけれども、この国のメンツを見ると、食品添加物も結構摂っている国ですよね(ちなみにコンビニの数は1位日本、2位米国、5位韓国)。
添加物とガンの研究結果が次々に明らかになっているくらいですから、生体に何らかの影響が出ると考えるのは自然だと思います。


そういえば、プロテインはどうですかね。
確かに栄養不足が課題の根っこでググッと良くなる子もいますよね。
でも、プロテインに入っている添加物って確認していますか。
たまに飲むくらいなら、そこまで心配することはないかもしれませんが、毎日飲んでいたとしたら、どうですかね。
タンパク質は摂れたけれども、添加物も摂れた。
小麦や乳製品など、つまり摂取したものが腸内で反応を起こし、子ども達の神経症状に影響しているという話もあります。
その辺りとの整合性は…。
ちなみにジム通いをしている私は、添加物フリーのプロテインにしています。
まあ、おじさんなので、そこまで気を付ける必要はないかもしれませんが(笑)
ただ添加物を摂ったあと、感覚が鈍る感じがするので避けています。
脳にブレークスルー感染って感じです。




2021年8月16日月曜日

【No.1182】発達成長はしているけれども、治り切らない、育ちきらない

発達の遅れやヌケは障害ではないし、私達大人が子どもだった頃も、そんな同級生、子ども達はそこら辺にいたと思う。
だけれども、2000年代の高機能ブームに乗じて、その子達までをも支援対象にしてしまったのが大きな過ちの始まりだったと今はわかります。
当時の私も、「周囲や自分自身でも理解ができず、苦しんでいる人たちがいるのなら良いことだ」と思っていましたが、ここまで青田買いが進むとは想像できませんでした。
あくまで本人や家族、周囲に気づかれないまま、大人になった高機能の人達が支援対象だったのに、どんどんあの子も、この子もとなって、今では1歳児に診断名が付く時代。
むしろ伺いたいが、完璧な発達をしている1歳児って、どんな子どもなの?


発達の遅れを障害と定義してしまったら、どんな子どもも「発達障害児」になってしまう。
それこそ、PCRを受けたら陽性者になるように。
陽性者になりたくなければ、PCRを受けないこと。
同じことが発達障害の診断にも言えるのではないだろうか。
大前提として発達に何らかの心配事があるからこそ、病院に行くのだから、診断を付けること自体のハードルは下がっているといえます。
「ただの発達がゆっくりだけだよ、お母さん」と笑顔で家に帰してくれる医師は、この日本の中にどのくらいいるのでしょうか?


そもそもが発達が遅れた状態、抜けた状態であるのだから、その遅れやヌケが埋まれば、というか、時間の経過と共に育っていけば、そこら辺にいる普通の子になるわけです。
私が発達相談でお会いする子ども達の9割がたは単に未発達なだけです。
ですから、やるかやらないか、育てるか育てないか、時間が経過するかどうかの話で終わります。
遅れていた発達が後から育つなんてことは普通ですし、一人ひとり育つタイミングが異なるのは当たり前です。
そんなヒトの発達がわからない人たちがギャーギャー騒いでいるのがギョーカイであって、ギョーカイが黙れば、私達が子どもだった頃のように自然と育っていくので良いのです。
偽陽性からの2週間隔離状態がここんところの特別支援の世界。


このようなお話なので、私自身、治るのは当たり前だと思っていますし、支援や診断が必要なくなり、同世代と同じような生活、道に戻っていくのは自然な現象だと考えています。
だから、正直、この頃はあまり「治る」には関心がありません、自然現象だから。
じゃあ、何に関心があるかと言えば、「なぜ、治らないか?」です。


さきほど、「9割がたは単に未発達」と述べた通り、相談や依頼がある子ども達の大部分は治っていく子ども達です。
しかし1割くらいの子ども達は、なかなか治っていかない。
もちろん、育ってはいるんだけれども。
では、この子ども達にはどんな要因や共通点、背景があるのでしょうか。
現時点で見えてきたモノを綴っていきたいと思います。


まず思いつくのが、「やっているようでやっていない」です。
発達に一番必要なものは時間なのに、本人が育ちきる前にやめちゃうことがあるように感じます。
どちらかといえば、本人ではなく、親御さんの方が先に折れちゃうみたいな。
そのような場合は、専門家のウインドーショッピング状態で、あの方法が良いとなればあっちに行き、また別の方法が良いと思えんばそっちに行き…って感じです。
あと、遺伝的に言語発達に脆弱性を持っているご家庭は特にメディア視聴に気を付けましょう、とお伝えしたけれども、やっぱり見せちゃってるね、タブレットフリーで与えちゃっているよね、ということもあります。
また発達援助が訓練やトレーニングになっている場合(やらされ、やらしている状態)も、発達にはつながらないので、結果的に治っていかないことが多いと思います。


しかし、こういったものは枝葉の部分であって、本質ではないと思っています。
発達成長はしているけれども、なかなかスピードが上がっていかない、育ちきる、治り切るところまでいかない。
そういった子ども達がいるのも事実です。
受精後、8週間でほぼヒトとしての形を作り上げるくらい一気に変化していきます。
受精後9週目からは【胎児期】になり、胎児、ヒトとしての生活が始まります。
切迫流産や早産、低出生体重児など、出生に関わるトラブルがあった子も発達障害児の中には多いですが、結構、この子ども達は治っていく子も多いです。
私の感覚、見える感じでは、それよりももっと前の段階。
つまり、親の世代がどのような生活をしてきたか、もっと詳しく言えば何を食べ、どのくらい運動をし、生活のリズム等、身体的な健康を保っているかが影響しているように感じます。
なかなか治っていかない子ども達はなぜか、みんな、添加物が入った食品をよく食べていますね。
ちょっと話が逸れますが、ずっと添加物が入った食事を好んでいた子がそれを一切やめたあと、生野菜が食べられるようになったタイミングで発語が出たということがありました。


あとはどの時点で発達のヌケが埋まったか、も育ちきる、治り切るに関連性が高いと思います。
たとえば、就学前にヌケが育った子と、就学後にヌケが育った子。
年少でも、年中でも、その時点で発達のヌケが育ってしまえば、同年齢と比べて幼かったとしても、体験の差はそこまで広がっていないので、遅れても積み上げ、徐々に追い付くことができます。
一方で就学をまたいでしまうと、幼児期にヌケがあってできなかったこと、体験できなかったことをやり直していくのが大変になります。
単純に普通級で学べなかった、支援級・支援学校のため、日々の体験の差、学習の差が大きくなった、というのだけではなく、発達にヌケがある状態で10年近くなると、神経発達的にもダイナミックな変化が生じにくくなってくるからです。


