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『発達障害でも働けますか?』を読んで

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就職に関する相談では、ほとんどの方が「発達障害、アスペでも働けますか?」「コミュニケーションが苦手なんですけど、働けますか?」というようなことをおっしゃいます。 中には「まだ一回も働いたことがないのですが、働けますか?」という相談もあります。 さらに、こういった言動は、本人からだけではなく、一緒に相談に来られた親御さんからも聞かれるのです。 こういった発言が、本人、親御さんから多くあるというのは、それだけ否定されることが多かったのだと想像します。 「発達障害があれば、一般就労は無理」 「自閉症は、コミュニケーション力が求められる仕事はできない」 「一般就労で無理すると、二次障害になる」 「働くことだけが人生じゃない」 社会に出ようとすると、急に“ないない”だらけの支援になる。 学校を卒業するまでの間は、本人ができるように、本人が失敗しないように、支援という名の接待のもとで、やれること、やりたいことをやり、一方でやれないこと、やりたくないことは「やらなくていい」と言われたり、やる機会さえ貰えなかったりした。 ですから、一般の人が就職活動する以上に、仕事、働くこと、社会が怖く見えてしまう。 経験、体験していないことを想像するのが苦手。 そのため、どうしても近しい人の情報をそのまま受け取り、偏ったイメージを持ちやすい。 だからこそ、「発達障害でも働けますか?」というような相談を受けると、近しい人から「発達障害を持つ人は働くのが難しい」と言われたのだと思います。 支援ミーティングなどに参加すると、学校の先生や相談員、カウンセラーなどの人達から、「その仕事は難しい」「一般就労は無理だろう」などという発言が聞かれます。 本人が一般就労を希望しているのに、採用試験すら受けさせるのを止めさせようなんてザラです。 一般就労できるかどうか、は先生や医師、支援者、専門家が決めることではありません。 採用を決めるのは、その企業の人。 こういった専門性を謳った非常識なやり取りが、今日もどこかでなされているのでしょう。 支援者の中には、福祉的就労に持っていくことで評価を得たり、次年度の運営費を得られたりするために、一般就労を阻む人達もいるのは確かです。 でも、ほとんどの支援者、学校の先生たちは、良かれと思って、一般就労を止めているよう

分をわきまえる

事業を始めて、一年、二年が経つと、徐々に仕事が増え、相談メールも届くようになりました。 短い文面、限られた情報から、いかに的確に返事ができるか、アドバイスができるか。 そういったことを意識しながら、せっせと返事を書いていました。 私が返信すると、すぐにまたメールを送ってくださる方がほとんどでした。 援助、子育ては、その子どもに合わせて作り上げていくものですので、そういったやりとりが生まれるのは自然なことだといえます。 ですから、私はなんの違和感を持つことなく、メールが返ってくるたびに、また連想したことを書き、返信していました。 しかし、あるとき、私のやり方は間違っていたと思うことがありました。 度々、メールが来る人の相談内容が変化したのです、同時期にやりとりしていた方達、皆さんに共通して。 一言で言えば、最初は「〇〇に困っています。アドバイスを」という内容から、「次はどうしたらいいのですか?」「どこに発達のヌケ、未発達がありますか?」という内容に変わったのです。 メールの文面から伝わってくる雰囲気に“寄りかかり”を感じたので、私は大いに反省したのでした。 限られた情報から的確なアドバイス、見立てを行う。 そんなことに意識が向いていたため、いつしか私は、その正答率に心を奪われるようになっていました。 ですから、当然、アドバイス、見立ての内容が、具体的なものになります。 具体的になればなるほど、受け手の思考、考え、工夫の入る余地はなくなっていき、自然と指示する者と指示される者という関係性が出来上がってしまうのです。 メールがたくさん届くのは、私に腕があるからではなく、本人や家族の力を引き出せずにいた自分の至らなさが招いた負の結果だと、そのとき、気づいたのです。 そこから、改めて自分の仕事を見直しました。 メールの文面に、本人や親御さんの想像力、発達する力をかきたてるような想いを乗せるように心がけました。 実際に対面で行う相談、発達援助も、基本的に一発勝負ということにし、自らで考え、試行錯誤していけるような、「流れ」「続いていく」というイメージを持って関わるようにしました。 「後方支援」「後押し」という言葉が、今、自分の仕事にしっくりきています。 私がいくら一生懸命アドバイスしようとも、いくら一生懸命関わろうとも、

