2020年1月27日月曜日

【No.1009】良い子と、いい子

「思春期になると、自閉症の子ども達は崩れる」と、よく言われていました。
今、考えると、とてもひどい発言だなと思います。
知的障害を持った子も、発語がない子も、思春期がくれば、身体的にも、心理的にも、落ち着かなくなるものです。
だって、どういった文化、土地に住もうとも、人類みんな、第二次性徴を通るものですから。


でも、障害をもった子ども達が、心身の大きな変化が起きるとき、感情が高ぶったり、行動が荒々しくなると、なにか積み上げてきたものがダメになってしまうような「崩れる」という表現を使われてしまう。
単に、崩れたのではなく、二次性徴の中を通っているだけなのに。
昔は、フツーに思春期の乱れも、「問題行動」と言われていましたし、上記のような専門家の発言があるものだから、事前に服薬量を増やしたり、徐々に精神科薬を飲み始めたりしていました。
発達障害があると、二次障害も、問題行動になるのか、服薬の対象になるのか。


そして、もう一つ気になるのが、「崩れる」という表現の意味合いです。
その当時の思想が、よく表れています。
支援の方向性は、崩れないようにすること。
「どうして崩れてはいけないのか?」と言えば、周囲の人間が支援しづらくなるからです。
今でも、時折、感じることがありますが、子が崩れないように、崩れないように、とするのが支援であり、子育てだと勘違いしている人達がいます。


私の中では、「良い子」と「いい子」は違った意味で捉えています。
「良い子」というのは、周囲から見た表現であり、「いい子」は、本人からにじみ出てくる表現。
子どもが「良い子になろう」と思うときは、誰か周囲の大人の基準に合った人になろう、という意思が含まれています。
そもそも、子どもは、どういったものが“良い”子なのか知る由もありません。


専門家の「思春期、崩れる」発言もそうですが、崩れない子が良い子であり、問題を起こさない子が良い子。
もっといえば、介護しやすい子が、良い子なのです。
だから、いつまで経っても、特別支援の世界から「いい子」達が生まれてこない。
特別支援の世界に長く、どっぷり浸かれば浸かるほど、その子の本質である部分が抑え込まれ、どの子も一律問題を起こさないように、支援者の促しに素直に応じるように、と育ってしまいます。
朝に見かける大型バスに揺られている成人の方たちの顔を見かければ、みんなが同じような表情、顔をしているのが気になります。


良い子は、卒業後、福祉の世界を念頭においた育てられ方です。
だけれども、社会の中で自立して生きていくには、良い子だけでは無理。
良い子じゃなくて、自分の資質が前面に出るような「いい子」に育つ必要があるのです。
自分の資質が活かせられなきゃ、社会貢献も、自立した人生も難しい。


何故なら、資質が前面に出ていない状態というのは、自己が確立されていない状態だから。
自己の確立には、環境からの刺激を適切に受け止められる感覚、自由自在に動かせる身体、そして、自分の好きなものは好き、嫌いなものは嫌い、と言える愛着の土台が育っている必要があります。
人間は、自己が確立していく過程で、資質がにじみ出てくるものです。


そのにじみ出てきた資質を磨き、伸ばしていくことで、初めて人と人とのポジティブな関係性が築けていきます。
他者のために自分の資質を活かす。
それができて、「与え、与えられる」一方向の関係から脱却することができる。
「与えられるし、(自分からも)与える」という両方向の関係が、自立した大人、社会で生きるということ。


日本の障害者福祉は、「与えられないもんを与えてくれ」という時代が長かった。
その流れが現在の特別支援まで続き、支援者と子ども、支援者と家族の関係性が、「与え、与えられる」関係のままでいる。
どうして、伸ばさず、治さずの専門家が有難がられる必要があるのか。
それは結果ではなく、与えてくれるという行為に対して有難がっているだけです。


しかし、時代は変わりました。
当時、「生涯に渡る支援」と声高々に言っていた専門家たちは、第一線を退き、自分の第二、第三の人生を送っています。
口では言っていたけれども、一人として生涯に渡る支援を実行した人はいなかった。
それを鵜呑みにしてきた成人期の人達は、今、どうでしょうか。
すでに地方では、もう5年前くらいから、卒業後の居場所がない、働く場所がない、という状況です。
よくて週に1回、作業所に通えるだけ、あとは自宅待機。
「与え、与えられる」関係で育てられた若者たちでも、卒業後、与えられるわけではないのです。
結局、卒業後の実態を見れば、「自分が担任している間は静かにしてよね」という“良い子”に育てていただけじゃ、と思ってしまいます。


私のところにも、1歳、2歳、3歳くらいの子ども達の相談が増えています。
それだけ育ちにくい環境が増えているということでしょう。
そんな中で、「発達の遅れがある+かんしゃく」で、すぐに「自閉症、知的アリ」と診断をつけられる子ども達がいます。
乳幼児で、かんしゃくを起こすのは当たり前。
イヤイヤ期、一次反抗期もあるし、それこそ、発達に遅れがあったら、これらも特性であり、問題行動になるのか。
本当に、驚いてしまうケース、話が後を絶ちません。
感覚の未発達、運動発達のヌケと、イヤイヤ期は別。
むしろ、イヤイヤ期があるのなら、ヌケを育て直せば、定型発達の範囲に戻るはずです。
一次反抗期がなかった子の方が、後々、心配なことが多いと感じます。


やるのは、かんしゃくを止めることではなく、発達の遅れ、ヌケを育てることです。
それこそ、良い子にする必要はありません。
おもちゃを投げるし、イヤイヤ言うし、食べムラがあるけれども、「やっぱり、うちの子、いい子だな」と思えたら、それで良いのです。
トンチンカンナ療育、専門家とやらが、「かんしゃくを起こすのは、切り替えが苦手な子だから」「聴覚過敏があるかもしれないから」「想いを伝えられるように絵カードを使用しましょう」。
バカイッテンジャナイヨ!


