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7月, 2019の投稿を表示しています

中途半端にではなく、きちんと嫌う

メールでの相談がくるようになってから何年も経ちますが、返信を受け取った人から「こんなにズバッと言われたのは初めてです」と言われることがあります。 問題があれば、それが問題であると指摘するのは当然のことです。 だって、今まで通りで、うまくいかないから、わざわざ相談しているわけです。 これは、メール相談でも、実際にお会いしての相談でも、一緒。 カウンセラーなら、共感するとか、否定せず受け入れるとかが大事なのかもしれません。 でも、私の仕事は、子どもさんがより良く発達、成長するための後押し。 親御さんが、主体的に子育てができる後押し。 ですから、具体的な行動として現れるくらいまでの後押しができなければ、意味がないと思っています。 中には、接待慣れしている当事者の人や親御さんからの相談もあります。 「あなたは悪くないよ、頑張っている。周囲の理解がないよね」 「お母さんの子育ての方向性は間違っていないですよ、今は結果が出ていないですが」 という私からの言葉が欲しいのがありありで、の人もいます。 そういった場合には、その問題点を指摘して、やりとりを終了します。 接待慣れしている人に、「誰それ構わず、接待を求めるのは間違いである」と指摘するのは、本人のためであり、社会のため。 接待はその場しのぎで合って、何も解決はしません。 接待しても、発達のヌケは埋まっていかない。 ただただ周りの人に迷惑をかけるだけであり、挙句の果てに、接待に応じてくれない一般の人に対して、抱く必要のない嫌悪感まで抱いてしまう危険性があります。 恨まれた一般の人は迷惑。 恨まなくていい人まで恨み、余計な社会への恨みを持つのは、自立を自ら遠ざけているようなもの。 ですから、嫌うときも、しっかり嫌います。 中途半端に嫌いません。 何が嫌だったか、問題だったかを具体的に言葉にして伝え、あとは拒否。 嫌いな人達にヘコヘコしたくないし、自分の時間を使いたくもない。 何より、そういった中途半端な対応が、誤った人間関係を学習させ、どれだけ多くの迷惑な人達を育ててきたのかって感じです。 支援者というのは、直言する人がほとんどいない。 それは、当事者、保護者をお客様だと思っているから。 それもあるけれども、根本的なところでいえば、愛着の土台が育っていないか

我が子を授かったときの想い

以前、面談した親御さんから連絡をいただきました。 あれから毎日、コツコツ育て直しをやっています、と。 目が回るようになったし、背中の過敏さが落ち着いてきた、とのことでした。 本人も前向きに取り組んでいるようですが、何よりもお母さん自体が、とっても前向きで、元気になったような印象を受けました。 面談の際、何度も、「私が子育てをしていたとき、この子の子ども時代は、そんな話を誰もしてくれなかった」とおっしゃっていました。 とにかく支援が大切なんですと「支援」「支援」「支援」の子育てだったそうです。 問題が起きるのは、「事前の準備が足りないからだ」と言われ、事前に先回りし、問題が起きそうなものは取り除き、そういった場所には行かず、周囲に配慮を求め続けた。 自分の中でも理解しきれないままに、「家庭でも視覚支援を」と言われ、見よう見まねで作ったカードの数々。 先回りに、視覚支援、挙句の果てに、我が子のパニックは、無視をする…。 生まれつきで、脳の障害だから、特別な支援が必要。 問題が起きれば、配慮が、支援が、知識が、足りなかっただからと自分自身を責める。 そんな月日を、成人した我が子の年齢の分だけ経験してきた親御さんは、このご家族以外にも多くいるのだと思います。 我が子を授かったとき、親は「あんなことがしたい、こんなことがしたい」と思うもの。 どこの世の中に、最初から「我が子の支援がしたい、療育がしたい」と考える親がいるのでしょうか。 きっとこの親御さんも、そうだったはず。 でも、我が子の障害がわかり、必死に専門家、支援者、先生の言うことを聞いて、今日まできたのです。 この親御さんは、きっと動きたいタイプの人。 他人のために何かをすることが喜びで、それでご自身がますます元気になる、という雰囲気がありました。 ですから、本人が一人で育てていく方法よりも、育み合って育てていくような方向でお話をしました。 すると、お母さんはみるみるうちに顔が明るくなっていき、最後には「成人した我が子だけれども、この子のためにまだできることがあるってわかって本当にうれしい」と涙を流されていました。 その涙の中には、したかった子育てができなかった、という想いも含まれているような感じがしたのです。 実は、世代に関わらず、未発達の部分、ヌケている

