【No.1044】学習は伸びる、発達はやりきる。学習は足して、発達は引く

休校、休園の期間が続くと、どうしても“足したく”なります。
本来なら、新学期も始まり、勉強している時間ですが、その時間をまるまる家庭で過ごすことになる。
当然、ボーとしていれば、それだけで時間は過ぎてしまうわけで、なにか目標を立ててチャレンジした子や、コツコツと自学自習に励んだ子とでは、大きな差ができるのは当然だと言えます。
そんなの親なら百も承知ですから、せっせと「何かできないか」「この時間を有効に使えないか」と考えるわけです。


そうなると、私のところに来る相談も、「なにかできることはないでしょうか?」という内容が増えてきます。
最初の頃は、自粛モードでしたが、徐々にというか、急激的に増えてきました。
やっぱり親心としては、なにかできることを足したくなる。


教科学習や身の回りのこと、新しい運動や遊びなどは、やれることをどんどんやった方が良いと思います。
こういった『学習』とは、やったらやっただけ身につくものですから。
教え方云々の話もありますが、基本的に時間や回数に比例して伸びていくのが、学習だといえます。


しかし、同じように『発達』に関しても、どんどんあれもこれもと足していこうとすると、それは却って発達の妨げになるといえます。
発達とは、与えられるものではなく、本人が満たし、伸ばしていくもの。
時間や回数以上に、本人の主体性と充足感が、その発達具合と関わっていると思います。


ですから、あれもこれもと、どんどん足してしまうと、それが発達ではなく、学習となるのです。
たとえば、よくある話ですが、呼吸を育てたいと、毎日、シャボン玉をするようにした。
最初は、本人がやりたがらなかったけれども、続ける中で、自分で準備するようになり、吹くようにもなった。
それを見て、親御さんは安心し、これを続けていけば、呼吸は育つと思っていた。
しかし、半年経っても、呼吸の発達に変わりは見られなかった。


これは、どうしてかと言いますと、その子が学習してしまったからです。
シャボン玉を用意して吹く、というパターンを覚えたにすぎません。
そうやれば、家族は喜んでくれるし、注意や指示もされないから、とにかくパターンとして行っていただけ。
それでは、発達は生じませんね。
本人の主体性と充足感が得られていない活動ですから。


相談者の中には、いろんなことを勉強され、日々の生活の中に取り入れているご家庭があります。
しかし、そういった取り組みの数と時間が、本人の発達と比例していかないケースが少なくありません。
親御さんの気持ちとしては、できるだけたくさん、なんでもやってあげたい、というのは自然だといえるのですが、根本的である「発達」と「学習」の違いがわかっていなければ、このような足して、足して、足して、みたいな取り組みになり、結果として学習ばかりが進み、発達が滞るということがあります。


特に、子どもさんなら、脳みそが柔らかいので、どんどん学習していきます。
大人だと何日もかかるようなことでも、1日、2日で、覚えたり、できたりすることも珍しくありません。
ということは、脳的に言えば、子どもの脳は新しい刺激に対して、素早く対応するという特徴を持っているのです。
ただ、ここで注意しなければならないのは、「本人の持ち札で学習する」ということ。
別の言い方をすれば、その子の今の発達状態によって、どのように学習するかが変わってくるということです。


先ほどのシャボン玉の例で言いますと、シャボン玉自体は、呼吸を育てる遊びではありますが、それを最初、やりたがらないということは、それ以前に、何らかの発達のヌケ、未発達があるといえます。
もしかしたら、舌の動きかもしれませんし、口をすぼめる筋肉の動きかもしれませんし、口周辺や内側の感覚の未発達があるのかもしれません。
こういったなんらかの未発達があり、シャボン玉を吹くだけの発達が整っていない状態ですと、子どもさんは、なんちゃってでシャボン玉を吹こうとします。
本当に育てたい動きではなく、形だけで吹いちゃう感じです。
多分、それは自分の親御さんが納得する形で、自分も、周りも、だましだましでやってしまう。
そうなると、本来、求めていた発達ではなく、一つの形を覚えたという学習に変わっちゃうのです。