個性、異物、ヌケ

個人的なお付き合いは、なるべく控えるようにしています。 支援者とは、親族でなければ、友だちでもない赤の他人です。 その赤の他人が、家族の思い出の中に残ってしまうのは、違和感としか言いようがありません。 発達の主体は、子どもさん本人であり、それを後押しするのは家庭であり、家族です。 あくまで支援者は、本人や家族の発達する力を引き出すのが役目。 支援者の「やってあげた感」「やってもらった感」が残るようなサポートの仕方は、その場しのぎになってしまいますので、長い目で見れば、結果的に支援者との関わりがマイナスになることもあるように感じます。 基本的には、「便りがないことのは良い便り」のスタンスです。 家庭での試行錯誤の姿が連想されるので。 「支援者が答えを持っているのではなく、試行錯誤を通して答え合わせしていく」 子どもがより良く成長し、自分の人生を豊かに生きらているのなら、それが正解です。 その子が幸せなら、どんな道を辿ろうとも、誰が何を言おうとも、それで良いのです。 一年以上前に関わったご家庭から久しぶりに連絡がありました。 「今、問題なく、学校に通えています」「感覚の過敏さも、怖がりも、全部治りました」と。 その様子を教えていただいただけで満足だったのですが、どうしても本人が成長した自分、治った自分を見せたい、ということでお会いすることになったのでした。 初めてお会いしたときは、感覚面の過敏さを持っていましたし、姿勢の保持も難しい状態でした。 そして何よりも、強い不安、世の中に対する言い表せないような怖さを持っていました。 授業中はノートをとることができず、一斉指示も半分ぐらいは理解できず…。 おとなしい性格、説明する力が弱かったことも加わり、度々、人との間でトラブルが生じ、学校から呼び出しが続いていたのでした。 学校からは、「発達障害かもしれない」「早く診断を」と言われ、診断を受けたあとは、「薬は飲まないんですか」と再三のアプローチ。 医師からは、「この子は普通級の子じゃない」「相当、しんどいはず」「無理してはいけません」と、別室対応と、ノートが取れなくても、授業に参加できなくても、指摘&頑張らせるはダメで、とにかく褒めましょう、という提案(?)。 学校が医療面の指示を出し、医師が学校のカリキュラムに指示を出す

発達段階に応じた親子の位置

自閉症や発達障害の子どもさんの中には、まるで「霧の中にいるみたい」というような雰囲気の子もいます。 同じ空間に居るんだけれども、私達のことが見えていないような。 他に子ども達が一緒に遊んでいるんだけれども、一人で黙々と遊んでいるような。 見ているようで見ていない。 聞いているようで聞いていない。 そんな様子から、その子の周りに霧がかかっているような印象を受けます。 目が見えないわけでも、耳が聞こえないわけでもない。 それに興味がある言葉や物があれば、自ら注意を向けることができる。 となると、「人に意識を向けさせよう」という想いが出てきます。 声がけしたり、身体を触ったりして、まずは自分の方に意識を向けてもらおうとする。 そんなとき、自然と子どもの正面に、自分の身体があると思います。 ドラマでもそうですし、実際の療育場面、家庭生活でも、子どもさんの前に立って、何度も名前を呼んだり、肩をゆすったりする姿を見かけます。 相手の正面に位置することが、一番視界に入りやすいという考えもあるでしょうし、「話をするときは正面で」という沁み込んだ教えもあると思います。 でも、子どもは、正面に立った相手のことを見ようとしない。 遊んでいる最中などは、そんな相手をどかそうとすることすらある。 それを見て、親御さんは悲しみ、支援者は更なる促しを展開していく。 結論から言えば、無理やり霧の中から出そうとしてもダメ。 霧の中にいたとしても、まったく周囲の状況が分からないわけではありません。 ですから、霧の外が「怖いもの」だというイメージを植え付けることにもなりかねないのです。 過去に強い促しを受けてきた子どもさん、若者は、周囲の状況がはっきりわかるようになったあとでも、環境や人に対する不安を抱えていることがあります。 良かれと思った行為が、心の傷として残り続けることも。 やはり大事なのは、未発達の部分、発達のヌケを育てていくこと。 まだ周囲の状況、環境、情報を自然とキャッチできない状態ですので、それらがラクに捉えられるようになるくらいまで、身体、感覚を育てていく必要があります。 イメージとしては、空間の一部であった自分を切り離していく感じ。 未発達やヌケが育つと、自分という存在がはっきりしてきて、環境との位置取りがうまくできるよう

