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【No.1056】絵が内的な世界を表し、描く行為が外的な世界を表す

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今朝来た相談メールにも子どもさんが描いた絵が添付されていました。 2年前に 【子どもの絵と発達】 というテーマでブログを書いてからは、相談文にプラスして絵も送ってこられる親御さんが増えました。 当然、実際にお会いする発達相談でも、お子さんの絵を拝見しますし、一緒に絵を描いて遊ぶこともあります。 絵は、その子の世界であり、その子の脳そのものです。 「どんな絵を描くか」「どんな色を使うか」 そこに意識を向けていくと、子どもの目を通した世界が見えてきます。 発達段階や精神状態などの内側を追体験することができますので、子どもさんが描いた絵を拝見し読み解くことは、私達支援者にとって重要な仕事になります。 絵そのものが内的な世界を表しているとしたら、絵を描いている様子は外的な世界を表しているといえます。 色鉛筆も、クレヨンも、絵の具も、道具です。 つまり、絵を描いている様子で注目するのは、この道具の使い方なのです。 道具の使い方で、どのくらい勉強の準備が整っているか、今後どのくらい学力を積み重ねていけるかがわかります。 ヒトの進化において、道具を使えるようになったことが言語獲得へと繋がったのは有名な話です。 道具を操作しているときに働く脳の部位は言語野だといわれています。 私達が言葉を話すようになったことと、道具が使えるようになったことは密接な関係にありますので、発達援助においても、どんな道具をどれくらいうまく操れるかに注目するのです。 使える道具が増えると、言葉も増えてきます。 反対に道具がうまく使えないと、言葉の遅れがみられます。 ぎこちない道具の使い方がそのままぎこちない言葉へと表れます。 お子さんが絵を描いているとき、そのペンの持ち方と同時に、力加減と滑らかさに私は注目しています。 持ち方(指の位置・形など)はストレートに発達段階を表しますし、力加減と滑らかさは学習における脳の準備の状態を表現しています。 力加減は強すぎても弱すぎても、まだ学習の準備は整っていないことになります。 ペンの運び方、滑らかさは思考の柔軟性を表しますので、ぎこちなさを感じると「単純計算は大丈夫そうだけれども、文章問題・思考を問う問題はどうかな」と心配になります。 「しなやかな身体が柔軟な頭を作る」と言われており、それが指先にも表れると考

【No.1055】児童デイに伺ったとき、まず何に注目するか?

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起業して8年目となると、その間に色んな方から色んなお話がありました。 結構、児童デイに関しては厳しめの発言を繰り返していますが、児童デイに関わる方達からもお話があります。 「一度、うちの事業所を見てくれないか。助言をくれないか」と言ったものから、「一緒に児童デイを」「うちで児童デイを起ち上げるから、その代表に、アドバイザーに」などというものまでです。 児童デイに伺ったとき、そこで行われている療育や支援、スタッフの能力よりも、まず注目するところがあります。 それは代表がどういう人か? もっと具体的に言えば、その人の経営力、もしくはちゃんと経営を担ってくれるスタッフがいるか、そういった専門家からコンサルタントを受けているかという点に注目します。 コロナ後、児童デイの半数くらいは潰れると思います。 たぶん、事業者が受け取る利用料1人分が減額されるでしょう。 だけれども、それでは事業者から、保護者からクレームが来るのは目に見えていますから、行政のほうは、1事業所当たりの利用できる人数の制限を緩めていくはずです。 そうなると、事業所に入るお金は変わらずですが、どこもすし詰め状態になる。 この状況下で、事業者も、保護者も、家庭の「レスパイト」という側面を訴えているくらいですし、既に児童デイを卒業した子の多くが福祉的なサービスを利用しているという結果も出ていますので、児童デイ=発達援助よりも、児童デイ=レスパイトという方向へ舵が切られていくと考えられます。 多くの子ども達を少ないスタッフがケアする状態。 そうなれば、低賃金&危険→スタッフが集まらない→志のあるスタッフもやりたい支援ができない→やる気のあるスタッフが辞めていく→経営&運営成り立たない→潰れるという流れができてしまいます。 私が児童デイの経営に注目するのは、こういった理由からです。 コロナ後は一気に潰れる、撤退する数が増えることになりますが、もともと事業として甘すぎるのです。 社会的な責任を果たそう、本気で子ども達の発達に関わろうと思えば、必然的にしっかりとした経営、安定した経営を目指さなくてはいけません。 児童デイは慈善行為でも、ボランティア活動でもないのですから。 それなのに、多くの児童デイは民間企業の意識が乏しい。 行政に提出する書類に関しては頑張るのに、経営には

