2020年4月29日水曜日

【No.1056】絵が内的な世界を表し、描く行為が外的な世界を表す

今朝来た相談メールにも子どもさんが描いた絵が添付されていました。
2年前に【子どもの絵と発達】というテーマでブログを書いてからは、相談文にプラスして絵も送ってこられる親御さんが増えました。
当然、実際にお会いする発達相談でも、お子さんの絵を拝見しますし、一緒に絵を描いて遊ぶこともあります。


絵は、その子の世界であり、その子の脳そのものです。
「どんな絵を描くか」「どんな色を使うか」
そこに意識を向けていくと、子どもの目を通した世界が見えてきます。
発達段階や精神状態などの内側を追体験することができますので、子どもさんが描いた絵を拝見し読み解くことは、私達支援者にとって重要な仕事になります。


絵そのものが内的な世界を表しているとしたら、絵を描いている様子は外的な世界を表しているといえます。
色鉛筆も、クレヨンも、絵の具も、道具です。
つまり、絵を描いている様子で注目するのは、この道具の使い方なのです。
道具の使い方で、どのくらい勉強の準備が整っているか、今後どのくらい学力を積み重ねていけるかがわかります。


ヒトの進化において、道具を使えるようになったことが言語獲得へと繋がったのは有名な話です。
道具を操作しているときに働く脳の部位は言語野だといわれています。
私達が言葉を話すようになったことと、道具が使えるようになったことは密接な関係にありますので、発達援助においても、どんな道具をどれくらいうまく操れるかに注目するのです。
使える道具が増えると、言葉も増えてきます。
反対に道具がうまく使えないと、言葉の遅れがみられます。
ぎこちない道具の使い方がそのままぎこちない言葉へと表れます。


お子さんが絵を描いているとき、そのペンの持ち方と同時に、力加減と滑らかさに私は注目しています。
持ち方(指の位置・形など)はストレートに発達段階を表しますし、力加減と滑らかさは学習における脳の準備の状態を表現しています。
力加減は強すぎても弱すぎても、まだ学習の準備は整っていないことになります。
ペンの運び方、滑らかさは思考の柔軟性を表しますので、ぎこちなさを感じると「単純計算は大丈夫そうだけれども、文章問題・思考を問う問題はどうかな」と心配になります。
「しなやかな身体が柔軟な頭を作る」と言われており、それが指先にも表れると考えても良いかもしれません。


就学後のお子さんや成人した若者たちの字を拝見しますと、小さいときに思いっきり絵を描いたか、全く描かなかったか、また絵を描いたか、字や記号ばかりを描いたかがよくわかります。
特に成人の方が書く字は、思考そのものが表れやすく、硬い字を書く人は思考が固く、字が弱々しい人は知的な課題をもっていて、筆圧が強い人は衝動性が高い傾向があると、私は感じます。
しかし生涯発達は続きますので、当然、その人の生活・環境・発達によって字も変わっていきます。
届いた手紙を見て、その内容からではなく、字体から成長している様子が伝わってくることがあります。


セラピーの一つに絵を描くことがあります。
心理系の考えでは絵を描くことで、その人の内的な感情や課題が解き放たれ癒していくというように捉えられますが、私が思うに絵を描くこと自体に発達を促す効果があるような気がします。
先ほどお話ししたように、絵を描くことは道具を操作することになりますので、その行為を繰り返すことが言葉の発達から認知の発達に繋がっていくのだと思います。
なので、心理的な効果はかじった程度でよくわかりませんが、発達的な観点から成人した方にも絵をお勧めすることがあります。


実際に絵を描き始めた成人の方は、最初は「ただ描いて」と言われても描けませんので、模写をしたり、好きなキャラクターを描いたりしていました。
そうやって繰り返していくうちに、自由な絵が描けるようになり、気が付いたら手の操作性が上がっていましたし、思考も柔らかくなっていました。
子どもさんの場合は、大人の変な介入さえなければ、自由に絵を描くものなので心配ないのですが、成人した方はどうしても字や記号を書いてきた経験が多すぎますので、(自由な)絵を描かなかったヌケを埋めるのは難しいです。
なので、ある程度、介入と支援、援助が必要なわけです。


絵を描くこと、それが発達につながるためには、"自由"が何よりも大切なことになります。
小さいときから、「数字やロゴなどを描いていた」というのは発達障害の子にあるあるの話です。
数字やロゴは、そのままコピーであり、学習の準備を整えることにはなりません。
確かに就学前から字が書けるかもしれませんが、字が書けることは厳密に言えば学ぶ力とはいえないのです。
文字が大事なのは、就学後学習を積み重ねていくために必要な力は、その文字が表す概念を理解し、そちらに注目できることになります。
そういった意味で自由に絵を描くというのは、抽象的な概念を味わう行為であり、育む作業だといえます。


子どもの絵が上手か下手かなんかどうでもよい話です。
就学前の子に絵の描き方を教えるなんて言語道断、そんなのは教育とは言えません。
とにかく自由に、思いっきり絵を描き切ること、絵を描く楽しみを味わうことです。
たくさん描いたら描いただけ、その子は育っていきます。
あと「うちの子、絵を描かないんです」「興味を示さないんです」という相談が多いですが、それに対する答えは一つ。
「遊びが足りない」ということ。
身体、五感を存分に使って遊ぶ、全身で刺激を受けることが、そのまま絵に表れます。
ですから、絵を描かない子は遊びが足りなく子。
数字やロゴばかり描く子は視覚しか使っていない子、裏を返せば感覚、運動系に発達の遅れが多い子です。
学習の準備のために絵を描くように、絵の準備のために全身と五感を使った遊びを増やしていきましょうね。





2020年4月28日火曜日

【No.1055】児童デイに伺ったとき、まず何に注目するか?

起業して8年目となると、その間に色んな方から色んなお話がありました。
結構、児童デイに関しては厳しめの発言を繰り返していますが、児童デイに関わる方達からもお話があります。
「一度、うちの事業所を見てくれないか。助言をくれないか」と言ったものから、「一緒に児童デイを」「うちで児童デイを起ち上げるから、その代表に、アドバイザーに」などというものまでです。


児童デイに伺ったとき、そこで行われている療育や支援、スタッフの能力よりも、まず注目するところがあります。
それは代表がどういう人か?
もっと具体的に言えば、その人の経営力、もしくはちゃんと経営を担ってくれるスタッフがいるか、そういった専門家からコンサルタントを受けているかという点に注目します。


コロナ後、児童デイの半数くらいは潰れると思います。
たぶん、事業者が受け取る利用料1人分が減額されるでしょう。
だけれども、それでは事業者から、保護者からクレームが来るのは目に見えていますから、行政のほうは、1事業所当たりの利用できる人数の制限を緩めていくはずです。
そうなると、事業所に入るお金は変わらずですが、どこもすし詰め状態になる。
この状況下で、事業者も、保護者も、家庭の「レスパイト」という側面を訴えているくらいですし、既に児童デイを卒業した子の多くが福祉的なサービスを利用しているという結果も出ていますので、児童デイ=発達援助よりも、児童デイ=レスパイトという方向へ舵が切られていくと考えられます。
多くの子ども達を少ないスタッフがケアする状態。
そうなれば、低賃金&危険→スタッフが集まらない→志のあるスタッフもやりたい支援ができない→やる気のあるスタッフが辞めていく→経営&運営成り立たない→潰れるという流れができてしまいます。


私が児童デイの経営に注目するのは、こういった理由からです。
コロナ後は一気に潰れる、撤退する数が増えることになりますが、もともと事業として甘すぎるのです。
社会的な責任を果たそう、本気で子ども達の発達に関わろうと思えば、必然的にしっかりとした経営、安定した経営を目指さなくてはいけません。
児童デイは慈善行為でも、ボランティア活動でもないのですから。
それなのに、多くの児童デイは民間企業の意識が乏しい。
行政に提出する書類に関しては頑張るのに、経営には無頓着。
その収益のほとんどを公的なお金に頼っているということは、行政の考え方、制度変更によってもろに影響を受けるわけです。
つまり、もともとの財政基盤が脆い。


潜在的に財政的な不安定さを持っているのだったら、他で稼いで安定を目指すのが当然のことです。
代表が講演会やコンサル、大学の講義などで稼ぐ。
他のスタッフも、半数位の人は外に出て行って自力で稼げるくらいじゃなければ、事業を継続していくことは難しいでしょう。
「児童デイ一本で頑張る!」というのは、志は素晴らしいけれども、経営は学生サークルレベルだといわれても仕方ありません。
今まで見てきた児童デイでうまくいっていると感じたところは、代表・幹部に経営専門の人がいるところと、ある意味片手間で児童デイもやっているところ。
片手間というのは、本業、母体の収益事業が別にあり、児童デイもやっていますよ、という意味です。


当地だけではなく、全国的にそうだといえるのですが、児童デイや福祉事業所などは親御さんが起ち上げたところが多いです。
「この子の幸せのために」「この子が将来、困らないように」と考えるのは、親御さんとしては当然であって、その形の一つとしてそういった事業所があるのはわかります。
親御さんが起ち上げると、その地域の行政も、福祉関係者も、みんな温かい目で、温かい気持ちで応援してくれます。
ですから、これだけ全国で親御さん発の事業所ができたのでしょう。


しかし一方で課題もあり、どうしても「n=1」の支援になりがちなのです。
経験の浅い支援者も同じことが言えるのですが、自分が関わった子をベースに、これからの子と関わってしまいます。
親御さんで言えば、我が子にうまくいったことを他の子にもやりがちだし、求めがちになります。
今まで学生時代から合わせると、私が直接か関わった発達障害の人達は800人くらいでしょう。
それでもまだまだ経験が足りないと思いますし、1000人を超えて初めて一人前になれると思っています。
正直、「n=1」で仕事ができるほど、ひと様の発達と人生に関われるほど、あまくはありません。
一人として同じ人がいない、同じ発達の仕方をしないということは、それだけ多くの人達と関わらなければ仕事ができないということです。


事業を起ち上げた親御さんの中には、こういった弱点を意識し、専門家を外部から中に入れるところもあります。
数は多くありませんが、有名どころを入れて人気を博したところもあります。
でも、ここでも課題があり、事業所=その専門家になってしまうのです。
どういうことかと言いますと、その専門家のコピーばかりができあがり、その専門家以上のものが生まれなくなってしまうということです。
その専門家が全国的にリードしているうちはいいですが、流行り廃りもありますし、特別支援の世界もどんどん新しい考え、アプローチが生まれてきます。
それに柔軟に対応し採り入れられる専門家は良いのですが、どうも過去の栄光、自分の見識の中から脱することができない人が少なくありません。
しかも、スタッフも、代表である親御さんも、その専門家には実力的に口出しできませんので運命共同体となります。
もともと専門家は、児童デイをやりたくて専門家になったわけではないので、自分の名を売るために一時的に利用しましたねという事業所も複数見受けられます。


まあ、こういう風に書いているだけでめんどくさくなりますし、到底、私などにはできないし、関わりたくもないと思ってしまいます(笑)
一人ですと、誰かに給料を払わなくていいですし、何よりも自由なのがいいです。
こういう私も、最初は志一本で始めちゃったところがありましたが、それでは事業継続はできないとわかり、経営の助言をもらったり、勉強をしたりしました。
ですから途中からですが、その児童デイ、事業所の経営の部分に注目するようになったのです。


どうしても福祉の世界は、親御さんや兄弟児など、当事者に近い人達が関わり、働いていることが多いといえます。
なので、自然と気持ちや感情の部分に流れて行きがちです。
しかし、仕事である以上、儲けなければなりませんし、経営を安定させなければなりません。
他の民間企業のようにリスクを最小限に、またリスクに手を打っておく必要があります。
それなのに想いだけでやっちゃう。
想いは始めるきっかけ、原動力になりますが、継続する力にはなりません。
今現在、どれだけの普通の人が事業を起ち上げているのでしょうか。
コロナ後、福祉予算が減らされていく中、どうやって自力で立ち続けることができるでしょうか。


就学時から児童デイに通っていた子が、学校卒業後、福祉事業所を利用する。
福祉事業所を利用するのは悪いことではありませんが、どうして自立する子、社会の中で働いていける子がもっと出てこないのか、そこに私個人としての不満があります。
学校で学び、放課後も将来の自立に向けた準備をする。
とても素晴らしい制度であり、恵まれている環境だといえます。
それなのに児童デイの延長で福祉事業所に移行する。
それって場所が変わっただけじゃないの?と思ってしまいます。


では、何故、児童デイから自立する子ども達が、社会に飛び立っていく子ども達がもっと出てこないのか。
それは児童デイ自体が自立していないから。
経営的に、経済的に自立していない事業所、たとえばある日から公的なお金がストップになっても立ち続けられるところはどれくらいあるのでしょうか。
そのときになって、「それは障害者差別だー」「社会の理解がないんだ―」と叫んでもどうしようもないのです、もう遅いのです。
ですから、少なからず児童デイ以外の収益も考えないといけませんし、スタッフの一人や二人は外に出て行ってバリバリ外貨を稼いでくるくらいじゃなければいけません。
「あー、制度が変わったので無理でした」「事業を続けられないから、撤退します」といって一番困るのは、利用している子ども達。
スタッフは転職できますが、子ども達の育ちは簡単に変えることができないのです、子ども達の時間は返ってこないのです。


先見の明がある親御さんは、児童デイ、福祉サービスをずっと使えると思っていないし、使おうとも考えていません。
しかし、それが本来のあり方です。
福祉は必要な人が利用し、必要がなくなれば、他の人のために席を譲るもの。
そのために福祉サービスを利用しつつも、目標は自立であることを忘れない。
コロナ後、児童デイも、他の福祉事業所も、一気に淘汰されていきます。
本物しか残らない。
その何が本物かといえば、その子の自立に向けた発達を支援できるかどうか。
そういった面で、支援者の腕が問われ、事業所の経営が問われるのだと思っています。




2020年4月25日土曜日

【No.1054】不確実な未来の中にある確実なもの

視覚的な支援の中の「スケジュール」とは、見通しが持てない人が見通しを持てるようにするためのツールだと言われています。
つまり、これは平時の道具だといえます。
今のように誰もが見通しのもてない時期に、見通しが持てないことを視覚的に表しても結果は同じです。


もし強引にも見通しを持たせようとするのなら、そのスケジュールの内容はとても乏しいものとなるでしょう。
「朝ご飯を食べる」「テレビを観る」「お昼ご飯を食べる」「音楽を聴く」「夕食を食べる」「お風呂に入る」「寝る」
見通しが立たず、社会生活の中にいろんな制限がある今、確実な予定を提示しようとするのなら、こういった内容しか出てきません。


様々な場所から聞こえてくる話の中に「コロナの影響で日常的な活動ができずに大きなストレスを感じている自閉症の人達」ということがあります。
これは国内だけではなく、アメリカなどでも、同様の状況、人たちがいると聞きます。
こういった制限のある状況では、定型・自閉症に限らず、どの人もストレスを感じるものです。
でも、自閉症の関係者、支援機関は、それが自閉症の特性であるかの如く訴えます。
そしてこの期に及んでも、視覚的な支援ツール、支援・援助・理解を求めているのです。


そもそも視覚支援とは、確実性の上に成り立っているものです。
つまり平時の支援であり、非常時の支援ではありません。
東日本大震災のときも、避難所で「個人のスペースが」「パーテンションが」「スケジュールが」という話がありました。
本来「支援を求める行為」とは、本人が困ったとき、困っているからこそ、求め受けるものではないでしょうか。


平時のとき、決まり切ったスケジュール・予定を視覚的に提示することの意義はどういうことでしょう。
本人がやりたいことをただ視覚的に示すこと。
周囲の人間がやらせたいことを視覚的に示し、やらせたくないことを示さないこと。
そういった支援が、どのように本人たちの困ったに応えているといえるのでしょうか。
本人が困ったとき、助けを求めたいときにこそ、その支援の進化と日頃の積み重ねが現れるのです。


「スケジュールで予定を視覚的に示したのに、この子は落ち着かない」というケースは以前から多く見られていたことです。
それは当然です。
本人がやりたいことが提示されなければ、やりたくないことが提示されれば、不安定になります。
だって、理解と感情は別問題だから。
「日課で買い物に行く〇〇というお店に行けない」「電車に乗って、遊園地に行って、アイスを食べるのが週末の楽しみだったのに、それができない」というのが現在。
だからこそ、「荒れて困る」という話があります。
でもそれは視覚支援のやり方云々とか、自閉症の人の"同一性保持"という特性とかではないと思います。


