【No.1050】「生きる段階」「遊ぶ段階」「学ぶ段階」

新学期が始まり、子ども達の元気な声が戻ってきたのも、つかの間。
そんな生活も2週間ほどで終了し、再び自粛生活が始まりました。
少なくとも今年度は、こういった登校→自粛→登校のような学校生活になるのだと思います。


この緩まった隙(?)に、いろんな相談、仕事がありました。
皆さん、きっとこの機会を待ち構えていたのだと思います。
学校や幼稚園など、「1学期で、こんな取り組みをしよう」「この1年間で、こんな力を身に付けさせよう」といった悠長な教育計画は立てられないでしょうし、保護者もそれを期待するのは難しいと言えます。
となると、今まで以上に、家での過ごし方、生活が問われるわけです。


メディアでは、「学校が休校になり、勉強の遅れが心配」といった声が並びます。
しかし、厳しい言い方をすれば、学校が1ヶ月、2ヶ月、休みになったくらいで、その子の学力に遅れが出るとしたら、そっちの方が問題です。
小学校低学年なら、大人が傍で見守ったり、教えたりしながら学習していく必要がありますが、基本的に自分で学ぶという主体性がないといけませんし、それを育てるのが小学校の間です。
学力を身に付けること以上に、こちらのほうが大事。
自ら学ぶ姿勢が培われている子は、学校があろうがなかろうが、学力が身についていきます。


不登校の子の親御さんの中には、「学校に行けないから学力に遅れがある」と言われる人もいます。
でも、それは間違いで、そもそも自ら学ぶ姿勢が育っていないといえるのです。
その証拠に、学校に行けなくても、家の中でしっかり学力を身につけ、進学、自立していく若者たちがいますので。
確かに、学校に行けていないことは、学ぶ機会の乏しさに繋がりますが、学力に直結する問題ではないのです。
問題の本質は、環境以前に、その子自身。


これは、支援級、支援学校に通う子ども達の話ともつながります。
「支援級では、通常級のレベルを落としたものを、ゆっくりやるだけ」
「そもそも支援学校では、教科学習をしない」
だから、学力が身につかないと言われます。
確かに、学校側の問題もあるでしょう。
しかし、そういった環境の中でも、しっかり学力を身に付けていく子もいるのも確かです。
もちろん、学校で教わる機会が乏しいので、その分、家庭での勉強はやります。
そのポイントは、「やれば身につく」ということです。


学校は公的な制度で成り立っていますし、どんな学校で、どんな先生に教わるかは運次第。
そのような外敵な要因は、個人でコントロールできませんし、する必要もありません。
大事なのは、どんな外的な環境かではなく、どんな内的な環境かということ。
今回のような状況の中で問われているのは、内的な環境、つまり、その子個人の発達段階です。
いくら優秀な教員、学ぶための豊かな環境があったとしても、その子に学ぶ準備ができていなければ、やれば身につくという段階まで育っていなければ、どうすることもできません。


では、その「学ぶ準備が整っている段階」とは、どういう状態のことであり、どうすれば、育てられるのか。
これは、私がアセスメントで使う視点のお話をすれば、わかると思います。
発達相談では、いろんな視点、軸を持って、その人の発達を見るのですが、その中の一つです。


この視点というのは、他の視点と比べて、大きな枠組み、イメージで言えば、一歩引いて俯瞰して見るような感じです。
ちなみに「原始反射は?」「運動発達は?」などが細部を見る視点です。


当然、「学ぶ準備が整っている段階」というのも、発達の流れの一つですので、そこには階層があります。
まずは「生きる段階」があり、次に「遊ぶ段階」があり、そして「学ぶ段階」があります。
私は、その子と対面したとき、この中のどの段階かな、というのを見ますし、それを親御さんにお伝えすることもあります。


