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【No.1105】因果関係ではなく、育つための糸口として捉える

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神経発達症の子ども達は、神経に「未成熟や未発達の部分がある」ということだといえます。 ですから、もし彼らに有効な薬があるとすれば、神経の発達を促す薬になるでしょう。 しかし残念ながら、そういった薬はありません。 今ある薬、処方されている薬は、彼らの症状を抑えるためのものになります。 表に出ている症状によって、生活に支障が出ている人もいるでしょう。 そういった人たちにとっては緊急事態ですから、一時的に症状を抑える必要があると思います。 でも、緊急事態は緊急事態であって、生涯、永遠に、ということはないはずです。 根本的な解決を目指すとすれば、彼らの神経をよりよく育てていく以外ないのです。 実生活で何らかの支障が出る。 そして受診し、薬が処方される。 ドーパミンやノルアドレナリンなど、神経伝達物質を調整することで症状の緩和や抑え込みを目指していく。 しかし、ここでしっかり考えなければならないのは、神経伝達物質の問題が症状と直接結びつているかどうかです。 たとえば、授業に集中できない子がいるとします。 そこで中枢刺激剤が処方され、服用するというのが一般的な流れですが、授業に集中できないのは、神経伝達物質の問題だけではないはずです。 そもそも中枢刺激剤は、神経発達症以外の人が服用しても集中力が上がるものでもあります。 本来、医学的な処方をするのでしたら、他人の身体の中に何かを入れるという判断をするのでしたら、それなりの根拠が必要になります。 しかし全国を探して、わざわざ学校まで子どもの様子を見に来てくれる医師はいるのでしょうか。 というか、ここに神経発達症における医療の限界があるのだといえます。 つまり、因果関係がはっきりしているものに対して強いのが医療。 だけれども、いろんな影響と可能性が考えられる複雑系のものに対しては限界がある。 (授業に集中できないのは、聴覚(≠前庭系)の未発達、身体の軸が育っていない、腰が育っていない、脳の未分化、栄養不足、睡眠の乱れ、汗がかけない、そもそも授業がつまらない、先生が嫌いなど無数&複数の重なり合い) 神経発達なんて、複雑系の最たるものです。 神経発達症の子ども達に多く見られる言葉の遅れ、不器用さ、こだわりなど、何か一つの原因で説明できるものなどありません。 遺伝というベースに、胎児期からの環境の影響を受け、複雑に絡み合い、現時点で表に出

【No.1104】人それぞれの成育パターン

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親御さんと話をしていると、「小学校低学年くらいまでは先生の話が全然聞けなかったんです」「他人の気持ちが想像できるようになったのは、小学校高学年くらいからですね」「小学生の間は、落ち着きがなく、いつも走り回ってきました」なんていうことをよくお聞きします。 だいたい10歳くらいですね、そんな皆さんがガラッと変わるのは。 親御さんの発達の流れを見ていますと、バラバラに発達していたものが、一気に繋がったという雰囲気を感じます。 細かい部分で見れば、こうやってお話ししている今も、多少の発達の凸凹がありますが、社会の中で、家族を作り、生活することができているのです。 「今の時代に子どもだったら、私も診断がついていたでしょうね」 これも、親御さんからよく聞くフレーズになります。 確かに、青田買いの現代では、生後3年間の中で、少しでも発達が遅れていれば、すぐに指摘され、診断→療育→支援へとつながれていたと思います。 そうだとしたら、今の親御さんの人生、生活、そして我が子と暮らす日々もなかったでしょう。 このように10歳を過ぎたあたりから、一気に神経が繋がっていく人達は、発達障害の人達なのでしょうか。 私はそうは思いません。 ただ神経ネットワークができるのがゆっくりな人達であり、環境と成育パターンの違いなのだと考えています。 生後すぐに生まれ出た環境に、脳・神経を合わせようとする発達パターンの人もいれば、10年くらいかけて環境を見極め、よりよく適応できるようにと発達するパターンの人もいるでしょう。 ヒトの目的は、生き抜くことと子孫を残すこと。 その「生き抜く」ためにも、「子孫を残す」ためにも、まずは環境適応が重要なことになりますので、そこに個としての多様さ、生存戦略の違いがあっても不思議ではありません。 ですから、発達障害というのは、現代病なのでしょう。 環境の急激な変化によるリスク要因の増大とともに、端的に言えば、人それぞれの成育パターンを待ちきれない社会が作りだした病なんだといえます。 3歳でグッと繋がる子、5歳でグッと繋がる子、7歳で、10歳で、20歳で、グッと神経が繋がる人達がいるのにもかかわらず、教科書通りの成育パターンで判断され、1歳、2歳、3歳でつまみとられていく。 つまみとられた先に、子ども達が伸びやかに"育つ"環境が用意されていれば良いのですが、