一言で言えば、日頃の積み重ねが出ているまでです。
非常時を想定して、望みが叶わないことを体験させたり、日課・活動がパターン化しないような工夫やバリエーションを広げる育みは行っていたでしょうか。
どうも見ていると、自閉症の人の「同一性保持」という言葉を盾に、周囲にいる人間が大事なことを教える手間を省いていたのではないかと思えることが多々あります。
日課のパターン化は非常に危険です。
非常時に、私達が感じている以上のストレスを人為的に与えることに繋がるから。


現在のような非常時に不安定になる人達の中には、この日課のパターン化ゆえに過度なストレスを感じてしまっている人が少なくありません。
今こそ、支援を求めているときなのに、その力になれない支援の数々。
この機会に「今、支援者は何をしているか」「今の私達に何をしてくれていたか」をしっかり見て記憶しておくことが重要だと思います。
それが非常時から平時に戻ったとき、自分に・我が子に本当に必要な支援と人を明らかにしてくれるから。


現在の状況の中で「不確実な未来の中にある確実なもの」ということを考えながら、仕事・生活・人生を私は見つめなおしています。
特別支援の世界でいえば、児童デイ・通所・入所施設など、直接関わる人が減るのは確実です。
それでいてAI化も難しい仕事。
つまり非常時はもちろんのこと、平時になったとしても支援の手ができるだけ少なくても生きていけるようにしておくことが必要です。
ということは、育てられるところは一つでも多く育てておく、発達させておく、たとえ時間がかかったとしても。
障害の程度に関わらず、どの子も将来的な自立を目指し学び、私達は子育てと援助をしていく。


今回のテーマで言えば、平成の支援・療育からの脱却も必要です。
もともとは知的障害のある自閉症の人を想定した支援の数々でした。
それを「高機能」という概念ができたばっかりに、そういった人達までをも支援の枠組みの中に入れようとしたばっかりに、一度「自閉症」と付けば、どんな子かは問わずに従来の支援に押し込めていく。
知的障害のある自閉症を想定していたから、官僚言葉のような「支援を受けながら自立」という意味不明な目標が出てくるのです。


非常時こそ、本人たちが困っているときこそ、それに応えられる仕事・支援・援助を。
それが私の出した結論です。
平時のやってもやらなくても変わらない仕事・支援・援助などに興味はありませんし、そういうのに時間を割いているほど人生は長くないと感じます。
明日がわからないからこそ、確実なものにエネルギーを注いでいくのです。


コロナ後の世界で、どんな学力・仕事・生活が求められ、消えていくかはわかりません。
しかし生きている限り確実なものがあります。
それは自分の身体という存在。
身体を整え、発達という土台をしっかり培っておく。
そこができていれば、時代に翻弄されることなく、非日常がやってこようとも、自分の人生を生き抜くことができる。
その原理原則は、700万年の人類の歴史の中で変わらぬこと。
平時に非常時を想定し準備する者が命を全うできる者。
そういった視点で世の中を問うと、見えてくるものがある。
小手先の支援ではなく、地に足のついた育ちです。

2020年4月24日金曜日

【No.1053】まだ生まれてきていない子ども達を援助する

スーパーに買い物に行くのを「3日1回にしてほしい」と、小池都知事が言っていました。
どこのスーパーも人がいっぱいなようで、まさに三密状態。
お客さんは自分の意思で避けることができますが、従業員は基本受け身なので、常にリスクにさらされている状態だといえます。
従業員がいなくなれば、それこそ食料が手に入らなくなりますので、「働く人を守る」という意味で買い物する側の行動変容が起きれば良いな、と思っています。


しかし一方で「買い物客は減らない」と、私は思います。
何故なら、この前もブログで書いたように、みんなが"ヒト"モードになっているから。
「経済だ」「資本主義だ」などと言われますが、結局、お金を介して狩猟生活をしているのが私達人間です。
平時、自分の安全が守られた状態ですと、より精神性の満足感に意識が向いていきます。
たとえば、仕事でのやりがい、ひとの役に立つこと、自分で立てた目標に向かい努力する自身の姿、家族の幸せ、世界平和などに。


でも今は、一番の土台である安全安心が揺らいでいます。
700万年の人類の歴史そのものが「安全安心」と「子孫を残す」ための闘い。
ですから、身近に迫っている危険を前にし、人間はヒトに戻っていく。
「開いているところがスーパーくらいだから」と考えるのは、ABA。
「身の危険を感じている今だからこそ、生きるための(現代の)狩猟へと心が掻きたてられる」と、私は考えます。
食べ物を得るというのは、それ自体が安心感と繋がっています。


発達相談において、成人の人達からよく聞く言葉に「無理して働かなくていいって言われました」というものがあります。
公的な相談機関でも、病院でも、家族からでも、「(人的、金銭的)支援を受けて生きればいい」と勧められる。
確かに公的な支援を受ければ、物理的には生きていくことはできます。
しかし、心理的に生きることはできるでしょうか。


今まで多くの若者たちと出会ってきましたが、「働く必要はない」と言ったことはありません。
たとえ知的障害を持っていたとしても、今すぐに働くことが難しい状態だとしても、必ず働くことを目標に取り組んでいきます。
何故なら、働くことが現代の狩猟だから。
自分の目の前に届けられる獲物と、自分で身体を動かし、ときに危険を感じながら得た獲物とでは、肉体的な満足は一緒でも、精神的な満足はまったく違うものになります。


働くことで、ガラッと変わった人達がたくさんいます。
IQが上がった人もいますし、言葉のバリエーションが増えた人もいます。
働くという中には試行錯誤といった脳を育てる機会があります。
しかし、そういった学習の機会だけではなく、安心感と直結する「自ら動き、自ら得る」という行為が次の働く意欲、より向上しようとする意欲へと繋がっているのだと、私は感じます。


コロナ後の世界を想像すると、今まで以上に実感を持ちづらい働き方と形態が中心になっていくと
思います。
そうなったとき、つまり、バーチャルな世界での狩猟となったとき、私達は何で安心感を得るのだろう。
たぶん、ヒトとしての、動物としての土台である発達が培われていない人は、どんどん病んでいくはずです。
生きているという実感がないまま、ときだけが過ぎていく。
また環境の変化に翻弄され、ひたすら不安を感じるだけの存在になる。


肉体性のない狩猟の世界では、より精神的な生きる意味が求められます。
そのためには、自らが地に足つける安心基地にならなければなりません。
「生きる段階」の発達が整い、自分の身体が安心を生みだす。
自分の身体と共にある安心感が、より高度な、人間としての喜びと生きる目的を運んでくる。
コロナ後の世界は、自己実現や世のため、人のために生きることの喜びを感じられない人、祖の段階まで発達できていない人にとっては、生きづらい世界になると思います。


子育て世代である私達は、バブル・好景気は体験していませんし、これから先も金銭的な豊かさとは無縁のまま、生涯を終えると思います。
新型コロナと向き合い、このときを生き、改めて人間とは脆く、弱い存在なんだと感じます。
自分の生まれた時代を不幸だとは思いません。
しかし、自分の仕事、生き方を考え直す時期だと思います。


金銭的な豊かさではなく、精神的な豊かさ。
今、私の幸せではなく、未来に繋がる幸せ。
100年前のスペイン風邪のときの様子を見ると、現在とまったく同じ状況であり、対応だったことがわかりました。
ヒトは100年単位などでは変化しません。
それくらい弱い存在。
でも、私達、人間は想像する力を持った動物です。
他の動物にはできない100年後の未来を想像することができる。


100年後、もしかしたら、人類は今回と同じような事態に陥るかもしれません。
ですから、今体験したこと、学んだことを未来に届ける役目があります。
そう考えたとき、自分の仕事を見直すと、私の仕事はまだ生まれてきたいない子ども達のために頑張る必要があるのだと思うのです。


コロナ後の世界を見据えて、発達援助を行っていく。
今回の事態でよくわかったのが、こういった「生きるか死ぬか」という状況の中では、発達障害があるとかないとかではなく、皆、平等で「人」が問われるということ。
発達障害を治すとか、治さないとかは、とても小さな話で、これから先、どんな世界がやってこようとも子ども達が生き抜くことができるように育てていく、その後押しをしていくことが大事なんだと思います。
治した方が良いとか、治すのがすごいとかではなく、生き抜いてほしいからこそ、治していく。


呼吸や感覚、運動や内臓など、育ちの遅れがあれば、それだけ生き抜くことが難しくなる。
特に、全体的に貧しくなれば、余裕がなくなれば、弱者への手は遠のいていくばかり。
そして肉体的な実感を伴わない仕事が主となる世界では、人間としての高度な喜びを感じられないと、精神的な満足を得て生きていくことが難しくなる。
「この仕事が、見えない誰かの役になっている」「よりよい社会のためになっている」
そんな風に感じられるには、爬虫類の脳から哺乳類の脳、そして人間の脳まで育っている必要があります。


今、目の前にいる子ども達を援助することは、まだ生まれてきていない子ども達を援助することにもつながる。
100年後の子ども達が生き抜いていけるように、今の子ども達の発達課題をクリアして自立し、生き抜ける大人たちへと後押ししていく。
人間は弱い生き物だからこそ、想像力を使い、より良い未来を作っていくのだと思います。
その想像力を発揮できるように、発達の土台から育てていくのです。
2022年後を人間らしく生きていけるように。



2020年4月21日火曜日

【No.1052】不確実な未来で、確実なもの

高齢者のデイサービスと同じように、児童デイでも送迎サービス、移動支援(なにを支援してる?)を一時休止にして開所しているという話を聞きました。
大いに結構なことだと思います。
一人で通所することが困難な高齢者や肢体不自由の子ども達なら、送迎の意義、必要性はわかります。
でも、五体満足に生まれ、元気よく行動できる発達障害の子ども達が、どうして学校から事業所、事業所から家までの送迎が必要だというのでしょうか。
必要性を感じないうえに、あることで、子ども達の成長、自立の妨げになっている、と私は思うのです。


以前、不登校の子のご家庭に訪問したとき、「授業がすべてオンラインになれば、この子達は問題がなくなる」と言っていた親御さんがいました。
確かに、授業がオンラインで展開されるようになれば、家から出る必要はなく、学力だって身につけることができるでしょう。
しかし、それで済むのなら、そもそも学校という存在が必要ないのだといえます。


学校が教科を教え、それを身につけさせることだけが目的だとしたら、学校と塾の境目はなくなります。
また単に学力だけなら、授業を録画したものを、各家庭で自分が好きなときに観て、勉強すれば良いわけですし、既にタブレット学習が一般化されていますので、就学と同時に一人一台配れば、学校という箱モノも、大量の教師という職業も、必要がなくなります。
学力、一点に絞って言えば、オンライン化、タブレット学習にすれば、とても効率的になります。
実際、こういった声は、いろんな人達から上がっていますし、今後、議論されていくことになると思います。


「学校は、教科を教えるところであり、学力を身に付けさせるところ」というのは、当然です。
私が学校に対して批判的な感情、意見を持つときは、この教科学習をないがしろにしている場合です。
支援級、支援学校で、きちんと教科が教えられない、教科書すら渡されない、6年間、ほとんど同じ内容、という話を聞いたとき、私は憤りを覚えます。
学校が学校の存在意義を否定するような行為、「どうせ、この子達には教科は無理」といった失礼な態度に。


しかし、学校の存在意義は、「学力を身に付けさせる」だけではないと思っています。
教科とは違った学ぶ力を養う場所、養われていく場所。
私はそう感じています。
たとえば、「登校する」ということだけ、一つとっても、とても意義のある行為であり、学びだと思います。


「登校する」という行為には、様々な要素が関わっています。
家の扉を開ける以前に、時間の理解、時間に合わせた行動、必要なものを準備、天候に合わせた服装の選択、基本的な生活リズムの確立など、生きるための発達土台から、計画や自制などの人間としての発達段階の育ちが問われます。
問われるということは、こういった一つ一つの要素を培い、課題をクリアしていくこと自体が、発達、成長そのものだといえます。


家の扉を開けたら、目的地である学校まで移動し続けなければなりません。
道順を覚えること、交通ルールに従うこと、間に刺激があり、注意が逸れたとしても、また自力で「登校する」という目的に意識を向けること。
そして何よりも、たとえ同じ道順だとしても、一日たりとも、同じ刺激、環境ではない、それを体験することでの育ちの大きさです。
私が「登校する」という行為に感じる発達刺激の豊かさと、その意義の深さは、まさにこの部分です。


ヒトは歩くことで進化し、脳を大きくしていきました。
歩く、移動するというのは、コンピューターのように、入力と出力の繰り返しではありません。
そこには、バランスや周囲の刺激の受信といった感覚系の話から、動作、運動系を総動員すること、危険の察知と臨機応変な行動、目的地までの記憶や経路の想像、推測、計画など、高度な脳機能まで幅広く必要となります。
特に現代社会の中では、人為的な環境のコントロールが進められてきたため、子ども達は危険の察知や臨機応変に対処を学ぶ機会が少ないといえます。
本来、動物であるヒトが、危険や見通しが立たない不確実性の中での体験を元に、問いのない答えを導き出してきたのに。


「登校する」という行為は、失われていた動物性を取り戻す訓練であり、危険の察知、臨機応変な対処など、生き抜くために必要な力を養う貴重な場だと、私は考えています。
学力は、他のものでどうにでもなると思いますが、季節が移ろう中、何年間も1つの場所に通い続けるという行為自体が、現代の子ども達にとっては必要だといえます。
就学前のご家庭での発達相談では、授業を受ける準備(「一斉指示がわかる」「他人に迷惑をかける行為がない」「離席せずに一定時間、座れる」)と同じくらい、一人で登校できる準備の大切さをお伝えしています。


支援校に通っていた、ある女の子は、話すことはできますが、学力の面では小学校低学年くらいでした。
でも、その子の親御さんが、「将来、この子には働く大人になってほしい。そのためには、自分で目的地まで行って、帰ってこれる力をつけなければならないと思います」とおっしゃり、実際に取り組みを行いました。
最初は、学校の近くまで車で送り、親御さんが見える範囲からの登校。
徐々に、距離を伸ばしていき、また別のルートや繁華街などの変化を持たせ、学校生活後半では、敢えて公共交通機関を使っての登校も練習しました。
こういった取り組みを重ねていった結果、卒業後、一般就労。
もちろん、公共交通機関を使って。
事故などで、遅れが出たとしても、その旨を職場に連絡し、落ち着いて行動できているそうです。


このご家庭の親子の取り組みを見て、生きる力を育てるとは、まさにこういうことをいうのだと思いました。
学校の先生からは、「何かあったら、大変ですよ」「今は、障害者の送迎サービスも利用できますよ」などと、何度も言われたそうですが、一切動じず続けました。
そういった小さな取り組みが積み重なっていく中で、会話の幅が広がり、世の中の理解力が伸び、人とのやり取りが上手になり、自分で考え、行動する力がついてきました。
親御さんは、度々、「いくら働く力があっても、通えなかったら、仕事はできないでしょ」と言っていましたが、働くために必要な発達と、働くという行為の本質を見抜かれていたのだと思います。
働くとは、自立するとは、「危険を察知し、それを回避できること」「その場の状況に合わせて、臨機応変に行動できること」が求められるのです。


学校が終わると、校門の前に並んだ車に乗せられ、事業所まで連れていかれる。
事業所で公園に行くときも、車。
帰るときも、家の前まで車。
その移動の時間に、なんのサバイバルもなければ、なんの発達刺激、学ぶ機会もありません。
結局、送迎サービスとは、加算が目的なのであり、子の発達が目的ではないのです。
確かに、親は安全、安心かもしれませんが、それと引き換えに失うものが大き過ぎます。
自分で準備し、学校に行って帰ってくる子と、全部お膳立てされて12年間過ごす子とでは、学力の面では差ができないかもしれませんが、生きる力、生き抜く力、働く力の面では大きな差ができるでしょう。


「うちは知的障害があるし、重いし」という親御さんもいます。
しかし、それは言い訳にすぎません。
何故、取り組む前から無理だと考えているのでしょうか。
そもそも、育てずにしてできる子が、どれほどいるというのでしょうか。
先ほどの女の子は、就学時、重度の知的障害という判定でした。
でも、12年間かけて取り組んだ結果、重度から中度、中度から軽度まで育っていきました。
つまり、土台である「生きる段階」の発達を、登下校を通して養っていけたということなんです。
それこそ、いくら知的障害がなく、働くスキルがあったとしても、自分を律することができず、自分で準備し、目的地まで移動できなければ、コンスタントに通うことができなければ、仕事などできるはずがありません。
働く力、働き続ける力の土台は、技能や知識ではなく、生きる段階の発達であり、危険を察知し、臨機応変に行動できる育ちなのです。