これはヒトの発達を考えれば当然のことで、生まれ出た環境に適応して発達していくのが大体、8歳くらいまでで、それ以降は、そこの発達の部分に多くのエネルギーを割かなくなり、生涯に渡り、度々ダイナミックに神経発達を起こしていては、大きくなった身体、命を保つだけのエネルギーが足りなくなるわけです。
生涯神経発達は生じるとはいえ、やはりどうしても神経発達が盛んで、メインな時期があるのも事実で、それが大体6~8歳がピークになります。
そうなると、ドカンという発達が生じやすいのが幼児期の子ども達で、就学後の子ども達は1つ1つコツコツと丁寧に育てていく必要があります。
で、さらに就学後、コツコツと丁寧に育て、ヌケが育った時点での形作られた神経ネットワーク(環境に適応した発達形)の再構築、じゃあ、今から3歳の頃、やるべきだった遊び、運動、社会性を今からやりましょうかとなると、物理的に難しくなりますし、ダイナミックな神経発達が起きる時期を過ぎているので、そこもさらにコツコツと丁寧に育て直しが必要で…となるわけです。


発達障害と呼ばれるほとんどの子ども達は、単に発達がゆっくりなだけ、ヌケがあっただけなので、時間が解決してくれます、もちろん発達に必要な刺激と栄養は必要ですが。
しかし、中には時間だけで解決できない子ども達もいるのも事実です。
強度行動障害の人達の中にも、赤ちゃんのときから四六時中かんしゃくを起こしていた、短眠の繰り返しで睡眠が安定しなかった、食べるということ自体が難しかったなど、どう考えても生物学的な課題を持ってきたといえる人がいました。
ですから、生物学的な困難を抱えてくる子がいて、その子達はなかなか一般的な発達の状態まで育っていかない場合もあると思います。


じゃあ、そういった子ども達、親御さん達に、私は何ができるのか。
どのような発達相談、発達援助を提案していくことがその子ども達のより良い未来へと繋がっていくのか。
親御さんの持つ子育ての力を萎ませることなく、後押しすることができるのか。
このことが今後の私のテーマであり、課題になると思っています。
どう考えても、同世代の人と同じようになるのは難しい。
でも、発達援助の素晴らしいところは、いつからでも始められて、やれば発達や成長、生きやすさに繋がっていくことができる。
だからこそ、この仕事は難しいのかもしれないと思う今日この頃です。




2021年8月3日火曜日

【No.1181】資本主義の原理のもとにギョーカイが成り立っている

函館は25万人規模の市なので、ご丁寧に一人ずつ陽性になった人の報告があります。
それを見ていると、ほぼ無症状、軽症。
2019年まででしたら、病院などにかからず、各自が自宅で治していたはずです。
というか、ほとんど気づきもしなかったと思います。
そういった人達までをも、せっせと入院させるんだから、いくら病院があってもすぐにキャパ越えしてしまいます。
全国にある病院のベッドの2%のみしか使わず、これで「医療崩壊だあ~!」と叫ぶのなら、いっそのこと、医療崩壊してしまえば良いと思いますよ。
そうすれば、政治が決断できなくとも2019年以前の世界に戻ります。
とにかく陽性になれば、全員入院というほうがおかしいのです。


とにかく医師が診断したら発達障害というのも、同じように異常だといえます。
診断される前と診断された後では何が変わるのでしょうか。
子どもはいきなり障害者になるの?
そこを境にして一般的な子育てはしちゃいけないの?
普通の親子の生活、遊びよりも、療育というやつに行かないといけないの?
それをやるようにしなきゃ、子どもはどんどん異常になっていくの?
いいえ、そんなはずはありません。
だって、受精した瞬間から今まで子どもは生きていて、歴史は続いている。
だから、診断されたからといって、何かを大きく変える必要はないと思うんです。
我が子を育てることには変わりないでしょ。
どこかわからないところから、いきなり子どもが現れたんじゃないんだし。


一方で医療、福祉などのサービスを提供する側としては、診断後、変わってもらわないといけないんです。
そもそも資本主義というのは、ニーズを生みだすことで発展してきたのですから。
目の前に発達に遅れがある子がいる。
その子を診断しなければ、そのまま、家族とともに普通の子育てが行われていたのです。
でも、一旦、診断をつければ、一気に障害児に変わり、そこからいろいろなサービス利用の可能性が出てくる。


もともとは無で、お金は必要ないのです。
子育ってて、基本的に無料でしょ。
公園で遊ぶのだって、海で遊ぶのだって無料。
だけれども、障害児になり、サービスを利用すると、急にお金が出てくる。
そうやって、もともと無だったところから、ニーズを作りだし、そしてサービスを提供することでお金を得ていく。
無症状の人は、2019年までは普通の人だったわけ。
しかし、「無症状も病気」と決めたから治療対象になった。
傍から見ると、自分たちで病人を作り、薬だ、入院ださせて儲けていないの??
さらに全世界の人を対象にワクチンまで打とうとしている。
手法はどちらも一緒です。


発達相談をお受けしていて、よく思うのが、「そのニーズは誰のニーズ?」ということです。
発達に遅れのある子が、一般的な子育ての中で、遅れを取り戻し、将来自立して生きていければ、支援のニーズはなし。
だから、必死にギョーカイは啓発するのです。
そして「早期診断、早期療育」と叫ぶ。
「生まれつきで治らない」というのは、そうでなきゃ、支援を受けるニーズが生まれないからです。
すぐに治っちゃうと、そこで商売が終わってしまって困る。
だから、ダラダラと支援を受け続けてもらう。
でも、何かしないとバレちゃうから、やってます感満載の支援グッズを使ってアリバイ的な時間を過ごさせる。


ギョーカイが引っ張ってきた今の特別支援の世界は、ある意味、支援者にとっては見事な世界を作り上げたんだと思います。
彼らにすれば、結果は求められず、長期間、それこそ生涯にわたっての顧客、サービス利用者を作りだせたのですから。
少しでも改善や成長が見られれば、「私達の支援のおかげ」
改善や成長がみられず、反対に悪化したとしても、「それが障害だから、障害特性だから」となる。
どっちに転んでも、彼らにとってはOK。
「オリンピック中止を求める」と言っている野党やメディア、専門家、医師会連中と同じ構図。
陽性者が増えれば「それいったモノか」で、減れば「我々が注意喚起したおかげで」となる。


さらに「治らない障害」と洗脳されている親御さんからすれば、子どものIQが下がったり、症状が重くなったりすれば、「こんなに支援や療育を受けても、うちの子は良くならないのだから、よっぽど重いんだろう」と解釈してくれる。
そうなると、さらに医療や支援に対する依存性が高まり、「うちの子を生涯支援してくれる人たちに捨てられないように」とどんどん言いなりになっていく。
ここまでくれば、一丁上がりです。


医師会連中がメディアで取り上げるたびに、胸糞悪くなるのと同じで、私も元施設職員、元教職員として、自分が行ってきた仕事、特別支援の現状にネガティブな感情を抱きます。
こいつらが協力しないため、無意味な緊急事態宣言や自粛要請が出され、どれだけの人たちが苦しんだことか。
結局、医師会がごねたのはお金のためでしょ。
「オリンピックか、命か」などと、お前たちが言うんじゃない、と思いますよ。
散々、経済を壊し、人々の夢や希望、生きがい、そして命を奪ってきたのに。