【No.1054】不確実な未来の中にある確実なもの

視覚的な支援の中の「スケジュール」とは、見通しが持てない人が見通しを持てるようにするためのツールだと言われています。 つまり、これは平時の道具だといえます。 今のように誰もが見通しのもてない時期に、見通しが持てないことを視覚的に表しても結果は同じです。 もし強引にも見通しを持たせようとするのなら、そのスケジュールの内容はとても乏しいものとなるでしょう。 「朝ご飯を食べる」「テレビを観る」「お昼ご飯を食べる」「音楽を聴く」「夕食を食べる」「お風呂に入る」「寝る」 見通しが立たず、社会生活の中にいろんな制限がある今、確実な予定を提示しようとするのなら、こういった内容しか出てきません。 様々な場所から聞こえてくる話の中に「コロナの影響で日常的な活動ができずに大きなストレスを感じている自閉症の人達」ということがあります。 これは国内だけではなく、アメリカなどでも、同様の状況、人たちがいると聞きます。 こういった制限のある状況では、定型・自閉症に限らず、どの人もストレスを感じるものです。 でも、自閉症の関係者、支援機関は、それが自閉症の特性であるかの如く訴えます。 そしてこの期に及んでも、視覚的な支援ツール、支援・援助・理解を求めているのです。 そもそも視覚支援とは、確実性の上に成り立っているものです。 つまり平時の支援であり、非常時の支援ではありません。 東日本大震災のときも、避難所で「個人のスペースが」「パーテンションが」「スケジュールが」という話がありました。 本来「支援を求める行為」とは、本人が困ったとき、困っているからこそ、求め受けるものではないでしょうか。 平時のとき、決まり切ったスケジュール・予定を視覚的に提示することの意義はどういうことでしょう。 本人がやりたいことをただ視覚的に示すこと。 周囲の人間がやらせたいことを視覚的に示し、やらせたくないことを示さないこと。 そういった支援が、どのように本人たちの困ったに応えているといえるのでしょうか。 本人が困ったとき、助けを求めたいときにこそ、その支援の進化と日頃の積み重ねが現れるのです。 「スケジュールで予定を視覚的に示したのに、この子は落ち着かない」というケースは以前から多く見られていたことです。 それは当然です。 本人がやりたいことが提示されなけ

【No.1053】まだ生まれてきていない子ども達を援助する

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スーパーに買い物に行くのを「3日1回にしてほしい」と、小池都知事が言っていました。 どこのスーパーも人がいっぱいなようで、まさに三密状態。 お客さんは自分の意思で避けることができますが、従業員は基本受け身なので、常にリスクにさらされている状態だといえます。 従業員がいなくなれば、それこそ食料が手に入らなくなりますので、「働く人を守る」という意味で買い物する側の行動変容が起きれば良いな、と思っています。 しかし一方で「買い物客は減らない」と、私は思います。 何故なら、この前もブログで書いたように、みんなが"ヒト"モードになっているから。 「経済だ」「資本主義だ」などと言われますが、結局、お金を介して狩猟生活をしているのが私達人間です。 平時、自分の安全が守られた状態ですと、より精神性の満足感に意識が向いていきます。 たとえば、仕事でのやりがい、ひとの役に立つこと、自分で立てた目標に向かい努力する自身の姿、家族の幸せ、世界平和などに。 でも今は、一番の土台である安全安心が揺らいでいます。 700万年の人類の歴史そのものが「安全安心」と「子孫を残す」ための闘い。 ですから、身近に迫っている危険を前にし、人間はヒトに戻っていく。 「開いているところがスーパーくらいだから」と考えるのは、ABA。 「身の危険を感じている今だからこそ、生きるための(現代の)狩猟へと心が掻きたてられる」と、私は考えます。 食べ物を得るというのは、それ自体が安心感と繋がっています。 発達相談において、成人の人達からよく聞く言葉に「無理して働かなくていいって言われました」というものがあります。 公的な相談機関でも、病院でも、家族からでも、「(人的、金銭的)支援を受けて生きればいい」と勧められる。 確かに公的な支援を受ければ、物理的には生きていくことはできます。 しかし、心理的に生きることはできるでしょうか。 今まで多くの若者たちと出会ってきましたが、「働く必要はない」と言ったことはありません。 たとえ知的障害を持っていたとしても、今すぐに働くことが難しい状態だとしても、必ず働くことを目標に取り組んでいきます。 何故なら、働くことが現代の狩猟だから。 自分の目の前に届けられる獲物と、自分で身体を動かし、ときに危険を感じながら

【No.1052】不確実な未来で、確実なもの

高齢者のデイサービスと同じように、児童デイでも送迎サービス、移動支援(なにを支援してる?)を一時休止にして開所しているという話を聞きました。 大いに結構なことだと思います。 一人で通所することが困難な高齢者や肢体不自由の子ども達なら、送迎の意義、必要性はわかります。 でも、五体満足に生まれ、元気よく行動できる発達障害の子ども達が、どうして学校から事業所、事業所から家までの送迎が必要だというのでしょうか。 必要性を感じないうえに、あることで、子ども達の成長、自立の妨げになっている、と私は思うのです。 以前、不登校の子のご家庭に訪問したとき、「授業がすべてオンラインになれば、この子達は問題がなくなる」と言っていた親御さんがいました。 確かに、授業がオンラインで展開されるようになれば、家から出る必要はなく、学力だって身につけることができるでしょう。 しかし、それで済むのなら、そもそも学校という存在が必要ないのだといえます。 学校が教科を教え、それを身につけさせることだけが目的だとしたら、学校と塾の境目はなくなります。 また単に学力だけなら、授業を録画したものを、各家庭で自分が好きなときに観て、勉強すれば良いわけですし、既にタブレット学習が一般化されていますので、就学と同時に一人一台配れば、学校という箱モノも、大量の教師という職業も、必要がなくなります。 学力、一点に絞って言えば、オンライン化、タブレット学習にすれば、とても効率的になります。 実際、こういった声は、いろんな人達から上がっていますし、今後、議論されていくことになると思います。 「学校は、教科を教えるところであり、学力を身に付けさせるところ」というのは、当然です。 私が学校に対して批判的な感情、意見を持つときは、この教科学習をないがしろにしている場合です。 支援級、支援学校で、きちんと教科が教えられない、教科書すら渡されない、6年間、ほとんど同じ内容、という話を聞いたとき、私は憤りを覚えます。 学校が学校の存在意義を否定するような行為、「どうせ、この子達には教科は無理」といった失礼な態度に。 しかし、学校の存在意義は、「学力を身に付けさせる」だけではないと思っています。 教科とは違った学ぶ力を養う場所、養われていく場所。 私はそう感じています。 たとえば、「