動物的な感覚を研ぎ澄ます

出張の楽しみは、その土地の名物、食事です。 でも、思いっきり食べるのは、すべての仕事が終わったあと。 何故なら、満腹になると、仕事の質が下がるから。 以前は、セッション中にエネルギー不足になってしまったら大変と、仕事の前には多く食べるようにしていたのですが、どうも、勘が鈍くなる感じがしました。 反対に、空腹になるくらいの方が、直感が働き、いつも以上に見えるような気がしたのです。 それ以降、仕事の前は、なるべく少量にしています。 発達のヌケ、遅れの根っこは、言葉以前の発達段階にある場合がほとんどです。 ですから、それは確認するのではなく、感じなければなりません。 「マニュアルを見て、1つずつ確認」みたいな方法では、言葉や文字を使った思考になりますので、本当の意味で確認することはできないと思います。 ある人から、一切メモを取らないことを驚かれましたが、メモは文字ですし、雰囲気を掴むには、その作業が邪魔になります。 声なき声のように、言葉なき身体、発達のメッセージを受け取る。 そのためにも、自分自身が動物に近くならないといけない。 その入り口として、腹いっぱいでも、腹八分目でもなく、腹五分目くらい。 断食している人が、「感覚が鋭くなった」と言うことがあるので、あながち間違った方法ではないと思っています。 「言葉以前のアプローチ」と出会い、ますます私は直感、雰囲気を大切にするようになりました。 なので、知識や勉強などは、確かめに近いです。 「なんだか気になった」「違和感を感じた」「ここが踏ん張りどこだと思った」 その理由を探すために、後付けの勉強をしています。 先日、親子での相談をお受けしました。 子どもさんは、すでに成人されていた方でしたが、部屋に入ってきた瞬間、なんだかしんどそうな雰囲気を感じました。 ですから、椅子に座った瞬間、「ここに来るということ自体が、相当しんどかったんじゃない?」と私は言いました。 すると、すぐに顔をあげ、私に足の指を見せてきたのです。 足の指の爪が極端に短くなっていました。 自分でやったようです。 親御さんも知らなかったことでした。 ノンバーバルの方でしたが、私の言葉や、自分のしんどさに気が付いたということは分かってくれたようでした。 ですから、日頃、関わっている支援

その空間は、地域に、社会に馴染んでいるのか?