大袈裟かもしれませんが、同じようなことはこの特別支援の世界でも起きていると思います。
診断さえ受けなければ、普通の子育てをし、普通の親子関係を築き、普通の親子の時間、家族の思い出をたくさん作れたのに、訳も分からない支援を受けさせ、挙句の果てに学ぶ機会と将来の可能性を奪ってしまう。
命までは奪ってはいないかもしれませんが、一人の人生をまったく違うものにした可能性だってあるのです。
そんな重い仕事をしているわりには、そこが見えていない医師、支援者、教員が多すぎです。


だから私は、家庭でできる発達援助を行っています。
それこそ、ギョーカイによってニーズが作られる前に、家庭で、子育てで、親子の中で発達のヌケや遅れが取り戻せることを目指しています。
あれこれ子育ての中で育てたけれども、育ちきらない部分は、その子にとってニーズがある部分だと言えるのでしょう。
最近はずっと1歳、2歳、3歳の子の相談が続いていますが、本当に支援が必要かなんてわかりません。
こういったお子さん達の目を見れば、本人たちにニーズはないのがわかります。
子ども達は発達がゆっくりかもしれないが、日々の生活を楽しんで生きている。
結局、このような子ども達に診断や支援を受けさせるのは、無から金のなる木を作っているだけにすぎません。
せめても自分たちの腕やサービスの質を磨き、一般の人ではできない特別な何かができるというのなら、自分たちでお金の実を育てているのですから文句はありませんが、脅して無理やりニーズを作るのは、「42万人が死ぬ」とやっていることは同じです。


私が学生だった頃、施設で働いていた頃とは異なり、ヒトの発達のプロセス、どのように神経発達が進んでいくか、どのような刺激が発達に繋がるか、などの研究が進み、幅広い情報や知見が積み重なってきています。
そこにアクセスするのは難しいことではありません。
しかし、特別支援の世界からそれらを探そうとすると、出てきません。
YouTubeなどのプラットフォームでは、(私企業ゆえに)ワクチンを否定するような発言はすぐに削除されています。
そんなたいそうなことじゃないけれども、ギョーカイも支援や療育に否定的な意見はすべて「デマだ」と必死に打ち消していくからです。
偏った情報からは偏った見解しか生まれてきません。


大事なことは、いろんな情報から、一人ひとりが考え、選択していくこと。
そのためにはアクセスできる情報に幅を持たせなければなりません。
私の知見や経験、情報も偏りがあるけれども、考える幅ときっかけを作ることを目的に発信しています。
できることなら、私を含めて、サービスを受けずに、各家庭でより良く育て、治っていくのがベストです。
「ニーズがない」「ニーズを感じない」というのが理想的な子育てができている証拠ですから。
子どもの視点に立てば、それが一番でしょ。
大人が作ったニーズになんか付き合いたくないはずです。




2021年8月2日月曜日

【No.1180】事業所一覧の紙を渡されても

知事のお仕事は気楽なものです。
「お盆期間の帰省の自粛を求めます」とアナウンスすれば、お仕事したになるのですから。
普通、帰省の自粛をお願いするのではなく、みんなが安心して帰省ができるように仕事をするのが行政の仕事ですよね。
たとえ発症しても、安心して医療が受けられる体制作り、準備を行うのが行政の仕事ですよね。
補償はしないけれども、お願いはする。
挙句の果てに、「国民の中で危機感が共有できていないことが問題」だと、なんだか我々のほうが悪いみたいな言い方をしている。


「孫の顔がみたいから」といって、せっせと治験中のワクチンを打ったジジババも少なくないはずです。
あれだけ「ワクチンを打てば、日常生活が戻せる」と言っていたお医者様たち、専門家の皆様たちは、心が痛まないのでしょうか。
これこそ、デマ太郎が注意すべき発言だと思います。
このように言いっぱなしで責任を取らないのが専門家。
行政も、自分たちは汗をかかず、ただアナウンスするだけで、「あとは国民の責任」と投げてしまうのが本質です。


似たようなことは発達支援における行政の姿にもみられます。
なにか支援を受けようとするとき、行政で渡されるのはその地域で利用できる施設の一覧です。
たとえば児童デイなら、〇〇市の児童デイ一覧がまとめられたものが手渡され、「あとはご家族で決めてください」と言われます。
でも、だいたい初めてそういったサービスを受ける親御さんですので、いきなり一覧を渡されても、どこが良いとか悪いとかわかりませんよね。
その地域に1つか、2つかしか施設がなければ、そこまで迷うことはありませんが、今は雨後の筍状態で乱立しているところが多いので、困ってしまうと思います。
だけれども、だれもそれぞれの施設の違いは教えてくれない。
行政は責任を負いたくないので、あとからメンドクサイことに巻き込まれたくないので、意見や説明を求められても、頑なに「ご自身の目で」と言い続ける。


これって、本当に不親切なことだと思うんです。
現実的な問題として、すべての施設を見学に行くことはできません。
たとえ見学に行ったとしても、表面的なことしかわからないと思います。
本来、我が子の課題、今後伸ばすべき点がわかって初めて、選ぶ基準が生まれるのですから。
選ぶ基準が曖昧ですと、「家から近い」ですとか、「利用時間が長い」「なんとなく施設がきれい」などという視点で決めてしまいがちになります。
そうなると、親御さんは良いか悪いか分からないまま、どんな効果があるかがわからないまま、施設が説明することをそのまま受け入れて利用してしまう。
そして実際に利用し、ときが立ったのちに、「ここは違うかも」と思えてくる。
ここでの問題は、費やした時間が戻ってこないことです。
訳も分からず利用していた発達支援が、発達に繋がっていなかったとしたら、その貴重な子ども時代の時間を無駄にしてしまったことにもなります。


一覧表の紙切れ一枚を渡して、お仕事になるのなら、気楽な仕事だと思います。
ですが、それではいけないと、国のほうも見直しが始まっています。
児童デイのあり方について、その専門性、質の担保について検討が行われ、この秋にも公表されることになっています。
どう考えても、今のように申請書の不備がなければ、だいたいOKというあり方はいけないと思います。
どの発達支援も、その原資は税金になりますので、税金の使い方として質の担保なしに認めるのはまずいでしょう。
だから、今日も一日DVDとか、公園に連れていってあとは自由とか、鍵のかかった何もない部屋で過ごすだけ、というような施設が出てくるのです。


児童デイに関しては、レスパイトと発達支援を明確に分けるべきだと思います。
今は発達支援という名のレスパイトが多すぎです。
確かに、レスパイトなら、子どもさんが一日怪我なく過ごしてくれさえすればよくて、募集要項にある「未経験者も大歓迎」という人達でも可能です。
なので、レスパイトならレスパイトとしての役割を明確に打ち出し、親御さんも納得の上で利用できるようのしたほうが良いと思います。