「三密になるし、介助者と近距離になるから」という理由で、送迎サービスが中止になっています。
ちょうど良い機会です。
自力で通所できるように練習すれば良いのです。
「一生、この子の送迎をやらなきゃいけないのか…」とこぼす、親御さんもいますが、それなら一緒に取り組みましょう。
一人10万円は、空から降ってくるのではありません。
全部、私達の税金であり、我が子が将来、払い続ける借金です。
世の中、みんなが苦しくなれば、最初に切られるのは、弱い立場、福祉に決まっています。
1日、一人通って1万円が続くなんて、のほほんと思っていれば、終息後に痛い想いをします。


福祉も、制度も、人が決めるもの。
人が決めるものに、確実なものなどありません。
それこそ、今は、すべてが不確実な世界であり、それが私達の未来。
その子が身に付けたもの、育ったものは、誰にも奪われることがありません。
唯一、私達大人ができること、それは不確実な中で、確実な力を子に付けさせてあげること。
それこそ、「生きる段階」の発達であり、子育て、発達援助のあり方。
発達をお金で代替することはできるが、お金で買うことができない。
発達障害の子ども達に必要なのは、自立に必要なお金を国に、社会に要求することではなく、その土台を育んでいくことだと、私は考えています。

2020年4月19日日曜日

【No.1051】いろんなものが淘汰されていく真っ只中

講演会や研修会などのテーマには、「最新研究」「最新の情報」といった文言が入ることが多くあります。
若い頃の私は、「少しでも新しい情報を」と思い、こういった講演会に足を運んだものです。
しかし、どの講演会でも、"最新"の情報は冒頭の少しくらいなもんで、あとは例年通り、本やネットで出てくる情報ばかり。
結局のところ、その講演者や主催者、組織の"押し"を広めるためのものだと分かったのは、20代後半になってからでした。


今は世界的に、どの人間も、"ヒト"モードになっています。
大なり小なり、命の危機を感じる時期ですので、「生きるか死ぬか」に意識、無意識が向いているといえます。
ですから、「生きるか死ぬか」という軸で、いろんなものが淘汰されていく真っ只中にいるのだと思います。
歴史を振り返ると、こういった出来事のあとには、まったく新しい価値観、文化、システムが生まれているのがわかります。
「早く、もとの生活に戻りたい」などと言う人が時々いますが、もう2019年の頃のような生活がやってくることはないでしょう。


今、世の中は、新型コロナの話ばかりですが、北朝鮮はミサイルを飛ばすし、中国船も日本の領海にやってきています。
地球環境の問題もありますし、ついこないだまで働き方改革だ、ジェンダーだ、マイノリティーだ、と言われていました。
でも、今はほとんど、そういった話題にならないし、解決に向けた動きがみられません。
ということは、根本的な「生きるか死ぬか」とは関わりのない話題だったんだといえます。


今年は建物を青くしたのかどうかもわからないまま、4月2日が過ぎていきました。
今までは、ずっと「啓発が大事」「理解が大事」と主張されていましたが、意気込んでいろんなところから寄付を募っていましたが、あってもなくても変わらないことが証明されてしまいました。
本当に必要なもので、当事者、家族を救うものであったとしたら、どんな状況でも、むしろ、今のような不安を感じるときのほうが、その意義が明確に現れるのだと思います。


もう十年以上前ですが、それこそ、20代の頃に行っていた講演会、研修会の主催者から、「開催中止のお知らせ」がメールで届きます。
どのメールにも、「誠に残念ですが…」と書かれていますが、残念に思っているのは、主催者だけじゃないの、と思ってしまいます。
そもそも、ほとんどの講演会、研修会に、わざわざ足を運んで参加するだけの価値があったのでしょうか。
新型コロナのせいにしていますが、コロナのおかげで、より早く淘汰されただけのように、私は感じます。


収束から終息まで、まだまだ年単位でかかるのは明らかです。
この1年、2年の間で、様々なものが淘汰されていくでしょう。
2020年前に必要だったものが、2022年には必要じゃなくなっている。
自然淘汰で消えていくものが、新型コロナによって、一気に片づけられてしまうといった感じでしょうか。


特別支援の世界で言えば、今までの「生涯に渡る支援」が淘汰されると思います。
今回の件で、人と人が関わり続けることのリスク、施設等の集団で生活することのリスクが、多くの人間に刷り込まれるからです。
こういったリスクの最前線に立ち続けないといかない現場の職員だって、この仕事を避けていくでしょう。
そもそも、介護、支援、福祉の世界は人が集まらなかったのですから、終息後は施設運営が成り立たないくらい人材不足になるのは明らかです。
あちこちの福祉施設、事業所が撤退、潰れていくはずです。


また親御さんの意識の中にも、「この子に生きる力を」「サバイバルできる力を」「自立して生きていける力を」という想いが強くなると思います。
2000年以降、上辺の支援、みんなが行っているから療育&児童デイが氾濫していましたが、現在、定期的に行かなくても、本人の生活、発達にはなんの関係もないのが分かった家庭は少なくないと想像します。
別に療育に行かなくても、家庭の取り組みの中で子は育つし、児童デイに行かなくても、家で学ぶことはできる。
結局、親の安心のための療育であり、親のレスパイトのための児童デイだったのです。
この「生きるか死ぬか」という雰囲気の中で、どうしても通わなければならないくらいの場所だといえるのでしょうか。


新型コロナに関しては、いろんな情報や専門家の発言が出ていますが、どれも正しいかどうかはわかりません。
だって、人類が遭遇していない新型なのですから。
当初言われていた「若者は重症化しない」というのも、海外で重症化し、亡くなった若者が出ましたし、「基礎疾患が」というのも、同様に重症化、亡くなる人が出ました。
「免疫ができる」というのも、本当にできるのかわかりませんし、既に「武漢型」「欧米型」などの型の変化が出ていますので、一度かかったから大丈夫、とも言えません。
つまるところ、どれも「n=1」で考えるしかないのです。
基礎疾患のない元気な若者も、自分が罹って死ねば終わり。


頭ばかりが肥大化した人類が、ヒトに戻る機会なのかもしれないと、私は思うようになりました。
スマホでいくら情報を手に入れようとも、新型コロナのリスクをゼロにすることはできません。
どんなにテクノロジーを駆使しても、結局は、自分の身体で対処するしかないのです。
危険を察知し、そこを避ける。
それは頭ではなく、感覚が担う部分です。
そういった意味で、身体や感覚、運動などの「生きる段階」に発達のヌケや遅れがあることがリスクとなります。


今までの療育や支援などが、いかに、この「生きる段階」に直結したものでなかったか、上辺だけの、それこそ肥大化した脳を喜ばせるためのものであったのか、それがはっきりしたと思います。
ずっと、「支援を受けながらの自立」などと、この短文の中ですら、論理が破綻していることを言い続けてきたギョーカイ。
自立とは、その字が表すように、自らの足で立つことであり、それを育てるのが真に支援するということ。
今まで、その人を支援したわけではなく、支援している姿を見せることで、親を、社会を安心させようとしていただけです。
だから、「生きるか死ぬか」という状況になったとき、お呼びがかからないのです、中止になっても、なにがどうということはないのです。


授業や講義、会議や式が、どんどんオンライン化されていきました。
既にその流れはありましたが、これまた一気に、情報伝達と共有の価値が限りなくゼロに近づいていったといえます。
情報の価値=(ほぼ)ゼロです。
なので、「欧米からの最新の情報」などといった講演会の価値もゼロ。
私が綴っているような「どんな視点でアセスメントするか」「どこを育てれば良いか」「何と何が発達的につながっているか」などの情報も、価値はゼロ。
調べれば出てくる情報、どこかに載っている情報も、価値はゼロ。
情報を切り売りするだけの仕事は、淘汰されていくといえます。


では、特別支援の世界で、どんな仕事が残っていくのか。
肥大化した脳から、ヒトへの揺り戻しが起きる。
ですから、情報と身体をつなぐ仕事が必要になるといえます。
多くの相談で、「発達の順やポイント、育て方はわかったんだけれども、目の前の我が子に、どのように当てはめれば良いか、どんな方法がベストかがわからない」と言われます。
それは無理もない話です。
今までの私達は、脳を肥大化させることばかりに熱中したのですから。


そんな中で、親になり、子どもに発達の遅れが見られる。
この子ども達は、主に胎児期から2歳前後という「生きる段階」「生きるための土台」に課題がある。
今まで、誰も気に留めることなく、ほとんどの子ども達は自然にクリアしていた段階に、です。
なので、親御さんは混乱し、脳と身体を結びつけることに苦労される。
だからこそ、親御さんの身体、動き、感覚を総動員するような援助が求められていくのだと思います。


2022年以降、その子の「生きる段階」の発達に手が出せない支援者は消えていくでしょう。
上辺だけの支援、とにかく支援ありき、人ありきの支援、情報の切り売りの専門家、理想論だけを語るような人達も。
情報で満足する時代は終了です。
対人職は、情報以外のところで勝負できなければなりません。
誰でも、調べればわかるようなことに、お金は出さないし、リスクも犯さない。


この2年間で、私の実力、価値も、明らかになると思います。
警戒状況も、弛緩を繰り返すはずです。
波が高くなり、低くなり、徐々にそのふり幅が小さくなって、収束から終息に向かうでしょう。
その波が低くなったとき、弛んだとき、私の仕事が求められるか否か。
人類平等に「生きるか死ぬか」の状況で必要とされるのは、生き抜くための援助ができる人と仕事。
その審判が下る未来を、私は今から楽しみにしています。




2020年4月18日土曜日

【No.1050】「生きる段階」「遊ぶ段階」「学ぶ段階」

新学期が始まり、子ども達の元気な声が戻ってきたのも、つかの間。
そんな生活も2週間ほどで終了し、再び自粛生活が始まりました。
少なくとも今年度は、こういった登校→自粛→登校のような学校生活になるのだと思います。


この緩まった隙(?)に、いろんな相談、仕事がありました。
皆さん、きっとこの機会を待ち構えていたのだと思います。
学校や幼稚園など、「1学期で、こんな取り組みをしよう」「この1年間で、こんな力を身に付けさせよう」といった悠長な教育計画は立てられないでしょうし、保護者もそれを期待するのは難しいと言えます。
となると、今まで以上に、家での過ごし方、生活が問われるわけです。


メディアでは、「学校が休校になり、勉強の遅れが心配」といった声が並びます。
しかし、厳しい言い方をすれば、学校が1ヶ月、2ヶ月、休みになったくらいで、その子の学力に遅れが出るとしたら、そっちの方が問題です。
小学校低学年なら、大人が傍で見守ったり、教えたりしながら学習していく必要がありますが、基本的に自分で学ぶという主体性がないといけませんし、それを育てるのが小学校の間です。
学力を身に付けること以上に、こちらのほうが大事。
自ら学ぶ姿勢が培われている子は、学校があろうがなかろうが、学力が身についていきます。


不登校の子の親御さんの中には、「学校に行けないから学力に遅れがある」と言われる人もいます。
でも、それは間違いで、そもそも自ら学ぶ姿勢が育っていないといえるのです。
その証拠に、学校に行けなくても、家の中でしっかり学力を身につけ、進学、自立していく若者たちがいますので。
確かに、学校に行けていないことは、学ぶ機会の乏しさに繋がりますが、学力に直結する問題ではないのです。
問題の本質は、環境以前に、その子自身。


これは、支援級、支援学校に通う子ども達の話ともつながります。
「支援級では、通常級のレベルを落としたものを、ゆっくりやるだけ」
「そもそも支援学校では、教科学習をしない」
だから、学力が身につかないと言われます。
確かに、学校側の問題もあるでしょう。
しかし、そういった環境の中でも、しっかり学力を身に付けていく子もいるのも確かです。
もちろん、学校で教わる機会が乏しいので、その分、家庭での勉強はやります。
そのポイントは、「やれば身につく」ということです。


学校は公的な制度で成り立っていますし、どんな学校で、どんな先生に教わるかは運次第。
そのような外敵な要因は、個人でコントロールできませんし、する必要もありません。
大事なのは、どんな外的な環境かではなく、どんな内的な環境かということ。
今回のような状況の中で問われているのは、内的な環境、つまり、その子個人の発達段階です。
いくら優秀な教員、学ぶための豊かな環境があったとしても、その子に学ぶ準備ができていなければ、やれば身につくという段階まで育っていなければ、どうすることもできません。


では、その「学ぶ準備が整っている段階」とは、どういう状態のことであり、どうすれば、育てられるのか。
これは、私がアセスメントで使う視点のお話をすれば、わかると思います。
発達相談では、いろんな視点、軸を持って、その人の発達を見るのですが、その中の一つです。


この視点というのは、他の視点と比べて、大きな枠組み、イメージで言えば、一歩引いて俯瞰して見るような感じです。
ちなみに「原始反射は?」「運動発達は?」などが細部を見る視点です。


当然、「学ぶ準備が整っている段階」というのも、発達の流れの一つですので、そこには階層があります。
まずは「生きる段階」があり、次に「遊ぶ段階」があり、そして「学ぶ段階」があります。
私は、その子と対面したとき、この中のどの段階かな、というのを見ますし、それを親御さんにお伝えすることもあります。


「生きる段階」とは、その名の通り、生きていくために必要な発達を遂げている段階です。
呼吸や感覚、運動はもちろんのこと、ちゃんと寝れて、食べれて、排泄できることや、危険を感じたら回避できるなど、この先、長い人生を生き抜くために必要な発達の部分です。
ここが培われていないと、ここに課題が残ったままですと、当然、次の遊びがうまくできませんし、その遊びがうまくできないということは、学ぶ段階まで育っていかないということになります。


「遊ぶ段階」の育ちで確認するのは、自分の身体で遊べるか、自分のイメージの中で遊べるか、他人を意識して遊べるか、他人との関わりの中で遊べるか、他人と協力して遊べるか、などです。
前回の「概念理解」も、この遊びの段階で培われますし、社会的な動物としての土台はここで養っていきます。

このように挙げると、「他人と協働できないけれども、学力優秀な人もいる」という声が聞こえてきそうですが、それは学びを一面的に捉えているのだと思います。
確かに知識を得る、その得た知識で課題を解くのも学力ではありますが、社会性の動物である人間の学び方としては乏しいといえます。
「学ぶ段階」の次は、「自立する段階」です。
自立するためには、問いのない答えを出していく能力が求められます。
そうでなければ、自分の資質を活かしながら、自由に選択して生きる、という生き方ができないからです。


「学ぶ準備が整っている」というのは、しっかり遊び切った子のことを言います。
遊びきれないまま、学校生活に入ると、どうしても伸び悩み、躓きが生じてきます。
それが3年生という概念理解をベースとした学習内容に変わったタイミングで、もろに出てきます。
3年生で躓く子は、学ぶ準備が整えなかった子であり、遊びきれなかった子。
発達相談では、一緒に公園に行ったりして遊んでいる様子を拝見しますが、その子がどんな遊び方をするかで、だいたい将来の学力がわかるものです。


遊ぶことは、学習の土台になりますので、遊びきれるように育てることが重要になります。
ある意味、発達援助という仕事は、遊びきれる段階までに育てることを指すのだといえます。
当然、「生きる段階」である運動や感覚などを育てることは重要ではありますが、目的はそこではなく、やっぱり思いっきり遊べることです。
思いっきり遊びきった子が、しっかり学んでいけて、しっかり学び、身に付けていった子が、社会に飛びだっていく。
学ぶ準備が整えば、あとはその子自身で主体的に、興味があるもの、面白いものを学んでいきますので。


ちょうど、自粛が緩まった期間で行った発達相談では、この段階の話をしました。
確かに、年齢的に言えば、「学ぶ段階」なのですが、だからといって、その段階に必要なことをいくやっても伸びていかないし、子も、親も、幸せにはならない。
今、その子が「遊びの段階」なら、遠回りかもしれないが、遊びきれることを後押ししていく。
ある程度、大きくなったとしても、まだ「生きる段階」にやり残しがあるのなら、そこを援助して育てていく。


どうしても、今の学校システムが年齢基準の横並びですので、「〇年生だから、〇年生の勉強をしなきゃ」「2年生なのに、1年生の問題がわからないから、焦って頑張らなきゃ」となってしまいます。
でも、大事なのは、学ぶ準備が整っているか、そこまで発達段階が来ているか、だと思います。
生きる段階に不安定さがある子は、どうしても学ぶことは難しい。
学んだとしても、本質的な部分まで理解できないと思います。
それは概念理解が伴わないからであり、概念理解がないと、表面的な情報の記憶と利用に留まってしまいますので。


