【No.1039】言葉は言葉のみにあらず
前回のブログ、言葉の発達について綴ったものに対して多くの反響がありました。
感想やさらなるご質問をくださった方達もいらっしゃいました。
それだけ関心があり、同時に悩まれている方も多いのだと感じます。
確かに、運動面や学習面の遅れよりも、インパクトは強いといえます。
進路選択の上で、「就学前までに」という話の流れでしたが、就学までに言葉が出なければ、それ以降の発達も難しいか、といったら、そうではありません。
就学時に、一言もしゃべれなかった子が、今では一般就労して(しかも店内の勤務)働いていますし、ずっと喃語しか出なかった子が、中学生になってから言葉が出るようになった、私の知る限りでは、成人してから単語レベルの言葉が出るようになった、という人もいます。
このように、本人の問題ではなく、教育行政、制度の問題のため、「就学前」とは言っていますが、それ以降も言葉の発達はみられます。
施設で働いていた時も、知的障害の重度、最重度と判定された子が、学年が上がるたびに、言葉が増えてきて、ずっと絵カードでコミュニケーションをとっていたいましたが、それを使わないで、やりとりができるくらいまで成長していきました。
そういった子ども達は、一人二人という特別な話ではなく、重い知的障害を持った子であっても、少しずつ言葉が育っていった子が何人もいました。
ですから、どの子にも言葉の発達の可能性はありますし、その育てる方法は、前回記した通りです。
このように、行政的な視点を取っ払えば、言葉の面でも、生涯育ち続けるし、発達のスピードは人それぞれで何の問題もないはずです。
ただ再三申し上げるように、一つ就学が大きなポイントになっていますし、そこで「言葉がないから重度ね」「普通級は無理だね」と決められてしまい、その後、いくら本人が発達、成長しても、親御さんが頑張っても、「支援級が妥当」「支援学校が妥当」という行政的な判断がついて回り、それを覆すには、相当な労力が必要というのが現状です。
もう少し柔軟に、それこそ、発語原理主義が変わっていかない限り、こういった問題は起き続けていくと思いますが、ただ憂いているだけでは変わっていかないのも事実です。
たぶん、上記でお話ししたような就学後も言葉が育ち続け子ども達、成人後に言葉が出始める人達の存在を多くの人が知らないし、言葉があとから出たところで、前例主義の態度が変えられないのだと思います。
これも度々申し上げていますが、発達が遅れること自体は、障害でもなんでもありません。
ただ現時点で遅れているだけ。
目の前にいる子は、障害児ではなく、発達に遅れがある子です。
なので、それこそ、生涯をかけて育っていけばいいのであって、発達がまったく生じない子がいれば、そのとき、初めてその子に「障害」という概念がくっつくのだといえます。
言葉の遅れがあると、今ではすぐに「自閉症」だとか、「言語障害」「知的障害」などと診断名がつきますが、それは「一生伸びない」という意味ではありません。
しかし、その説明が十分になされているとは言えない状況がありますし、「いやいや、障害だから、ずっと変わらない」という具合に、昭和の頭から切り替えられない人々もまだ残っています。
現時点で、「障害の診断基準に当てはまる」というのと、「その後、生涯に渡って診断基準を満たし続ける」というのは、イコールではないわけです。
自閉症も、言語障害も、知的障害も、言うならば、ADHDも、LDも、発達性協調運動障害も、全部、神経発達、ネットワークの表現型の一つです。
便宜上、共通性のある表現型を括って、なんとか障害と言っているだけです。
個別に見れば、同じ障害名、同じ診断基準を満たしたもの同士であっても、神経発達の具合はまったく異なっているわけです。
ですから、その子が、その人が、生涯どのような神経発達を遂げていくか、なんか誰にも分かるはずがないのです。
ただ一つ言えることは、神経発達は生きている限り、生じ続けるということ。
生涯生じ続ける神経発達。
それをサポートし、後押しするのが、支援者、専門家の役目だといえます。
一度付いた診断名で支援を組み立てるのは、ただの前例主義のお役所仕事。
転入出の手続きじゃないのですから、一人の人の人生を右から左に流すようではいけません。