あと、発達に力を入れていると謳っているところは、「うちは発達支援事業所です」と打ちだし、きちんと質の評価をされるべきだと思います。
今どき、スケジュールカードを使っているから発達支援している、とは言えないでしょうし、そんなレベルでは恥ずかしくて外に言えないはずです。
少なからず、神経発達症ですし、発達が盛んな子ども時代なのですから、上辺の対処法ではなく、根本的な発達に寄与するものが行わなければ、税金を使って行う必要はありません。
だったら、学童や放課後クラブ、公文やスポーツクラブなどのほうがよっぽど発達に繋がります。


つまり、税金を使うのなら、もっといえば、ほとんどの国民は利用していないサービスを一部の人たちが独占的に利用するのですから、結果が問われなければならないのです。
今みたいに、「今日の利用者は5名です」で、5名分のお金が貰えるというのはダメだと思います。
ただDVDを観せていても5万円。
一生懸命、発達に繋がるアプローチを行っても5万円。
だったら、みんな前者のほうに流れるよねって、現在問題になり、ようやく見直しのための検討が行われているのです。


コロナ騒動後、福祉予算が削られるのは目に見えています。
当然、表向きは「支援の質の担保」ではありますが、実際は予算削減のための事業者同士の淘汰を目指したものになると思います。
すると、今後は事業者として選ばれるサービスができるかどうか、そしてそれをアピールできるかどうか、がポイントになっていくはずです。
そういった近未来を考えると、事業所ごとの特色が重要になっていきますし、そこで私のほうも商売になるかな、と思っています。
特色をつけるために一番簡単なのは、特色のある人間を入れる。
「〇〇氏の定期コンサルを受けています」とか、「欧米で認められている〇〇療法の認定者がスタッフにいます」とか、がインスタントにできる方法です。
どう考えても、いちから人を育てるのは大変ですし、そもそもがこの児童デイで生涯やっていこう、と思っているスタッフがどれほどいるか。
ですから、児童デイの質が問われるようになると、私たちのような個人でやっている支援者同士の質が問われるようになってくるだろう、とふんでいます。


「帰省しないでください」「県境を跨がないでください」
というのは、やっている感だけ。
やはりそこには実際の行動と責任がなければ、責務を果たしたとはいえないと思います。
どう頑張っても、「行動の自由」の上に知事は存在しない。
同じように、ペラッと一覧表を渡すだけの福祉行政もダメ。
ちゃんと行政の責任で、事業者を指定し、そして質の担保を目指すためのチェックは行わなきゃ。
行政的な手続きはわかるけれども、行政の中にそれぞれの事業所、支援サービスの内容の説明ができる人をつくらなければならないと私は思います。




*8月27~29日の予定で関東出張を行います。28日(土)は一日予定が決まりましたが、それ以外の日程でご希望の方がいらっしゃいましたらお問い合わせください。
てらっこ塾HP→ここをクリック
*8月4日、すべての訪問先が決定いたしました。受付を終了いたします。


2021年7月20日火曜日

【No.1179 】「雰囲気を読む」のアセスメント

マラソン世界記録保持者、ケニアのエリウド・キプチョゲ選手が出るということから、テレビをつけましたが、タモリさんの横に座っていた某ノーベル賞教授の顔の変貌ぶりに驚いてしました。
昨年、ジョギングも感染リスクがあると発信し、マスク着用を推奨していたのにも関わらず、いつの間にかその動画は削除され、何もなかったかのようにオリンピックの特集番組に登場している。
そういった単なる後ろめたさが顔に出ているのではなく、もっと深い何かが顔や表情、佇まいに表れていたと私は感じました。
医師の中には、「魂を売った」と言っている人たちがいますが、ヒトは道を外した行為をしたとき、それが周囲にバレていたなかったとしても、自分自身を騙し続けることはできないのだと思います。
そういえば、分科会会長も、ずっと悲しい顔をしていますね。
たぶん、自分が行っていることの中に、自分で気づいている嘘が混じっていることに悲しみを覚えているのでしょう。


乳幼児の子どもは、周囲にいる子どもが泣くと、自分の状況や感情に関わらず、泣き始めます。
保育園の小さな子のクラスに行くと、時折、涙の大合唱がみられます。
それはまだ自分という存在、自分という身体と他人との身体との違いが明確に理解できる発達段階ではないからです。
一人で歩けるようになり、一人で遊べるようになる。
でも、まだ自分と隣の子は繋がっているのです。
だから、隣の子が笑えば、自分も笑い、教室のあの子が泣けば、自分も泣いてしまいます。
この発達段階は、身体や感覚の未発達ゆえの共同体といった感じです。


一方で、0歳代の子ども達も、同じように近くにいた赤ちゃんが泣けば、つられるようにして泣き出しますが、1歳児以降、自分で自由に移動できるようになった子ども達と事情が異なります。
意味を解釈するのなら、生存本能としての反応です。
自分の耳に誰かの泣き声が聴こえてくる。
ということは、自分の周囲に危険が迫ってきているかもしれない。
だから、自分の親を呼ぶために泣き始めるのです。
それは笑い声が聴こえてきても笑わず、鳴き声のときだけ同調することで上記との違いがわかります。


で、さらに胎児期となりますと、同調に違いがあります。
それは母親だけに特定した同調になります。
母親の感情がそのまま胎児の感情。
へその緒でつながっていますし、胎児から見れば環境=母胎、母親ですから。
母親が感じたままに、それが胎児の感じたことになるため、母親と感情がシンクロするのです。


つまり、何を言いたいかと申しますと、子どもさんの感情の変化について、こういった発達段階を踏まえてアセスメントしていく必要があるということです。
単に感情が幼い、怖がりの性格、知的に遅れているから、発達障害だから、というのではなく、どのように感情が推移するかを確認する必要があります。
大事なのは、自分という子が確立し、状況に合った感情表出ができるようになることであり、ひとまず目指すべき姿です。


子どもさんによっては、終始泣いていたり、突然感情が爆発したり、脈絡もない感情の表出が一日中生じることがあります。
それは上記で挙げた「母子一体」「生存のための反応」「未発達ゆえの共同体」からも外れた段階に課題があるといえます。
周囲の雰囲気に気づく、同調する以前に、自分の内的な感覚、刺激に感情が振り回されている状態です。
ですから、ここは発達の段階というよりも、神経発達、もっといえば、神経同士の繋がり、ネットワークに課題があると考えられるのです。


発達相談において、お母さんが緊張していると子どもさんも緊張していて、お母さんがリラックスできていると、子どもさんも伸びやかに遊び始める姿をよく見かけます。
確かに、発達段階的に言えば、母子一体の段階ですので、胎児期の発達段階です。
でも、それが悪いわけではなく、じゃあ、そこから周囲の雰囲気に反応できる段階まで育てよう、という目標が生まれるきっかけになるのです。
同じように、園で他の子が泣けば一緒に泣いてしまう段階なら、次は自己の確立を目指し、未発達の感覚、身体を育てていこうという話になります。