大学を出たのに、支援を受けながら作業所で働く人達の中には、積み残したまま、年齢が成人を迎えた人が少なくないのだと思います。
大人になって、精神的な不安定さが出るのは、「生きる段階」の積み残し。
対人面での不安定さが出るのは、「遊びの段階」の積み残し。
そういった成人の人達の姿から、子どもさんの発達援助を見ると、遠回りが一番の近道になることがわかります。
なんの近道かといえば、その人らしく幸せに生きるための近道ですね。

2020年4月16日木曜日

【No.1049】三歳児健診で問われる概念理解

先日、下の子の三歳児健診に行ってきました。
1回だけ、どうしても仕事の都合で行くことができませんでしたが、それ以外は上の子のときから全部参加しています。
だって、日頃、学んでいることを、目の前で見れる絶好の機会ですから。
いくら書物で情報として知っていたとしても、実際に行われるテストや聞き取りなどは、非常に勉強になります。
保健師さんの意識の向け方、力の入れ方で、どの発達課題が重要か、その濃淡がわかります。
また、同じ月齢の子ども達が一堂に集まる機会はとても貴重で、待っている間など、その雰囲気を感じておくことは、私の仕事へ大きなヒント、着想を与えてくれます。


一歳半健診では、主に運動系の発達が重視されていましたが、三歳児健診では、それ以外の知能に関する発達の確認が重視されます。
特徴的なのが、単にモノの名前を知っているか、自分の名前が言えるか、ではなく、概念の理解、芽生えがあるかについて検査されます。


モノの概念、数字の概念が重要になってくるのが、小学校3年生くらいからです。
小学校低学年くらいまでは、概念を問うような学習、それを元にした問いなどはほとんどないのですが、中学年くらいになりますと、概念理解がないと解けない問題が出てきて、教科の内容も、その概念がしっかり理解できているという前提で展開されていきます。


以前にもブログで紹介しましたが、計算問題は得意、漢字も得意、なんなら就学前から計算と文字が書けていて、「この子は知的には高いね!」と言われていた子が、中学年以降、ガクッと成績が落ちる、授業が分からなくなる、というケースが多くあります。
それは、一言で言えば、「概念理解の問題」です。
文字の読み書きや計算などは、その子の概念理解が問われません。
ですから、小学校低学年までは大丈夫。
でも、中学年からはガラッと変わるのです。


ちなみに、中学年から不登校が始まる子の中には、この概念理解の問題から授業がわからなくなり、成績が落ち、登校意欲が激減する、という子も少なくありません。
周囲から見れば、「小さいときから、お勉強できていた子なのに」「いっぱい言葉を知っている子なのに」となるのですが、単に文字を形としての丸暗記、計算自体(式と答え)を丸暗記、言葉は知っているけれども、それが示す範囲が極端に狭い、などがあります。


3歳児健診では、1つの言葉を多面的に理解しているか、捉えられているか、が確認されます。
たとえば、眼鏡の絵を見せて、「これは何?」「かけるものは、どれかな?」「同じものを付けている人はいる?」などを尋ねます。
また、年齢が答えられるか、モノの数がわかるか(これは単に「3歳」といえる、ではなくて、増えていくという概念への問い)。
「今日は何で来たの?」「誰と来たの?」「おうちはどこ?」といった抽象的な問い(これも概念が必要)に答えられるか。
「好きな"食べ物"はなに?」「好きな"遊び"はなに?」
「長い方はどっち?」「小さい方はどっち?」
「赤色は?」「黄色は?」「緑は?」、さらに「赤い車は何ですか?」などの発展形も。
このような概念理解を問う課題が多く見られますし、裏を返せば、3歳児時点での概念の発達が、重要な指標となるのです。


3歳児以降、この概念理解をベースに、さらに理解と範囲、バリエーションを広げていきますが、そこまで大きな変化はないといえます。
どういうことかと申しますと、3歳児までは「1,2,3」くらいまでしかわからないものが、10までわかる、100までわかる、という具合に発展するという意味です。
つまり、「概念を獲得している」という段階がとても重要であるということです。
小学校中学年以降で、相談に来られるお子さん達をみますと、案外、こういった3歳児健診で問われるレベルのものが曖昧、理解できていない、という子ども達が多くいます。
同じように、大人の中にも、使っている言葉の意味範囲が狭い、パッと言われている意図が掴めないといった様子がある人にも、概念での躓きがみられます。
辿っていくと、やっぱり文章問題が苦手、小学校中学年以降、成績が落ちた、支援級に行った、3歳児健診で、すでに指摘された、という具合に繋がっていくのです。


3歳児時点で、初期の概念理解が達成されている。
その概念理解は、3歳児以降に多く見られるごっこ遊びへと繋がっていきます。
2歳児くらいが熱中する見たて遊びは、多分、初期の概念理解を育てているのでしょう。
そして、3歳児以降のごっこ遊びへ発展し、それが対人遊びへと繋がっていく。
自閉っ子たちに対人面での遅れが見られる背景には、「対人遊びをしない、しようとしない」といった経験不足があり、何故なら対人遊びに必要な概念理解が培われていないから、とも考えられます。
もちろん、感覚面や運動面の発達の遅れから対人関係へ発展していけないというのもあるでしょうが、自閉っ子の多くは見たて遊びはしますので、そこからもう一歩、初期の概念理解まで進めないことがポイントだといえます。


じゃあ、概念理解が確立できていない子ども達に対して、どういった子育て、発達援助をしていけばいいのか。
そこにも、3歳児健診の中にヒントがあります。
3歳児健診で、上記のような概念を問うものに対して、答えることができる。
ということは、0歳、1歳、2歳の中に、概念を育てるエッセンスがあるということです。
複数ある絵の中から、「眼鏡はどれ?」に答えられるには、絵を見て具体物を想像できなければなりません。
絵自体が概念です。
その絵という概念を、どうやって0歳児、1歳児、2歳児は、学んでいくのか?


それは、やっぱり実物の眼鏡をたくさん見ること。
そして、見た眼鏡を手で触り、赤ちゃんは口の中に入れ、その重さ、形、質感を触覚で感じる、つまり、視覚と触覚の連合です。
眼鏡ではなく、食べられるものなら、実際に匂いや味などの感覚との連合もあるでしょう。
そうやって、複数の感覚同士を連結させることによって、多面的に物事を理解していく。
それこそが、概念理解を育む行為となります。
ということは、感覚をしっかり早い段階で育てておくことが重要だといえます。
感覚過敏(感覚系の未発達)がある子には(大人にも)、言葉の範囲が狭い人や文章問題での躓き、対人スキルの乏しさが共通するのと、これで合点がいきますね。


私は、2歳児、3歳児で、「砂遊びをしない」「泥遊びをしない」という話を聞きますと、すぐに概念理解の遅れを連想します。
2歳児、3歳児は、外に行くと、すぐに砂や土に手が伸びるものです。
1歳児なら、口に入れようとするのが自然な姿。
ですから、この時点で、触ろうとしない、触れないという触覚の遅れを疑いますし、それこそ、砂や土は概念学習の土台中の土台ですから心配になるわけです。
遊ぶこと自体が、複数の感覚同士の連結であり、「重い&軽い」「大きい&小さい」「減る&増える」「分ける&足す」「高い&低い」などの概念の宝庫。
体験的に概念を培うのです。


以前、相談のあった小学生のお子さん。
「文章問題がカラっきりダメ」という相談でしたので、「じゃあ、砂遊びをしましょう」と提案し、また一緒に遊びにも行きました。
親御さんは、私に対して、こういった子に対する特別な教え方を望まれたようで、最初は拍子抜けをされたそうですが、砂遊びを続けていくうちに、急に文章問題が解けるようになった、と驚いていました。
他にも、言葉の範囲が狭くて、ヒトとのやり取りに固さがある成人の人に対しては、庭での野菜作りをお勧めしました。
成人ですから、少し時間がかかりましたが、1年、2年と野菜作りを続けていくうちに、触覚が育ち、概念も育ち、やりとりに柔らかさが感じられるようになりました。


3歳児健診の話から、最後は大きい話になってしまいましたが、とにかく3歳児の時点で、初期の概念理解ができているということです。
感覚や運動の発達には目が向きやすいですが、案外、概念の発達の大切さ、重要さには気づかれていない方が多いような気がします。
でも、3歳児健診では、そこがメインです。
やっぱり、定型発達を知るということが、何よりも発達援助の技能向上へとつながりますね。

2020年4月14日火曜日

【No.1048】子どもの行動を「異常」と決めつける前に

親御さんからの相談で、「どれが異常で、どれが幼さかがわからない」という話がよくきます。
確かに育児本には、「1歳3か月で〇〇ができる」などの説明がありますが、その異常さについて解説されたものは、ほとんどありません。
産婦人科や小児科のドクターが書いた医学書には詳しく載っているんですけれども、そういったものは一般的な人は読みませんよね。
また、最初の子だったり、近くに親戚の子や同じくらいの子がいなければ、わからないのは当たり前。
親だって、初めて親になるわけですし。


一番早いのは、発達障害専門ではない医師や保健師、保育園の先生に相談することです。
発達障害の専門家が発達障害を基準に診るのに対し、小児科の医師や保健師、保育園の先生などは人を基準に診ます。
その月齢、年齢の発達から言って、異常だと言えるのか、正常の範囲なのか。
正常の範囲なら、早いのか、遅いのか、ちょうどよいペースなのか。
そういったヒトの発達をベースに、その子の言動を見なければ、本当のところはわかりません。


しかし、現に目の前の我が子の言動を見て、悩まれている親御さん達がいらっしゃいますので、また心配になったからと言って、すぐにそういった専門家のところへ行けるわけではないので、主にどういった視点で見ていけばいいのかをお伝えしようと思います。


まず『持続性』です。
赤ちゃんが泣くのは仕事ですし、幼児さんが泣いたり、感情を爆発させたりするのも当たり前です。
しかし、こういった泣く、感情の乱れが、長い時間になるようでしたら、異常だといえるかもしれません。
赤ちゃんなら5分も泣き続ければ、疲れてしまいますし、幼児さんもだいたい体力的にも10分までは持続しません。
よく「泣いたら、30分でも、1時間でも」とか言われる親御さんがいますが、それはやっぱり長すぎます。
自分たちに置き換えても、30分泣き続けるのは、相当な負荷がかかりますので難しいといえます。


あと、遊びに関しても、ミニカーを並べたり、タイヤをくるくる回したり、換気扇が回るのを見ていたりすること自体は異常でもなんでもなく、定型発達の子にも見られますが、やっぱり持続性に違いがあります。
小学校低学年の集中力が10分と言われていますので、いくら好きな遊びだとはいえ、20分も、30分も、同じことを繰り返す姿には、なにかあるのかな、と思わざるを得ません。
あちこち意識が散るのが幼児さんですし。
ただ、単純に時間だけではなく、ここでは遊びの内容も確認が必要です。
同じ遊びをしているようでも、そこに変化があれば、たとえば、同じ場所に同じようにミニカーを並べ続けるのではなく、順番を変えたり、別のミニカーを持ってきたりするような変化があるのなら、そこにはバリエーションと注意の転動がありますので、異常とはいえません。
遊びの場合は、まったくもって同じ動きを20分も、30分も続ける、という点がポイントです。


他害等についても、同じことが言えます。
衝動的に、嫌なことがあってモノを投げたり、親御さんを叩いたり、近くにいた友達を噛んだりするのは、いけないことではありますが、幼児さんならどの子にも見られる行動です。
しかし、やっぱりここでも、モノを投げるのを10分以上続けるですとか、親御さんを叩くのを止めないですとか、その子の年齢でいえば、こんなに続かないよな、みたいな時間やり続けると、異常性を感じます。
小さい子なら、パッと気分が変わるようなことを言ったり、モノを見せたり、場所を移動したりすると、行動を止めるのですが、それが利かないという場合も、異常性を見ます。
それこそ、昨日、記したブログの“強い苦痛”を連想させる部分です。


『持続性』と同様に、『頻度』も大事な視点になります。
一日に何度もかんしゃくを起こす。
いったん止めたかなと思っても、またすぐにやり始める。
子どもは、すぐに忘れるのが当たり前なのに、同じ気分に何度もなる、気分を引きずる、同じことに執着する、というのは、不自然さを感じます。


よく、変わった行動が見られたり、それこそ、発達障害系の書籍に出てくるようなイラストの行動をすると、すぐに「異常かも」と思われる親御さんがいますが、そうではありません。
定型発達の子も、ミニカーは並べるし、クルクル回るし、ちっちゃな変化でギャーと泣いたりします。
でも、そこに違いあるのは、上記の『持続性』と『頻度』の部分です。
この視点がないと、少しでも変わった行動があると、すぐにスマホで検索→「発達障害 ミニカーを並べる」→検索数5,000件みたいになります。
『持続性』と『頻度』は大事な指標であり、当たり前に確認するところなのに、そんなことを言う発達障害系の支援者っていないでしょ。
それは、〇✖クイズの診断基準に慣れちゃっているからだと思います。


厳密に言えば、実際、お子さんを前にアセスメントとするときは、成育歴や発達の流れ、全体的な発達状態と部分的な発達状態を確認してから、総合的にその行動が発達途上の問題ないものなのか、ちょっと注意が必要な行動なのか、を見ていきます。
でも、この『持続性』と『頻度』に注目すると、だいたいわかってくるはずです。
異常に見える行動も、一過性のものがほとんど。
「半年以上、同じ遊びを繰り返す、遊びに発展がない」というのなら心配ですが、幼児さんは1ヶ月単位で変わるのが一般的です。


ここまで読まれると、中には「持続的で、頻度も多い」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。
これで終わってしまうと、心配にさせるだけで無責任になっちゃうので、異常性を感じたときの更なる確認ポイントと対処方法を簡単にですが、書かせていただきます。


まず、最初に行うことは、身体的な病気や不調が隠れていないか、という点です。
私は、施設職員だったとき、強度行動障害を持つ人達の生活支援を行ってきましたし、今の仕事でも、そういった課題を持った人達とも関わっています。
そこで感じることは、多くの問題行動には、身体的な病気、不調が関係している、ということです。
ある人には虫歯があり、ある人には風邪があり、ある人には骨折があり、ある人には脳波の異常がありました。
また、快食快眠快便という部分が整っていないのも、問題行動、感情の爆発につながりやすいといえます。
食事の量、食べる物に偏りはないか。
夜には自然と眠くなるか、夜中に起きないか、朝起きたとき、機嫌が悪くないか(熟睡できているか)。
排尿の間隔はどうか、便秘はしていないか、尿の色は、便の色、形は?
他にも、顔色は?体重は増えているか、皮膚に湿疹がないか。
幼いお子さんなら特に、こういった身体的な病気と不調が、もろに行動へと出る場合が多いといえます。


もちろん、未発達や発達のヌケ、遅れが、異常に見える行動へとつながっている場合もあります。
発達にヌケや滞りがあると、必然的に発達段階が進んでいかず、『持続性』と『頻度』が多くなってしまいますので。
あとは、「身体的に不調も見当たらないし、発達的にも定型の範囲内だ」というときは、トラウマやフラッシュバックも考えられます。
どうしても、大きい人のイメージが強いトラウマやフラッシュバックですが、幼児さんの中にも見られますし、胎児期からのトラウマというのもあります。
ここの見分け方を説明するだけの言葉は、残念ながら私には持ち併せていません。
論理的に、病気は?成育歴は?発達状態は?と確認してはいきますが、だいたいは直感的に違和感を感じて、「もしかしたら」となるのが、私の場合です。
ただ、こういった視点もあった方が、道が開けていくかな、と思い、また大事な視点でもありますので、最後に記しました。


お子さんの行動を「異常」と見るのは、ある意味、簡単なことだといえます。
でも、それが本当に異常なのかを見分けるのが、私達の仕事であり、一番傍にいる親御さんにもわかってほしいところです。
一旦、子どもの行動が異常に見えると、すべてが異常に見えてしまいますので。
実際、それで診断を受けたり、必要のない療育や薬を飲んだりする子もいます。
大事なのは、問題を感じたとき、どのような行動をするか、できるかです。
それが育めることなら、育んでいく。
治せるところなら、治していく。
人やモノでサポートできるなら、それを利用していく。
私の約15年間の経験の中からではありますが、まったく何もできない異常とは出会ったことがありません。
どこかに解決の糸口があるものであり、周囲の大人が諦めない限り、その糸の端っこを掴むことができます。
ですから、単に「異常」「障害特性」と言って片づけてしまうのは、勿体ないと思います。

2020年4月13日月曜日

【No.1047】『切り替えが苦手』は、障害特性なのか?