【No.1103】複雑から単純へのプロセスを見る

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発達のヌケや未発達が育ってくると、課題が集約されていきます。 「ここも育てなきゃ」「あそこも育てなきゃ」という状態から、「この困り感も、あの困り感も、すべて○○と繋がっていますね」という状態へ変わります。 ですから、発達相談でアセスメントを行っても、その時間に大きな違いが出るのです。 10分くらいで結論が出るご家庭もあれば、2時間以上かかるご家庭もあります。 子どもさんの困っているところをお聞きすると、「それってすべて内耳の発達と繋がっていますね」「背骨の過敏さが、全体的なストッパーになっていますね」というように展開する場合は、ヌケや未発達が少ないか、既に大部分が育ち直されたご家庭です。 反対に、運動発達も、呼吸も、感覚も、愛着も、背骨も、口も、脳の偏りも…という具合に、あれもこれもとなるご家庭は、まだまだ課題の本質、根っこに届きづらい状態です。 対人面、コミュニケーション、身辺面、身体の動きなど、表に出ている課題は多くあるのに、課題の根っこが1つに集約されている状態。 同じように、対人面、コミュニケーション、身辺面、身体の動きなど、表に出ている課題が多くあって、それぞれ別の根っこと繋がっている状態。 表面に出ている課題ではなく、その課題と繋がっている根っこを見抜くのがアセスメントになります。 神経発達症の子ども達が育っていく過程は、複雑から単純へ。 「複雑から単純へ」というのは、子どもが育っていく過程以外にも見てとれます。 たとえば、親御さんの特別支援との向き合い方です。 最初は、あらゆる情報を集める、あらゆる療育を受けさせる、あらゆる専門家のところに行く。 そうやって我が子の発達の遅れと向き合った瞬間から、どんどん複雑な方向へと進んでいきます。 そして子どもが発達・成長し、自分の中でいるいらないがわかってくると、単純化へ向かっていきます。 いらない情報は捨てる、いらない本は捨てる、特定のブログを読まなくなる、療育に通うのを止める。 結局、神経発達症は病気ではありませんので、シンプルに言えば各家庭の子育ての話です。 その本質に気づくと、余計なことをやらなくなり、子どもと純粋に向き合えるようになるので、発達が加速していくものです。 ですから反対の見方をすれば、複雑化を進んでいる親御さんは、子どもの発達を後押しすることが難しい状態だといえます。 そこら辺の支援者より情

【No.1102】どの本にも書かれている「家庭のような自然な環境を作る」という配慮事項

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多くの支援者と同じように、私も最初から身体アプローチを中心に据えていたわけではありません。 私が学生時代には、既に日本におけるTEACCHの先進地域として突っ走っていた当地です。 TEACCHは、何度もトレーニングを受け、いくつかのレベルの認定証を貰っています。 ソーシャルストーリーも、コミック会話も、PECSも、同じような認定証を貰っていますので、その認定証をもとに支援者の指導はできませんが、私自身が実践するにはお墨付きがあるわけです。 それくらい勉強してきた私ですから、標準療法に関する書籍や論文はある程度、読んできました。 そこで面白いのが、環境設定に関する記述です。 いろんな療法、アプローチがあり、診断やアセスメントの種類がありますが、共通して主張されていることがあります。 それは、「家庭のような自然な環境を作ること」です。 今、私が家庭支援を中心に行っていますので、改めて見ると、笑ってしまいますし、私の仕事の方向性は間違っていないのだと思います。 「診察室は、子どもたちにとって慣れない場所なので、検査者の準備と環境設定、提示の仕方が重要になる」 「診察室では、普段、見せない姿が出ることがあるので、注意して観察する必要がある」 「子ども達が家庭のように自然な姿、動きが出るように、療育部屋は家にあるようなものを配置する」 だったら、家でアセスメントすればいいじゃん。 だったら、家で療育すればいいじゃん。 そうは思いませんか?? 自閉症の子ども達は、場所によって見せる姿が異なる、と言われています。 ですから、診察室で見せる姿と家で見せる姿が異なっていてもいいはずです。 というか、幼い子どもなら、いつもと違う場所に行けば、テンションが変わるのが普通です。 でも、診察した医師に、「いや、家だと〇〇ができるんです」と訴えても、「それは違う」と全否定されるなんて話はよく聞く話です。 片方では、自閉症の子ども達は場所によって能力が異なると言いつつ、家でのアセスメントは行っていないし、情報としても医師の所見と対等には扱ってくれない。 始まりは家庭生活の中で困ったことが起きていての診察になるのですから、本来なら家に専門家がいってアセスメントするべきだと思います。 療育に関しても、どうして、わざわざ施設に出向いて受けなければならないのでしょう。 幼い子にとっては、移動も負担になり