これだけ全国的に猛暑で、「熱中症に気を付けて!」「昨年は子どもを含む、100名くらいが熱中症で亡くなっています」とアナウンスがあっても、かたくなにマスクを外そうとしない、また子どもに強要する人達がいるのは、マスクをすること自体が目的化してしまっているからです。
発達検査が半年待ち、就学先を決めるために検査を受けてきてください、というのは、まさにこのマスクと同じ。
「子どもさんをよく見る」ということは丁寧な確認作業を行っていくことであり、それはなぜ行うかといえば、よりよく子育て、発達援助を行うためです。
アセスメントというのは、必ず具体的な子育て、発達援助と繋がっていなければなりませんね。




2021年7月14日水曜日

【No.1178】問題の根本を知ることから始めましょう

アメリカ大リーグのオールスターは、まさにお祭り騒ぎといった感じで、超満員のスタジアムでみな、歌うし、飲むし、抱き合うし、大声を出して歓声を送っていました。
一方で、日本のプロ野球は1万人の観客で、マスク姿にパチパチと手を叩くのみ。
しかも、神宮球場からちょっと歩けば、国立競技場。
で、どういったわけか、オリンピックは無観客。
新コロちゃんはちゃんと意思があるようで、国内のイベントとオリンピックの違いがわかるのでしょう。
国立競技場は材木をふんだんに使っているので、新コロちゃんたちが集まりやすいのかもしれません、エビデンスは無いけど。
横浜球場でベイスターズの試合は有観客だったけれども、オリンピックの野球の試合は無観客という謎理論。


結局、ウィルスの問題じゃなくて、制度の問題、政治と医師会の問題でしょ。
今までのコロナウィルスのように、体調の悪い人が近所の医療機関を利用できればここまでバカ騒ぎする必要はありません。
「発熱者お断り」なんていうのを病院の扉に貼るのが諸悪の根源。
医師が病人を診なくて、何を見るのでしょう。
元気なお年寄りですか(笑)
慢性疾患を抱えた元気なお年寄りが一番おいしい商売だから、医師を志したときの「病気を治す」という想いを忘れてしまったのかもしれません。


昨日の続きですが、就学相談でも「無理して普通級(支援級)に行けば(支援学校を勧めている)、二次障害になる場合も」なんていう輩が出てきたそうです。
それは就学後とかにとっておく手だったでしょ。
就学相談でその手を使うようになったなら、よっぽど苦しくなっているのでしょう、今の親御さん達に対するのは。
ひと昔前の親御さん達は、「はい、わかりました」が多かったけれども、今はスマホですぐに情報共有ができますからね。


なにかにつけて、「二次障害になる」という言葉を使います。
「もし何も感染対策をしなければ、42万人死ぬ」みたいな西浦理論ですね。
だって、何もしないわけはないし、まったく1ミリも成長しないわけはないですもん。
で、二次障害にならなくても、決してそういった人達は謝らない。
「私が大袈裟に言っておいたから、42万人も死ななくて良かったでしょ」と同じです。
就学相談でも、その他の学校や支援機関でも、言いっぱなし、やりっぱなし。
その子がどんな将来を歩もうとも知ったこっちゃない。


もちろん、42万人じゃないけれども、死ぬ人もいれば、二次障害になる子もいるでしょう。
でも、それは少数派です。
もし発達障害の人の大部分が二次障害になるのなら、それは発達の障害ではなく、精神障害になるはずです。
そうじゃなくて、発達の障害というか、発達の遅れ、不具合な状態なのですから、二次障害がレア事例です。
そのレア事例を持ちだして、他人の家に土足でどかどか入ってくるのは失礼にもほどがある。
子育ての問題、家庭の問題なのに、どうして他人がとやかくいえるのでしょうか。


「"二次障害になる"と言われました」と相談される親御さんに対して、「だったら、二次障害になっても治してみせます」と言ってみたらどうですか、と助言したことがあります。
二次障害になるのは親御さんの問題なのでしょうか。
親御さんが支援学校ではなく、支援級または普通級を選択したことが原因なのでしょうか。
そこんとこをよく考えた方が良いと思います。
親が子どもの成長を願い、可能性を信じるのは当たり前。
できるだけ将来の選択肢を狭めないような道を選ぶのは自然なことでしょう。
で、もし学校に通っている間に、二次障害になるのなら、それは学校の問題もあるでしょ。
100%親の問題、家庭の問題とはいえないはずです。


そして私がもっとも言いたいのは、医療、支援者、あんた達です。
そもそもといえば、医療が二次障害を治せないのが問題なのです。
二次障害には投薬??
それって症状を抑え込んでいるだけで、対症療法でしかありません。
どうして二次障害、精神的な不調をきたしているのか、そこの原因、根っこから解決しないと治らないのです。
そういう意味で、二次障害になっても治せる医師が(ほとんど)いない、から縮小生産の方向へ進むのです。


二次障害になっても治せる医師がいない。
だから、二次障害にならないようにする。
そのために、頑張らせない、無理させない。1ランク下げた選択肢を選ぶ。
子どもの成長のために、支援級、支援学校なら良いのですが、二次障害にならないために支援級、支援学校はとても危険な発想です。
それがどこに行き着くかと言えば、何もしない、施設の中でただ時間が流れていくのを待つだけになって、昔の福祉に逆戻りです。
せっかく特別支援ができて、これだけ認知が進み、親御さんが利用できるサービスと知識が増えたのにもかかわらず、結局、福祉施設で一生涯面倒を見てもらえばいいや、というのは非常にまずいのです。


精神科病棟には何十年も入院し続けている人たちがいます。
福祉施設には何十年も入所し続けている人たちがいます。
コロナ後の世界は、中小企業がボロボロになり、そのまま再建できず潰れていくか、一部の大企業、投資家に買いたたかれていくでしょう。
効率効率の流れの中に、日本の社会、そして教育も飲みこまれていく。
そうなったとき、人を育てる、子が育つという一番効率から離れた場所にある大切なものが渦の中に飲みこまれる可能性は小さくありません。


既にリモート授業が行われ、これだったら優秀な一部の先生が全国の小学生、中学生に同時進行で授業を行えばよいではないか、という話も出てきそうです。
で、もちろん、それは特別支援教育を受ける子ども達にも当てはまり、むしろ普通級の子ども達よりも先に効率化の流れに飲みこまれる可能性だってあります。
何故なら、ずっと、私が学生時代から20年以上も、「どうせ、卒業後は福祉だろ」と言われているから。


どうせ、二次障害は治せないから、支援学校に行く。
どうせ、支援学校に行ったら、自立しない、一生福祉だから、一生懸命教育しない、できるだけ平穏無事に学校の時間が終わればいい。
というか、自分が担任の間だけ、問題が起きなければいい。
親御さんも、どうせ自立できないなら、支援学校でのんびり過ごしてもらえばいい。
楽しく学校に通ってくれさえすればいい。
二次障害にならないように、無理させないでほしい。
どうせなら放課後の迎えは移動支援を使い、そのまま児童デイで過ごしてほしい。
オーバーに書いてるように見えるかもしれませんが、私が約20年間で見てきた現実です。
それがコロナ騒動で加速する気配がするので、危機感を持っているのです。