それこそ、生涯発達し続ける、大人になってから言葉が出る人もいる、みたいな正しい知識、前提から作り上げていく必要があるのかもしれません。
それくらい、特別支援の世界は遅れているってことです。
発語がない子が言葉を話すようになれば、過去の診断時とは違った結果になるのは当たり前。
知能検査の値も、ググッと変わるのは奇跡でもなんでもなく、自然なこと。
だって、神経発達は止まらないから。
今まで個別の症状に対する発達の促し方を支援者たちが知らなかっただけで、勝手に個人のせい、障害のせいにされていたのです。
もちろん、神経発達が盛んな時期と、そうではない時期がありますが、ゆっくりでも発達し続けるし、その発達の具合を左右するのは、刺激と環境です。
より良い刺激、そのとき、必要な刺激によって、発達が促されていくのですから、指をくわえてみていないで、前例主義で流れ作業みたいな仕事をしていないで、やれることとやるべきことはたくさんあるわけです。
成人した人に対しても、言葉の発達に繋がるような援助方法をお伝えしています。
当然、諦める理由がないから。
ゆっくりでも育っていけば良いですし、言葉は言葉のみで発達するわけではなく、全体的な発達の上に生じるのですから、結果的にその人の生活がラクになるわけです。
イメージで言えば、言語は認知の表れ。
「ずっとカードでコミュニケーションしてたんだから」
「代替の音声機会を使えば」
「今さら、いくつかの言葉を発せられたとしても」
なんてことは、よく言われます。
でも、言葉は言葉のみにあらずです。
言葉は、いろんな機能、運動、感覚と繋がっているのです。
概念と言葉もリンクします。
ですから私は、「行政的な判断材料となってしまうから」と「その人の全体的な発達に繋がるから」という二つの側面から、どうやれば、言葉の発達が促されるか、より良く後押しできるか、をテーマに追い求めているのです。
単純に言葉が出ればラッキーではなく、その人の生活全般、生活の質の向上と、認知的な向上による本人のラクのために、これからも探求し続けます。
感想やさらなるご質問をくださった方達もいらっしゃいました。
それだけ関心があり、同時に悩まれている方も多いのだと感じます。
確かに、運動面や学習面の遅れよりも、インパクトは強いといえます。
進路選択の上で、「就学前までに」という話の流れでしたが、就学までに言葉が出なければ、それ以降の発達も難しいか、といったら、そうではありません。
就学時に、一言もしゃべれなかった子が、今では一般就労して(しかも店内の勤務)働いていますし、ずっと喃語しか出なかった子が、中学生になってから言葉が出るようになった、私の知る限りでは、成人してから単語レベルの言葉が出るようになった、という人もいます。
このように、本人の問題ではなく、教育行政、制度の問題のため、「就学前」とは言っていますが、それ以降も言葉の発達はみられます。
施設で働いていた時も、知的障害の重度、最重度と判定された子が、学年が上がるたびに、言葉が増えてきて、ずっと絵カードでコミュニケーションをとっていたいましたが、それを使わないで、やりとりができるくらいまで成長していきました。
そういった子ども達は、一人二人という特別な話ではなく、重い知的障害を持った子であっても、少しずつ言葉が育っていった子が何人もいました。
ですから、どの子にも言葉の発達の可能性はありますし、その育てる方法は、前回記した通りです。
このように、行政的な視点を取っ払えば、言葉の面でも、生涯育ち続けるし、発達のスピードは人それぞれで何の問題もないはずです。
ただ再三申し上げるように、一つ就学が大きなポイントになっていますし、そこで「言葉がないから重度ね」「普通級は無理だね」と決められてしまい、その後、いくら本人が発達、成長しても、親御さんが頑張っても、「支援級が妥当」「支援学校が妥当」という行政的な判断がついて回り、それを覆すには、相当な労力が必要というのが現状です。
もう少し柔軟に、それこそ、発語原理主義が変わっていかない限り、こういった問題は起き続けていくと思いますが、ただ憂いているだけでは変わっていかないのも事実です。