【No.1051】いろんなものが淘汰されていく真っ只中

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講演会や研修会などのテーマには、「最新研究」「最新の情報」といった文言が入ることが多くあります。 若い頃の私は、「少しでも新しい情報を」と思い、こういった講演会に足を運んだものです。 しかし、どの講演会でも、"最新"の情報は冒頭の少しくらいなもんで、あとは例年通り、本やネットで出てくる情報ばかり。 結局のところ、その講演者や主催者、組織の"押し"を広めるためのものだと分かったのは、20代後半になってからでした。 今は世界的に、どの人間も、"ヒト"モードになっています。 大なり小なり、命の危機を感じる時期ですので、「生きるか死ぬか」に意識、無意識が向いているといえます。 ですから、「生きるか死ぬか」という軸で、いろんなものが淘汰されていく真っ只中にいるのだと思います。 歴史を振り返ると、こういった出来事のあとには、まったく新しい価値観、文化、システムが生まれているのがわかります。 「早く、もとの生活に戻りたい」などと言う人が時々いますが、もう2019年の頃のような生活がやってくることはないでしょう。 今、世の中は、新型コロナの話ばかりですが、北朝鮮はミサイルを飛ばすし、中国船も日本の領海にやってきています。 地球環境の問題もありますし、ついこないだまで働き方改革だ、ジェンダーだ、マイノリティーだ、と言われていました。 でも、今はほとんど、そういった話題にならないし、解決に向けた動きがみられません。 ということは、根本的な「生きるか死ぬか」とは関わりのない話題だったんだといえます。 今年は建物を青くしたのかどうかもわからないまま、4月2日が過ぎていきました。 今までは、ずっと「啓発が大事」「理解が大事」と主張されていましたが、意気込んでいろんなところから寄付を募っていましたが、あってもなくても変わらないことが証明されてしまいました。 本当に必要なもので、当事者、家族を救うものであったとしたら、どんな状況でも、むしろ、今のような不安を感じるときのほうが、その意義が明確に現れるのだと思います。 もう十年以上前ですが、それこそ、20代の頃に行っていた講演会、研修会の主催者から、「開催中止のお知らせ」がメールで届きます。 どのメールにも、「誠に残念ですが…」と書かれてい

【No.1050】「生きる段階」「遊ぶ段階」「学ぶ段階」

新学期が始まり、子ども達の元気な声が戻ってきたのも、つかの間。 そんな生活も2週間ほどで終了し、再び自粛生活が始まりました。 少なくとも今年度は、こういった登校→自粛→登校のような学校生活になるのだと思います。 この緩まった隙(?)に、いろんな相談、仕事がありました。 皆さん、きっとこの機会を待ち構えていたのだと思います。 学校や幼稚園など、「1学期で、こんな取り組みをしよう」「この1年間で、こんな力を身に付けさせよう」といった悠長な教育計画は立てられないでしょうし、保護者もそれを期待するのは難しいと言えます。 となると、今まで以上に、家での過ごし方、生活が問われるわけです。 メディアでは、「学校が休校になり、勉強の遅れが心配」といった声が並びます。 しかし、厳しい言い方をすれば、学校が1ヶ月、2ヶ月、休みになったくらいで、その子の学力に遅れが出るとしたら、そっちの方が問題です。 小学校低学年なら、大人が傍で見守ったり、教えたりしながら学習していく必要がありますが、基本的に自分で学ぶという主体性がないといけませんし、それを育てるのが小学校の間です。 学力を身に付けること以上に、こちらのほうが大事。 自ら学ぶ姿勢が培われている子は、学校があろうがなかろうが、学力が身についていきます。 不登校の子の親御さんの中には、「学校に行けないから学力に遅れがある」と言われる人もいます。 でも、それは間違いで、そもそも自ら学ぶ姿勢が育っていないといえるのです。 その証拠に、学校に行けなくても、家の中でしっかり学力を身につけ、進学、自立していく若者たちがいますので。 確かに、学校に行けていないことは、学ぶ機会の乏しさに繋がりますが、学力に直結する問題ではないのです。 問題の本質は、環境以前に、その子自身。 これは、支援級、支援学校に通う子ども達の話ともつながります。 「支援級では、通常級のレベルを落としたものを、ゆっくりやるだけ」 「そもそも支援学校では、教科学習をしない」 だから、学力が身につかないと言われます。 確かに、学校側の問題もあるでしょう。 しかし、そういった環境の中でも、しっかり学力を身に付けていく子もいるのも確かです。 もちろん、学校で教わる機会が乏しいので、その分、家庭での勉強はやります。 そのポイント

