その空間は、地域に、社会に馴染んでいるのか?
都市部では借家や間借りが一般的なのに、地方に行くと、まあ、立派な建物を一から作り、福祉事業を展開している姿を見かけます。
ほとんど人が歩いていないような場所に、最新の設備が整えられた施設。
どうして、ここに最新の設備が必要なのだろうと思うと、「他人の金(税金)だからね」という答えが返ってきます。
田舎では、未だに個人的な権力、権威、業績の証として、その地域一番の建物を建てようとする傾向があるようです。
それくらい立派な建物を、障害を持った方達のために作ったのですから、よほどの福祉への想いがあると思いきや、まったく関係ない人がトップだったりします。
福祉って、建前としては、とっても使いやすい分野。
結局、本音のところは、「この地域で俺はすごいんだ」「こんな立派な建物を建てられたんだ」というちっぽけな私心。
一方で、それを認可する行政の方も、できるだけ大きなモノを、できるだけ工期がかかり、地元にお金が落ちるように、という思惑が感じられます。
そもそも空き家だらけなんだから、それを活用すれば良いのです。
どうして、わざわざ時間と金がかかる方法を選択するのでしょうか。
本当に、障害を持った方達の生活を考えるのなら、できるだけ早く利用できる方が良いに決まっています。
大きな変化を嫌がる人も少なくないのに、本人が、というか、スタッフも含めて初めて見て、びっくりするような環境にしてしまう。
一番大切なのは、なじむこと。
その人の生活に、その地域に。
そういった場違いな施設に限って、「見学はご自由に」「いつでも歓迎」というような心のこもっていないA4の紙が玄関に貼られています。
どうして、その地域に馴染んでいないような建物が、さらにただでも障害を持った人の施設として敷居が高いのに、地域の人達が気軽に訪ねてくるといえるのでしょうか。
私が思うのは、結局、障害を持った人、本人の意思や気持ちが一番最後になっているということ。
立派な建物を一から作ることは、その地域にとっては、ありがたいことなのかもしれない。
建てようと思った中心の人達だって、いくら「借金をする」といっても、自分で営業して、試行錯誤して、質を高めて、投資して…というようなことはせず、利用すれば、お金が降り込まれる仕組みになっているから、自分の腹が痛むわけでもなんでもなく、自分の功績を示せるわけです。
スタッフも、「こんなきれいな施設で働けてラッキー」
親御さんも、「こんな立派な設備の整ったところに預けられてラッキー」
じゃあ、そこを利用している人達の安心はあるのか、生活の質は保たれているのか、他の人達と同じような失敗や成功、試行錯誤からの成長はあるのか、できるのか。
相談の電話やメールは、全国各地からいただきます。
その際、「私の住む地域、県に、治った人はいますか?紹介していただけませんか?」というようなことを言われることもあります。
もちろん、治った人を知らないわけではありません。
でも、勝手に教えてはいけませんし、そもそも治った人達は、その地域にすでに馴染み、一般の人として生きているわけです。
ですから、治りたい人にとっては、治った人やそのご家族と繋がることは大きな意義があると思いますが、すでに馴染んで生活している人からしたら、「どうかな」と思うのです。
治った人達、親御さん達を見ていますと、徐々に特別支援の世界から遠ざかっていくような印象を受けます。
といいますか、興味関心、考えること、悩みが、同世代の人達と同じようなものに移り変わっていくような気がします。
でも、そういった変化も、「治る」なんだと思います。
なので、私が面談するときも、そういった話題が増えたかどうか、が発達状況を確認する以外に、重要な部分として捉えています。
精神状態の確認は、今と過去と未来の話の割合。
脳の状態の確認は、表情のバリエーション。
治っている状態の確認は、興味関心の幅。
発達障害が治った人達に対して、「もともと発達障害じゃなかったんだ」と負け惜しみを言う人がいます。
本人や家族のそれまでの歩み、気持ちを想像すると、それ自体、とても腹立たしいことなのですが、一方でそれくらい社会に馴染んでいるのだと思うのです。
「もともと違った」と言わせてしまうくらい、自然な発達、治り、馴染み。
究極は、本人が気づく前に成長と共に治ってしまうことが理想ですが、他人から「もともと違った」と思わせるくらい発達し、治しちゃうのも、とても素晴らしいことだと思います。
スペクトラムなのですから、発達を続けていれば、いつか発達障害という域を飛び越える瞬間があります。
それに発達とは、ある一つの要素ではなく、様々な要素の発達が折り重なった総和です。
なので、より良く学ぶための空間、快適に切るための空間は分けても、生きる世界までは分ける必要はありません。
今の特別支援は、社会に馴染むのではなく、遠ざかっていくような印象を受けます。
そもそも社会には多様性があり、学びも、発達成長させてくれる機会も、溢れています。