乳幼児がかんしゃく起こすのは当たり前。
想いが伝えられなくて、「イヤだ~」「ワ~」となるのも当たり前。
未発達があるのも当たり前。
そんな小さなうちから、支援者が支援しやすい「良い子」に当てはめようとしてどうするん。
かんしゃくだって、他人の行動が引き出されることによって、自分を知る機会。
声をたくさん出して、呼吸器系を育てるし、それ自体が運動にもなる。


「この子らしく、いい子に育ってほしいな」
そういった親心を、専門家の偏った知識で曇らせないようにしてください。
自閉っ子、発達に遅れのある子ではなく、大事な我が子ですから。

2020年1月24日金曜日

【No.1008】早期から診断、療育を受けられる機会を得て、子が自ら育てる自由を失った

子どもに“自由”を保障したら、多くの子ども達は、今、自分に必要な発達刺激を求め、行動します。
基本的に、どの子も、自分の発達を知っている。
それは認知的な理解というよりも、内なる声といったニュアンスが近いと思います。
内なる声のまま、動くと、それが今、一番必要だった発達刺激だった、といった感じです。


発達相談の場面でもそうですが、お子さん達は、なんらかのメッセージを発していることが多いです。
私が発達のヌケを確認していく前に、子どもさんの動きから、どこに発達のヌケがあるかを教えてもらうこともあります。
一見すると、年齢とはズレた行動をしているので、その意味を見落としがちに。
でも、子ども達は、意味があるから行動する。


「名も無い遊び」というのもありますが、それだって、意味と繋がっています。
心理的な退行の場合もあれば、発達のヌケのやり直しの場合もある。
そう考えると、子どもが主体的に行うことのすべてに、意味があるのだといえます。
それを、「障害だから」「特性だから」「子どもだから」といって見落とすのは、大人側の責任だと思います。


子どもが主体的に行っている育て直しを、ただ見落とすだけなら良いのですが、それを矯正しよう、別の行動へと置き換えようとする困った動きがあります。
私がお会いするお子さんの中で、本人の「主体的な育て直し」がまったく見られない子ども達がいます。
確かに周囲からすれば、大きな問題はないんだけれども、発達のヌケがそのままで、本人が困っている、といった感じです。


普通に考えて、親が、周囲の大人が、「困らない子ども」というのは、ある意味、それが異常だといえます。
子どもは本来、自分の欲求のまま動く存在ですし、それが自然な姿だといえます。
大人が思う通りに動かないのが、本来の子どもなのですから、大人が困らない子というのは、なにかが欠けているか、なにか欲求が出ないような学習をされてしまっているか、です。


現在の療育、支援とは、基本的に、「介護しやすい子を育てる」という意図が根底に流れています。
それは、日本の特別支援、障害者福祉の歴史からみれば、当然なのかもしれません。
ですから、早期療育の目的も、「より早く神経発達を促し治す」ではなく、子育てがしやすいような、問題を起こさないような、将来、支援者が支援しやすいような、というような大人目線のものになっています。


そのため、早期から療育を受けた子どもさんほど、長い期間、特別な支援の中で過ごしてきた子どもさんほど、主体的な発達刺激を求める行動が見られなくなります。
DVDを観たり、タブレットを観たり、音楽を聴いたり、特定のおもちゃで遊んだり。
一見すると、静かに一人で遊んでいるいい子に見えますし、実際、親御さんは、この時間、ラクです。
でも、発達の凸凹は残っているし、一旦、こういった活動、環境を外れると、本人の困った、生きづらさが出てくる。
「自閉症だから」「こだわりだから」と言う人がいます。
しかし、そのほとんどは、そうやって静かに遊ぶように仕向けられた、学習させられた、主体的な行動を制止、矯正された結果です。


「自閉症」「発達障害」という診断名を通して、子どもを見ると、すべて障害ゆえの行動に見えてきます。
でも、他の子ども達と同じように、今、自分に必要な発達を求め、行動することができます。
ただ、年齢的なギャップがあるから違和感を持ってしまうだけ。
その違和感を、障害と取り違えてしまう。


取り違えたまま、療育機関に行くと、その取り違えを学習と矯正によって抑え込もうとします。
発達を求めての行動なのですから、本来は抑え込みではなく、解放しなければならないところを。
解放できずに、発達のヌケを埋める機会を貰えなかった子ども達が、発達を凸凹させたまま、年齢を重ねていく。
生きづらいまま、支援しやすい大人になるのが、特別支援の目標になってしまっている現在。


発達相談において、子どもなのに主体的な行動が見えないと、悲しい気持ちになります。
「本当は、この部分、育てたいよね」
思わず、そういった言葉を、子どもさんにかけることもあるくらいです。
どうして、自分のヌケを育てようとしないのか。
それは育てようとしないのではなく、育てることを止められ、別のことを覚えさせられた過去があるから。


いくら早期に診断できるような技術、システムができたとしても…。
いくら早期に療育が受けられる環境が整ったとしても…。
周囲の大人が、子どもの行動の背景に、その行動の発達の意義について理解できなければ、発達のヌケが埋まらないまま、年齢だけが重なっていくことになるでしょう。
どうも、今の特別支援の世界を見ていると、「飼い主を噛まないように躾けられる犬」を連想してしまいます。


家庭による躾は、大事です。
しかし、その躾も、自由自在に動かせる身体、生きていくための土台が培われてこそ。
子どもという主体が確立できてからの躾は、本人が生き抜くための力になります。
一方で、子どもの主体が確立できていない状態での躾は、大人がコントロールするための学習になります。


ですから、早期から気づくことは大事ですが、今の療育の中心であるような学習や指導はやらない方が良いと思います。
必要なのは、子ども達に自由な環境を用意すること。
年齢にそぐわない行動をしていたとしても、それが主体的に行われているものなら、敢えて止めない。
むしろ、それをとことんやり切ってもらうような後押しをする。


基本的に、発達のヌケを育て直すのは、本人に任せておけば良いのです。
子どもさんの場合、うまく必要なことを表現できなかったり、より望ましい環境へアクセスできなかったりするので、そこを親御さんが手伝うだけで良いと思います。
ちょっと発達の後押しをするなら、本人の行動にアクセントやバリエーションをつけるだけ。


