共感も、発達の一つ

面談の際、家族みんなが同じタイミングで頷いたり、笑ったりする様子を見ると、私は安心します。
何故なら、家族団らんを連想するから。
テーブルを囲んで、みんなで食事をする。
同じ食べ物を分けあいながら食するのは、原始的な、動物としての共感を育む。


人がヒトだった頃、獲ってきた食べ物は、命の綱であり、リスクでもあった。
もし毒をはらんだものであったのなら、その家族、集団は同じ運命を辿ることになる。
とすれば、同じものを食べるというのは、家族を信じ合う行動であり、運命共同体をそれぞれの内側に宿すことになる。
だから、「夕食は、家族みんなで食べるようにしています」「休日だけでも、家族そろって」というような家族は、同じタイミングで頷き、同じタイミングで笑う。


「言葉の遅れがあって…」「他人と関わろうとしなくて…」といった相談も多いです。
しかし、家族みんなと同じタイミングで笑う姿がある、お母さんとだったら、波長を合わせるような行動が見られる、そのようなお子さんも少なくありません。
こういった姿からは、共感の芽生え、息吹を感じます。


言葉が出たら、他人に意識が向くようになったら、お友達や他人と関わったり、遊んだりできるようになるわけではありません。
対人面、社会性の土台は、やはり共感する力。
この共感する力が育っていなければ、たとえ言葉が出たとしても、それは道具を得ただけ。
たとえ、他人に意識や興味が出ても、それは物体としての興味の対象が増えただけ。
言葉も、社会性、それこそ、ソーシャルスキルなども、道具にすぎず、人間として生きるには、ヒトの時代に培われただろう共感、共同がベースになるといえます。


人間関係でトラブルを抱える人は、道具の問題ではなく、適切な使い方を知らない、わからない、という場合がほとんどです。
何故、適切さがわからないかといえば、その人の視点の中に他者がいないから。
まるで一人で生きているかのごとく、道具を使い、振る舞うから、他人との間でトラブルが生じるのです。
こういった部分は、自閉症の特性などと関連付けられて語られることが多い。


「ミラーニューロンだ」「それが脳の特性だ」「視覚的に伝えればわかるんだ」
あたかも、それが障害そのものであり、それ自体は変わらず、どうしようもないものだといわんばかり。
でも、私はそうは思いません。
だって、ノンバーバルの子どもの中にも、共感力のある人達がいるから。
母親が涙を流せば、一緒に泣く子もいるし、ティッシュを持ってきて涙を拭く子もいる。
美味しいご飯を食べれば、家族の顔を見て、微笑み合う子もいる。
公園に行けば、両親の手を取り、キャッキャ、キャッキャと、走り回る子もいる。


言葉豊かな人、学業でも優秀な成績を収めるような人の中にも、人間関係で悩み、トラブルを起こしてしまう人もいます。
このような人達の多くは、感覚の未発達、発達のヌケを抱えているものです。
しかし、感覚の未発達=共感できない、他者の視点を想像できない、ではないと感じます。
課題の根っこは確かに、感覚系の未発達、発達のヌケと繋がっていると言えますが、それにプラスして他者と息を合わせる、共に行動する体験の乏しさがあると思うのです。


相談者、本人の話を聞くと、「家族一緒にごはんは食べなかった」「それぞれが好きなものを食べていた」「家族みんなで旅行に行った記憶がない。遊んだ記憶もない」という言葉が返ってきます。
幼少期から一人の世界を好んでいたために、体験が積み重なっていかなかったというのもあるでしょう。
忙しい世の中ですので、なかなか家族の時間がもてなかったのもあるでしょう。
また少なからず、「社会性=対人スキルの獲得」といった認識のずれが、意味を理解することなく、道具を振り回す結果になった場合もあるように感じます。


共感する力も、発達の一つだと考えています。
人間だけが共感する力を持っているとはいえず、やはり他の機能同様に、長い進化の過程の中で培われ、獲得した能力だと考えられるから。
なので、「それが障害だから。特性だから」とは言わずに、育んでいってもらいたいと思うのです。


息を合わせる遊びを親子で続けた結果、それまで霧の中にいたような雰囲気だった子が、親御さんに意識が向くようになり、発信が出るようになった。
できるだけ家族一緒に、同じものを食べるようにしたら、偏食が治まっていき、同じ食事ができるようになった。
感情表現が乏しかった子が、家族で思いっきり遊ぶ体験を通して、自分の感情に気づき、表現するようになった。
こういった変化が見られた子ども達も大勢います。
これはまさに、家族で共感する力を育んでいったといえるでしょう。


「言葉が出れば」「未発達の部分が育てば」「発達のヌケが埋まれば」
そういった部分が育つと、対人面でも変わっていくのは大いにあることです。
でも、それだけじゃない。
やはりヒトとしての、動物としての育み、体験も必要なんだと思います、特に共感の部分で。


家族が共に過ごし、活動し、共感し合う心を育んでいる家庭のお子さんは、言葉が出れば、他人との間で心地良い言葉の使い方をします。
また、言葉が出ない段階でも、ノンバーバルな方法を使い、他者との心地良い雰囲気の交流を行います。
言葉は道具だから、心地良く使うための心を育んでいく。
そのために、家族や信頼している人との息を合わせる行動、体験の積み重ねが大事になります。


「子どもは教えたように育つのではなく、親のように育つ」という言葉があります。
綺麗事のように聞こえるかもしれませんが、やはり夫婦が共感し合っている姿を見ることで、子の共感する力も育っていくように思えます。
家庭に訪問すると、顔かたち、使う言葉は違えども、夫婦が同じタイミングで頷き、笑い、悲しみ、怒り、驚くような家庭、「なんでも家族一緒」と決めているような家庭のお子さんは、共感する力がちゃんと育っているものです。


共感も、一つの発達と捉えることができれば、今日からできることはあります。
それこそ、家族だからできる、親子だからできることです。
子どもとの時間があまり持てないのなら、持てたときに思いっきりやりきる。
ここは愛着の土台と重なり合う部分でもあります。

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