【No.1101】療育はずっと前からマスク姿だった

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大人の私達だって、マスク姿の人間を見れば、異様に感じるのですから、子ども達はさらにその異様さを感じていると思います。 特に、言葉を獲得する前の段階にいる乳幼児さんからすれば、顔は大事な情報源です。 生きるための情報を得るための顔、言語&コミュニケーション&社会性を育むための顔が、半分隠れている。 その影響は、新型コロナが終息したあとも、子ども達の発達の中に残り続けるでしょう。 幼少期の養育環境が、自閉症やADHDなどに見られる症状を作る、というのは有名な話です。 海外でも、日本でも、そういった研究結果がとっくの前に出ています。 研究対象が養護施設の子ども達ではありましたが、母子間の濃密な時間の欠如が発達を歪ませていくのだと思います。 何故なら、養護施設を出て、里親の元で育てられた子ども達には、そういった症状が消えていく子が多いからです。 コロナ禍でググッと育った子ども達が多かったのは、親子間の濃密な時間が過ごせた、という点が大きいと考えています。 やはり人間には、1対1という関係性の中で育つ部分があるのだと思います。 というか、そういった原始的な、動物的な育ちが必要なのでしょう。 以前、相談があったご家庭は、とても熱心に幼少期から療育機関にあれこれと通っていました。 月曜日はここに行って、火曜日はこの先生のところで、水曜日は…という具合に、我が子の発達にプラスになることを、と頑張っておられました。 お子さんの発達を確認しますと、確かに最初の頃よりは育っていると感じました。 でも、大事な愛着関係が育っていません。 療育施設では順応しているのに、家に、親御さんに順応していない感じです。 それをみて、専門家は「自閉症ゆえの対人スキルの欠如」というかもしれません。 でも、私にはそうは見えませんでした。 0歳から3歳くらいまでは、親御さんと濃密な1対1の時間が必要です。 さらに強すぎる刺激も、発達に繋がるどころか脳、神経へのダメージにつながります。 今でも妊娠中の母親教室などでは、「誕生後、1年間は静かな環境を作ってください」と指導されますので、それくらい赤ちゃんの脳や神経は影響を受けやすいのです。 それなのに、一度、発達の遅れのラインに乗ると、「早期療育」が最優先となり、母子の濃厚な時間よりも、乳幼児の脳を守る静かな環境も、どこかに行ってしまう。 はっきり言って、定型発達の