都市部では借家や間借りが一般的なのに、地方に行くと、まあ、立派な建物を一から作り、福祉事業を展開している姿を見かけます。 ほとんど人が歩いていないような場所に、最新の設備が整えられた施設。 どうして、ここに最新の設備が必要なのだろうと思うと、「他人の金(税金)だからね」という答えが返ってきます。 田舎では、未だに個人的な権力、権威、業績の証として、その地域一番の建物を建てようとする傾向があるようです。 それくらい立派な建物を、障害を持った方達のために作ったのですから、よほどの福祉への想いがあると思いきや、まったく関係ない人がトップだったりします。 福祉って、建前としては、とっても使いやすい分野。 結局、本音のところは、「この地域で俺はすごいんだ」「こんな立派な建物を建てられたんだ」というちっぽけな私心。 一方で、それを認可する行政の方も、できるだけ大きなモノを、できるだけ工期がかかり、地元にお金が落ちるように、という思惑が感じられます。 そもそも空き家だらけなんだから、それを活用すれば良いのです。 どうして、わざわざ時間と金がかかる方法を選択するのでしょうか。 本当に、障害を持った方達の生活を考えるのなら、できるだけ早く利用できる方が良いに決まっています。 大きな変化を嫌がる人も少なくないのに、本人が、というか、スタッフも含めて初めて見て、びっくりするような環境にしてしまう。 一番大切なのは、なじむこと。 その人の生活に、その地域に。 そういった場違いな施設に限って、「見学はご自由に」「いつでも歓迎」というような心のこもっていないA4の紙が玄関に貼られています。 どうして、その地域に馴染んでいないような建物が、さらにただでも障害を持った人の施設として敷居が高いのに、地域の人達が気軽に訪ねてくるといえるのでしょうか。 私が思うのは、結局、障害を持った人、本人の意思や気持ちが一番最後になっているということ。 立派な建物を一から作ることは、その地域にとっては、ありがたいことなのかもしれない。 建てようと思った中心の人達だって、いくら「借金をする」といっても、自分で営業して、試行錯誤して、質を高めて、投資して…というようなことはせず、利用すれば、お金が降り込まれる仕組みになっているから、自分の腹が痛むわけでもなんでもな

エビデンスは見えないけれども、治った人は見ることができる

昨日のブログ 『障害名(仮)』 には、多くの反響がありました。 その反応は、私が実際にお話しした親御さん達の反応と似ていましたので、それだけ大前提を抜かされた説明、支援に囲まているのだと思います。 一方で、「私が診断を受けたときは、ちゃんと“障害名は変わることがある”と説明があった」という話を教えてくださった親御さん達がいました。 そういった親御さん達に共通していたのが、実際、お子さんの診断名が変わり、というか、診断名が外れ、治っていった方達でした。 最初に説明してくれたお医者さんの説明は正しかったですし、お子さんもそのように成長していったのです。 もちろん、親御さんの力もあると思います。 しかし、じゃあ、診断された当時、我が子が幼く、突然の「障害」と出会ったときに、「障害名は変わることがあるよ、お母さん」と言われていなかったら…。 もしかしたら、今、治って、社会の中で同世代の人達と同じように生きている子ども達の未来が変わっていたかもしれません。 その障害名をそのまま丸飲みし、思いっきり療育、支援、理解の世界へと突き進んでいた可能性もあるのではないでしょうか。 医師、専門家の一言は、家族のあり方、子どもの未来を変えてしまう。 現在の知見、科学では、発達障害かどうかの根拠を誰も示すことができません。 だったら、その無力さをまず自分たちが受け入れた上で、アドバイスなり、サポートなりすべきだと、私は思うのです。 診断基準に照らし合わし、スコアを付けることはできても、何故、発達障害なのか、その原因と理由を説明できません。 それなら、そのようにちゃんと話をするべきです。 「スコアをつけたら、自閉症の診断基準に該当していた。だけれども、これは今日見た中での結果であって、明日、1年後、将来、どのようになるかまでを示したものではありません。知的障害があると判定された子も、成長と共に正常域になっていったなんて珍しくないんですよ」 そういった一言が添えられていれば、どれだけ多くの親御さん達が、子育てを諦めず、我が子がより良く成長できるように頑張ろう、と前向きになれたか。 同時に、子どもは基本的に親を選べないし、育てられ方の選択肢もないのです。 ということは、極端なことを言えば、1歳とか、2歳とか、人生が決まるかもしれない、本人の意思表明

障害名(仮)