病院が診てくれないから、コロナに罹りたくない。
だから、どんなに暑くてもマスクをするし、過剰な自粛と感染対策を行う。
そうじゃなくて、最初からコロナは医療が治せないし、治すのは一人ひとりの自然治癒力だと認識することです。
同じように、医療は二次障害を一時的に抑えることはできるけれども、根本から治すことはできない。
だから「二次障害になりますよ」と脅されても、結局、二次障害になろうがならまいが、自分自身で頑張るしかないし、家庭がより良い子育てを目指して行っていくしかない。
発達障害の分野において医療ができることは診断と投薬のみ。
やることは一緒なら、最初からいつでも行ける道を選ぶのではなく、チャレンジできる道を選んだ方が良いと思いますよ。
結局最後は親御さんの覚悟です。




2021年7月13日火曜日

【No.1177】丸腰で就学相談に行ってはならない

予想はついていたんですけど、やっぱりな、という感じです。
オリンピックの無観客の話ではないですよ。
支援級、就学相談の話です。


昨年とは異なり、例年通りこの時期から活発に就学相談が行われています。
で、なにが"やっぱりな"かと申しますと、支援級の普通学級化です。
以前ですと、当然、支援級になるよな、という子ども達が、「支援級は難しい」「支援学校が妥当だ」と就学相談で言われることが増加しています。
で、支援級が妥当と言われる子ども達は、どう考えても普通級で学べるでしょ、という子ばかり。
様々な方面から話を聞く限り、どうしたら普通級に在籍になるのか、よっぽど従順な子ども以外は普通級にならないでしょ、という感じです。


数年前からこの流れはありました。
どんどん支援級に入るのが難しくなっている。
で、支援学校ばかり勧められる。
もっといえば、実力から上、同等ではなく、一つ下の学校が勧められる。
頑張れば普通級で学べる子が支援級へ行き、支援級で学べる子が支援学校に行く。
それがコロナ騒動で、加速した印象を受けます。


ここからは公務員ディスりなのですが(笑)、同じ給料ならできるだけラクな方向へ流れるのが大部分の公務員の特性だと思います。
特に学校の先生は、売り上げなどの成果が目に見える形にはなりません。
しかも、コロナ騒動で、いろいろとめんどくさいことになっている。
だったら、平時でもラクしてお金を得たいな~と思いがちの人達なのですから、少しでも楽になりたい、じゃあ、クラスの人数は減らしたい、と思うのは自然な感情でしょう。


普通級の担任は、できれば一人でも児童が減ってほしい。
で、ちょっと従順ではない子がいれば、「支援級へ」となる。
常套手段は、「苦手な算数だけ個別指導を受けてみては」と、表面的には子どものことを想っての提案を行い、慣れてきたところで、「やっぱり個別指導だと、よく理解できますよ。だから、支援級へ転籍しては」ともっていく。
このパターンは、全国共通で、古典的な方法です。


支援級もそうですし、支援学校もですが、児童に対して先生の数が決められています。
財源に余裕がある市町村は別ですが、だいたい3対1で、肢体不自由の学校などは2対1、または1対1の配置になる。
ということは、普通級とは異なり、児童が一人増える、減るは大きな意味を持ちます。
普通級はよっぽど児童が増えない限り、ふたクラスに分かれることなく、大きな増減はありません。
でも、支援級&支援学校は1人増えると、先生を1人増やすことができる可能性がある。
とすれば、先生が増えれば、それだけ学校内の分掌、仕事が分担できるわけです。
全体から見れば、仕事がラクになる。
北海道なんかは組合が強いから、先生を増やして組合員を増やそうという流れもあるのです。
そこんとこでいえば、支援級、支援学校は、普通学級よりも先生が増やしやすいわけです。


就学相談で、頑張るよりも、頑張らない選択を迫られることは日常茶飯事です。
「あなたの子は、支援学校に行った方がいい」
なんていうのを、なぜ、年長の夏、秋に言い切ることができるのでしょうか。
「この2週間を頑張れば、元の生活に戻る」くらい、根拠のない言葉です。
発達途中の6歳の子どもを目の前にして、どうして小学校6年間がわかるのか。
そんなことを言うと、「今までの経験から、そういえるのです」と就学相談の先生や医師は言うけれども、それが当たらないから、みんな自立しなくて困っているんだろ、ってツッコミを入れたくなります。
こういう自分の経験、つまり、専門家というのを盾にしてモノを言う奴らは、どうせ、子どものことなんか見ていなくて、診断名くらい、検査の数値くらいしか見ていないものです。
だから、キーボードを叩いて「42万人で出マチター♪」とそのまま、〇〇丸出しで公言してしまう。
「もし感染対策を何もしなかったら、〇〇になる」で良いなら、なんとでもいえる。
「もし支援をまったく受けなければ、二次障害になる」
バカやろう、ギョーカイの支援を受けないからと言って、親が何もしないわけじゃないだろ。
感染症の専門家が個人の免疫を無視したように、子ども達の発達する力、成長する力、そして親御さんの子育ての力を無視するな、バカにするなよ。


ということで、やっぱりコロナ騒動を絡めてしまいましたが、今日言いたかったことは、全国的に実力以下の選択を迫られるケースが増えているということです。
知的に問題なく、とくに問題行動もないけれども、就学前に診断を受けていたから、療育・支援を受けていたから、というそれだけで、普通級ではなく、支援学級が勧められることもありました。
そうなると、支援学級が勉強ができて、席に座って授業が受けられて、でも、幼少期診断や支援を受けた子になる。
つまり、普通級で学び成長していた子ども達が、支援級の多数派になっていくのです。
そうなると、教科学習をする力はあるけれども、コミュニケーションの部分で、社会性の部分で、ちょっとこだわりなどの特性があって、という子ども達がどんどん支援学校へ送られていく。


これって、本当に子ども達のためになるのでしょうか。
年長の夏に、小学校6年間が決められてしまうのです。
しかも、頑張るではなく、頑張らない方に。
その根拠は、某会長が「人流」「飲食店」とオウム返ししているように、専門家としての勘です。
直感と当てずっぽは違います。
特に、そんなちょっと会ったばかりの就学相談の人たちに、子どもの6年間が見えるわけないのです。
彼らは教育"行政"を担う人なので、どのような配置をしたら人事がうまくいくか、いや、よく言い過ぎましたね、ただ来年度の児童数、生徒数を見て、振り分けているだけ。
この振り分けは早くしないと、夏は教員採用試験がありますし、秋ぐらいから異動の調整が始まりますから。
単に一年間のスケジュール通り、右から左に流しているだけ。
だって、これが滞ると、教育行政としての仕事が増えるでしょ。
どうせ、同じ給料ならラクがしたいのは、現場だけではないでしょう。


