【No.1005】子が笑うと、私も笑う

アセスメントや具体的な発達援助を行う前、私は子どもさんの笑顔を引き出そうとします。
それは当然、子どもさんの緊張をほぐすという意味があります。
でも、それ以上に重要視しているのが、親御さんのリアクションです。
我が子が笑えば、自然と笑みがこぼれる。
我が子だろうが、ひと様の子だろうが、子どもが笑えば、自然と笑顔になるのは、人類に共通していることだと思います。


ですから、子どもの笑みにつられて、笑顔になるのは本能に近い。
その本能の部分が、自然と表れるかどうか、というのは、実はとても重要なのです。
私が子どもさんと関わり、キャッキャッと笑いだす。
それを見た親御さんが笑顔になる。
その場合は、動物的な部分が発揮されている親御さんなので、子どもの微妙な変化や、目に見えない発達の流れなどを読める方だと判断します。


一方で、子どもさんが笑っても、笑顔になれない親御さんがいるのも事実。
そのような場合は、親御さんに重きをおいた発達相談になります。
子育てに孤独感がある。
愛着障害やご自身の発達障害。
心身や栄養のバランスを崩しているといったこともあります。
頭で発達を捉えよう、子どもを見ようとすると、ほとんどの場合、外します。
なので、まずは親御さんが整い、本能の部分が表に出るような後押しをしています。


本能で言えば、「子どもには、より良く育ってほしい」と思うのも、ヒトとしての本能じゃないかと考えています。
子どもと関われば、自然と発達を後押しするような言動を選んでいたりする。
特に意識しているわけではないのだけれども、自然と、「どれが良い育ちになるかな」なんて考えている。
ですから、子どもの、特に発達と関わる仕事をしている者は、自然と軸が、「どうやったら、この子がより良く育つかな?」という視点になると思うのです。


私は、この「どうやったら、この子がより良く育つかな?」という視点を、皆が持っていたら、子どもも、親御さんも、傷ついたり、悲しんだりする必要がなくなるのに、と思います。
相談者から多く寄せられる言葉の中に、この視点を持たずに、子どもと関わろうとする支援者、専門家への怒りや哀しみがあるのです。


子どもを数分しか見ていないのに、診断名を付け、「この子の将来は…」と、すでに行く末が決まっているかのごとく告げてくる医師。
子どもの発達について相談しに来ているのに、療育を受ける“手続き”について説明を続ける支援者。
本来、子どもの発達、教育の専門家である幼稚園、保育園の先生、また学校の先生。
それなのに、「専門的な支援を」と言って、まるで、「自分たちの専門性を発揮できる子ではない」というような丸投げを行う。
親御さんが知りたいのは、この子に発達障害があるかどうかよりも、この子がより良く育つ方法を知りたいのだと思います。


診断は、医師にしかできない仕事です。
しかし、その子が基準に当てはまるかどうかだけではなく、原始反射の一つでも確認し、「まだ〇〇反射が残っていますね」と一言伝えてもらえたら、と思うことがあります。
そうすれば、親御さんは、より良く育つための具体的な行動に移れます。
「いろんな医師、専門家に診てもらったけれども、誰一人、原始反射の話はしませんでした」なんていう親御さんがまだいるくらいです。
原始反射が残っていると、知的障害、発達障害の兆候や発症に繋がるというのは、広く知られていることですので、最初に出会った専門家が、「反射が出なくなるまで誘発する」というアイディアを伝えていたら、こんなにも遠回りすることなく…と思うのです。


「発達障害」という言葉、知識、情報が、大人たちの本能に、大きくなった頭で蓋を閉めているように感じます。
発達障害以前に、一人の子であり、自分が担当する子であったのなら、その子のより良い発達のために、自分の持てる力を発揮していけば良いのだと思います。
保育士さんが発達障害の専門家に丸投げする必要はありません。
日々、子どもの発達と関わっている職業なのですから、自分の内側にある遊びや活動のアイディアを通して、発達を後押ししていけば良いのです。
保育士さんは、乳幼児期の発達の専門家。
学校の先生だって、支援なんかする必要はありません。
学校の先生の専門は、教育であり、教科指導です。
だったら、その部分で、蓄積してきたものを、その子の教育に発揮すれば良いのだと思います。


初めて相談した専門家が私、ということは、ほとんどありません。
皆さん、いろんな専門家を尋ね、相談し、より良い育み方を求めてきたのです。
でも、誰一人、真っ正面から、その子のより良い発達について、向き合おうとしなかった。
私のところに来る前に出会った専門家たちが、それぞれができる、知っているより良い発達の仕方を親御さんに伝えられていたら、親子共々、こんなに苦しむ必要がなかったのに、と思うことがしょっちゅうです。


発達障害の専門家が、その子の発達全般において、オールマイティに知っているわけではありません。
詳しいのは「発達障害において」であって、その子全てを知っているわけではありません。
それに、その子の人生、全部を丸抱えしてくれるわけでもない。
ですから、「発達障害の子は、発達障害の専門家に」というのは、体のいい“丸投げ”であり、“職務放棄”だといえます。
そして、「子どもには、より良く育ってほしい」という本能に蓋が閉まってしまっている人。
そういった本能が表ににじみ出てこない人には、子どもの発達を掴むことができません。
子どもを治す前に、関わる前に、自身を治し、育てる必要がある。


子どもの発達を育てる主人公は、子ども自身です。
親御さんは、その主人公を一番に後押しする存在です。
あとは、脇役であり、背景の一部。
発達障害の専門家だからといって、一ミリも偉くないし、幼稚園、保育園の先生、学校の先生よりも、その子をより良く育てられるか、といったら、そんなことはありません。


みんなが、自分の持てる専門性を、その子のより良い発達の一部に発揮していく。
そういった一人ひとりの「より良く育ってほしい」という力が、いろんな方向から、子どもの背中を押すことに繋がるのだと思います。
どう頑張っても、子どものすべてを発達させられるほど、力を持っていないのです。
だから、それぞれの専門家が、自分にできる後押しを行っていく。


それを取捨選択し、自分の子育てに活かすのが親御さんの役目。
その取捨選択には、親御さん自身の軸が育っている必要がありますし、何よりも、「子が笑うと、私も笑う」という本能が顔を出している状態じゃないといけません。
ですから、子どもさんと戯れながら、背中で親御さんを感じようとするわけです。
子どもが笑う姿を見て、自分の頬が緩んでいますか?
自然と笑顔になっていますか?

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