動物的な感覚を研ぎ澄ます
出張の楽しみは、その土地の名物、食事です。
でも、思いっきり食べるのは、すべての仕事が終わったあと。
何故なら、満腹になると、仕事の質が下がるから。
以前は、セッション中にエネルギー不足になってしまったら大変と、仕事の前には多く食べるようにしていたのですが、どうも、勘が鈍くなる感じがしました。
反対に、空腹になるくらいの方が、直感が働き、いつも以上に見えるような気がしたのです。
それ以降、仕事の前は、なるべく少量にしています。
発達のヌケ、遅れの根っこは、言葉以前の発達段階にある場合がほとんどです。
ですから、それは確認するのではなく、感じなければなりません。
「マニュアルを見て、1つずつ確認」みたいな方法では、言葉や文字を使った思考になりますので、本当の意味で確認することはできないと思います。
ある人から、一切メモを取らないことを驚かれましたが、メモは文字ですし、雰囲気を掴むには、その作業が邪魔になります。
声なき声のように、言葉なき身体、発達のメッセージを受け取る。
そのためにも、自分自身が動物に近くならないといけない。
その入り口として、腹いっぱいでも、腹八分目でもなく、腹五分目くらい。
断食している人が、「感覚が鋭くなった」と言うことがあるので、あながち間違った方法ではないと思っています。
「言葉以前のアプローチ」と出会い、ますます私は直感、雰囲気を大切にするようになりました。
なので、知識や勉強などは、確かめに近いです。
「なんだか気になった」「違和感を感じた」「ここが踏ん張りどこだと思った」
その理由を探すために、後付けの勉強をしています。
先日、親子での相談をお受けしました。
子どもさんは、すでに成人されていた方でしたが、部屋に入ってきた瞬間、なんだかしんどそうな雰囲気を感じました。
ですから、椅子に座った瞬間、「ここに来るということ自体が、相当しんどかったんじゃない?」と私は言いました。
すると、すぐに顔をあげ、私に足の指を見せてきたのです。
足の指の爪が極端に短くなっていました。
自分でやったようです。
親御さんも知らなかったことでした。
ノンバーバルの方でしたが、私の言葉や、自分のしんどさに気が付いたということは分かってくれたようでした。
ですから、日頃、関わっている支援者にも見せなかった足の指を見せてくれた。
本人からの訴えもあったのだと思います。
結局、自分のしんどさを訴える手段もなかったし、それに気が付いてくれる人が側にいなかったということです。
しんどさの根っこは、発達のヌケと脳の左右差の大きさでしたが、人知れず、辛い想いをぶつけていた自傷行為を見せたかったのかもしれません。
ちなみに、セッション以降、自傷はなくなったとのこと。
ノンバーバルの人は特に、誤解されやすいですね。
重い障害で、こちらの言っていることが分からないだろう、と思われがちだし、本人の意思もはっきりしていない、と捉えられてしまう。
周囲の人からも、本人はしんどさを抱えているのはわかるんだけれども、それが障害ゆえ、障害が重いがゆえ、と見られてしまうことが多い気がします。
そういった関係性が長く続いてしまうと、訴えること、伝えようとすることすら、やめようとしてしまう。
でも、障害者の前に、同じヒトなのですから、しんどければ、それをどうにかしてほしい、と願うのは当然のこと。
ノンバーバルの人、知的障害が重い人以外にも、コミュニケーションが苦手な人もいますし、自己認知、身体感覚に気づきづらい人もいます。
だからといって、相談を受けることが難しい、支援することが難しい、とはならないと私は思います。
繰り返しになりますが、発達のヌケ、遅れの根っこは、言葉以前の発達段階にある場合が多いのです。
ということは、本人からの言葉がなくても、訴えが明確じゃなかったとしても、アセスメントはできるし、育てることもできる。
何故なら、その人の身体、発達がメッセージを発しているから。
それが雰囲気となって、伝わってくる。
それを感じられるかどうかが、支援者としての分岐点になると思います。
そういった意味で、親御さんが一番治せる人になるのです。
だって、言葉にならないような小さな変化、些細な出来事に最初に気が付くのは親御さんだから。
よく相談で、「なんとなくおかしいと思う」ですとか、「今、私が頑張らなければいけない時期だと思うんです」とか、「適当にやってみたら、バッチリはまった」ですとか、こういった抽象的なことを言われる親御さんが多くいらっしゃいます。
それ自体に、エビデンスも、アセスメントシートも、何もない。
でも、気がついたし、察したし、やったことが素晴らしい発達の後押し、導きになっている。
専門家が「治らない」「受け入れろ」といっていたことが、親御さんには治せているのが何よりの証拠。
いろんな親御さん達とお会いしてきましたが、親子の雰囲気がいいのは、やっぱり動物的な子育てをされているご家族。
「気持ちいい」「心地良い」「なんとなく良いと思う、避けた方が良いと思う」
そういった知識や言葉ではなく、感情や雰囲気を大切にされているご家庭は、伸びやかな子育てができているし、発達も豊か。
まあ、それは当然なことだといえます。
だって、言葉以前の発達段階にヌケと遅れがある子ども達なのですから。
「ノンバーバルの子は、難しい」
「知的障害がある子の支援は、難しい」
そういう支援者は、言葉を獲得した以降の発達しか見れていない人。
脳の表面にはアプローチできるけれども、脳の深い部分にはアプローチできない。
反対に、「言葉がある人は」「知的がない人は」というような支援者もいるけれども、それも同じこと。
そういった発言が出ること自体、同じように脳の表面しかアプローチできない証拠。
言葉があっても、知的障害がなくても、しっかり身体、発達からのメッセージを受け取らなければなりません。
そこが課題、生きづらさの根っこだから。