自閉症スペクトラム障害の診断基準の中に、「同じであることへの“固執”」「ルーチンへの頑なな“こだわり”」という文言が出てきます。
具体的には、小さな変化による“強い苦痛”、行動を移行することの“困難”といったところです。
この『固執』や『こだわり』は、今の診断基準(DSM-5)の前から用いられていた言葉ですので、自閉っ子の行動を表現するとき、昔からよく使われていました。
ですから、『固執』『こだわり』と言えば、自閉症であり、自閉症といえば、固執やこだわりがある、という認識が当たり前になっているような気がします。


自閉症が神経発達症の一つであることが示される前、つまり、まだ、それが障害特性で、生涯変わることのない特徴と考えられたときの名残が現在も続いているような印象を受けます。
なんとかの一つ覚えのように、ある行動を止められなかったり、次の活動に移行するまでに時間がかかったりすると、「ほれ、固執だ」「こだわりだ」と言われます。
しかも、診断基準に固執やこだわりの項目がありますので、そういった子どもの姿を見て、「自閉症かもしれない」とチェックが入ったりすることもあるのです。
実際、こういった子どもさんの姿が確認されると、「ASDの疑いあり」といった診断になることも少なくありません。


で、そういったお子さん、ご家族から相談が来るわけです。
実際、お子さんにお会いすると、というか、会う前からわかるのですが、ほとんどが固執でも、こだわりでもありません。
厳密に言えば、言葉的に言うならば、固執やこだわりなのかもしれませんが、病的なものではないのです。
ある行動を止められない、次の活動への移行に時間がかかる。
それは、単に幼いからであり、どの子もそういった発達過程を辿るものです。


じゃあ、なぜ、それがわかるか、言い切れるかといえば、とっても簡単。
そこに強い苦痛も、困難も、存在しないから。
幼児さんが、遊びを途中で止めるように言われると、ギャーと泣く。
公園で遊んでいて、「そろそろ夕食の時間だから帰りますよ」と言われて、「嫌だー」と言って、手に持っていたスコップを投げる。
これが障害特性というのなら、世の中の幼児さんは、みんな自閉症。
強い苦痛というのは、遊びの中断からパニックになり、感情爆発、激しい興奮、自傷などが起きて、初めてそうだと評価できるようなもの。
ギャーと泣くくらいでは、強い苦痛とは評価できません。


同じように、「夕食だから」と言われても、まだ時間の概念がよく分かっていないし、お母さんの意図を想像しきるまでは経験値が乏しい幼児さん。
たまたま持っていたスコップを投げただけで、他害と評価するのには無理があります。
他害というのは、明らかな方向性があり、つまり、「あいつを攻撃しよう」という目的があり、敢えて道具を持つ、勢いをつけて向かっていく、というような明確な意図がなければなりません。
幼い子が、うまく気持ちを表現できなくて、手あたり次第投げるのは、子どもさんによく見られる行動です。
これも、本人からしたら「嫌なこと」かもしれませんが、強い苦痛とまではいえず、「今日のごはん、好きなハンバーグなのに」と言われて、ケロッとするのなら、そこに次の活動への移行の困難は見当たりません。


まとめますと、診断をつけるための診断をしている職業の人にとっては、それが幼い子に共通してみられる幼稚な行動か、苦痛を伴うほどの行動か、はどうでもよく、「固執」「こだわり」を連想できるものだったら良いわけです。
現行の診断基準は、当てはまる行動を見つけることが診断に繋がりますので、その背景に気を留める必要はない。
ですから、実際にお子さんにお会いすると、「ただ幼いだけじゃん」「別の場面では、スムーズに移行できているじゃん」「いつも切り替えられないんじゃないし、ちゃんと理由があるじゃん」ということばかり。
よくもまあ、この行動で、“強い苦痛”を伴う固執と評価したな、と思うことも少なくありません。
ほとんどのお子さんが、成長と共に、切り替えが上手になっていきます。


診断という入り口で間違うから、次に出会う支援者たちも、こぞって間違いを犯します。
「自閉症=こだわり」という頭、先入観で、子どもの行動を見れば、すべてこだわり行動に見えてきます。
1つの行動が止められない→切り替えが苦手となる。
この切り替えが苦手も、いつの間にか、拡大解釈がなされ、あたかも自閉症の障害特性みたいな扱いがされています。
何度も言うようですが、切り替えが苦手なのは、幼児さんの幼さゆえの自然な発達過程です。


拡大解釈によって生まれた「切り替えが苦手」という偽の特性。
もうこの時点でアウトなんですが、切り替えが苦手という偽の特性に対して、視覚支援なんかを始めちゃう支援者がいまだにいます。
「切り替えが苦手だから、見通しを持たせよう」と、せっせと絵カードを作り、スケジュールを提示する。


確かに知的障害が重く、周囲の状況、意味理解が乏しい人たちにとっては、絵などによるスケジュールが、唯一、理解できる情報になるので、それに従っていくような傾向があります。
でも、幼さゆえの切り替えの苦手さを持つほとんどの子ども達は、最初は好奇心で、面白そうだからやることはあっても、すぐに飽きて、提示されたスケジュールに従わなくなります。
そうすると、支援者との間で、押し問答が始まるわけです。
スケジュールに従わせようとする支援者と、自分がやりたいことをやりたい子どもさんとの闘い。
「スケジュールをやります」「次は〇〇です」と言い続ける支援者と、床で寝転ぶ子どもさん。
こういったやりとり、姿を、平成の世から数え切れないくらい見てきましたし、いつも、「どっちが自閉症で、どっちが支援者かよ」と思うことばかり(笑)


切り替えが苦手なのは、障害特性ではなく、単に幼いからですね。
脳の前頭葉が、自分の行動をコントロールするわけですが、幼児さん達は、小学校低学年くらいまでは、もっといえば、ここが完成するのは20代になってからなので、まだ自制したり、切り替えたりするのは苦手で当たり前。
「遊びたい」という本能的な欲求を、自制するまで、子ども達の前頭葉は育っていません。


ですから、固執やこだわり、切り替えが苦手などと指摘され、診断に至ったお子さん達の発達相談では、その前頭葉の発達状態を確認します。
幼児さんは、未熟とはいえ、日々、育っていく部分でもありますので、その年齢で「だいたい、このくらいの発達段階」というのはわかります。
よって、その発達段階と比べて、明らかに遅れている場合、それを育てる方法を親御さんに提案します。
でも、これは、自閉症を治すというよりも、発達を促す意味での子育ての範疇です。
遅れていれば、育てれば良いのです。
それを固定された固執のような誤った解釈をし、スケジュールなどの視覚支援で、自閉症として生きることを学習させるから、従来の支援が「グレーを黒くする」と言われるわけです。


年齢と比べて、前頭葉の発達が遅れている子に対しては、まずは胎児期から2歳くらいまでの間に生じている発達のヌケを育てなおすことが、一番です。
前頭葉が最後のほうで育っていく部分ですので。
そこを育てつつ、前頭葉を刺激する遊び、活動をすると良いです。
で、ここで出てくるのが、「切り替え」という話。
活動の切り替えには、前頭葉の発達が必要であり、ということは、活動の切り替えという要素が、前頭葉の発達に繋がるのです。


活動を切り替えるには、まず今やっている行動を「やめる」「とめる」「とまる」ということが必要です。
まず活動を止めなきゃ、次の活動へは移れない。
そして、この活動を止めるには、時間的な“間”が必要であり、その“間”を作るには、自分の身体を止めるだけの運動機能、筋力が必要なわけです。
他にも、止められるようになったら、次に移行しようという意思が出なくちゃならなくて、そのためには「今と次」という流れを感覚的に掴める必要があります。


という具合に、ほかにも必要な要素があるのですが、長くなるのでやめにしておきます。
とにかく前頭葉を育てる方法はたくさんあるし、子ども達は主に遊びを通して前頭葉を育てている。
その結果として、幼いときは切り替えが苦手だったけれども、徐々にできるようになるわけです。
30代の大人が、「切り替えが苦手なんです」といえば、そこには工夫や配慮が必要なのかもしれませんが、幼児なら当たり前で、当たり前だからこそ、障害ではなく、育てていく。
「自閉症だから固執、こだわり」ではなく、その固執の背景は?発達の流れから見て、どうなのか?という視点で、子どもさんをしっかり見ていかなければ、いつまで経っても、誤診や『未発達保存の会』『白をグレーに、グレーを黒にする会』『青色を見る会』がなくなりませんね。

2020年4月11日土曜日

【No.1046】豊かな学習の下には、それを支える豊かな発達が存在している

「結局、自分は発達を促しているのか?学習を促しているのか?」という感想を述べられていた方がいらっしゃいましたので、もう少し『発達』と『学習』を掘り下げていこうと思います。
発達障害の子ども達は、学習できない障害を持っているのではなく、神経発達に遅れがある状態であること。
発達障害は、発達の遅れがあることが問題なのではなく、いつまでも発達しない、または発達のヌケや未発達を抱えたまま、成長し、それに伴い、脳みそや能力に凸凹が大きくなって生きづらさにつながることが問題の本質である、という点は、前回までのおさらいです。


では、私達が行っている子育て、発達援助とは、具体的にどんなことなのでしょうか。
まず一番に思いつくのが、快食快眠快便を整えること。
これは学校や療育機関が行える部分ではありませんので、当然、家庭が担う子育ての部分だといえます。
快食快眠快便が整うと、子ども達の発達は、全体的に加速していきます。
ここでのポイントは、「整うと加速する」ということです。
つまり、これ自体は発達というよりも、より良い発達を促す条件であり、環境です。
高タンパク質&低糖質やサプリ&プロテインなどの栄養面からのアプローチも、より良い発達に向けた環境づくりです。


しかし、「偏食がある」「夜になっても寝られない」「排便が未自立」などのお子さんもいると思います。
そういった場合は、整える以前に、発達を促すことと、学習を促すことが必要になります。


食べるに関しては、口周辺の反射が残っていたり、味覚や嗅覚などの未発達があったり、飲みこむといった運動に発達の遅れがあったりします。
反射を統合させる、つまり、やりきるだけの刺激を直に与えるのは、発達を促す行動です。
同じように、感覚系の未発達は刺激を与え、育てていく必要がありますが、感覚を育てる場合には、与えられて育つよりも、自ら意識を持って能動的にその感覚刺激を味わうことで育ちますので、大事なのは、本人がその感覚刺激を思いっきり味わえる環境づくりだといえます。
ですから、厳密に言えば、直接、親御さんが育てるのではない間接的な発達援助だといえます。
運動に関しても、本人が主体的にやりきることで育っていくので、心地良くやり切れる環境を用意する、たとえば、「哺乳瓶を用意して」ですとか、「本人が飲みたがるモノを用意する」ですとか、「集中できる環境にする」などです。


夜、寝られない子に関しては、眠れる身体を育てていくことが必要になります。
身体を弛ませる動きを与えることで、弛緩ができる身体に育てていく。
幼児さんの場合は、なかなか自分自身で育てられない部分なので、こういった直接的な発達援助が必要だといえます。
同時に、寝れるための環境づくりとして、寝る前にはテレビを見せない、背中をトントンする、一日の疲れを取るようなマッサージをするなどがあります。
また、これは学習として、「寝る前にトイレに行ってから布団に入る」といった流れの習慣化、どこに寝るか、どうやって寝るかといった知識、理解を促すことも必要です。
もし、こういった学習的な要素の中で、言葉でわからない、覚えることが難しい、といった場合、学習を助ける方法として、『トイレ』→『寝る』という絵のスケジュールを使ったり、「ここが〇〇くんの寝る場所」と明確に示すための目印をつけたり、声や身体接触によって誘導したりします。


排泄面の未自立に関しては、内臓を直接いじくることはできませんし、内臓系と運動系はつながっていることが多いので、寝返り運動や腰をひねる遊びをして、腎臓を育てたりします。
たまに、排尿の感覚がわからないからといって、子どもに水を多く飲ませちゃう人がいますが、それでは、ただ内臓系を疲れさせるだけで発達にはつながらないと思います。
やっぱり腰をひねったり、脚を使ったりして運動面から内臓を育てることが重要だといえます。
その運動を補助したり、一緒に遊んだりすることは、間接的に発達を促す行為です。
トイレの使い方やおしりの拭き方を教えるのは、学習。


こうやって、大雑把ではありますが、『発達』と『学習』を見ていきますと、学習の土台が発達であり、その発達が乏しいと、教えられる内容が制限され、同時に補助や人の手もたくさん使わなければならなくなるのがわかります。
当然、学習内容が制限されれば、知的や認知の面での発達の遅れが生じ、補助や人の手が必要になればなるほど、将来の自立は難しくなります。
ですから、根っこから育てること、発達を促すこと、援助することが大事だと言っているわけです。
なぜ、発達の援助なのかといえば、より良い学習と自立を目指しているからなのです。


学校の先生たちが、子ども達の将来の自立を目指し、いろんなことを教え、学習してもらおうと頑張っている。
でも、どんなに学校が頑張っても、発達という土台が不安定なら、その土台自体が小さければ、教えようとしても教えられないし、教えてもなかなか身につかないのです。
学校の先生は、生徒を選べないし、家庭に介入できません。
なので、発達の部分に関しては、特に家庭に頑張ってもらい、学習の土台を広げ、堅固なものに養ってもらうことが重要になります。


学校の先生からも相談がくることがありますが、「それって指導云々、学習云々の話じゃないですよね」というものが少なくありません。
「偏食をどうにか指導してほしい」「夜、寝なくて困っているんだ、どうしたらいい?」「他害をやめさせて」…。
これは学習の範疇ではなく、発達の部分。
偏食を直すのに、栄養素の勉強をしたり、なぜ、人には栄養が必要かをレポートさせたり。
それで偏食が直るのなら、学習が足りなかったわけだし、学校教育が担えるでしょう。
でも、嗅覚や味覚の未発達、飲みこむ運動の弱さがあったら、指導じゃ、学校じゃどうにもできない。
どう頑張っても、給食で1日1回、しかも、メニューは栄養士さんが決めたもの。
発達が整っての学習ですし、発達の主は家庭生活であり、親御さんです。


私の行っている発達援助という仕事は、親御さんに「発達」と「学習」の違いと、その関係性を理解してもらうことも大事なサポートになります。
そうやって、発達障害を持つ子の「発達」をしっかり理解してもらうことが、効果的な子育てへと繋がっていきます。
療育機関や支援に熱中する他の親御さん達を見て、無駄に焦る必要もなくなりますし。
なんかやっているのを見ると、すべて発達に関わるように感じますが、ほぼどの機関もやっていることは学習です。


早期療育のほとんどは、早期学習であり、その早期学習の正体は、支援しやすい型を覚えさせ、支援しやすい子に指導しているだけ。
発達という土台を育てない限り、そこを「障害」「固定されたもの」「治らない」という捉えでいる限り、狭い土台の上には多くの学習が成り立ちません。
早期療育を受けてきたのに、いっこうに自立していく人が出てこないのは、発達という土台の大きさと同じ範囲でしか学習が積み上がっていかない何よりの証拠。


発達という土台が広がれば広がるほど、その上に積まれていく学習は豊かで大きなものになります。
発達障害を治すというのは、ヘンな行動、幼い行動、その人のあり方を変えるという意味ではなく、学習の土台を育て、より良い学習を目指し、結果的に自立した人生を送ってもらうという意味です。
学習できなきゃ、この人間が作った社会では自立できないのは当然です。
ですから、より良い学習のための発達援助であり、子育てなのです。
豊かな学習の下には、それを支える豊かな発達があります。

2020年4月10日金曜日

【No.1045】「退行」こそが発達保障

昨日のブログを見て、早速、感想を送ってくださった親御さんがいました。
以前、発達相談を行ったご家庭ですが、幼稚園がお休みになってから、天気のいい日は河川敷まで出かけて行き、そこで親子、寝転がって、雲を見るのを続けていたそうです。


まだお子さんには発語が出ていなかったのですが、雲を一緒に見て、「あれはパンに見えるね」「あれはキリンみたいだね」といったことを親御さんが語り続けていった結果、不明瞭ながらも言葉での発信がみられるようになったそうです。
また、動く雲を一生懸命見ていたら、普段の目の動きも自然になってきたとのことでした。
相談時は、乳幼児期からの長時間のテレビの影響もあってか、目の動きが乏しいのが気になりましたが、こうやって雲を目で追いかけることを続けていった結果、自然な動きができるまで育ってきた。
まさにこれが、発達援助であり、子育ての自然なあり方なんだと感じました。