「生きる段階」とは、その名の通り、生きていくために必要な発達を遂げている段階です。
呼吸や感覚、運動はもちろんのこと、ちゃんと寝れて、食べれて、排泄できることや、危険を感じたら回避できるなど、この先、長い人生を生き抜くために必要な発達の部分です。
ここが培われていないと、ここに課題が残ったままですと、当然、次の遊びがうまくできませんし、その遊びがうまくできないということは、学ぶ段階まで育っていかないということになります。


「遊ぶ段階」の育ちで確認するのは、自分の身体で遊べるか、自分のイメージの中で遊べるか、他人を意識して遊べるか、他人との関わりの中で遊べるか、他人と協力して遊べるか、などです。
前回の「概念理解」も、この遊びの段階で培われますし、社会的な動物としての土台はここで養っていきます。

このように挙げると、「他人と協働できないけれども、学力優秀な人もいる」という声が聞こえてきそうですが、それは学びを一面的に捉えているのだと思います。
確かに知識を得る、その得た知識で課題を解くのも学力ではありますが、社会性の動物である人間の学び方としては乏しいといえます。
「学ぶ段階」の次は、「自立する段階」です。
自立するためには、問いのない答えを出していく能力が求められます。
そうでなければ、自分の資質を活かしながら、自由に選択して生きる、という生き方ができないからです。


「学ぶ準備が整っている」というのは、しっかり遊び切った子のことを言います。
遊びきれないまま、学校生活に入ると、どうしても伸び悩み、躓きが生じてきます。
それが3年生という概念理解をベースとした学習内容に変わったタイミングで、もろに出てきます。
3年生で躓く子は、学ぶ準備が整えなかった子であり、遊びきれなかった子。
発達相談では、一緒に公園に行ったりして遊んでいる様子を拝見しますが、その子がどんな遊び方をするかで、だいたい将来の学力がわかるものです。


遊ぶことは、学習の土台になりますので、遊びきれるように育てることが重要になります。
ある意味、発達援助という仕事は、遊びきれる段階までに育てることを指すのだといえます。
当然、「生きる段階」である運動や感覚などを育てることは重要ではありますが、目的はそこではなく、やっぱり思いっきり遊べることです。
思いっきり遊びきった子が、しっかり学んでいけて、しっかり学び、身に付けていった子が、社会に飛びだっていく。
学ぶ準備が整えば、あとはその子自身で主体的に、興味があるもの、面白いものを学んでいきますので。


ちょうど、自粛が緩まった期間で行った発達相談では、この段階の話をしました。
確かに、年齢的に言えば、「学ぶ段階」なのですが、だからといって、その段階に必要なことをいくやっても伸びていかないし、子も、親も、幸せにはならない。
今、その子が「遊びの段階」なら、遠回りかもしれないが、遊びきれることを後押ししていく。
ある程度、大きくなったとしても、まだ「生きる段階」にやり残しがあるのなら、そこを援助して育てていく。


どうしても、今の学校システムが年齢基準の横並びですので、「〇年生だから、〇年生の勉強をしなきゃ」「2年生なのに、1年生の問題がわからないから、焦って頑張らなきゃ」となってしまいます。
でも、大事なのは、学ぶ準備が整っているか、そこまで発達段階が来ているか、だと思います。
生きる段階に不安定さがある子は、どうしても学ぶことは難しい。
学んだとしても、本質的な部分まで理解できないと思います。
それは概念理解が伴わないからであり、概念理解がないと、表面的な情報の記憶と利用に留まってしまいますので。


大学を出たのに、支援を受けながら作業所で働く人達の中には、積み残したまま、年齢が成人を迎えた人が少なくないのだと思います。
大人になって、精神的な不安定さが出るのは、「生きる段階」の積み残し。
対人面での不安定さが出るのは、「遊びの段階」の積み残し。
そういった成人の人達の姿から、子どもさんの発達援助を見ると、遠回りが一番の近道になることがわかります。
なんの近道かといえば、その人らしく幸せに生きるための近道ですね。

コメント

このブログの人気の投稿

【No.1358】体軸が育つ前の子と、育った後の子

【No.1364】『療育整体』を読んで

【No.1370】それを対症療法にするか、根本療法にするかは、受け手側の問題