特別支援のない時代の子ども達が、大人になって社会の中に適応し、自立していったのは、子ども時代に今よりも自由があったから。
早期の診断と療育は、子ども達が主体的に育てる自由を奪っているといえます。
だから現在は、支援しやすい、支援慣れした、生きづらいままの大人が増えているのでしょう。
根っこは、子ども時代の不自由です、発達的にも、発達機会的にも。

2020年1月23日木曜日

【No.1007】見立てのコツは、『自由』を連想すること

親御さんや支援者さんに、「どうして、そんな見立てができるんですか?」と尋ねられることが少なくありません。
どこを観たら、何を勉強したら、そのような見立てができるようになるのか。
そういった疑問を持つ方が多いのは、それだけ“見立て”に困っている人がいて、それだけ“見立て”が子育て、発達援助に意味を持つ、と皆さん、感じられているのだと思います。


具体的な発達を後押しする方法については、私がお教えしていることなんて、特別珍しいことでも、何か技が必要なことでもありません。
実際に、発達相談を受けたご家族は感じられているでしょうが、「ああ、それわかる」「私もやったことがある」みたいなことばかりです。
「それなら、子どもがやっています」みたいなことも多いので、その動き、遊びにバリエーションを持たせるには?くらいなものです。


結論から言えば、自分に必要な発達刺激に関しては、子どもさんが自然の日常生活の中に、遊びの中に取り入れていることが多いので、私が見たてたものから、「その遊びは、〇〇を育てているんですね」と解説しているだけです。
まあ、アドバイスするにしても、「その動き、遊びを妨げないでくださいね」と、「やりきったら、こうなりますよ」というくらいです。


そう考えると、具体的な方法は、子どもさん自身が分かっていますし、それを後押しする方法も、親御さんが難しくないものばかり。
ですから、「やっぱり見立てだよね」ってことになります。
親御さんが見たてができるようになれば、見立てさえ間違わなければ、自然とより良い方向へ進んでいくものです。


クルクル回っている子を見て、「ああ、感覚刺激に没頭している」「やることが明確じゃないから、視覚支援しなきゃ」なんて“見立て”じゃなくて、診断名だけで支援しようとするから、こぞって外しているだけ。
イヤーマフをつけている子が、クルクル回ろうとする。
そりゃそうでしょ、と思うのが、正しい見立て。
「ああ、耳を育てたいのね。それだったら、回りたいよね」と思うかどうか。
さらに、どっち周りかまで確認して、やっと一人前ってとこでしょう。


なので、私が発達相談をする上でも、こうやってブログ等で発信するときでも、「どうやったら、見立てのコツが掴めるようになるかな」と思い、お伝えしています。
だって、親御さんが見立てできるようになれば、もっと治っていく子ども達が増えるし、私も含めて支援者がいらなくなるから。
治って必要なくなった支援者は、資源は、本当に困っている人達のところへ回せるので、これも社会貢献になります。
治る子を後押しすることと、社会資源を必要なところへ届けること、パスすることは、より良い社会を作る後押しになるのです。


実際、私が見たてを行うときには、2つのポイントがあります。


まず、私はお子さんの成育歴や発達の流れから、課題を探っていきます。
そのとき、いくつか確認ポイントがあって、それを順々に、できるだけ胎児期に近い方から確認していきます。
「たぶん、ここからズレただろう」という部分から始め、「ここは大丈夫」「ここは課題が残っている」などを観ていきます。
これも、別に難しいことでも、特別なことでもなく、原始反射がどうだとか、左右の対象性はどうだとか、運動発達はどうだとか、発達全般的なチェック項目を1つずつ確認しているだけです。
いわゆる、発達のマイルストーンというやつを見ているのです。
良質な書籍が増えていますので、その書籍を見ながら、毎日の生活の中で確認していけば大丈夫です。


もう一つは、「自由」という言葉を連想することです。
誕生後、すぐの赤ちゃんは、とても不自由です。
自分の意思で身体を動かすことができず、ほぼ反射と周囲の人の手に委ねられて生きています。
ですから、ヒトという種は、不自由な生き物として誕生するのです。


そこから、うつ伏せの姿勢になると、ちょっと頭が上げられるようになる。
両手で上半身を支えられるようになる。
そうすると、首が自由になり、首が自由になると、視野が自由になる。
そのうつ伏せの姿勢も、寝返りがうてるようになるとできる動作であり、ひたすら床に寝るだけの存在から、身体を回転させるという自由を手に入れていく。
こうやって運動発達は、自由を得ていくのです。
さらに、乳幼児期、学齢期、青年期、成人期と成長する過程でも、遊びが自由になり、学びが自由になり、発想が自由になり、最後は自分の人生の自由を手に入れる。


つまり、不自由で生まれたヒトが、自由を手に入れていくことこそ、「より良く発達する」ということなのでしょう。
ですから、見立てを行う際、頭の隅に自由を連想しています。
自由な身体に育っているか。
こだわりや偏った思考などに縛られ、自由を失っていないか。
ある意味、愛着障害とは、心の自由を失った状態だといえます。
「自由」という言葉をイメージしながら見立てを行っていくと、その見たてに奥行きがでるような感じがします。


人類に共通する発達のマイルストーン、指標を1つずつ確認していくこと。
別にチェックリストを作る必要はなく、特別な資格検定を受けることなく、日々の生活の中で、本を見ながらでも確認していく。
1つずつ確認していけば、どこを育てればよいか、がわかります。
あとは、「自由」を連想するだけ。


ヒトは、自由自在な身体を手に入れることで、主体的に行動できるようになります。
主体的な行動は、自由を求め、歩を進めます。
「ああ、自分には自由自在な身体があり、自由を求め行動することができる」
そういった実感が、自己肯定感の土台、根っこだと思います。
レベルを下げた課題を用意して、「すごい!できましたね!」というのをいくらやっても、土台である自由を感じられていない子の自己肯定感は上がっていかないのです。
不自由で生まれてくるんだから、「自由」を連想することが、その子の発達を観ることになるのだと思っています。