【No.1049】三歳児健診で問われる概念理解

先日、下の子の三歳児健診に行ってきました。 1回だけ、どうしても仕事の都合で行くことができませんでしたが、それ以外は上の子のときから全部参加しています。 だって、日頃、学んでいることを、目の前で見れる絶好の機会ですから。 いくら書物で情報として知っていたとしても、実際に行われるテストや聞き取りなどは、非常に勉強になります。 保健師さんの意識の向け方、力の入れ方で、どの発達課題が重要か、その濃淡がわかります。 また、同じ月齢の子ども達が一堂に集まる機会はとても貴重で、待っている間など、その雰囲気を感じておくことは、私の仕事へ大きなヒント、着想を与えてくれます。 一歳半健診では、主に運動系の発達が重視されていましたが、三歳児健診では、それ以外の知能に関する発達の確認が重視されます。 特徴的なのが、単にモノの名前を知っているか、自分の名前が言えるか、ではなく、概念の理解、芽生えがあるかについて検査されます。 モノの概念、数字の概念が重要になってくるのが、小学校3年生くらいからです。 小学校低学年くらいまでは、概念を問うような学習、それを元にした問いなどはほとんどないのですが、中学年くらいになりますと、概念理解がないと解けない問題が出てきて、教科の内容も、その概念がしっかり理解できているという前提で展開されていきます。 以前にもブログで紹介しましたが、計算問題は得意、漢字も得意、なんなら就学前から計算と文字が書けていて、「この子は知的には高いね!」と言われていた子が、中学年以降、ガクッと成績が落ちる、授業が分からなくなる、というケースが多くあります。 それは、一言で言えば、「概念理解の問題」です。 文字の読み書きや計算などは、その子の概念理解が問われません。 ですから、小学校低学年までは大丈夫。 でも、中学年からはガラッと変わるのです。 ちなみに、中学年から不登校が始まる子の中には、この概念理解の問題から授業がわからなくなり、成績が落ち、登校意欲が激減する、という子も少なくありません。 周囲から見れば、「小さいときから、お勉強できていた子なのに」「いっぱい言葉を知っている子なのに」となるのですが、単に文字を形としての丸暗記、計算自体(式と答え)を丸暗記、言葉は知っているけれども、それが示す範囲が極端に狭い、などがあります。

【No.1048】子どもの行動を「異常」と決めつける前に

親御さんからの相談で、「どれが異常で、どれが幼さかがわからない」という話がよくきます。 確かに育児本には、「1歳3か月で〇〇ができる」などの説明がありますが、その異常さについて解説されたものは、ほとんどありません。 産婦人科や小児科のドクターが書いた医学書には詳しく載っているんですけれども、そういったものは一般的な人は読みませんよね。 また、最初の子だったり、近くに親戚の子や同じくらいの子がいなければ、わからないのは当たり前。 親だって、初めて親になるわけですし。 一番早いのは、発達障害専門ではない医師や保健師、保育園の先生に相談することです。 発達障害の専門家が発達障害を基準に診るのに対し、小児科の医師や保健師、保育園の先生などは人を基準に診ます。 その月齢、年齢の発達から言って、異常だと言えるのか、正常の範囲なのか。 正常の範囲なら、早いのか、遅いのか、ちょうどよいペースなのか。 そういったヒトの発達をベースに、その子の言動を見なければ、本当のところはわかりません。 しかし、現に目の前の我が子の言動を見て、悩まれている親御さん達がいらっしゃいますので、また心配になったからと言って、すぐにそういった専門家のところへ行けるわけではないので、主にどういった視点で見ていけばいいのかをお伝えしようと思います。 まず『持続性』です。 赤ちゃんが泣くのは仕事ですし、幼児さんが泣いたり、感情を爆発させたりするのも当たり前です。 しかし、こういった泣く、感情の乱れが、長い時間になるようでしたら、異常だといえるかもしれません。 赤ちゃんなら5分も泣き続ければ、疲れてしまいますし、幼児さんもだいたい体力的にも10分までは持続しません。 よく「泣いたら、30分でも、1時間でも」とか言われる親御さんがいますが、それはやっぱり長すぎます。 自分たちに置き換えても、30分泣き続けるのは、相当な負荷がかかりますので難しいといえます。 あと、遊びに関しても、ミニカーを並べたり、タイヤをくるくる回したり、換気扇が回るのを見ていたりすること自体は異常でもなんでもなく、定型発達の子にも見られますが、やっぱり持続性に違いがあります。 小学校低学年の集中力が10分と言われていますので、いくら好きな遊びだとはいえ、20分も、30分も、同じことを繰り返す姿に

【No.1047】『切り替えが苦手』は、障害特性なのか?

