【No.1009】良い子と、いい子

「思春期になると、自閉症の子ども達は崩れる」と、よく言われていました。
今、考えると、とてもひどい発言だなと思います。
知的障害を持った子も、発語がない子も、思春期がくれば、身体的にも、心理的にも、落ち着かなくなるものです。
だって、どういった文化、土地に住もうとも、人類みんな、第二次性徴を通るものですから。


でも、障害をもった子ども達が、心身の大きな変化が起きるとき、感情が高ぶったり、行動が荒々しくなると、なにか積み上げてきたものがダメになってしまうような「崩れる」という表現を使われてしまう。
単に、崩れたのではなく、二次性徴の中を通っているだけなのに。
昔は、フツーに思春期の乱れも、「問題行動」と言われていましたし、上記のような専門家の発言があるものだから、事前に服薬量を増やしたり、徐々に精神科薬を飲み始めたりしていました。
発達障害があると、二次障害も、問題行動になるのか、服薬の対象になるのか。


そして、もう一つ気になるのが、「崩れる」という表現の意味合いです。
その当時の思想が、よく表れています。
支援の方向性は、崩れないようにすること。
「どうして崩れてはいけないのか?」と言えば、周囲の人間が支援しづらくなるからです。
今でも、時折、感じることがありますが、子が崩れないように、崩れないように、とするのが支援であり、子育てだと勘違いしている人達がいます。


私の中では、「良い子」と「いい子」は違った意味で捉えています。
「良い子」というのは、周囲から見た表現であり、「いい子」は、本人からにじみ出てくる表現。
子どもが「良い子になろう」と思うときは、誰か周囲の大人の基準に合った人になろう、という意思が含まれています。
そもそも、子どもは、どういったものが“良い”子なのか知る由もありません。


専門家の「思春期、崩れる」発言もそうですが、崩れない子が良い子であり、問題を起こさない子が良い子。
もっといえば、介護しやすい子が、良い子なのです。
だから、いつまで経っても、特別支援の世界から「いい子」達が生まれてこない。
特別支援の世界に長く、どっぷり浸かれば浸かるほど、その子の本質である部分が抑え込まれ、どの子も一律問題を起こさないように、支援者の促しに素直に応じるように、と育ってしまいます。
朝に見かける大型バスに揺られている成人の方たちの顔を見かければ、みんなが同じような表情、顔をしているのが気になります。


良い子は、卒業後、福祉の世界を念頭においた育てられ方です。
だけれども、社会の中で自立して生きていくには、良い子だけでは無理。
良い子じゃなくて、自分の資質が前面に出るような「いい子」に育つ必要があるのです。
自分の資質が活かせられなきゃ、社会貢献も、自立した人生も難しい。


何故なら、資質が前面に出ていない状態というのは、自己が確立されていない状態だから。
自己の確立には、環境からの刺激を適切に受け止められる感覚、自由自在に動かせる身体、そして、自分の好きなものは好き、嫌いなものは嫌い、と言える愛着の土台が育っている必要があります。
人間は、自己が確立していく過程で、資質がにじみ出てくるものです。


そのにじみ出てきた資質を磨き、伸ばしていくことで、初めて人と人とのポジティブな関係性が築けていきます。
他者のために自分の資質を活かす。
それができて、「与え、与えられる」一方向の関係から脱却することができる。
「与えられるし、(自分からも)与える」という両方向の関係が、自立した大人、社会で生きるということ。


日本の障害者福祉は、「与えられないもんを与えてくれ」という時代が長かった。
その流れが現在の特別支援まで続き、支援者と子ども、支援者と家族の関係性が、「与え、与えられる」関係のままでいる。
どうして、伸ばさず、治さずの専門家が有難がられる必要があるのか。
それは結果ではなく、与えてくれるという行為に対して有難がっているだけです。


しかし、時代は変わりました。
当時、「生涯に渡る支援」と声高々に言っていた専門家たちは、第一線を退き、自分の第二、第三の人生を送っています。
口では言っていたけれども、一人として生涯に渡る支援を実行した人はいなかった。
それを鵜呑みにしてきた成人期の人達は、今、どうでしょうか。
すでに地方では、もう5年前くらいから、卒業後の居場所がない、働く場所がない、という状況です。
よくて週に1回、作業所に通えるだけ、あとは自宅待機。
「与え、与えられる」関係で育てられた若者たちでも、卒業後、与えられるわけではないのです。
結局、卒業後の実態を見れば、「自分が担任している間は静かにしてよね」という“良い子”に育てていただけじゃ、と思ってしまいます。


私のところにも、1歳、2歳、3歳くらいの子ども達の相談が増えています。
それだけ育ちにくい環境が増えているということでしょう。
そんな中で、「発達の遅れがある+かんしゃく」で、すぐに「自閉症、知的アリ」と診断をつけられる子ども達がいます。
乳幼児で、かんしゃくを起こすのは当たり前。
イヤイヤ期、一次反抗期もあるし、それこそ、発達に遅れがあったら、これらも特性であり、問題行動になるのか。
本当に、驚いてしまうケース、話が後を絶ちません。
感覚の未発達、運動発達のヌケと、イヤイヤ期は別。
むしろ、イヤイヤ期があるのなら、ヌケを育て直せば、定型発達の範囲に戻るはずです。
一次反抗期がなかった子の方が、後々、心配なことが多いと感じます。


やるのは、かんしゃくを止めることではなく、発達の遅れ、ヌケを育てることです。
それこそ、良い子にする必要はありません。
おもちゃを投げるし、イヤイヤ言うし、食べムラがあるけれども、「やっぱり、うちの子、いい子だな」と思えたら、それで良いのです。
トンチンカンナ療育、専門家とやらが、「かんしゃくを起こすのは、切り替えが苦手な子だから」「聴覚過敏があるかもしれないから」「想いを伝えられるように絵カードを使用しましょう」。
バカイッテンジャナイヨ!


乳幼児がかんしゃく起こすのは当たり前。
想いが伝えられなくて、「イヤだ~」「ワ~」となるのも当たり前。
未発達があるのも当たり前。
そんな小さなうちから、支援者が支援しやすい「良い子」に当てはめようとしてどうするん。
かんしゃくだって、他人の行動が引き出されることによって、自分を知る機会。
声をたくさん出して、呼吸器系を育てるし、それ自体が運動にもなる。


「この子らしく、いい子に育ってほしいな」
そういった親心を、専門家の偏った知識で曇らせないようにしてください。
自閉っ子、発達に遅れのある子ではなく、大事な我が子ですから。

コメント

このブログの人気の投稿

【No.1358】体軸が育つ前の子と、育った後の子

【No.1364】『療育整体』を読んで

【No.1369】心から治ってほしいと思っている人はほとんどいない