2020年1月22日水曜日

【No.1006】その子の内側にある“知性”を感じる

「うちの子、重度なんです」とお聞きしたあと、実際にお子さんと会うと、ぜんぜん重度じゃないといったことは、よくあります。
確かに、数値的には“重度”の範囲に入っているのかもしれない。
でも、それだからといって、まったく伸びないわけでも、生涯、重度の範囲のままというわけでもありません。


だいたい、今の検査は、どんな工夫、改良がされてきたとしても、発語が検査結果に大きな影響を及ぼします。
どうしても、言葉の遅れがある子は、数値が重度の方へ向かっていきますし、検査者によっては、「発語なし」という情報を得た瞬間、「どうせ無理だろう」と検査項目を一つ、二つと飛ばしていく人もいるくらいです。
「発達障害の子どもは、言語中心の検査では、実際の能力を確認することができない」と言いつつ、現場では、言葉のあるなしが大きな意味合いを持っているのです。


ですから、相談者の親御さん達の中には、「どうにか、言葉だけ出るようになってほしいです」「言葉の発達を促す方法を教えてほしい」という要望を持った方が少なくありません。
確かに、現社会において、言葉、発語のあるなしは、大きな意味合いを持ちます。
それは、子ども本人の問題ではなく、社会、周りの人の受け止め方です。
未だに、「発語がない」「言葉の遅れがある」といった、わずか数個の文字だけ見て、「普通級は無理ですね」「支援級、支援学校が適切かと思います」などと言ってしまうような発達相談があり、就学相談があるのです。
そんな実態があるもんだから、余計に発語が気になるのは仕方がありません。


言葉は、知性を表します。
しかし、知性が言葉なのか、といったら、そうではないと思います。
あくまで、言葉、発語というのは、知性の一端。
その一端が、あたかも、知性そのものであるかのごとく取り扱われ、しかも、それが進む道を左右しかねない。
関係者が、まるで専門用語を使っているかのように、「知的だ」「重度だ」「ボーダーだ」なんて言葉を発する姿に、どうして、ヒトの知性は、こんなにも薄っぺらいものになってしまったのか、と思うのです。


私は、人間の知性とは、とても奥が深く、高尚なものであると捉えています。
私達が、いくら、その知性を掴もうとしても、掴むことができない。
見ようと思っても、見ることができない。
見えたとしても、その一端を垣間見るのがせいぜい。
そんな感じがしています。
ですから、なにか言葉で表せたような気になった瞬間、とても薄っぺらいものだと感じるのです。
私の奥底には、「そんな薄っぺらなもので、ひと様の人生を決められてたまるか」という感情が渦巻いています。


言葉を発しないお子さんでも、「ああ、このお子さんは、賢い子だな」「きっと、将来、社会の中で働き、生きていく子だな」と感じることがあります。
確かに言葉は出ていないかもしれないけれども、身体の土台、生きていく土台がしっかりできている。
そして、物事を理解し、この子の世界の中には、ちゃんと前後左右、現在・過去・未来が存在している。
そういった雰囲気を感じる子は、将来的には言葉が出る子が多いですし、たとえ出なかったり、遅れが残ったりした場合でも、確実に歩を進め、生涯、発達、成長し続ける人に育ちます。
ですから、こういったお子さん達と出会うと、親御さんには、周囲が何と言おうとも、「彼らの知的好奇心を満たす環境、成長し続けるための体験を用意し続けてください」と切にお願いするのです。


早くから言葉を発していたとしても、意味も分からず、ただ発し続けている子もいます。
こういった子ども達が検査を受けると、数値が高く出たり、「言葉あり、特徴あり」というだけで、「ああ、高機能ですね」と言い切られてしまうこともあります。
じゃあ、言葉がある子が、将来、みんな、自立していくか、といったら、そうではない現実もあります。
結局、将来、自立するかどうか、社会の中で自分の資質を活かして生きていけるか、を決めるのは発語のあるなしではありません。


「発語があるから、高機能だから、うちの子は、専門的な療育、支援を受けていけば、大丈夫」
こういった勘違いが、子どもの育つ環境を狭め、結果的に自立を遠ざけていたといえます。
一方で、「発語がないけれども、うちの子は、ちゃんと理解している。育つ力がある」
我が子の内側にある“知性”を感じられた親御さんは、その知性が喜ぶ環境を用意し続けようとします。
私が学生時代、関わった子ども達の中には、ずっと発語がなかった子、遅れていた子、そして成人した今も言葉がほとんどない人もいます。
でも、障害者枠ではなく、一般の人として正社員として働いている若者もいますし、障害者枠の企業就労であっても、週末は自転車で自由自在に動きまわり、たまに私と顔を合わせれば、アイコンタクトをして微笑んでくれる若者もいます。


この若者たちの子ども時代を振り返りますと、ガチガチの支援を受けていた人はいません。
むしろ、同世代の子ども達と同じように学び、遊び、習い事をし、経験を積み重ねてきた人です。
あとは、それが将来、何の役に立つか、は明確な意図があったわけではないけれども、とにかくスポーツや絵、家の手伝い、読み書きそろばんを頑張った人たちでした。
今、考えると、彼らはみんな、自分の内側にある知性を喜ばせる活動をしてきた、子ども時代を過ごしてきた人達ばかり。
そういった若者たちの姿を目にするたびに、その子の知性を喜ばせる、が何よりも知性、そのものを育み、伸ばし、躍動させるのだと思うのです。


「言葉がある」→「はい、高機能ね」「普通級。もしくは、それがきつかったら支援級」
「言葉がない」→「はい、重度のお子さんね」「普通級は無理。頑張っても支援級かな」
おいおい、〇✖クイズかって思います。
そんな〇✖クイズで、子の人生、可能性が決められてたまるか!
私は、もっと怒って良いと思います。
そして、もっと一人ひとりの知性を感じてほしいし、その努力を怠ってはいけないと思うのです。