【No.1100】雰囲気の言語化

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施設で働き始めた1年目。 先輩職員たちは、利用者さんの未来を次々に当てていました。 「ああ、30分後くらいにパニックになるかもね」 「今晩は寝ないと思うよ、〇〇さん」 「週末は荒れるから気を付けてね」 「発作がそろそろくるよ」 ビックリするくらい、よく当たりました。 知的障害や行動障害が重く、ノンバーバルな利用者さんが多かった施設です。 本人たちから訴えることはほとんどなく、私から見れば、どの変化も突然のように見えました。 ですから、先輩職員にその前兆はどこから見えるのか、何に注目しているのか、尋ねました。 当然、マニュアルのようなものがあるわけではなく、その職員の経験とカンが主であり、教えてくれた内容も人それぞれ違いました。 排泄や睡眠の状態、特定の行動の頻度、水を飲む量、こだわりの強さ、余暇の過ごし方など、本当に様々でした。 これらは、私達、他人が外部から見て確認できることです。 なので、私も年数が経てば、この前兆に気づくことができるようになりました。 でも、やはり先輩たちのようにはいきません。 きっと目に見えること以外でも、察しているんだ、先輩たちは、と私は思いました。 そして私は気づいたのです。 本人たちの声を聞いているんだ、と。 声というのは、言葉ではありません。 リズムだったり、発し方だったり、大きさだったり、音程だったり…。 今振り返れば、動物の発声の部分だったと思います。 どういった響きをしているかに意識を向ければ、なんだか本人たちが訴えていることがわかるような気がしてきました。 たぶん、言葉の段階では伝えられなかったとしても、発声という言葉以前の段階では訴えていたのだと思います。 私達、支援者は、『雰囲気』という言葉をよく使います。 それは、こういった発声の響きであったり、表情であったり、動きであったり、佇まいであたったり。 「今日、〇〇さんの雰囲気良くないね」 「そうですね。雰囲気がまずいですね」 なんていう会話もしょっちゅうしていましたので、目に見える変化と目に見えない雰囲気を私達職員は感じて判断していたんだと思います。 私のベースは、施設職員として働いた7年間です。 ですから、発達相談においても、本人の声、響きに注目しています。 言葉は文化ですので、どういった環境にいたかに大きく左右されます。 なので、どんな言葉を知っているか、どんな言葉で表

【No.1099】zoom講座「医者が教えてくれない育ちのアセスメント」を終えて

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大学1年の夏、サマースクールのボランティアに参加したあと、放課後の余暇支援ボランティアにも参加するようになりました。 そこで初めて担当したのが、自閉症の男の子でした。 こちらが話しかけても反応はありませんし、男の子からの訴えも理解することができませんでした。 パニックだってしょっちゅうでした。 それでも、その子の親御さんはいつも「ありがとう、ありがとう」と言ってくれて、私にボランティアを依頼してくださいました。 生まれて初めて「自閉症」という言葉と、そういった障害を持っている子どもさんと出会った私は、とにかく彼のことを知りたいと思いました。 そこで向かったのが、大学近くの書店です。 『障害児教育』と書かれていた棚に向かうと、すぐに目に入ってきた本がありました。 当時は少なかった障害児関係の本の中でしたが、1つだけ真っ赤なカバー。 しかも、赤色は私が好きな色であり、ラッキーカラーでもありましたので、迷うことなく手に取り、中を開きました。 『自閉っ子、こういう風にできています!』 私が初めて買った障害児関係の本です。 そのときから、今年でちょうど20年。 まさか、あのとき、初めて読んだ本をこの世に送りだした浅見さんと、そして15年近く特別支援教育、療育を突き進んでいた私を変える知見を教えていただいた栗本さんと、対談させていただくなんて…。 そのときはわからなくても、ときを経て繋がっていく縁があるもんだと感じました。 大学1年の秋、私が赤本を手にしていなければ、自閉症の男の子との関わりを続けていなかったかもしれません。 そうなれば、入学当初の目標であった小学校の先生を今頃、やっていたかもしれません。 少なからず、今のように起業して支援者を行っていなかったのは確かだと思います。 栗本さんとの対談は、私にとって幸せな時間でした。 本当は、仕事として依頼されたことですので、このような感情を持つことも、ここで表明するのも間違っているのかもしれません。 でも、それが私の正直な気持ちです。 対談が始まる前の浅見さん、栗本さんとの打ち合わせも、その後の振り返り、打ち上げも、心地良さを感じていました。 表現やキャリア、立場は違いますが、見ている先は一緒。 浅見さんも、栗本さんも、未来を見てお話をされている。 社会が、人類が、今よりも良い未来を迎えられるように。 浅見さんは、10年くらい先