共感も、発達の一つ

面談の際、家族みんなが同じタイミングで頷いたり、笑ったりする様子を見ると、私は安心します。 何故なら、家族団らんを連想するから。 テーブルを囲んで、みんなで食事をする。 同じ食べ物を分けあいながら食するのは、原始的な、動物としての共感を育む。 人がヒトだった頃、獲ってきた食べ物は、命の綱であり、リスクでもあった。 もし毒をはらんだものであったのなら、その家族、集団は同じ運命を辿ることになる。 とすれば、同じものを食べるというのは、家族を信じ合う行動であり、運命共同体をそれぞれの内側に宿すことになる。 だから、「夕食は、家族みんなで食べるようにしています」「休日だけでも、家族そろって」というような家族は、同じタイミングで頷き、同じタイミングで笑う。 「言葉の遅れがあって…」「他人と関わろうとしなくて…」といった相談も多いです。 しかし、家族みんなと同じタイミングで笑う姿がある、お母さんとだったら、波長を合わせるような行動が見られる、そのようなお子さんも少なくありません。 こういった姿からは、共感の芽生え、息吹を感じます。 言葉が出たら、他人に意識が向くようになったら、お友達や他人と関わったり、遊んだりできるようになるわけではありません。 対人面、社会性の土台は、やはり共感する力。 この共感する力が育っていなければ、たとえ言葉が出たとしても、それは道具を得ただけ。 たとえ、他人に意識や興味が出ても、それは物体としての興味の対象が増えただけ。 言葉も、社会性、それこそ、ソーシャルスキルなども、道具にすぎず、人間として生きるには、ヒトの時代に培われただろう共感、共同がベースになるといえます。 人間関係でトラブルを抱える人は、道具の問題ではなく、適切な使い方を知らない、わからない、という場合がほとんどです。 何故、適切さがわからないかといえば、その人の視点の中に他者がいないから。 まるで一人で生きているかのごとく、道具を使い、振る舞うから、他人との間でトラブルが生じるのです。 こういった部分は、自閉症の特性などと関連付けられて語られることが多い。 「ミラーニューロンだ」「それが脳の特性だ」「視覚的に伝えればわかるんだ」 あたかも、それが障害そのものであり、それ自体は変わらず、どうしようもないものだといわんばかり。

それは藁か、希望か

発達障害の治療、教育、支援において、万人に効くものなどはありません。 たとえ、エビデンスがあるとされる介入方法だって、その原文、論文を読めば、「対象の6割に効果があった」ですとか、「介入前後で、20%の改善が見られた」という程度のもの。 どの論文を読んでも、「100%効果あり」と言われていないのです。 それは、多くの遺伝子が関わり、無数の環境要因が影響し、発達期に生じる神経発達障害なのですから、当然だといえます。 「鬼の首を取ったように」、いえ、ナントカの一つ覚えのごとく、エビデンスがどうのこうのという人達がいます(とにかく「エビデンス」といえば、それで方が付くと安易に思っている??)。 しかし、エビデンスにこだわるわりには、状態に変化が起きない。 それは「治らない障害だから!?」 だったら、最初からエビデンスがあるかどうかなんて関係ないのでは、と思います。 エビデンスのある介入方法で大きな改善が見られないのなら、効果があった対照群に、あなたの目の前の子が入っていないからか、その介入方法の効果の限界がそこにあるということ。 いずれにしろ、そこにこだわり続ける意味がわかりません。 だって、子ども時代の一年、一か月、一日は、その子の人生全体で見れば、とても貴重な神経発達が盛んな時期。 期待するほどの効果がないのなら、そもそも効果を感じないのなら、別の介入方法を探す一歩を踏みだす必要があります。 「どうしようかな」「どうするかな」と思っている間も、子どもの時間は平等に過ぎていきます。 成人期の子の親御さんとお話しすると、皆さん、「願いが叶うとすれば、この子の子ども時代に戻って、未発達、ヌケを育て直したい」とおっしゃるのですから。 神経発達の多様性を考えると、一つの介入方法、同じ介入方法では、必ず限界がきます。 特に神経発達が盛んな時期を過ごす幼少期、子ども時代は、常に刺激の変化が求められます。 お子さんによって異なりますが、一週間単位、二週間単位、1ヶ月単位、季節単位で「振り返りを行いましょう」と、私は伝えています。 それくらい変化が大きいのが、子どもさんの発達。 なので、何年も同じ介入方法を続けている場合は、発達援助というよりも、パターン学習?日課?ルーティンワーク?かなと思います。 発達障害が生じた理由、要因が、一