我が子に望むのは、「発語のある大人」になることではなく、「その子らしく自由に生きていってほしい」「自分の資質を活かして、生きていってほしい」「生涯、挑戦し、成長し続ける大人になってほしい」ですね。
それが親の願いであり、社会の願いでもあります。


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【業務連絡】

①3月8日(日)の関東出張ですが、訪問するご家族が決定しましたので、募集を締め切らせていただきます。


②2月22・23日の関西出張ですが、すでにお申し込みくださったご家族には、訪問の日時をご連絡しました。「この機会に」とお考えの方がいらっしゃいましたら、あと1家族、訪問できそうな時間がございますので、お問い合わせください


③出張のアナウンスを応援してくださった皆様、協力してくださった皆様、このたびはありがとうございました。今回、縁があり、訪問させていただけるご家族のために全力を尽くすことが、応援してくださった方たちへのお礼となる、という気持ちで2月、3月頑張ってきます!

2020年1月17日金曜日

【No.1005】子が笑うと、私も笑う

アセスメントや具体的な発達援助を行う前、私は子どもさんの笑顔を引き出そうとします。
それは当然、子どもさんの緊張をほぐすという意味があります。
でも、それ以上に重要視しているのが、親御さんのリアクションです。
我が子が笑えば、自然と笑みがこぼれる。
我が子だろうが、ひと様の子だろうが、子どもが笑えば、自然と笑顔になるのは、人類に共通していることだと思います。


ですから、子どもの笑みにつられて、笑顔になるのは本能に近い。
その本能の部分が、自然と表れるかどうか、というのは、実はとても重要なのです。
私が子どもさんと関わり、キャッキャッと笑いだす。
それを見た親御さんが笑顔になる。
その場合は、動物的な部分が発揮されている親御さんなので、子どもの微妙な変化や、目に見えない発達の流れなどを読める方だと判断します。


一方で、子どもさんが笑っても、笑顔になれない親御さんがいるのも事実。
そのような場合は、親御さんに重きをおいた発達相談になります。
子育てに孤独感がある。
愛着障害やご自身の発達障害。
心身や栄養のバランスを崩しているといったこともあります。
頭で発達を捉えよう、子どもを見ようとすると、ほとんどの場合、外します。
なので、まずは親御さんが整い、本能の部分が表に出るような後押しをしています。


本能で言えば、「子どもには、より良く育ってほしい」と思うのも、ヒトとしての本能じゃないかと考えています。
子どもと関われば、自然と発達を後押しするような言動を選んでいたりする。
特に意識しているわけではないのだけれども、自然と、「どれが良い育ちになるかな」なんて考えている。
ですから、子どもの、特に発達と関わる仕事をしている者は、自然と軸が、「どうやったら、この子がより良く育つかな?」という視点になると思うのです。


私は、この「どうやったら、この子がより良く育つかな?」という視点を、皆が持っていたら、子どもも、親御さんも、傷ついたり、悲しんだりする必要がなくなるのに、と思います。
相談者から多く寄せられる言葉の中に、この視点を持たずに、子どもと関わろうとする支援者、専門家への怒りや哀しみがあるのです。


子どもを数分しか見ていないのに、診断名を付け、「この子の将来は…」と、すでに行く末が決まっているかのごとく告げてくる医師。
子どもの発達について相談しに来ているのに、療育を受ける“手続き”について説明を続ける支援者。
本来、子どもの発達、教育の専門家である幼稚園、保育園の先生、また学校の先生。
それなのに、「専門的な支援を」と言って、まるで、「自分たちの専門性を発揮できる子ではない」というような丸投げを行う。
親御さんが知りたいのは、この子に発達障害があるかどうかよりも、この子がより良く育つ方法を知りたいのだと思います。


診断は、医師にしかできない仕事です。
しかし、その子が基準に当てはまるかどうかだけではなく、原始反射の一つでも確認し、「まだ〇〇反射が残っていますね」と一言伝えてもらえたら、と思うことがあります。
そうすれば、親御さんは、より良く育つための具体的な行動に移れます。
「いろんな医師、専門家に診てもらったけれども、誰一人、原始反射の話はしませんでした」なんていう親御さんがまだいるくらいです。
原始反射が残っていると、知的障害、発達障害の兆候や発症に繋がるというのは、広く知られていることですので、最初に出会った専門家が、「反射が出なくなるまで誘発する」というアイディアを伝えていたら、こんなにも遠回りすることなく…と思うのです。


「発達障害」という言葉、知識、情報が、大人たちの本能に、大きくなった頭で蓋を閉めているように感じます。
発達障害以前に、一人の子であり、自分が担当する子であったのなら、その子のより良い発達のために、自分の持てる力を発揮していけば良いのだと思います。
保育士さんが発達障害の専門家に丸投げする必要はありません。
日々、子どもの発達と関わっている職業なのですから、自分の内側にある遊びや活動のアイディアを通して、発達を後押ししていけば良いのです。
保育士さんは、乳幼児期の発達の専門家。
学校の先生だって、支援なんかする必要はありません。
学校の先生の専門は、教育であり、教科指導です。
だったら、その部分で、蓄積してきたものを、その子の教育に発揮すれば良いのだと思います。


初めて相談した専門家が私、ということは、ほとんどありません。
皆さん、いろんな専門家を尋ね、相談し、より良い育み方を求めてきたのです。
でも、誰一人、真っ正面から、その子のより良い発達について、向き合おうとしなかった。
私のところに来る前に出会った専門家たちが、それぞれができる、知っているより良い発達の仕方を親御さんに伝えられていたら、親子共々、こんなに苦しむ必要がなかったのに、と思うことがしょっちゅうです。


発達障害の専門家が、その子の発達全般において、オールマイティに知っているわけではありません。
詳しいのは「発達障害において」であって、その子全てを知っているわけではありません。
それに、その子の人生、全部を丸抱えしてくれるわけでもない。
ですから、「発達障害の子は、発達障害の専門家に」というのは、体のいい“丸投げ”であり、“職務放棄”だといえます。
そして、「子どもには、より良く育ってほしい」という本能に蓋が閉まってしまっている人。
そういった本能が表ににじみ出てこない人には、子どもの発達を掴むことができません。
子どもを治す前に、関わる前に、自身を治し、育てる必要がある。