幼少期についた診断名には、(仮)がつくのは当たり前のこと。 特に、自閉症、ADHD、LD、知的障害というような診断に関しては、“現時点で”、“検査、診断したとき”は、「〇〇障害だよね」「〇〇障害の診断項目に該当するね」って感じです。 今まさに人生の中で一番盛んな発達期を過ごす子ども達なのですから、これからの発達によって、どのようにも変わっていくのです。 現在、いかに早く診断名が付けられるかが、世界的なトレンド、専門家の同士の腕比べになっているようですが、本来、そんなことはどう~でもよいこと。 大事なことは、その子がより良く発達していけるにはどうしたら良いか、という未来のお話なのですから。 いくら1歳で診断ができるようになったとしても、「じゃあ、その1歳までの発達のヌケをどう育てるか?」という視点がなければ、意味がないのです。 まさに、昆虫採集と一緒。 それは、本人、家族のためではなくて、診断する者の趣味嗜好のレベル。 診断名が変わっていくのは、当たり前。 ですから、本当は診断名によって、「支援級だ」「支援学校だ」と決められるのはおかしなことなのです。 さらにいえば、一度支援級に入った子が、普通級に転籍するのに相当な労力がいるのもおかしい話。 何故、就学前についた(仮)の障害名をそのまま、6年間、引き継ぐのでしょうか。 挙句の果てに、中学まで引き継ごうとする。 いやいや、就学前と今を比べれば、大きく変わるに決まっているでしょ。 就学前に知的障害があったって、その後の発達によって、知的障害が軽度化していくし、標準域に入ることも普通にあります。 自閉症という診断だって、未発達な部分が育てば、治ります。 ですから、支援級の場合は特に、同じ学校内に普通級もあるのですから、そのときの発達段階、状態によって、柔軟に行き来できれば、と思いますし、それが本来の個別支援、インクルーシブ教育だったのではないのでしょうかね。 どうも、教育という名のお役所仕事のように思えることが多々あります。 私のところに相談をくださる方達の年齢が、本当に低くなったと感じます。 事業を始めた当初は、就学前の子どもさんからの相談があれば、早いなと思ったのですが、今は1歳、2歳、3歳くらいの子どもさん達が多くなっています。 明らかに利用される方達の年齢の中

生涯をかけて治していく

「完璧な発達」というのは、ないと思います。 大なり小なり、みんな、発達の偏りはあるでしょうし、凸凹しているでしょう。 でも、それでいいんです。 それが自然な姿だと思います。 ヒトは、生涯かけて発達していくもの。 人生の途中を切り取って、「発達が整っていない」と指摘するのは、意味のあることなのか、という思いもあります。 人生の始まりの頃に、発達の遅れがあると、今の世の中では「発達障害」となります。 しかし、早期療育を受けた結果、発達の遅れには手をつけず、刺激を与えず、グレーがグレーのまま、むしろ、色が濃くなっていく若者たちを見ますと、早期に診断されるということが果たして良いことなのだろうか、と思うのです。 発達障害保存の会・・・。 発達の遅れを指摘することが、その子の発達につながらない。 ただの言いっぱなしになっている現在。 本来、生涯かけて発達するものが、幼少期にストップがかけられているような現状。 だったら、発達の遅れを、わざわざ指摘してくれるなよ、と思います。 親御さんの中にも、発達の凸凹を感じることがあります、その名残を、雰囲気を感じることがあります。 「子ども時代の私もそうだった、同じだった」という話は、よくあることです。 お子さんと同じように、お父さん、お母さんも、子ども時代、発達の遅れがあった。 じゃあ、何が違うのか。 今、仕事をし、結婚をし、子どもを授かり、生きている親御さんと子は何が違うのか。 発達障害が産業の一つ、子育てが商売の一つになってしまった社会の違いもあるでしょう。 自由自在に遊べた環境の違いもあるでしょう。 でも、一番の違いは、生涯かけて発達するという前提が保障されているかどうか。 私は、この世界に入ってつくづく思うのが、発達が急かされ、余白がどんどん失われていく窮屈さ。 できるだけ早く発達し、小さな"大人"になることが求められる。 元発達障害を持っていた親御さん達が、自由な人生を謳歌している一方で、1歳、2歳、3歳で「発達障害です」と告げられ、相談に来られる子ども達の「生き苦しさ」ではなく、息苦しさ。 私は、親御さんが自分自身を育て、治してきたように、子どもも同じような子ども時代、人生を歩めばよいと思うのです。 野山を駆け巡り、呼吸を育て、感覚を育

