【No.1051】いろんなものが淘汰されていく真っ只中

講演会や研修会などのテーマには、「最新研究」「最新の情報」といった文言が入ることが多くあります。
若い頃の私は、「少しでも新しい情報を」と思い、こういった講演会に足を運んだものです。
しかし、どの講演会でも、"最新"の情報は冒頭の少しくらいなもんで、あとは例年通り、本やネットで出てくる情報ばかり。
結局のところ、その講演者や主催者、組織の"押し"を広めるためのものだと分かったのは、20代後半になってからでした。


今は世界的に、どの人間も、"ヒト"モードになっています。
大なり小なり、命の危機を感じる時期ですので、「生きるか死ぬか」に意識、無意識が向いているといえます。
ですから、「生きるか死ぬか」という軸で、いろんなものが淘汰されていく真っ只中にいるのだと思います。
歴史を振り返ると、こういった出来事のあとには、まったく新しい価値観、文化、システムが生まれているのがわかります。
「早く、もとの生活に戻りたい」などと言う人が時々いますが、もう2019年の頃のような生活がやってくることはないでしょう。


今、世の中は、新型コロナの話ばかりですが、北朝鮮はミサイルを飛ばすし、中国船も日本の領海にやってきています。
地球環境の問題もありますし、ついこないだまで働き方改革だ、ジェンダーだ、マイノリティーだ、と言われていました。
でも、今はほとんど、そういった話題にならないし、解決に向けた動きがみられません。
ということは、根本的な「生きるか死ぬか」とは関わりのない話題だったんだといえます。


今年は建物を青くしたのかどうかもわからないまま、4月2日が過ぎていきました。
今までは、ずっと「啓発が大事」「理解が大事」と主張されていましたが、意気込んでいろんなところから寄付を募っていましたが、あってもなくても変わらないことが証明されてしまいました。
本当に必要なもので、当事者、家族を救うものであったとしたら、どんな状況でも、むしろ、今のような不安を感じるときのほうが、その意義が明確に現れるのだと思います。


もう十年以上前ですが、それこそ、20代の頃に行っていた講演会、研修会の主催者から、「開催中止のお知らせ」がメールで届きます。
どのメールにも、「誠に残念ですが…」と書かれていますが、残念に思っているのは、主催者だけじゃないの、と思ってしまいます。
そもそも、ほとんどの講演会、研修会に、わざわざ足を運んで参加するだけの価値があったのでしょうか。
新型コロナのせいにしていますが、コロナのおかげで、より早く淘汰されただけのように、私は感じます。


収束から終息まで、まだまだ年単位でかかるのは明らかです。
この1年、2年の間で、様々なものが淘汰されていくでしょう。
2020年前に必要だったものが、2022年には必要じゃなくなっている。
自然淘汰で消えていくものが、新型コロナによって、一気に片づけられてしまうといった感じでしょうか。


特別支援の世界で言えば、今までの「生涯に渡る支援」が淘汰されると思います。
今回の件で、人と人が関わり続けることのリスク、施設等の集団で生活することのリスクが、多くの人間に刷り込まれるからです。
こういったリスクの最前線に立ち続けないといかない現場の職員だって、この仕事を避けていくでしょう。
そもそも、介護、支援、福祉の世界は人が集まらなかったのですから、終息後は施設運営が成り立たないくらい人材不足になるのは明らかです。
あちこちの福祉施設、事業所が撤退、潰れていくはずです。


また親御さんの意識の中にも、「この子に生きる力を」「サバイバルできる力を」「自立して生きていける力を」という想いが強くなると思います。
2000年以降、上辺の支援、みんなが行っているから療育&児童デイが氾濫していましたが、現在、定期的に行かなくても、本人の生活、発達にはなんの関係もないのが分かった家庭は少なくないと想像します。
別に療育に行かなくても、家庭の取り組みの中で子は育つし、児童デイに行かなくても、家で学ぶことはできる。
結局、親の安心のための療育であり、親のレスパイトのための児童デイだったのです。
この「生きるか死ぬか」という雰囲気の中で、どうしても通わなければならないくらいの場所だといえるのでしょうか。


新型コロナに関しては、いろんな情報や専門家の発言が出ていますが、どれも正しいかどうかはわかりません。
だって、人類が遭遇していない新型なのですから。
当初言われていた「若者は重症化しない」というのも、海外で重症化し、亡くなった若者が出ましたし、「基礎疾患が」というのも、同様に重症化、亡くなる人が出ました。
「免疫ができる」というのも、本当にできるのかわかりませんし、既に「武漢型」「欧米型」などの型の変化が出ていますので、一度かかったから大丈夫、とも言えません。
つまるところ、どれも「n=1」で考えるしかないのです。
基礎疾患のない元気な若者も、自分が罹って死ねば終わり。


頭ばかりが肥大化した人類が、ヒトに戻る機会なのかもしれないと、私は思うようになりました。
スマホでいくら情報を手に入れようとも、新型コロナのリスクをゼロにすることはできません。
どんなにテクノロジーを駆使しても、結局は、自分の身体で対処するしかないのです。
危険を察知し、そこを避ける。
それは頭ではなく、感覚が担う部分です。
そういった意味で、身体や感覚、運動などの「生きる段階」に発達のヌケや遅れがあることがリスクとなります。