子どもの発達を育てる主人公は、子ども自身です。
親御さんは、その主人公を一番に後押しする存在です。
あとは、脇役であり、背景の一部。
発達障害の専門家だからといって、一ミリも偉くないし、幼稚園、保育園の先生、学校の先生よりも、その子をより良く育てられるか、といったら、そんなことはありません。


みんなが、自分の持てる専門性を、その子のより良い発達の一部に発揮していく。
そういった一人ひとりの「より良く育ってほしい」という力が、いろんな方向から、子どもの背中を押すことに繋がるのだと思います。
どう頑張っても、子どものすべてを発達させられるほど、力を持っていないのです。
だから、それぞれの専門家が、自分にできる後押しを行っていく。


それを取捨選択し、自分の子育てに活かすのが親御さんの役目。
その取捨選択には、親御さん自身の軸が育っている必要がありますし、何よりも、「子が笑うと、私も笑う」という本能が顔を出している状態じゃないといけません。
ですから、子どもさんと戯れながら、背中で親御さんを感じようとするわけです。
子どもが笑う姿を見て、自分の頬が緩んでいますか?
自然と笑顔になっていますか?

2020年1月16日木曜日

【No.1004】発達を滞らせているストッパーを外す

「教えずに育つ」が理想であり、私の仕事は、そこまで導く、後押しすることだと考えています。
知的障害の有無や障害、症状の重さに関わらず、どの子も、その内側に発達する力を持っている。
その発達する力が発揮できていないから、課題が生じてくるのだと思います。
ですから、私は発達相談において、「ストッパーを外す」という表現をよく使います。


発達障害の子ども達は、なんらかの要因によって、神経発達に滞りが生じています。
その滞りの理由を探し、そこから解放することが、私達支援者の仕事です。


よく相談で多いのが、「発達援助をやっているけれども、なかなか思うように発達していかない」というものです。
実際に訪問し、どのような育みをやっているか、拝見させていただくと、結構、目的とは違った動きをされている場合があります。
一見すると、発達を促すような動きをしているんだけれども、本来、刺激したい部分が刺激されていない。
これは、「どうして、その動きが発達に繋がるか?」という本質を捉えきれていない場合に起きるのだと思います。


また、行っている発達援助自体は問題ないけれども、子どもさんとの間に、ミスマッチが生じていることも。
一生懸命やろうとすればするほど、その動きにばかりに意識が向いてしまい、段々、子どもが見えなくなってしまっている。
発達援助で大事なのは、教わった動き、正しい動きをすることではなく、子どもを良く見ること。
子どもの発達は、とても速く、昨日求めていた刺激が、今日は違う、なんてこともよくあります。
「これは教わった方法だから」と言って、同じ動きを長期間やり続けたり、子どもが受け入れてくれるからといって、同じ動きばかり続けていたり。
「なんで、その動きを続けているんですか?」とお尋ねすると、言葉に詰まる親御さんもいらっしゃいます。
これは、「どのような変化が起きたら、卒業か?」という視点がないまま、始められた場合に起きるように感じます。


このように、やり方がズレていたり、子どものニーズとのズレがあったりすると、「やってはいるけれども、なかなか…」の状態になると思います。
さらに、この“ズレ”以外にも、思うような発達に繋がらない理由があります。
それが、私がよく説明で使う「ストッパー」というやつです。


発達には順序がありますので、その土台となる発達が育っていませんと、うまく積み上がっていきません。
また発達は生き物であり、神経も生きていますので、その育つ材料、条件がないと、伸びていかないのは当たり前です。
タンパク質や鉄、ビタミンなどの栄養を整えることはもちろんのこと、酸素がなければ、発達は生じません。
『からだ指導室あんじん』の栗本さんからは、「外呼吸と内呼吸」のどちらも大切と教わりました。
つまり、私達がイメージする呼吸と、血液⇔細胞間の酸素&二酸化炭素のやりとりです。


ここで、栄養からのアプローチで治す藤川医師と、身体アプローチで治す栗本さんの知見が繋がるのです。
息を吐いたり、吸ったりという呼吸を育てること、息が深く吸える身体に整えること。
血液を作るたんぱく質と鉄を十分に摂取することは、結果的に細胞内に酸素を行きわたらせることになる。
それは、神経発達が生じる条件を準備することになります。
ですから、「呼吸が育つと治っていく、発達のスピードが速くなる」という姿が見られるのだと思います。
あと筋肉も大事。


長くなるので、ここからはパパッと進みますが、脊椎動物ですから、背骨が育っていないのも、ストッパーになります。
もちろん、首の発達も重要です。
他には、恐怖麻痺反射、赤ちゃん時代の原始反射が統合されていないと、これも発達を滞らせます。
生き物としての土台である「快食快眠快便」が整わないと、感覚過敏に翻弄されていると、発達までエネルギーが回らない感じがあります。
運動発達のヌケも、ですね。


細かいところを挙げれば、もう少しありますが、だいたい主なストッパーはこんなところになります。
一人ひとりストッパーのかかり具合は異なりますので、1つずつ確認し、またできるだけ課題の根っこ深くから育てていく必要があります。
上記のような視点で、子どもさんの姿を改めて見てみると、今とは違ったやるべきことが、課題の糸口が掴めてくるかもしれません。


発達を滞らせているストッパーが外れると、その子の内側にある発達する力が躍動していきます。
そこまでくれば、あとは、子どもが何を学び、どう育っていくか、は本人が決めていきます。
「教えずに育つ」というのは、本人の発達する力が発揮できる状態まで育ったあと、主体的に育っていく状態だといえます。
主体的に育っていく子が、将来、自立する子であり、自立した人生を送っていく人になるのだと思います。
ですから、「生涯に渡る支援」では物理的にも、精神的にも、自立しないのは明らかです。