この夏のテーマは?一つに絞るとして

基本的に一発勝負ですので、伝えられることはすべて、お教えできることはすべて、という気持ちで仕事をしています。 さらに、私は早口ですし、頭の中に浮かんだこと、連想したことを次々にしゃべるので、どうしても情報量が多くなってしまいます。 ここが私の課題でもあります。 ですから、情報を受け取った親御さんが、「これもやろう」「あれもやろう」と思いがちになります。 これは、メール相談でも同じでし、ブログを読んでくださっている方からも言われることがあります。 だからこそ、私は必ず次のことを伝えるようにしています。 「どれか一つをやってください」「全部を一気にやる必要はないです」と。 どれもこれもではなく、一つを、というのには理由があります。 別に親御さんが大変だから、プレッシャーになるから、という理由ではなく。 あくまで、子どもさんを中心に考えたとき、一つに絞って、やり切る方が重要だと考えるのです。 よくたとえに出すのが、赤ちゃんの発達の様子です。 赤ちゃんは、寝ても覚めても、一つのことをやり続ける時期があります。 起きている間はずっとハイハイして動きまわっている。 疲れたら寝て、また起きたらハイハイをする。 そうやって、一つの発達課題をやりきったあと、ある日突然、ハイハイをやらなくなり、次の発達課題へと向かっていく。 そうやって、一つのことを寝ても覚めてもやりきるのが、自然な発達の姿だといえるのです。 ですから、あれもこれもではなく、本人が今、やりたいこと、育てたいことを樹分にやり切らせてあげる。 それこそが、自然な発達の姿ですし、言葉以前の発達段階をクリアするポイントだと、私は考えています。 一方で、親御さんにとっても、一つのことに絞って、十分にやり切らせてあげるのは、とても意義のあることだと考えています。 何故なら、バリエーションが生じてくるからです。 例えば、呼吸を育てようと決めます。 そうすると、自然と意識が「呼吸」に集まってきます。 「普通のとき、ちゃんと息が吸えているだろうか?」 「走っているときはどうだろう?」 「寝ているときは?」 「もしかしたら、思いっきり吸うことができていないかも」 「そういえば、飲みこみも弱い」 「じゃあ、噛む回数が多くなるような食事を徐々に入れていくかな」 「放課

就学前の6年間が、生涯学習の土台作り

闇営業はしていないけれども、私も謝らないといけないことがあります。 私はブログ等で、再三「小学校4年生の学力を身につける」と発言しています。 ですから、それを見た親御さんの中には、一生懸命文字を書くことや計算することに取り組まれている方達がいます。 もちろん、勉強すること、教科学習に力を入れることは、とても大事です。 長い間、知的障害があったり、支援級、支援学校に通っていたりしたら、教科学習は二の次、三の次になって、身辺自立と職業訓練が中心となっていました。 まあ、それが中心だったからといって、卒業後、自立する子はほとんどいませんが…。 義務教育の9年間、ずっとひらがなの練習、足し算引き算で終わっていた子ども達も多い時代があったのです。 「自立した生活を送る」「就職して、仕事を続ける」には、ただ身辺スキルを身につければ良いわけでも、働くための体力をつければ良いわけでもありません。 それだけでは不十分。 やはり自立した生活と仕事には、自らの頭で考える力が必要です。 そのためにも、世の中の原理原則を学び、考える為の道具である文字や計算、教科の内容を学ぶ必要があります。 その最低ラインが、小学校4年生の学力ということになるのです。 私のところに相談、依頼をくださる親御さんの中には、「教科学習を頑張っています」と言われる方達がいます。 ですが、お子さんが就学前の場合もあります。 焦る気持ちもわかりますし、きちんと学力をつけさせてあげたいと思うのもわかります。 でも、就学前から教科学習を焦って行う必要はないと思います。 学校に見学に行くこともありますが、そこで感じるのは、学習の土台が育っていない子が多いということです。 今は、幼稚園などで英語や国語、算数の勉強をしている子が多く、小学校入学時で、ある程度の学力を先取りしています。 そういった子ども達は、当然、小学校の授業はわかりますし、テストも100点ばかりです。 でも、きちんと椅子に座れていなかったり、鉛筆が持てなかったり、4教科とその他の教科の差が大きかったりするのです。 集中できる時間が短かったり、午後は疲れてしまって、ボーとしている子もいます。 小学校4年生の学力とは、目安としての表現です。 大事なことは、自分の頭で考えられる力を持つことと、学び続ける姿勢