「n=1」の声

専門家も、医師も、先生も、支援者も、どう頑張っても、どんなに学び、資格を取ろうとも、不可能なことが一つだけあります。 それは、当事者になること。 この“当事者”とは、ざっくりした「発達障害」ですとか、「ASD」ですとか、「ADHD」といった括りのことではありません。 当事者とは、その人その者になること。 「私は私であり、あなたはあなたである」 ですから、専門家は当事者から学ぶのです。 それができない人は、ただのオタク。 オタクと実践家は、そもそもの出発点が異なっています。 「支援者は、当事者から学ばなければならない」 これは、どこの職場でも、研修でも、最初に言われることです。 そのために、目の前にいる人と真剣に向き合い、そこからヒントをもらわなければなりません。 支援のニーズは、当事者から生まれるものであるから、当事者がいて支援者がいる。 当事者の視点を抜かした支援とは、独りよがりとしか言いようがないのです。 どの支援者も、「当事者から学べ」と耳に胼胝ができるくらい言われます。 しかし、どうしたもんか、良くなった人、治った人からは、学ぼうとしない。 苦しんでいる当事者を見ると萌えるのに、治った当事者を見ると萎えてしまう。 「目の前の人を少しでも良くしたい」「ラクにしたい」「自立させたい」というのが、対人職が対人職である唯一の証。 そういった感情を持ち併せていない人間が、対自分職でやっている支援者。 良くならない方ばかりに、苦しんでいる人の方ばかりに意識が向いてしまうのは、自らを助けるために支援者になったという証。 ASDも、ADHDも、LDも、症候群です。 共通の行動が確認できるから、その診断名が付いているだけ、同じグループに括られているだけ。 同じ症候群でも、行動の出方は人それぞれ違いますし、同じ人だって、時間や状態、環境によって現れる行動、その強弱は違います。 そして何よりも、同じグループに属していたとしても、現れる行動の原因、背景は問われていないのです。 そう考えると、『n=1』にしかならない。 論文を読む際、「n=100」「n=200」「n=300」と対象の人数が増えていくたびに、私は違和感を持ちます。 これだけ多くの遺伝子が関わると言われているのに、これだけ多くの環境要因が影響すると言わ