自閉症スペクトラム障害の診断基準の中に、「同じであることへの“固執”」「ルーチンへの頑なな“こだわり”」という文言が出てきます。 具体的には、小さな変化による“強い苦痛”、行動を移行することの“困難”といったところです。 この『固執』や『こだわり』は、今の診断基準(DSM-5)の前から用いられていた言葉ですので、自閉っ子の行動を表現するとき、昔からよく使われていました。 ですから、『固執』『こだわり』と言えば、自閉症であり、自閉症といえば、固執やこだわりがある、という認識が当たり前になっているような気がします。 自閉症が神経発達症の一つであることが示される前、つまり、まだ、それが障害特性で、生涯変わることのない特徴と考えられたときの名残が現在も続いているような印象を受けます。 なんとかの一つ覚えのように、ある行動を止められなかったり、次の活動に移行するまでに時間がかかったりすると、「ほれ、固執だ」「こだわりだ」と言われます。 しかも、診断基準に固執やこだわりの項目がありますので、そういった子どもの姿を見て、「自閉症かもしれない」とチェックが入ったりすることもあるのです。 実際、こういった子どもさんの姿が確認されると、「ASDの疑いあり」といった診断になることも少なくありません。 で、そういったお子さん、ご家族から相談が来るわけです。 実際、お子さんにお会いすると、というか、会う前からわかるのですが、ほとんどが固執でも、こだわりでもありません。 厳密に言えば、言葉的に言うならば、固執やこだわりなのかもしれませんが、病的なものではないのです。 ある行動を止められない、次の活動への移行に時間がかかる。 それは、単に幼いからであり、どの子もそういった発達過程を辿るものです。 じゃあ、なぜ、それがわかるか、言い切れるかといえば、とっても簡単。 そこに強い苦痛も、困難も、存在しないから。 幼児さんが、遊びを途中で止めるように言われると、ギャーと泣く。 公園で遊んでいて、「そろそろ夕食の時間だから帰りますよ」と言われて、「嫌だー」と言って、手に持っていたスコップを投げる。 これが障害特性というのなら、世の中の幼児さんは、みんな自閉症。 強い苦痛というのは、遊びの中断からパニックになり、感情爆発、激しい興奮、自傷などが起きて、初めてそ

【No.1046】豊かな学習の下には、それを支える豊かな発達が存在している

「結局、自分は発達を促しているのか?学習を促しているのか?」という感想を述べられていた方がいらっしゃいましたので、もう少し『発達』と『学習』を掘り下げていこうと思います。 発達障害の子ども達は、学習できない障害を持っているのではなく、神経発達に遅れがある状態であること。 発達障害は、発達の遅れがあることが問題なのではなく、いつまでも発達しない、または発達のヌケや未発達を抱えたまま、成長し、それに伴い、脳みそや能力に凸凹が大きくなって生きづらさにつながることが問題の本質である、という点は、前回までのおさらいです。 では、私達が行っている子育て、発達援助とは、具体的にどんなことなのでしょうか。 まず一番に思いつくのが、快食快眠快便を整えること。 これは学校や療育機関が行える部分ではありませんので、当然、家庭が担う子育ての部分だといえます。 快食快眠快便が整うと、子ども達の発達は、全体的に加速していきます。 ここでのポイントは、「整うと加速する」ということです。 つまり、これ自体は発達というよりも、より良い発達を促す条件であり、環境です。 高タンパク質&低糖質やサプリ&プロテインなどの栄養面からのアプローチも、より良い発達に向けた環境づくりです。 しかし、「偏食がある」「夜になっても寝られない」「排便が未自立」などのお子さんもいると思います。 そういった場合は、整える以前に、発達を促すことと、学習を促すことが必要になります。 食べるに関しては、口周辺の反射が残っていたり、味覚や嗅覚などの未発達があったり、飲みこむといった運動に発達の遅れがあったりします。 反射を統合させる、つまり、やりきるだけの刺激を直に与えるのは、発達を促す行動です。 同じように、感覚系の未発達は刺激を与え、育てていく必要がありますが、感覚を育てる場合には、与えられて育つよりも、自ら意識を持って能動的にその感覚刺激を味わうことで育ちますので、大事なのは、本人がその感覚刺激を思いっきり味わえる環境づくりだといえます。 ですから、厳密に言えば、直接、親御さんが育てるのではない間接的な発達援助だといえます。 運動に関しても、本人が主体的にやりきることで育っていくので、心地良くやり切れる環境を用意する、たとえば、「哺乳瓶を用意して」ですとか、「本人が飲みたがるモノを用

