「n=1」の声

専門家も、医師も、先生も、支援者も、どう頑張っても、どんなに学び、資格を取ろうとも、不可能なことが一つだけあります。
それは、当事者になること。
この“当事者”とは、ざっくりした「発達障害」ですとか、「ASD」ですとか、「ADHD」といった括りのことではありません。
当事者とは、その人その者になること。


「私は私であり、あなたはあなたである」
ですから、専門家は当事者から学ぶのです。
それができない人は、ただのオタク。
オタクと実践家は、そもそもの出発点が異なっています。


「支援者は、当事者から学ばなければならない」
これは、どこの職場でも、研修でも、最初に言われることです。
そのために、目の前にいる人と真剣に向き合い、そこからヒントをもらわなければなりません。
支援のニーズは、当事者から生まれるものであるから、当事者がいて支援者がいる。
当事者の視点を抜かした支援とは、独りよがりとしか言いようがないのです。


どの支援者も、「当事者から学べ」と耳に胼胝ができるくらい言われます。
しかし、どうしたもんか、良くなった人、治った人からは、学ぼうとしない。
苦しんでいる当事者を見ると萌えるのに、治った当事者を見ると萎えてしまう。
「目の前の人を少しでも良くしたい」「ラクにしたい」「自立させたい」というのが、対人職が対人職である唯一の証。
そういった感情を持ち併せていない人間が、対自分職でやっている支援者。
良くならない方ばかりに、苦しんでいる人の方ばかりに意識が向いてしまうのは、自らを助けるために支援者になったという証。


ASDも、ADHDも、LDも、症候群です。
共通の行動が確認できるから、その診断名が付いているだけ、同じグループに括られているだけ。
同じ症候群でも、行動の出方は人それぞれ違いますし、同じ人だって、時間や状態、環境によって現れる行動、その強弱は違います。
そして何よりも、同じグループに属していたとしても、現れる行動の原因、背景は問われていないのです。
そう考えると、『n=1』にしかならない。


論文を読む際、「n=100」「n=200」「n=300」と対象の人数が増えていくたびに、私は違和感を持ちます。
これだけ多くの遺伝子が関わると言われているのに、これだけ多くの環境要因が影響すると言われているのに、発症のタイミング、どの神経に課題が生じているか明確に示すことができないのに、「n=100」の中の1つになっていることの違和感。
いろんなその人らしさが切り捨てられ、同じ行動様式が確認できたというだけで集められる。
しかも、そのほとんどが、治らない前提で集められた人であり、治すことを目的としない研究。


「当事者の声を聞け」「当事者に学べ」と言われているのに、良くなった人、自立した人、治った人の声を無視し、挙句の果てには、「偽物だ」「誤診だ」とまで言い放つ特別支援の世界。
こういった声を聞くたびに、当事者をないがしろにしているのは、支援者その人達だと思うのです。
どうして良くなった人の声を聞こうとしないのか。
どうして自立した人の生き方に学ぼうとしないのか。
どうして治そうを目指さないのか、目指すと「トンデモ」と言われるのか。


どこの世界に、業界に、良くなった人から学ぼうとしない職業集団がいるのでしょう。
認知症や脳の疾患者に対し、「良くなってほしい」とリハビリをしたら、トンデモになるのでしょうか。
神経の発達障害の子ども達に、「良くなってほしい」と、神経ネットワークを育てるための運動や遊びをしたら、いけないのでしょうか。
他人から、また支援するものと表現される支援者から、批判の声が上がる意味がわかりません。
医療行為をするわけでもなく、何か特別なものを体内にいれるわけでもなく、子育てや運動、遊びを通して、神経発達を促していく。
こうなると、「神経発達に支援者が必要ない」という真実を否定したいがための行為にしか見えないのです。


本人にとって、家族にとって、必要なのは「n=〇」の数の多さではありません。
「n=1」まさに、自分という「1」がより良く育ち、より良く生きていけるための方法なのです。
論文を書く必要のない、その論文で評価され、キャリアや予算等に影響がない人は。


「n=1」を輝かせるには、「n=1」から学ぶ以外、方法はありません。
しかも、その「n=1」は、良くなった人である必要があります。
良くならない人から学んでも、よくはなりません。
そういった人に意識が向くのは、学びたいからではなく、安心を得たいがため。
「私だけじゃないんだ」「うちだけじゃないんだ」というその一瞬の安心のためにすり寄っているだけだといえます。


療育とは、治療(Treatment)と教育(Education)。
治療の目的は、よくすること、治すこと。
治すためには、治った人から学ぶ以外ありません。
本人が「治った」と言っている、一度付いた診断名が外れている、生涯支援と言われていた人が自立して生活できている、「どうしてだろう?」
この「どうしてだろう?」が治療の一歩。
そういった疑問が浮かばないのなら、支援者やめた方が良い。
当事者から学び、当事者を救うものでなければ、支援者とは言えないから。
「あなたは苦しいまま。でも、私はそばにいるよ」は、自己治療、愛着障害の。


発達障害に関わる遺伝子は、500以上あると言われています。
そして神経発達に影響を及ぼす環境要因は無数。
ですから、治療の方法は一つであるわけがないのです。
原因が特定されていないので、ピンポイントで治療ができないのです。
ということは、目の前にいる人に合わせて、オーダーメイド、テイラーメイドで、治療していくしかありません。
そのためには、良くなったという「n=1」から学び、ヒントを得ること。
良くなった「n=1」を集めていき、その中から試行錯誤を通し最適化を目指していく。


「n=1」のために生きるのが支援者。
同じ診断名だからといって、同じ方法しか提供できないのは、当事者の声に耳を傾けていないので、そもそも支援者とはいえません。
良くなったという人の声を聞き、治ったという人の生き方から学ぶ。
その積み重ねが、目の前の人の未来に活かされ、治療法の確立のための一歩となります。


神経細胞が欠損している、無くなっていく病気、障害なら、治療という言葉は適さないのかもしれません。
でも、神経細胞は同じ。
違いは、そのネットワークの築き方。
だったら、治療する道はある。
実際、良くなった人、治った人、診断基準から外れた人が存在しているから。
目指すは「n=1」の成長、自立、幸せ。
「n=2」になった途端、個は消え、症候群の括りの中の1つになってしまいますので。

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