志を共にする支援者さんと

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共働きの子育て世代ですから、子どものことに、家のことに、仕事のことに、てんやわんやの毎日を送っております。 ですから、私が出張するのにも、妻の理解と協力が必要です。 福岡→函館マラソン→広島という週末を快く送りだしてもらいました。 そんな妻が、広島から帰ってきた私に一言。 「あなたの仕事は、必要とされなくなるのが目的だもんね。また一歩、目標に近づけたね」と。 基本的に、私は支援者という人達を信じていません。 だって、支援することで成り立つ仕事でしょ。 支援される人がいるから支援者でい続けられる。 そして何よりも、「私には支援する人がいる」と思いたがっている。 つまり、弱い立場の人を使って、「必要とされる自分」を感じ、自分の存在意義を確かめたり、愛着障害を癒そうとしたりしている。 ですから、口では自立だ、なんだ、と言っているけれども、本気で自立を望んでいる支援者はほとんどいません。 というか、それを心から望めないのが支援者の性なのです。 じゃあ、お前はどうなんだ、支援者だろう、と言われそうですが、私は出発地点から異なります。 私が支援したいのは、親御さんであり、もっといえば、子育てです。 あくまで、私の仕事の中心は家庭支援。 それは、学生時代からずっと思い描いていたことです。 だからこそ、「24時間の生活を知らなければならない」と思い、大学卒業後は24時間型の入所施設に就職したのです。 支援者、学校の先生からも、「勉強させてほしい」「うちの施設に来て、アドバイスが欲しい」「一緒に連携して活動を」などというお話をいただくことがあります。 しかし、だいたいそういった依頼は上辺だけで、私が関わった家庭を紹介してほしい、ですとか、名前や人脈を頂戴したい、ですとかばかりです。 勉強したいという気持ちが伝わってくる人でも、なぜ、スキルアップしたいかが、私の考えと違います。 私は、支援者という職業を無くすために仕事をしてます。 でも、スキルアップすることで、「自分のとこにお客さんがたくさん来てほしい」「良い支援、助言ができる自分を見て欲しい」というように、支援を止める気がない、むしろ、支援し続けるためにスキルアップを目指す、というのは、私と考え方、方向性が異なるのです。 親御さんから求められれば、私は自分の持っている視点、