【No.1045】「退行」こそが発達保障

昨日のブログを見て、早速、感想を送ってくださった親御さんがいました。 以前、発達相談を行ったご家庭ですが、幼稚園がお休みになってから、天気のいい日は河川敷まで出かけて行き、そこで親子、寝転がって、雲を見るのを続けていたそうです。 まだお子さんには発語が出ていなかったのですが、雲を一緒に見て、「あれはパンに見えるね」「あれはキリンみたいだね」といったことを親御さんが語り続けていった結果、不明瞭ながらも言葉での発信がみられるようになったそうです。 また、動く雲を一生懸命見ていたら、普段の目の動きも自然になってきたとのことでした。 相談時は、乳幼児期からの長時間のテレビの影響もあってか、目の動きが乏しいのが気になりましたが、こうやって雲を目で追いかけることを続けていった結果、自然な動きができるまで育ってきた。 まさにこれが、発達援助であり、子育ての自然なあり方なんだと感じました。 親御さんの中には、「療育を頑張らなくて良いのだろうか」「他の子のように、いろいろやらせなくていいのだろうか」などという焦りや不安もあったそうですが、昨日のブログで安心できたし、我が子の成長からも続けて良かったと思えるようになった、と綴ってありました。 基本的に、土台である発達が育てば、あとは勝手に学んでいくのが、子どもというものです。 世の中、知らないことだらけ、やりたくてもできないことだらけ。 だからこそ、子ども達は学ぼうとするし、できるように試行錯誤をする。 その「知らないことを知る」段階、「やりたいと身体が動く」段階まで育てるのが、子育てであり、発達援助でしょう。 心理学を学んでいる人は、「退行」と聞くと、精神療法を思い浮かべると思います。 私も、特に成人や若者で、心理的な課題、行動的な課題を持っている人と対面するときは、精神療法的な意味で、「退行」をお勧めしています。 本人や家族に、幼少期、どういった遊びを好んで行っていたか、どういった環境に身を置いていたか、どういった感覚に懐かしさを感じるか、などを尋ねていき、そのときを連想するような活動、環境、刺激の中に身を置くことを提案しています。 そうやって、子ども時代の最初の頃に立ち返ることで、現在の縛りから心身を解放していく。 多分、多くの人にとって、その時代は、無邪気な目と感覚で世の中を見ていたはず

【No.1044】学習は伸びる、発達はやりきる。学習は足して、発達は引く

休校、休園の期間が続くと、どうしても“足したく”なります。 本来なら、新学期も始まり、勉強している時間ですが、その時間をまるまる家庭で過ごすことになる。 当然、ボーとしていれば、それだけで時間は過ぎてしまうわけで、なにか目標を立ててチャレンジした子や、コツコツと自学自習に励んだ子とでは、大きな差ができるのは当然だと言えます。 そんなの親なら百も承知ですから、せっせと「何かできないか」「この時間を有効に使えないか」と考えるわけです。 そうなると、私のところに来る相談も、「なにかできることはないでしょうか?」という内容が増えてきます。 最初の頃は、自粛モードでしたが、徐々にというか、急激的に増えてきました。 やっぱり親心としては、なにかできることを足したくなる。 教科学習や身の回りのこと、新しい運動や遊びなどは、やれることをどんどんやった方が良いと思います。 こういった『学習』とは、やったらやっただけ身につくものですから。 教え方云々の話もありますが、基本的に時間や回数に比例して伸びていくのが、学習だといえます。 しかし、同じように『発達』に関しても、どんどんあれもこれもと足していこうとすると、それは却って発達の妨げになるといえます。 発達とは、与えられるものではなく、本人が満たし、伸ばしていくもの。 時間や回数以上に、本人の主体性と充足感が、その発達具合と関わっていると思います。 ですから、あれもこれもと、どんどん足してしまうと、それが発達ではなく、学習となるのです。 たとえば、よくある話ですが、呼吸を育てたいと、毎日、シャボン玉をするようにした。 最初は、本人がやりたがらなかったけれども、続ける中で、自分で準備するようになり、吹くようにもなった。 それを見て、親御さんは安心し、これを続けていけば、呼吸は育つと思っていた。 しかし、半年経っても、呼吸の発達に変わりは見られなかった。 これは、どうしてかと言いますと、その子が学習してしまったからです。 シャボン玉を用意して吹く、というパターンを覚えたにすぎません。 そうやれば、家族は喜んでくれるし、注意や指示もされないから、とにかくパターンとして行っていただけ。 それでは、発達は生じませんね。 本人の主体性と充足感が得られていない活動ですから。 相談者