【No.1098】子どもの「発達段階」「資質」「流れ」「ニーズ」を見る

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今日、久しぶりにブログを開いてみたら、アクセス数が普段の何倍にもなっていました。 何かまずい発言でもしたかなと思っていたら、そうです、たぶん、9月13日に行われる花風社さん主催の講演会に参加される方達が見に来られたのでしょう。 当然、私は「なんだチミは!?」状態ですから(笑) ここ数日間、当地での家庭訪問が続いていました。 改めて、今の親御さん達、考え方が変わったな~と思いました。 「自閉症は脳の機能障害です」 「障害なので、治りません」 「自閉症は視覚支援です」 で、「はい、わかりました」とはなりません。 おかしいと思ったら、別の道、方法、情報を探そうとします。 「当地で暮らしていれば、あの先生と仲良くなって、将来、あそこの施設でお世話になって」などとは考えず、この子がより良く育つ方法がないだろうか、と意識が向きます。 田舎のメジャー支援者より、グーグル先生です。 以前は、支援者より「様子を見ましょう」と言われれば、「はい、様子を見ます」となっていた親御さんが多かったと思います。 それは様子を見ることの重要さを感じていたというよりも、「専門家が言ったから=従順でいることの利益」を考えてのことでしょう。 当時は選択肢がなかったから、ローカル支援者に気にいられることが親御さんの気持ちの大部分を占めていたのかもしれません。 でも、時代なのか、専門家から「様子を見ましょう」と言われても、「具体的にどこを?」「いつまで見てればいいんですか?」「それよりも変わる方法はないんですか?」と言う親御さんが増えました。 そこで専門家がビシッとと具体的なことを言えなければ、「じゃあ、いいです」と言って、グーグル先生へと向かいます。 世代間でいろんなことが言われますが、10年前、20年前の親御さんより、今の親御さん達の方がずっとたくましくて主体性があると感じます。 当然、私に対する相談の中にも、「具体的にどこを見ればいいんですか?」「子どもをちゃんと見るの"ちゃんと"を教えてください」という依頼もあります。 子育てをするのにも、発達援助をするのにも、まずは子どもをきちんと見ることが重要です。 そういった言葉を耳にしたことがあると思います。 ただ「子どもを見る」というのには、複数の意味合いがあるのです。 まずは、子どもの『発達段階を見る』という意味です。 小学生になれば

【No.1097】外部刺激と継続性

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夏が始まる前にお会いしたご家族から、「この夏を思いっきり親子で楽しみました!」という報告をいただきました。 海も、山も、川も、公園も、キャンプも、とにかく外で遊び切ったそうです。 そうすると、2学期が始まり、「あれだけ集中できなかった授業に落ち着いて臨めるようになった」「あれだけ何度教えても難しかった算数が、テストで100点をとれるようになってきた」という変化が見られるようになったそうです。 小学校1年生、2年生で、「授業が理解できない」「テストの点数が取れない」というのは、ほとんどの場合、学力の問題ではありません。 小学校3年生になると概念の問題が出てくるので、また別の話になってしまうのですが、基本的に低学年の授業が分からないというのは、勉強のやり方とか、勉強時間の足りなさとか、教え方の善し悪しとかではなく、学ぶだけの準備が整っていないのです。 つまり、小学校低学年の学力=6歳の子の発達課題をクリアしてるかどうか、身体の問題です。 ですから、低学年の子が勉強できないからといって、勉強時間を増やしてもあまり効果は期待できません。 勉強時間を増やせば、暗記はできるかもしれませんが、授業の内容を"理解する"は伸びていきません。 ここを勘違いされると、とにかく勉強時間を増やし、で、子どもは算数の計算や国語の問題などをパターンで覚えてしまう→一応、小1、小2はクリア→小3になって概念と理解が求められる段階になってから、ガクッと成績が落ち、支援級という流れができてしまいます。 夏休み、自然の中で全身を使って思いっきり遊んだお子さんが、身体&運動面だけではなく、学習面に大きな変化が出るのは当然だといえます。 子ども達は、就学までに思いっきり遊び切ることを通して、学習の準備を整えていきます。 それができなかった子が、小学校低学年から授業についていけなくなる。 だからこそ、発達援助では遊び切れるために、身体と動きを育てる、ヌケを育て直すのです。 それはすべて就学の準備、学習の準備に繋がり、その先には高等教育、社会への準備と繋がっています。 実は、これが今日、言いたいことではありません。 今日、ブログを書こうと思ったのは、次のことを伝えたくてです。 夏休み、思いっきり遊んだお子さんが、この秋に大きく成長するのは、みなさん、ご存じのこと。 でも、思いっきり遊んだから