社会の一員として育つ

「叱らない子育て」「褒めて伸ばす子育て」なんていう本が売れているらしい。 当然、子どもの方から、こういった類の本を買ってほしい、読んでほしい、参考にしてほしいなどというリクエストはないのでしょうから、これは親に向けた親のための本といえます。 こういったタイトルの本に惹かれてしまうのは、それだけちゃんと子を叱れない、向き合えない親、大人が増えた証拠。 子ども時代、叱られてばかりで自信なく育った私が親になる。 「こんな親だったら良かったのに」という姿をイメージすることで、自分自身の傷を癒していこうとする。 また、幼少期から放っておかれた子、真剣に叱られたことがなかった子、まるでペットのごとく、親の所有物として育った子は、「叱らない子育て」などを肯定することによって、自分自身の生い立ちを肯定する。 「叱らない子育て」「褒めて伸ばす子育て」は、ある意味、親の自己治療なんだと思います。 「問題行動は無視」というのも、そんな大人たちとの間に親和性があったため、令和になっても、いまだに消えていかないのだと思います。 「問題行動は無視」なんて、コンマ数秒で気づく、まずさ。 問題をそのままにしておけば、無視し続けていけば、問題はエスカレートしていくだけ。 もし、真剣に「問題行動は無視」をやろうとすれば、本人か、周囲が、破滅するまで続けるしかありません。 結局、叱れない大人が、真剣に向き合うことのできない大人が、「問題行動は無視」という言葉に救いを求めただけなのでしょう。 「うちは、叱らない子育ての方針なんです」「褒めて伸ばす方針なんです」という親御さんがいます。 それは、各家庭のお話なので、他人がとやかく言うことではありません。 しかし、実際、とやかく言わざるを得ないことがある。 それは、叱らない子育てが、教えない子育てになっているとき。 悪いことは悪いと教える。 ダメなものはダメと教える。 それは、人間として生きていくために必要なことです。 その家族の中だけで生きていくのなら、叱らず、教えず、褒めるだけ、で良いのかもしれません。 飼い主を噛まずに、尻尾をふりふりしてくれる子に育てば、それでよい。 しかし、子どもでも、社会の一員です。 公園も社会の一部ですし、幼稚園や保育園、学校だって、小さいですが社会。 社会で生きて

すべての感覚、機能を総動員する遊び

近頃、私の意識は「発達障害にならなかった凸凹のある人、あった人」に向いています。 これは偉人や天才などと言われる人達のことではなく、社会の一員として馴染み、生活している人達のことです。 神経発達の遅れだけでは、障害にはなりません。 そこに不適応が重なるから障害になる。 では、神経発達に遅れはあったけれども、不適応を起こさなかった人には何があったのだろうか。 不適応を起こさないばかりか、社会や生活環境に適応し、馴染んでいる人達もいます。 そういった人達の歩んできた道の中に、より良い子育て、発達援助のヒントがあるのだと思います。 自閉症の特性があることや発達に凸凹があることは、良い悪いといった次元の話ではないといえます。 ただそこに、その人がいる、というだけ。 しかし、そこに「適応できない」という要素が加わると、問題になり、障害となる。 結局のところ、特性があるとかないとか、どのくらいあるとか、は大きなことではないのでしょう。 自閉症の特性バリバリでも、ADHDそのものでも、社会に適応できていたら、問題ありません。 病院に行かなければ、発達障害にはならない。 ヒトは、高度な社会生活を営む動物です。 もし、ヒトが途中で進化をやめていたら、自閉症やADHDなどは、その個人、個体の生き方の違いだったでしょう。 学生時代、お付き合いのあった親御さん達は口々に、「この子と一緒に無人島に行きたい」と言っていました。 その言葉の意味するところは、「今の状況、生活から脱したい」という悲痛の叫びだったように思いますが、「障害という概念から離れたい」という欲求もあったように感じます。 無人島で暮らせば、ヒトは動物に戻れますので、障害から解放されます。 ヒトとヒトの間で生きるから、適応する者と適応できない者が生まれてくる。 だから、「みんな、無人島へ行こう!」とは、思いません。 でも、その無人島という環境にこそ、発達の凸凹が障害にならない生き方があるように思えてきます。 直感的に、無人島で生きていける人は、社会の中でも生きていけると思います。 つまり、動物としての生き方ができること、動物としての土台が社会性の土台になるということです。 ヒトは社会性の動物だからと言って、人付き合いのノウハウなんて覚えても、一向に社会性などは培われて