私達の仕事で重要なのは、この発達状態を見抜くことです。
その子の発達をしっかり確認し、発達相談、援助を行いませんと、ただできることが増えただけで、発達の課題という根っこが埋まらないまま、過ぎてしまいます。
そのできることの多くが、型を覚えただけ、パターン学習となりますので、応用ができなく、実践と自立へつながらないのは、とても勿体ないことです。
本人の持ち札が足りない状態で、レベル以上のものを与えると、また与えすぎると、どんどん本質的な理解を伴わない学習が進んでしまうのです。


ある親御さんが、休校で時間ができたから、子ども達と遠い自然の中まで出掛けて、思い思いの時間を過ごしている、とおっしゃっていました。
上の子は、植物や虫を捕まえて遊び、下の子は、草の上をコロコロ転がって遊んでいる。
そういったお話を聞いて、まさに発達の原型だと感じました。
発達とは、“引き算”です。


胎児期から言葉を獲得する前の発達の中に、課題がある子ども達。
ヒトとして、動物としての発達をやり遂げることが、発達障害を根本から育て、治すということです。
そうだとすれば、その時期の発達を促そうと思えば、より自然に近い環境の中に身を置く必要があります。
私達の社会、生活は、人間のための環境です。
ですから、どうしても、人間が過ごしやすいように、そこで育ちやすいようになっています。
しかし、その人間のための環境とは、胎児期から言葉を獲得する前の発達を中心に考えられたものではありません。
教育テレビも、絵本も、おもちゃも、全部、人間としてより良く学習するための道具です。
なので、そういったものを引いていくことが、大事なのです。


いろんな取り組みをしているけれども、それが本人の発達と繋がっていかないご家庭には、一度、フリーの状態を作ることを提案しています。
結構、良かれと思ってやっていたことが、ただの日課となり、いつしか親子共々やらねばならないこととなっている場合があります。
休校中、兄弟で自然の中にいったとき、二人とも思い思いの遊びをし始めた。
そういった指示や学習の要素がない環境に身を置きますと、子どもは心地良く退行を始めるものです。


基本的に、本人が行う退行、名も無い遊びが、そのとき、一番欲している発達刺激になります。
「子どもは、自分で自分を育てる」「自分に必要な発達を知っている」という意味は、こういうことです。
ですから、本来、発達援助とは、この名も無い遊びを出発点として、どのようにバリエーションをつけれるか、より良く心地良さを感じてもらうか、やり切れるまでのサポートをするか、ということです。
決して、周囲が育てたいところを育てる、という意味ではありません。
それだと、本人の発達状態、欲しているものと不一致が生じ、ただその場をやり過ごすだけのパターン学習が横行してしまいます。


技能にしろ、教科にしろ、身の回りのことにしろ、学習に関しては、どんどんやった方が伸びていきます。
一方で、発達に関しては、本人が今、欲しているものを絞ることが、発達課題をやりきることに繋がります。
学習は“伸びる”、発達は“やりきる”。
学習は“足して”、発達は“引く”。
こういったニュアンスがわかるようになると、焦らず、今は学習面をサポートしているのか、すべきなのか、発達面をサポートしているのか、すべきなのかが感じられ、落ち着いて子育てができると思います。


「療育を一旦、全部やめました」というご家庭で、子どもさんがググッと伸び始めるのは、こういった理由からです。
今の療育は、名ばかりの発達で、その多くは、支援しやすい子になるための学習教室です。
プログラムやカリキュラム、目標がある時点で、それは発達ではなく、学習。
支援しやすい型を早期から覚えさせられた子は、発達のヌケを埋める機会を失い、結局は、自立から遠のいていくばかりですね。
決められた環境の中では、心地良い退行が生じませんので。

コメント

このブログの人気の投稿

【No.1358】体軸が育つ前の子と、育った後の子

【No.1364】『療育整体』を読んで

【No.1370】それを対症療法にするか、根本療法にするかは、受け手側の問題