親御さんの中には、「療育を頑張らなくて良いのだろうか」「他の子のように、いろいろやらせなくていいのだろうか」などという焦りや不安もあったそうですが、昨日のブログで安心できたし、我が子の成長からも続けて良かったと思えるようになった、と綴ってありました。
基本的に、土台である発達が育てば、あとは勝手に学んでいくのが、子どもというものです。
世の中、知らないことだらけ、やりたくてもできないことだらけ。
だからこそ、子ども達は学ぼうとするし、できるように試行錯誤をする。
その「知らないことを知る」段階、「やりたいと身体が動く」段階まで育てるのが、子育てであり、発達援助でしょう。


心理学を学んでいる人は、「退行」と聞くと、精神療法を思い浮かべると思います。
私も、特に成人や若者で、心理的な課題、行動的な課題を持っている人と対面するときは、精神療法的な意味で、「退行」をお勧めしています。
本人や家族に、幼少期、どういった遊びを好んで行っていたか、どういった環境に身を置いていたか、どういった感覚に懐かしさを感じるか、などを尋ねていき、そのときを連想するような活動、環境、刺激の中に身を置くことを提案しています。
そうやって、子ども時代の最初の頃に立ち返ることで、現在の縛りから心身を解放していく。
多分、多くの人にとって、その時代は、無邪気な目と感覚で世の中を見ていたはずです。
そういった、その人の原型、原風景に戻り、現在の精神的な安定を目指すのが、心理学的な「退行」です。


一方で、私が昨日、使った「退行」とは、未発達や発達のヌケがある段階に戻り、そこを育て直すという意味です。
5歳のお子さんに発達障害がある。
で、確認していくと、0歳代の運動発達にヌケがあった。
だから、そこを育て直そう、ということです。
もし、2歳の子に、1歳半の頃の発達のヌケがある場合は、それはただ発達が遅れているだけ。
そういった場合は、発達の遅れに繋がっているストッパーを外すのと同時に、より良く育つ環境と刺激を調整します。


精神療法的な退行とは異なり、子どもさんは自らを育てる退行へ向かいやすいといえます。
これは、私の感覚なのですが、いろんな発達のヌケを持ったお子さん達と関わっていますと、どの子も、その内側にはなんらかの違和感を持っているような気がします。
隙あらば、すぐにその遊びをしよう、みたいな感じです。
子どもの多くは、遊び道具がない環境に行くと、その子本来の動きが見られるものです。
遊び道具は、一種の遊び方が存在していますが、自由な空間にはそれがありません。


でも、どんな小さな子でも、発達の遅れや知的障害を持った子も、誰からも教わっていないのに自分だけの遊びを行います。
それが名も無い遊び。
子どもの遊びを見ていると、本当に面白いのは、どの子も違った遊びを考え、行うことです。
大人が考えもしないようなものを使って、また動きをして、思いっきり遊ぼうとします。


私も発達相談で、一緒に公園などにも行くのですが、子どもの自由な遊び、名も無い遊びを見ていますと、そこに大きなヒントがあるのがわかります。
と言いますか、その遊ぶ姿を見て、私が「今、何を育てるべきか」「何を育てようとしているか」を教えてもらうのです。
中には、いつものパターンで、遊びを行う子もいますが、徐々に大人の介入を減らしていきますと、本当にやりたい動きが出てくるものです。
そういった姿を見て、親御さんが驚くこともしばしば。
で、私が、お子さんの欲している発達を通訳するのが、いつものパターンです。


案外、子どもは、周囲のことを良く見ていますし、親御さんの気持ちや意図を汲みやすいといえます。
ですから、子どもらしい動きをしているようで、以前に教わったこと、注意されたこと、指示されたことを元に動いている場合があります。
もちろん、それは支援者や学校の先生、園の先生との関係の中でも生じます。
気を付けないと、知らず知らずのうちに、大人からの学習が進んでしまうことがあります。
そうなると、育てやすい子にはなるんだけれども、根本にある課題が解決していかない、その根本的な不安定さを抱えたまま、どんどん凸凹が積み重なってしまう、なんてことも生じるのです。
これが従来の発達支援であり、療育、特別支援教育の中で行われていたこと。


育て直しの「退行」とは、年齢不相応のことをやるので、支援者、教員の中には抵抗感がありますし、親御さんの中にも、「赤ちゃん扱い?」みたいな印象を持たれやすいといえます。
でも、根本から育て直していかないと、本人の内側には、いくつになっても違和感を持ち続けますし、それが学習や生活、生きづらさへと繋がっていきます。
ある若者は、半年間、ハイハイをやり直したあと、「初めて、自分の身体が繋がった感じがしました」「こんなに身体を動かすのは楽なんですね」「身体だけではなく、気持ちも楽になりました」と興奮気味のメールをくれたこともありました。
そういった不完全さ、違和感を持つ人は、多いのだと思います。


現在の特別支援も、療育も、ある意味、社会全体も、学習することに溢れています。
これだけ学習する機会に恵まれていて、選択肢もある中、発達障害を持つ子ども達の学習が積み重なっていかない、同世代のような成長の仕方をしない、自立もしない、というのは、学習を充実させるだけでは、その子達のニーズは解決しないという表れだといえます。
つまり、彼らに必要なのは、学習保障ではなく、発達保障。
その発達を保障するということは、ちゃんとやり直しをさせてあげる、そういった機会を用意してあげる、ということだと思います。


何度も言うようですが、発達が遅れるだけでは障害にはなりません。
初めて、それが生活の障害、人生の障害となるときというのは、発達の遅れが遅れたままであるときだといえます。
いつまで経っても、遅れたままであるとき、それが様々な障害となり、本人の自由と選択に影響を及ぼすのです。
ですから、従来の考え方から転換し、「本人に障害があるのだから、学習することで適応力を上げさせよう」ではなく、「本人に、発達のやり残しがあるのだから、その機会を十分提供しよう」というのが良いでしょう。
「いくつになっても、発達のヌケ、遅れ、未発達の部分をやり直すことができる」
それこそが、その子の発達を保障することであり、援助することだと思います。


発達とは、連続体です。
一つ育てたら、それが関連する発達とつながり、一緒に育っていきます。
ですから、そう言った意味でも、発達は引き算でいいのです。
一つに絞って、それをやり切ると、必ず別のところ、別の発達にも良い変化が起きるはずです。
子ども達を見ていると、退行の仕方にも変化があるのがわかります。
一つやりきり、満足すれば、次の退行に向かうのが子どもさんです。
やりきれるだけの機会を提供するのも、大事な子育ての一つであると、私は考えています。

2020年4月9日木曜日

【No.1044】学習は伸びる、発達はやりきる。学習は足して、発達は引く

休校、休園の期間が続くと、どうしても“足したく”なります。
本来なら、新学期も始まり、勉強している時間ですが、その時間をまるまる家庭で過ごすことになる。
当然、ボーとしていれば、それだけで時間は過ぎてしまうわけで、なにか目標を立ててチャレンジした子や、コツコツと自学自習に励んだ子とでは、大きな差ができるのは当然だと言えます。
そんなの親なら百も承知ですから、せっせと「何かできないか」「この時間を有効に使えないか」と考えるわけです。


そうなると、私のところに来る相談も、「なにかできることはないでしょうか?」という内容が増えてきます。
最初の頃は、自粛モードでしたが、徐々にというか、急激的に増えてきました。
やっぱり親心としては、なにかできることを足したくなる。


教科学習や身の回りのこと、新しい運動や遊びなどは、やれることをどんどんやった方が良いと思います。
こういった『学習』とは、やったらやっただけ身につくものですから。
教え方云々の話もありますが、基本的に時間や回数に比例して伸びていくのが、学習だといえます。


しかし、同じように『発達』に関しても、どんどんあれもこれもと足していこうとすると、それは却って発達の妨げになるといえます。
発達とは、与えられるものではなく、本人が満たし、伸ばしていくもの。
時間や回数以上に、本人の主体性と充足感が、その発達具合と関わっていると思います。


ですから、あれもこれもと、どんどん足してしまうと、それが発達ではなく、学習となるのです。
たとえば、よくある話ですが、呼吸を育てたいと、毎日、シャボン玉をするようにした。
最初は、本人がやりたがらなかったけれども、続ける中で、自分で準備するようになり、吹くようにもなった。
それを見て、親御さんは安心し、これを続けていけば、呼吸は育つと思っていた。
しかし、半年経っても、呼吸の発達に変わりは見られなかった。


これは、どうしてかと言いますと、その子が学習してしまったからです。
シャボン玉を用意して吹く、というパターンを覚えたにすぎません。
そうやれば、家族は喜んでくれるし、注意や指示もされないから、とにかくパターンとして行っていただけ。
それでは、発達は生じませんね。
本人の主体性と充足感が得られていない活動ですから。


相談者の中には、いろんなことを勉強され、日々の生活の中に取り入れているご家庭があります。
しかし、そういった取り組みの数と時間が、本人の発達と比例していかないケースが少なくありません。
親御さんの気持ちとしては、できるだけたくさん、なんでもやってあげたい、というのは自然だといえるのですが、根本的である「発達」と「学習」の違いがわかっていなければ、このような足して、足して、足して、みたいな取り組みになり、結果として学習ばかりが進み、発達が滞るということがあります。


特に、子どもさんなら、脳みそが柔らかいので、どんどん学習していきます。
大人だと何日もかかるようなことでも、1日、2日で、覚えたり、できたりすることも珍しくありません。
ということは、脳的に言えば、子どもの脳は新しい刺激に対して、素早く対応するという特徴を持っているのです。
ただ、ここで注意しなければならないのは、「本人の持ち札で学習する」ということ。
別の言い方をすれば、その子の今の発達状態によって、どのように学習するかが変わってくるということです。


先ほどのシャボン玉の例で言いますと、シャボン玉自体は、呼吸を育てる遊びではありますが、それを最初、やりたがらないということは、それ以前に、何らかの発達のヌケ、未発達があるといえます。
もしかしたら、舌の動きかもしれませんし、口をすぼめる筋肉の動きかもしれませんし、口周辺や内側の感覚の未発達があるのかもしれません。
こういったなんらかの未発達があり、シャボン玉を吹くだけの発達が整っていない状態ですと、子どもさんは、なんちゃってでシャボン玉を吹こうとします。
本当に育てたい動きではなく、形だけで吹いちゃう感じです。
多分、それは自分の親御さんが納得する形で、自分も、周りも、だましだましでやってしまう。
そうなると、本来、求めていた発達ではなく、一つの形を覚えたという学習に変わっちゃうのです。


私達の仕事で重要なのは、この発達状態を見抜くことです。
その子の発達をしっかり確認し、発達相談、援助を行いませんと、ただできることが増えただけで、発達の課題という根っこが埋まらないまま、過ぎてしまいます。
そのできることの多くが、型を覚えただけ、パターン学習となりますので、応用ができなく、実践と自立へつながらないのは、とても勿体ないことです。
本人の持ち札が足りない状態で、レベル以上のものを与えると、また与えすぎると、どんどん本質的な理解を伴わない学習が進んでしまうのです。


ある親御さんが、休校で時間ができたから、子ども達と遠い自然の中まで出掛けて、思い思いの時間を過ごしている、とおっしゃっていました。
上の子は、植物や虫を捕まえて遊び、下の子は、草の上をコロコロ転がって遊んでいる。
そういったお話を聞いて、まさに発達の原型だと感じました。
発達とは、“引き算”です。


胎児期から言葉を獲得する前の発達の中に、課題がある子ども達。
ヒトとして、動物としての発達をやり遂げることが、発達障害を根本から育て、治すということです。
そうだとすれば、その時期の発達を促そうと思えば、より自然に近い環境の中に身を置く必要があります。
私達の社会、生活は、人間のための環境です。
ですから、どうしても、人間が過ごしやすいように、そこで育ちやすいようになっています。
しかし、その人間のための環境とは、胎児期から言葉を獲得する前の発達を中心に考えられたものではありません。
教育テレビも、絵本も、おもちゃも、全部、人間としてより良く学習するための道具です。
なので、そういったものを引いていくことが、大事なのです。


いろんな取り組みをしているけれども、それが本人の発達と繋がっていかないご家庭には、一度、フリーの状態を作ることを提案しています。
結構、良かれと思ってやっていたことが、ただの日課となり、いつしか親子共々やらねばならないこととなっている場合があります。
休校中、兄弟で自然の中にいったとき、二人とも思い思いの遊びをし始めた。
そういった指示や学習の要素がない環境に身を置きますと、子どもは心地良く退行を始めるものです。


基本的に、本人が行う退行、名も無い遊びが、そのとき、一番欲している発達刺激になります。
「子どもは、自分で自分を育てる」「自分に必要な発達を知っている」という意味は、こういうことです。
ですから、本来、発達援助とは、この名も無い遊びを出発点として、どのようにバリエーションをつけれるか、より良く心地良さを感じてもらうか、やり切れるまでのサポートをするか、ということです。
決して、周囲が育てたいところを育てる、という意味ではありません。
それだと、本人の発達状態、欲しているものと不一致が生じ、ただその場をやり過ごすだけのパターン学習が横行してしまいます。


技能にしろ、教科にしろ、身の回りのことにしろ、学習に関しては、どんどんやった方が伸びていきます。
一方で、発達に関しては、本人が今、欲しているものを絞ることが、発達課題をやりきることに繋がります。
学習は“伸びる”、発達は“やりきる”。
学習は“足して”、発達は“引く”。
こういったニュアンスがわかるようになると、焦らず、今は学習面をサポートしているのか、すべきなのか、発達面をサポートしているのか、すべきなのかが感じられ、落ち着いて子育てができると思います。


「療育を一旦、全部やめました」というご家庭で、子どもさんがググッと伸び始めるのは、こういった理由からです。
今の療育は、名ばかりの発達で、その多くは、支援しやすい子になるための学習教室です。
プログラムやカリキュラム、目標がある時点で、それは発達ではなく、学習。
支援しやすい型を早期から覚えさせられた子は、発達のヌケを埋める機会を失い、結局は、自立から遠のいていくばかりですね。
決められた環境の中では、心地良い退行が生じませんので。

2020年4月7日火曜日

【No.1043】その子の認知的スキルから見て、普通級が望ましいか、支援級が望ましいか

「支援級から普通級への転籍」という話は、皆さんの関心が高いように感じます。
この話題に触れると、アクセスは増えますし、相談や質問も多くなります。
もしかしたら、ネット検索でひっかかるワードなのかもしれません。


私のところには、毎年のように上記のような相談、依頼がありますし、実際、転籍をしていくお子さん達がいます。
しかし、だからといって、どの子にも、転籍を勧めているわけではありませんし、その子の状態、学校の様子から、「そのまま、支援級の方が良いのでは」という話をさせてもらうこともあります。
「なんで、他の子には支援するのに」と言われた親御さんもいますし、散々、支援級での学び、環境について、いかに最悪かを言い続ける親御さんもいました。
いくら仕事とはいえ、依頼とはいえ、親の願いとはいえ、お子さんのより良い未来へとつながらないと感じることには同意できません。


私の基本的な考えとしましては、不登校と登校を比べれば、断然、登校できる方が良いと思っていますが、支援級か、普通級か、といえば、その子が伸びるのなら、どちらでも良いと考えています。
普通級に通うのが難しくて、支援級なら通えるし、勉強もできる、というのなら、その子にとっては支援級が望ましい環境だといえます。
また、学校に通えていて、支援級で成長が見られているのなら、無理に転籍する必要はないと思います。


私が転籍、普通級を強くお勧めする場合は、支援級での時間が本人の成長に繋がっていない、また、時間つぶしのような学習内容だというときです。
本人の学力や能力とミスマッチしている時間というのは、非常にもったいないことです。
本来、普通級レベルのお子さんが、診断名がついたという点だけで、支援級への在籍が決定されることがあります。
それまで、普通級で何年も勉強していたのに、診断名が付いた途端、学年の途中からでも、支援級へ席が移されることもあります。
支援級で力をつけていき、普通級でもやっていけるだけの準備が整ったのにも関わらず、「小学校のうちは」「中学校のうちは」とズルズルいくこともしょっちゅうです。
その子が最もよく伸びる、よく学習できる環境を用意するのが学校、親の務めですから、ミスマッチが生じた時点で、環境を変える必要があります。
それがなされないまでの時間は、空白の時間になってしまいますので。


