【No.1054】不確実な未来の中にある確実なもの

視覚的な支援の中の「スケジュール」とは、見通しが持てない人が見通しを持てるようにするためのツールだと言われています。
つまり、これは平時の道具だといえます。
今のように誰もが見通しのもてない時期に、見通しが持てないことを視覚的に表しても結果は同じです。


もし強引にも見通しを持たせようとするのなら、そのスケジュールの内容はとても乏しいものとなるでしょう。
「朝ご飯を食べる」「テレビを観る」「お昼ご飯を食べる」「音楽を聴く」「夕食を食べる」「お風呂に入る」「寝る」
見通しが立たず、社会生活の中にいろんな制限がある今、確実な予定を提示しようとするのなら、こういった内容しか出てきません。


様々な場所から聞こえてくる話の中に「コロナの影響で日常的な活動ができずに大きなストレスを感じている自閉症の人達」ということがあります。
これは国内だけではなく、アメリカなどでも、同様の状況、人たちがいると聞きます。
こういった制限のある状況では、定型・自閉症に限らず、どの人もストレスを感じるものです。
でも、自閉症の関係者、支援機関は、それが自閉症の特性であるかの如く訴えます。
そしてこの期に及んでも、視覚的な支援ツール、支援・援助・理解を求めているのです。


そもそも視覚支援とは、確実性の上に成り立っているものです。
つまり平時の支援であり、非常時の支援ではありません。
東日本大震災のときも、避難所で「個人のスペースが」「パーテンションが」「スケジュールが」という話がありました。
本来「支援を求める行為」とは、本人が困ったとき、困っているからこそ、求め受けるものではないでしょうか。


平時のとき、決まり切ったスケジュール・予定を視覚的に提示することの意義はどういうことでしょう。
本人がやりたいことをただ視覚的に示すこと。
周囲の人間がやらせたいことを視覚的に示し、やらせたくないことを示さないこと。
そういった支援が、どのように本人たちの困ったに応えているといえるのでしょうか。
本人が困ったとき、助けを求めたいときにこそ、その支援の進化と日頃の積み重ねが現れるのです。


「スケジュールで予定を視覚的に示したのに、この子は落ち着かない」というケースは以前から多く見られていたことです。
それは当然です。
本人がやりたいことが提示されなければ、やりたくないことが提示されれば、不安定になります。
だって、理解と感情は別問題だから。
「日課で買い物に行く〇〇というお店に行けない」「電車に乗って、遊園地に行って、アイスを食べるのが週末の楽しみだったのに、それができない」というのが現在。
だからこそ、「荒れて困る」という話があります。
でもそれは視覚支援のやり方云々とか、自閉症の人の"同一性保持"という特性とかではないと思います。


一言で言えば、日頃の積み重ねが出ているまでです。
非常時を想定して、望みが叶わないことを体験させたり、日課・活動がパターン化しないような工夫やバリエーションを広げる育みは行っていたでしょうか。
どうも見ていると、自閉症の人の「同一性保持」という言葉を盾に、周囲にいる人間が大事なことを教える手間を省いていたのではないかと思えることが多々あります。
日課のパターン化は非常に危険です。
非常時に、私達が感じている以上のストレスを人為的に与えることに繋がるから。


現在のような非常時に不安定になる人達の中には、この日課のパターン化ゆえに過度なストレスを感じてしまっている人が少なくありません。
今こそ、支援を求めているときなのに、その力になれない支援の数々。
この機会に「今、支援者は何をしているか」「今の私達に何をしてくれていたか」をしっかり見て記憶しておくことが重要だと思います。
それが非常時から平時に戻ったとき、自分に・我が子に本当に必要な支援と人を明らかにしてくれるから。


現在の状況の中で「不確実な未来の中にある確実なもの」ということを考えながら、仕事・生活・人生を私は見つめなおしています。
特別支援の世界でいえば、児童デイ・通所・入所施設など、直接関わる人が減るのは確実です。
それでいてAI化も難しい仕事。
つまり非常時はもちろんのこと、平時になったとしても支援の手ができるだけ少なくても生きていけるようにしておくことが必要です。
ということは、育てられるところは一つでも多く育てておく、発達させておく、たとえ時間がかかったとしても。
障害の程度に関わらず、どの子も将来的な自立を目指し学び、私達は子育てと援助をしていく。


今回のテーマで言えば、平成の支援・療育からの脱却も必要です。
もともとは知的障害のある自閉症の人を想定した支援の数々でした。
それを「高機能」という概念ができたばっかりに、そういった人達までをも支援の枠組みの中に入れようとしたばっかりに、一度「自閉症」と付けば、どんな子かは問わずに従来の支援に押し込めていく。
知的障害のある自閉症を想定していたから、官僚言葉のような「支援を受けながら自立」という意味不明な目標が出てくるのです。


非常時こそ、本人たちが困っているときこそ、それに応えられる仕事・支援・援助を。
それが私の出した結論です。
平時のやってもやらなくても変わらない仕事・支援・援助などに興味はありませんし、そういうのに時間を割いているほど人生は長くないと感じます。
明日がわからないからこそ、確実なものにエネルギーを注いでいくのです。


コロナ後の世界で、どんな学力・仕事・生活が求められ、消えていくかはわかりません。
しかし生きている限り確実なものがあります。
それは自分の身体という存在。
身体を整え、発達という土台をしっかり培っておく。
そこができていれば、時代に翻弄されることなく、非日常がやってこようとも、自分の人生を生き抜くことができる。
その原理原則は、700万年の人類の歴史の中で変わらぬこと。
平時に非常時を想定し準備する者が命を全うできる者。
そういった視点で世の中を問うと、見えてくるものがある。
小手先の支援ではなく、地に足のついた育ちです。

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