「教えずに育つ」状態は、子どもさんの理想だけではなく、親御さんにとっても理想だと考えています。
私が定期的に訪問し、「これをやってください」「あれをやってください」では、親御さんの自立につながりません。
そして何よりも、親御さんの主体性を奪うことになってしまいかねません。


日々、変化する我が子をしっかり見つめ、そこから我が子オリジナルの子育てを創り上げていく。
そのためには、親御さんも育つ必要がありますし、できれば、支援者から教わらずとも、自分で子どもを見て、試行錯誤しながら子育てをやっていけるくらいになることが望まれます。
その「教わらずに育つ」までのお手伝いも、私達支援者の仕事だと考えています。

2020年1月15日水曜日

【No.1003】支援者にグレーを黒に染める力があるのだろうか

関東出張から戻ってくると、年賀状やメールが何通も届いていました。
ほとんどの方が、1回したお会いしたことのないご家族です。
それでも、素敵なお子さんの写真と成長の喜びが綴られていました。


写真をみれば、どのような時間がその子に、そのご家族に流れていたのか、わかります。
その子が綴っている文字は、「勉強も頑張っているよ」「勉強の準備が整ってきたよ」と教えてくれます。
親御さんが綴る我が子の成長を喜ぶ言葉は、あのときの子育ての迷いから吹っ切れ、定まっていった姿を見せてくれます。


そんな中に、目に留まるものがありました。
そこには、まだ発語はないけれども、理解できる言葉が増えたこと。
身体が育ち、自ら主体的に遊んだり、行動できるようになったりしたこと。
身の回りのことや社会のルール、教科学習など、身につくようになったこと、などが葉書いっぱいに綴られていました。


近頃、とても気になるのが、「言葉が出ない」「言葉の遅れ」があると、即、診断や療育を勧められ、また周囲も、「自閉症」「発達障害」などの子として見る傾向がある、という話です。
町の健診で、保健師さんから「一度、専門機関へ」と勧められる。
もちろん、勧めること自体に問題があるわけではありませんが、その言葉の節々に「障害がある」前提なのがプンプン漂っている。
幼稚園や保育園でも、「私達はわからないから、専門の先生のところへ」と言うわりに、我が子だけ、他の子よりもレベルを下げた目標になる、同じ課題、活動をやらない、求められない、という変化がある。


心配しているようで、本当は障害児として事務的に進められている事実に、親御さんは傷つくと言います。
同時に、親として知りたいのは、障害があるなしではなく、その前に、どうやったら育っていくか、私に何ができるか、ということです。
言葉が出ない子、遅れている子を見て、「自閉症では」「発達障害では」というのは、専門家の仕事ではありません。
そんなことは、ネットで検索すれば、瞬時に出てきます。


専門家、いや、お金を貰って仕事している身分なら、最低限、その遅れは、「正常発達の範囲に入るものか、異常といえるものなのか?」を見分けられなければなりません。
また、異常と言えるのなら、その原因、課題の根っこ、どこから発達にズレが生じているのか、も読み解けなければなりませんし、じゃあ、そこからどうやって育てていけば、発達を後押しできるか、も伝えられなければなりません。
更に言えば、どのようなことを、どのくらいの期間やって、いつくらいに、子どもさんの発達がどうなるか、まで伝えて、一人前だと私は思います。


まだまだ、「早く見つけて、少しでも早く診断、療育に繋げる」というのが仕事で、役割だと勘違いしている人達が多くいます。
いくら早く繋がっても、誰も発達の促し方、治し方は教えてくれません。
それよりも、どうやって障害児として生きていくか、適応していくか、支援者が支援しやすい子に育つか、という視点で、グレーが黒になり、黒が真っ黒になるばかりです。


「どうして、診断を受けると、支援と繋がると、子ども達は黒くなっていくのだろうか?」
そこには関わる者の技術的な問題があると思います。
でも、最近、私は技術よりも、その眼差しが、子ども達を黒く染めているのだと考えるようになりました。
その眼差しとは、「諦め」です。


私も支援者の一人です。
私がいくら頑張っても、子どもさんを治すことはできませんし、与えられる影響はほとんどないと言ってよいくらいです。
でも、子ども達は発達し、治っていく。
そこには、子どもの内側にある発達する力が存在しているのだといえます。


同じように、治そうとせず、適応や支援に促そうとする支援者であっても、子どもを黒く染めるだけの力があるのか、影響力があるのか、と思うのです。
もし、支援者がそういった方向へ持っていこうとしても、その子自身の伸びる力が発揮されれば、黒に染まらず、反対に薄まっていく子もいるはずです。
実際、よろしくない支援者、先生と関わった子でも、治っていく子ども達、若者たちは大勢います。
「子ども達は、支援者に染まるほど、やわじゃないし、どの子にも伸びる力がある」
これが現時点での、私の捉えです。


じゃあ、どの子も持っている伸びる力が発揮できないのは?黒く染まっていく子がいるのは?
その答えが、諦めの眼差し。
医師や保健師、保育園の先生や幼稚園の先生、支援者や学校の先生。
その多くの人達が、「障害もその子の個性」「その子に合った学びを」と言いながらも、その目は諦めの目をしている。
誰一人、障害が治ると思っていないし、多分、このまま、支援を受けていく子だな、将来も、支援を受けながら生きていく子だな、と勝手に諦め、子の可能性を限定してしまっている。


その眼差しが態度となって表れ、本当はもう一頑張りすると伸びるところも引いたり、最初からやらせようとしなかったりする。
そういった周囲の態度が積み重なっていくと、育つものも育たず、反対に乏しい刺激が、ますます偏った育ちを増長させていく。
結局、未発達をそのままにし、症状を重くしていくのは、支援者の関わりと言うよりも、発達の機会を奪われたことによるものだと、私は思うようになっています。


発語はないけれども、いろんな発達、成長が見られた子のお母さんは、諦めなかったお母さんです。
諦めの眼差しを痛いほど、感じてきたけれども、「いや、我が子は伸びる」「まだまだ成長できる力がある」と信じ、子育てをされたのです。
その歩みが、お子さんの発達を後押ししていった。