たぶん、上記でお話ししたような就学後も言葉が育ち続け子ども達、成人後に言葉が出始める人達の存在を多くの人が知らないし、言葉があとから出たところで、前例主義の態度が変えられないのだと思います。
これも度々申し上げていますが、発達が遅れること自体は、障害でもなんでもありません。
ただ現時点で遅れているだけ。
目の前にいる子は、障害児ではなく、発達に遅れがある子です。
なので、それこそ、生涯をかけて育っていけばいいのであって、発達がまったく生じない子がいれば、そのとき、初めてその子に「障害」という概念がくっつくのだといえます。
言葉の遅れがあると、今ではすぐに「自閉症」だとか、「言語障害」「知的障害」などと診断名がつきますが、それは「一生伸びない」という意味ではありません。
しかし、その説明が十分になされているとは言えない状況がありますし、「いやいや、障害だから、ずっと変わらない」という具合に、昭和の頭から切り替えられない人々もまだ残っています。
現時点で、「障害の診断基準に当てはまる」というのと、「その後、生涯に渡って診断基準を満たし続ける」というのは、イコールではないわけです。
自閉症も、言語障害も、知的障害も、言うならば、ADHDも、LDも、発達性協調運動障害も、全部、神経発達、ネットワークの表現型の一つです。
便宜上、共通性のある表現型を括って、なんとか障害と言っているだけです。
個別に見れば、同じ障害名、同じ診断基準を満たしたもの同士であっても、神経発達の具合はまったく異なっているわけです。
ですから、その子が、その人が、生涯どのような神経発達を遂げていくか、なんか誰にも分かるはずがないのです。
ただ一つ言えることは、神経発達は生きている限り、生じ続けるということ。
生涯生じ続ける神経発達。
それをサポートし、後押しするのが、支援者、専門家の役目だといえます。
一度付いた診断名で支援を組み立てるのは、ただの前例主義のお役所仕事。
転入出の手続きじゃないのですから、一人の人の人生を右から左に流すようではいけません。
それこそ、生涯発達し続ける、大人になってから言葉が出る人もいる、みたいな正しい知識、前提から作り上げていく必要があるのかもしれません。
それくらい、特別支援の世界は遅れているってことです。
発語がない子が言葉を話すようになれば、過去の診断時とは違った結果になるのは当たり前。
知能検査の値も、ググッと変わるのは奇跡でもなんでもなく、自然なこと。
だって、神経発達は止まらないから。
今まで個別の症状に対する発達の促し方を支援者たちが知らなかっただけで、勝手に個人のせい、障害のせいにされていたのです。
もちろん、神経発達が盛んな時期と、そうではない時期がありますが、ゆっくりでも発達し続けるし、その発達の具合を左右するのは、刺激と環境です。
より良い刺激、そのとき、必要な刺激によって、発達が促されていくのですから、指をくわえてみていないで、前例主義で流れ作業みたいな仕事をしていないで、やれることとやるべきことはたくさんあるわけです。
成人した人に対しても、言葉の発達に繋がるような援助方法をお伝えしています。
当然、諦める理由がないから。
ゆっくりでも育っていけば良いですし、言葉は言葉のみで発達するわけではなく、全体的な発達の上に生じるのですから、結果的にその人の生活がラクになるわけです。
イメージで言えば、言語は認知の表れ。
「ずっとカードでコミュニケーションしてたんだから」
「代替の音声機会を使えば」
「今さら、いくつかの言葉を発せられたとしても」
なんてことは、よく言われます。
でも、言葉は言葉のみにあらずです。
言葉は、いろんな機能、運動、感覚と繋がっているのです。
概念と言葉もリンクします。
ですから私は、「行政的な判断材料となってしまうから」と「その人の全体的な発達に繋がるから」という二つの側面から、どうやれば、言葉の発達が促されるか、より良く後押しできるか、をテーマに追い求めているのです。
単純に言葉が出ればラッキーではなく、その人の生活全般、生活の質の向上と、認知的な向上による本人のラクのために、これからも探求し続けます。
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