テレビばかり観て、流れてくる情報をただ受け取っている人達は、このクソ暑い日にもマスクを付け、衝立の中で飯を喰い、言われた通りに行動している。
まるで畜牛のようです。
政府や行政、会社の経営者などは、管理しやすい方向へと持っていきたいものです。
何も言わず、従順に指示に従ってくれさえすれば良い。
それが大人の社会から大学生へ、大学生から高校生、中学生、小学生、そして幼児教育に間で侵食しています。
それがコロナ騒動から見えることですし、現場の学校の先生も「できるだけ従順な子」を育てたいし、求めたくなっている。
ですから、情報を自らとりに行かない人間は家畜のように、他人に支配された人生を送るのです。
丸腰で、就学相談に行ってはいけません。
就学相談員、医師、専門家がそういったから、そうしますは最悪です。
すると、どんどん管理がしやすい方向へ持っていかれていまいます。
特別支援の世界における「管理がしやすい」は、支援者に従順な人間、つまり、福祉適応する人間になるということです。
コロナ騒動で、この流れは強くなった気がします。
皆様、情報は受け取るものではなく、取りに行くものです!




2021年7月6日火曜日

【No.1176】無駄という余白に発達が生じる

ある人は祭りについて、「人間の愚かさの解放」だと言い、またある人は「定期的に密になることで、集団免疫をつけるため」だと言っていました。
明日は七夕で、函館市内の子ども達は各家を回ってロウソク、お菓子を貰うという行事がありますが、昨年に続き、自粛のお達しがでています。
お祭り、行事、文化というのは、一度途絶えると再興するのが難しいと言われています。
文化というものの本質が、ヒトからヒトへの受け継ぎによるものだからでしょう。


目に見えるモノ、確認することができるモノしか認めないような、価値がないような、そんなことを言っているから人間として進歩し、ヒトとして退化しているのだと思います。
心身の健康には動物としてのヒトに戻る機会が必要で、それが一見するとやってもやらなくても困らないように見える祭りという空間に存在していたはずです。
日常と非日常は、人間とヒトに言い換えられます。


教育や保育、家庭での子育てを拝見させていただく機会が多い私ですが、人間を育てようとする大人が大多数だと感じます。
とくに発達に遅れのある子ども達に対する教育、支援の場合、「なるべく早く人間に育てよう」「少しでも人間らしくなるように教えよう」という雰囲気が伝わってきます。
人間として困っているのか、ヒトとして困っているのか。
そういった視点が乏しいのが気になります。


人間として困っている部分は、社会という環境の中で折り合いがついていないということですから、環境に対するアプローチが中心になります。
しかし、環境側も生きていますので、常に良い具合に折り合いが付くわけでも、折り合いが必ず付くわけでもありません。
理解を求めても、理解したくない人もいる。
環境調整をしても、別の場所には持っていけないこともある。
ですから、発達障害を人間として困っていると捉え、環境側との折り合いをつけようとしている限り、本人に進歩はありません。
日本の特別支援の誤りは、ここにあると考えています。


発達障害は「生まれつきの障害」というような誤解が生まれるくらいですから、胎児期を含め、発達の初期に生じている不具合だとわかります。
この発達の初期とは、ヒトの部分ではないでしょうか。
ヒトとしての部分、動物としての部分に不具合があるのなら、そこを育てようとするのが道理です。
でも、特別支援はヒトとしての育ちを無視し、あくまで人間の部分に、そして環境に適応することを目指してしまっている。
だから、障害者として生きる環境、つまり、福祉適応を主眼として学校教育が行われ、その福祉のような学校教育に合わせて幼児教育や療育が行われてしまっているのです。


今の子ども達を見ていると、ネットの世界に非日常、祭りを求めているような気がします。
大人の目の届かない場所がどんどん減ってしまったからでしょう。
目に見える成果ばかりが求められ、子ども達から無駄が取り上げられてしまったこともあるでしょう。
大人の目の届かない場所は非日常的な空間であり、無駄な時間はヒトとしての育ちに戻る機会だといえます。


特別支援の世界では長らく、クルクル回るとすぐに止められ、ハイハイをすると「ちゃんと歩いて」と言われ、洋服の首元をかじると「それでは福祉施設で嫌われる」と言われてきました。
でも、それはすべてヒトとしての育ちで必要な行動。
発達障害の子ども達も同じように、無駄が撮り上げられてしまった結果、歪みが大きくなっているのだといえます。
年々問題が大きくなる子どもというのは、行き場を失ったヒトとして育ちたい欲求が膨らみ続けている結果のように感じます。


赤ちゃんは成果などが求められ、発達成長しているわけではありません。
また人間としての作法を教え込まれることで、発達成長しているわけでもありません。
無駄に動き、無駄に触り、無駄に遊ぶことで、ヒトとしての土台を培っていく。
ですから、早期療育なんて百害あって一利なし。
彼らは徹底的に無駄を無くし、家ではできない、ここでしか、私達専門家しかできない支援をやろうと動いているのですから。
そうしなきゃ、お金(税金)は貰えませんので。


発達が遅れているから、あれもしよう、これもしよう、は逆効果です。
むしろ、発達が遅れているからこそ、赤ちゃん時代のような環境、時間にとらわれない自由で無駄な時間が必要なのです。
なので、成果が先にある夏休みの計画は大概失敗します(笑)
「感覚に遅れがあってそこを育てたいから、キャンプをしよう」は、家族がイライラする元です。
あそこのキャンプに行ったら楽しそう、だから行く。
行ってみたら、たくさん遊べて良かった。
で、帰って来たら、こんな変化があった。
これが自然なヒトが育つ姿です。


祭りを楽しむのは、人それぞれ。
だけれども、祭り自体が開催されなければ、ヒトに戻る機会、ヒトとして育つ機会が失われる。
だから、大人は祭りを開催するための準備と、子ども達が思いっきり楽しめる環境を用意する。
私は祭りのような非日常的な時間、成果から解き放たれた無駄な時間にこそ、ヒトとしての発達が起きる可能性があるのだと考えています。
発達のヌケは育てようと思って育てるのではなく、自由に育てられる環境の中で過ごしていたら自然と育っていた、というものだと思うのです。




2021年6月30日水曜日

【No.1175】人間の脳は強い不安と出くわすと、考えることができなくなる

河野大臣はブログ内で、ワクチンデマを流す目的を4つ挙げていましたね。
①ワクチンを批判して、自分の出版物やオリジナル商品に注目を引きよせて、お金を稼ぐ
②科学よりも自分の信奉するイデオロギーに基づいて主張する
③過去に誤ったことを発言したために抜け出せなくなっている
④自分に注目を集めたい
簡単に言えば、「お金」「主義主張」「保身」「愛着障害」のために、ということになるでしょう。