「日本でもホームエデュケーションを」と言われますが、今の日本の学校という環境を用意することは大変難しいといえます。
同世代の子ども達が学校で学び、経験していることを、家でやろうとすれば、大人の側も相当な知識と技能、準備、環境調整が必要になります。
別の言い方をすれば、なにかあるとすぐに「学校教育ガー」と言われますが、多くの先生たちは優秀であり、学校という環境は恵まれているといえます。
ですから、なおのこと、空白の時間を作らない。
そのためには、普通級でも、支援級でも、成長し続けられていることが何より大事なことです。
将来的なことをいえば、普通級に在籍している方が、選択肢が多いのは事実です。
でも、普通級にいることが多くの選択肢を得られることにはなりません。
本人が成長し続けることで、目の前に現れた選択肢を掴むことができる。
親御さんの強い意向で、普通級へ転籍した子もいましたが、結局、本人の成長にはつながらなかったため、支援学校、福祉の世界へ行ったという話もあります。


一昔前のような一度、支援級に在籍したら、「進学は無理」「一般就労も無理」「将来は福祉」ということは、だいぶ薄れてきたと感じます。
子ども自体が減っていますし、発達障害を持つ子達も特別な存在とは見られなくなってきています。
ですから、社会の方にも選択肢が増えたのだといえます。


しかし、その「選択肢が増えた」という変化は良かった反面、その子個人が問われるようになったともいえます。
普通級にしろ、支援級にしろ、ただ在籍しただけではどうにもならなず、そこで何を学び、どんな成長を遂げたのか、が問われるのだと思います。
「支援級にいました。ですから、高校でも、御社でも、同じような配慮をお願いします」は無理な話です。
同じように、「発達障害はありますが、普通級に在籍していました」というだけでは、「はい、そうですか」で終わってしまいます。
在籍よりも、「あなたは何を学び、成長したのか」「あなたには、何ができますか」の時代です。


そういった意味でも、学校という場を最大限に活かすために、その子がより良く学べる環境を用意していくことが肝要だといえます。
そのときのポイントは、本人の認知的スキルです。
よく「同じように体験させたい」という理由から、普通級を望まれる親御さんがいますが、学校は体験教室ではなく、一番は学ぶ場ですので、認知的に見て、普通級で学べるか、が重要になります。
認知的な差、不一致がありますと、当然、その場にいるだけのお客様になります。
お客様になると、受け身になり、学習にはつながりません。
大事なのは、主体的に学ぶことですから。
そのためには、やっぱり認知的に理解できる段階まで育っていることが必要です。


また、その認知的なスキルには、学習の土台である発達も含みます。
座位や立位の姿勢保持や、手や指の使い方、感覚の育ちや自分の軸、基本的な運動の発達が完了していることが基本になります。
いくら授業の内容がわかったとしても、基本的な動作、身体、感覚に未発達、ヌケがあれば、授業を受け続けることが難しくなります。
小学校の中学年以降、不登校になる子の中には、この土台の部分の未完成により、学校自体がしんどくなり、結果的に授業についていけない、学力低下、意欲の低下と繋がってしまう場合も少なくありません。
特性云々、支援云々、普通級より支援級という話ではなく、発達という土台の不安定さから、身体がしんどいだけです。


そういった意味で、家庭での取り組みが重要になります。
それは、学習面のフォローという意味ではなく、やっぱり子育てを通して、いかに発達の土台を培っておくか、未発達&ヌケを1つでも多く育てるか、です。
そこが育たない限り、普通級が、支援級が、といった話にはなりません。
学校はあくまで学習する場であって、発達を促す場所ではありません。
教科の時間を削って、「呼吸を育てましょう」「栄養を整えましょう」「感覚刺激を存分に味わいましょう」とはなりませんし、なっても困ります。
学校が教科を教えなくなれば、ひと昔前の特殊学級、養護学校のような空白の12年間へ逆戻りになります。


未発達や発達のヌケを育てていくことで、適切な学びの場、教育内容と目標が変わっていく。
そうなったときに、初めて「交流学習を増やそうか」「普通級への転籍はどうか」という話題になるのだと思います。
未発達や発達のヌケ、つまり、発達という土台が育つことで、学習の準備が整うことになる。
学習の準備が整うということは、本人の認知的なスキルが上がるということです。
本人の今の認知的スキルから見て、支援級が合わないなら、普通級の方がより良く伸びる、学習できるとなれば、是非、転籍を目指してください。
決して、「普通級に在籍したから伸びる」という順番ではありません。
過去に何人もの子ども達が、それでつらい経験をしてきたのを見ました。
私自身も、あのとき、もっと強く言えていたら、きちんと納得できるくらい上記のような説明ができていれば、と後悔することもあります。
発達の土台が育つ→認知的なスキルが向上する→交流級増or普通級転籍の流れです。


単に「学力だけつければいい」という話なら、在籍する教室はどこでもよく、なんなら塾に行って、家庭教師をつけて、なんなら学校に通う必要もない。
でも、どれだけ正確に多く記憶できるかが評価される時代は、とっくに終わっています。
これからは、主体的に学び、自分で答えを見つけていく時代。
答えのない問いに答えを導き出していくには、お客様では無理です。
たとえ、支援級にいたとしても、お客様ではなく、自分で課題を見つけ、答えを出していく主体性が求められます。


「うちの子には、発達障害があるから…」というのは、逆差別です。
発達障害があろうとなかろうと、主体的に学ぶ姿勢を培っていく。
そのためには、認知的な不一致が起きてはなりません。
それが、その子をお客様にし、受け身の姿勢を養うこととなりますので。

2020年4月5日日曜日

【No.1042】普通級転籍には、それなりの『準備』と『交渉』が必要です

北海道は、明日から新学期&登校が始まります。
しかし、首都圏を中心に陽性者が増え続けている地域では、まだ通常登校まで時間を要するとのことです。
このような状況が続くと、日々の生活の中での心身の疲れも心配ですが、いざ、休校が明け、登校が始まったあと、授業に集中できるか、学校に通い続ける体力が続くか、リズムを取り戻せるか、も心配になります。


夏休みのような長期休暇でも、新学期後は乱れる子が多いのに、今回はいろんな制限、また心身のストレスもあると思いますので、学校が再開後、不登校や問題行動、意欲&集中力低下など、様々な面で、あとから子どもへの影響が出てくるように感じます。
休校が伸びた地域の子ども達は、より再開後のことをイメージした生活が望まれます。
たとえ、自分の家が生活を整え、いろんな学習の準備をしてきたとしても、他の家庭は分かりませんので、そういった影響も考慮しながら、我が子の学習の機会を守っていく必要もあるように感じます。


新聞やネットなど、メディアでは、休校が続くことに対する意見や影響が報道されています。
その中で気になるのが、支援級、支援学校に在籍する子ども達に関する記述です。
普通級の場合、学習の遅れや受験などを心配する声、論調が主なのですが、支援級、支援学校に関しては、「生活のリズムが乱れ、親子とも、大変」「変化に対応できず、問題行動が出て困っている」「登校することで、ストレス発散になっている」などの声が目立ちます。
とても驚いたのが、どこかの大学教授の「日中、学校という預かってくれる場所がないと、家庭は疲弊していく」という発言でした。
おいおい、いつから学校は“預かってくれる場所”になったのか。
どうして、普通級の子ども達のように、「彼らの学ぶ機会を」とか、「学習の遅れが心配だ」とか、「進路への影響が」とか、そういった論調、声が出てこないのか。
日頃、アピールするときには使われない言葉が、あらゆるところで見られます(脇が甘い)。
こういった非常時には、本音の部分、繕っていた認識が表に出るのだと思っていたのでした。


実は、この春から、支援級から普通級へ転籍する子ども達が数名いました。
しかし、その中には新学期の始まりが伸びてしまった子達もいて、親子共々、残念に思っているというお話が届いています。
せっかく頑張って、実績を積み、また認められ、転籍が叶ったのに…。
さあ、普通級で、新学年を頑張ろうとしていた矢先だったのに…。
その無念さも伝わってきて、私も残念に思うのですが、どのご家庭も、転籍に至るということは、それだけ前向きに行動できる方たちなので、いくら休校が伸びようとも、今の子の時間も大切に過ごし、乗り越えられると思っています。


「転籍」と一言で言っても、その道のりは大変なものがありました。
まずは、一度、「支援級が妥当」と行政的に判断されたものを変えていく、という点です。
特別支援教育の理念上、本来なら、その子の発達、成長と共に、最適な学習の場を変えていける、変えていくべきなのですが、なんせ、前例主義の学校なので、なかなか、「じゃあ、新学期から普通級ね」とはなりません。
たとえ、支援級で学力がついても、それはあくまで「支援級にいたから身についた」という評価になり、「このまま、支援級で」となりやすいです。
実際、同学年の教科書レベルの学力が身についた子がいましたが、「これは支援級という環境で学んだからです」「普通級の一斉授業になると、ついていけなくなりますよ」「普通級はいじめもあるし」などと脅しのようなことを言ってくるケースもありました。
あとは、「交流の時間を増やしていきますんで」と、転籍はしないけれども、普通級の時間を増やす、という提案も、よくあるパターンです。
それだけ自分が担任の間は、前例を覆したくないし、作りたくないし、リスクを取りたくない、というのが基本的な姿勢だと感じます。


そして当然、普通級へ転籍するには、一斉指示、一斉教示で理解できなければなりませんし、普通級は普通級で様々な子ども達がいるわけです。
何も、診断がついている子だけが大変なわけでも、問題を起こすわけでもありません。
一緒に学ぶ子の人数が増えるということは、それだけ刺激も増えるということ。
そういった教示の仕方や環境の違いにも対処できるだけの土台が育っている必要がありますし、学習面だけではなく、こういった部分も養っていかなければなりません。


あと、大きいのが、45分、座っていられるだけの姿勢、体力です。
就学すると、普通級の子ども達は、45分授業を受け、5時間、6時間と学校で過ごすわけです。
その間、支援級では、同じように45分単位で座っての授業を行っているか、教科学習を同じ時間数行っているか、といったら、疑問に思うところ。
「プリント1枚やって、あとは余暇エリアで」「朝の会がやたらに長い」「なんだかわからないけれども、とにかく調理学習(ていうか、給食の前におやつの調理は止めようよ)」…。
当然、新一年生は、45分座ってられないし、午後の授業まで集中力も、体力も持たない。
それでも、続けていくうちに、一年生、二年生と少しずつ身についていくのです。
その学ぶ姿勢を培っていく機会が、最初から普通級の子とは大きな差があります。
ですから、発達的にも、学習的にも、普通級で大丈夫、だけれども、45分×5時間、6時間が無理で、転籍を諦める子もいます。
この学ぶ姿勢は、家庭や習い事などでフォローしていく必要があります。


こういったことを考えながら、個別に課題をクリアしていく。
それには、どうしても1年、2年と、かかってしまいます。
まとめますと、支援級からの転籍には、自分が支援級に在籍してきた同じ時間で、普通級の子達が学んだこと、経験したこと、身に付けたことをフォローしておく必要があります。
また、当然、就学時、「普通級よりも支援級が望ましい」という何か発達上の課題、遅れがあったのは事実ですので、そこは育て直しておく。


そして、ここが一番の山なのですが、学校側との交渉です。
学校は前例主義で、特に教育委員会、その前には医師からの診断、意見書が出た上で、会議を行い、決定されたものに対して“変える”、しかも自分が担任のときに、というのは、なかなかハードなものです。
親の要望で、一担任の意向で、なんて簡単に変えることはできません。
それに、管理職も、担任も、数年おきに変わります。
ですから、転籍を勝ち取るためには、具体的な理由と客観的なそれが望ましいという根拠を示し、また転籍後、一番学校側が気にするリスクに対する対策案を提示し、かつ、最後には人間同士なので、学校内に賛同してくれる人を増やしていく必要があります。


私は教育大出身で、同期はほとんど教員なので、そういったネットワークも利用しながら情報を集め、交渉のアイディアをお伝えするくらいしています。
それでも、なかなか認められないことの方が多く、結局、小学校6年間は支援級で過ごし、中学受験をして普通教育へ移っていった子ども達も少なくありません。
っていうか、相談のたびにいつも思うことですし、これを書いてて湧き出てくる感情ですが、どうして、家庭が、親が、実績を作り、学校側に認めさせるか、意味が分かりません。


普通、学校という場で指導している先生の側から、「普通級への転籍はどうですか」「もう大丈夫だと思いますよ」「同年齢と一緒に学ぶ方が、〇〇くんは、より成長できると思います」なんて、親御さんに提案があるべきなのに。
実際は、交流学習の時間を1時間、増やすのも、親が難儀する有様です。
就学時、適当だった学び舎が、ずっと最適なわけはありません。
子ども達は、日々、成長しますし、変化しますので、その時々で適当な場所を、学びの機会を考え、提供するのが、学校の役目、特別支援教育の意義ではないでしょうか。
それを6年間、考慮することなく、また本人の実態、成長を更新することなく、同じ教室に留めておくなんて、学校は何様?と思ってしまいます。


6年間、支援級という事実は、そのまま、中学へ引き継がれます。
中学校3年間、支援級だったという事実は、受験、内申書にそのまま書かれます。
今は、高卒認定や通信制の高等学校など、選択肢があります。
でも、そもそも普通高校も含めた中の選択肢だったら良いのですが、「普通高校が無理だから、高卒認定、通信制」というのは違うと思います。
元支援級、支援学校だった若者たちと話す機会もありますが、彼らは発達障害以前に、学びの機会、選択肢が少なかったと感じますし、そこを辿っていけば、就学時の選択、小学校での学び、周囲の考え方、認識と、ぶつかります。
特別支援教育が始まって10年以上経ちますが、まだまだ理念が体現されていくまでに時間がかかるような気がしています。


今回、ネットを使った学習が展開されるようになり、「そもそも、学校に通う意味は?」なんてことも言われています。
しかし、学校は単に学力を身につけるだけではなく、もちろん、それが学校の中心であることは疑いもないことですが、通い続けること、座位を続けること、一斉授業の中で自分をコントロールし学び続けること、自分の思い通りにいかない他者という存在を子ども時代に味わうこと、他者や集団での共感、共有、単純に刺激を受けるだけではなく、自分が刺激を与え、変化が生じることを体験すること、など、挙げればきりのないくらい、その意義、ある意味、ライブ感の刺激の交流には、数値化されない学びがあるのだと思います。


理想で言えば、もっと流動的に、子どもの学び舎、教室が変わっていけると良いですし、学校側がリードするように、支援級→普通級の転籍の提案と指導、教科ごとの選択ができていくと良いと思います。
それには、やっぱり転籍し、伸びやかに成長していける子ども達を増やしていかなければなりません。
案外、1名、前例ができると、すんなり「転籍、いいですよ」となりやすいです。
その当時の担任の先生が、味方になってくれる場合もありますし。
無事に新学年が始まり、楽しみにしていた普通級での学びが始まりますようにと願っています。

2020年4月3日金曜日

【No.1041】『発達』と『学習』は別もの

欧米ではDVが増え、日本では「コロナ離婚」なる言葉が流行っているようですね。
コロナの影響で、顔を見合わせる時間がグッと増えた家族。
その家族の時間をポジティブに楽しめる家庭もあれば、それがストレスとなる家庭もある。
何故、家族同士でもストレスになるかといえば、相手に「こうしてほしい」「ああしてほしい」などの理想を勝手に抱き、その通りにならないギャップにストレスを感じているのだと思います。
そもそも、家族であったとしても、自分とは別人格なので、最初から何かを期待する方が間違っているといえますが。
もし、自分の期待通りに他者が動くとしたら、それは洗脳に違いありません。


いろんな親御さんと関わっていると、みなさん、我が子に対して大きな期待をよせているのがわかります。
当然、愛する我が子ですから、親として期待するのは当たり前。
でも、その親の期待は必ず裏切られるものです。
親の期待や想像を裏切るような行動をし、成長を見せるから、子は親を超え、自立することができる。
別の言い方をすれば、親のイメージの中で終始している子は、親元を離れての自立は難しいでしょう。
それは、不登校やひきこもりの人達と関わり感じたこと。
そして支援者にとって支援しやすい子がいつまでも自立できず、一方で支援を受けていたとしても、ある時期を境に「No」と言えた子から自立していく姿を見てきて気づいたこと。


期待するのは、自由です。
でも、その子本人とは切り離して考えるべきだと思います。
「ああなってほしい」は、周囲が勝手に思っているだけで、本人には関係ありません。
「自分の期待」と「本人の主体性」の境を曖昧にすると、我が子との生活がストレスになり、子育てが洗脳になります。


「なんで、これができないんだ」
「どうして、課題がクリアされ、育っていかないんだ」
というのは、本人にそのための準備が整っていないだけ。
特に、身体や感覚、ヒトとしての土台となる胎児期から2歳前後の発達にヌケや遅れがあると、何かを教えよう、身に付けさせよう、問題を無くそうとしても、無理な話です。
それこそ、強制し、矯正し、洗脳するしかありません。