社会に馴染むのは、マイノリティの敗北とは言わない。
ほとんど人が歩いていないような場所に、最新の設備が整えられた施設。
どうして、ここに最新の設備が必要なのだろうと思うと、「他人の金(税金)だからね」という答えが返ってきます。
田舎では、未だに個人的な権力、権威、業績の証として、その地域一番の建物を建てようとする傾向があるようです。
それくらい立派な建物を、障害を持った方達のために作ったのですから、よほどの福祉への想いがあると思いきや、まったく関係ない人がトップだったりします。
福祉って、建前としては、とっても使いやすい分野。
結局、本音のところは、「この地域で俺はすごいんだ」「こんな立派な建物を建てられたんだ」というちっぽけな私心。
一方で、それを認可する行政の方も、できるだけ大きなモノを、できるだけ工期がかかり、地元にお金が落ちるように、という思惑が感じられます。
そもそも空き家だらけなんだから、それを活用すれば良いのです。
どうして、わざわざ時間と金がかかる方法を選択するのでしょうか。
本当に、障害を持った方達の生活を考えるのなら、できるだけ早く利用できる方が良いに決まっています。
大きな変化を嫌がる人も少なくないのに、本人が、というか、スタッフも含めて初めて見て、びっくりするような環境にしてしまう。
一番大切なのは、なじむこと。
その人の生活に、その地域に。
そういった場違いな施設に限って、「見学はご自由に」「いつでも歓迎」というような心のこもっていないA4の紙が玄関に貼られています。
どうして、その地域に馴染んでいないような建物が、さらにただでも障害を持った人の施設として敷居が高いのに、地域の人達が気軽に訪ねてくるといえるのでしょうか。
私が思うのは、結局、障害を持った人、本人の意思や気持ちが一番最後になっているということ。
立派な建物を一から作ることは、その地域にとっては、ありがたいことなのかもしれない。
建てようと思った中心の人達だって、いくら「借金をする」といっても、自分で営業して、試行錯誤して、質を高めて、投資して…というようなことはせず、利用すれば、お金が降り込まれる仕組みになっているから、自分の腹が痛むわけでもなんでもなく、自分の功績を示せるわけです。
スタッフも、「こんなきれいな施設で働けてラッキー」
親御さんも、「こんな立派な設備の整ったところに預けられてラッキー」
じゃあ、そこを利用している人達の安心はあるのか、生活の質は保たれているのか、他の人達と同じような失敗や成功、試行錯誤からの成長はあるのか、できるのか。
相談の電話やメールは、全国各地からいただきます。
その際、「私の住む地域、県に、治った人はいますか?紹介していただけませんか?」というようなことを言われることもあります。
もちろん、治った人を知らないわけではありません。
でも、勝手に教えてはいけませんし、そもそも治った人達は、その地域にすでに馴染み、一般の人として生きているわけです。
ですから、治りたい人にとっては、治った人やそのご家族と繋がることは大きな意義があると思いますが、すでに馴染んで生活している人からしたら、「どうかな」と思うのです。
治った人達、親御さん達を見ていますと、徐々に特別支援の世界から遠ざかっていくような印象を受けます。
といいますか、興味関心、考えること、悩みが、同世代の人達と同じようなものに移り変わっていくような気がします。
でも、そういった変化も、「治る」なんだと思います。
なので、私が面談するときも、そういった話題が増えたかどうか、が発達状況を確認する以外に、重要な部分として捉えています。
精神状態の確認は、今と過去と未来の話の割合。
脳の状態の確認は、表情のバリエーション。
治っている状態の確認は、興味関心の幅。
発達障害が治った人達に対して、「もともと発達障害じゃなかったんだ」と負け惜しみを言う人がいます。
本人や家族のそれまでの歩み、気持ちを想像すると、それ自体、とても腹立たしいことなのですが、一方でそれくらい社会に馴染んでいるのだと思うのです。
「もともと違った」と言わせてしまうくらい、自然な発達、治り、馴染み。
究極は、本人が気づく前に成長と共に治ってしまうことが理想ですが、他人から「もともと違った」と思わせるくらい発達し、治しちゃうのも、とても素晴らしいことだと思います。
スペクトラムなのですから、発達を続けていれば、いつか発達障害という域を飛び越える瞬間があります。
それに発達とは、ある一つの要素ではなく、様々な要素の発達が折り重なった総和です。
なので、より良く学ぶための空間、快適に切るための空間は分けても、生きる世界までは分ける必要はありません。
今の特別支援は、社会に馴染むのではなく、遠ざかっていくような印象を受けます。
そもそも社会には多様性があり、学びも、発達成長させてくれる機会も、溢れています。
社会に馴染むのは、マイノリティの敗北とは言わない。
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