【No.1193】場所が変わってもできるくらいまで育てるのが発達援助
この時期、年長さん達が一通り就学相談を終える時期であり、支援学校の高等部3年生たちが就職実習や卒後の入所施設への体験を終える時期でもあります。 実習のあとは、受け入れ側の支援員さんと学校の先生たち、そして親御さんを交えての反省会があり、そこで決まって言われるのは「〇〇を行う際、指示や手助けが必要だった。入所するためには、〇〇ができないといけない」という指摘になります。 その〇〇というのは、歯磨きや着替え、入浴などの身の回りのことであったり、仕事に関する態度であったりします。 しかし必ずと言っていいほど、「家ではできているんだけれども」「学校ではできているんだけれども」となる。 そしてその原因は、施設側の関わり方、支援の仕方に始まり、最後は特性として「場所が変わるとできなくなる」で結論付けられます。 でも、果たしてそうでしょうか。 ずっと昔から、私が学生時代からずーーーと「場所が変わってできなくなるのは、障害特性だ」と言われてきました。 しかし、場所がかわってもできることはあるわけです。 たとえば、認知症の方のように家から施設に変わった瞬間、全部、なにもかもできなくなったというのならわかりますが、余暇だったり、コミュニケーションの仕方だったり、身の回りのことでもすべてができなくなるわけではないんですね。 ということは、単純に「できる」と評価されていたことが本当はできていなかった、身についていなかっただけでしょ、と思うのです。 今までの経験から、「場所が変わるとできなくなる」は特性でもなんでもなく、支援者側にとって都合の良い落としどころだったんだと私は考えています。 そういった子ども達、大人たちと関わってきて感じるのは、そうやって場所が変わっただけでできなくなる場合のほとんどが、「パターン学習だった」ということ。 なぜ、その行為を行うか、どうなったら適切か、終了かという認識がなく、ただ型だけを覚え、大脳皮質を通すことなく、一連の活動を行っていただけ。 だから、場所が変われば、その「一連」に変化が生じるので、何をすべきかを見失ってしまうのだと思います。 ではなぜ、どこでもここでも、「場所が変わるとできなくなる」と言われ、そういった状況が生まれるのか。 もちろん、その子本人の認知的な面とも関係していて、重い知的障害を持つような子ども達は、大脳皮質の育ち、働きがうまくいかず、...