「心地良い」は、親子を結びつける

訪問すると、多くのご家族は、両親揃って相談を受けられます。 当然、夫婦も最初は他人ですので、お子さんに対する捉え方、子育ての姿勢、想いの強さは異なるわけです。 一生懸命話をし、感情が高まっているお母さんの横で、静かに座って聞いているお父さんがいる。 でも、「ずっとしゃべらないし、奥さんに言われて座らされているのかな」と思いきや、突然、堰を切ったように話だす方も少なくありません。 どんなときに、話し始めるか。 それは、我が子と自分が繋がったとき。 発達障害は遺伝100%の障害ではないけれども、少なからず、ご両親から受け継いでいる部分もあります。 ですから、親御さんの子ども時代の姿と、目の前の我が子が部分的に重なるわけです。 途中から会話に参加してくるお父さんというのは、「そういえば、私も子どものとき、同じことがあったんです」と言われます。 それは親子ですから、自然なこと。 ある意味、「私も子どもの頃…」という言葉が出れば、私の仕事は終わったも同然です。 実際、そういった共通する特徴があったけれども、こうして社会の中で自立し、家庭生活を営んでいるからです。 歩んできた道の中に、我が子を育むヒントがあります。 皆さん、ご存じだとは思いますが、発達の凸凹がある=障害ではありません。 脳や神経発達の凸凹にプラスして、環境への適応に問題がなければ、障害にはならないのです。 凸凹がある人がみんな、発達障害だとしたら、有病率は100%。 まったく脳の、発達の凸凹がない人なんていないのです。 親御さん達とお話をしていると、「子ども時代、こんなことばっかりしていました」「大学卒業するまで、ずっと〇〇を続けていました」ということをよく耳にします。 実は、それがお子さんの発達のヌケを育てるために必要な刺激、活動だったりするわけなんです。 つまり、同じような特徴があったとしても、ご自身で育ててきた。 そして社会に適応し、今、幸せな家庭を築いている。 再三、子どもは自分自身で必要な遊び、発達刺激がわかり、それに没頭するもの、と言ってきました。 でも、それは子どもに限らない、と私は思うようになりました。 親御さんの中に、「近頃、こんな趣味を始めたら、身体の調子が良くなって」「突然、急に〇〇という趣味がやりたくなって始めたら、頭がす

定型発達の子で土台が育っていない子、発達障害の子で土台が育っている子

9月も、5日も過ぎると、不登校の話題がピタッと止まります。 不登校は、通年で生じているわけですから、そういった支援に携わっている人達は、時期を問わず、発信しているのでしょう。 ですが、どうしても一般の人達からしたら、この2学期が始まる前後だけに見えてしまいます。 敢えてアクセスしようとしなければ、目に見えないのは、自閉症、発達障害の啓発活動と一緒。 すでに下火になり、注目度が一気に下がった青いお祭りと、今、注目を集める不登校啓発といったところでしょうか。 個人的な意見としては、不登校を肯定も、否定もしません。 学校という形式の学びが合わない子も当然いるでしょうし、命をかけてまで行くべきところじゃないと思います。 それに、とてもプライベートな話で、個人の選択の話ですので、その子が、その家族が不登校を選択するのなら、それでよいのだと思います。 ですから、他人がとやかく言うべき話ではないわけで、ということは、他者がメディアを通して「学校に行かなくていい」と発信し続けることの意図に疑問を感じるわけです。 「学校に行かなくていい」と言うのなら、「学校に行った方がいい」という意見も並べ、各自で判断してもらうのが自然な形だと思います。 著名人やタレントの人達の発信も目立ちました。 タレントは、まさに個人の資質、才能を活かして身を立てている人達です。 そういった人達は、当然、学校という枠にとらわれない部分で、才能を活かし、磨いてきた人達。 なので、学校に行く、行かない、とは別次元の話も含まれています。 不登校になれば、その分、才能を磨く時間ができ、従来の教育ではできなかった学びができる、という面もあるかもしれません。 しかし、資質は磨いてナンボ。 空から降ってくるものでも、ある日、突然目が覚めたら手に入るものでもありません。 同世代の子ども達が、学校生活を通して学んだこと、身に付けたことは、人生のどこかでやっておく必要があります。 だって、そういった人達がベースで作られた社会だから。 自閉症、発達障害の世界でも同じですが、「そういった社会が間違っているから、社会を変えよう」なんていう人たちもいます。 でも、それには相当な時間がかかる。 今の子ども達は間に合わない。 第一、社会を変えていくには、社会に出て活動できなければなりませ