でも、思いっきり食べるのは、すべての仕事が終わったあと。
何故なら、満腹になると、仕事の質が下がるから。
以前は、セッション中にエネルギー不足になってしまったら大変と、仕事の前には多く食べるようにしていたのですが、どうも、勘が鈍くなる感じがしました。
反対に、空腹になるくらいの方が、直感が働き、いつも以上に見えるような気がしたのです。
それ以降、仕事の前は、なるべく少量にしています。
発達のヌケ、遅れの根っこは、言葉以前の発達段階にある場合がほとんどです。
ですから、それは確認するのではなく、感じなければなりません。
「マニュアルを見て、1つずつ確認」みたいな方法では、言葉や文字を使った思考になりますので、本当の意味で確認することはできないと思います。
ある人から、一切メモを取らないことを驚かれましたが、メモは文字ですし、雰囲気を掴むには、その作業が邪魔になります。
声なき声のように、言葉なき身体、発達のメッセージを受け取る。
そのためにも、自分自身が動物に近くならないといけない。
その入り口として、腹いっぱいでも、腹八分目でもなく、腹五分目くらい。
断食している人が、「感覚が鋭くなった」と言うことがあるので、あながち間違った方法ではないと思っています。
「言葉以前のアプローチ」と出会い、ますます私は直感、雰囲気を大切にするようになりました。
なので、知識や勉強などは、確かめに近いです。
「なんだか気になった」「違和感を感じた」「ここが踏ん張りどこだと思った」
その理由を探すために、後付けの勉強をしています。
先日、親子での相談をお受けしました。
子どもさんは、すでに成人されていた方でしたが、部屋に入ってきた瞬間、なんだかしんどそうな雰囲気を感じました。
ですから、椅子に座った瞬間、「ここに来るということ自体が、相当しんどかったんじゃない?」と私は言いました。
すると、すぐに顔をあげ、私に足の指を見せてきたのです。
足の指の爪が極端に短くなっていました。
自分でやったようです。
親御さんも知らなかったことでした。
ノンバーバルの方でしたが、私の言葉や、自分のしんどさに気が付いたということは分かってくれたようでした。
ですから、日頃、関わっている支援者にも見せなかった足の指を見せてくれた。
本人からの訴えもあったのだと思います。
結局、自分のしんどさを訴える手段もなかったし、それに気が付いてくれる人が側にいなかったということです。
しんどさの根っこは、発達のヌケと脳の左右差の大きさでしたが、人知れず、辛い想いをぶつけていた自傷行為を見せたかったのかもしれません。
ちなみに、セッション以降、自傷はなくなったとのこと。
ノンバーバルの人は特に、誤解されやすいですね。
重い障害で、こちらの言っていることが分からないだろう、と思われがちだし、本人の意思もはっきりしていない、と捉えられてしまう。
周囲の人からも、本人はしんどさを抱えているのはわかるんだけれども、それが障害ゆえ、障害が重いがゆえ、と見られてしまうことが多い気がします。
そういった関係性が長く続いてしまうと、訴えること、伝えようとすることすら、やめようとしてしまう。
でも、障害者の前に、同じヒトなのですから、しんどければ、それをどうにかしてほしい、と願うのは当然のこと。
ノンバーバルの人、知的障害が重い人以外にも、コミュニケーションが苦手な人もいますし、自己認知、身体感覚に気づきづらい人もいます。
だからといって、相談を受けることが難しい、支援することが難しい、とはならないと私は思います。
繰り返しになりますが、発達のヌケ、遅れの根っこは、言葉以前の発達段階にある場合が多いのです。
ということは、本人からの言葉がなくても、訴えが明確じゃなかったとしても、アセスメントはできるし、育てることもできる。
何故なら、その人の身体、発達がメッセージを発しているから。
それが雰囲気となって、伝わってくる。
それを感じられるかどうかが、支援者としての分岐点になると思います。
そういった意味で、親御さんが一番治せる人になるのです。
だって、言葉にならないような小さな変化、些細な出来事に最初に気が付くのは親御さんだから。
よく相談で、「なんとなくおかしいと思う」ですとか、「今、私が頑張らなければいけない時期だと思うんです」とか、「適当にやってみたら、バッチリはまった」ですとか、こういった抽象的なことを言われる親御さんが多くいらっしゃいます。
それ自体に、エビデンスも、アセスメントシートも、何もない。
でも、気がついたし、察したし、やったことが素晴らしい発達の後押し、導きになっている。
専門家が「治らない」「受け入れろ」といっていたことが、親御さんには治せているのが何よりの証拠。
いろんな親御さん達とお会いしてきましたが、親子の雰囲気がいいのは、やっぱり動物的な子育てをされているご家族。
「気持ちいい」「心地良い」「なんとなく良いと思う、避けた方が良いと思う」
そういった知識や言葉ではなく、感情や雰囲気を大切にされているご家庭は、伸びやかな子育てができているし、発達も豊か。
まあ、それは当然なことだといえます。
だって、言葉以前の発達段階にヌケと遅れがある子ども達なのですから。
「ノンバーバルの子は、難しい」
「知的障害がある子の支援は、難しい」
そういう支援者は、言葉を獲得した以降の発達しか見れていない人。
脳の表面にはアプローチできるけれども、脳の深い部分にはアプローチできない。
反対に、「言葉がある人は」「知的がない人は」というような支援者もいるけれども、それも同じこと。
そういった発言が出ること自体、同じように脳の表面しかアプローチできない証拠。
言葉があっても、知的障害がなくても、しっかり身体、発達からのメッセージを受け取らなければなりません。
そこが課題、生きづらさの根っこだから。
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