自由自在に動く身体が育てば、主体性と自立心が育っていきます。
主体的に行動できるようになると、意識が刺激に、活動に、その背景に向くようになります。
また、自由自在に動く身体は、脳に余白を生みます。
その余白に、新しい知識、技術が入っていくのです。
「身体が整うと、学習する力が伸びる」というのは、当然だといえます。
身体が整う→余白ができる→新たに学ぶ→理解が高まる&生活がラクになる→さらに余白ができる…のポジティブなサイクルの完成です。
このサイクルが、子どもの今と未来の生活を輝かせる。
それは、言葉が出ること以上に、尊いこと。


素人は、「言葉が出ない」という表面を見ます。
でも、親御さんは、その背景を知ろうとし、どうやったら、そこが育っていくか、私が後押しできるか、を求めています。
そんなとき、親御さんにとって諦めのまなざしは、ただただ迷惑なだけです。
諦めるのは、支援者の勝手。
でも、親御さんの足を引っ張ること、子ども達の発達の機会を奪うことは、やめてほしい。


だって、年賀状にあったお子さんの表情は輝いていて、その字には、親御さんの喜びが溢れていたから。
こういったご家族と出会えたことを、私も心から嬉しく思うのだから。



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【事務連絡】

①関東出張の報告書を、今朝、発送しました。早ければ明日、遅くても明後日にはお手元に届くと思います。報告書に目を通していただき、質問や気になったこと、さらに訊いてみたいことがございましたら、遠慮なく、メールください。何度でもお答えいたします。


②2月22日・23日の関西出張は、現在、スケジュールの調整中です。検討中のご家族も数件ございますが、正式に依頼してくださった方を優先します。今、空いているのが、22日(土)に1家族です。もし、ご希望でしたら、21日(金)伊丹空港到着後、16時頃よりの発達相談も検討することにしますので、お問い合わせください


③3月8日(日)、関東で出張相談を行います。午後は、すでに訪問するご家庭が決まっておりますので、午前でしたら、お受けすることができます。もし、「この機会に」という方がいらっしゃいましたら、お問い合わせください。なお、今回の出張は、3月7日(土)花風社さんの講演会参加に伴って行いますので、函館~羽田の航空券代と宿泊費は、負担していただく費用に含めません。

2020年1月8日水曜日

【No.1002】関東出張を振り返り

関東は午前中、強い雨が降っていましたが、午後から急速に天気が回復し、綺麗な夕陽が沈もうとしています。
今回の関東出張も、すべてのご家庭への訪問が完了しました。
明日、函館に戻ります。


「訪問するまで、どのような方か分からない」というのは、私の仕事では常でございます。
ですから、昨年末のブログの内容が、「まさに、そのまま」となったのは、たまたまなのかもしれません。
今回、お会いした皆様は、とてもよく勉強されているし、実践されている方たちでした。
私が敢えて説明する必要はなく、「既にやっています」「ああ、それからやればいいんですね」という具合に、セッションが進んでいきました。
やはり知識という点のみでは、お金をもらっての仕事は、もう難しいのだと思います。


一方で、知識を得たり、実践をされたりしている親御さん達に共通した悩みとして、「あれもこれも課題があるけれども、どこからやったら良いのか」「どの方法が、今の我が子にピタッと合うのか」「今後、どのような発達過程を辿り、発展させていけばよいのか」というものがありました。
「良いのは分かっているし、子どもに必要なのもわかっている」の先ですね。
なので、私は具体的なアドバイスよりも、その方法が生まれた背景や、なぜ、今の我が子に必要なのか、そういった「掘り下げてお伝えする」「情報を整理する」という部分を重視しました。
というか、そのような流れにセッションがなりました。


ただ良いと言われるものをやっていては、そのとき、その発達課題は良いけれども、そのあとの発達やご自身でアレンジするところまで発展していきません。
もしかしたら、「治るのは分かった」「治す方法もわかった」「実際に治ってきた」の段階から、「我が子に合わせてアレンジした治し方&育み方」への、ある意味、親としての成長、発達の部分のお手伝いが、次のニーズとして中心になりつつあるような雰囲気を感じました。


「子どもをよく見る」というのは、どの実践家の方たちも、再三強調しておっしゃっていることです。
ですが、一生懸命治している親御さんの中にも、よく見ているようで、まだ足りない方がいるような気がします。
やはり「よく見る」というのは、その言葉以上に深い言葉だと思います。
私で言えば、子どもさんをよく見るためには、そのお子さんの発達の流れ、歴史を辿っていかなければできませんし、当然、ヒトとしてのあらゆる発達を押さえておかなければできません。
同時に、定型発達の子どもたちも、凸凹が大きい子どもたちも(当然、大人も)、たくさん関わり、そういった関わりの中で気付かされる生の発達も、常に感じている必要があります。


さらっと「子どもをよく見る」と言い、実際に見抜ける実践家の方たちとお会いするたびに、まだまだ研鑽が足りないと感じるばかりですし、この仕事を続けている限り、磨いていかなければならない部分だと思っています。
親御さん達のニーズが移り変わっているからこそ、子どもをよく見る、その目を深めていくためのお手伝いが重要になってくるはずです。
そのためには、発達に携わる者の一人として、自分自身の目も深めていかなければならないと考えています。


世の中のニーズの半歩、一歩先を歩くのが、民間企業の仕事であり、私のような個人事業主としては生き抜くための唯一の手段でもあります。
今回の出張で、私個人としての課題と、これから先の方向性が見えてきたような気がします。
2020年は、素晴らしい学びの機会を頂戴することができますので、自分自身をもう一段、高めていけるような機会にしたいと思っています。
と言いますか、しなければなりませんし、します!


本年も、多くの方たちとともに、「治って喜ぶ姿」と「社会に飛び立っていく後ろ姿」をたくさん見ていきたいと思います。
どうぞ、よろしくお願い致します。