【No.1043】その子の認知的スキルから見て、普通級が望ましいか、支援級が望ましいか

「支援級から普通級への転籍」という話は、皆さんの関心が高いように感じます。 この話題に触れると、アクセスは増えますし、相談や質問も多くなります。 もしかしたら、ネット検索でひっかかるワードなのかもしれません。 私のところには、毎年のように上記のような相談、依頼がありますし、実際、転籍をしていくお子さん達がいます。 しかし、だからといって、どの子にも、転籍を勧めているわけではありませんし、その子の状態、学校の様子から、「そのまま、支援級の方が良いのでは」という話をさせてもらうこともあります。 「なんで、他の子には支援するのに」と言われた親御さんもいますし、散々、支援級での学び、環境について、いかに最悪かを言い続ける親御さんもいました。 いくら仕事とはいえ、依頼とはいえ、親の願いとはいえ、お子さんのより良い未来へとつながらないと感じることには同意できません。 私の基本的な考えとしましては、不登校と登校を比べれば、断然、登校できる方が良いと思っていますが、支援級か、普通級か、といえば、その子が伸びるのなら、どちらでも良いと考えています。 普通級に通うのが難しくて、支援級なら通えるし、勉強もできる、というのなら、その子にとっては支援級が望ましい環境だといえます。 また、学校に通えていて、支援級で成長が見られているのなら、無理に転籍する必要はないと思います。 私が転籍、普通級を強くお勧めする場合は、支援級での時間が本人の成長に繋がっていない、また、時間つぶしのような学習内容だというときです。 本人の学力や能力とミスマッチしている時間というのは、非常にもったいないことです。 本来、普通級レベルのお子さんが、診断名がついたという点だけで、支援級への在籍が決定されることがあります。 それまで、普通級で何年も勉強していたのに、診断名が付いた途端、学年の途中からでも、支援級へ席が移されることもあります。 支援級で力をつけていき、普通級でもやっていけるだけの準備が整ったのにも関わらず、「小学校のうちは」「中学校のうちは」とズルズルいくこともしょっちゅうです。 その子が最もよく伸びる、よく学習できる環境を用意するのが学校、親の務めですから、ミスマッチが生じた時点で、環境を変える必要があります。 それがなされないまでの時間は、空白の時間になってしま

【No.1042】普通級転籍には、それなりの『準備』と『交渉』が必要です

北海道は、明日から新学期&登校が始まります。 しかし、首都圏を中心に陽性者が増え続けている地域では、まだ通常登校まで時間を要するとのことです。 このような状況が続くと、日々の生活の中での心身の疲れも心配ですが、いざ、休校が明け、登校が始まったあと、授業に集中できるか、学校に通い続ける体力が続くか、リズムを取り戻せるか、も心配になります。 夏休みのような長期休暇でも、新学期後は乱れる子が多いのに、今回はいろんな制限、また心身のストレスもあると思いますので、学校が再開後、不登校や問題行動、意欲&集中力低下など、様々な面で、あとから子どもへの影響が出てくるように感じます。 休校が伸びた地域の子ども達は、より再開後のことをイメージした生活が望まれます。 たとえ、自分の家が生活を整え、いろんな学習の準備をしてきたとしても、他の家庭は分かりませんので、そういった影響も考慮しながら、我が子の学習の機会を守っていく必要もあるように感じます。 新聞やネットなど、メディアでは、休校が続くことに対する意見や影響が報道されています。 その中で気になるのが、支援級、支援学校に在籍する子ども達に関する記述です。 普通級の場合、学習の遅れや受験などを心配する声、論調が主なのですが、支援級、支援学校に関しては、「生活のリズムが乱れ、親子とも、大変」「変化に対応できず、問題行動が出て困っている」「登校することで、ストレス発散になっている」などの声が目立ちます。 とても驚いたのが、どこかの大学教授の「日中、学校という預かってくれる場所がないと、家庭は疲弊していく」という発言でした。 おいおい、いつから学校は“預かってくれる場所”になったのか。 どうして、普通級の子ども達のように、「彼らの学ぶ機会を」とか、「学習の遅れが心配だ」とか、「進路への影響が」とか、そういった論調、声が出てこないのか。 日頃、アピールするときには使われない言葉が、あらゆるところで見られます(脇が甘い)。 こういった非常時には、本音の部分、繕っていた認識が表に出るのだと思っていたのでした。 実は、この春から、支援級から普通級へ転籍する子ども達が数名いました。 しかし、その中には新学期の始まりが伸びてしまった子達もいて、親子共々、残念に思っているというお話が届いています。 せっかく頑張って

【No.1041】『発達』と『学習』は別もの

欧米ではDVが増え、日本では「コロナ離婚」なる言葉が流行っているようですね。 コロナの影響で、顔を見合わせる時間がグッと増えた家族。 その家族の時間をポジティブに楽しめる家庭もあれば、それがストレスとなる家庭もある。 何故、家族同士でもストレスになるかといえば、相手に「こうしてほしい」「ああしてほしい」などの理想を勝手に抱き、その通りにならないギャップにストレスを感じているのだと思います。 そもそも、家族であったとしても、自分とは別人格なので、最初から何かを期待する方が間違っているといえますが。 もし、自分の期待通りに他者が動くとしたら、それは洗脳に違いありません。 いろんな親御さんと関わっていると、みなさん、我が子に対して大きな期待をよせているのがわかります。 当然、愛する我が子ですから、親として期待するのは当たり前。 でも、その親の期待は必ず裏切られるものです。 親の期待や想像を裏切るような行動をし、成長を見せるから、子は親を超え、自立することができる。 別の言い方をすれば、親のイメージの中で終始している子は、親元を離れての自立は難しいでしょう。 それは、不登校やひきこもりの人達と関わり感じたこと。 そして支援者にとって支援しやすい子がいつまでも自立できず、一方で支援を受けていたとしても、ある時期を境に「No」と言えた子から自立していく姿を見てきて気づいたこと。 期待するのは、自由です。 でも、その子本人とは切り離して考えるべきだと思います。 「ああなってほしい」は、周囲が勝手に思っているだけで、本人には関係ありません。 「自分の期待」と「本人の主体性」の境を曖昧にすると、我が子との生活がストレスになり、子育てが洗脳になります。 「なんで、これができないんだ」 「どうして、課題がクリアされ、育っていかないんだ」 というのは、本人にそのための準備が整っていないだけ。 特に、身体や感覚、ヒトとしての土台となる胎児期から2歳前後の発達にヌケや遅れがあると、何かを教えよう、身に付けさせよう、問題を無くそうとしても、無理な話です。 それこそ、強制し、矯正し、洗脳するしかありません。 いろんな相談を受けていますと、この辺りの認識の違い、曖昧な捉え方が、親御さんの悩みの根っこに繋がっていると感じます。 中でも、これ