今までの療育や支援などが、いかに、この「生きる段階」に直結したものでなかったか、上辺だけの、それこそ肥大化した脳を喜ばせるためのものであったのか、それがはっきりしたと思います。
ずっと、「支援を受けながらの自立」などと、この短文の中ですら、論理が破綻していることを言い続けてきたギョーカイ。
自立とは、その字が表すように、自らの足で立つことであり、それを育てるのが真に支援するということ。
今まで、その人を支援したわけではなく、支援している姿を見せることで、親を、社会を安心させようとしていただけです。
だから、「生きるか死ぬか」という状況になったとき、お呼びがかからないのです、中止になっても、なにがどうということはないのです。


授業や講義、会議や式が、どんどんオンライン化されていきました。
既にその流れはありましたが、これまた一気に、情報伝達と共有の価値が限りなくゼロに近づいていったといえます。
情報の価値=(ほぼ)ゼロです。
なので、「欧米からの最新の情報」などといった講演会の価値もゼロ。
私が綴っているような「どんな視点でアセスメントするか」「どこを育てれば良いか」「何と何が発達的につながっているか」などの情報も、価値はゼロ。
調べれば出てくる情報、どこかに載っている情報も、価値はゼロ。
情報を切り売りするだけの仕事は、淘汰されていくといえます。


では、特別支援の世界で、どんな仕事が残っていくのか。
肥大化した脳から、ヒトへの揺り戻しが起きる。
ですから、情報と身体をつなぐ仕事が必要になるといえます。
多くの相談で、「発達の順やポイント、育て方はわかったんだけれども、目の前の我が子に、どのように当てはめれば良いか、どんな方法がベストかがわからない」と言われます。
それは無理もない話です。
今までの私達は、脳を肥大化させることばかりに熱中したのですから。


そんな中で、親になり、子どもに発達の遅れが見られる。
この子ども達は、主に胎児期から2歳前後という「生きる段階」「生きるための土台」に課題がある。
今まで、誰も気に留めることなく、ほとんどの子ども達は自然にクリアしていた段階に、です。
なので、親御さんは混乱し、脳と身体を結びつけることに苦労される。
だからこそ、親御さんの身体、動き、感覚を総動員するような援助が求められていくのだと思います。


2022年以降、その子の「生きる段階」の発達に手が出せない支援者は消えていくでしょう。
上辺だけの支援、とにかく支援ありき、人ありきの支援、情報の切り売りの専門家、理想論だけを語るような人達も。
情報で満足する時代は終了です。
対人職は、情報以外のところで勝負できなければなりません。
誰でも、調べればわかるようなことに、お金は出さないし、リスクも犯さない。


この2年間で、私の実力、価値も、明らかになると思います。
警戒状況も、弛緩を繰り返すはずです。
波が高くなり、低くなり、徐々にそのふり幅が小さくなって、収束から終息に向かうでしょう。
その波が低くなったとき、弛んだとき、私の仕事が求められるか否か。
人類平等に「生きるか死ぬか」の状況で必要とされるのは、生き抜くための援助ができる人と仕事。
その審判が下る未来を、私は今から楽しみにしています。




コメント

  1. ズーンと響きました。
    何度か考えたことがあり、何度か実感したことのある内容ではありましたが、こんなにハッキリと言語化されると腹が据わりますね。
    性格が悪くても命を救える医者を選ぶ、という話を話題にしたことがありますが、確かにそうですよね。
    結果を出すということの重要性は、現実を捉える証だからですもんね。
    改めて、心して子どもたちと対峙する気持ちになりました。
    ありがとうございました。

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    1. コメント頂き、ありがとうございました!
      短い文章の中にも、「どのように子どもさん達と対峙されているのか」が見えてくるような感じがしました。
      優しいお人柄の中に、強さを感じます。

      私は、学校教育の変化に期待してます。
      現在、オンラインでの授業、講義がなされていますが、これで十分、子ども達の学力は養っていけると思います。
      では、なぜ、学校に行くのか、直接、先生と生徒が向き合い、学ぶのか。
      そういった問いに答えるための変化が生じるのだと思います。

      私の子ども時代から振り返りますと、学校=学力だったような気がします。
      ですから、支援級、支援学校の学びに対する曖昧さが、不安定さがずっと続いていた。
      「個人が学ぶ」ということ、「集団で学ぶ」ということ、「先生と学び合う」ということ。
      それが、その子の生きる力へ、どう作用するのか、教師&大人が子ども達に示していけるか。

      情報伝達、情報共有だけの学校、教師は、存在意義を失っていくのだと思います。
      学校教育の中に、本物の「育て育む」が現れ、同時に、そういったことのできる先生が求められる。
      ただ決められた内容、カリキュラム、指導要領をこなしていく学校教育は終焉を迎えるはずです。
      私は、ポジティブな変化を期待していますし、学校教育を信じてます。

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