私はこのブログ、そして前後で行われたメディアでの発言を見て思ったのは、相当困っているんだな、危機感を感じているのだな、ということです。
大規模な集団接種会場を作ったのに接種する人が少ない。
また高齢者の接種が思うように進んでいかない。
若い世代の中には、接種するメリットがほとんどなく、リスクのほうが大きいことに気づいている人たちが少なくない。
つまり、それはワクチン接種における大臣の責任問題につながる。
①のお金を政治家生命、またゆくゆくは総理大臣に、という言葉で置き換えると、そのまま4つともご自身に当てはまってしまうわけです。


「イデオロギー」「主義主張」で発言することは何ら問題はありませんし、ある程度、大人になって、社会人としての年数が経って、なんの主義主張もないほうが問題です。
よって、人が何かを発信しているときは、上記の4つに分類しようと思えばすることができる。
ということは、この発言において私達が注視しなければならないのは、「デマ」といったところだと思います。
「デマ」というのはレッテル貼りで、それ以上、議論しないし、考えないという意思表明でもあります。
本格的な接種が始まって1年も経っていないのですから、常識的に考えれば中長期的な影響は「わからない」というのが正しい。
大臣も、取り巻きの医師も神様ではないので、「わからない」というのがわからないわけではないのですから、彼らなりのイデオロギーがあり、お金と愛着障害、保身のためにそうさせているのでしょう。


特別支援の世界に「標準療法」というものがあると仮定しますと、それ以外のアプローチはすべて標準から外れた方法になります。
しかし、どの世界にもそれまで標準であり、それが有効だと考えられていたものが、新たな発見によってひっくり返ってしまうことは珍しくはありません。
むしろ、科学の発展、人間の知恵の進歩のためには、それまで常識を疑うこと、否定することからしか始まりません。
それまでの標準とは違ったものが生まれたとき、生まれようとしたとき、そこに興味を示し、またその可能性を信じ、掘り下げていこうとする者が発展の力になるのです。


だけれども、そういった人達に対して、「トンデモ」「エビデンスがない」「デマ」という言葉を掛けてくる人間がある一定数います。
それは先ほど述べた通り、レッテル貼りであり、「もう考えたくない」という意思表明であります。
じゃあ、なぜ、「考えたくない」というのでしょうか?
もしかしたら、別の可能性があるかもしれないのに、もしかしたら、現状の不満足を解決してくれるかもしれないのに。
特別支援で言えば、どうせ自立しない支援なのですから、ゼロと一緒、何もしていないのと一緒、いや、むしろマイナスでもあるのに。


私達人間は、大脳皮質で考えます。
現状と比べたり、未来を想像したり、情報を分析したり。
一方でレッテル貼りをする人間というのは、大脳皮質に情報が伝わっていないのです。
どういうことかと言いますと、古い脳、大脳辺縁系を中心に感情で処理してしまっているということです。
動物は強い不安や緊張、身に及ぶであろう危機感と直面すると、通常とは異なる情報処理の仕方を行うことがわかっています。
現代とは異なり、自然の中で生きてきた私達の祖先は、天敵の動物と出くわしたとき、いちいち考えて行動していてはすぐに食べられてしまいます。
だから、考えることを敢えてせず、感情や原始的な反射で対応していたのです。
その名残が我々の中にも当然残っていて、サバンナでの肉食動物が、現代の社会的な危機に替わり、ある意味、サバイバルしているのだといえます。


函館も連日20℃を超え、顎マスクの人たちが増えてきました。
私は潔癖症ではありませんが、あの汗ばんだ顎マスクをまた口に持っていくかと思うと、それだけでゾッとします。
しかし、彼らからすれば、最初に怖いものとして反応してしまったコロナ、また多数派から外れることで感じる危機感に対して、原始的な脳で処理してしまっているのだと思います。
ですから、夏は熱中症のリスクがある、コロナは日本人の0.04%しか陽性になっていないし、その8割が軽症または無症状者、20歳以下は誰も死んでいない、といっても、聴く耳を持たないのです。
そもそもが大脳皮質に伝わっていないのですから。


サバンナの大地で生活していた私達の祖先は、集団になることが獲物を得る手段であり、肉食動物からのリスクを分散する方法だったのだと思います。
そのように考えると、治験の終わっていないワクチンを勧める人達、副反応で亡くなる確率は云々と言っている人達は、ワクチン接種という集団を形成し、リスク分散、自身の生き延びる確率を上げようとしている人たちなのかもしれません。
同じように標準療法(?)を辞めよう、特別支援ではなく普通の園、学校を目指そうとする人達は、彼らにとっては集団から出ていく人間であり、自分たちのリスクを高める要因になります。
万が一でも、出ていった人間が自分たちの知らない豊富な食べ物、安全な土地を見つけたりすれば…。
特別支援の世界から出ていった人たちが課題をクリアし、より良く成長し、自立していったら、身の危険が及ぶのは集団に残った人たちになります。


限られた食べ物を集団で分け合いながら細々と生きていく集団は、やがて小さくなり、消滅していきます。
一方で集団を飛びだし、新たな環境を手に入れた集団は生き延び、また次の世代を残すことができる。
特別支援の世界を出ていった親御さん達が、集団から指を指されていたように、集団から離れていったご先祖様も、後ろ指を指されていたかもしれません。
しかし、その一歩がなければ、現状を変えることはできないのです。


特別支援の結果は、もう十分すぎる程出たでしょう。
小学校から高校までだとして12年間、早期診断・療育をつかったとしたら、15年以上。
そんだけ税金と時間、家族のかけがえのない時間を使って、「やっぱり卒後は福祉でしたね、テヘッ」でどうするんです。
その場所にそれ以上いても、得られる食べ物はありません。
むしろ、誤診連発で、じゃんじゃん「発達障害」というレッテル貼りが行われている結果、食べ物が喰い尽くされた場所に、どんどん新しい人たちが入ってきているのです。


コロナ騒動で経済はボロボロ。
子どもの数は減る一方でしょう。
でも、特別支援という集団には、次々と人がやってきている。
そんなんで限られた資源、支援が、全員の手に渡るとお思いでしょうか。
考えれば、0.5秒くらいでわかることです。
しかし考えられない人がいて、考えようとしない人がいる。
その人達は大脳皮質ではなく、感情で反応している人達。
たった一度の出来事でも、強烈な不安とぶつかると、ヒトは考えることができなくなってしまうのです。


ですから私は特別支援に入る前、診断を受けに行く前が勝負だと考えています。
一度足を踏み入れてしまえば、霊感療法と同じで、ネガティブな情報ばかりです。
「もしかしたら、うちの子、発達が遅れているかも」
そんなときにポジティブな情報、アイディアを提供していきたいと考えています。
そのときなら、ヒトはまだ冷静に考えることができますので。
考えた上で、特別支援の世界に入るのは自由。
だけれども、考える間もなく入ってしまうのは、親御さんにとっても、子どもさんにとっても、マイナスなことが多いと思っています。