いろんな相談を受けていますと、この辺りの認識の違い、曖昧な捉え方が、親御さんの悩みの根っこに繋がっていると感じます。
中でも、これは支援者、教育者にも多いのですが、「発達」と「学習」の違いです。


発達障害の子に、何かを教えようとする。
たとえば、服の着脱衣としましょう。
着脱衣は、人間しかしないので、学習の側面が大きいといえます。
その方法を身振り手振りで教えたり、何度も練習したりすると、できるようになる子がいます。
そういった子は、着脱衣ができるだけの準備ができていた子だといえます。
その準備とは、腕を通すときの動作であったり、ボタンをつまみ止める指の動きだったり、自分の身体の範囲がわかるという感覚の育ちだったりします。
つまり、教えたからできるようになったわけではなく、土台である発達という準備が整っていた上に、本人が学習したからできるようになったのです。


私は施設職員から教員になったわけですが、そのとき、強い違和感を持ったのがこれです。
どう考えても、発達という土台ができていない子に、なんとか学習させようとしている姿。
それが教育だと言われればそれまでなのですが、鉛筆が正しく持てない子、座位を保つのが難しい子に対して、教科を教えようとする。
それで、当然、発達的に準備が整っていないのですから、それは身体的にも、感覚的にも、脳の発達的にも、本人も理解できないし、身につかないのです。
その姿を見て、教え方がどうだ、教材がどうだ、教室の環境がどうだ、挙句の果てに「家庭ガー」「障害特性ガー」が始まる始末。
いやいや、発達検査でも、その年齢がでているのに、おかまいなし。
2歳数か月とか、3歳数か月とかいう発達年齢の子に、国語の漢字は難し過ぎます。


分かりやすく単純に言えば、発達とはヒトの部分、動物の部分です。
学習とは、人間の部分。
発達障害と言われる子ども達は、この動物の部分、ヒトから人間へと進化する過程の中に、課題がある子達だと考えられます。
親御さんが育むこと、そして発達援助を行っている我々がアプローチするのは、この動物としての育ち、胎児期から言語獲得までの発達でしょう。


この辺りがきちんと理解できていないと、発達という土台の準備ができていない子に、何度もチャレンジさせたり、練習&指導したりしてしまう危険性があります。
当然、いくら練習しても、指導しても、時間をかけても、できるようにならず、その自分のかけた労力に比例して「こうなってほしい」が大きくなり、結果的に落胆からのストレス、または諦め、「どうせ、障害だし」となる。
その子の発達を視ず、学習させようとするのは、強制であり、洗脳です。


本来、特別支援教育とは、その子の発達をベースに、教育が展開されていくはずなのに、正直、現状は、「普通級のレベルを下げたものを繰り返し、覚えるまで続ける」みたいな印象を受けます。
本人の発達がリードし、学習内容が設定されていくべきなのに、教員が設定した学習内容にその子を引っ張り上げるようなイメージです。
そりゃあ、いつまで経っても、学習が進んでいかないわけです。


親としての期待が外れれば外れるほど、その子は主体的に自分の発達を遂げているのだと思います。
どの子も、親の思い描いた通りに成長したら、おかしいですよね。
親のイメージの範囲でしか成長できていないとしたら、むしろ、それは危険なことなのです。
私達大人だって、みんな、親の期待を大きく裏切り、大人になり、社会人になり、自分の家庭を築いているはずです。
期待はあくまで自分の胸の内に。
そして、我が子には、我が子らしく伸び伸びと発達、成長してもらう。
そのための土台作りが子育てであり、私達が行おうとしている発達援助。


それは“発達”なのに、“学習”のように捉えてしまっているから、「もう身につくはずなのに、まだ身につかない!」「これだけやったから、できるようになるはずなのに!」と積み上がっていく理想を重ね、そのギャップにストレスを感じてしまう。
でも、それは“発達”だから、親や教師、支援者の思う通りには進まないし、なってはいかない。
発達とは誰のものでもなく、本人のモノだから、本人の内側から湧き出てくるものだから。
この辺りが頭の中で、感覚的に整理できていると、いつもよりも長くなった家族の時間を、子育ての時間を愉しむことだできるはずです。
“発達”と“学習”は別もの。

2020年4月2日木曜日

【No.1040】子育ての“方向性”

3月は予定していた出張がすべて中止になり、道内の予定も、緊急宣言が出ていましたし、濃厚接触の危険性がありますので、ほとんどを見合わせました。
こういった日々を送っていますと、起業当初を思いだすこともありました。
ちょうど7年前の2013年4月2日から事業を開始したのですが、当時は学生時代から前職までの間で関わりがあった人達からの仕事オンリー。
なかなか新規が増えない時期が続き、もどかしかったときの感情を今でも思いだします。


今回も似たような状況ではありましたが、全然、焦りはなく、むしろ、「この期間に、あれもしたい、これもしたい」という想いばかりで、世が落ち着いたら、今まで以上に頑張ろうという気持ちでみなぎっています。
それは、この期間中も、毎日のように相談があり、また出張の問い合わせや依頼、日々更新するブログへの多くのアクセスがあったからです。
8年前と心持ちが違うのは、このように共感し、応援してくださる皆さまが全国にいるからだと思います。
ですから、「個人事業主、フリーランスは、その人が好き好んでやっているんだから、こんなときだけ補償を求めるなよ」と毒つきながらも、「やるべきことをしていれば、見ててくれる人がいる」という想いでポジティブにいられました。


さて、年度の切り替えの時期である3月4月のご相談、ご依頼は、この1年間の振り返りと次年度、今年度に向けてが中心になります。
特に年長さんになるご家庭は、半年後には就学時健康診断があるわけです。
この時期にしっかり振り返りを行い、就学までの準備を頑張りたい、と思われている親御さんがたくさんいるのがわかります。


一年間の振り返りだけではなく、通常の発達相談でも、「私の方法は合っていますか?」「子育ては間違っていませんか?」という言葉が多く聞かれます。
また、なにかお子さんに課題が出てくると、目に見えるような成長がないと、「私の発達援助の方法は間違っているかも」と心配される親御さんもいます。
しかし、そのような相談や悩みがあったとしても、私はあまりその具体的な方法、やっていることには注目しません。
それよりも、全体的な発達の流れ、お子さんの雰囲気、家族の関係性、空気はどうか、に注目するのです。


基本的に、親御さんが行っている育みを、お子さんが受け入れてくれるのなら、心地良く感じているのなら、やり方がどんなんでも良いと思います。
第一、私の根本的な考えとして、こういった親御さんの育みというのは、補助であり、後押しの一つでしかない、と捉えています。
確かに、子どもさんの場合、親御さんの子育て、選択、行動の影響を受けやすい。
でも、それはあくまで環境としてであり、やっぱり発達の主体は本人、お子さん自体です。
その子が夢中で行っていること。
何度も何度も繰り返し行っていること。
名も無い遊びが、その子の発達そのものだと、私は考えています。


ですから、あまり神経質に、「これで合っているか、間違っているか」「回数はどうだ」「力加減はどうだ」なんていうのは気にしなくて良いと思います。
繰り返しになりますが、本人が受け入れてくれて、心地良いと感じているのなら、それで発達の後押しになっているはずです。
よって、成長に停滞やゆっくりさを感じるのなら、そういった時期であり、その子の発達の仕方なのでしょう。
子どもの発達の特徴は、停滞の時期、つまり、なんも変化がないな~と思っていたら、急にできるようになる、というものです。
大人のように、少しずつ右肩上がりで上ってはいきませんし、できたり、できなかったり、波を繰り返し成長していきます。


私はよく「方向性は間違っていませんね」「方向性は合っていると思います」という具合に、「方向性」という言葉を使って、振り返りを表現します。
最初に相談があったとき、その子の胎児期から現在に続く発達の流れ、物語を確認するわけですが、それによってある程度、未来の姿が見えてくるものです。
実際に言葉で、「半年後は〇〇ができるようになっていると思いますよ」「〇〇という発達課題は、遅くても夏くらいまでには育ちきっているはずです」など、親御さんに伝えることもありますし、伝えなくても、発達相談をしながらイメージするわけです。


その将来のイメージから見て、その姿と重なっていれば、それまで行ってきた家族での育みの方向性は合っていると言えますし、イメージ以上の成長が見られれば、親御さんの後押しが強力で、本人のニーズとドビンゴだったといえます。
それって素晴らしいことですし、それ以上の「正しい」なんていうのはないと思います。
本人が、前に前にと進めていけれたのなら、どんな子育てでもOKです。
正直、細部にこだわっても、親御さんが神経質にやり方を調整しなくても、子は育ちます。


と言いますか、虐待のようなものはもちろん影響を及ぼしますが、親御さんの関わり方をちょっと変えたくらいでは、子の発達、成長を止めることはできませんし、そんなに影響はないはずです。
そういう支援者の私だって、その子の発達に影響を及ぼす、左右するなんてことはできません。
できるのは、その子の発達の流れに沿った後押しをして、ちょっと発達を加速させる、より伸びやかな環境、刺激を作りだす、といったところです。
発達を決めるのは本人であり、本人の内側にある力と資質。
周囲の我々は、その子の発達を変化させる存在ではなく、後押しする存在。
その子の内なる発達の流れを変えようなんていうのは、神様じゃなきゃできません。


一年間を振り返り、「ああ、我が子は成長しているな」「こういったところが伸びているな」と思えたら、子育ての方向性は合っていると思います。
あれをやったから、やらなかったから、などと思う必要はなく、大事なのは本人の発達の流れを止めないこと、心地良く明日も、明後日も、一年後も流れ続けてもらうこと。
「あのとき、あんな関わり方、子育てをしたから」などと反省はしても、後悔する必要はありません。
だって、1つや2つの失敗、過ちで、子の発達の流れは変わらないから。
それよりも、こうやって日々、発達成長していることを喜んだ方が良いと思います。
子どもさんだって、そう思っているはずですよ。


それに、自分の親だって、全部正しくて、非の打ち所がない素晴らしい子育てをしていたなんてあり得ません。
自分の親だって、他の親御さんだって、試行錯誤しながら、日々、悩み、後悔しながら、私達を育ててきたはずです。
なので、我が子が内側に秘めている発達する力を信じること。
「私が発達させよう」ではなく、「我が子が伸びやかに、今後も発達、成長できるように環境を整えよう」と思うことが大事だといえます。


今日から始まる8年目も、その子の発達する力を信じ、そのためには発達の流れを見極める目を磨きつつ、より伸びやかになる発達相談、援助を行っていきたいと思っています。
そして何よりも、関わったご家族が、今しかない家族の時間を楽しみ、幸せを感じられるような後押しをしていきたいと思います。
8年目のてらっこ塾、大久保を、よろしくお願いいたします。

2020年4月1日水曜日

【No.1039】言葉は言葉のみにあらず

前回のブログ、言葉の発達について綴ったものに対して多くの反響がありました。
感想やさらなるご質問をくださった方達もいらっしゃいました。
それだけ関心があり、同時に悩まれている方も多いのだと感じます。
確かに、運動面や学習面の遅れよりも、インパクトは強いといえます。


進路選択の上で、「就学前までに」という話の流れでしたが、就学までに言葉が出なければ、それ以降の発達も難しいか、といったら、そうではありません。
就学時に、一言もしゃべれなかった子が、今では一般就労して(しかも店内の勤務)働いていますし、ずっと喃語しか出なかった子が、中学生になってから言葉が出るようになった、私の知る限りでは、成人してから単語レベルの言葉が出るようになった、という人もいます。
このように、本人の問題ではなく、教育行政、制度の問題のため、「就学前」とは言っていますが、それ以降も言葉の発達はみられます。


施設で働いていた時も、知的障害の重度、最重度と判定された子が、学年が上がるたびに、言葉が増えてきて、ずっと絵カードでコミュニケーションをとっていたいましたが、それを使わないで、やりとりができるくらいまで成長していきました。
そういった子ども達は、一人二人という特別な話ではなく、重い知的障害を持った子であっても、少しずつ言葉が育っていった子が何人もいました。
ですから、どの子にも言葉の発達の可能性はありますし、その育てる方法は、前回記した通りです。


このように、行政的な視点を取っ払えば、言葉の面でも、生涯育ち続けるし、発達のスピードは人それぞれで何の問題もないはずです。
ただ再三申し上げるように、一つ就学が大きなポイントになっていますし、そこで「言葉がないから重度ね」「普通級は無理だね」と決められてしまい、その後、いくら本人が発達、成長しても、親御さんが頑張っても、「支援級が妥当」「支援学校が妥当」という行政的な判断がついて回り、それを覆すには、相当な労力が必要というのが現状です。
もう少し柔軟に、それこそ、発語原理主義が変わっていかない限り、こういった問題は起き続けていくと思いますが、ただ憂いているだけでは変わっていかないのも事実です。
たぶん、上記でお話ししたような就学後も言葉が育ち続け子ども達、成人後に言葉が出始める人達の存在を多くの人が知らないし、言葉があとから出たところで、前例主義の態度が変えられないのだと思います。


これも度々申し上げていますが、発達が遅れること自体は、障害でもなんでもありません。
ただ現時点で遅れているだけ。
目の前にいる子は、障害児ではなく、発達に遅れがある子です。
なので、それこそ、生涯をかけて育っていけばいいのであって、発達がまったく生じない子がいれば、そのとき、初めてその子に「障害」という概念がくっつくのだといえます。


言葉の遅れがあると、今ではすぐに「自閉症」だとか、「言語障害」「知的障害」などと診断名がつきますが、それは「一生伸びない」という意味ではありません。
しかし、その説明が十分になされているとは言えない状況がありますし、「いやいや、障害だから、ずっと変わらない」という具合に、昭和の頭から切り替えられない人々もまだ残っています。
現時点で、「障害の診断基準に当てはまる」というのと、「その後、生涯に渡って診断基準を満たし続ける」というのは、イコールではないわけです。


自閉症も、言語障害も、知的障害も、言うならば、ADHDも、LDも、発達性協調運動障害も、全部、神経発達、ネットワークの表現型の一つです。
便宜上、共通性のある表現型を括って、なんとか障害と言っているだけです。
個別に見れば、同じ障害名、同じ診断基準を満たしたもの同士であっても、神経発達の具合はまったく異なっているわけです。
ですから、その子が、その人が、生涯どのような神経発達を遂げていくか、なんか誰にも分かるはずがないのです。
ただ一つ言えることは、神経発達は生きている限り、生じ続けるということ。


生涯生じ続ける神経発達。
それをサポートし、後押しするのが、支援者、専門家の役目だといえます。
一度付いた診断名で支援を組み立てるのは、ただの前例主義のお役所仕事。
転入出の手続きじゃないのですから、一人の人の人生を右から左に流すようではいけません。
それこそ、生涯発達し続ける、大人になってから言葉が出る人もいる、みたいな正しい知識、前提から作り上げていく必要があるのかもしれません。
それくらい、特別支援の世界は遅れているってことです。


発語がない子が言葉を話すようになれば、過去の診断時とは違った結果になるのは当たり前。
知能検査の値も、ググッと変わるのは奇跡でもなんでもなく、自然なこと。
だって、神経発達は止まらないから。
今まで個別の症状に対する発達の促し方を支援者たちが知らなかっただけで、勝手に個人のせい、障害のせいにされていたのです。
もちろん、神経発達が盛んな時期と、そうではない時期がありますが、ゆっくりでも発達し続けるし、その発達の具合を左右するのは、刺激と環境です。
より良い刺激、そのとき、必要な刺激によって、発達が促されていくのですから、指をくわえてみていないで、前例主義で流れ作業みたいな仕事をしていないで、やれることとやるべきことはたくさんあるわけです。


成人した人に対しても、言葉の発達に繋がるような援助方法をお伝えしています。
当然、諦める理由がないから。
ゆっくりでも育っていけば良いですし、言葉は言葉のみで発達するわけではなく、全体的な発達の上に生じるのですから、結果的にその人の生活がラクになるわけです。
イメージで言えば、言語は認知の表れ。


「ずっとカードでコミュニケーションしてたんだから」
「代替の音声機会を使えば」
「今さら、いくつかの言葉を発せられたとしても」
なんてことは、よく言われます。
でも、言葉は言葉のみにあらずです。
言葉は、いろんな機能、運動、感覚と繋がっているのです。
概念と言葉もリンクします。


ですから私は、「行政的な判断材料となってしまうから」と「その人の全体的な発達に繋がるから」という二つの側面から、どうやれば、言葉の発達が促されるか、より良く後押しできるか、をテーマに追い求めているのです。
単純に言葉が出ればラッキーではなく、その人の生活全般、生活の質の向上と、認知的な向上による本人のラクのために、これからも探求し続けます。