子ども達の身体の中に何を入れるか、届けるか

「うちの子、サプリ、飲まないんですけれども、どうしたらよいでしょうか?」というような相談が増えてきています。 サプリが話題になる、ということは、栄養について意識し、勉強している証拠です。 そこら辺の支援者よりも、親御さん達は勉強熱心なのがわかります。 当然、サプリは自然な食べ物とは異なりますので、子どもさんの中には受け付けない子もいて当然です。 サプリが発達の後押しに繋がり、変わっていく人達もいますが、だからといって、みんながみんな、摂るものでも、摂ったから効果があるものでもありません。 むしろ、幼い子ども達は摂らないなら、摂らない方が良いと思います。 食べ物を口から入れ、体内を移動しながら、分解、吸収され、最後に排出される。 もちろん、これらは意識して行うものではありませんが、内臓の運動だといえます。 ある意味、食事を通して、内臓系を育てている。 内臓が動き、刺激を受ければ、それは中枢神経に伝わり、神経、脳を発達させる。 私達は、発達障害を持つ人達の内臓の育ちの大切さを 「黄色本」 、 「芋本」 で教わりました。 食事も運動だし、子ども達はまさに今、内臓を育てている段階でもあります。 ですから、単純に栄養素だけではなく、どんなものを、どんな形態で、どれだけ摂るか、いつまで摂るか、も考えるポイントだと思います。 基本的には、特に子どもさんの場合には、食事で栄養素が満たされるのなら、それ以上、敢えてサプリを摂らせる必要はない、と私は考えています。 私も、栄養面の大切さを伝える際、サプリの紹介をすることもありますが、それは偏食が強く出ている子の場合や、もともとサプリを摂っている子の場合です。 あとは、親御さんがサプリを摂らせたい、という意思があり、尋ねられてこられた場合です。 実際、サプリを摂取するようになってガラッと変わった子がいるのも本当ですし、反対に変化がなかった子、発達を堰止めしているのはそこじゃなかった子がいるのも本当です。 薬ではありませんが、日々の食事とは異なって、必ず摂取するものでもありませんので、やはり実際に口の中に入れる子どもさん自身がどうなのか、が重要だといえます。 サプリに関しては、以上のように私は考えています。 一方で、日々の食事には、うちの子にもそうですし、相談に来られたご家族にも、無

支援や理解よりも、リハビリという視点

「脳の機能障害と言うよりも、神経の問題だよね」 「神経の発達障害とした方が、実際の人達の状態に合っているよね」 「神経と捉えなおすことで、より良い治療や教育に繋がっていけるね」 といった具合に、発達障害が神経発達障害に変わって6年が経ちます。 自閉症も、ADHDも、LDも、知的障害も、発達性協調運動障害も、神経発達障害になりました。 同じ発達障害でも、どういった機能に課題が生じるかによって、違いが出る。 これが従来の診断名の違い。 同じ自閉症でも、その状態、症状は、一人ひとりで全然異なる。 以上の2点から考えても、脳の機能障害ではザックリし過ぎであり(というか、何も具体的な実態を示していない)、もっと細部の問題であることがわかります。 症状の多様性と、個人の歴史を見ても症状が一定ではないこと。 それこそが、神経の問題、もっといえば、神経同士の繋がりの問題であることを示しているといえます。 しかし、こういった変化、従来の概念では捉えられない人達が多数いるのにもかかわらず、未だに「脳の機能障害」などという言葉が見受けられます。 当初、不勉強、ただ知らないだけ、と思っていたのですが、どうもそうではないようです。 6年も経ったのですから、みんな、知らないわけではないのです。 知らないのではなく、変えたくない、変わるのに時間がかかる、ということ。 親御さん達が、「そうだよね。神経だよね。だったら、やりようがあるよね。育てようがあるよね」という具合に、パッと切り替えられるの対し、専門家と呼ばれる人は、公的な機関、制度というものは、すぐには変わりません。 何故なら、「脳の機能障害」で10年、20年と積み重ねてしまったから。 「脳の機能障害」とは、つまり、治らないということ。 生涯変わらない、だから、「支援の充実」「周囲の努力」「支援を上手に使う」「支援されやすいように育てる」という方向性で、支援者は学び、それを伝えることで、専門家という地位を築いた。 学校も、福祉も、行政も、「治らないから」が出発地点となり、仕組みが作られていった。 だから、突然、「神経だから」「治るから」と言われても、そちらの方に舵を切ることができない。 また、できたとしても、相当な労力(既得権益を守ろうとする抵抗勢力がいるから)と時間がかかる。 近年