「一貫性のある支援」の意味

ジョギングの記録をスマホのアプリで行っていましたので、「古いままでいいや、どうせ汚れるし」と思っていたのですが、そろそろ新しいものに換えなきゃならないくらい不具合が出てきました。 仕事が一段落したら、機種変しに行こうと思います。 そんなことを考えていたら、今の通信会社に変えてから、だいぶ時間が経ったのに気が付きました。 高校、大学くらいは、通信会社を変えるのはそんなに大変じゃなかったのですが、それ以降、長らく「ナントカ縛りだ」「高額な解約料だ」「データ移行がー」と言って、他社に変えづらい時期が続きました。 でも、最近は他社への移行もスムーズです。 一つの通信会社のままなら、ラクは楽かもしれませんが、それによって選択できないサービスも生まれてしまいます。 本来、もっと自由で選択肢があるものが。 自分の生活、ニーズに合わせて、カスタママイズするものが。 特別支援の世界では、「一貫性のある支援」などと言われます。 私も、若いときには、そのように教わりました。 「一貫性がないと、自閉症の人達は混乱してしまう」と。 しかし、年齢と経験を重ね、いろんな研修やトレーニング、文献から学び続けていると、「一貫性のある支援」という意味の使われ方に違いがあることがわかりました。 特に、欧米と日本の間で。 欧米では、「一貫性のある支援」を、それぞれの組織、療法の理念という意味で使っていました。 たとえば、「アセスメントから始めましょう」「その人に合った最適なものを作るために、絶え間なく工夫や見直しをしましょう」など。 でも、日本は、特定の療法、方法、宗派、はたまた支援者までをも、「一貫性」にしてしまう。 「一貫性=最初に決めた療法、方法、宗派を貫こう」という意味で使われている場合が少なくありません。 世の中には、いろんなアイディアがあるわけです。 それぞれ、療法には組織があって、推奨し、専門にしている支援者たちがいます。 どちらかといえば、その支援者達に向けて、支援者達の方向性を統一させるために、「掲げた理念に一貫性を持たせて支援にあたるように」という意図だと思います。 決して、ある療法を選んだら、「その療法を生涯、ずっと選択し続けるように」「他の療法には手を出さないように」という本人や親御さんに対するメッセージではないはずです。

敢えて「未発達」を言葉に

「どれが障害で、どれがこの子の個性だかわからない」 そんな風におっしゃる親御さんは少なくありません。 確かに、わかりませんね。 ここが発達障害で、ここからが個性などと明確な線などは引けるわけがないのですから。 もっと人間は複雑ですし、一つの言葉、行動をとっても、その背景には複数の要因が影響し合っているのです。 単純に線が引きたいのは、複雑な人間、生物というものを便宜上、区別したい人達がいるからです。 線を引くことは、グループに括るということは、ニーズを新しく作ることでもあります。 医師から、専門家から、「あなたの子は、発達障害ですね」「自閉症ですね」と言われてしまうと、子どもの言動全てが発達障害ゆえ、自閉症ゆえに見えてしまいます。 そうなると、「障害故に配慮せよ」というメッセージが迫ってきて、その子を教え育てるよりも、私が変わり耐えるへシフトチェンジしてしまいます。 そうなると、親子共々、ネガティブな方向へと歯車が回りだすことに。 当然、子どもは未発達な存在です。 これからまさに、未発達な部分を育てていこうとしている時期です。 そんな時期に、周囲から「仕方がない」「教えるよりも、配慮支援」と思われたりすることが、発達の機会を奪われることにもなります。 それでは、発達の機会が乏しいために、同世代の子ども達が経験することが経験できずに、ますます発達の差、遅れが大きくなるばかりです。 ある意味、発達の差を広げるのは、本人の能力の問題ではなく、環境、つまり、周囲の姿勢、考え方による、といえます。 また、親御さんにとっても、「私が変わればいい」「私が耐えればいい、受け入れればいい」と考えるのは、マイナスが多いといえます。 我が子の自立と幸せを願わない親などいません。 というか、我が子を自立させようとするのは本能だと思います。 そのために、自分が身に付けたこと、学んだことを、我が子に伝えようとするのは自然な流れ。 そういった本能があるのにも関わらず、頭で無理やりストップをかけるようなものです。 教え育てたいのに、知識と言葉で、「いやいや、配慮が、支援が、理解が必要な子」「変わるのは、この子ではなく、親である私であり、社会の方」などと、自分自身を否定し、洗脳していく。 ですから、「育てていこう!」と思っている親御さんは明るく前