【No.1040】子育ての“方向性”

3月は予定していた出張がすべて中止になり、道内の予定も、緊急宣言が出ていましたし、濃厚接触の危険性がありますので、ほとんどを見合わせました。 こういった日々を送っていますと、起業当初を思いだすこともありました。 ちょうど7年前の2013年4月2日から事業を開始したのですが、当時は学生時代から前職までの間で関わりがあった人達からの仕事オンリー。 なかなか新規が増えない時期が続き、もどかしかったときの感情を今でも思いだします。 今回も似たような状況ではありましたが、全然、焦りはなく、むしろ、「この期間に、あれもしたい、これもしたい」という想いばかりで、世が落ち着いたら、今まで以上に頑張ろうという気持ちでみなぎっています。 それは、この期間中も、毎日のように相談があり、また出張の問い合わせや依頼、日々更新するブログへの多くのアクセスがあったからです。 8年前と心持ちが違うのは、このように共感し、応援してくださる皆さまが全国にいるからだと思います。 ですから、「個人事業主、フリーランスは、その人が好き好んでやっているんだから、こんなときだけ補償を求めるなよ」と毒つきながらも、「やるべきことをしていれば、見ててくれる人がいる」という想いでポジティブにいられました。 さて、年度の切り替えの時期である3月4月のご相談、ご依頼は、この1年間の振り返りと次年度、今年度に向けてが中心になります。 特に年長さんになるご家庭は、半年後には就学時健康診断があるわけです。 この時期にしっかり振り返りを行い、就学までの準備を頑張りたい、と思われている親御さんがたくさんいるのがわかります。 一年間の振り返りだけではなく、通常の発達相談でも、「私の方法は合っていますか?」「子育ては間違っていませんか?」という言葉が多く聞かれます。 また、なにかお子さんに課題が出てくると、目に見えるような成長がないと、「私の発達援助の方法は間違っているかも」と心配される親御さんもいます。 しかし、そのような相談や悩みがあったとしても、私はあまりその具体的な方法、やっていることには注目しません。 それよりも、全体的な発達の流れ、お子さんの雰囲気、家族の関係性、空気はどうか、に注目するのです。 基本的に、親御さんが行っている育みを、お子さんが受け入れてくれるのなら、心地良く感

【No.1039】言葉は言葉のみにあらず

前回のブログ 、言葉の発達について綴ったものに対して多くの反響がありました。 感想やさらなるご質問をくださった方達もいらっしゃいました。 それだけ関心があり、同時に悩まれている方も多いのだと感じます。 確かに、運動面や学習面の遅れよりも、インパクトは強いといえます。 進路選択の上で、「就学前までに」という話の流れでしたが、就学までに言葉が出なければ、それ以降の発達も難しいか、といったら、そうではありません。 就学時に、一言もしゃべれなかった子が、今では一般就労して(しかも店内の勤務)働いていますし、ずっと喃語しか出なかった子が、中学生になってから言葉が出るようになった、私の知る限りでは、成人してから単語レベルの言葉が出るようになった、という人もいます。 このように、本人の問題ではなく、教育行政、制度の問題のため、「就学前」とは言っていますが、それ以降も言葉の発達はみられます。 施設で働いていた時も、知的障害の重度、最重度と判定された子が、学年が上がるたびに、言葉が増えてきて、ずっと絵カードでコミュニケーションをとっていたいましたが、それを使わないで、やりとりができるくらいまで成長していきました。 そういった子ども達は、一人二人という特別な話ではなく、重い知的障害を持った子であっても、少しずつ言葉が育っていった子が何人もいました。 ですから、どの子にも言葉の発達の可能性はありますし、その育てる方法は、前回記した通りです。 このように、行政的な視点を取っ払えば、言葉の面でも、生涯育ち続けるし、発達のスピードは人それぞれで何の問題もないはずです。 ただ再三申し上げるように、一つ就学が大きなポイントになっていますし、そこで「言葉がないから重度ね」「普通級は無理だね」と決められてしまい、その後、いくら本人が発達、成長しても、親御さんが頑張っても、「支援級が妥当」「支援学校が妥当」という行政的な判断がついて回り、それを覆すには、相当な労力が必要というのが現状です。 もう少し柔軟に、それこそ、発語原理主義が変わっていかない限り、こういった問題は起き続けていくと思いますが、ただ憂いているだけでは変わっていかないのも事実です。 たぶん、上記でお話ししたような就学後も言葉が育ち続け子ども達、成人後に言葉が出始める人達の存在を多くの人が知らないし、言